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ゼロの魔王伝-18


ゼロの魔王伝――18

 華やかな舞踏会も終わり、教師達やませた学院の生徒達の相手に疲れたフーケは、一人自室でドレスから寝巻きへと着替えていた。さらさらと肌を撫でて行く生地の感触が心地よい。
 幾度か口にしたアルコールの所為か、体が妙に火照っていた。部屋の主の合図によって灯るランプ以外には、窓からそっと差し込む月光のみが部屋の光源であった。
 白く輝くランプの光が、ゆるゆると動いて着替えるフーケのシルエットを艶めかしく部屋の壁に刻々と描いている。
 それなりに豊かな胸元と引き締まった尻とを繋ぐウェストは、思い切りよくくびれていて、潤いに満ちた瑞々しさとゆっくりと熟しだした果実の、甘い香りの様な色香を匂わす体であった。
 ルイズの様な、未成熟であるが故に見たものに危険な衝動を覚えさせる、背徳さと可憐さという、相反するものが同時に存在している魅力とも、キュルケの様なこちらが圧倒され、押し流されてしまう堂々たる色香に満ちているのとも違う。
 かすかに浮かべた微笑みの下に、毒を塗った刃の様に危険な何かを秘めたまま男とベッドを共にし、嬌声が絶えたその時には、男の首筋にナイフが突き刺さっていてもおかしくはないような、危うさを秘めた魅力であった。
 眼鏡を外し、ベッドに横になったフーケはそっと自分の左の頸動脈を指でなぞった。人差し指の先に触れるうじゃけた二つの傷跡。
忌々しい、呪いの証である筈のそれを指が撫である度に体が熱くなるのは何故か。
 決まっている。それをフーケの体に刻んだ男の顔が脳裏に蘇るからだ。正確を期するなら、フーケはDの姿形を明確に思い描く事は出来ていない。
 鼻の形、目の形、唇の形、それらの配置の妙。いずれも記憶に留めるには美しすぎた。
 記憶する事も出来ないほどの青年の姿かたちは、ただただ、美しいという印象のみとなり、心の中を支配するのだ。
 フーケは行為を終えた後の虚しさを悟りながら、自分の太ももの間へと手を伸ばした。触れるかどうかという加減で、自分の指が太ももの内側を撫でさすり、右手は乳房を強く揉みしだいていた。
 ああ、とフーケの唇を割って零れた吐息は、桃の色を帯びていそうなまでに淫らな熱を持っていた。
 揉み潰した乳房の肉が指からはみ出し、指だけでは物足りなくなった太ももはゆっくりと上下に動き始めていた。
 フーケの脳裏で像を結ぶDの美貌。それを思い描いた時、フーケの手は動く事を忘れ、しばし静止していたが、切なげな溜息と共に伸ばした手は戻されて、フーケは寝返りを打った。

「反則だねえ、火照った体を慰める気にもなれないなんてさ」

 突き抜けたDの美貌が、フーケの中の淫らな火をそれ以上燃え盛る事を許さなかった。あまりにもレベルが違い過ぎて、性的な欲望を覚える事さえできないのだ。
 敬虔な信徒が自らの崇める神に欲情する事が無いように、Dという男の美貌とはある種の宗教的荘厳さに通ずる領域にまで達していた。
 フーケは、今宵一晩は眠れそうにないと覚悟しつつ、眼を瞑った。
 闇に閉じた部屋の中、開かれたままのカーテンからは淡紅とぼうと霞む蒼の月光が忍び入っていた。
 月光は知っていた。寝間着から覗くフーケの首筋の雪肌に、うじゃけた傷跡など一つもない事を。フーケの指先に触れた傷跡や、鏡に映して見た傷跡の全てはフーケ自身の目と指とにしか存在を感じられぬ幻であると。


 Dとの時間にすればたった一曲分の舞踏を終えたルイズは、Dに支えられるようにして部屋へと戻った。
 あまりに感動し過ぎ、また嬉しすぎて言動に支障を来しているらしい。Dの思いがけぬ行為が生んだ弊害であった。
 声を掛けても曖昧な返事しか返さないルイズに、Dはそれでも変わらずいつもどおりの声で告げた。

「着替えて寝ろ。おれは廊下で眠る」
「……うん」

 ルイズが返事をしたのは十秒ほど経ってからの事だ。Dの声だけは一応耳に入っているらしく、ルイズはDがさっさと部屋から出るのに合わせて、視線を虚空に彷徨わせつつ、のろのろと純白のドレスを脱ぎ始めた。
 下手をしたら一週間位はこのまま過ごしそうなほど、ルイズの全身からは幸福という名の粒子がまき散らされていた。
 もし、ルイズが何らかの理由によって突如落命したならば、これまでの人生でもっとも幸福な気持ちのまま永遠の眠りに就いた事だろう。 

「やれやれ、せーっかく相棒がサービスしたってのに、これじゃ逆効果だあね」
「まったくじゃ。普段から紳士然と振る舞うように心がけておけば、お嬢ちゃんの度肝を抜かんでも済んだろうに」
「そうそう。相棒、顔はいいんだからよ、心根をもっと清く正しくしていれば靡く女には困らんね。おれ、剣だけどそう思うもの」
「ま、今さらこいつのねじくれた根性と品性を矯正する事なんぞできはせんわい。期待するだけ無駄じゃぞ、デル公」
「おれより付き合いの長いお前さんがそう言うんならそうかもしれんね。黙っているのも素敵、とか言ってくれる相手を待つこったね、相棒。
なあに、長い人生惚れてくれる娘っ子の一人二人きっといるさね。なんたって顔がいいかんね、相棒は」
「もっともあのお嬢ちゃんがお前の事を独占しようとして、近づく女共に歯を剥きかねんがの。そのうち、決闘沙汰が起きても仕方あるまい。ふえふえふえ、『おれの為に争うな』、と割って入る練習でもしといたらどうじゃ?」

 ルイズの部屋から出たとたんコレである。Dは、相乗効果を発揮して喧しさを増して言う左手とデルフリンガーの言葉を悉く無視して、廊下を進み、月明かりが射しこむ所で足を止めた。
 月光の落とす影よりもなお濃い漆黒の人型と見えるその姿は、やはり昼の世界に生きるよりも夜の闇の中の方こそが似合いと見えた。

「しっかしよ、相棒。お前さん、血を吸いたくなるってんならあの桃髪の娘っ子といつも一緒に居るのは、けっこう不都合なんじゃねえの? これからはどうするんだね? 結局お前さん、フーケの血だってホントは吸ってねえじゃねえか。
 お前さんが左手を額に乗せたら、とたんに目をとろんとさせちまったんだもの。あん時に何かしたんだろ? フーケ本人は血を吸われたと思い込んでいるだろうが、相棒の腹は膨れてないまんまなんだろ。突然娘っ子の首筋にガブ、てのは勘弁だぜ」
「なに、血を吸わんでも一カ月位なら他の食いもので代用も可能じゃ。それに血の確保も宛ては作っといたでの」

 血の宛とは無論、メフィストに依頼していた乾燥血漿の事である。Dがルイズ達と共にフーケの後を追っていた間にメフィスト病院から使いの者が訪れて、乾燥血漿をおよそ三ヶ月分置いて行っている。
 手元に置いておいた分と合わせて半年くらいは保つだろう。白い医師が本拠地としているアルビオンは騒乱の只中にあるというが、あの医師の事だ。王軍と反乱軍の戦闘の真っただ中も、必要とあらば突っ切って、Dとの約定を守るに違いない。
 場合によっては、その過程でアルビオンに戦乱を巻き起こしている要因の全てを冥府に送る事も厭わぬに違いない。
 その精神も尋常ではないが、問題なのは個人でそれを可能とする力を持っている事だろう。Dもメフィストの実力を目の当たりにしたわけではないが、彼ならばこのハルケギニアの国など容易く滅ぼせると理解していた。
 それは、D自身もまた同等の魔人であるが為だ。
 これまで鞘に納められていた鬱憤を晴らすべく、デルフリンガーはここぞとばかりに饒舌であった。カパカパと開閉する根元の金具の音はひっきりなしに続いている。夜のしじまを掻き乱す甲高い音は、いささか無粋であった。

「でもよ、なんでホントにフーケの血を吸わんかったのよ? 実は、血を吸ったらフーケは屍食鬼になっていた、とか、そういうのが理由かい?」
「まあ、こやつが吸血鬼ハンターだから、というの一番かの」
「ふうん、憎たらしい親と同じ真似はしたくない、てとこかね?」
「そう思うておけ。実際、吸血鬼ハンターになるダンピール共の主だった動機はそれじゃ。忌わしい吸血鬼の血を引く子供として幼い頃から石もて追われれば、否応にもそんな運命を与えた親を憎みもするわな」
「そこらへん、人間と変わらんのな」
「それが、あいつらにとっても厄介な所じゃろうなあ」

 感慨深げな左手の声が耳に届いているだろうに、Dはわずかな反応も見せずに窓越しに双子月を見上げていた。
 夜に生きる吸血貴族の血が活性化した今、Dは降り注ぐ月光の色を見、夜を渡る風の歌を聴き、蕾から覗いた花の香りを嗅いでいるのだろうか。
 夜に溢れる幾多の生命の息吹を感じ取っているのだろうか。
 陽の光の届かぬ夜の世界にもまた、命の輝きは無数に輝いている事を、夜に生きる者達の遺伝子を受け継いだこの青年は知っている。
 合唱を行っていた小さな蛙達も、ほう、ほうと鳴く梟達も思わず息をする事を忘れる様に美しくどこか厳かなDとは正反対に、左手とデルフリンガーはDの分までしゃべるかの様にぺちゃくちゃカパカパと続けている。
 せっかくの静かな夜が台無しな事この上ない。Dの姿を目撃し、胸に突如湧いた理解出来ぬ悲しみと感動に頬を濡らす者がいたら、眦を釣り上げて睨みつけるに違いない。

「フーケめが吸血鬼に血を吸われるという事に対して動揺してくれたのは幸いだったわ。おかげでわしの暗示がすんなりと効きおった。
自分自身で血を吸われた、逆らえないと思っておるからの。もうわしらの言いなりよ、けっけっけ、骨の髄までしゃぶっちゃるわい」
「お前さんがなんかまじないでもかけたのかい? へえ、便利だねえ。でも相棒の顔の効果もあったんだろう? 
すごいやね、でもおれっちももうちょっと使ってくれよ。おれ、剣としてまともに使われたのって一回だけだぜ?」
「なに、ナマ抜かすか。お前を使う機会なんぞ、三度しかなかったろうが。ゴーレムで二回、フーケで一回。三分の二も使われたのじゃ」
「いやま、そうだけどね。最初のゴーレムん時はともかく、二度目は一回しか振るわれていないのよ? 剣の価値低くね?」

 本当に、この左手とボロ剣は騒がしい。Dは、割と本気で縁を切る事を考えたかもしれなかった。


 ルイズが十六年の人生で最も幸福な夜を過ごしてから何事もなく数日が経った。
 意外というか、ルイズは幸福故の廃人化から見事一晩で復活を果たし、以前にもまして精力的に授業に身を入れて、勉学に勤しんでいた。
 Dと過ごす日々で、より一層、この使い魔に相応しい主人にならなければ、と心胆により深く刻み直したようだ。
 もとより座学では上位五位に必ず名を連ねていた秀才だ。実技さえ伴えば学院が誇る優秀な生徒となるのは間違いない。
 もっとも主人の方が使い魔に相応しい者になろうと努力するというのは、長い歴史を誇るトリステイン魔法学院でも初めてのことだったろう。
 お日さまがぽかぽかと心地よい日であった。洗濯物を干す手を止めて、ふっと微笑みを浮かべるとともに、太陽を見上げたくなるような、心まで暖かくなるようなお昼の時刻。
 そんな中、なんだかなあ、と喉に魚の骨でも刺さったみたいな声が、厨房の裏庭で長く尾を引いていた。

「いやさ、確かにもっとおれを使えと言ったよ。うん、言った。認めるよ」

 南天で輝く太陽の光を、刃自体には錆の浮いていないデルフリンガーが銀に染めて反射し、Dの右手に握られたまま大上段に振り上げられた。
 大地に深く、広く根を張った大樹の如く不動の足。たわめられた筋肉が解き放たれた時の膂力は、想像するだけで背筋に寒いモノを感じさせる。
 Dが無造作にデルフリンガーを振り下ろした。描かれる縦一文字の銀筋。いかな達人の眼にも一瞬の光としか映らぬ一撃は、かっ、という音を断てて刃を振り下ろした先の薪を、きれいに真っ二つにした。

「だからってよ、薪割り用の鉈代わりってどうよ? ちょっと、ねえ? どうよ? ねえってば?」

 割った薪を、土台代わりの切り株の横に積んだDが、縦に薪を五本ほど重ねて乗せた。ゆるゆると切っ先が半円を描いて再び大上段へ。
 ギーシュの操った青銅のゴーレムを、達人が名刀で薄紙を斬ったかのように切り捨てた斬撃が、今一度振り下ろされた。

「あ、無視? 無視するんだ? ひでえ、おれは傷ついたね。傷ついたよ。でも我慢する。なんたって相棒だかんね。相棒だから、多少ひどい事されても我慢してやる」

 Dがまた、割った薪を切り株の脇に積んだ。以前、決闘騒ぎに関わった事で、厨房の皆から好感をもたれたのを機に、シエスタから時々上等なワインや食事などを奢られ、その礼代りに行っている薪割りである。
 他にも、小麦粉やら食材の仕入れの時の荷物持ちをしたりと、日常の中での手伝いもしていたりする。前述した事もあったが、日常の雑事ならほぼ完璧にこなせるスキル持ちなのだ。
 顔に問題がありすぎて直接厨房に顔を出す事はないが、受けた恩は忘れないらしい性分と、決闘騒ぎの一件もあってDはなかなかに厨房や学院で働く平民達には人気が高い。
 その顔を見た場合は、平民も貴族も関係なく虜になってしまうのだが。
 今日の分の薪を割り終えて、ぶうたれるデルフリンガーを鞘に収めたDの背に、朗らかな声が掛けられた。
 純粋な友好の意と善意のみが込められた声は、Dにとっては聞き慣れぬ類の音だったろう。

「Dさん、そろそろお昼を持っていきましょう」
「いつもすまんな」
「いいえ、私が好きでやっている事ですし、マルトー料理長からのお許しもありますから」

 そう言って純朴な笑みを浮かべて、手に持った籐の籠を持ち上げてみせたのは、シエスタである。
 肩口で切りそろえられた鴉の濡れ羽色の髪と雀斑の浮いた健康そうな肌、親しみやすい雰囲気を持った女の子だ。
 しかし通常の食事を必要としないDに対し、どうやら食べ物を入れた籠を掲げて見せて、持っていきましょうとは、どういう意図であろうか。あまつさえ、Dが礼らしき言葉を口にしている。
 二人は肩を並べてその場を後にした。
 魔法学院の周囲に広がる草原の一角で、ここ連日鳴り響いている爆発音が、ちょうど合計で三百回目を数えた。
 青々と生い茂る草原の、その一角だけが見るも無残に抉られて、地面の中身を盛大にぶちまけている。大地という生物の肉体を突如奇禍が襲い、臓腑をまき散らされたようにも見える。

「十メイルだと、精度は……」

 となにやら呟きながら持参したノートにメモしているのは、桃色ブロンドと、はっと息を飲む美貌、そして悲しいかな周囲に広がる草原と同じようになだらかな胸元が特徴の、Dのご主人様(たぶん)、ルイズである。
 以前にDと話をした時、爆発を練習してみてはどうか? と言われ、どうせ爆発するならば、と思い直し、こうして授業の合間などに爆発魔法の練習を始めている。
 フーケのゴーレムとの戦いでも、この爆発魔法のお陰で助かったという事実もあってか、熱心にルイズは毎日毎日爆発を起こしていた。その成果もあって、ルイズは概ね自分の爆発魔法の規則性を把握しつつあった。
 やはり、失敗であるにせよ爆発は魔法の一種であるらしく、威力は精神力、すなわち感情、気力に左右されるという事。
 ギーシュの操るゴーレム戦でゼロ距離からならば必中させられた事から、推測時実証した結果、自分から遠ざかれば遠ざかるほど狙った部位に魔法を起こす事は出来ない事。
 唱える呪文に関係なく爆発は発生し、仮に詠唱に失敗して爆発は起きる事。
 最初から起こしたい爆発の規模と場所を鮮明にイメージして詠唱すれば、精度が飛躍的に伸びる事などが判明した。
 確かに鮮明にイメージを思い描く事は大切だった。最初から爆発を克明に脳裏に描いて唱えれば、より爆発の精度は増すのだ。炎の球を思い描きながらウィンディ・アイシクルを唱える者はいないだろう。

「う~ん、魔法の種類を問わず魔法を行使すると爆発につながるのよね。ライトでもフライでもレビテーションでも、挙句の果てにはスペルしか知らないカッター・トルネードでもジャベリンでも爆発だし。
 コモン・マジックでもドット・スペルでもスクウェア・スペルでも爆発に帰結する……私って無節操なのかしら?」

 四系統のあらゆる魔法、それもクラスを問わず唱えても発生する爆発に、ルイズは首を捻る他なかった。
 極めて嫌なのだが、ひょっとして自分はどんな魔法でも爆発という現象に変えてしまう特異体質なのだろうか?
 いやいやいや、贅沢は言わないからせめて普通の貴族並みには魔法が使えたい。なんでもかんでも爆発しか起こせないメイジなど前代未聞だ。
 そもそも、誰も彼も、ルイズに魔法を教えて来たメイジ達は、あの爆発を魔法の失敗と断じてきたのだ。
 どれだけ爆発を使いこなそうとも、それではメイジとしては認められぬままだろう。
 はあ、と溜息をつき、ルイズは周囲を見渡した。練習を始めたころはとにかく魔法を唱えて唱えて唱えて唱えまくり、精神力を使いはたして気を失っていた所をDに発見された。
 失敗と烙印を押された魔法の練習をしている所を見られるのが恥ずかしくて、Dに内緒で練習していたのが裏目に出たのだ。
 本当にかすかに、呆れた様な感心した様な微妙な影が、目を覚ましたルイズに気づいたDの顔によぎったのを、ルイズは今も憶えている。もう恥ずかしいやらなんやらで、ルイズは穴があったら頭から潜り込みたい気分だった。
 とりあえず、それ以来Dが付きっきりというわけではないが間を置いて様子を見るようになり、ルイズの魔法練習は一人きりではなくなった。
 また、ルイズの魔法練習にはいつしか練習相手もいるようになったのである。う~ん、とノートを手に首を捻っているルイズの背に歩み寄ったのは、キュルケやタバサではなく、あの金髪にフリル付きシャツの少年ギーシュであった。
 黙って壁際に背を預けて佇めば、頬を染める少女の一人二人はいそうな顔立ちに浮かぶ気障ったらしさは変わらぬが、件の決闘前よりもはるかに友好的な光が、瞳に浮かんでいた。
 ルイズとは文字通り拳を交わした仲だ。夕日を背景に土手の上で殴り合ったわけではないが、ギーシュがルイズに対し好感を抱くには十分であったらしい。
 ちなみに、ルイズに動く的および人間大の的として吹き飛ばされたギーシュのワルキューレの破片が散乱している。
 いずれも一撃で上半身や頭を吹き飛ばされ、ルイズの爆発の威力を物語っている。爆発をコントロールし始めたルイズ相手に決闘をしたら、ぶっちゃけ勝てないんじゃなかろうかと、ギーシュは本気で悩んでいる。

「すごいな、ルイズ。ドット・スペルでもこうまで連発して詠唱するのは、トライアングルでも難しいじゃないか? 言っておくが嫌みなんかじゃないぞ」
「まあ、確かに詠唱回数と詠唱速度はピカ一なのは事実ね」

 その二つが対人戦闘ではどれほど強力な武器となるものか、ルイズは分かっているのだろうか。
 個人戦においてすこぶる強力な風系統以上の詠唱速度、さらに前兆と過程が無く、遠隔地に突如発生する爆発は、回避も防御も困難だろう。
 自分が爆発専門メイジなのかと思い悩むルイズに対して、ギーシュの評価はかなり高く見積もられているようだ。
 Dの召喚以来、これまでになく感情の起伏に富む経験を経た所為か、ルイズは魔法に費やす精神力の制御を、感覚的にではあるがコツや流れといった形で把握し、理解していた。
 ドットメイジであるギーシュが精神力の消費が少ない最初歩の魔法を唱えても、ルイズと同じ回数の魔法を行使する事は出来ないだろう。
 ギーシュは足元の直径十サントほどの穴と、視界の端っこにある直径十五メイルの大穴を見比べた。
 どちらも最近になってコツを掴んだルイズが最大と最小の爆発の威力を比較すべく穿った穴であった。
 もしルイズが爆発しか起こせないとしても、完璧に使いこなして見せるようになれば、名を馳せる事とて難しくはなさそうだとギーシュは思った。むろん、武闘派としてだが。
 武闘派として名が知れ渡る、というにはルイズは望むまいが、軍人の家に生まれ、そうなるべく育てられ、その宿命を受け入れて誇りにしているギーシュは、自然とルイズの爆発魔法を、戦闘・戦争においてどのように利用できるかを考えてしまう。
 友人(と思う様になった)をそのように考えてしまう自分に気づき、卑しい自分の心根に恥を感じながら、ギーシュはそろそろ休憩にしようと提案した。腹具合でお昼頃だと判断したらしい。
 懐中時計、太陽時計様々あれど軍人である以上正確に時刻を把握する特技は役に立つだろう。まあ、一日の三食の時間しかわからないのだが。

「ほら、君の使い魔も来たよ」
「あ、D!!」

 ギーシュがそう言って薔薇の杖で指示した方向から、陽の光が全て吸い込まれてしまいそうな闇の人型と、その隣に居るにはあまりにも普通すぎて逆に安心できるメイド姿がある。
 Dの隣に自分がいない事に嫉妬の炎が熾火のようにささやかな、しかし密度でいえば超重力の奈落の穴、ブラックホールにも匹敵するレベルに一瞬で到達し、それをかろうじて抑えて、ルイズは愛用の杖を握った右手を、Dに向けてぶんぶん振った。
 その動作に紛れて爆発魔法を唱えて、Dの隣のシエスタを爆殺する気じゃないだろうな、とギーシュは頬を引くつかせた。
 ルイズはまるで長い事家を出ていた大好きな兄に再会した妹の様な無邪気さだ。Dの隣で、飛ぶ鳥も睨み殺しそうな嫉妬の炎を向けられているとは知らぬシエスタは、そのルイズの様子に、故郷の弟妹を思い出した様でにこにこと笑みを浮かべている。
 その様子がまた仏頂面で生まれてきたようなDと相反していて妙に絵になるものだから、ルイズの笑顔の背後にゆらゆらと揺れる不可視の嫉妬の炎は一層、粘度を増して不気味に揺れている。傍に居るギーシュは背筋を流れる汗の冷たさに慄いた。
 タバサやキュルケが味あわされた、魔王とでも形容すべきルイズの異様な迫力の一欠けらである。
 ギーシュは足元の名もない草や花が、ルイズの迫力に撃たれて枯れ果てているのではないかと錯覚した。
 ルイズの周囲の大小様々無数のクレーターを一目見まわしてから、Dは自分のご主人様(おそらくは)を見た。
 相変わらず何を考え、どんな感情で相手を見つめ、どのように見えているのか分からない瞳であった。
 ルイズは、そんな事は慣れたのか気にするだけ無駄と悟ったのか、うっすらとほっぺを桜色に染めて、たた、と小走りした。
 いやあ、まるで愛玩動物とその主人みたいじゃないかね、とギーシュは、犬の尾があったら目一杯左右に振っていそうなルイズの後ろ姿を見て、しみじみ思った。
 とりあえずあの主従の関係は良好らしい。時折、いや、かなり頻繁にDの方が主人で、ルイズの方が使い魔なんじゃないだろうかと見えてしまうのが問題と言えば問題だろう。

「今日も精が出るな」
「もちろんよ! 少しでも早く一人前のメイジになりたいんですもの。一秒だって無駄にできないし、私にできる事なら何だってするわよ!」
「そうか」

 そのままルイズはDの右隣に並び、最近お昼を食べる場所として利用している一本の大樹の下まで歩いて行った。
 シエスタがテキパキと手に持っていた籠からワインや水、スープを淹れた陶器の壺や瓶、サンドイッチと軽めの食事を並べていった。
 まだ焼きたての熱が残るオムレツを口に運び、ルイズは魔法の行使ですり減った精神力を、空腹が癒されるのと同時に高揚してゆく感情で補充した。
 本来の歴史の、今よりもさらに未来にてルイズの魔法は嫉妬や怒りといったいわゆる『負の感情』とされるものを源とし、糧とする、と推測される事となる。
 しかし、本筋から外れた正統ではない時間が流れ始めたこの世界、この瞬間、ルイズはあらゆる感情を魔法行使の糧としていた。
 嫉妬も、憎しみも、怒りも、喜びも、憂いも、嘆きも、ありとあらゆる人間の持つ感情が、ルイズの魔法の糧となる。徐々に徐々にルイズは、本来のルイズとは違うものに変わろうとしているのかもしれなかった。
 Dやメフィスト、妖姫、幻十、にせD――異世界からの異物を招いた何かの思惑とはそれであろうか。異邦人の存在が起こす波紋は、はたしてこのハルケギニアという水面をどのように乱すのであろうか。
 最も、当のルイズには自分が本当の自分とは違う者になりつつあるのだとは、微塵も知らぬ。そも、眠れる自分の資質を知らぬのだから無理もないのだけれど。
 Dとルイズとギーシュとシエスタの四人での昼食も、ずいぶん慣れたものだ。シエスタもギーシュに対して怯えた素振りは見せず、にこにこと皆の食事の様子を見守っていた。
 あの決闘の時の怯えぶりはどこへやら、ひょっとしてあの時の自分への恐怖の表情は、演技ではなかったのではないかと、ギーシュは思っていたりする。
 未だに学院のあちこちで見かけた者が気絶する現象を頻発させるDの美貌や、常に纏う尋常ならざる冷たい雰囲気にも動じた様子を見せていないのだ。これだけで只者ではないと分かる。
 そんな風にギーシュに見られているとは知らず、給仕である事を弁えているシエスタは自分自身は料理に手を着けずワインの代わりを注ぎ、空になった皿を片づけている。
 Dはあまり料理に手を着けてはいない。平均的な成人男性の半分ほどの量で済ませている。
 ダンピールという出自故に通常の食物の摂取の必要性が乏しいからなのだが、それを知らぬルイズらからすれば、意外と小食なんだ、と実にあっさり納得していた。なんでもありの人物だと思っているから、細かい事を気にしなくなっているらしい。 
 お腹もこなれ、そのまま眠りたい気分になるのを堪えてルイズは立ち上がった。ギーシュもつられる様にして立ち上がる。そろそろ学院に戻って授業の準備をする事が必要だろう。

「ん~~~! 今日もずいぶん爆発させたものね。我ながら感心するわ」
「なんちゅうかお嬢ちゃんをナメとったと最近思う様になったわい」

 Dの左手から零れた呆れた声も無理はないだろう。今日までさんざかルイズが爆発させた光景を思い返してみれば、魔法学院を跡形もなく吹き飛ばすのも一日あれば事足りそうである。
 一個人が魔法のみで成すには極めて困難な事だろう。Dのご主人様は思ったよりも大物なのかもしれない。時折Dがやたらとしゃがれた声を出すのにも慣れたのか、シエスタとギーシュは気にしていない。
 加えて、左手の老人の声同様にルイズが、ゼロとただ馬鹿にされるだけのメイジで終わらないだろうと思い始めている事も大きい。
 あれだけ魔法を乱発しながら、こうしてけろっとした顔でいるのだ。尋常ならざる精神力といえた。ドットとしては優秀と判を押せるギーシュも、ルイズの練習に付き合いだしてから、改めてこの少女の秘めた才覚を感じて評価を改めていたのだった。


 壮麗なプチ・トロワの宮殿を、青い髪の小柄な少女が歩いていた。小柄と言うよりも幼いというべきかもしれなかった。
 まるで数年前のある日以来成長する事を止めた様なその姿は、いわずもがなタバサであった。
 ハルケギニアでは犬猫やペットに着けるような名前であるタバサという、あからさまな偽名を名乗る少女は、今日も今日とて命を落とす事を暗に期待された過酷な任務を終え、その報告を終えた帰りである。
 父同様にメイジとして優れた才能を有するタバサへの嫉妬と、簒奪者と罵られる現王を父に持つ従姉妹のイザベラは生来の気性以上に、それらのコンプレックス故にタバサへと向けた厭味や嫌がらせは限度を知らない。
 任務を受けに行く時と報告を告げる時にいちいち突っかかってくるイザベラは、気持のよい存在ではなかった。
 まあ、最近は父王が召喚した使い魔の顔のお陰もあって、ぽう、と遠いどこかを眺めて居るきりなので、辛辣な対応はされずにいるが。
 何度も通い慣れた廊下を歩いていたタバサは、忽然と目の前に立つ小さな影を認めて足を止めた。
 ソレは、まだ五歳かそこらの小さな小さな女の子であった。金糸の様な髪を肩口で整え、向日葵の様な笑みを浮かべてタバサに笑い掛けてきた。
 『雪風』の二つ名通りの白い肌のタバサに負けず劣らず、いや、むしろ血が流れていないのではと思うほど白い肌が、印象的だった。
 宮廷詰めの官僚達の子供だろうか。身に着けているドレスは瀟洒な紫サテン生地の、一目で高価と知れる上品なものであった。
 少女に対して笑い返そうとしたタバサは、しかし凝と顔を強張らせた。その、陽光の祝福を受けて輝く笑みを浮かべる顔は、かつて月光の下で四肢を落とされ、目に見えぬ魔糸の贄とされた少女ではなかったか。
 吸血鬼が昼歩む不思議も、落とされた筈の四肢が元通りになっている不思議も忘れ、タバサは咄嗟に杖を身構えた。その小さな体の中で鳴り響く危険を告げる警鐘の音を魂が聞いていたからだ。
 ぞわっと肌が泡立つ。ぶわっと汗が噴き出た。血が熱を忘れて冷たくなる。心臓の鼓動がひどく遠い。
 幻十と相対した時を除けば、かつてない程の脅威――魔王ルイズが目の前の少女に匹敵する恐怖を湛えているのが無駄に凄いと、タバサは心の片隅で思った。

「初めまして、お姉ちゃん。サビエラの村で会ったのは回数に入れないでおきましょう。私はエルザよ。お姉ちゃんのお名前はタバサというのでしょう?」

 にこやかに、風貌には似合わぬ大人びた物言いをするエルザの笑みに、タバサは強張った顔の筋肉をほぐす事が出来なかった。目の前のアレは、バケモノだ。タバサは、すでにエルザをアレ、ソレ、と人間以外の形容で呼んでいた。
 エルザが近づいてきた。一歩目、二歩目を刻む瞬間を見たと思ったのと同時に、エルザの姿が狭霧の如く霞んで消えた。

「!?」

 ひた、とひどく冷たい手がタバサの首筋を撫でた。椛の葉のように小さな手は、エルザのものであろう。
 しかし、どう考えてもタバサの首筋にエルザの手が届くわけもない。ましてや、恋に胸を焦がす少女の如く熱く濡れたエルザの声は、タバサの頭上三メイルの高みから降り注いでくるではないか。

「ああ、お姉ちゃんの体はあったかいね、冷たい眼をしているけど、やっぱり、人間の体って温かい。血は熱いんだよね。
 ああ、いいなあ、私はね、体の芯から冷たいままなの。心も冷たいのよ、魂が凍えているんだよ。それをね、血を吸う時だけ忘れられるの。お姉ちゃん達人間はね、その為だけに生きて、増えて、そして血を吸われればいいのよ。私に」

 エルザの言葉の一語一語が、ぞわりぞわりとタバサの肌を削いで行くかの様。
 幻十の魔糸によって斬りおとされた四肢は、どのようなおぞましい処置を受けたものか、タバサに触れる指は氷の如く冷たく、ずり、ずり、と蛇が巨体を這いずるような音がタバサの周囲で旋回している。
 タバサは滾る陽光が不意に輝きを失い闇の帳が落ちたような錯覚を受けた。だんだんと、確かに開いた筈の瞼が異様な重さを持ち、閉じはじめる。
 ああ、タバサの頭上で爛と輝く二つの輝きはエルザの猫目であった。タバサに笑いかけ、タバサもまた笑い返そうとしたその一瞬で、タバサの瞳を見つめたエルザの瞳が仕掛けた催眠術であった。 
 ぼう、と霞を帯びるタバサの青い瞳。しゅうしゅう、と氷雪を交えたかの様なエルザの吐息がタバサのうなじを撫ぜ、エルザの唇が這いまわった。
 十二、三歳の少女としか見えぬタバサの体を、わずか五歳程度の少女が嬲る光景は背徳に満ちた官能の光景であった。エルザの顔は確かに欲情に濡れ、タバサの肉体を嬲り、心を犯し尽す行為への歓喜に満ちている。
 意識を朦朧とさせたタバサの喉笛に、わずかに唇から覗いたエルザの牙が突き刺さり――広大な絶対凍土の冷たさと美しさを凝縮したかのような声に止められた。

「エルザ」

 雷に打たれたかのように硬直したエルザ。タバサの首筋に牙をむけたまま、視線を正面へと向け直した。
 タバサの目の前に突如出現した自分の様に、超知覚能力を与えられた自身の様に気付かない間に姿を見せた絶対の主君を。
 漆黒のインバネスが翼を閉じた魔王の如く映るのは何故か。
 吹きすぎた風は腐臭を纏いながらも、恍惚と地に落ちるのは何故か。
 こちらを見つめる瞳に映る自分の姿が、鮮血の海の底に沈んでいるように見えるのは何故か。まるで、瞳の主にそこに落とされるのだと運命が告げる様に。

「ゲント様」
「エルザ、彼女を離せ」
「はい」

 幻十の命令は鉄の掟なのであろう。それまでの恍惚の顔を恐怖一色に変えて、エルザは両手の中に捉えたタバサの体を開放した。
 流れる血潮に対する欲情の炎も、幻十の瞳の冷たさの前では燃える事を忘れ、エルザはその場で膝をつき頭を垂れた。
 生命も心も奉げる事を誓った神を前にした信徒の様だ。しかし吸血鬼の幼女が崇めるこの神の瞳のなんと冷たい事。なんと美しい事。
 幻十の右の人差し指が十分の一ミリ動いた。一度だけ。それだけで伏せていたエルザの面は上がり、四肢は縄に十重二十重と巻かれたように緊縛された。
 いかなる苦痛が与えられているのか、エルザのあどけない顔が浮かべるのは地獄の獄卒に責められる罪人の苦悶であった。

「エルザ」
「は……い……」

 舌を動かす事さえも新たな激痛を生む緊縛地獄の中でなお、エルザは幻十に答えた。いかなる状況にあっても、自らの問いに答えぬ従僕を許す様な青年ではなかった。
 サビエラ村の住人が皆殺しにされ、エルザもまた四肢を落とされた夜から何があったものか、エルザは心底からの恐怖と忠誠を、幻十に捧げているようだった。

「それはぼくのおもちゃだ。壊されては困る」
「もうし、わけ、ありま……せん」
「昼歩む肉体となった事にはしゃぎ、この宮殿の者達や城下町の人間の血を啜った事は僕も許そう。
 しかし、ぼくの意に沿わぬ事をするとなれば話は別だ。ぼく自身が手を下す仕置きはこれだ。後はお前自身の手でするのだ。今、ぼくの目の前で、主たるぼくの機嫌を損ねた罰を自分自身で下すがいい」
「はい」

 千分の一ミクロンの魔糸による緊縛と骨を直に削られる拷問から解放されたエルザは、折りそうになる膝をかろうじて保ちながら、自分の右目に伸ばした左手の人差し指と中指を突っ込んだ。
 ぐちゅりと、濡れた音がする。簡単に掌で包みこめてしまう小さなエルザの手は、一切停滞する事もなく、自分の右の眼窩へと指を潜り込ませた。
 その様子を顔色を変えるでもなく、自身の命じた事を忠実に実行するエルザへの感嘆の様子もなく、幻十は当たり前だとばかりに見つめていた。
 エルザの眼窩の中で、指が曲げられた。丸い眼球を掴み、一息に抉りだす。ぶちぶちとい視神経や筋繊維の引きちぎれる音が頭蓋の中に響き渡り、溢れる血潮が頬を流れドレスの生地を赤く染めて行く。
 凄さまじい激痛に襲われる中、エルザは残る左目に映る幻十の氷の彫像のように冷たく微動だにしない姿に恍惚と酔いしれ、唇の中に流れ込んできた自分の血の味に体を震わせた。
 右目を抉りだすという言語に絶する苦行の中、エルザは飲み下した自分自身の血の味と冷たさ、そして半分になった視界に映る幻十の美貌に陶然と蕩け、激痛と喪失の恐怖をはるかに凌駕する幸福を感じていた。
 エルザの催眠瞳から解放されたタバサが、柔らかいモノを抉る音と、むわ、と鼻を突いた血の匂いに明確に意識を覚醒させる。
 いつ動いたものか、タバサの背後に居た筈のエルザは、幻十の前に立ち、左手の掌の上に抉りだした自分の右の目玉を見せていた。右の眼窩からはすでに赤い滴りは止まり、廊下やドレスの胸元を濡らす事もない。
 エルザ自身の手で抉りだされたその目玉を冷たく一瞥していた幻十の指が、再び風に揺れる羽毛のように繊細な動きを見せた。同時に光の速さで空を切った魔糸が、エルザの眼球を微塵に切り刻み、跡形もなくす。
 エルザの掌の上にはかつて眼球だった肉片と、それから零れた血潮が残された。それを、エルザは黙して見守り、ドレスのポケットに収めた。
 言葉もなくし、何が行われていたか想像し、生きた心地というものを忘れ果てたタバサへ、幻十は妖しく笑いかけた。魂を握られるようなおぞましい悪寒が、タバサの背筋を流れた。

「すまなかったね。ぼくからよく言い聞かせておくよ」
「…………」
「エルザ」
「はい、ゲント様」

 廊下に膝を着いていた姿勢から立ち上がり、ドレスの裾をふわりと翻してエルザがタバサを振り返った。万物に等しく降り注ぐ太陽の光のカーテンの中に翻るエルザの金の髪と、紫サテンのドレスの裾は、それら自体が光を放つかの様に美しい。
 しかし、まだ五歳くらいにしか見えぬエルザの右目にあるべき眼球はなく、真っ赤に濡れた空洞がぽっかりと開き、花の蕾が開いて笑い返しそう笑みを浮かべる顔は、流れた血に濡れて、もはや死人の色だ。
 艶やかさの中に上品さを併せ持ったドレスにも赤いまだら模様が描かれているではないか。
 エルザは幼い淑女の様にスカートの裾を摘み、深く頭を垂れた。伏せた顔から、ぽたぽたと廊下に血の球が落ちて弾ける。

「申し訳ございませんでした」

 心からの謝罪の言葉を口にするエルザが、再び折った腰を戻して顔を挙げた時、すでに右目には網膜が張られ水晶体が再生し、白い物体が泡立つ様にして空っぽになった右の眼窩を埋めようとしていた。
 目の前で徐々に再生してゆくエルザの右目に、息を呑むタバサにからかうようなウィンクをして、エルザはすでに廊下の彼方を歩いていた幻十の後を追った。
 幻十の魔手に落ちたあの夜から、浪蘭家に伝わる呪術・魔術と<新宿>で幻十が身につけた妖技術によって肉体をどのように改造されたものか、わずか数秒で失った眼球が元に戻っているのだ。
 すでにタバサの事も、自分の眼球を抉りだした苦痛も忘れたと、走り去る背中で語るエルザと幻十を、タバサは色を失った顔で、長い事見続けていた。


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