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ゼロの魔王伝-02



ゼロの魔王伝――2

 眼鏡のレンズ越しに、差し込む陽光に煌めく目に見えぬ何かを見つけ、タバサが熱い泥濘のように溶けかかっていた思考を引き締めた。『雪風』の二つ名に相応しい氷の刃の様に、冷たく鋭利な思考を取り戻した。
 ロウランゲントと名乗った顔の見えぬ青年の左手に纏わりつく煌めき。天の河を形作る星達の煌めきさえも色褪せて見えるのは、煌めきそのものよりもそれを纏う幻十の繊指の美しさの故であった。
 指の関節に寄る皺も、骨と腱と肉を覆う肌も、かすかに桃色を刷いた爪も、すべて人間の指とおなじ部分によって構成されている。
 だというのに思わず目を向けてしまうその美しさはどうした事か。老若男女誰しもに刻まれている指関節の皺もあるというのに、無限の宇宙に渦を巻く星雲の様に自ら輝いてさえいる。
 黒闇の衣から覗く肌を見よう。大地の奥深くで長い時と共に輝きを封じ込められた宝石さえも、ただの石ころの様に見劣ってしまうのはなぜだ。
 影の奥からタバサを見つめる瞳もまた相応に美しいのか。
 タバサはあらぬ妄想に囚われんとしていた自分の心を戒めるべく、瞼を瞬かせて魔法を行使するのに必要とされる精神力を、器に満と満たした水のイメージにして浮かべる。
 自分に扱える魔法にそれぞれ個別に消費量を定め、今は目一杯に在る水を、魔法を行使する度に減らして行き、冷静に自分の魔法行使の制限を見極める為のイメージ。
 タバサの曇りの無いガラス玉を嵌めこんだ様な瞳に戦意の焔が青く燃えて揺れていた。
 幻十の手に杖はない。通常、いやメイジと呼ばれる者達にとって魔法の行使の触媒となる杖は、必ず身に帯びていなければならない必須の道具だ。
 タバサが携えている大ぶりのものから服の袖に隠しておけるような小振りなものまで、大小、形状に捕らわれず幾種類もの杖が存在しているが、少なくとも幻十の両手は空であるとタバサは判断した。
 自分を殺す為の刺客であるならば、相応の実力者が選ばれる筈。ましてやこの男はガリア王ジョゼフを、呼び捨てにしていた。ジョゼフとの関わりもただの主従や傭兵、暗殺者などといったものとは異なるのだろう。

(メイジ殺し?)

 メイジ殺しとは、平民との絶対の壁である魔法を行使するメイジを、魔法を用いずに屠る技量の持ち主達の事だ。
 タバサはこれまで相対した経験はないが、風聞では正面から対峙する様な事はなく、暗殺・奇襲、また対峙する様な事があっても、相手の不意を突くような搦め手・奇手・暗器の類を用いて戦闘になる前に殺す者が多い。
 ならば目に見えぬ何かを武器とするらしい幻十もまた、メイジ殺しと呼ばれる者達の同類なのかもしれない。
 深い闇の底で裁縫されたような漆黒の衣を纏い、陽光の描いた影の中にその美貌を潜めた幻十は、淡く微笑を浮かべたままタバサの挙動を見守っていた。
 その瞳には油断と侮蔑と自分の優位を信じて疑わぬ者の傲慢が詰まっている。それも無理からぬことであったろう。今や幻十の指先がほんの一ミリ動くだけ、タバサの華奢な体を八つ裂き、両断、あるいは千以上のパーツにも切断できるのだから。
 幻十の瞳には、すでに四肢を両断され、首を落とされて血だまりの中でぼうと自分を見上げているタバサの生首さえ見えていた。
 だからだろう。せめて先手を譲ろうなどと言う<新宿>の住人らしからぬ提案をしたのは。

「始める前に言っておこう。ぼくは君を殺すなとは言われていない。この意味がわかるね?」
「……っ」
「では、君から来たまえ。先手はお譲りしよう」

 勝機があるならば初手と考え、どうやってそれを成すか苦慮していたタバサにとっては、これ以上ない提案であったろう。幻十の言葉が虚空に消えるよりも早く、タバサの前方の空間に幾本ものきらめきが槍の形になって現れる。
 この決闘場――いや、タバサにとっては処刑場――に入る前から悟られぬように口内で詠唱していた呪文を唱え終え、即座に発動した生への希望をつなぐ氷の殺意達。
 使い手の途絶えて久しい“虚無”の系統を含め、火・土・水・風の五系統の内、風と水を得意とするタバサが、戦闘においてもっとも多用する氷の槍“ウィンディ・アイシクル”であった。
 全て同じサイズで形成された氷の刃は、長さ六十サント(≒センチ)ほど。形状や大小に差が無いのは、それだけタバサの技量が優れている事を表していた。
 幻十の瞳にもかすかに感嘆の影が揺れた。彼が過ごした<新宿>ではありふれた光景の一つに過ぎないが、ここが<新宿>ではない事、またこれまで見て来たメイジ達と比較しても優れているタバサの技量を認めた為であろう。


 風切る音さえも冷たく氷の槍は無慈悲に幻十の胸を目掛けて疾走した。これ以上目の前の存在を許せば、自分の命のみならず魂さえ奪われると悟ったタバサの無意識の行為か。
 明確な殺意を意識してはいなかったはずなのに、いざ魔法を発動するとかつてないほど濃密な殺意が沸いたタバサの心を反映したのか。
 立ち尽くす木偶人形を貫くように容易く、タバサの不可視の殺意を乗せた氷槍は幻十の胸を、黒いシャツごと貫く筈であった。
 それが、指で触れればたちまち血の球を浮かべるほど鋭い切っ先を、布地にわずかに食い込ませた所で停止している。
 まるで自分が触れた相手の美しさを悟り、自らの存在意義を放棄したように。この人を傷付ける位なら、存在などしたくないと告げる様に氷の槍はぴたりと空中に縫い止められていた。
 “どうして”、当たり前の疑惑が胸に湧きおこるよりも早く、氷の槍の一つを手に取った幻十が、手の中の氷塊を弄びながらタバサを見つめる。

「見事、と褒めておこう。わずかな躊躇いもない殺意だ。でも、それではぼくを殺せない。残念だったね」

 つっと愛しい女の柔肌を愛撫する様に幻十の指が氷の槍の表面を撫でた。その指の、どこか淫らささえ感じられる動きに、タバサの体が中から疼いた。
 それは、決してタバサが認める事はないだろうが、幻十の指に触れられた氷の槍へと抱いた羨望と嫉妬であった。
 指と共に瞳を向けていた氷槍から再びタバサへと、見つめる者の魂を吸い込む、果ての無い虚無の様な瞳が、タバサの矮躯を射抜いた。
 ずくり、と磨き抜かれた鋼の刃で心臓を抉られる錯覚にタバサがかすかに震えた。そのまま死ねたらどんなに良かっただろう。これ以上の恐怖も絶望も感じずに済むのに。
 薄く、血の紅を刷いた幻十の唇の笑みが深くなった。口元を歪め吊り上がる唇の両端。
 その美貌で国を傾かせる美女が、凡百の女と映る美貌は、しかし、生まれたばかりの無垢な赤子も、人生を謳歌しきり枯れ果てた老人もはっきりと分かるほどに邪悪であった。
 美しいものを天使と呼ぶのならばまさしく天使の微笑。
 美しいものを悪魔と呼ぶのならばまさしく悪魔の微笑。
 浪蘭幻十――はたして天使か悪魔か。少なくとも、人間の微笑ではなかった。美しすぎるが故に。邪悪であり過ぎるが故に。
 ぴし、とかすかな音を立てて幻十の手の中の氷槍が真ん中から輪切りにされ、床に落ちて微塵に砕けた。それに続き、空中で停止していた残る氷槍も同じ運命をたどり、重力に従って床に堕ちるや無残に砕け散る。
 タバサは見た。床に落ちる寸前、氷の槍の切断された断面を。
 見つめるタバサの瞳を寸分の狂いもなく映し出したその断面は、磨き抜かれた鏡の様であった。猛獣の膂力を持った剣士が、世に二振りとない名刀を持って斬りつけたように一切の凹凸が見られない断面。
 この顔の見えぬ魔青年の武器が、なにか名状しがたいほどに鋭い刃の様なもの、加えて十数本にも及ぶ氷の槍を一度に切断する事も、同時複数攻撃が可能な事、加えて目には映らぬなにかであるという事。
 分かった事はそれだけ。そして、タバサの勝機がほぼ潰えたという動かし難い事実であった。ゆるゆると自分の影の中から絶望の手がいくつにも枝分かれして伸び、自分の心に絡み付くのを、タバサは感じていた。
 ひゅっと風を切る音が聞こえたのは、ひとえにタバサが風系統を得意とするメイジであったからだろう。
 何か、眼前の魔青年が仕掛けてくる。とっさに杖を盾にする位置に構え、身を強張らせるタバサの、その左の二の腕がすっと切り裂かれていた。

「え……?」

 切られた感触はなかった。それこそ風が肌を撫でる感触さえもなかった。なのに、今白いシャツをゆっくりと赤に染めながら、鮮血は吹き出している。鋭すぎる切断は痛みをかすかに伝えるのみ。

「余所見をする余裕があるのかい? しなくても同じだがね」

 憫笑とも取れる幻十の声がタバサの耳に届いた時、さらに鮮血と共に刻まれる一文字。縦に横に斜めに、一筋一筋、規則正しくタバサのか細い腕に、しなやかな太ももに、ほっそりとした首筋に、血が滲む。
 十を数える間もなくタバサの染み一つない、二つ名の様な肌に刻まれる悪意の証。流れ出る血と共に体力を消失しつつも、タバサは邪魔をしてくる痛みを捩じ伏せて魔法の詠唱を終えた。
 幻十の心臓めがけて突き出された杖の先に蟠った空気が、巨人の振るう鉄鎚の如く放たれる。


 “エア・ハンマー”。ほぼ視認不可の空気の鎚だ。風系統以外のメイジでは察知困難な魔法の一撃。
 乾坤一擲の意を込めた。エア・ハンマーは、しかし虚しく幻十の数メイル手前で縦に両断され、さらに微塵に裁断されてわずかなそよ風になって消えた。
 幻十が魔法を行使した気配はない。ならば、なにかのマジックアイテムを持っているのだろうか? いぶかしむタバサに、幻十が答えた。

「糸とりで、といっても君には分かるまい」

 それは幻十の周囲に張り巡らせた細さ千分の一ミクロンの魔糸が織りなす、不可視の斬撃結界、触れるもの全てを斬り裂かずにはおかぬ砦の名であった。
 かつて幻十の宿敵も、幻十と同じ妖糸を持って用いた防御の技である。もとより一メートルのコンクリートや、戦車の重装甲も薄紙の如く切り裂く魔糸に幻十の技が加わった時、風の塊さえも切り裂く尋常ならざる不可視の刃と変わる。

「ほら、足を斬るよ」
「っ!?」

 とたんに、左足の太ももに走る新たな痛み。すでに白いタイツをゆっくりと濡らす鮮血が新たに濡れ、力を失った左足はがくりと折れる。
 杖を頼りに体を支え、踏ん張ろうとするタバサを嘲笑う悪意の声が聞こえた。いかなる人間がこのような邪悪を体現した声を出せるというのか、タバサはその声を聞くたびに体の中から力が消えて行くのを感じ取っていた。

「次は右足」
「あ……っ」
「ようやく声を出したか。我慢強い子だ。その分、漏れ出た悲鳴は甘美だがね。次は左腕だよ」
「っ……くぅ」
「右腕、左首筋、右脇腹、背中、額、鼻筋、喉、右足首……」
「あ、あぅ……くっ……」

 幻十の声がタバサの体の部位を告げる度に、新たな傷と血飛沫とタバサの苦悶の声が零れ出る。幼い少女を苛む事に快楽を覚える者ならば、すでに幾度も絶頂に達するほどに酸にして鼻なる無残な光景が繰り広げられた。
 杖にすがる力さえ失い、タバサが自分の流した血溜まりを落とした。ぱしゃりと水音を立てて床を濡らしていた自分の血に右頬を打たせた。流れ出た血は冷たかった。
 まるで自分の心の様だと、心のどこかでぼんやりとタバサは思った。全身からの流血は、傷があまりにも鋭すぎるが故に僅かなものであったが、無数に刻まれた数が少ない出血量を上回っていた。
 うつ伏せになるように倒れ込んだせいで、シャツもスカートもタバサの青い髪も処女雪のような肌も赤く濡れてしまった。ひどく冷たい。体も心も。この冷たさに埋もれたまま自分は死ぬのだろうか?
 こつり、と碌に機能していない耳に音が聞こえた。こつり、こつり、と黒靴が自分の目の前で止まった。タバサはなんとか意識を繋ぎながら、せめて自分を殺す相手の眼を見ようと足掻いたが、すでに見上げる力さえ無いのか、かすかにみじろぐだけ。
 天上世界の住人が地を這う虫けらを蔑むように、幻十の声がタバサの死に瀕した体に降り注いだ。

「ジョゼフから聞いたよ。君は復讐者だと。父を殺され母の心を奪われ家を奪われ、名を偽り、命を死地に晒し、笑う事も忘れ、父母を手に掛けた叔父に傅く屈辱に耐えて復讐の牙を研ぐ知恵ある獣だとね」
「……」

 それがどうかしたか、劫火の如く燃え盛る怒りと共にタバサは吐き捨てた。無論、言葉になる事もなく朦朧としたタバサの意識の中で消えてしまう。

「復讐を果たせぬまま死にたくはあるまい? ぼくの靴を舐めるんだ。そうすれば命だけは助けてあげる。どうだい? 命を拾うにはあまりにも安い代償だろう?」
「……」

 すっと、タバサの口元に伸ばされる幻十の靴。タバサはかすかな逡巡を見せ、残った力でかすかに唇を開いた。淡い桃色の花の花弁を切り取ったような唇が震えながら開き、ま白い歯の並びの間から、赤い小さな舌が覗いた。
 震えながら伸ばされるタバサの首。わずか数センチ先に在る幻十の靴までが、途方もない長旅の様に思えた。
 タバサの唇が幻十の靴に触れる寸前、かすかにとがり、そこからぷっと血の混じった唾を吐いた。べちゃりと、靴の黒に赤が混じった。ふっと自分の口元が動くのをタバサは感じた。


 最後の足掻きに満足し笑んだタバサの体が、目に見えない何か――魔糸によって持ち上げられ、人形繰りに操られる壊れた人形のように宙に浮いた。
 百八十サント前後の幻十の目線に合わせる様に吊りあげられて、タバサの足がぷらんと三十サント近く浮かぶ。
 タバサの爪先やマントの端から赤い血の球がぽつ、ぽつ、と床に落ちて弾ける。両手を広げ、ゴルゴダの丘の上で磔刑に処された聖人の如く、タバサは束縛された。
 ひどく重たい瞼をかろうじて開き、タバサは幻十の顔を見ようとした。焦点を結ばぬ瞳は白霧の彼方の人の様に、幻十の姿を朧なものにしていた。

「いい眼だ。憎悪も、絶望も、恐怖も、何もかもが申し分ない。後は復讐を果たす運と実力があるかどうか、だね」
「……」

 すっと伸ばされた幻十の両腕が、優しくタバサの頬を挟んだ。傷つけてはならぬものを扱うような手つきであった。慰撫する様にタバサの頬を慈しみながら撫でる幻十の手。
 それに恍惚と蕩けるだけの力はすでにタバサになかった。沈めば二度と浮き上がってこれぬ闇に落ちようとするタバサの耳に、幻十の声が鮮明に聞こえた。

「受け取りたまえ。浪蘭幻十の祝福を。<新宿>の王になり損ねた男の祝福を」

 やがて、自分に近づいてきた幻十の唇が自分のそれに重ねられ、閉じる事も出来ずにいた歯をこじ開けて小さな蛇の様な肉片が侵入してきた時、タバサは自分の魂が鎖に縛られる音を聞いた。


 どっぷりと太陽が地平線の彼方に沈むころ、主人の遅い帰りを待つとある使い魔は、きゅい~、と大きな体に似合わぬ可愛らしい鳴き声を漏らしていた。
 眼にも鮮やかな青い鱗につぶらな瞳。人など比較にならぬ巨体は、しかし彼女の愁族からすればまだまだ子供に過ぎない。風を捕まえて雄々しく天に羽ばたく翼に、巨躯のバランスを保つ長い尻尾。
 風竜の幼生体、名をシルフィードと言う。風の妖精の名前を与えられたこの風竜こそがタバサの使い魔であった。トリステイン魔法学院で春に行われた使い魔召喚の儀式でタバサに呼び出された幻獣だ。

「きゅい~。……きゅい!? おねえっ」

 そのシルフィードがつぶらな瞳に求めていた主人の姿を認めるや、たちまち狼狽して泣き喚いた。と、タバサが杖を振るや小さな風の塊がシルフィードの顎をしたたかに打って言葉の続きを封じた。
 だが、シルフィードの驚きも無理はあるまい。夕日の紅に照らされるタバサの姿のなんたる無残さよ。
 シャツの生地にもはや白い個所を見つける事は出来ず、か細い両足を覆うタイツも赤に染まって歩くたびにぐじゅりと濡れた音を立てていそうだ。もとより白かったタバサの頬はより一層青白く変わり、まるで臨終の床に伏した病人の様だ。
 だがシルフィードの心配をよそに、しっかりとした足取りで自分の使い魔の所まで歩いてきたタバサは、有無を言わさずシルフィードの背に跨り、飛んで、と小さく命じた。

「きゅ、きゅい~~」
「飛びながら話す」
「きゅい……」

 あくまでもタバサの身を案じるシルフィードの心に、暖かいものを感じながら、タバサはそれでもこの場から飛び立つ事を己の使い魔に命じた。
 ふわり、とシルフィードの大きな体に似合わぬ軽やかな音と共に風竜の体が舞い上がり、宮殿の空へと飛びあがった。
 上空数百メイルに飛びあがり、余人の目も耳もない事を確かめるやシルフィードが口を開いた。

「お姉さまどうしたのね、その傷は!? 早く手当てしないと大変なのね!! お姉さまが死んじゃったら、シルフィードは困るのね。さびしくって死んでしまうのね!! きゅいきゅい!」
「血は止まっている。傷ももう塞がっているから大丈夫」
「きゅい!? だってそんなに血塗れなのね! それでどうして平気なんて言えるのね!!!」


 事実、幻十によって刻まれた傷はその一つ一つを幻十の指がなぞるや、何事もなかったようにピタリと塞がったばかりか、流血や痛みさえも消えたのだ。神業、魔技の領域にまで到達した幻十の技量と魔糸なればこその現象であった。
 シルフィードの青い背びれに身を預け、ぐったりと脱力したタバサへ向けて首を捻り、シルフィードが振りかえり、それでも納得しない様子でぺちゃくちゃと喋り続ける。
 時折、元は人語を解さなかった獣などが使い魔契約の儀式によってある程度の知性などを得て喋りはじめる例はある。だがシルフィードは契約以前から人語を解する高度な知能を持った幻獣であった。
 今は絶滅したとされる韻竜と呼ばれる極めて希少な古代種であった。その存在が明らかになれば、国の抱える研究機関にいらぬ介入を受けかねぬ存在であるが故に、タバサは普段、シルフィードに言葉を話すのを禁じている。
 ぴーちくぱーちくと喋り続けるシルフィードの声は、いささか今のタバサには耳障りだった。
 口うるさい妹の様なこの幼竜が、自分に対する好意から喋っているのは分かるが、多量の出血を強いられ、魂を奪われかねぬ魔性の美を前にした精神的な衝撃が、タバサの心をかつてないほど憔悴させていた。
 これほどまでに疲れ切ったのは、父の死を告げられた時、そして自分の代わりに母が毒を飲んで心を壊してしまった時以来だった。
 ぼんやりとシルフィードの声を聞き流しながら、タバサは別れ際に幻十の告げた言葉を思い出していた。

――ぼくはジョゼフの召喚した使い魔だ。ジョゼフは虚無の系統。虚無に対抗するには虚無。かつて無能王と呼ばれ、四系統の魔法を扱えなかったジョゼフが伝説の虚無だった。
 ブリミルとやらの血族、そして四系統の魔法を扱えぬ無能者。もし、きみに心当たりの人物がいるのなら、そして復讐を望むのなら、その者を利用する事だ――

 幻十の言葉を信じるならばジョゼフの使い魔たる彼が、なぜそうの様な事を告げるのかタバサには理解できなかったが、あの言葉が事実であるならば確かに自分の復讐にとって有益な情報であるのは確かだった。
 そして、四系統の魔法が使えず、メイジの始祖ブリミルの系譜に連なる者。その心当たりがタバサにはあった。そして、その使い魔も。
 本当に幻十の言う事が真実ならば自分は彼女さえも復讐を果たす為に利用するのだろうか?
 答えの出ぬ問いを胸の内に抱えたまま、タバサは日が沈み、世界を覆い始めた闇の帳を見つめながら自分の唇をなぞっていた。初めて男に触れられた唇を。何度も、何度も。ゆっくりと、その感触を忘れぬように。




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