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ゼロの魔王伝-19


ゼロの魔王伝――19

 ルイズは自分のベッドの上で夢を見ていた。トリステイン魔法学院から馬で三日の距離にある生まれ故郷のヴァリエールの領地にある屋敷が舞台であった。夢を夢と気付かぬ夢の中のルイズは、六歳程度の幼さに変わっていた。
 中庭を駆けまわり迷路のように入り組んだ植え込みの陰に隠れて追手をやり過ごす。自分の名を呼ぶ母親の声が聞こえた。
物覚えが悪いと叱られ、その途中でルイズは逃げだしたのだった。
 この頃はまだ両親や家庭教師達も、ルイズが普通の魔法が使えないのが、ルイズの努力が足りないからだと諦めてはいなかった。それが何をしても無駄なのかと、章目に変わるのにはもうしばらく時間と失敗と叱責が必要だった。
 隠れた植え込みの下から誰かの靴が見えた。二人分。屋敷で働いている下男のものだった。

「ルイズお嬢様は難儀だねえ」
「まったく。上の二人のお嬢様はあんなに魔法がおできになるっていうのに……」

 それは魔法学院に行くまでルイズが聞き続ける事になる失望と嘲りの言葉。十年以上にわたってこれからルイズの心に傷を着け、胸に芽吹いた劣等感を育てて行く負の言葉。
 悔しさと悲しさで思わず涙がこぼれそうになったルイズは、下男の二人ががさごそと植え込みを調べ始めたのに気づき、見つかる前に静かに逃げだした。
 ルイズは植え込みの陰から逃げ出して中庭に在る池にもやわれた一艘の小舟の中にいた。あらかじめ用意しておいた毛布に包まり、空飛ぶ小鳥も心配してその肩に止まるような、悲しい嗚咽が、毛布の中から漏れ出していた。
 今はもう誰も見向きもしなくなった舟遊び用の小舟は、まるで自分の様だと幼い心にも思えて、ルイズは一層悲しみを深くした。
 今はまだ自分に期待し、叱責を投げかける両親や姉や教師達が、いつか自分を見はなしてしまうのが怖い。
 もう何をしてもルイズは駄目なのだと、ヴァリエール家に間違って生まれてきてしまったのだと、見捨てられるとしか考えられず、ルイズはいつかやってくる絶望の影に怯えて泣いていた。
 ルイズがそんな風にして悲しみを紛らわしていると、中庭の島に掛かる霧の中から、十代半ば頃と思しい見目麗しい若い貴族が姿を見せた。
その姿に、幼いルイズは悲しみを忘れて胸を高鳴らせた。

「泣いているのかい? ルイズ」

 とても優しい声だった。ルイズが大好きな二番目の姉と同じように自分を呼んでくれる彼の事が、ルイズは好きだった。
 子爵だ。最近近所の領地を相続した若い貴族。晩餐会を良く共にし、父と子爵の父との間で交わされた約束を思い出し、ルイズはほんのりと、お人形さんみたいなふっくらほっぺを赤く染めた。

「子爵さま、いらしていたの?」

 どこか拙いルイズの言葉に、つば広の帽子の下で若き貴族はにっこりとほほ笑んだ。男らしさと気品とが程良くブレンドされた笑顔だった。ルイズの胸の熱さが増した。

「今日は君のお父上に呼ばれたのさ。あのお話の事でね」
「まあ! いけない人ですわ。子爵さまは……」
「ルイズ。ぼくのちいさなルイズ。君はぼくの事が嫌いかい?」
「いえ、そんなことありませんわ。でも……。わたし、まだ小さいし。よくわかりませんわ」

 十年たっても小さいままなのだが、そんな事を知る筈もない夢の中のルイズははにかみながら言った。子爵はそんなルイズの様子に暖かな笑みを無償で与えている。子爵から差しのべられた手を、ルイズははっと見た。

「子爵さま……」
「ミ・レィディ。手を貸してあげよう。ほら、捕まって。もうじき晩餐会が始まるよ」
「でも……」
「また怒られたんだね? 安心しなさい。ぼくからお父上に取りなしてあげよう」

 岸辺から小船と向けて伸ばされた手。憧れた人の手。大きな手。それを掴もうと伸ばしたルイズの手が握り締めたのは、しかし子爵の手ではなかった。掴んだ手がまるで夢の結晶の様に見えるのは、この世のものとは思えぬ美しさゆえだ。
 いつのまにか十六歳の姿に戻ったルイズは、小船から岸辺へと自分を導いた手の主を、茫然と見上げて、名前を呼んだ。

「D……」
「君の夢の中か」
「え? あなた、本当にDなの?」
「そのつもりだ。使い魔とのつながりという奴で引き込まれたのかもしれん」
「そう、なのかしら」

 口ぶりからして本当にDらしい。握りしめた手はいつの間にか離されていた。その事に気づかぬまま、ルイズは夢の中のDの言葉に、これが夢である事を悟る。Dが周囲を見回した。

「ここは?」
「えっと、生まれ故郷のヴァリエールのお屋敷の中庭」
「さっきまで随分と小さかったが、昔の事を夢見ていたのか?」

 と、今も夢の中だというのに、夢を見ていたのかと聞くDがどこかおかしくて、ルイズは母の怒りも子爵への憧れも忘れて、くすりと小さく笑った。

「よく失敗していた頃の事をね。そのうちあんまりにも出来が悪すぎるものだから呆れられてしまったけれど。それにしても、夢の中まで貴方と一緒なんて、なんだかすごいわね」
「そうか。そろそろ時間の様だな」
「あ、もう行っちゃうの?」
「君が目を覚ませばおれは近くにいる」
「それもそっか。夢も現実もあんまり変わらないわね」

 苦笑するルイズの目の前で、Dの姿が霧に紛れる様にして消えてゆく。その姿に、ルイズは一時の別れを感じながら小さく手を振った。

「D、またね」

 無垢なその仕草に、Dはかすかに目を細めた様だった。笑い返そうとしたのかもしれない。そうして、夢は終わりを告げたのだった。
Dの姿が消えるのを見届けてから、ルイズはもう一度十年前の光景を見回した。今もヴァリエールの領地に戻れば同じ光景が見られるだろう。

「相変わらず魔法は失敗ばかりだけれど、私はもう十年前の私ではないわ。きっと、もう小舟でうずくまって泣いたりしないもの」

 光景は変わらずともその光景を見る心は変わり、ルイズは流れた時と共に変わった己の心を誇るような、それでいてどこか寂しげに呟いた。
 そういえばもう随分と会っていない子爵さまは、今は何をしているのだろうか。風の便りに魔法衛士隊に入隊したとは聞いているが、ルイズの中の子爵は十六歳の若々しい少年のままだった。
 今ではもう、きっとあの約束も忘れている事だろう。

「まあ、私もこの夢を見るまで忘れていたんだけど」

 少し後ろめたそうに呟いてからルイズは岸辺に腰をおろして、膝に顔を埋めた。夢の中で眠り、夢を見たらどうなるのかと思いながら、重たくなってきた瞼をゆっくりと閉ざした。
 眼がさめればまたDと会い、夢の中でさらに夢を見るならば、それはそれで楽しいだろう。なんともはや、心躍る二つの選択肢であった。

「でも夢の中でまでDと顔を突き合わせていたら、ちょっと疲れちゃうわよね」

 ルイズは苦笑しながら、すう、と息を吸って夢の中で眠りに着いた。

 結局夢の中での眠りで、夢は見なかった。あるいは今こうして目を覚ましている事が夢の中の夢であるかもしれない。
 むっくりと朝日を浴びながら上半身を起こしたルイズが、まだうとうととしている瞼を擦っている。目を覚ましたと思っている日常こそが夢であるという考えを、寝ぼけ頭のルイズは否定できなかった。
 なにしろ夢の中にしか見られないような同居人が居るからである。

「一夢ぶりだな」
「あ~~。やっぱりあれ、Dだったんだ」

 淡々と数字でも読み上げる様にして呟くDに、ルイズはやっぱりと答えた。心臓を射抜かれるような美貌への衝撃を、奥歯を噛んで噛み殺し、ルイズは零れ落ちそうになった欠伸を堪えた。
 相手がDでなくとも、殿方の目の前で貴族の子女がするにはあまりにもはしたない。ルイズはんん、とかすかに伸びをして眼を覚ます事にした。

「気持ちのいい朝ね」

 Dは答えず部屋を出た。ちぇ、そうだなの一言も言えないのかしら、とルイズはまったく、あの男は、とまるで甲斐性なし夫を呆れた目で見る妻の様な感想を胸に抱くのだった。なかなかどうして、ルイズもいろいろな意味で大人物であった。
 ルイズが授業に出ている間、大抵Dは隣に腰かけるか壁際に背を預けるか、はたまた廊下で終わるのを待つかのどれかである。とりあえずルイズの傍に居るのは間違いない。
 今日は廊下で待っている。いかんせん、Dが同席していると授業が遅々として進まない事や、ルイズに殺到する物質化寸前の濃密としか言いようのない怨念めいた嫉妬が、爆発的に増すからだ。
 ここ最近のDのルイズへの意外にも優しい態度から、ルイズへ悪意を交えた視線を送る連中を睨んで気を失わせるくらいの事はしてもおかしくはなさそうだったが、無視を決め込んでいる。
 あくまでルイズが自分で決着をつけろと決めているのかもしれない。
 最近ツルむ事の多いキュルケやギーシュなどは、それとなく心配そうな視線をルイズに向けるが、ルイズは教師からも向けられる羨望の眼差しを、凛と胸を張った姿勢で受け止め、まるで意に介する風もなく授業に身を入れている。
 ちょっとキュルケが感心するほど堂々とした姿であった。周囲の生徒達が生の感情をむき出しにして歯を剥いているから、余計にその堂々とした姿が輝いて見える。
 本日Dは、廊下で待機する事を選んだ。授業は進み、風のメイジであるギトーが教室の扉を開いて入室した。廊下に居るDは、どのようにしてか教師達と鉢合わせする事はないようで、誰も頬を染めている様子はなかった。
 細かい事に気の利く使い魔であった。
 ギトーはフーケの宝物庫襲撃事件の折に、当直当番をさぼっていたシュヴルーズを責め立てた教師である。
 長く伸びた黒髪と陰鬱な雰囲気を滲ませている痩身が傍目に不気味で、生徒達からは人気が無い。
 やや自己顕示欲の強い傾向にあり、授業に私情を持ちこむ事も多い。反面、そうしてしまうのも無理はない程度に優秀で、学院に籍を置く風系統のメイジとしては一、二を争う技量の主だ。
 しん、と静まり返った教室を見回し、教壇に立ったギトーが口を開く。冷たい風が口から吹きつけてきそうな男だ。

「では授業を始める。知っての通り、私の二つ名は『疾風』。疾風のギトーだ」

 最初の授業で自己紹介をするのは至極まっとうな事だろう。口を閉じて聞き入っている生徒達の様子に満足したギトーが言葉を続けた。

「最強の系統は知っているか? ミス・ツェルプストー」
「『虚無』の系統ではないのですか? 六千年を超えるハルケギニアの歴史の中で、偉大なる始祖ブリミルただ一人のみが行使した伝説」
「伝説の話をしているのではないよ。私は現実の話をしているのだ。答えは現実的にしたまえ」

 こちらの言葉のあげ足を取るのが癖なのか、いちいちひっかかる物言いをするギトーに対して、キュルケはかちんときたらしい。
ぴく、とその目が一度だけ小さくひくついたのを、タバサとルイズだけが気付いた。ちょっぴり頭に熱が昇っている。

「『火』に決まっていますわ。ええ、なにしろ私は全てを燃やし尽すツェルプストーの女。そういう答えがご希望なのでしょう? ミスタ・ギトー?」

 ほほう、とギトーは不敵に笑うキュルケを見返して芝居めいた呟きを洩らした。キュルケが滲ませる闘志の炎をさも面白げに見ている。思い通りの反応をしてくれてありがとう、と言いたい気分なのかもしれない。

「なぜそう思うのかね?」
「すべてを燃やし尽し、灰さえ残さぬのは『火』の系統のみが可能とする所。炎と情熱。そうではありませんこと?」
「残念ながらそうではない」

 頭の中で何度も思い描いていたかのように、ギトーはわざとらしく左右に首を振った。腰に差した杖を抜き放ち、その先をキュルケに向けた。ほぼ同時にキュルケの手も自分の杖に伸びていた。
 メイジの存在理由たる魔法を行使する杖の先を向けられる以上、そうおうに警戒するだけの意識がキュルケにはあった。D辺りだったらデルフリンガーの切っ先を喉に付きつけているだろうか。

「試しに、この私に君の得意な『火』の魔法をぶつけてみたまえ」

 キュルケはぎょっとするよりも、ああやはりと、この教師は自分をダシにして自分の持論を生徒達に見せつけたいのだと悟り、ゴウ、とルイズとは別格の胸の中で怒りの火に薪をくべた。
 このフォン・ツェルプストーを、敵も味方も燃やし尽すと恐れられるこのツェルプストーをナメている。それはこの赤毛の少女の闘志を敵意に変えるのには十分な侮辱であった。
 見惚れるほど妖しい笑みを浮かべてキュルケが胸の谷間にそっと杖の先端を押し込んだ。呆れるほど深い谷間に埋もれる杖の先端を、大多数の男子生徒の目が追う。キュルケは自分の体と行為が生む視覚的効果を、実によく知っていた。

「まあ、まあ、まあ、トリステインの殿方は本当に勇敢です事。ミスタ・ギトー、フォン・ツェルプストーの火を浴びれば火傷では済まなくってよ?」
「かまわん。本気で来たまえ。その、有名なツェルプストーの赤毛が飾りではないのならね」

 キュルケがにっこりと笑みを浮かべた。性の虜にすべく枕元に忍び入ったインキュバスが逆に見入られそうなほど美しく、そして焼き尽くされそうなほど、笑みの仮面の下に滾る炎は苛烈だ。
 キュルケがちらっとタバサを見た。
 キュルケの視線を受けてタバサがこくりと頷く。まさしく以心伝心の二人であった。

『燃やしちゃっていい?』
『問題なし』

 にこ、とキュルケが明るい笑みをタバサに向けてウィンクした。タバサが親指を立てて返事をした。

『巻き添えが出ないように、風でガードしておいてね』
『任せて』

 キュルケが余裕をたっぷりと湛えた様子で胸の谷間に押し込んでいた杖の先端をくるくると回した。まるでキュルケの方こそがギトーへ教育する側の様。
 タバサだけが知っているが、キュルケは怒れば怒るほど声は冷静に、態度は余裕を奏でる様になる。今は、かなりキテいる。
 くるくるとキュルケの杖は回る。キュルケの口元から小馬鹿にした笑みが消えていた。すでにギトーを敵とみなしたに等しい。
 ギトーの口元から余裕が消えていた。キュルケの豊満な肢体から立ち上る魔法の気配に、目の前の少女がちと生意気な猫ではない事を悟ったのだ。
 招くように右手を差し出し、掌を天井に向けて開いたその先に、ぽっと火の玉が生じた。くるくると杖が回る度に火の玉は大きさを増し、渦を巻きながら直径一メイルほどの火球へと巨大化する。
 たっぷり十秒を賭けて火球を巨大化したのは、生徒達が机の下に隠れるのと、ギトーの詠唱が終わるのを待つ為だ。呪文の詠唱が終わっていなかったという言い訳を聞くつもりはキュルケにはなかった。
 堂々と真正面から、実力を出し切らせた上で叩き潰す。でなくばギトーも納得すまい。キュルケが口を開いた。ざわ、と逆巻いた赤毛が炎そのものと化したかのように赤みを増す。
 キュルケの唇は血を塗りたくったかのように赤く輝いた。ギトーがいささかキュルケの実力を下に見積もっていた事に気づき、油断を捨て去った。

「ミスタ、なにか言い遺される事はありますかしら? わたくし、杖を滑らせて消し炭を一つこしらえてしまいそうですの」
「ふむ。時に味方も燃やし尽すツェルプストーらしい。教師を消し炭にするか。面白い、やってみたまえ」
「そうですか」

 ふっと、キュルケが息を吐くのに合わせ渦を巻く火球が一直線にギトーめがけて走る。火球は陽炎を纏いながら火の粉をまき散らし、教室の中を赤々と照らしながらギトーに襲いかかった。
 一度燃え移れば肉を炭に変え、骨を灰に変える。ギトーの言葉通りキュルケの全力と言ってよい一撃である。ギトーが握っていた杖を鞘走らせた剣の如く横に薙ぎ払う。
 ギトーの二つ名の如く素早く、そして荒々しい烈風が吹き荒れて無色の障壁は火の球をいとも容易く吹き飛ばす。舞散る火の粉がギトーの体を鮮やかな橙色に照らした。しんしんと降りしきる雪の様。
 吹き飛ばされた火の玉の先にキュルケがさらに杖を振ろうとする動作に気づき、ギトーの目が険しい色を帯びた。単なる火球の一撃に留まらぬ二段構えの攻撃。
 キュルケの二撃目に備えて振るった杖を翻し、今一度烈風を吹き荒らすべく魔力を練るギトー。
 振り下ろされる杖の数だけ新たな破壊を生む二人は、しかし、突如教室の扉を開けて入室してきたコルベールによって阻まれた。

「ミスタ?」

 ぎら、と光る瞳でギトーがコルベールを睨んだ。爬虫類を思わせるどこか冷たい光であった。

「あやや、失礼しますぞ、ミスタ・ギトー」
「授業中ですぞ?」

 ギトーのみならずキュルケまで自分を睨みつけ、しかも何やら殺気だっている様子に、コルベールはぎょっと眼を見開いたが、それでもうおっほんと咳払いをした。
 普段は良く言えば温厚、悪く言えば弱腰の同僚が、いやに強く出ている事に気づいたギトーは、眉を寄せて杖を収めた。それにどうにも珍妙な格好をしている。
 どこもかしこも刺繍とフリルで埋め尽くされた豪奢な正装に、頭にはロールした金髪の鬘までかぶっていた。あまり着飾る事をしないこの同僚がそうするだけの何かが起きたのだろうか?
 対峙していたキュルケも、杖を胸の谷間に入れて戦闘の気配を取り去った。ふん、と持て余した微熱のやり場が無く、不満そうに髪をかき上げてどっかと椅子に豊かな尻を下ろした。

「おっほん! 今日の授業はすべて中止ですぞ」

 授業を受けるよりも自分達の時間を過ごす事の方が大好きな生徒達から挙がった盛大な歓声を、コルベールは抑える様に両手を動かしながら言葉を続けた。

「えー、皆さんにお知らせですぞ」

 教師としての威厳を滲ませようと仰け反った拍子にコルベールの被った鬘が、ばさっという音を立てて教室の床に落ちる。キュルケとギトーの対決で異様な緊張感に凝り固まっていた教室の空気が、それで一気に解けほぐれた。
 一番前の席に居たタバサが、無表情のままコルベールの秘めていた輝きを解き放った頭頂部を指さしてこう言った。いっそ見事なほど禿げあがったつるつる頭である。

「滑りやすい」


 その言葉が行き渡ると同時に教室は爆笑に包まれる。キュルケが笑いながらそんな親友の肩を叩いた。

「あなた、たまに口を開くと、言うわね」

 その爆笑を耳にしながら、廊下で、

「楽しそうじゃな」
「…………」
「お前、じつはあの輪の中に入りたいじゃろ?」
「……」

 というやり取りが、廊下の壁に背を預けている壁際のいぶし銀と、その左手の間で行われたのだが、誰も気付く者はいなかった。
 突然教室中の笑いものにされたコルベールは怒り心頭禿げあがった頭まで真っ赤にして怒鳴る。まあ無理もない。

「黙りなさい!! ええい! 黙りなさい、こわっぱどもが! 大口を開けて下品に笑うなど貴族にあるまじき行い! 貴族はおかしい時は下を向いてこっそり笑うもの出すぞ! これでは王室に成果を疑われる!」

 とりあえずその剣幕に教室は静かになったかと思われたが、そこに静かな笑い声が残っていた。ぎろりとコルベールが瞳を巡らすと、あのギトーがくくくっ、と外見に似合いの笑い声を堪えている。
 ぬぬぬ、とあまり迫力の無い調子でこちらを睨むコルベールに気づき、とりすまして失礼、と言ったが時折頬が痙攣するのは笑うのを堪えているからだろう。よほどツボに嵌ったようだ。

「えー、おほん。皆さん、本日はトリステイン魔法学院にとって、良き日であります。始祖ブリミルの降臨際に並ぶめでたい日であります。
恐れ多くも、先の陛下の忘れ形見、我がトリステインがハルケギニアに誇る可憐な一輪の花、アンリエッタ姫殿下が、本日ゲルマニアご訪問からのお帰りに、この魔法学院に行幸なされます」

 教室がざわめく。その言葉で教室中の生徒達とギトーもまた理解して、コルベールの格好の珍妙さに納得した。

「したがって、粗相があってはいけません。急な事ですが、今から全力をあげて、歓迎式典の準備を行います。その為に本日の授業は中止。生徒諸君は正装し、門に整列する事」

 自分達の中世と杖を捧げるべき至上の相手の突然の来訪に、生徒達は留学生であるキュルケやタバサを除いて神妙な顔つきになり、先程までのギトー達のやり取りとは別の緊張感に満ちた。

「諸君が立派な貴族に成長した事を、姫殿下にお見せする絶好の機会ですぞ! 御覚えがよろしくなるように、しっかりと杖を磨いておきなさい! よろしいですがな!」

 魔法学院の正門をくぐって、王女の一行が現れると整列した生徒達は一斉に杖を掲げてしゃん、と小気味よく杖が鳴る。
 精門をくぐった先に在る正門には最高責任者であるオスマンの姿があった。やがて清らかな乙女のみを背に乗せるという、ユニコーンが引く馬車が止まると、召使たちが駆け寄って緋毛氈の絨毯が敷き詰められる。
 もっとも尊い血を引く方に地面を歩かせるわけには行かぬ。呼び出しの衛士が緊張した声で王女の登場を告げる。

「トリステイン王国王女、アンリエッタ姫殿下のおなーーーーりーーーーー!!!」

 しかしがちゃりと扉を開いて姿を見せたのは、枢機卿マザリーニであった。まだ四十代だが強張った骨が浮き上がり、彼を十年も二十年も年老いて見せていた。
 先王亡き時より一手にトリステイン王国の外交・政策を一手に仕切ってきた激務の代償であった。かつてはロマリアの次期法王と見られていた事もある有能かつ誠実な枢機卿は、貴族に受けが悪い。
 生徒達はふん、と鼻を鳴らしてそっぽさえ向いていた。平民の血を引いているという噂は、その平民からも貴族達からもマザリーニを嫌わせていた。
 しかし、そんな尻の青い貴族の糞餓鬼共の明から様な態度などマザリーニは意に介した風もない。それから次に降りてきた王女の手を取った。これにはたちまち生徒達が歓声を挙げる。
 骨の筋が浮いたマザリーニの手にすら折られてしまいそうな細い指であった。アンリエッタ姫は当年とって十七歳。トリステインでもっとも高貴で優雅な温室で育てられた、瑞々しい白百合の化身の如き美少女であった。
 数千年を閲する時の流れが与えた古い血の伝える気品、宮廷画家が才能のすべてと引き換えにしてでも一枚の絵画を残したいと願う様な美貌であった。
 水晶の付いた杖を手に、自分を向かい入れた生徒達とオスマンに華のある笑顔を浮かべた。薔薇の様に華やかな、白百合のように清楚な、なんとも見る者を魅了する笑みであった。

「ふうん、あれがトリステインの王女? 私とDの方が美人じゃない」

 ひどくつまらなそうなキュルケのつぶやきだ。生徒達の整列に加わらなかったキュルケ、タバサ、ルイズ達だ。少し離れた木陰に集まり、のんびり王女達の到着を見物していた。
 外国人のタバサやキュルケはともかく、生真面目が骨になっているようなルイズがここに居るのはキュルケにとっても不思議だった。
 相変わらず本を読んでいたタバサが、ふと顔を上げてキュルケにこう言った。

「あの時は惜しかった」
「え? ああ、ミスタ・ギトーの事?」
「あと一手で勝てたかもしれなかった」
「あと一手で負けたかもしれなかった、でもあるわ。フーケの時あんな及び腰だから大した事無いって思ったけど、いやねえ、人間相手だとあれよ。言うだけあるわね」

 とキュルケは襟をめくって自分の首筋を見せた。そこには針の一刺しほどの赤い点が滲んでいた。ギトーが最初に巻き起こした烈風が、わずかに届いていたらしい。
 そしてタバサの言う、勝てたかもしれなかったとは、キュルケが最初の火球を吹き飛ばされた際に、ギトーの周辺にまき散らした火の粉の事だ。キュルケがあの時杖を振りきれば、火の粉はたちどころに拳大の火球へと成長し、ギトーの全身を炎が彩った事だろう。
 とはいえ、ギトーもまた詠唱速度最速を誇る風のエキスパートだ。キュルケとギトーが共々相討ちになる公算が大きかったというのが正直な所だ。
 Dはデルフリンガーを左肩に持たせかけて木立に背を預けていた。この中でもっともアンリエッタに興味が無いのはこの青年であろう。必要とあれば今からでもアンリエッタの首を取る男だが、かといって必要の無い殺生をするタイプでもない。
 普段なら常にDに気を回しているルイズが、この時ばかりは王女一行へと注意を向けていた。ひたむきとさえ言えた。
 その鳶色の瞳は最初王女へ、そしていまは王女の周囲を固めるトリステイン最精鋭部隊魔法衛士隊のひとつ、グリフォン隊の隊士に向けられている。
 まっ白な翼飾りのついた鍔の広い帽子を被り、見事な口髭を生やした二十代の青年貴族だ。銀糸でグリフォンの刺繍がされた漆黒のマントをはおり、鍛え上げた肉体の見事さと端正という他ない顔立ちがあいまって見るも見事な貴族ぶりであった。
 鷲の頭に四肢の胴体を持った見事なグリフォンに跨ったその貴族に、ルイズは見覚えがあった。あの凛々しい姿は、十年前よりもさらに立派になっていた。胸にかつての憧れの想いが蘇った。

「ワルド子爵様」

 今になって、どうして、そう胸を焦がすルイズを、Dは知らぬげに見ていた。

「おお、見ろ。ありゃ恋する女の背じゃ。あのちっこい胸板の中に切ない思いを満たしておる様じゃの。なかなかどうして、一人前の女じゃわい」

 と揶揄する左手の声が聞こえたが、Dはそれに答えずルイズの視線の先に居る貴族、ワルドを冷たく見た。Dにとっては石木と変わるまい。関わる必要が無いから、興味も関心も向けずにいるだけだろう。
 この場で最も美しい視線に気づいたのか、ワルドはグリフォンに跨ったまま視線を巡らし、ルイズには暖かな笑みを向けて、それからDの視線の源を看破した。あるいは、してしまったというべきか。
 傍目には分からぬが、Dの眼には分かる。ワルドが身を強張らせたのを。それはDの夢の彼方の国から姿を見せた異世界の住人の様な美貌よりも、木陰で休む姿に何かを感じ取ったからなのか。
 ワルドは呼吸する事さえ忘れた。心臓が確かに動く事を忘れた。グリフォンが騎乗主の異常を察知したのか、気遣わしげに首を巡らすのに気づき、ワルドは優しくその首を撫でた。
 それだけで平静を取り戻したのは、流石にトリステイン屈指の精鋭部隊の長と言える。一度だけDを振り返り、名も分からぬが実力だけは骨の髄まで刻みこまれた思いで、ワルドはかろうじて戦慄を押し殺した。


 それからのルイズは一日中おかしかった。というか明らかに十年ぶりに遭ったワルドの姿に動揺している。ひがなぼうっとして過ごし、Dが傍らに居ても何の反応も見せないし、それから王女の行幸を歓迎する式が続いてもだんまりを決め込んでいたのだ。
 こんなルイズは珍しいを越えて初めての事だから、Dも時折珍しそうに見るほどだった。そんな風に心をどこかに置き忘れたみたいに時間を過ごしてから、ルイズは周囲が夜のカーテンに覆われている事にようやく気付いた。
 それを意識したのも、規則正しく自分の部屋の扉をノックする音に気づいたからだ。
 どこか品良く長く二回、次に短く三回……。その回数にルイズの中の古くも懐かしい記憶が呼び起こされた。はっと顔を上げて、ベッドの上で抱きしめていた枕を放り投げてドアを開いた。まさか、そんなという思いが胸の中にあった。
 果たして、ドアの先で待っていたのは黒い頭巾で顔をすっぽりと隠した女性の姿であった。あたなは、と問うルイズに、しっと口元に指をあててから、女性は杖を取り出して軽く振った。
 同時に短くルーンを呟いて、光の粉が部屋に舞う。その粉が周囲に魔法の有無を確認するディティクトマジックであった。

「ディティクトマジック?」
「どこに魔法の耳や目が隠れているか分かりませんからね」

 尋ねるルイズに、頭巾を取りながら、女性はそう答えた。魔法学院を訪れたトリステイン王国の可憐な花、アンリエッタ王女の美貌が頭巾から覗いた。
 ルイズもまた古き血筋ゆえに高貴さを纏うが、アンリエッタ王女はさらに虹のように輝く神々しいまでの高貴さであった。
 杖を捧げるべき至上の相手に、ルイズは慌てて膝をついて臣下の礼を取る。骨の髄まで貴族としての教育と矜持を抱くルイズは不意の王女の来訪にも見事な対応を取ってみせた。
 ルイズの姿にアンリエッタは親しい者にのみ向ける暖かな笑みを浮かべて、涼しげな声で言った。

「お久しぶりね。ルイズ・フランソワーズ」


 双子月の見守る中を、Dは悄然と歩んでいた。実にこの時、ルイズの部屋にDはいなかったのだ。呆としていたルイズは己の使い魔の不在にも気付いていなかったのである。
 たぶん、それはアンリエッタ姫にとってはこの上無い幸運と呼べることだったろう。ルイズの制止があったとしても、鼻の一つくらいは落とされかねない事を言っただろうから。 まあ、元にくっつくように手加減してはくれたかもしれなかったが。
 Dは一人ではなかった。どういうわけだか、タバサがその先を歩んでいた。水底まで透き通って見える湖の様な青を湛えた髪と瞳の少女に呼び出され、Dは魔法学院の周囲に広がる夜の草原に影を落としていた。

「……」

 お互い一切の言葉を忘れたがごとく無言。草原にはタバサの足が草を踏み、夜風が小さな花の花弁を揺らす音のみがある。人の耳には聞こえぬそれをDは聞きながら、何を思っているのか。
 ただ、その果てしない黒瞳にタバサの体のある一点に結び付けられたチタン鋼の魔糸が映っていた。ある日タバサの体に巻きつけられていた一条のそれに気づいてから、Dが放置していた魔糸だ。
 それの主が、今宵ついに行動を起こすことを決めたのを知ったが故に、こうしてタバサの後について来ているのかもしれない。
 やがて、タバサが足を止めた。それよりも先にDの瞳がわずかに細められた。油断ならぬ、いや、勝機を見つけ出すのが厳しい強敵を前にした時のみ見せる癖であった。
 タバサの体が震えた。恐怖と恍惚とが混じり合った震えだった。Dの美貌、Dの恐怖。そして、今目の前に立つ者の美貌と恐怖。
その両者が出会ってしまった事で、倍どころか二乗となった美貌と恐怖に。
 ああ、見よ、見よ。あるいは、見てはならぬのかもしれない。見れば二度と解放される事無き魂の牢獄に囚われる。二度と忘れられぬ恍惚郷に囚われるのだ。
 今宵、紅と青の双子月は誕生以来最も激しい困惑に襲われた事であろう。そしてこう問われたなら、あまりの悩み深き問いに答えを出せず、自らの体を砕いたかもしれない。
 すなわち問いとはどちらの方が美しいか、である。
 すなわちどちらが、とは草原に立つD、そして月を背に立つ浪蘭幻十であった。
 今対峙する二人を見る者は、悪魔に囁かれれば魂までも容易く売り渡すだろう。いや、その魂を手に入れようとする悪魔さえも陶然と酔いしれた事だろう。
 天上の偉大なる方も、地の底の座す堕ちた者も、共に呆然と見つめてしまうのではあるまいか。
 風が吹いた。
 幻十のインバネスの裾を靡かせた。
 Dのコートの裾をはためかせた。
 風はもはや吹く事を忘れて消え果てた。月よ、雲よ、風よ、大地よ、今宵この二人の邂逅を忘れよ。忘れられずとも忘れよ。
 でなくば大自然の一部たる汝らとても、動く事を、流れる事を忘れるだろう。今宵この光景に魅入られて。
 幻十が笑んだ。Dの美貌と吹きつける鬼気に想像をはるか越えた敵と知ってなお不敵に、傲岸に、不遜に、邪悪に、そしてこの上なく美しく。

「はじめまして、D。ぼくは浪蘭幻十だ」
「糸の主か」

 Dの瞳はタバサの体と幻十の指とを繋ぐ魔糸を見ていた。

「ご慧眼。そこのタバサという少女に頼んで、君を呼び出してもらったのさ」

 幻十はいやに丁寧に告げてDへと歩み始めた。時が止まったかのように足を止めて息を呑むタバサの肩に手を置き、後ろへ追いやってDが前へ出た。タバサが何かを言う暇もない。まるで、その背にタバサを庇うかの様だった。

「彼女の体に巻いたぼくの糸で知っていたが、君は随分と面白いヒトだ。まるで、別の世界からやってきたかの様に。まるでぼくの様に」
「……」

 Dは無言。しかし、開かれた両手の五指の指先から、鍛え抜く余地の無い鍛え終えた肉体から、無色のまま立ち上る鬼気よ。
 Dよ、お前なら死者にさえ更なる死を与えられるだろう。
 幻十が足を止めた。Dの全細胞が、吸血貴族の持つ闘争本能に従い、機能を十全に発揮しはじめる。
 <新宿>の魔人、『辺境』最強の吸血鬼ハンター。血に濡れた未来の光景を思わずにはおれぬ邂逅。
 それははたして呪いか祝福か。

「最初は、君を仲間に引き込むつもりだった。それが叶わずとも利害の一致によって争わずに済む関係にでもしようかと、ぼくらしからぬ穏便な事を考えていた」

 Dの瞳に影が過ぎった。死の影か。

「だが、気が変わった。君を見て分かった。君はあの街を、<新宿>を生み出した者と同様の意図を持つ者によって生み出された存在だ。
ぼくも同じだから分かるのだよ、現行人類を超越した次の階段の段を踏む進化した存在とする為に選ばれたぼくと、君は同じだ。
 蟲毒の術というものを知っているかい? 一つの壺の中に無数の毒虫を閉じ込めて殺し合わせ、最後に最強の毒を持った一匹を残す外法の事だ。ぼくの言う進化と選ばれ方はそれに近い。
 人間が成し得ぬ行いをし、常に命を賭けて殺し合い、日常的に死の脅威を感じる事で根源的な生物としてのレベルを引き上げて、“進歩”ではなく“進化”した存在を生み出す。
 幾千、幾万、幾億の犠牲の果てに、星となるほどの屍の果てに、海となるほどの血の流れの果てに、ようやく可能性が芽生える。それほどまでしてようやく、進化は小さな入口を開く。ぼくはその入り口を開く鍵となる者だ。君も似たような者だろう?」
「ならば、どうする?」
「ぼくの目的は選ばれる事だ。新たな人類として」
「ふむ。ならば、こうするだけだろうの」

 これまで戦慄と共に引っ込んでいた左手である。すでに闘争の気配は濃密に立ちこめ、灰の中さえも満たそうとしている。浮かべた表情は常と変わらぬ冷たいもののまま、Dの手がゆるゆると背の柄へと伸びていた。
 幻十の笑みが深くなった。左手の声とDの気配に応じた言葉はこうだった。

「ぼくに似た存在を殺す事はより自分のほうが優れたるを示す何よりの証拠。あの街を作った者ならばたとえ異世界であろうと、それを知るのは容易い事だろう。ぼくと等しく美しく、進化の入り口に立った君を斃す事で、ぼくは進化しよう。大人しく死んでくれるか?」

 D――夜に生きる吸血鬼と昼に生きる人間の遺伝子を受け継ぎ、夜のみにあらず、昼のみに在らざる新たな可能性として生み出された、たった一つの成功例。
 浪蘭幻十――魔界都市<新宿>が創造された目的、すなわち新たなる人類のアダムとしてかつて選ばれた者。

「お前より後に、な」

 答えるDの鋼の声が合図となった。大気を割いて幻十の指先から走る十条の魔糸。上下左右からタイムラグを伴わぬ必殺の同時攻撃。
 厚さ一メートルのコンクリートの壁も容易く切り裂く魔糸に幻十の技が加われば、対戦車バズーカの直撃に耐える重装甲サイボーグでさえも斬断の運命からは逃れられぬ。
 それらをDの背の鞘から迸った四つの弧月が迎えた。Dの右手が抜き放ち、同時に描いた銀の閃光は迫る十条の死を全て斬り捨てていた。
 幻十の瞳に禍々しいものがよぎった。Dの総身から吹き出す鬼気の濃さが増すのを感じ取った。どちらも相手の命を奪う事を決めたのだ。
 大地にDの足が沈み込む。それにどれだけの力が込められていたものか、Dの足首までが埋まっていた。それが解き放たれるや互いの間に存在した七メイルの距離は、刹那の時で0に変わった。
 死を運ぶ黒い風の如く迫りくるDの周囲を旋回しながら、幻十の魔糸がきゅっとすぼまった。閉じ切ればDの肉体は数十を超す肉塊に分解される。
 降り注ぐ二色の月光を纏いすぼまる魔糸を、デルフリンガーの一閃が跳ね返した。払った一条の魔糸がまた別の魔糸を跳ね返し、Dを包囲していた千分の一ミクロンの死神達の包囲が解ける。
 右手を引き絞り、最速の突きを放つべく構えたDが、それまでの動きから右方への跳躍に転じた。地面の下に潜り込んでいた幻十の魔糸が、Dの足が大地を踏みしめるのと同時に襲いかかったのだ。
 股間から頭頂までを骨ごめに両断する切り上げをかわしたDの左手から、燃えたぎる流星が五つ、幻十の胸と流れた。
夜空を流れる流れ星の如きそれらは、コートの内側から取り出すと同時に投じた木の針であった。
 秒速一七〇〇メートル――マッハ五を越す速度を与えられた木針は、大気との摩擦で火を噴きながら、幻十の胸を貫くべく小旅行をしたが、その途中で一ミリの隙間がびっしりと編まれた魔糸の網に捕まり、呆気なく両断される。
 幻十の両手が舞台俳優の如く大仰に、しかし優雅に天をさし、鍵盤を叩く鬼才のピアニストの如く一気呵成に振り下ろされる。
 Dが機械の殺気さえ知覚する超直感に従い、天を仰いだ。その瞳が移したのは、月光の代わりとなって降り注ぐ魔糸であった。雨粒の如く縦にDめがけて降り注ぐ魔糸の数は千本を優に超す。
 先んじて仕掛けていたものか、戦闘開始からのわずかな時間の間に投じたものか、夜空に弧を描き、天空の月よりも美しい銀の弧を描いて、魔糸はDとその周囲へと降り注ぐ。
 地に立つ幻十への警戒は微塵も揺るがぬまま、Dの右手に握られたデルフリンガーの切っ先が地上から天へと動くその寸前!

「ちい、お前でも捌き切れんぞ!?」

 左手の声もむべなるかな。空中で魔糸は横殴りに叩きつけられた別の糸によって寸断され、直径千分の一ミクロン、長さ一センチの針と変わったのだ。
 斬断の衝撃によって落下の軌道が変わり、さらには数十万、数百万の単位の数となって襲い来るとは!
 銀のきらめきが天のある一点と地上とを結び、魔糸ならぬ魔針の雨に突き刺さられた地面は砂塵の如く崩壊する。
 Dの手が動く。ただし、右手ではなく左手が。見る間に浮かんだ皺まみれの老人の顔に、糸筋の様な唇が浮かび上がるや、大きく開かれたその掌から凄さまじい吸引が発生して、見る間に降り注ぐ銀の死雨は吸い込まれてゆく。
 離れたタバサが、地面に杖を突き刺してかろうじて体を支え、幻十もまた髪の毛が引きちぎられそうな吸引に、追撃の一手を送らずにいた。
 左手の吸引はわずかに一秒きっかりで終わった。Dは天に掲げた左手を下げ、青眼に構えたデルフリンガーの切っ先を、幻十に向ける。
 放たれる鬼気の放射を浴びてなお妖々と笑う幻十。その袖口から数十本に及ぶ魔糸がさらさらと毀れ落ちていく。
 左手の老人が、ひどく楽しげに呟いた。

「いやいや、ようやくわしららしくなってきおった。ウォーミングアップはこれくらいかのぉ?」

 タバサの耳には届かぬこの呟きをどうやってか聞き取り、幻十が答えた。

「さて、楽しい夜になりそうだ」


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