「鋼の使い魔-14」(2008/08/15 (金) 03:25:07) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
#navi(鋼の使い魔)
トリステイン魔法学院は教師・生徒・奉公平民含めた全寮制である。
無論、長期の休暇がもらえた場合は各々の故郷に帰る事ができる。生徒達は父母の待つ領地へ、教師は留守を任せた屋敷などへ。
とはいえ、どこにでも天涯孤独を称する人物はいる。魔法学院教師の一人、ジャン・コルベールもその一人である。
自らの鎧を貸したギュスターヴは、数日後コルベールの下へ鎧の安否について聞く為、彼の部屋を訪ねようとしたのだが…。
「ミスタ・コルベールの部屋?」
なんとなく日課になってしまった、広場の木陰の集まりの中で、貸し出してもらった本を読みながらギュスターヴは隣でコロコロと
午睡を取ろうとしていたルイズに聞くのだった。
尚、タバサは勿論として課題として出された構えの練習中。たまにキュルケがやってきて、厨房からもらってきたレモン水などを片手に
おしゃべりしていく。
使い魔の質問にルイズは顔をしかめた。彼女は鎧をコルベールの部屋に持ち込む時についていったため、場所がわかるだろう、と
ギュスターヴは踏んでいた。
「そろそろ鎧を取りに行ってもいいかな、と思ってな。…まぁ、何も問題がなさそうならそのまま置いておくって言うのも悪くないのだけど」
「無防備だなぁ相棒は…」
タバサのお目付け役を買って出たデルフがぼやく。ギュスターヴがルイズの使い魔である以上、たまに小間使いをこなす時がある。
剣の修行に付き添えない時などは、デルフと短剣だけをタバサに貸し、デルフに稽古の具合を見てもらっていたりするのだ。
「あの人の部屋…って言うか、部屋なんだけど、部屋じゃないような…あぁ、面倒ね!あの人が居るところに連れて行けばいいんでしょ!」
傍から見てもルイズはコルベールの元に行くのが面倒くさそうだ。しかし特に用がなければ教師寮には入れないため、学院内を歩き回った
ギュスターヴでもコルベールの部屋はわからないのだ。
「すまないな、ルイズ」
「まったく…本当に世話の焼ける中年使い魔ね!やったら平民に好かれてるみたいだし?そこのタバサにも重宝がられてるみたいだし?
ご主人をほったらかしで良い身分ね!」
「拗ねるなよルイズ」
「すっ、拗ねてなんかないもん!」
ぐちぐちと草をむしりながらやっかむルイズをギュスターヴは宥める。タバサはそんな光景をここ数日何度も見て、
これが彼らの日常なのだな、と思ったのだった。
タバサの相手をデルフに託し、そんなご主人に引き連れられてギュスターヴが向かったのは、教師向け寮のある塔ではなく、他の
学院施設から廊下が繋がっていない、単独で立っている小さな塔の前だった。
「ここよ」
「ここって…寮じゃないじゃないか」
「知らないわよ。この前鎧を持っていく時はここに持ち込んでいたのよ」
閉じられた両開きの扉に貼り付けられた真鍮の巨大なノッカーを叩く。すると扉は内側の人間の手で外側に向かってゆっくりと開かれた。
開いたのは何を隠そう、この『塔』の主人コルベールその人だった。
「おや、誰かと思えばミス・ヴァリエール、ミスタ・ギュス。いかがなされましたかな?」
コルベールはどうやら何かの実験中だったのだろう。くすんだしみやら何やらがついた実験着らしき麻布の服を着けている。
「いや。鎧の方はどうなったかな、と思いまして」
「おお!そうですか。実はその事で二、三お聞きしたい事があったのです」
その言葉にギュスターヴの表情がわずかに崩れる。脇のルイズはハッと明らかに顔に出て驚いているが、研究に心傾いているコルベールは
それが見えなかった。
「ささ、立ち話も妙です。中へどうぞ」
そこは他の教師達から「コルベール『専用』研究塔」と呼ばれている。
もっとも、これは賞賛や嫉妬からではない。意味するのは皮肉が大多数である。
そもそも、コルベールは元は他の教師達と同じく、学院内にある教師達向けの寮で生活していたが、彼が余りに自室で研究に没頭する為、
隣室や他の階の教師達からオスマンに向けられて苦情が殺到してしまった。
曰く『薬品の匂いが絶えず』、『時より異臭とともに黒煙が窓から上がり』、『扉から踊るゴミ箱や箒が飛び出してくる』などなど。
最後の方は殆ど事実無根の中傷レベルだが、とにかく苦情や抗議がコルベールとオスマンの元に届いた。
コルベールへは再三の注意がされたのだが、一向に抗議は減らず、コルベールも、自らの研究に費やせるスペースを欲した。
数度の協議の結果、コルベールが費用の半分を出す条件に、学院内にある塔の一つを大幅に改築し、自らだけが使える専用の研究施設を
敷地内に作ることになった。
本来、緊急時などの為の食料他保存物資を貯蔵する為の3階建ての塔を、たった一人のための施設に作り変えたのである。
その代わり、貯蓄物を保管する為の地下室が新たに学院内に作られた。これもコルベールが費用を折半した。
尚、これらのためコルベールは相続していた貴族としての領地や権利の多くを手放して財貨を用意した。彼が今現在持っているのは、
実に僅かな領地と、そこにある林野伐採権、並びにそこから上がる収益ぐらいで、あとは学院が支給する教師としての給料が
彼の生活を支えている。
ギュスターヴが研究塔に入って一番に感じ取ったのは、埃や脂が交じり合って出来たような異臭である。
「やや、お二人とも。むくつけき我が城へようこそ。少々散らかっておりますが、どうか気になさらずにくつろいでくれますかな」
塔は三階建てで本来作られたものだったが、改築の際に天井の一部が抜かれ、1階から3階の天井が見えるほどの吹き抜けになっていた。
階段が壁を添うように走り、階段のない壁面はほぼすべて何らかの書籍か器具が占有していた。それでも物は溢れ、数脚のテーブルや机の上に
は紙や本、なんだかわからない物体が積まれている。
ギュスターヴは呆然として塔の内部を見渡す。吹き抜けの天井には、人一人は入れそうな球体が吊り下げられている。
あれは一体なんだろうか……。
ルイズはルイズで、ポケットから出したシルクのハンケチーフで鼻を覆っている。清浄な暮らしに慣れた少女にはこの環境は苦しい。
「見てのとおり、生徒指導以外は研究に費やす日々でしてな。お陰で40余りの年月を生きてますが、嫁のなり手もおりません」
呵呵と笑うコルベール。
「さて…鎧の件でしたな。あれは実に面白い。見てくれますかな」
そういうと部屋の脇に置かれた車のついた台を押して二人の元へ運んでくる。それはくみ上げられて元の形にされたギュスターヴの鎧だった。
コルベールは鎧から板を一枚外し、机の上にある器具の一つに挟み込んだ。
「ミス・ヴァリエール。この穴から鎧の板を覗いて御覧なさい」
「ふぁい……」
鼻を押さえたままのルイズが器具に開けられた穴から覗く。歩くたびに埃が目を刺激して涙が出そうだ。
「何が見えるかね?」
「縞模様が見えまふ…」
「ふむ。では、これではどうかね」
次にコルベールは引き出しから鉄板を取り出して器具に挟んだ。
「特に何もみえまふぇん」
「ふむ。上出来ですぞ」
「コルベール先生。縞模様が一体何か…?」
「ふむ。お教えしましょう。貴方の鎧をこの器具で拡大して観察すると、独特の縞模様が何本も入っている。次にミス・ヴァリエールに
見ていただいたのは、ゲルマニアで作られている鎧用の板金です。ゲルマニアはハルケギニアで最も鉄鉱業が盛んな国。
そこの板金ともこの鎧の素材は違うのです」
さらに、とコルベールは続ける。
「失礼ながら強度実験もさせていただきました。単純な衝撃の耐久度で、ゲルマニア鋼が割れた力が1とすれば、貴方の鎧の鋼材は
その3倍以上の耐久性を持っている。これは研究者として脅威を感じますぞ」
「ぐすっ…鉄なんてどれでも同じじゃないんですか」
鼻声になりながらルイズが聞く。
「それは大きな間違いですぞ。ただの鉄なら曲げや焼きで強度を多少変えることが出来ますが、鋼となるとそうはいきませんぞ。
ただの板金なら知らず、着込む為に形を変える鎧ならなおさらですな」
「そう…ですか」
コルベールの熱い説明がルイズをむしろ冷やすようで、たじろいたルイズがよろけて転ぶ。
「あうっ!…ほ、埃が!…くしっ!くしっ!」
転んだ拍子に舞い上がる埃でくしゃみの止まらないルイズ。その様が可笑しくてたまらないとギュスターヴは笑った。
「ハハハハ、何やってるんだよ。…さて、コルベール先生がお聞きしたい事は結局なんでしょう?」
「はい。ずばりこの鎧の鋼材の原産、あと製法をお知らせ願えますかな」
コルベールの目は真摯だ。本当に研究意欲の結果として話を聞きたいのだろう。果たしてギュスターヴは知られずに悩む。
(うーん…製法は、まぁ、いいとして。鋼材の出所…か…)
まさか異世界サンダイルはワイド候領製です、なんて真正面から言っても聞きはしないだろう。
「鋼材の製法は、多少はお教えできます。その鎧は俺が自分のために作ったものですから」
「なんと!それは本当ですか?!」
「ええ。その代わり、原産や由来については、お教えできません。それでもよろしいですか」
「ええ!ええ!いいですとも!」
鋼材の作り方と加工の簡単な仕方を提供する代わり、原産については伏せる。簡単な交換条件だが、情報の優先度からみれば
妥当だと言える。
そんな具合にコルベールがギュスターヴの話に夢中になっているのを見て、ルイズはタバサに感じたような、疎外感を受けた。
(コルベール先生も、ギュスターヴの話に耳を向けるのね…皆、ギュスターヴばかり見て…!嫌ね、私。使い魔に嫉妬してる)
身体にまとわりついた埃を払いながら、あてどなく部屋を物色し始めたルイズ。しかし思考は目に映るものを捉えていない。
(私も何か出来るようになりたい…魔法じゃなくてもいい。人として人の役に立ちたいわ。今のままじゃ、どう転んでもゼロのルイズだもの…)
ぼんやりと部屋壁に沿って並ぶ棚のものを眺めていたルイズは、一つの奇妙な櫃(はこ)を発見した。
「これは…?」
それは、縦横が20サント、高さが80サント程の細長い櫃。それは棚に収まらず、棚と棚の隙間に押し込むように置かれていた。
そっと指で櫃を撫でてみる。指先に積もった埃が残るが、指痕の下は光沢のある黒だった。
櫃は手をかける所がまるでない。装飾らしきものはあるが、鍵穴も取っ手もない。一体これはなんなのだろうと、よく見るべく両手を
伸ばしたその時。
「それに触れてはなりませんぞ。ミス・ヴァリエール」
背筋に氷が突き刺さったような感覚が走る。数拍して、それが後ろに立っていたコルベールの声だと気付いた。
「え…あ…その…」
ルイズの反応に気付いたコルベールは、顔に困ったような表情を浮かべた。
「いやぁ、その。その中にはかなり私物が入っていましてな。流石に…それを見られるのは困りますぞ」
「えっ?!その、失礼しましたっ!」
ルイズもなんだか判らない。声をかけた瞬間のコルベールは、まるで冷たい鱗が首をなぞるような雰囲気を纏っていたが、次には
いつもの穏やかな顔に戻っていたのだ。
話の途中ですっ飛んでいったコルベールをギュスターヴが呼び戻す。
「先生、話の途中ですよ」
「あー!いや、すみません」
そそくさと戻っていくコルベールの背中を見送るルイズは、びっくりしたまま混乱する頭を抱えた。
「な、なんだったのかしら…」
『シエスタは何処へ?』
そんなやり取りが繰り広げられた日。タバサからデルフと短剣を回収してから、ギュスターヴはいつものように地下厨房へ赴き、
食事をもらおうとした。
フーケ捕り物騒ぎ以降は以前よりも親身にされて歯がゆいながら、他に食事の当てが無い以上ここに通うのだ。
近頃は試作料理の味見なんて任されてしまったりもする。
丸椅子に座って芋の転がったシチューを食べようとスプーンを伸ばしていると、ドカリと隣に誰かが座った。
覗くギュスターヴ。その者は恰幅よく、料理人をあらわす白いスカーフを巻いている。そして片手にワインボトルを持ち、空いた手に
ジョッキを握っていた。
「どうしたんだよマルトー。まだ深酒には早いぞ」
「おーぅ」
一応貴族向けの料理が出終わっているとはいえ、この後もマルトーには仕事がある。しかし今日のマルトーは、食堂のテーブルに
ぐったりとしながら手のジョッキに波々とワインを注いで、ぐっと呷った。
「ふはぁ…」
「ショットにしては多すぎるぞ…。どうした」
「なんでもねぇよー。こんちくしょー」
すっかり出来上がっている。周りに聞くと既に3本は開けているらしい。
「なんでもないって…どうみでも自棄酒だろう」
「うるせーなぁ!俺がどこでどれだけ酒飲もうとかんけーねぇだろ!」
もう呂律が回ってない。
「おまえさんよー、フーケつかまえてからぁ、ちょうしにのってんじゃねぇかぁ?」
「何?」
「あのこるべぇるって先生はなぁ、とんでもねぇかわりもんよぉ!いつだったかなぁ、ちゅうぼうにやしょくつくってくれっていってよぉ?
なにもってこさせたとおもうぅ?」
「知らないよ」
「なんと!あの先生はなぁ、しんせんなほうれん草とワインをもってこいっていったのよぉ!つかれにはこれが一番きくんだとよぉ!
とんでもねぇへんじんよぉ!」
なんだかもう話してる内容も目茶苦茶になっている。ギュスターヴも相手をするのが辛い。
(こういう時はシエスタに任せたいなぁ。シエスタは……)
ギュスターヴは食堂にいるであろうシエスタを探した。この時間は大体、シエスタはお勤めを終えてのんびり夕食を食べているはずなのだが…。
「……シエスタがいないな」
一言。マルトーは直前までぅーぁーと呻いていたがぴたりと止まった。
マルトーの前に置かれたシチューへスプーンが突っ込まれる。空になった何度目かのボトルが転がり、ぐるぐると
シチューをかき回すマルトーの目は、酔いだけでもなく淀んでいるようだ。
「…マルトー」
「おぅ」
「シエスタはどうした?夕食の時間にいないなんてらしくない」
「おぅ」
「マルトー」
「わかってるよ!」
どん、とマルトーの拳がテーブルに落ちる。びくりとしたほかの奉公人がそそくさとテーブルを移る。カミナリのとばっちりは受けたくない。
水をもらってきてマルトーに渡す。マルトーはぐいっと呷って、深く息を吐くと、再びシチューをかき混ぜながら話し始めた。
「今朝よ、モット伯だかっていう、偉い偉い貴族様が来てよ。なんでもシエスタを屋敷のメイドとして欲しいって言うんだよ」
「それじゃ、シエスタは」
「おうよ。昼間付けでモット伯のお屋敷付きのメイドにされちまったよ。そりゃ勿論、俺は抗議したよ。シエスタはよく働く娘だ。
あれの実家とは知り合いでよ、その伝でシエスタはここに働いてたんだ。
それなのによぉ…あのにくったらしい貴族のだんながよぉ、何を出したと思う?」
憤りと涙でマルトーの声が震えているのがギュスターヴにはわかった。
「俺に『いいメイドは高いのは当然だ。君個人にも世話賃を出そう』なんていいやがって、袋一杯の金貨を叩きつけやがった。
後で聞いたら、平民の雇い入れを仕切る学院のお貴族様もそうやって金貨袋で首を振ったんだそうだぜ。そこで俺が袋をつきっ返してみろ、
面子を潰したなんていって厨房に何が押し付けられるかわからねぇ」
「…」
「くそっ!なさけねぇ。結局、貴族の身勝手に平民はいつも泣かされるしかねぇ…チェスのコマみてぇなもんよ。あっちに持ってかれ、
こっちに持ってかれしてよぉ」
再びマルトーがワインを注いで飲み始めた。マルトーの話を裏付けるように、厨房の皆は鎮まったまま。ギュスターヴが顔を向けると、
苦しく表情をそむけるのだった。
「ミス・ヴァリエール。そこの赤いラベルの試験管と黄燐の入ったボトルを持ってきてください」
「は、はぃ…」
夕食が終わり、とろりとした時間が流れるはずの夜。ルイズは未だコルベールの研究塔に残され、コルベールの
助手の真似事をやらされていた。実技の単位をくれる代わりに、という約束なのだが、こと研究にかけてはパワフルなコルベールについていけず、
大分疲れの色が濃い。
そんな夜の研究塔を訪ねるものが一人。ノッカーを響かせる。
「開いておりますぞー!」
手を離せないコルベールが声を張って訪問者に答えると、両開きの扉の片方がゆっくりと開かれて、来客を迎えた。
来客はギュスターヴだ。ただしその手には布をかぶせたバスケットを持っている。
「失礼。夜食をもらってきたんだ…お疲れ様」
「おお!お手をかけして済みませんな!ミス・ヴァリエール。休憩にしましょう」
そう言うとコルベールは手の器具をしまってテーブルの一つを空けるために器具や紙束を動かし始める。
ルイズはやっと休めるという顔でギュスターヴを見た。
「だいぶこき使われたみたいだな」
「う、うるさい…」
ギュスターヴの皮肉にも答える気が出ない。
夜食はパンとデザートワイン、それにパンにつけて食べるほうれん草のペースト。ペーストは胡椒と塩が混ぜてあって塩辛く、
スプーンの半分もあればパンが何切れも食べられる代物だが、コルベールは一切れのパンにたっぷりと盛って口に運び、
それからワインの注がれたグラスをくっと飲んだ。
「ふぅ」
「健啖ですね…」
ルイズはあまり食欲が湧かないのか、ワインをちびちびと飲んでいる。
「で、何の話だったかしら」
「モット伯という貴族にシエスタが買われていったという話さ」
ギュスターヴは夜食を摂る二人に厨房で聞いたことを話した。シエスタにもマルトーにも世話になっているギュスターヴは、
何かしらこの件に関して助力できないものかと考えていた。既に買われていってしまって、何も出来ないかもしれないという思いを残して。
「シエスタって、あの髪が緑色のメイドよね…。でも、メイド一人居なくなっても代わりがいるでしょう?」
「さて、事はそれだけで済みますかな…」
胃に物を収めて落ち着いたコルベールは、今度はワインを水で割って飲みながらルイズに話す。
「どういうことでしょう?」
「モット伯は王宮の勅使として数月に一度学院にやって来られますが、今回のように学院付きのメイドを私的に買い取るように
持っていかれる事は、以前からたびたびありましてな。少し困っておるのですよ」
「ならモット伯の要求を突っぱねればよいじゃありませんか」
「そうが簡単に出来ないのですよ。……例えば、オールド・オスマンに聞いた所、戒厳令を敷いたはずなのに既にモット伯はフーケが
一度学院に侵入して脱出できたことを知っておりました」
フーケの侵入による破壊の杖盗難事件は、王宮側には以下のように知らされている。
「土くれのフーケと名乗る賊が某日夕方未明に学院へ侵入、宝物庫の壁を破壊し『破壊の杖』を奪い脱出しようとしたが、学院付教師や生徒、
特にミス・ヴァリエールと留学生のミス・ツェルプストー、ミス・タバサら三人の積極的な活動によって捕縛、盗難品の回収に成功した」
つまりフーケが一度学院から逃げ出すことが出来た点については伏せられていた。しかしモット伯はそれを知っていたという。
「これだけではありませんぞ。モット伯は王宮の勅使として様々な貴族や公機関とのやり取りをしているせいか、情報に聡い。
情報をちらつかせて個人的な便宜を図っておられるのでしょう」
「滑吏というやつだな」
「何よ…それ…」
疲れた体に酔いが早いのだろうか、徐々にルイズの目が据わってきている。ギュスターヴはパンを齧りながらルイズに聞かせる。
「王から役職を与えられた臣下が、役職の権限を使って私腹を肥やす。大なり小なりどこにでもある」
「許しがたいわ!名誉ある勅使がー、役職を嵩にー、汚職を進めるなんてー」
呂律が怪しくなってくるルイズの対応にコルベールが困り始める。
「やや、ミス・ヴァリエール。深酒はあまりよろしくありませんぞ…」
「いいれすかーみすたー。きぞくとゆーものはれすねー!」
「は、はい」
「なんで今日は酔っ払いばかりの面倒を見るんだ…」
ギュスターヴは素面なのに頭がいたい。
夜が回っていく。酔いと説教の果てにテーブルへ突っ伏して寝てしまったルイズを抱き上げたギュスターヴは、そのままコルベールに礼をした。
「それじゃ、部屋に戻ります。鎧の方は預かっててもらえると助かります」
「そうですか。長々と居させてすみませんな」
再び礼をして振り向き、扉に手をかけるギュスターヴ。
「ミスタ・ギュスターヴ」
「…何か」
「…先ほどのメイドの件、いかがされるつもりで」
「さて…」
シエスタがあまり良い環境に移ったわけではないことは明白だ。しかもモット伯の話を聞くに使用人は平民から召し上げたメイドばかりのようだ。
ギュスターヴに培われた勘がざわつく。
「…モット伯の屋敷は学院から南へ80リーグのところですぞ」
ハッと、コルベールを見た。暖かな瞳にうっすらと、部屋明かりの炎が映り込んでいる。
「それを私に何故教えます?コルベール先生」
「さて…どうしてでしょうな」
静かになっていく塔の中を、規則正しく上下するルイズの寝息だけが聞こえる。
ギュスターヴはもう一度深く礼をしてから、扉を開けて出て行った。
コルベールはそれを見送り、扉が閉まった後、テーブルの上で深いため息を漏らすのだ。
「彼が何かしらの仕手を携えている、それは判る。しかしそれでも…私は罪深い…」
ルイズを部屋で寝かせてから、ギュスターヴは厩に向かい馬をもらおうと足を進めたが、広場に差し掛かったところで、
上空から広場にむかって降りてくる大きな影を捉えた。
降りてきた影は一つだが、大きな影から小さな影が分かれて地面に立つ。手のランプを掲げて正体を確かめると、既に見知った少女と、
その使い魔である。
「タバサ。こんな夜中に外出か?」
普段通りで静かにタバサが頷く。
「貴方は?」
「少し、野暮用でな…」
視線を外すギュスターヴはしかし、無意識の内に腰のデルフに手を掛けている。
「相棒、ちびっ子の竜に乗せてってもらった方が早いぜ」
「?」
何の話だろう、と首をかしげたタバサにデルフがカタカタと鳴る。
「世話になったメイドが浚われたから相棒が助けに行くのよー!」
「余計な事をしゃべるなよデルフ」
「いーや。しゃべるね。最近はちびっ子の方が俺様の話し相手になっちまって、相棒の扱いわりーんだもの」
「このボロ剣…」
剣と男のやり取りを聞いたタバサは、杖の先でこんこんと、使い魔の竜の頸を叩く。シルフィードは頭を低くしてくれる。
「乗って」
「おお!話がわかるねー。乗せてもらいな相棒」
「勝手に話を進めて…。いいのか、タバサ?」
再び静かに頷いた。数拍の間、ギュスターヴの思考が巡る。既に夜だ、時間は早い方がいいだろう。
「ありがとう、タバサ。後でお礼をしなくちゃいけないな」
タバサに促されてギュスターヴは人生で初めてだろう竜の背中に陣取り、タバサの声とともに飛び上がった竜が空を高く抜けていった。
#navi(鋼の使い魔)
#navi(鋼の使い魔)
その日は朝食をもらいに厨房に行ったところ、いつもより人手が少なく感じた。
不審に思ったギュスターヴはマルトーに聞く。マルトーは厨房の弟子達をどやし付けながら答えてくれた。
「いやぁ、なんでもよ、今日は学院にアンリエッタ王女殿下が行幸しにくるってんで、式典に人手を取られちまってよ。
お陰で貴族向けの食事に手一杯で賄が適当になっちまったぜ」
「そう言うなよ、十分旨いぞ。…そうか、王女が来るのか」
「おうよ。なんと言ってもアンリエッタ王女といえば、トリステインに咲いた一輪の白百合!その美貌は一流貴族から底辺這い付く乞食まで明るく照らす、なんて言うんだぜ。
教師方もてんやわんやよ」
空言のようにギュスターヴには聞こえてくる。恐らくマルトーにとっては、雲の上の人のことより今日明日の仕事の方が大事なのだろう。
朝食後。ギュスターヴは時折、ルイズについて授業を見学するのだが、今日もそのつもりでルイズに合流し、廊下を歩きながらマルトーから聞いた話をした。
「王女が来ると聞いたけど、本当か?」
「ええ。アンリエッタ王女殿下が起こしになるから、今日の授業は半分で済むのよ。その代わり、生徒全員で式典に参加してお出迎えしなくちゃいけないのよ」
どうやら知らなかったのは周りで自分ひとりだったらしいと、ギュスターヴは心の内で自嘲しながら、噂から聞いた疑問を投げかける。
「王女は先王の娘だと聞いたけど、今の王は誰なんだ?」
「アンリエッタ殿下の母上であらせられる、マリアンヌ女王陛下よ。…といっても、政務の殆どは宰相のマザリーニ枢機卿が執っていると聞いてるわ」
「へぇ…」
一言発してから静かになったギュスターヴを、ルイズは覗き見る。その顔はいつだったか、剣を買いに行ったときに見せた鋭いものだった。
(前にもこんな顔してたわねこいつ。…何考えているのかしら)
質問されっきりで放置されてルイズは少し不愉快だったが、ギュスターヴの見せる顔は普段の温かいものとは違った、研ぎ澄まされた宝剣のような美しさを感じてしまう。
(い、嫌だわ!私ったら…。使い魔に見とれるなんて、まるでギーシュみたいじゃないの!)
尚、引き合いに出されたギーシュは最近、女性関係に疲れて使い魔のヴェルダンテに癒しを求め始めたともっぱらの噂なのだった。
さて、そんなルイズの視線をよそに、ギュスターヴは思考の中で情報を整理するのに真剣だった。
(女王が殆ど政務を執らず、宰相が執っているというのは…女王に政務を取り仕切る能力がないのか?)
平時ではそれでも良いのだろう。しかし動乱激しいサンダイルで育ったギュスターヴにとって、それは少し危ういように思えるのだった。
『舞台、その裏は…』
そのように黙考をめぐらせながらやってきた教室の隅にギュスターヴは陣取り、なるべく授業の邪魔にならないようにと努める。
使い魔お披露目以外の時でも、教室に使い魔を入れるのは概ね了解されているため、教師も、他の生徒達も、とりあえずはギュスターヴが居ても放っておくのだ。
たまにギュスターヴにちょっかいを出す者、或いは、ギュスターヴを攻める形で間接的にルイズを罵るような輩もいるが、余程大騒ぎしない限り、ギュスターヴもルイズも
無視するようになった。
ギュスターヴはより多くこの世界の情報に接したかったし、ルイズは自分を磨くという目的に専心できるようになったからだ。特にルイズは座学では元から優秀だった為、
学科の授業ではそれは顕著だった。
徐々に時計が回ってゆき、教室に人が入って温まってきた頃、出入り口の一つから教師が入ってくる。彼は教壇の前に立って机に座る生徒達を見渡して言い放った。
「諸君。知ってるとは思うが、私の二つ名は『疾風』、疾風のギトーだ。今日は四属性の性質について、あらましながら触れたいと思う。さて…」
ギトーと名乗った教師は、細く吊りあがるような目で教室を見て、一角に座っていた赤髪の女生徒に焦点を絞った。
「ミス・ツェルプストー。質問に答えてもらえるかね」
「なんでしょうか。ミスタ・ギトー」
「この世に存在する魔法属性の中で、最も強大なものはなんだと思うかね」
問われたキュルケは、一呼吸置いて答えた。
「虚無ではありませんか?」
「私は伝説の話をしているのではない」
ギトーはキュルケの答えに鼻で笑う。その振る舞いがキュルケには不快だった。
「では、火だと思いますわ」
「ほぅ。それはなぜかね」
「火はあらゆるものを燃やす、破壊と情熱の力ですもの」
髪を掻き揚げて胸を張るキュルケ。ちょっとした意趣返しのつもりである。
「ふむ。なるほど。その答えには一定の真実が含まれている。では」
言葉を切ると、ギトーは腰から杖を抜いて構えた。
「私を火の魔法で傷つけることが出来るかね?ミス・ツェルプストー」
教室が俄にざわりと震える。問われたキュルケも驚いた。
「…本気で仰いまして?ミスタ」
「無論だ。君の得意な火の魔法を私に放ちたまえ。君が火を最強と言うのであればな」
(遊ばれている…)
いちいち物言いが不愉快な教師である。キュルケは胸元から杖を抜いて立ち上がり、構えた。
杖先に意識が集中される。火花のような種火が上がり、それは風船に息を吹き込むように膨らんでゆく。
膨らみきった火球は、直径1メイルはあるだろう大火球となってキュルケの杖先に出現した。
その熱気を恐れて周囲の生徒が避難を始める。
「『フレイム・ボール』!」
杖を振って火球がギトーに向かって飛ぶ。通る道の空気を焼き焦がしながら飛ぶ小太陽に向かって、ギトーはルーンを唱えてから、サッと杖を振った。
火球はギトーの胸元まで迫らんか、という時。見えない壁に遮られたようにその進行を止めてしまった。
火球はギトーの目前で轟々と燃え続けていたが、やがて徐々にその勢いを弱めて小さくなり、最後には消えた。
ギトーはその様を満足げに確認してから、視線を教室全体へ移す。
「諸君。ご覧のとおりだ。強大な破壊力を秘めた火の魔法でも、私が操る風の前にはその力が及ばなかった事を覚えて置いていただきたい」
キュルケは鼻白んだ。なんという教師だ。生徒を己のダシに使うとは!
対して一騒動終わったようだ、と避難した生徒達が席に戻っていく。
「勿論、あらゆる真理を押しのけて風が最強だ、とは言わぬ。しかし、風は大気ある限り普く作用することができる、という点で他の属性を凌駕できる。
火は水の中では燃えぬ、土は大地から離れては使えぬ、というように。同様の点で水の属性もまた、広い領域に作用する魔法である。メイジの中には
風と水を混ぜて氷の作用を起こし、これを操るものが多い」
ピクリ、とキュルケの近くの席に座って授業を受けていたタバサが反応した。
しかし、とギトーは続ける。
「残念ながら、氷の変化に頼るメイジは、二流と言わざるをえない。なぜならば、風の属性には、その性質ゆえに他の属性には決して真似できぬ技術が存在するからだ。
今からそれをお見せしよう」
そう言うとギトーは、再び杖を構える。今度は先ほどより強く集中しているのが雰囲気にもわかる。
「ユビキタス・デル・ウィンデ…」
ルーンが完成しつつあった瞬間、外側から誰かが教室の扉をドンドンを激しく叩いている。
ギトーは神経を散らしたらしく杖を収めた。
「…どなたかね」
不機嫌そうなギトーの声を聞いて開かれた扉から入ってきたのは、コルベールだった。
しかし、その格好は普段とは大きくかけ離れている。普段のそれよりも上質のローブを纏い、それの襟には細やかなレースが付いている。何より印象を大きく変えるのは、
不釣合いなほど立派な金髪ロールの鬘だ。普段の彼を知るものから見れば冗談にしか見えないようなゴージャスなロールヘアである。
開口一番、コルベールはギトーと生徒全体に聞かせる。
「皆さん、授業は中止ですぞ!至急生徒と教師一同は装いを改めて正門前に整列、王女殿下をお出迎えしますぞ」
「ミスタ・コルベール。式典までまだ時間があるかと思いますが…」
ギトーは懐の時計を見る。まだいくばくかの時間があるはずだった。
コルベールは重たい鬘に頭を振り回されながら答える。
「いえ、それがゲルマニアを予定より早く起たれたとの事で、学院への到着も早まると伝書が届いたのです。良いですか皆さん。殿下の御覚えよろしくなれるよう、
杖を磨いて準備するように!」
さて、そんな具合に徐々に学院が慌しくなってゆく頃、学院へと続く長く引かれた街道を、とある一団が進んでいた。
ユニコーン四頭で引かれた、豪奢な馬車が一台。さらにその後に重種馬二頭引きの馬車が進み、その前後を猛々しい幻獣に乗った兵士数人が囲んでいる。
馬車の側面と正面には、磁器で作られたような滑らかな光沢を放つ、ユニコーンと白百合をあしらったレリーフが誂えていた。
王女の紋章である。
街道を揺れる馬車の中で、一人の女性がため息をついた。揺れに任せる深紫の髪が憂いの表情を彩る。その姿は上質のドレスを纏いながらも、そこから
あふれ出るような高貴を放つ。血筋の良さと温和な精神とが生み出す円やかな美しさであった。
「また、ため息をつかれますか」
そんな絶世の美女に同席するのは、一人の壮年の男だ。この男も女性と同じように上質の布を用いた服を着ている。その姿から
高位の官職を受けた人間であることがわかるが、女性と違い、つや肌や振る舞いに品位がにじむ、というものではない。むしろ消耗し、生気が枯れ始めたような
雰囲気さえある。
「ため息も出ますわ」
何を隠そう、この二人こそ学院の人間達が狂騒して待っているトリステイン王女、アンリエッタ殿下と、トリステイン王国の屋台骨を支える宰相マザリーニ枢機卿である。
「それほどまでに嫁がれるのがお嫌と見ますな」
「ええ。このトリステインの王侯貴族の中に、好き好んでゲルマニアと縁を繋ごう、というものがおりますか」
この王女殿下・宰相一向は先日、隣接する大国ゲルマニアとの会談と一定の政治的合意を得て帰国したのだ。
それはつまり、『アンリエッタ王女と、ゲルマニア皇帝アルブレヒト三世との婚約』並びに『トリステイン・ゲルマニア間の互助軍事防衛同盟』である。
「あのような成り上がりの男の妻になれだなどと、よくも言えますわね」
「殿下。失礼ながら我がトリステインには他に選ぶ選択がございませぬことを、ご存知でしょう」
「存じてますわ。私達には剣が足りませぬ。そしてゲルマニアのあの男には高貴な血筋が足らぬのです。ですから今回の盟約が成るのでしょう」
既に旅すがら王女を説得すべく話し続けたマザリーニの言葉である。アンリエッタはうんざりしながら諳んじて見せた。
「アルビオンの内乱が進み、王軍が倒れようとしている。反乱軍は『レコン・キスタ』を名乗り、アルビオンを併呑の後には、トリステインを始め諸外国への侵攻も
仄めかしている。あろう事か『始祖への信仰』を謳って」
始祖が与えた三つの王権の一つ、アルビオン王国は、数年前から続く内乱に見舞われていた。反乱軍は『レコン・キスタ』を名乗る貴族同盟であり、彼らは
現在ある始祖の三王国に対して『現在の王権は聖地の奪還を忘れ腐敗しきっている』と声高に宣言した。
「アルビオンが落ちれば地理的にいえば第一に狙われるのが我が国です。しかしながら強大なアルビオンの軍勢と対するには我が国はあまりにも脆弱なのですよ」
「でも、何度聞いても要領を得ないのです。始祖から授かりし王権と王家が潰えるなどありうるのでしょうか」
マザリーニに向かって真顔で答えるアンリエッタ。彼女は幼い頃より帝王学の指導を受けなかったせいか、政治的素養が弱い。これは現女王マリアンヌの方針であった。
(ああ、先帝陛下がご存命であれば、もう少し策もあったものを…)
マザリーニの懊悩は深い。
先帝はあまりに若く、かつ急な崩御を迎えた。国内はその死に混乱したが、マザリーニは情勢を安定させるために喪に服していたマリアンヌ王妃を強引に玉座に据えた。
形式としても玉座が空のままでは国を傾ける、と考えた為である。
しかしマリアンヌは先帝が英邁であったためか政治的感性も興味もまるで持たなかった人だった。玉座を埋めたこの3年間も、マザリーニ他宮廷の高官達の
説得や讒言に応じず、ただ玉座を暖めて過すのみ。これでは国難を乗り切ることはとても出来ない。それで今回の盟約となったのだ。
国難を退く一手の期待を負う羽目になったアンリエッタは気の晴れない表情のまま終始している。マザリーニは窓を隠すカーテンを開けて併走する幻獣騎兵を手招いた。
体躯の張り詰めた逞しいグリフィンにまたがる兵士は、唾の広い羽帽子を被っている。
「お呼びでしょうか。猊下」
「殿下のお気が優れぬ。何か気晴らしをさせて見せよ」
兵士は一礼して列を少し離れ、軍隊式の杖を構えて振る。鋭く伸びたつむじ風が、陽気に向けて開かれた野花達を摘み取って戻ってくる。兵士は
シルクのハンケチーフを取り出して、即席の花束を作って見せた。
馬車の反対側に回ると、カーテンを開けたその向こう側に、美しいトリステインの白百合が手を伸ばしていた。
「殿下御自らのお手で受けられるとは。恐縮でございます」
渡された花束が馬車の中に消えて、再び伸ばされた手に兵士は恭しく口付けて見せた。
「お名前は?」
「魔法衛士大隊、グリフォン中隊長。ワルド子爵と申します」
憂いながらもワルドと名乗った兵に向かって視線を垂れる王女。その姿は透けるような美がある。
「貴方は貴族の鑑ね」
「殿下の卑しき僕にございます」
「…貴方のような忠誠深き臣下ばかりなら、トリステインも大安であったのですがね」
「悲しき時代でございますな、殿下」
「貴方の忠誠と行動に期待しますわ」
「勿体無きお言葉を…」
礼をして再び警護の中にワルドは戻っていく。カーテンが閉められ、アンリエッタの視線がマザリーニへ移る。
「彼は信用できるのですか?」
「あの者は衛士大隊でも指折りの猛者でございます。『閃光』の二つ名を以って呼ばれ、アルビオンの竜騎士大隊兵らにも劣らぬ男にございますが」
「ワルドと名乗っていましたね。聞き覚えがあるのですが…」
「ラ・ヴァリエール領に近い所ですな」
「ヴァリエール…」
アンリエッタの思考が遠くへ耽っていく。その素振りがマザリーニには奇妙だった。
「……何か」
「いえ…なんでもありませんわ」
「……そうですな。たしか先日のシュバリエ申請の書類に、ヴァリエール公の御息女の名がありましたな」
埒も無い話が漏れて、再び記憶を手繰り寄せるアンリエッタ。そう、以前裁務の代行を務めた時、書類の中に一つ。
盗賊を捕まえるのに尽力したとして名前が挙がっていた。
それは幼き日々に忘れていたような懐かしい名前であった。
「…殿下」
「…なんでしょうか」
三度、過去想いに耽っていたアンリエッタを、マザリーニは諌める声で現実に引き寄せた。
「近頃宮廷内でも『レコン・キスタ』に組しようと暗躍する一派がおります。付け込まれぬようお願いしますぞ」
「判っておりますわ……」
「その言葉、信じますぞ」
「嘘は申しません。私は王女ですもの」
目を細めてマザリーニがアンリエッタを見る。
アンリエッタは手に持つ花束を見た。生きた土の匂いが染み付いている。
(ウェールズ様……)
花は馬車の揺れに合せてゆらゆらと動いていた。
#navi(鋼の使い魔)
表示オプション
横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: