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虚無の王-25-1


 空が立ち去った研究室は、薄暗いままだった。
 十年余に渡って堆積した探求心のなれの果てが、写本と用途不明な機材の姿で、腐臭と薬品臭とが混じり合う、得も言われぬ空気の底に沈んでいた。
 コルベールは自らの両手で、記憶の澱を丹念に掘り起こした。
 むっつりと沈黙する羊皮の表紙を選り分け、深々と黄ばみの食い込むフラスコと見つめ合い、遠い昔、どこかに失くしてしまった何かを捜していた。
 自分でも使い方を忘れた機械に、いつから在るのかも定かでは無い書物が、忽ち歪な小山を築いた。
 その様子は、フェニアのライブラリーによく似ていた。
 ピカピカに磨き上げられた学生用の図書館が貴婦人なら、教師のみ立ち入りを許された未整理の書庫は、差し詰めペチコートの下に隠された下痢腹だった。
 六千年の歴史が、人の手と探求とを拒んで発酵している場所だ。
 悪い意味合いでのチーズ臭は、煮ても焼いても食えない事を、何よりも雄弁に物語っている。
 そんな時間の肛門に、敢えて腕を突っ込んだのが空だった。異邦人の瞳は異様な光を放っていた。
 なるほど、この研究室はあそことよく似ていた。
 挽き臼に残された籾殻程にも意味の無い実験を繰り返している時、多分、自分はあんな目をしていたのだろう。
 溜め息を漏らした時、何かが軋んだ。果たしてそれが頭蓋の中と外の、どちらで鳴ったのか、コルベールにはよく分からなかった。
 壁から風が押し込み、黒いローブを研究室ごと飲み込んだ事についても、それは同じだった。


   * * *


 二つ月から、冷え冷えと冴えた雫が滴り落ちた。
 大気は月の位置により、その密度を変える。ヴェストリの広場を睥睨する空は、水の重さで立ち込め、少年少女の肩にずしりとのし掛かっていた。
 風が去ると、広場に動く物は残されていなかった。
 陰気に揺れていた魔法燈は、既に呼吸を止めていた。
 翻然と靡いていた紫と茶色のマントも、今は何もかもを諦め、力無く地面に垂れ下がっていた。
 冷たく沈黙する広場に、二つの花弁が舞った。
 青銅の脚が砂を蹴り、屹然と大地に根を張った。ウィールを備えたワルキューレが二体。長槍が強固な防壁を形作る。

「そこから降りて貰おう」

 ギーシュは震える肺の中から、重たい一歩を引きずり出した。
 父祖の教えと、家門の名誉が、その背中を押し、足取りを助け、男としての矜持を保たしめていた。

「何者も――――トリステインの王といえども、勇敢なる貴族に侮辱を加える事は許されない。異界の王とあっては尚更だ」

 造花の薔薇が、短剣の鋭さで突き出された。
 背後には、四本の革紐を備えたクルークと、指揮棒にも似た短杖とが控えていた。
 ただ一振り、彫金を帯びた十字の杖だけが、地に伏して、この世界の全てから耳を塞いでいた。
 夜は貴族達の体温を吸って肥え太っていた。
 生臭い夜風の向こうに、二つの十字が浮いた。
 四つの吐息が凍り付いた。瞳が人の心を映す窓なのだとしたら、トリステイン貴族を蹂躙する異界の王は、人間ですらなかった。
 瞳に浮かぶ十字の光は、何よりも雄弁に、その異質さを物語っている。
 長身が羽の軽さで浮いた。
 トリステインの風は、身をかわす事無く、その足下にひれ伏し、踏み躙られるままに身を任せた。
 人は宙を歩けない。そんな単純な事実をギーシュ達が思い出した時、空気が割れた。
 風が撓み、波紋が生まれた。
 土メイジのギーシュ、火メイジのキュルケにすら、その様が見えた。
 刹那、濃密な空気の渦が、空の姿を飲み込み、四人の眼前から消し去った。
 タバサだけが、その動きを追う事が出来た。
 “無限の風〈インフィニティ・エアード〉”。トリステインの空が風の王に献じた“道”を、風メイジの知覚は正確に捉えていた。道が見えるなら行く先も分かる。
 崩れ落ちた火の塔が、天を仰いで光を吐いていた。
 誰が灯したとも知れない、小さな魔法燈の群が、主人亡き後も、忠実にその勉めを果たしていた。
 瓦礫の狭間に、影が浮いた。
 胸筋と両の腕が、白鳥の強靭さで開かれた。大きな掌が“空”を掴み上げ、無造作に引きちぎる。
 人を象る化鳥が羽撃きを打った時、後輪のスカルマークは膨大な空気を一呑みに飲み込んでいた。
 “玉璽〈レガリア〉”が目覚めた。
 ウィールが解け、四対のブレードへと姿を変えた。鋭い羽根は“空”と混じり合い、風に姿を変えて、どこまでも伸びて行った。
 やがて生まれた目に見えない翼は、その巨大な圧力をもって大地を打った。
 三人に許されたのは、タバサに遅れること二秒で振り向く事だけだった。
 何が起きているのか分からなかった。何を見ているのかさえも分からなかった。その精神は、意識を保ったまま機能を止めていた。
 大地から高々とせり上がる突風は、津波の密度を持っていた。
 風の一撃は大地を捲り返し、僅かに残された石像を砕き、建物の残骸を引き剥がして怒濤にくべた。
 石材の重みと、木材の槍を含んだ奔流が300㎞/hで押し寄せ、身動きも適わぬ犠牲者を忽ちに飲み込んだ。
 人影が独楽の勢いで舞った。群蜂と化した石片がワルキューレ、青銅の戦乙女をズタズタに引き裂いた。
 崩れた塔の表面に砕けたゴーレムは、怒りと復讐心とに取り憑かれて、石壁に突き立った。
 怒り狂う風の神が、その翼の下に展開させた不死の軍団。
 “翼の道〈ウィング・ロード〉”の“無限の空〈インフィニティ・アトモスフィア〉”。名もなき狂躁の格闘士ども〈Moon Struck Numberless Grappler〉。
 80m/secの永続的な加速を持つ凶器の噴霧は、広場を、本塔の残骸を、瞬く間に削り飛ばした。

 主人が宙空にその座を定めた時にも、不可視の龍は獲物を求めて広場を暴れ狂っていた。
 吹き荒ぶ砂塵の中、四人は頭を地面に押しつけ、その牙から身をかわしていた。
 自発的に身を伏せたのは、タバサ一人だ。残る三人は、節くれ立った杖の一振りで、纏めて地面に叩き付けられていた。
 柔らかい頬に痣を作り、肩を痛め、危うく舌を噛み切りかけたが、抗議の声は無かった。
 何しろ、危機は去っていない。あちらこちらを飛び交うマントからは、傷だらけの手足が伸びていた。
 鋭い石片が、ギーシュの肩を打った。肩胛骨にまで痛みが突き抜けた時、体の下に、風が潜り込んだ。
 上下が逆転した。
 木材の一片が臀部を抉り、細っこい少年の体を、六mの高さから側溝へ叩き込んだ。
 逆さまの視界に、火花が散った。背筋に走る激痛が、ギーシュの呼吸を力任せに引きちぎった。
 腰には、怒り狂うオオスズメ蜂の大群が巣喰っていた。腰椎がずれ、ゼリー状の髄核が神経を押し潰す。
 無意識の内に振るう手に、杖は無かった。

「話にならへん」

 風は再び大地に身を伏せようとしていた。
 固い音が続いた。捲れ返った敷石の上に、長短の杖が小さく踊った。
 生無き死神が荒れ狂う中、支配者たる風の王は唯一自由な存在だった。無力なメイジから、杖を奪い去るなど造作も無い。
 造花の薔薇は、力無く項垂れていた。指揮棒は軽快に敷石を蹴った。革紐を帯びたクルークの動きは、どこか鈍い。
 最後に、十字型が乾いた音を立てた時、異変が生じた。
 三つの炎が空を睨み据えた。
 見えない打撃の到達は、何よりも速かった。
 全身に刃を備えた戦乙女が、愛憎交々、抱きかかる。
 掌に固着する風が、エアハンマーを、火球を弾いた。背から抜き放たれた一刀が、背後の火炎を斬り散らす。鋼の蹴足が、ワルキューレを二つに引き裂く。
 帽子の下から、十字の眼光が炯々、広場を睨め付けた。
 杖を持たずに魔法を使えるメイジは存在しない。この場には、他に誰も居ない。
 四人の貴族は、例外無く杖を手にしていた。但し、ルイズ、タバサのそれは従来の物ではなく、一般的な指揮棒型だ。

「言った筈だ。これは決闘ではない」

 治癒の魔法を駆使しながら、ギーシュは敢然と立ち上がった。
 杖は貴族の誇りであり、同時に命綱だ。人生を左右する様な教訓は、一度も有ればそれでいい。
 タバサにキュルケは、一本きりの杖に命を委ねられる程、安穏とした人生を送ってはいない。
 照準にも似た目が、最後の一人を捉えた。
 顔を涙でベタベタにしたヴァリエールの三女は、それでも王権と貴族の危機を前に、震える膝で矜持を支え、震える手で、空と出会う前から振るっていた杖を構えていた。

「教えた通り、バックアップの杖持っとったか。偉いやん」

 不意に、空は笑顔を浮かべた。昨日まで――――いや、夕刻まで頻りに見せた笑みだった。
 その眩しさが、ルイズの目を潰し、膝を砕いた。

「あんたって奴はっ!」

 微熱が灼熱の劫火に変わって燃え上がった時、タバサもまた、風となって躍り出た。
 キュルケの唱える呪文が、為すべき事を教えてくれた。
 仲間が上位の魔法を行使するなら、自分は手数と速度で相手を抑える。
 短い吐息が、爆発に変わった。エアハンマーの一撃と、“空”の壁が弾け、千々に分かれて砂塵と共に広場を駆け巡った。
 そのままの速度で、タバサは飛び込んだ。
 空の指に粘度を帯びて絡みつく風が、はっきりと見えた。
 魔法さえ弾く風の壁だ。自分の軽量など物ともしないだろう。
 だが、片腕なりとも引きつけられれば、それでいい。
 “風の玉璽”がタバサを睨んだ。
 気付いた時、視界がくるりと回っていた。肉付きの薄い上体が逆さまを向き、腰を引きずり、両脚を天に向けて振り回した。
 水平に飛来した竜巻が、風メイジを飲み込んでいた。
 タバサは咄嗟に風を掴み、流れに身を任せた。さもなくば、気圧の殴打でバラバラにされただろう。
 砂塵が鑢となって体を掠めた。視界の側転に併せて、内耳が胃を揺すったが、風竜の飛行と、エアトレックに慣れたタバサには、まだ余裕が有った。
 このまま転落すれば、受け身も取れずに、あの世行きだろう。レビテーションで脱出を図る。

「!――――」

 龍の食道に、信じられない物が見えたのは、その時だ。
 デルフリンガー。長さ一五○サントの薄刃が、風車と化けて迫って来る。
 平面積が広く、なにより人間などより遙かに軽い長剣だ。追いつかれるまで僅か一瞬。何をする間も無い。
 黒いドレスが、花弁と舞った。
 錆びた刃が全身に絡み付き、少女の柔肌を無惨に陵辱した。
 鮮血を帯びた回転翼が、塔の残骸を抉った。
 ぶ厚い石材は、乾涸らびたチーズほどの硬さも持ち合わせてはいなかった。

「畜生!相棒の奴め!なんて酷ぇ事しやがる!」

 退屈屋のインテリジェンスソードは、自分が刃物である事を忘れていた。
 少なくとも、持ち主よりも人間らしい、と言う意味で、彼の思考は人間の物だった。

「大丈夫か!嬢ちゃん!」

 遙か後方。
 力無く風に巻かれる少女に、命を持つ剣は声を張り上げる。
 その時、地上に篝火が生まれていた。
 術者の精神力を吸い上げて、みるみる肥大化する火球は、その大きさに合わせて、杖先からゆっくりと距離を取った。
 膨張する空気を孕んで、ドレスの裾が羽ばたいた。
 メロン大のサイズで産み落とされた炎は、既に一抱えほどにも成長していた。
 熱波が地面に落ちて波紋を生んだが、それでも激情にかられた火メイジの怒りを飲み干すには足りなかった。
 土の中で、泡が弾けた。
 大地の波紋は復層の熱い襞に変わっていた。火球は溶ろけた地面を泳ぐ様にして、なおも前進と膨張とを続けていた。
 その巨大は、既に術者の身の丈に倍するまでになっている。
 火×火×火。術者の怒りが、そこにもう一つの力を加えていた。
 火の四乗スクウェア・スペル。その名もずばり“焼き尽くす”。
 激情と喜悦とが、紅い唇の上で混じり合った。
 岩をも溶かす数千℃。人間など跡形も残らない。
 嘗て自分の微熱を煽り立てたのは、あの男が腹の底に溜め込む、濃密な闇だった。
 空の肉体を引き裂き、黒々とした腹の内を引きずり出す瞬間に、キュルケは言いしれぬ官能を覚えていた。
 杖先が空を射抜いた。
 扇情的なドレスがはためいたのは、同時だった。
 大地は煮え立ち、蒸気の帯を吐き出していた。
 飛び散った熱塊が、あちらこちらで炎の花を開いていた。
 赤い瞳の中で、時が止まった。
 激情の全てを注いだ炎が消え去った時、炎メイジの感情は完全に麻痺していた。
 蒸気の向こうに、十字の双眸が覗く。
 スクウェア・スペル。“火”の四乗は一人のメイジが到達し得る、最強最高の殺傷力だ。それが、いとも容易く吹き消された。
 異界の王は、自分の築き上げて来た過去も、目指すべき未来も、たった一陣の風を以て否定して見せた。
 凍り付いた鼓膜を、悲痛な鳴き声が叩いた。
 背後から風が重くのし掛かった。そこに風竜の姿を目にした時、キュルケは今度こそ愕然とした。

「まさか……」

 身動き適わぬ主人を救う為、敢然、竜巻にその首を差し込んだ竜は、翼の付け根を撃ち抜かれ、大地に崩れ落ちようとしていた。

「……さっきの風は……」

 私の炎ではなく――――事実を悟った時、数tの衝撃が、キュルケの頭に降りかかった。

 シルフィードの巨躯が、無造作に大地を叩いた。
 翼の下から土砂が舞い上がり、砂塵の波が広場に倒れ伏した。
 砂煙の向こうから届く苦鳴は、赤子の悲痛と無力感を帯びていた。翼をもがれた風竜は、破れた鱗と筋骨の間から、幼体の本性を晒していた。
 空気が立て続けに弾け、あちらこちらで茫洋と浮かぶ赤光から、焼けた砂の臭いを運んで来た。
 風の悪戯から帽子を取り返すと、空は風竜の鳴き声を睨み据えた。

「やはりな」

 車輪が天を差して回った。
 高速型ワルキューレは翼下を滑り抜けて横転。主人を石壁目掛けて放り出していた。
 魔女の一撃から回復を見た少年は、再び腰を抉られたが、それでも本望だっただろう。
 少なくとも、腕の中に庇った少女は無事だった。
 その向かいでは、巨大な火トカゲが、同じく巨大な乳房を口にぶら提げていた。

「ああ……ありがとう、フレイム」

 情熱的な友人と対照的に、タバサは無言だった。小さな体の至る所に走る金創から、血の気が漏れていた。
 眼鏡の片側からは、レンズが失われていた。
 残る一方には蜘蛛の巣様に罅が走っていた。
 目に飛び込む十体の忠実な使い魔は、どれもが悲痛な姿を晒していた。
 掌の中で金属のフレームが潰れた時、翡翠の瞳の中で炎が弾けた。
 大気の層がずれた。
 内懐から水分を引きずり出されて、学院中の風と言う風が神経質な軋みを上げていた。
 蒸気が渦を巻き、黒いパーティドレスがはためいた。
 その後背には、巨大な氷塊が浮いていた。
 水晶の竜は、その姿にも似た澄んだ唸りを上げて、空気を吐き出していた。
 白濁を生む気泡がことごとく失せた時、どこまでも透き通る氷の鱗は鋼鉄の堅固を備えていた。

「……無茶しよるわ」

 風の王だけではなかった。辺りから湿度が完全に失われた事を、全員が悟った。
 空気が肌の水分を急激に吸い上げ、小さな傷がぱくりと口を開けた。
 ぼやける空めがけて、タバサは杖を振り下ろした。
 氷竜が駆けた。
 風メイジの操る二尾の竜は、大気の抵抗を受けない。風の隙間に滑り込み、最速で目標へと殺到した。
 空気が割れ、鼓膜に突き刺さった。
 氷竜は“空”にその頭を突き立て、動きを止めていた。数十tの運動エネルギーが水晶の体に幾筋もの罅を入れ、その体を断ち割っていた。
 氷竜が粉々に砕けた。
 時を同じくして、黒いパーティドレスのスカートが、その根本まで引き裂かれた。
 “風の玉璽”がゆっくりと持ち上げられた時、“牙の玉璽”が大地を蹴った。
 義足の踵でウィールが幾重にも剥がれ、四つの翼を形取った。生み出された風は、氷塊の一つ一つを包み込み、扇状に押し出した。
 閃光が生まれた。
 単分子の鋭利を持つ水晶片が、弾丸の加速を得て、奔湍、“空”を引き裂いた。
 黒いドレスに染みが浮いた。
 人体など容易く貫通し、鉄塊さえ削る死の雨を、タバサは正面から突き抜けた。
 その白い肌に刻まれたのは、せいぜいが浅い発赤と、僅かな火脹れだけだ。
 時速100リーグ超の速度で駆ける少女の後には、キュルケが控えている。
 怒りに燃える火のメイジは、それでも、その時々で自身が為すべき事を、よく理解していた。
 牙のウィールが、地面を削いだ。
 柔らかい頬の中で、奥歯が固く噛み締められた時、引き裂かれたスカートの隙間から、白い脚が刃物の鋭さで抜き放たれた。
 “玉璽”が吼えた。
 熱として放散されるべき制動エネルギーの全てが、不可視の“牙”に変わる。その効率は、限りなく100に近い。
 弧月の衝撃が砂塵を弾き、瓦礫を両断した。その俊速鋭利は、いかなる風をも凌いでいる。

 空の姿が失われた。
 タバサの杖に生まれたブレイドも、逆関節の膝を備える立体展開型ワルキューレも、“牙”に続く追撃の火球も、そのことごとくが標的を見失った。
 “牙”はいかなる風よりも速く、鋭い。それ故に、気圧差を路面と変える“翼の道”にとっては、格好の道だった。
 衝撃波の月輪が、風の王を瞬く間も無く、後背へと運んでいた。
 鋼の踵が、腰椎の間に割り入った。哀れな火トカゲの悲鳴は、誰の耳にも届かなかった。
 同時に落ちた風の種が、横殴りの暴風と化して四人の体を弾き飛ばしていた。礫が飛び交い、しなやかな体のあちらこちらに、激痛を植え付けた。
 闇が落ちた。
 二つの月を覆う雲は、どす黒く濁っていた。
 体が鉛の重さで、大地に沈み込んだ。
 ギーシュの体は主人への服従を拒絶した。命令に倍する強さで、激痛と無力感とが返って来た。
 砂と血にまみれた唇は、呪文の代わりに喘鳴だけを吐き出していた。
 粘り気を帯びて淀む思考の中で、ギーシュは必死に治癒の呪文を捜していた。
 元来が土メイジだ。水魔法は得手としない。若い体を通じて、一生涯の未来に刻みつけられた痛手をぬぐい去る方法は、記憶のどこにも転がっていなかった。
 首にはまるで力が入らなかった。頭が持ち上がらない。体が持ち上がらない。
 月が消えた。目を閉じると、体の重みが暗闇の中に溶け落ちた。
 ひんやりとした土の感触が、あちこちにこびり付く焼灼感を攫って行った。
 意識と体が形を失って祖国の大地に消えた時、最後の一息が天に吸い込まれた。

「ギーシュっ!」

 その一声が、少年の胸を蹴り付けた。
 ひっくり返った心臓が、焼き潰れんばかりに、血液と酸素の塊を体中に押し出した。
 指先で、耳たぶで、目で、炎と痺れが混じり合い、頭蓋の中で、細い血管が数本、危うく破れかけた。
 空が居る。
 火トカゲの赤い皮膚を鋼の脚が踏み破り、瞳の中では十字の印が冷たい光を帯びている。
 二つの背中が見える。杖を手にして風の王と対峙するのは、マリコルヌとレイナールだ。

「ギーシュっ!よかったっ!ギーシュっ!」

 すぐ背中で、モンモランシーによく似た声が泣いていた。
 ずれた脊椎も、全身の打撲も、ギーシュの邪魔をする事はしなかった。
 手には杖が有って、まだ数体のワルキューレを生み出せるだけの精神力は残っていた。

「ありがとう。もう大丈夫だ」

 ギーシュはその言葉を、行動で示して見せた。
 キュルケと、タバサ。褐色と処女雪の肌にまとわりつくドレスの残骸は、目に毒だったが、その仕草は気力に満ちていた。
 水メイジの力とは、全く大した物だ。
 ただ一人、ルイズだけは目に力が無かった。両膝に肩を預け、深い深い大地の底に、昨日までの思い出を捜していた。

「何が起きているの?」
「見ての通りだ」
「あいつは何者?」

 数多の貴族が、糸の切れた人形の無造作で、あちらこちらに転がっていた。
 土煙の向こうに光が浮いた。
 十字の双眸。それは、人間が決して持っている筈の無い光だった。

「風の王。この世界の敵だ」

 この光景を前に、その単純な事実に気付く事が出来ない貴族は、一人も居なかった。
 意志力により世の理を曲げる系統魔法。二桁に登る杖先の、一つ一つに籠められた貴族達の精神が、異界の王に破滅を迫っていた。
 ギーシュはぐるりを見回した。事態を察して、救援に駆けつけた仲間が10人。誰もが、今夜に合わせて着飾っていたが、瞳に宿る力が、華美なドレスを戎衣に変えていた。
 モンモランシーと目線が絡んだ時、二人は頷き合う間も無く、踏み出していた。歩足が揃い、杖先が並列で空を睨み据えた。

「岩をも砕く乙女の激流!受けてみなさい!」

 広場の中央を占めていた筈の噴水は、どこにも見当たらなかった。
 ただ、沁み出した地下水と、グズグズの泥土だけが、その痕跡を留めていた。
 大地が爆ぜた。
 汚泥に飲み込まれたまま、鬱々と蒼い息を繰り返していた水は、メイジの呼びかけに目を醒ました。
 大地をはね除けた数百㎏の水が、竜尾と化して“空”を螺旋に斬り裂いた。
 岩塊が立て続けに弾けた。
 数トンの圧力に無限の貫通力を与えているのは、土メイジの操る練金の魔法だ。
 超高圧の水流と、微小の金属粉が合わさる時、あらゆる物質を切断するウォーターメスを生む。
 “風の玉璽”が竜の鱗を捉えた。
 正確には、鱗の表面に伸びる気圧差を捉えて駆けた。
 風と水とでは密度が違う。持続的な圧力が加わり続ける限りにおいて、大気の壁で防ぎ止められる訳が無い。
 水流が一つ身をくねらせる度に、小石が弾け飛んだ。金属粒子の顎が、“無限の空”をみるみる食い破った。
 夜の半ばが切り取られた時、黒衣が翻った。
 素脚が白刃の白さで抜き放たれた。“牙の玉璽”が生み出す衝撃波は“空”を裂き、風を捉える檻の格子だ。
 超音速の斬撃は正確に、空が駆ける“無限の風”を断ち割った。
 金属の脚が“牙”に吸い付いた。ハルケギニアの空を、貴族の少年達が取り戻した時、それが風の王に許された唯一の道だった。
 しかし、忠実なる使い魔を蹂躙された風メイジに、逃走を許す慈悲は無い。
 黒いスカートが羽根となって舞い上がり、“牙の玉璽”が天を衝く。
 “空”が十字に裂けた。二つの“牙”が交錯し、照準の一点を撃ち貫いた。
 衝撃波と高密度の風とがぶつかり合い、天が落ちた。
 千々に引き裂かれた“空”が、刃の鋭さで降り注ぎ、少年達の鼓膜を刺し貫いた。
 風の王は両の翼を広げて、更にその上まで舞っていた。
 足下が真っ赤な光に包まれたのは、その刹那だ。
 キュルケは風を読む術を持たない。空の動きを追う事も出来ない。
 だが、その魔法は熱源を追って獲物をどこまでも追い詰めた。
 波打つ赤毛の周囲で、ルビーが踊っている。次々と生まれる炎は、次々と赤い光線へと姿を変え、屈折を経て天へ吸い込まれて行く。
 レイナールを始めとする火メイジ達の火球が追随する。
 光線が、火球が折り重なる様にして宙の一点を目指す。みるみる遠離る炎熱は、一行に小さくならない。それ所か、みるみる肥大する。
 マリコルヌ達風メイジの仕業だ。頭上の“空”は、濃密な酸素の海へとその姿を変えていた。
 炎は風を吸って膨張した。風は炎の高熱で膨張した。
 “空”が圧力の限界を超えて弾けるには、数秒で足りた。
 目の奥で、真っ赤な光が爆ぜた。
 耳から飛び込んだ轟音が、心臓を殴りつけ、脳の機能を瞬間的に麻痺させた。
 閃光は雲を裂き、地平線まで飛んで行った。
 トリステインの貴族として生まれた事を、ギーシュは改めて誇った。
 これが魔法の力だ。貴族の力だ。
 他国から発展の遅れを論われ、嘲笑を浴びながら、始祖ブリミルの血統を引き継ぐ王国は、頑なに伝統を固守して来た。
 経済に劣り、兵数に劣るとは言え、魔法戦力の絶対数は、大国ガリアさえ凌駕した。
 それが、猫の額ほどの国土に身を縮める小国が、紛争の巣窟ハルケギニアで独立を守り通して来る事が出来た所以だった。
 例えば、あの恐るべきエルフの様に、或いは異界からやって来た王の様に、単体で超越的な力を持つ脅威に対抗する手段であり続けるのが、トリステインの役割ではないか。
 ギーシュはふ、と考えた。
 魔法戦力でトリステインに勝る国は無い。
 局地的な破壊能力で、トリステインに勝る国家は存在しない。

「なら――――」

 淀んだ声を、風が攫った。

「どうやって、倒せばいいんだっ……こんな化け物をっ」

 眼前に空が居る。
 逞しい腕が、二つの月を引きずり降ろす。
 長い脚が鞭としなり、“風の玉璽”が複雑な印を描いた時、“空”を産み落とす雫が、大地で弾けて渦を巻く。
 果たして何度目だろう。
 視界が暗転した。
 耳の中では細切れの衝撃が踊っていた。
 痛みは感じなかった。再び意識が繋がった時には、自分の手足がどこに有るのか分からなかった。
 平衡覚はとっくに失われていた。烈風が体温を根刮ぎ奪い去り、四肢の感覚を麻痺させていた。
 紫色の唇の上で、血と唾液が凍り付いていた。
 視野の片隅を誰かが飛んで行った。最初から倒れていた貴族かも知れなかったし、後から駆けつけた仲間かも知れなかった。
 どの道、その判別をつける事は、あまり意味が無さそうだった。
 黒い塊が動いた。地に伏せたタバサは、それでも杖を手放してはいなかった。
 その近くでは、赤毛が炎の様に揺れていた。
 それは絶望的な光景だった。
 系統魔法は意志の力によって世の理を曲げる。激烈な感情のうねりは、しばしば貴族に実力以上の能力を発揮させる。
 故に貴族は詩文技芸により感情を磨き、かつ、その情動を制御する理性と知性を重んじる。
 二人はトライアングルメイジだ。そして、異世界からの侵略者を前に、貴族の範とも言うべき力を発揮した。
 岩を融かし、学院中の大気を操るその力は、明らかにスクウェア――――始祖が一人の貴族に許した、究極の域に達している。
 その力が、まるで手品の如くあしらわれた。
 ならば、結論は一つだ。四大系統魔法では、この男は決して倒せない。
 薄く開けた目の中で、ギーシュは残された意志力の一切をもって、眼球を動かした。
 月の動きにも遅れて動く視界は、何人かの仲間を捉えた筈だった。それが誰かも、何人かも、分からなかったし、分かっても無駄だった。
 立てる者など、最早一人も居なかった。
 ギーシュはたった一人を捜していた。それは、たった一つの可能性だった。
 純白の薄布が、粉雪の軽さで舞った。青ざめた肌は、白く透き通っていた。
 数多の貴族が勇敢に戦い、ついには倒れる中、とうとう呪文の一つさえ唱える事が無かった一六歳の少女は、誰よりも深刻な打撃を受け、打ち拉がれていた。
 その心は、意識が体を手放すずっと前から、機能を失っていた。無慈悲な風が、呼吸する人形を、右に左に運んでいた。
 彼女だけは助ける。無事、この場を脱出させる。
 それは、一人の貴族が自身に課した、最期の使命だった。
 四大系統が通用しない今、希望は一つだけだ。彼女の中に眠ると言う伝説の系統だけだ。
 ギーシュは過去の過ちを悔いずにはいられなかった。
 この場からたった一人の乙女を連れ去る、最良の手段を彼は手にしている。問題は、それを空が知悉している事だった。
 モット伯邸に乱入した空と平民達。助けるべきではなかった。
 無惨に引き裂かれた“空”と、欠けることの無い暗黒が、眼の中で入り交じった。忠実なる使い魔ヴェルダンデが足下で合図を待っている。
 後はタイミングだ。しかし、あの男がそんな機会をくれる物だろうか。
 ギーシュは目を戻した。恐るべき風の王から、ほんの数秒間でも強奪出来る人間は、この場に二人しか知らなかった。
 タバサは己が意のままになる一点をもって、空と対していた。
 翡翠の瞳は短剣の鋭さを帯びていたが、いかな意志力により奇跡を生む貴族といえども、視線一つを以て相手を殺傷し得る道理は無かった。
 キュルケはどうだ。
 目を巡らせようとした時、首から背中にかけての筋肉が割れた。声にならない悲鳴を上げた時、目の前に赤い何かが見えた。
 柔らかく弾力の有る物体が正面からぶち辺り、炎の熱を以てギーシュの呼吸を塞ぎ止めた。
 激痛が、鈍った意識に喝を入れた。それが幸運かどうかは分からない。
 万全の判断力が連れて来たのは、ただ絶望だけだった。
 凍て付く様な手に仄かな暖かみを覚えながら、口元を塞ぐ何かを押し退けた。
 それは褐色を帯びた、豊かな母性だった。
 呼吸は相変わらず自由にならなかった。
 吹き荒ぶ風は、水の冷たさと密度を持っていた。
 赤毛が塞ぐ耳元で叫んだ声は、自分にも半分聞こえなかったが、ゲルマニアの少女が振り向かないのは、多分、そのせいではなかった。


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