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「眼つきの悪いゼロの使い魔-無謀編2」(2008/11/29 (土) 19:40:38) の最新版変更点
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キエサルヒマ大陸において、魔術士養成機関の最高峰とされる牙の塔。在籍する者たちは皆、教師、
生徒を問わず卓越した黒魔術士である。その牙の塔においてなお、特別と目される教室が一つあった。
大陸最強の黒魔術士チャイルドマンが擁するチャイルドマン教室である。
そこに、一人の青年がいた。明らかに内規に抵触する長髪を肩へたらした陰気な男。ナイトノッカーの
二つ名でも呼ばれていたその男の名は、コルゴンと言う。
そしてハルケギニア、ガリア王国の王宮に、いつからか一人の男がふらりと出入りしていた。肩に届く
黒い長髪。鎖の織り込まれた、袖つきの奇妙な黒マント。杖を持たず直剣を腰に吊るす姿は、貴族たちに
とって蔑視に値する。
男へ近づく者は、貴族、平民を問わず王宮にはほとんどいない。それは男の持つ殺し屋めいた雰囲気が
一因ではあったが、やはり彼の立ち位置がそうさせたのだろう。貴族ではない彼は、騎士ですらない彼は、
無能王ジョゼフの何か私的なエージェントのような役目を担っていた。
分け隔てなく忌避され蔑視されている男。しかし、誰もがその男を不思議と無視できない。話題に乗せる
ことは無くとも、皆が意識のどこかにその陰気な立ち姿を記憶していた。
男の名を、同じくコルゴンと言う。
早朝、鳥の声がやかましく響く中で、コルゴンは本を読んでいた。王宮のはずれの一室。たいして広くも
なく、調度品もほとんどない。宛がわれた部屋をそのまま使っているかの風合いであった。特徴と言えば、
椅子の横へ乱雑に積み上げられた書物と、壁に掛けられている真四角な鏡くらいだろう。
積まれた書物に規則性は無い。歴史や経済について記されているの物もあれば、料理本がその間に
挟まっていたりもする。書店で目に付いたものを適当に買ってくれば、きっとこのようになるだろう。
きしきしとうるさい椅子に腰掛けて、コルゴンは静かにページを捲る。丸い個人用の机には、恐らく朝食
だろう、硬そうなパンと塩スープがあった。
そして、苦労して噛み千切ったパンの欠片をスープで流し込んでいる最中に、鏡が明滅しだす。壁に
掛けられた真四角の大鏡。この部屋唯一の調度品ともいえるそれは、四、五回の明滅を終えてから、
一人の女性の姿を浮かび上がらせた。
黒い長髪。コルゴンのものよりもさらに長い黒髪は腰ほどもある。やや鋭角な印象を見る者に与えるが、
寒気のするほどに整った美貌であった。
「お食事中に失礼。陛下よりの勅命です。拝聴なさい」
慣れたことなのか。突然鏡に映り、切り付けるようにして告げる女を横目にしながら、コルゴンは驚いた
様子もみぜずにパンを飲み下す。次いで、パンッ、と軽快な音をさせながら本を閉じて言った。
「良いところにシェフィールド。実は君に相談がある」
「……相談?」
鼻に皺を寄せて、シェフィールドと呼ばれた女が小声で繰り返す。本来ならば勅命を遮った無礼を咎める
べきだが、男の口にした意外すぎる台詞がそれを封じた。相談。これほどこの男に相応しくない言葉が
あるだろうかと、短い付き合いの彼女でさえ思う。
「ひょっとして、万が一のことではあるが、やはり俺はここでは異邦人に過ぎん。現地人の意見を軽んじる
べきではないと判断した」
「なら、あまり私の意見は参考にならないと思うけど……」
「うん? そうなのか」
「なんでもない。いいわ、言ってみなさい」
早く話を終わらせたい一心で促す彼女へ、割合素直にコルゴンは頷く。
「俺はひょっとして……王宮の人間に嫌われてないだろうか?」
さすがにどう返答していいのか分からず、シェフィールドはもごもご口を動かす。
「だとしたら、奇妙なことだ」
「そ、そうなの? あなたちょっと愛想に欠けてるし、そんなに驚くことじゃ――」
「以前、六年ほど前だ。愛想については、今の君と同じと思えなくも無い指摘を受けた際に改善している。
一晩で」
「……えーと」
実に無感情に、平坦に、石のように喋る男を見ながら、やはり返答の言葉が見当たらず口ごもる。
「ああ。……そういえばその後、後輩から奇妙なことを言われたな。細部は違うかもしれないが、
大意はたしかこうだった。お前は死ぬまでそのままだから無駄なことはするなと。」
「……どちらかと言えば後輩さんと同意見なんだけど」
「チャイルドマンにしろ後輩にしろ妻にしろ、難儀な思考をする連中ばかりだった」
「その人たちもあなたには言われたくないで――」
瞼を閉じてぼそぼそと呟いている最中に、ふと違和感を覚えてシェフィールドは顔を上げる。
「あなた結婚してたのっ!?」
「? なぜ驚く」
「驚くでしょ普通!」
「まあすでに離縁しているが」
ぽつりと呟かれた男の言葉に、シェフィールドは多少の冷静さを取り戻す。乱れた髪を一度撫で付けて
直してから咳払いをし、改めて国王の命を告げようとして、
「俺の目的のために人柱になってくれと妻に依頼したら、なぜか銃撃されてな」
「さては馬鹿でしょうあなた」
再び会話の方向性を見失う。頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ始めたシェフィールドを眺めて、
コルゴンは相変わらず感情の窺えない口調で、静かに告げた。
「ところでジョゼフの命令とやらはまだか? 先程から待っているんだが」
「あなたが余計なことばかり言うからでしょうが! あと雇用主のことを呼び捨てにしない!」
さすがに耐えかねて声を荒げる。しかしコルゴンはそんな彼女へ鼻を鳴らすという反応を見せた。
「あの男との間で交わした契約のなかに、尊称で呼ぶなどといった項目は無い」
「そういう問題じゃなくて! 被雇用者が雇用者を普通呼び捨てにしないでしょう!」
「……ふむ。それはもしや、」
彼は一瞬、生涯解け得ぬ難問に挑む哲学者のような表情を顔に刻み、言った。
「常識というやつか?」
「……そのとおりよ」
ぐったりと疲れたように顔を伏せて、シェフィールドは小声で呻く。
ジョゼフ王からの命を聞き終えてから、コルゴンは厩舎へ向かった。目的地までの足となる馬を確保する
ためだ。その途中で、彼は一人の男とすれ違う。背丈も体格も自分と同程度、砂色の外套で全身を包んで
いる。フードから覗く白皙の容貌には覚えがあった。フードで隠されている、その長い両耳にも。
視線が瞬時、交わされる。互いの顔も名前も知っている、どこか似通ったところある立場の二人。だが、
彼らは特に興味を抱いた様子も無く、お互い視線を切りとおりすぎた。この時は、まだ。
塩を含んだ粘り気のある風が、コルゴンに吹き付ける。陽光を反射させる海面が容赦なく視界を焼く。
美しいといえる周囲の景色はしかし、無骨な造りの船によって裏切られていた。
海に面した浅橋に並ぶ帆船は全て軍艦である。鉄塔に繋がれ宙に浮いている船、全長百五十メイルは
ある巨大な木造船もまた軍艦であった。ここはサン・マロン。ガリアの誇る軍港、海沿いにあるガリア
空海軍の一大根拠地である。
コルゴンは一度浅橋に連なる帆船を眺めやってから、鉄塔へ繋がれた戦列艦群に視線を転じた。相も
変らぬ暗い瞳は、それなりの驚きを奥に潜めている。彼にしてみれば、目前の光景はかなり非常識なもの
であった。
最大のもので全長五十メイルの艦。それを運航するための人員が中にいる。そしてその人員のための
糧食に水を加えれば、一体何トンになるのだろうか。そんなものが、風石などという石ころによって空中に
浮かんでいる。さらに、ハルケギニアではこれは何も特別な技術ではないという。
コルゴンは乏しい想像力を働かせて脳裏に思い浮かべてみる。この艦隊が大空で整然と列を組み、
砲門を開き、地上へ向けて一斉射撃するさまを。
(…………)
メイジという者達は何人も見た。その魔法と称する技の数々も。個人的な破壊規模を比するのであれば、
自分の良く知る黒魔術と大差ないといえる。だが、軍隊として比較した場合は、どうも別のようだ。声を
媒介として魔術を発動させる黒魔術は、声の届かない場所へは全くの無力である。このような軍艦隊には
抗しようがないだろう。
そんな物騒な思考遊びをしているコルゴンに、声をかける者がいた。物腰の卑しからぬ青年士官である。
「壮観でしょう、騎士殿。浅橋の帆船は風石を積み、空用の帆と羽を張れば、即、空軍艦となります。
両用艦隊の名の由来ですね」
両用艦隊、バイラテラル・フロッテ。その単語を口にする際の表情は、誇りに溢れていた。両用艦隊の
旗艦、シャルル・オルレアン号の乗員であれば当然であるだろうが。
その彼を、コルゴンは瞳だけを動かして見やり、
「まずは爆破現場を見たい。できれば爆破の発生順に」
「はっ!」
軍人らしく踵を鳴らして答え、青年士官、ヴィレール少尉は歩き出した。
トリステイン・ゲルマニア連合軍とアルビオン新政府と間で戦端が開かれてより半年。無能王ジョゼフが
どちらの陣営に味方するかを決めかねている最中に、その事件は起きた。いずれきたる参戦の日に
向けて、整備を続けていたサン・マロンの艦が次々と爆破されていったのだ。艦の火薬庫を狙った犯人に
ついては判明する目星すらつかず、いたずらに時間だけが過ぎ行き、犠牲者が増していった。そして、
ついにというべきか、ようやくというべきか、艦隊総司令クラヴィルは決断する。ガリア王国の暗部、
北花壇騎士をもって事件の解決を図ることを。
そうしてまず派遣されたのがコルゴンであった。総司令との面通しを済ませた彼は、すぐに案内役の
ヴィレール少尉を伴って現場をまわる。そして、最後の現場、最も最近に爆破された艦の検分を終えた
彼らは、サン・マロンの市街ではなく鉄塔の浅橋が並ぶ通りを歩いていた。
「その、本当にシスターの所へ行かれるのですか?」
気遣わしげにヴィレールが言う。その様子は、どこか後ろめたそうでもあった。
気にしたふうも無く、コルゴンは答える。
「オルレアン公の縁者なのだろう。動機は充分と言える。それにシスターであれば告解を担っている。
色々と面白い話も聞けるかもしれない」
「彼女は犯人ではありませんよ、騎士殿」
奇妙な確信を込めて言う青年士官に、コルゴンは足を止め、視線で説明を求めた。
「彼女には魔法を伴った尋問を幾度となく行っています。オルレアン公の縁者であることはすぐに分かり
ましたからね。結果はシロでしたよ。彼女は呆れるほどに神の従僕でした」
ヴィレールの言葉は後悔と後ろめたさ、さらに揶揄も含まれた複雑なものだった。縁起を担ぐ軍人が
神官に対して尋問を行ったことへの悔いであり、告解の内容を決して明かさないシスターへの皮肉である。
聞き終えたコルゴンは暫く思案している素振をみせたが、肩を竦めることもなく、すぐに歩みを再開した。
「まあ、別に無駄足でも構わん。明日までは暇なままだろうからな」
「……?」
よく分からないことを言う陰気な男に、ヴィレールは首を傾げる。だが、北花壇騎士の言葉へ疑問を
ぶつけることは躊躇われた。
「それに、人間の外面ほど当てにならないものもないだろう」
「それはそうかもしれませんが……」
「意外な一面、隠された本性など誰にでもある、特別でもなんでもないものだ。例えば、ガリア王ジョゼフが
深夜に子猫と戯れる性癖があったとしても、驚くにはあたらない」
「それは驚いてもいいと思います」
「そうなのか?」
奇妙な意見を聞いたと言わんばかりの顔をして、コルゴンは密やかに訊ねてみる。
「これは仮の例え話なのだが、素直で比較的大人しかった後輩が五年後に再開したら、三白眼になってて
口調および人格も変わってもぐりの借金取りなどをしていた場合、俺は驚くべきだったのだろうか?」
「……それはまあ、普通は驚くのでは」
「ふむ」
なにやら感慨深げに腕組みをして、一人で頷く。そして、
「君はとてもユニークな男だな」
あんたにだけは言われたくないという言葉を、忠勤な軍人は寸前で飲み下すことに成功した。 目的の場所、艦隊付き神官の寺院は、鉄塔の浅橋が並ぶ通りの突き当たりにあった。素焼き煉瓦で
作られた粗末な寺院だ。潮風が始終吹き付けるせいか、煉瓦の表面は粉がまぶされたようになっている。
コルゴンは恐らく一階にあると思われる礼拝堂へ向かいかけた際に、人気を感じで歩をとめる。寺院の
裏手、潮風が防がれている場所にささやかな花園があった。日の当たりは悪いが、塩の含まれた風が
直接当たるよりはましと、ここの主は判断したのだろう。
一人の女性が、如雨露を片手に花へ水をまいている。二十歳ほどに見える容貌。藍と白の聖衣で身を
包み、鮮やかな金髪を頭の上で結い上げている。シスター・リュシー、すでに爆破されたヴィラ号付きの
神官であった。
彼女も人気を感じたのか、振り返る。聖職者らしい化粧の薄い顔は、二人の男たちを前にしてわずかな
強張りをみせた。
「まだ私をお疑いなのですか、少尉殿?」
「いえ、ご心配なく。あなたへの容疑はすでにはれています、シスター。ただ、こちらの騎士殿があなたに
伺いたいことがあるとのことで、ご案内した次第です」
ばつが悪そうに、歯切れ悪く説明するヴィレールを哀しげに見つめて、リュシーはそっと吐息を零す。
その頬はかすかにやつれている。風が彼女の聖衣とわずかに垂れた金の髪を揺らす。疲労を隠しきれて
いないその姿は、シスターでありながら背徳的な魅力を見る者に感じさせた。
「告解の内容について以外でしたら、如何様にもお答えいたしましょう」
かすれた声をコルゴンは聞き、わずかに顎を引いて頷いた後、彼は質問を開始した。
結論から言えば、それはすでに行われた尋問の焼き直しに過ぎなかった。彼女の出自。彼女の父親が
かつて王弟オルレアン公に仕えていたこと。オルレアン公が狩猟中の事故で身罷られた時を境に、宮廷で
吹き荒れた粛清の対象にリュシーの父親も含まれていたこと。一家の屋敷と財産を奪われ散り散りとなり、
彼女は寺院に身を寄せて出家することで、俗世とのかかわりを断ち切ったこと。
やはり動機は充分と言えるが、爆破が起きた際の彼女のアリバイを証言する者は山といるらしい。
魔法による尋問においても、彼女は嘘を吐いてはいないとのことだ。
「ところで、やはり告解の内容については明かせないか?」
「告解を聞き届ける私たちは、神の代弁者となります。その私たちが信者の秘密を漏らせば、彼らの己の
罪と向き合う場所さえなくします。聖なる任務を、あなた方はなんと心得ているのですか」
きっと眦を吊り上げてリュシーは言う。それに対してコルゴンは、
「そうか、残念だ。では帰るとしよう」
当たり前のように告げて踵を返す。ひどくあっさりとした男の様子に、リュシーは戸惑いを表情にして顔へ
浮かべたが、これはヴィレールにとっても同じであった。意味が分からない。爆破現場の視察にしろ、
ここでの事情聴取にしろ、これではまるで、すでに書面で知っている情報の再確認をしているだけのよう
ではないか。
「騎士殿? いったいあなたは――」
「それだ」
北花壇騎士への恐れを振り払い、疑問を糾すべく声を上げたヴィレールへ、コルゴンは不可解気な顔を
向ける。
「妙に思っていたんだが、ただの検分役に過ぎない俺をなぜ騎士と呼ぶ?」
その台詞の内容をヴィレールが理解するのには、多少の時間を必要とした。
「……検分役?」
「ああ。捜査に当たる騎士は明日に来る。……言っていなかったか?」
「聞いてませんよ! じゃあ何で私は一日かけてあなたの案内をわざわざしたんですか!?」
「明日の予行練習ができたな。互いのためになった」
「なんであなたが私の予定を決めるんです! たまった仕事をそのままにしてるんですよ!?」
「俺は気にしないが?」
「私が気にするんだぁ!!」
天に向かって吠えた後、ぜいぜいと息を荒げる。しばらく徒労感に耐えかねたように顔を覆っていたが、
気持ちを切り替えることに成功したのか、ヴィレールは短く別れの言葉を告げてから背を向けて足早に
去っていこうとする。と、
「……失礼」
急いでいたためか、足が花園の柵に引っかかる。薄い木製の柵は簡単に割れて、用をなさなくなった。
一瞬、ヴィレールの顔に後悔が浮かぶ。そしてやはり根が善人なのか、後日弁償に来る旨をリュシーに
告げ、歩を再開した。
「忙しない男だ」
遠ざかっていく背中を見つめてコルゴンがごちる。リュシーは何か言いたげにしていたが、コルゴンは
気にせず、足元の割れた柵に視線を落として短く呟いた。
「我は癒す斜陽の傷痕」
繊細に編まれた魔術構成が、呪文によって現実にその効力を現す。割れた木製の柵は時間がまき戻る
ようにして復元した。
非現実的な光景に、リュシーが唖然として両手を口元に当てる。その彼女の姿をコルゴンはやや複雑な
思いで見やった。
「大艦隊を空に浮かべたり、土くれを真鍮に変えるよりも、こんな簡単な魔術のほうが不思議とは。つくづく
ここは俺の知らない世界のようだな」
リュシーには全く理解できない台詞の最中、コルゴンは目を細める。傾いた日差しが彼らに刺さっていた。
水平線に、赤い光の球が音も無く飲み込まれていく。人も、寺院も、草も地も、全てが朱に染まっていた。
幻想的であり、人に原初の畏怖を喚起させる空漠の時間。その中で、シスター・リュシーは穏やかに
呟いた。
「綺麗ですね」
黄昏時は逢魔ヶ時。人でないものと出会う不吉な時間を、彼女はそう評した。コルゴンは無言である。
他愛の無い世間話に自分が向いていない程度の自覚は、彼にもある。
リュシーはぽつりぽつりと言葉を零していく。それこそ、告解に来た信徒のように。
「自分でも不思議なのですが、私はこの時間と景色がとても好きなんです。何もかも忘れて、嘘もなくなって
いくような、この時間が」
澄み切った、聖職者の鑑といえる美しい声。
「日が、落ちます」
言葉通り、日が海面に沈んでいく。蝋燭の最後の一燃えのような輝きを残した後、日はその姿を完全に
隠した。いまだ空は朱に染まっている。けれども、太陽の有る無しによって夕と夜を分けるのであれば、
今は夜といえるのだろう。
女がコルゴンへ向き直る。瞳を真っ直ぐに見つめて、彼女は言った。
「風も随分と冷たくなってきました。ご足労を掛けましたお詫びに、紅茶を一杯ご馳走させてください」
――知らない女が、そこにいた。
外見が同じであれ、声が同じであれ、中身がごっそりと入れ替わったのならばそれはすでに別人だろう。
寺院の入り口へ向かう女の背を、コルゴンは追う。機械じみた正確さで、彼女は足を交互に動かす。
決して崩れないと思えたそのリズムはしかし、あっさりと止まった。入り口まで三歩ほどのあたりで、女は
無造作に振り向く。
コルゴンの瞳を先程のように真っ直ぐに見つめる。彼女の両手は聖衣に隠れて覗けない。そして彼女は
コルゴンの知らぬ言葉を、呪を、呪いのように呟いた。
眩暈が、コルゴンを襲う。重心の均衡を見失い、彼は数歩後退する。
「抗ってはなりません。無駄なのですから」
厳かな彼女の口調はすでに神官のものではない。怜悧な双眸は同時に冷徹であり、薄い唇の端に
見えるのは憫笑である。そしてその歪んだ笑みは、人形のように棒立ちとなった男を見てさらに深くなる。
これまで幾度となく行い、目にしてきた反応。刷り込みの前段階である忘我の状態だ。あとは、命令を
刷り込むだけである。
今回に限り、刻む命令は吟味しなければならない。艦の爆破に使い捨てるのではく、明日現れる
北花壇騎士を招き入れるために、この男を利用しなければならない。本当の目的のために。
そして彼女は下す命令をまとめ終えて、改めて人形となった哀れな男へ視線を戻し、
「――精神支配という、白魔術がある」
平然とした男の言葉に、身を凍らせた。
女の反応に関心をよせることもなく、コルゴンはいつもの平坦な口調で話はじめる。
「精神と時間を支配する白魔術は、俺たちの扱う黒魔術よりも高位とみなされている。しかしこれは、
白魔術士に対して黒魔術士が無力ということではない。対抗のための技術も研究されてきた。いや、
君の技術を貶すつもりはない。今の君の支配を無効化するほどの精神制御訓練を受けた黒魔術士は、
俺を除けば一人しか心当たりがない」
講義を行う教師のように、あるいは教師に対してレポートの発表をする生徒のように、感情の薄い
淡々とした声音。それに、むしろ寒気をリュシーは覚える。間合いが近い。短銃は礼拝堂においてある。
この距離では、自分が魔法を唱えるよりも、男の腰に吊るされた直剣の一薙ぎのほうがはるかに速い。
だが、彼女の恐れをコルゴンは首を振って諌めた。
「さきほど言ったろう。俺は検分役にすぎない」
「……私を犯人と知りながら、見逃すと言うのですか?」
無言で頷き、コルゴンは言葉を続けた。
「察するに、艦の爆破は君の本命ではないな。調査に来た北花壇騎士を支配下に置くのが目的か。
なるほど、ジョゼフからの勅命を受けることもある彼らをを利用できれば、ジョゼフの命を狙うことも
不可能ではない。明日訪れる騎士を謀ることに成功すれば、君の復讐は果たされるかもしれんな」
「……そこまで分かっていながら、なぜ私を」
コルゴンの眉根が寄る。不快気に、というよりは面倒くさそうに。
「三回目になるが俺は検分役だ。ジョゼフからの依頼は、調査に当たる騎士の動向を見届ける事のみだ」
とても信じられないと、リュシーの表情から強張りは抜けない。だが、すでに彼女に選択の余地は無い。
唇を硬く噛み締めて覚悟を決める。良いだろう。これまでよりも完全に、今日よりも完璧に、明日きたる
哀れな生贄を人形に仕立て上げてみせよう。
静かに激する彼女に呼応したかのように、風が強くなる。塩と砂を含んだ風が周囲で渦巻く。コルゴンは
長い黒髪がたなびくのをそのままにして、
「騎士の名を伝えておく」
短く告げた。
「シャルロット・エレーヌ・オルレアン。故オルレアン公の遺児だ」
リュシーの顔が絶望でひび割れる音を、確かに聞いた。
寺院より離れ、宛がわれた旗艦内の部屋へ戻ろうとしたコルゴンの視界に、二人の女性が入る。二十歳
ほどにみえる長髪の麗人と、短髪の少女。どちらも髪の色は青い。コルゴンは歩を止めて少女を注視した。
青い短髪の短身痩躯の少女。身の丈に合わない節くれだった大きな杖を持っている。と、すぐにその
少女が振り向き、こちらへ視線を送ってきた。見られていることに気がついたのだとしたら、かなりの勘の
良さである。
警戒した様子で、長髪の麗人が前に出る。少女もまた、身にまとう気配を剣呑なものに変えていた。
「一日早いな。北花壇騎士タバサ特任少佐と見受けるが?」
「あなたは?」
短く、小さな声。だが、決して聞き逃すことを許さない力のある声だった。それに対して、コルゴンとしては
珍しいことに苦笑をわずかに浮かべて答えた。
「4回目の説明となるが、検分役だ」
「……?」
「ジョゼフの命による。君のこの場での働きぶりを監視し、報告をしろと」
青い髪の少女は無言のまま。しかし、
「あの男の内面も、なかなか複雑なようだな」
杖を握る右手が震えている。指の関節が白くなるほど強く、杖が割れるほどに強く握り締めているために。
「ただ、君に対してのみ、俺はメッセンジャーでもある」
きりりと響いた音は、彼女の噛み締めた奥歯の音か。
「ジョゼフからの伝言だ。――励め。再びまみえる日を楽しみにしている」
「……そう」
殺意や憎悪のみで人が殺せるのだとしたら、彼女はこの一瞬で何人を殺めただろうか。
爆音が、唐突に鳴り響く。制約の魔法により操り人形となった水兵が、再び己の命と引き換えに軍艦を
沈めたのだろう。爆音は一度では終わらず、数回繰り返される。黒煙が上がる。遅れた爆風が彼らに
吹き付ける。それら全てを背負い、少女は口を開く。彼女の二つ名である雪風よりもなお冷たい声で。
「伝えて。その日はあなたの想像よりも、ずっと早いと」
そして、コルゴンは己で名乗った検分役の役目を忠実に果たした。何の落ち目も無い水兵が利用され
犠牲となったときも、復讐に狂った女が自害したときも、少女が決して癒えない心の傷を負ったときも、
ただ傍観者として、なんの感慨も含まずに、ただ眺めていた。
「ご苦労様。陛下へは私から報告をしておきます。しばらく身を休めなさい」
コルゴンの自室より、鏡越しに報告を聞き終えたシェフィールドがそう告げる。
「ところでシェフィールド」
「……何?」
多分に警戒を含んだ声で、彼女は答える。気にせず、コルゴンは抑揚のない口調で言った。
「君の意見を参考にすることにした」
「ええと、何の話だったかしら?」
「上司への態度を多少改めたほうがよいと取れなくもない指摘だったかと記憶している」
「あー、そういえばそんな話をしてたような気もするけど、なんでまた急に?」
腕組みをして、コルゴンは重々しく頷く。
「とある青い髪の少女に会ったのだが、これがとても無愛想でな」
「……その子もあなたには言われたくないでしょうけど」
「というわけで、改善できる範囲から手をつけていこうかと思う。常日頃から八方美人して優等生していた
知人の振る舞いを真似をしてみようかと」
「まあ、別になんでもいいけど」
「君に良く似た女性だ」
「ねえ、実は喧嘩売ってない?」
「? いいや?」
一瞬犬歯を覗かせたシェフィールドを不思議そうに見る。そんなコルゴンをしばらく忌々しげに見つめて
から、念を押すように彼女は告げた。
「まあ、あなたが何をしようと知ったことではないけど、陛下に迷惑だけはかけないように」
「むろん承知している」
どうかしらとぼやきながら、彼女は特に言を継ぐこともなく、鏡越しの連絡を打ち切った。
深夜には半刻ほど足りない時間、ガリア国王ジョゼフは私室にいた。付き人はいない。警護の兵も厚い
扉の外で控えている。少々の物音では彼らの耳まで届かないだろう。警備の面では明らかな穴であるが、
王直々の指示であれば、逆らえる者などこの国にはいない。
豪奢な飾りのついた杖とマントを煩わしげに床へ落とす。毛の深い絨毯は音さえ立てない。そして彼は
力ない足取りで進み、椅子を引き、崩れるように腰を落とす。顔には深い疲労が澱のようにあった。
ここは彼の私室である。ここでのみ、彼は自由となる。無能王でもなく、世界を遊具に見立てる鬼謀の
狂王でもなく、虚無の担い手でもない、ただの何者でもないジョゼフに。
目的を持ち、邁進しているときはいい。なにも迷うことなく策を謀り、自国を含めた全ての国々を破滅へ
押し進めているときは、彼は無能王ジョゼフでいられる。そして、無能王ジョゼフであれば、その狂熱に
耐えられる。だが一日の終わり、このような隙間じみた時間は、彼から全ての仮面を剥がしてしまう。
そして、仮面の剥がされた彼の脳裏に浮かぶのは、常に一つの同じ記憶であった。
己の怒りによって謀殺した弟、オルレアン公シャルルのことである。発作のような怒りと憎しみで最愛の
弟を殺した悔い。それは、ただのジョゼフが耐えるにはあまりにも重かった。
(世界は皆、我が手慰み。ただ個人の激情で滅びる世界ならば、最初から無いも同然である)
あまりにも傲慢な八つ当たり。今の彼の表情は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
――と、
(……?)
風を感じた。両開きの窓が開いている。絹のカーテンが揺れている。そして、見た。
風が吹く。カーテンが大きく膨らむ。そこに、影絵のような男がたたずむ姿を。
明かりは無い。今夜は月さえ身を隠している。そのため、男が片手に握る肉厚なナイフは、煌めきすら
していなかった。
ゆっくりと、男が足音もさせずに歩み寄る。暗闇に慣れた目と、星の僅かな明かりが男の顔をジョゼフに
知らせた。知った顔、新たに己の手駒に加えた異邦の魔法使い、コルゴン。
杖は遠い。拾い上げるよりも、男の一閃が早いのは自明と思えた。しかしこの時、怖れではなく自嘲が
ジョゼフの胸中に満ちていた。己の見る目の無さに。いや、そんなことは弟を殺めた時、すでに理解した
はずではないか。
だが奇妙な納得もまた、ジョゼフの心に広がっていた。なにか、予感のようなものがずっと、楔のように
あったのだ。きっと、きっと自分は、
――何事も成せず、塵のように、無意味な死を迎えるのではないかと。
影絵の男が笑いもせずに歩く。端整と言えるその容貌には何の感情も浮かんではいない。そして一足
一刀の間合いまで近づいた時、コルゴンは古傷の残る唇を動かして、告げた。
「髭を、剃りにきた」
意味が分からなかった。
稀代の頭脳を持つガリア国王ジョゼフの意識が空白で染まっている間、コルゴンは一瞬だけ感情を
覗かせる。何か言葉が足りなかっただろうかと言うような顔だった。しばしして、
「髭をカットしにきた」
「いや、言い直されても」
ほとんど反射で言葉を返すジョゼフに頓着せず、師、チャイルドマンから受け継いだ暗殺技能の盛大な
無駄使いして忍び込んだコルゴンは、ナイフの柄を一閃してジョゼフの意識を断ち切った。
早朝、鳥の声がやかましく響く中で、コルゴンは本を読んでいた。王宮のはずれの一室。たいして広くも
なく、調度品もほとんどない。宛がわれた部屋をそのまま使っているかの風合いであった。特徴と言えば、
椅子の横へ乱雑に積み上げられた書物と、壁に掛けられている真四角な鏡くらいだろう。
積まれた書物に規則性は無い。歴史や経済について記されているの物もあれば、料理本がその間に
挟まっていたりもする。書店で目に付いたものを適当に買ってくれば、きっとこのようになるだろう。
きしきしとうるさい椅子に腰掛けて、コルゴンは静かにページを捲る。丸い個人用の机には、恐らく朝食
だろう、硬そうなパンと塩スープがあった。
そして、苦労して噛み千切ったパンの欠片をスープで流し込んでいる最中に、扉が叩かれた。ノック、
などという生易しいものではない。実際、蝶番が耐え切れず弾け飛んだりした。
ゆっくりと、扉がただの板となって室内に倒れこむ。埃がスープに入ることを気にしながら視線を向けた
先には、よく知った、けれども直接会うのは初めてである女性がいた。
いつも美しく整えられていた黒い長髪は若干乱れている。細い肩を怒らせているその様子は、控えめに
言っても激怒していた。
「こういう時の挨拶は、久しぶりとはじめましてのどちらが適当だろうか。俺としては無難におはようという
挨拶を押すのだが」
「どうでもいいのよそんなことは!!」
表情そのままの口調で、シェフィールドは怒鳴る。首を傾げて、コルゴンは質問した。
「何かあったのか?」
「あなたが言う!? あなたが言うのそれを!?」
怒りのあまり、声が震えている。
「あなた、あなた、陛下のお顔を……」
「ああ、あれか」
やっと得心がいったと、一人コルゴンは頷く。
「初対面の時からあの髭は気になっていてな。改善してみた。ああ、そういえば彼から感想を聞くのを
忘れていたが、まあ構うまい。善行とは控えめに行うものらしいからな」
「…………」
ふるふると、シェフィールドの肩が震えている。それをしばらく眺めていたコルゴンは、パンッと軽快な
音をさせて本を閉じる。背表紙には、イーヴァルティの勇者と記されていた。
「初対面の時から思っていたのだが、君は――」
難解な数式を解き終えた数学者のような顔で、あるいはもっと単純に気の毒そうな顔で、静かに言う。
「実に短気だな」
「ああああああっ!!」
髪を掻きまわしながら絶叫するという、人生ではじめての行為を行いながら、彼女は目の前の男を殺す
ことに決めた。
かつて牙の塔に、ナイトノッカー、深夜の来訪者の二つ名で呼ばれる黒魔術士がいた。
そしてその二つ名は概ね、迷惑来訪者の意で用いられていたという。
削除いたしました。
長期に渡ってご掲載くださった管理人様、また拙作を読んでくださった方々へ御礼申し上げます。
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