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#navi(風の使い魔)
その日、彼女は寝不足だった。特別心掛けていたわけではないが、常日頃から規則正しい生活を送り、
これまで寝不足など滅多に無かっただけに、軽く衝撃だった。
寝惚け眼を擦り、足元に転がる物体を見やる。寝床が固い床だというのに、お構いなしに爆睡中。まったく、
これが我が使い魔だと思うと、朝から暗澹とした気持ちになるというもの。それもこれも、事は昨夜に遡る。
風の使い魔 第一章 「輝きは君の中に」1-2
昨晩、タバサはランプの明かりを頼りに読書をしていた。そこへアンロックで鍵を外して入ってきたのは、
やはりというかキュルケだった。入るなり、早口に何事かまくし立てていたが、サイレントの魔法を施して読書していたことを知ると、
途端にニヤニヤと思わせ振りな態度。あからさまに聞いて欲しそうだったが、特に興味も無かったので読書を続けた。
数分後、そろそろかとタバサは顔を上げ、時計を一瞥する。
「そろそろ就寝時間」
まだ風助は帰ってきていなかったが、タバサは既にパジャマに着替えており、いつでも寝る準備はできていた。
「そんなの誰も守ってないわよ。それよりもぉ……さっき中庭で何があったか知りたくない? 貴女が知りたいって言うなら教えてあげるけど?」
やたら焦らすくせに、どうしても聞いて欲しいらしい。仕方ないので聞こうかと思った時、
「まったく、あんたは! 何であんなところで居眠りなんかしてたのよっ! 悪いことした使い魔には、お仕置きが必要だわ!」
「仕方ねーだろ、あんまり眠気を誘われたもんだから……って元はといえば、お前が部屋から追いだしたんじゃねーか!」
「だからって中庭なんかで野宿しなくていいでしょ、恥ずかしい! あんたって頭の中まで犬なのね!」
「だから野宿じゃねぇっての! あいつと話してたら、そのうち眠くなって……」
キュルケの開け放したドアの外を、ルイズとそれに引き摺られる使い魔が通り過ぎた。しかも、寮中に聞こえるくらいの大声で口論しながら。
会話の端々から、どうやら使い魔の少年と風助が、一緒に中庭の木で居眠りしていたとのこと。
タバサは、キュルケの話題の察しが付いた。大方、揃って居眠りしていた二人が何か変なことでもしたのだろう、と。
キュルケはそんなことで人をからかうタイプでもないから、ルイズも交えた、よほど面白いアクシデントでもあったのか、と予想した。
「……大体分かった」
と言って再び顔を本に落とす。タバサにとって、風助は大食らいで足が異常に速い以外はただの少年であり、
関心もあまり湧かないのが正直なところだった。当然、キュルケの話題にも。
「あ、ちょっとタバサ。違うのよ、実はね……」
タバサの反応から思考を予想したのか、焦らすのを止めたキュルケは詰め寄って顔を近付けるが、
「よー、わりぃ。遅くなっちまった」
ルイズ達の後をとことこと付いてきた風助によって、会話は中断された。
「別に」とタバサも返す。ちょうど寝る時間といったところだ。
本を閉じたタバサが立ち上がると、キュルケも立つ。キュルケは、やや不満げに、もう、と息をついた。
話のオチを話せなかったのは残念だが、本人も帰ってきたことだし、聞く気があれば聞くだろう。
「じゃ、そろそろ帰るわ。おやすみなさい、タバサ」
「おやすみ」
タバサに手を振ったキュルケは、扉を閉める直前、思い出したように風助を振り返った。
「それと、フースケ……って言ったかしら? さっきの演奏、良かったわよ。いいもの聞かせてもらったわ」
「おー、じゃあな」
平民、しかも出会ったばかりだというのに、キュルケの態度はそれを感じさせない。応じる風助も、
もう友達にでもなったかのように気安く手を振る。
置いてけぼりをくらったタバサはそれを不思議そうに見ていたが、きっと二人とも天性の性格なのだろうと自己完結した。
"演奏"という単語だけは、わずかに引っかかったが。
キュルケが去り、静まり返った部屋で、最初に口を開いたのは風助。室内をきょろきょろと見回しながら訊ねる。
「なぁ、俺はどこで寝りゃいいんだ?」
ベッドに腰かけたタバサが、無言で枕を叩く。寝床の問題は忘れていたわけではないが、夜も遅い。
明日、簡易ベッドでも用意すれば十分だろうと考えていた。
かといって床で寝させるのも気が引けた。使い魔の管理もメイジの条件の内。風邪でも引かれては困る。
「けど、二人じゃせめぇなぁ。俺は別に床でもいいぞ。慣れてるしな」
風助は裸足になると、勝手に床に寝転んだ。実際シングルのベッドは、小柄の二人とはいえ狭い。
タバサとしてはどちらでもよかったので、毛布を手渡した。
「ありがとな」
ただそれだけの意味しかなかったのだが、礼を言われると、どこかくすぐったいような気持ちになった。
風助に背を向けて、タバサはベッドに横たわる。間近には圧迫感を感じさせる壁。
でも、風助の顔を見ながらでは寝辛い気がした。
これまでここは自分だけの部屋だった。来客といえばキュルケぐらいのもの。声も音もない。自分だけが存在する静謐な空間。
そこに降って湧いたように現れた異分子に、もしかすると戸惑っているのかもしれない。
そんなことを考えながらも眠気には勝てず、タバサの意識は緩やかに落ちていった。
それからどれくらいの時間が経っただろう。タバサの意識は、耳をつんざく轟音により一瞬で覚醒を促された。
絶えず聞こえる音は、一定のリズムで響く唸り声。
彼女の行動は素早かった。枕元に立て掛けた杖を取り、ベッドの上で中腰になって構え、音の正体を見極めんと、
闇に眼を凝らしつつ暗視の術を唱える。
一瞬で暗闇に目が慣れる。室内に動くものはなく、他の音も混じらない。物々しい足音も、白刃の閃きも。
ただ、部屋の中央の床に転がる物体が一つ。そこに居るのは、規則正しく胸を上下させる使い魔の少年だけ。
間抜けに開けられた口から、強烈な"いびき"が発されている。
つまり、これが轟音の正体。タバサは拍子抜けして、ベッドに座り込んだ。なんてくだらない、つまらない、自分らしくないミスなのだろう。
思えば、召喚した時からそうだったのだから、予想して然るべきだった。どうも召喚して以来、彼にはテンポを狂わされている気がしてならない。
杖を振ってサイレントの魔法を掛ける。安眠を妨害されないよう、朝まで解けないように。
ピタリと音が止んだ。そう、最初からこうしておけばよかったのだ。ようやく取り戻した静寂に、ほっと一息吐くと、タバサは再びベッドに入る。
気を張り詰めたものだから、すっかり目が冴えてしまった。
礼を言われた時の不思議な感覚の正体が分かった。彼はとても純粋なのだ。人からされて嬉しかったことに対し、
ごく普通に、素直に礼が言える、いい意味での子供らしさ。
かと思えば、自分から床で寝ると言う。あっさりと使い魔契約を了承したのも謎だ。ゲートを通ったのは自分からとしても、
文化も何もかもまったく違う国に召喚されて、普通なら大人でも心細いはず。ましてや風助ぐらいの子供なら、
親から引き離されれば、戸惑い泣き喚いてもおかしくない。
つまり、彼の中には大人と子供が同居しているのだ。
"親"でタバサは思い出す。殺された父、毒で心を狂わされた母を。狂ってしまった母を救い、父と母の仇を討つことが、
自分の生きる目的。その為には使い魔が駄目だと嘆いている暇はない。
そういえば、彼はどういった経緯で召喚されたのだろう。どこで暮らして、どうやって生きてきたのか、親は恋しくないのか。
自分が、そんなことすら知らないことに気付く。何ができて、何ができないのか。最低限のことすら確認していなかった。
だが、できないなら、できるようになってもらうまで。その為にはまず、彼と話すことが必要かもしれない。
明日授業が終わった後にでも機会を設けよう。
そう結論付けて、タバサは目を閉じる。この時、タバサは知らなかった。風助は、ある意味では自分と近しい存在。
子供が子供のままで生きることを許されず、強くなる道を自ら選びとったということを。
そんなこんなで、タバサは寝不足だった。母を思い出した後、完全に覚醒してしまい、なかなか寝付けなかったのである。
風助は朝食が近い時間になると、匂いでも嗅ぎつけたか、自然に起き上がったが、タバサは朝食の席でもいま一つぼんやりとしていた。
学院は、朝から結構豪勢な食事が出る。タバサはまったく問題ないが、こう朝からボリュームのある食事では困る者もいるのではないだろうか。
例えば、スタイルを気にする女生徒とか。
「足んねぇ」
「我慢」
パンとサラダとベーコン、野菜スープetc……昨夜に引き続き、"それなり"の食事をペロリと平らげた風助に、タバサもまったく同じ答えを返す。
少し離れたテーブルでは、ルイズと使い魔の少年――確か才人といったか――がなにやら揉めていた。
どうやら貧相な食事に不満を述べているらしい。タバサは昨晩、使い魔の分の食事を、と伝えただけだ。
そして出てきたものが"それなり"のものだったのだが、ルイズは違うのだろうか。少し考えたが、特に興味もなかったので、食べ終わるとすぐに席を立った。
食堂を出たタバサの後を、風助も付いて歩く。それを振り向きもせず、タバサは考えていた。次の講義は、使い魔も大型のもの以外は同席する。
しかし、風助を同席させていいものだろうか。
同席させないでいても、風助が好きに動いて何か問題を起こさないか懸念はある。だが、同席させたらさせたで、まず確実に居眠りするだろう。
そうなれば、あの凄まじいいびきが教室中にこだましてしまう。
タバサが逡巡していると、下から風助が見上げてきた。
「これからどうすんだ?」
「一緒に来て」
考えた末、結局同席させることにし、
「おー、分かったぞ」
風助も、いつもの調子で頷いた。
階段状の教室では、長机が段ごとに並べられている。普段は等間隔に生徒が着席しているのだが、
今日は床に使い魔がひしめき合っている分、些か窮屈さは否めなかった。
普通の獣ならまだしも、サラマンダーやバグベアーのような幻獣までもが主の傍らに座っている光景は、風助や才人にとっては異様だった。
各々の主人の隣で床に座った風助と才人は、物珍しそうに見回している。
どの生徒も雑談に興じる中、ルイズと才人、風助とタバサは、物珍しげな視線を絶えず送られていた。ルイズとは違い、
タバサを大っぴらにからかう者はいなかったが、こそこそと陰口を叩く者は少なからずいる。全部筒抜けではあったが、
風助もタバサも表情一つ変えなかった。
教室の扉が開き、恰幅の良い中年の女性が入ってくると、雑談や陰口は止み、教壇に立つ女性に注目が集まる。
彼女はぐるりと教室を見渡して、にっこりと笑顔を浮かべた。
「皆さん、春の使い魔召喚の儀式、成功おめでとうございます。私はシュヴルーズ、二つ名を『赤土』のシュヴルーズ。
なるほど。どの使い魔も、とても個性的ですわね」
シュヴルーズの視線は、風助と才人を主に観察していた。前例のない人間の召喚が二人、しかも片やゼロとあだ名され、片や成績優秀のエリート。
珍しがるのも無理からぬこと。尤もシュヴルーズは、ルイズのあだ名の由来までは知らなかったのだが。
「二つ名からお察しの通り、私は土系統のメイジです。これから、皆さんに土魔法の講義をしたいと思います。一年のおさらいですので、
退屈な方もいるかもしれませんが、付いてきてくださいね」
簡単な自己紹介の後、講義は始まった。系統の説明から始まり、錬金の講義へ。ルイズは真剣に講義に集中していたが、
タバサにとってはとっくに知っている内容なので、本を開いて独学を始める。
使い魔二人はというと、才人は興味深そうに耳を傾けている。異世界の魔法の仕組みと実演。好奇心を刺激されずにはいられないというもの。
風助は最初は同じように聞いていたのだが、内容が小難しくなるにつれ船を漕ぎだし、仕舞いには仰向けに倒れた。生徒でもないのに、生徒以上に態度が大きい。
隣で黙々と本を読むタバサの横顔を眺めながら、いつの間にか風助は眠っていた。
意識は身体を離れ、遠い過去へと飛ぶ。といっても、まだ三年程度しか経っていないのだが、もう随分昔のようにも思える。
遠くから聞こえる爆音と悲鳴を聞きながら、風助は思い出す。
あの頃、爆音と悲鳴は日常だった。聞き飽きるほど聞いたが、悲鳴だけは何度聞いても慣れなかった。
その度に、悔しさとやり切れない思いが込み上げたのは忘れない。
これ以上悲しい思いをする人が出ないように。その思いだけを胸に戦った日々。
己の身一つを頼りに、銃弾と砲弾の雨を掻い潜り、炎を飛び越えた。何人もの敵兵を殺めても、
自分らしさを失わずにいられたのは、きっと共に駆ける戦友がいてくれたからだろう。
焦げ臭い煙は戦場を思い出させる。違う点は、それは肉の焦げる臭いではないこと。血や硝煙の臭いはないということだ。
「……てっ!」
顔面を何かに踏まれ、続いて蹴飛ばされた。ようやく目覚めた風助が周りを見回すと、何故か廊下で寝ていた。
開け放された扉の向こうは大騒ぎ。暴れる使い魔が廊下を走っていき、追いかけて生徒も走っていく。
教室を覗き込むと、中央の教壇でルイズとシュヴルーズが真っ黒になっていた。服はボロボロだが、
ルイズは胸を張っており、あまり深刻そうな感じはない。
夢に出てきた爆発と悲鳴は、このせいだったのか。久しくあの頃の夢など見ていなかったが、
もしかするとあれは、短いホームシックだったのかもしれない。
机の陰に隠れていた才人と目が合う。苦笑いをしている才人に、風助はにっこり笑った。
「やっぱおもしれぇなぁ、ここ」
風助のいびきがうるさくなってきたのと時を同じくして、ルイズが錬金の実演に進み出た。風助の襟首に杖を引っ掛けて、
廊下まで引きずり出したタバサは、そのまま教室を去り、今は図書館で読書をしている。
その後に起こることは容易に想像できたし、迷惑そうな視線を向けられたのでちょうどいいと思った。どうせ授業にはならない。
風助を放置したのはまずいかと思ったが、なかなか起きないので、これも仕方がない。
タバサは今、館内を物色した際に目に留まった、先住魔法に関する書を読んでいた。
何となく手に取ったのだが、なかなか面白い。昼食まではこれで時間を潰せそうだ。
先住魔法――精霊の力を借りて行使する、エルフを始めとする亜人独自の魔法。杖を必要とせず、
地形によっては強力な効果を発揮するのだが、詳細は定かではない。
読んでも、タバサには今一つ実感が湧かなかった。精霊の力を借りて術を行使するのは、どんな感覚なのだろう。
人よりも自然と密接に関わっている彼らだからこそ使える術。これを踏まえれば、人が精霊と契約するのとは勝手が違うのかもしれない。
そんなことを考えていると、
「おめぇ、ずっと本読んでるけど、遊んだりしねぇのか?」
横からカエルのような顔がぬっと伸びる。いつの間に来たのか、風助が隣に立っていた。
タバサは答えない。答える必要がなかったからだ。黙って読書を続けていると、更に風助は距離を詰めてくる。
「じゃあ俺と友達になるか?」
友達と呼べるのはキュルケぐらいのものだが、必要だと感じたこともなかった。故に風助の言葉は、普段なら聞き流す、取るに足らない言葉。
しかしこの時、不思議とタバサは返事をしていた。彼女には珍しく、反射に近い返答だった。
何か、自分の癇に障るものがあったのかもしれない。よくよく考えれば、
その言葉に同情や憐みの類が含まれていないことも気付けたのだろうが。
他人のテリトリーに、軽いノリで踏み込むのはキュルケも同じ。その点において彼女は優れていた。少なくとも、
真正面から馬鹿正直に来る風助よりはずっと。自分勝手に行動しているようで、距離の取り方も巧みだった。
本を閉じて席を立つタバサ。風助は彼女の後姿を見送りながら頭を掻いた。
学院のメイド、シエスタは困っていた。切り揃えた黒髪は汗に濡れ、黒の瞳が不安そうに歪む。
胸の高さまでこんもりと盛られた洗濯物。その籠を両手で担いで、さも重たげに運ぶ。
普段から洗濯物は多いのだが、今日の量は平時よりもかなり多い。
二年の使い魔召喚の儀式が昨日会ったらしいが、そのせいで生活リズムが変わったのだろう。
動物の毛や土埃などで汚れた洗濯物も見られた。
水場から拙い足取りで運ぶ最中、足元が見えなかったシエスタは、大きな何かに躓き、短い悲鳴を上げて転んだ。
「きゃ!?」
自分の服は汚れても構わないが、ひっくり返した籠には、洗濯済みの服が入っていたのだ。
「ああ、またやっちゃった……」
泣きたい気分で拾い上げる洗濯物には、芝がびっしりとこびり付いている。
「うぅ……やり直しだわ……」
それにしてもおかしい。これまで何十回と往復してきた、何もないはずの芝生の敷地。
躓くほど大きな石がそうそう入ってくるわけもない。一体何が転がっていたのかと、シエスタは足元を見た。
「よー、大丈夫か?」
「きゃぁあああ!!」
躓いた何かがむくりと起き上がると、それは見たこともない奇妙な顔をした少年? だった。
あまりにインパクトのある顔に、思わず悲鳴を上げて後ずさる。
何なのかしら……この物凄い顔の生き物は……。カエル? カエルなの? でも、見慣れない服装だけど、身体は人間だし……。
しばしシエスタが呆気に取られていると、立ち上がったカエルは、洗濯物を拾って籠に投げ入れていく。
「あ、あの……」
「わりぃ、ポカポカして気持ちいいから寝ちまってた」
「私がやりますから、そんなことしていただかなくても……」
「けど、俺が邪魔しちまったんだろ? だったら手伝うぞ」
昨日、平民の使い魔を召喚した生徒が二人いると聞いた。おそらく、そのどちらかだろう。
だとしても、一人では昼食までに間に合わない。この際手伝ってもらおうと、渋々了承した。
「はぁ、そういうことでしたらお願いします」
「おー、俺は風助ってんだ」
「あ、はい。私はシエスタと申します」
「ありがとうございました、風助さん。おかげでなんとか昼までに終わりました」
邪魔になるかと思ったが、意外や意外、風助は実にてきぱきと仕事をこなしてくれた。洗濯も手慣れているし、
何よりシスエスタでは持ち上げるだけで大変だった籠を、軽々と持ち上げたのには驚いた。
「なぁ、その丁寧語は止めてくんねぇか?」
「でも、そういうわけには……」
「何かくすぐったくて気持ちわりぃぞ。頼んでも駄目か?」
「……そうですか。では失礼して……風助君」
そう呼ぶと、風助は屈託のない柔和な笑顔を浮かべた。何となく頭を撫でたくなる、年相応の子供らしい笑顔だった。
どこか故郷の弟を思い出させる。
この少年はするりと心に入り込んでくるが、シエスタにはそれが不快ではなかった。
ぐぅ、と風助の腹が鳴った。妙に大きな音に一瞬驚いたが、子供の扱いに慣れていたシエスタは即座に立て直した。
「お腹空いてるの? それなら後で厨房まで来て。賄いや残りがあるから、お願いして食べさせてあげる」
「おぉぉ! 嬉しいぞ、いつも足んねぇと思ってたんだ」
「それじゃあまた。ありがとうね、風助君」
大げさに喜ぶ風助に苦笑しながら、シエスタは手を振って別れた。まさかこの後、
もう一人の使い魔の少年にも出会ってしまうとは、この時は思いもよらなかったのだが。
タバサの部屋に帰るのにも迷う風助だったが、食堂に行くのは迷わない。美味しい匂いを辿れば、そこが食堂だった。
床に出された三度目の食事は、十秒も掛からず風助の胃袋に消えた。前回同様に、量も"それなり"にあったはずなのだが、
これもいつも通りである。違うのは、足りないという訴えがないことだった。
「午後は一緒に来なくていい」
風助ほどではないにせよ、豪華な食事をあっさりと片づけたタバサは、一言言い残すと食堂を出ていった。
それを見送った風助も、続いて食堂を出る。行先は勿論、厨房。場所は聞いていなかったが、やはり匂いを辿れば簡単だった。
一番濃い匂いの漂うドアを開くと、そこにはシエスタとコックらしき数人、そしてもう一人見慣れた顔があった。
「よ、風助」
「よー、才人じゃねぇか」
既に厨房のテーブルの一角に腰掛けていた才人が軽く手を上げた。先客だったのか、彼の前には美味しそうなシチューが並べられている。
「いらっしゃい、風助君」
風助はシエスタに促されて、才人の隣に座る。
「どうりで食堂にいねぇと思ったぞ」
「しょうがねぇだろ。あいつに飯抜きにされちまったんだからな」
「あの後、サイトさんに会ってね。お腹空いてるようだったから、同じようにお誘いしたの」
スプーンとフォークを握り締める風助の前にも、才人と同じものが出た。話もそこそこに手を伸ばす。
「おぉ、うめぇなこれ」
一口食べて感嘆の声を漏らした。こういった素朴で簡単な味の方が風助は好みだった。
二人の食べっぷりが気に入ったのか、シエスタもどこか嬉しそうだ。
「お代わりもありますから、二人とも言ってくださいね」
「お代わり」
器一杯のシチューを数秒で空にした風助が、間髪入れずにお代わりを催促。慌ててシチューを付けるシエスタを尻目に、才人がジト目で風助を見る。
「風助、お前昼飯ちゃんと食ったんだろ。何でここでまで食ってんだ?」
「あんだけじゃ足んねぇんだ。おめぇこそ何で飯抜かれてんだ? お代わり」
「爆発の片付けもほとんど俺にやらせて、あんまり腹立ったもんだから、ゼロゼロって馬鹿にしたら、アイツすげえ怒ってさ」
「まぁ、貴族にそんなこと言ったら大変です」
と、忙しなく鍋と風助を行き来するシエスタ。お代わりを渡しても、すぐに空になるので慌ただしいことこの上ない。
「おめぇが悪いんじゃねぇか。お代わり」
「いや、そうなんだけどさ……」
十杯目を平らげた風助は、そこでお代わりの手を止めて、おもむろに才人を見た。
「ところで、貴族って何するもんなんだ? 偉いのか?」
視線を向けられた才人はしばらく考えた挙句、
「俺に聞くなよ…………シエスタ」
シエスタに話を投げた。突然話を振られたシエスタは、やはり困り顔で口元に手をやって考えだす。黙りこんでから数秒、シエスタは顔を上げた。
「うーん……政治をしたり、領地を管理したり……戦時となればメイジは戦闘に出るし……改めて聞かれると困りますね。
けどまぁ、風助君に分かりやすく言えば、国を守るっていうのが仕事でしょうか。だからこそ、平民よりずっといい暮らしをしてるんですもの」
「そんなにいいもんじゃねぇぞ」
最後、シエスタの説明に水を差したのは、真っ白な高い帽子を被った中年の男。体躯も大きく、顔からして気風の良さそうな男性だった。
「あ、こちらコック長のマルトーさんです」
「あ、どうも……」
「おっちゃん、このシチューすっげぇうめぇぞ」
「おお、そうか! 坊主もいい食いっぷりじゃねぇか。そんなに美味そうに食ってもらえると、こっちも作った甲斐があるってもんだ」
シチューの椀を掲げてお代わりを再開した風助に、マルトーは実に上機嫌だった。豪快に笑いながら、風助の背中をバンバン叩く。
「まぁ、ともかく貴族の方々っていうのは、そんな感じです。偉いんですよ」
「ふーん……」
気のない返事をする風助だったが、その顔から心中を読み取れる人間はいなかっただろう。
「さて、と。それじゃ私はデザートを配ってきますね。サイトさん、よろしければ手伝っていただけますか?」
「ああ、分かったよ」
「俺も手伝うぞ」
連れ立って厨房を出ていく二人に、風助も付いていこうとしたのだが、
「ふふ、風助君はまだ食べ足りないんじゃないの? 大丈夫だよ、私とサイトさんだけでも」
シエスタは笑顔でそう言うと、才人と出ていってしまった。残された風助は手持ち無沙汰になった。貴族とは何か。シエスタの話を反芻しながら、
マルトーからストップが掛かるまで、ひたすらシチューを食べ続けた。
#navi(風の使い魔)
#navi(風の使い魔)
その日、彼女は寝不足だった。特別心掛けていたわけではないが、常日頃から規則正しい生活を送り、
これまで寝不足など滅多に無かっただけに、軽く衝撃だった。
寝惚け眼を擦り、足元に転がる物体を見やる。寝床が固い床だというのに、お構いなしに爆睡中。まったく、
これが我が使い魔だと思うと、朝から暗澹とした気持ちになるというもの。それもこれも、事は昨夜に遡る。
風の使い魔 第一章 「輝きは君の中に」1-2
昨晩、タバサはランプの明かりを頼りに読書をしていた。そこへアンロックで鍵を外して入ってきたのは、
やはりというかキュルケだった。入るなり、早口に何事かまくし立てていたが、サイレントの魔法を施して読書していたことを知ると、
途端にニヤニヤと思わせ振りな態度。あからさまに聞いて欲しそうだったが、特に興味も無かったので読書を続けた。
数分後、そろそろかとタバサは顔を上げ、時計を一瞥する。
「そろそろ就寝時間」
まだ風助は帰ってきていなかったが、タバサは既にパジャマに着替えており、いつでも寝る準備はできていた。
「そんなの誰も守ってないわよ。それよりもぉ……さっき中庭で何があったか知りたくない? 貴女が知りたいって言うなら教えてあげるけど?」
やたら焦らすくせに、どうしても聞いて欲しいらしい。仕方ないので聞こうかと思った時、
「まったく、あんたは! 何であんなところで居眠りなんかしてたのよっ! 悪いことした使い魔には、お仕置きが必要だわ!」
「仕方ねーだろ、あんまり眠気を誘われたもんだから……って元はといえば、お前が部屋から追いだしたんじゃねーか!」
「だからって中庭なんかで野宿しなくていいでしょ、恥ずかしい! あんたって頭の中まで犬なのね!」
「だから野宿じゃねぇっての! あいつと話してたら、そのうち眠くなって……」
キュルケの開け放したドアの外を、ルイズとそれに引き摺られる使い魔が通り過ぎた。しかも、寮中に聞こえるくらいの大声で口論しながら。
会話の端々から、どうやら使い魔の少年と風助が、一緒に中庭の木で居眠りしていたとのこと。
タバサは、キュルケの話題の察しが付いた。大方、揃って居眠りしていた二人が何か変なことでもしたのだろう、と。
キュルケはそんなことで人をからかうタイプでもないから、ルイズも交えた、よほど面白いアクシデントでもあったのか、と予想した。
「……大体分かった」
と言って再び顔を本に落とす。タバサにとって、風助は大食らいで足が異常に速い以外はただの少年であり、
関心もあまり湧かないのが正直なところだった。当然、キュルケの話題にも。
「あ、ちょっとタバサ。違うのよ、実はね……」
タバサの反応から思考を予想したのか、焦らすのを止めたキュルケは詰め寄って顔を近付けるが、
「よー、わりぃ。遅くなっちまった」
ルイズ達の後をとことこと付いてきた風助によって、会話は中断された。
「別に」とタバサも返す。ちょうど寝る時間といったところだ。
本を閉じたタバサが立ち上がると、キュルケも立つ。キュルケは、やや不満げに、もう、と息をついた。
話のオチを話せなかったのは残念だが、本人も帰ってきたことだし、聞く気があれば聞くだろう。
「じゃ、そろそろ帰るわ。おやすみなさい、タバサ」
「おやすみ」
タバサに手を振ったキュルケは、扉を閉める直前、思い出したように風助を振り返った。
「それと、フースケ……って言ったかしら? さっきの演奏、良かったわよ。いいもの聞かせてもらったわ」
「おー、じゃあな」
平民、しかも出会ったばかりだというのに、キュルケの態度はそれを感じさせない。応じる風助も、
もう友達にでもなったかのように気安く手を振る。
置いてけぼりをくらったタバサはそれを不思議そうに見ていたが、きっと二人とも天性の性格なのだろうと自己完結した。
"演奏"という単語だけは、わずかに引っかかったが。
キュルケが去り、静まり返った部屋で、最初に口を開いたのは風助。室内をきょろきょろと見回しながら訊ねる。
「なぁ、俺はどこで寝りゃいいんだ?」
ベッドに腰かけたタバサが、無言で枕を叩く。寝床の問題は忘れていたわけではないが、夜も遅い。
明日、簡易ベッドでも用意すれば十分だろうと考えていた。
かといって床で寝させるのも気が引けた。使い魔の管理もメイジの条件の内。風邪でも引かれては困る。
「けど、二人じゃせめぇなぁ。俺は別に床でもいいぞ。慣れてるしな」
風助は裸足になると、勝手に床に寝転んだ。実際シングルのベッドは、小柄の二人とはいえ狭い。
タバサとしてはどちらでもよかったので、毛布を手渡した。
「ありがとな」
ただそれだけの意味しかなかったのだが、礼を言われると、どこかくすぐったいような気持ちになった。
風助に背を向けて、タバサはベッドに横たわる。間近には圧迫感を感じさせる壁。
でも、風助の顔を見ながらでは寝辛い気がした。
これまでここは自分だけの部屋だった。来客といえばキュルケぐらいのもの。声も音もない。自分だけが存在する静謐な空間。
そこに降って湧いたように現れた異分子に、もしかすると戸惑っているのかもしれない。
そんなことを考えながらも眠気には勝てず、タバサの意識は緩やかに落ちていった。
それからどれくらいの時間が経っただろう。タバサの意識は、耳をつんざく轟音により一瞬で覚醒を促された。
絶えず聞こえる音は、一定のリズムで響く唸り声。
彼女の行動は素早かった。枕元に立て掛けた杖を取り、ベッドの上で中腰になって構え、音の正体を見極めんと、
闇に眼を凝らしつつ暗視の術を唱える。
一瞬で暗闇に目が慣れる。室内に動くものはなく、他の音も混じらない。物々しい足音も、白刃の閃きも。
ただ、部屋の中央の床に転がる物体が一つ。そこに居るのは、規則正しく胸を上下させる使い魔の少年だけ。
間抜けに開けられた口から、強烈な"いびき"が発されている。
つまり、これが轟音の正体。タバサは拍子抜けして、ベッドに座り込んだ。なんてくだらない、つまらない、自分らしくないミスなのだろう。
思えば、召喚した時からそうだったのだから、予想して然るべきだった。どうも召喚して以来、彼にはテンポを狂わされている気がしてならない。
杖を振ってサイレントの魔法を掛ける。安眠を妨害されないよう、朝まで解けないように。
ピタリと音が止んだ。そう、最初からこうしておけばよかったのだ。ようやく取り戻した静寂に、ほっと一息吐くと、タバサは再びベッドに入る。
気を張り詰めたものだから、すっかり目が冴えてしまった。
礼を言われた時の不思議な感覚の正体が分かった。彼はとても純粋なのだ。人からされて嬉しかったことに対し、
ごく普通に、素直に礼が言える、いい意味での子供らしさ。
かと思えば、自分から床で寝ると言う。あっさりと使い魔契約を了承したのも謎だ。ゲートを通ったのは自分からとしても、
文化も何もかもまったく違う国に召喚されて、普通なら大人でも心細いはず。ましてや風助ぐらいの子供なら、
親から引き離されれば、戸惑い泣き喚いてもおかしくない。
つまり、彼の中には大人と子供が同居しているのだ。
"親"でタバサは思い出す。殺された父、毒で心を狂わされた母を。狂ってしまった母を救い、父と母の仇を討つことが、
自分の生きる目的。その為には使い魔が駄目だと嘆いている暇はない。
そういえば、彼はどういった経緯で召喚されたのだろう。どこで暮らして、どうやって生きてきたのか、親は恋しくないのか。
自分が、そんなことすら知らないことに気付く。何ができて、何ができないのか。最低限のことすら確認していなかった。
だが、できないなら、できるようになってもらうまで。その為にはまず、彼と話すことが必要かもしれない。
明日授業が終わった後にでも機会を設けよう。
そう結論付けて、タバサは目を閉じる。この時、タバサは知らなかった。風助は、ある意味では自分と近しい存在。
子供が子供のままで生きることを許されず、強くなる道を自ら選びとったということを。
そんなこんなで、タバサは寝不足だった。母を思い出した後、完全に覚醒してしまい、なかなか寝付けなかったのである。
風助は朝食が近い時間になると、匂いでも嗅ぎつけたか、自然に起き上がったが、タバサは朝食の席でもいま一つぼんやりとしていた。
学院は、朝から結構豪勢な食事が出る。タバサはまったく問題ないが、こう朝からボリュームのある食事では困る者もいるのではないだろうか。
例えば、スタイルを気にする女生徒とか。
「足んねぇ」
「我慢」
パンとサラダとベーコン、野菜スープetc……昨夜に引き続き、"それなり"の食事をペロリと平らげた風助に、タバサもまったく同じ答えを返す。
少し離れたテーブルでは、ルイズと使い魔の少年――確か才人といったか――がなにやら揉めていた。
どうやら貧相な食事に不満を述べているらしい。タバサは昨晩、使い魔の分の食事を、と伝えただけだ。
そして出てきたものが"それなり"のものだったのだが、ルイズは違うのだろうか。少し考えたが、特に興味もなかったので、食べ終わるとすぐに席を立った。
食堂を出たタバサの後を、風助も付いて歩く。それを振り向きもせず、タバサは考えていた。次の講義は、使い魔も大型のもの以外は同席する。
しかし、風助を同席させていいものだろうか。
同席させないでいても、風助が好きに動いて何か問題を起こさないか懸念はある。だが、同席させたらさせたで、まず確実に居眠りするだろう。
そうなれば、あの凄まじいいびきが教室中にこだましてしまう。
タバサが逡巡していると、下から風助が見上げてきた。
「これからどうすんだ?」
「一緒に来て」
考えた末、結局同席させることにし、
「おー、分かったぞ」
風助も、いつもの調子で頷いた。
階段状の教室では、長机が段ごとに並べられている。普段は等間隔に生徒が着席しているのだが、
今日は床に使い魔がひしめき合っている分、些か窮屈さは否めなかった。
普通の獣ならまだしも、サラマンダーやバグベアーのような幻獣までもが主の傍らに座っている光景は、風助や才人にとっては異様だった。
各々の主人の隣で床に座った風助と才人は、物珍しそうに見回している。
どの生徒も雑談に興じる中、ルイズと才人、風助とタバサは、物珍しげな視線を絶えず送られていた。ルイズとは違い、
タバサを大っぴらにからかう者はいなかったが、こそこそと陰口を叩く者は少なからずいる。全部筒抜けではあったが、
風助もタバサも表情一つ変えなかった。
教室の扉が開き、恰幅の良い中年の女性が入ってくると、雑談や陰口は止み、教壇に立つ女性に注目が集まる。
彼女はぐるりと教室を見渡して、にっこりと笑顔を浮かべた。
「皆さん、春の使い魔召喚の儀式、成功おめでとうございます。私はシュヴルーズ、二つ名を『赤土』のシュヴルーズ。
なるほど。どの使い魔も、とても個性的ですわね」
シュヴルーズの視線は、風助と才人を主に観察していた。前例のない人間の召喚が二人、しかも片やゼロとあだ名され、片や成績優秀のエリート。
珍しがるのも無理からぬこと。尤もシュヴルーズは、ルイズのあだ名の由来までは知らなかったのだが。
「二つ名からお察しの通り、私は土系統のメイジです。これから、皆さんに土魔法の講義をしたいと思います。一年のおさらいですので、
退屈な方もいるかもしれませんが、付いてきてくださいね」
簡単な自己紹介の後、講義は始まった。系統の説明から始まり、錬金の講義へ。ルイズは真剣に講義に集中していたが、
タバサにとってはとっくに知っている内容なので、本を開いて独学を始める。
使い魔二人はというと、才人は興味深そうに耳を傾けている。異世界の魔法の仕組みと実演。好奇心を刺激されずにはいられないというもの。
風助は最初は同じように聞いていたのだが、内容が小難しくなるにつれ船を漕ぎだし、仕舞いには仰向けに倒れた。生徒でもないのに、生徒以上に態度が大きい。
隣で黙々と本を読むタバサの横顔を眺めながら、いつの間にか風助は眠っていた。
意識は身体を離れ、遠い過去へと飛ぶ。といっても、まだ三年程度しか経っていないのだが、もう随分昔のようにも思える。
遠くから聞こえる爆音と悲鳴を聞きながら、風助は思い出す。
あの頃、爆音と悲鳴は日常だった。聞き飽きるほど聞いたが、悲鳴だけは何度聞いても慣れなかった。
その度に、悔しさとやり切れない思いが込み上げたのは忘れない。
これ以上悲しい思いをする人が出ないように。その思いだけを胸に戦った日々。
己の身一つを頼りに、銃弾と砲弾の雨を掻い潜り、炎を飛び越えた。何人もの敵兵を殺めても、
自分らしさを失わずにいられたのは、きっと共に駆ける戦友がいてくれたからだろう。
焦げ臭い煙は戦場を思い出させる。違う点は、それは肉の焦げる臭いではないこと。血や硝煙の臭いはないということだ。
「……てっ!」
顔面を何かに踏まれ、続いて蹴飛ばされた。ようやく目覚めた風助が周りを見回すと、何故か廊下で寝ていた。
開け放された扉の向こうは大騒ぎ。暴れる使い魔が廊下を走っていき、追いかけて生徒も走っていく。
教室を覗き込むと、中央の教壇でルイズとシュヴルーズが真っ黒になっていた。服はボロボロだが、
ルイズは胸を張っており、あまり深刻そうな感じはない。
夢に出てきた爆発と悲鳴は、このせいだったのか。久しくあの頃の夢など見ていなかったが、
もしかするとあれは、短いホームシックだったのかもしれない。
机の陰に隠れていた才人と目が合う。苦笑いをしている才人に、風助はにっこり笑った。
「やっぱおもしれぇなぁ、ここ」
風助のいびきがうるさくなってきたのと時を同じくして、ルイズが錬金の実演に進み出た。風助の襟首に杖を引っ掛けて、
廊下まで引きずり出したタバサは、そのまま教室を去り、今は図書館で読書をしている。
その後に起こることは容易に想像できたし、迷惑そうな視線を向けられたのでちょうどいいと思った。どうせ授業にはならない。
風助を放置したのはまずいかと思ったが、なかなか起きないので、これも仕方がない。
タバサは今、館内を物色した際に目に留まった、先住魔法に関する書を読んでいた。
何となく手に取ったのだが、なかなか面白い。昼食まではこれで時間を潰せそうだ。
先住魔法――精霊の力を借りて行使する、エルフを始めとする亜人独自の魔法。杖を必要とせず、
地形によっては強力な効果を発揮するのだが、詳細は定かではない。
読んでも、タバサには今一つ実感が湧かなかった。精霊の力を借りて術を行使するのは、どんな感覚なのだろう。
人よりも自然と密接に関わっている彼らだからこそ使える術。これを踏まえれば、人が精霊と契約するのとは勝手が違うのかもしれない。
そんなことを考えていると、
「おめぇ、ずっと本読んでるけど、遊んだりしねぇのか?」
横からカエルのような顔がぬっと伸びる。いつの間に来たのか、風助が隣に立っていた。
タバサは答えない。答える必要がなかったからだ。黙って読書を続けていると、更に風助は距離を詰めてくる。
「じゃあ俺と友達になるか?」
友達と呼べるのはキュルケぐらいのものだが、必要だと感じたこともなかった。故に風助の言葉は、普段なら聞き流す、取るに足らない言葉。
しかしこの時、不思議とタバサは返事をしていた。彼女には珍しく、反射に近い返答だった。
「あなたは使い魔。友達じゃない」
何か、自分の癇に障るものがあったのかもしれない。よくよく考えれば、
その言葉に同情や憐みの類が含まれていないことも気付けたのだろうが。
他人のテリトリーに、軽いノリで踏み込むのはキュルケも同じ。その点において彼女は優れていた。少なくとも、
真正面から馬鹿正直に来る風助よりはずっと。自分勝手に行動しているようで、距離の取り方も巧みだった。
本を閉じて席を立つタバサ。風助は彼女の後姿を見送りながら頭を掻いた。
学院のメイド、シエスタは困っていた。切り揃えた黒髪は汗に濡れ、黒の瞳が不安そうに歪む。
胸の高さまでこんもりと盛られた洗濯物。その籠を両手で担いで、さも重たげに運ぶ。
普段から洗濯物は多いのだが、今日の量は平時よりもかなり多い。
二年の使い魔召喚の儀式が昨日会ったらしいが、そのせいで生活リズムが変わったのだろう。
動物の毛や土埃などで汚れた洗濯物も見られた。
水場から拙い足取りで運ぶ最中、足元が見えなかったシエスタは、大きな何かに躓き、短い悲鳴を上げて転んだ。
「きゃ!?」
自分の服は汚れても構わないが、ひっくり返した籠には、洗濯済みの服が入っていたのだ。
「ああ、またやっちゃった……」
泣きたい気分で拾い上げる洗濯物には、芝がびっしりとこびり付いている。
「うぅ……やり直しだわ……」
それにしてもおかしい。これまで何十回と往復してきた、何もないはずの芝生の敷地。
躓くほど大きな石がそうそう入ってくるわけもない。一体何が転がっていたのかと、シエスタは足元を見た。
「よー、大丈夫か?」
「きゃぁあああ!!」
躓いた何かがむくりと起き上がると、それは見たこともない奇妙な顔をした少年? だった。
あまりにインパクトのある顔に、思わず悲鳴を上げて後ずさる。
何なのかしら……この物凄い顔の生き物は……。カエル? カエルなの? でも、見慣れない服装だけど、身体は人間だし……。
しばしシエスタが呆気に取られていると、立ち上がったカエルは、洗濯物を拾って籠に投げ入れていく。
「あ、あの……」
「わりぃ、ポカポカして気持ちいいから寝ちまってた」
「私がやりますから、そんなことしていただかなくても……」
「けど、俺が邪魔しちまったんだろ? だったら手伝うぞ」
昨日、平民の使い魔を召喚した生徒が二人いると聞いた。おそらく、そのどちらかだろう。
だとしても、一人では昼食までに間に合わない。この際手伝ってもらおうと、渋々了承した。
「はぁ、そういうことでしたらお願いします」
「おー、俺は風助ってんだ」
「あ、はい。私はシエスタと申します」
「ありがとうございました、風助さん。おかげでなんとか昼までに終わりました」
邪魔になるかと思ったが、意外や意外、風助は実にてきぱきと仕事をこなしてくれた。洗濯も手慣れているし、
何よりシスエスタでは持ち上げるだけで大変だった籠を、軽々と持ち上げたのには驚いた。
「なぁ、その丁寧語は止めてくんねぇか?」
「でも、そういうわけには……」
「何かくすぐったくて気持ちわりぃぞ。頼んでも駄目か?」
「……そうですか。では失礼して……風助君」
そう呼ぶと、風助は屈託のない柔和な笑顔を浮かべた。何となく頭を撫でたくなる、年相応の子供らしい笑顔だった。
どこか故郷の弟を思い出させる。
この少年はするりと心に入り込んでくるが、シエスタにはそれが不快ではなかった。
ぐぅ、と風助の腹が鳴った。妙に大きな音に一瞬驚いたが、子供の扱いに慣れていたシエスタは即座に立て直した。
「お腹空いてるの? それなら後で厨房まで来て。賄いや残りがあるから、お願いして食べさせてあげる」
「おぉぉ! 嬉しいぞ、いつも足んねぇと思ってたんだ」
「それじゃあまた。ありがとうね、風助君」
大げさに喜ぶ風助に苦笑しながら、シエスタは手を振って別れた。まさかこの後、
もう一人の使い魔の少年にも出会ってしまうとは、この時は思いもよらなかったのだが。
タバサの部屋に帰るのにも迷う風助だったが、食堂に行くのは迷わない。美味しい匂いを辿れば、そこが食堂だった。
床に出された三度目の食事は、十秒も掛からず風助の胃袋に消えた。前回同様に、量も"それなり"にあったはずなのだが、
これもいつも通りである。違うのは、足りないという訴えがないことだった。
「午後は一緒に来なくていい」
風助ほどではないにせよ、豪華な食事をあっさりと片づけたタバサは、一言言い残すと食堂を出ていった。
それを見送った風助も、続いて食堂を出る。行先は勿論、厨房。場所は聞いていなかったが、やはり匂いを辿れば簡単だった。
一番濃い匂いの漂うドアを開くと、そこにはシエスタとコックらしき数人、そしてもう一人見慣れた顔があった。
「よ、風助」
「よー、才人じゃねぇか」
既に厨房のテーブルの一角に腰掛けていた才人が軽く手を上げた。先客だったのか、彼の前には美味しそうなシチューが並べられている。
「いらっしゃい、風助君」
風助はシエスタに促されて、才人の隣に座る。
「どうりで食堂にいねぇと思ったぞ」
「しょうがねぇだろ。あいつに飯抜きにされちまったんだからな」
「あの後、サイトさんに会ってね。お腹空いてるようだったから、同じようにお誘いしたの」
スプーンとフォークを握り締める風助の前にも、才人と同じものが出た。話もそこそこに手を伸ばす。
「おぉ、うめぇなこれ」
一口食べて感嘆の声を漏らした。こういった素朴で簡単な味の方が風助は好みだった。
二人の食べっぷりが気に入ったのか、シエスタもどこか嬉しそうだ。
「お代わりもありますから、二人とも言ってくださいね」
「お代わり」
器一杯のシチューを数秒で空にした風助が、間髪入れずにお代わりを催促。慌ててシチューを付けるシエスタを尻目に、才人がジト目で風助を見る。
「風助、お前昼飯ちゃんと食ったんだろ。何でここでまで食ってんだ?」
「あんだけじゃ足んねぇんだ。おめぇこそ何で飯抜かれてんだ? お代わり」
「爆発の片付けもほとんど俺にやらせて、あんまり腹立ったもんだから、ゼロゼロって馬鹿にしたら、アイツすげえ怒ってさ」
「まぁ、貴族にそんなこと言ったら大変です」
と、忙しなく鍋と風助を行き来するシエスタ。お代わりを渡しても、すぐに空になるので慌ただしいことこの上ない。
「おめぇが悪いんじゃねぇか。お代わり」
「いや、そうなんだけどさ……」
十杯目を平らげた風助は、そこでお代わりの手を止めて、おもむろに才人を見た。
「ところで、貴族って何するもんなんだ? 偉いのか?」
視線を向けられた才人はしばらく考えた挙句、
「俺に聞くなよ…………シエスタ」
シエスタに話を投げた。突然話を振られたシエスタは、やはり困り顔で口元に手をやって考えだす。黙りこんでから数秒、シエスタは顔を上げた。
「うーん……政治をしたり、領地を管理したり……戦時となればメイジは戦闘に出るし……改めて聞かれると困りますね。
けどまぁ、風助君に分かりやすく言えば、国を守るっていうのが仕事でしょうか。だからこそ、平民よりずっといい暮らしをしてるんですもの」
「そんなにいいもんじゃねぇぞ」
最後、シエスタの説明に水を差したのは、真っ白な高い帽子を被った中年の男。体躯も大きく、顔からして気風の良さそうな男性だった。
「あ、こちらコック長のマルトーさんです」
「あ、どうも……」
「おっちゃん、このシチューすっげぇうめぇぞ」
「おお、そうか! 坊主もいい食いっぷりじゃねぇか。そんなに美味そうに食ってもらえると、こっちも作った甲斐があるってもんだ」
シチューの椀を掲げてお代わりを再開した風助に、マルトーは実に上機嫌だった。豪快に笑いながら、風助の背中をバンバン叩く。
「まぁ、ともかく貴族の方々っていうのは、そんな感じです。偉いんですよ」
「ふーん……」
気のない返事をする風助だったが、その顔から心中を読み取れる人間はいなかっただろう。
「さて、と。それじゃ私はデザートを配ってきますね。サイトさん、よろしければ手伝っていただけますか?」
「ああ、分かったよ」
「俺も手伝うぞ」
連れ立って厨房を出ていく二人に、風助も付いていこうとしたのだが、
「ふふ、風助君はまだ食べ足りないんじゃないの? 大丈夫だよ、私とサイトさんだけでも」
シエスタは笑顔でそう言うと、才人と出ていってしまった。残された風助は手持ち無沙汰になった。貴族とは何か。シエスタの話を反芻しながら、
マルトーからストップが掛かるまで、ひたすらシチューを食べ続けた。
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