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第二章 薔薇の香りの大饗宴
一
「大変です、オールド・オスマン!」
コルベールが学院長室に踏み込んで最初に見たのは、白い髪と髭を振り乱し恍惚の表情を浮かべる老人。
そして、その老人の尻を蹴たぐり回す眼鏡の女性。
コルベールは一度瞬きをした。
「――騒々しいぞミスタ・コッパゲール。君ももういい歳なのじゃ。少しは落ち着きたまえ」
窓際に立ちコルベールを迎える老人。その声と表情は威厳に満ちている。
この老人こそがトリステイン魔法学院の学院長、オールド・オスマンであった。
眼鏡の女性は机に向かって何かの書類を作成している。
彼女はその秘書、ミス・ロングビル。
まさに瞬く間の出来事だった。
コルベールは特に気にした風もなく、本題に入った。
いつものことである。
「コルベールです。――この本、見て下さい」
オスマン氏は眉を顰めた。
「『始祖ブリミルの使い魔たち』? また随分と古臭い文献を持ち出しおったな。で、これがどうしたのじゃ?」
コルベールは続けて、一枚の紙切れを差し出した。
「こちらも、見て下さい」
オスマン氏の表情が変わった。これまでのような、作り顔ではない。真剣そのものだ。
「――ミス・ロングビル。席を外してくれ」
*
教室を滅茶苦茶にした罰として、ルイズはその片づけを命じられた。
空腹の極みにあって気力・体力共に限界間近だったが、殷雷が手伝ってくれたお陰で思いの外早く済みそうだった。
これなら、昼食の時間には間に合うだろう。
ルイズはほっと一息ついた。……だがそれはすぐに落胆の溜息へと変わる。
――また、駄目だった。
これで何度目だろう。一体何度失敗しただろう。
……なんて、ね。
一度だって成功したことがないのに、失敗の数など数えて何になるのか。
魔法の使えないメイジ、ゼロのルイズ。それが私の名。
――いや、一度。もしくは二度だけ成功した。
「ボサっと突っ立ってないで、お前も手伝え。いや、手伝ってやるからお前がやれ」
新しく運び込んだ机に雑巾を掛ける、目つきの悪い男。殷雷。
何とも怪しげな上に、主人であるこの私をちゃんと敬っているか甚だ疑問だが、
それでもこいつが私の使い魔だった。
「あんたも、私を馬鹿にしてるんでしょう……?」
「あん?」
「見たでしょ。いつも失敗ばかり。貴族のくせに、魔法の一つもロクに使えない駄目なメイジ。
略して駄目イジ」
自分で言っていて涙が溢れそうだったが、殷雷の返答は、
「別に」
――意外だった。
「仙術の使えない仙人だって居たんだ。珍しくもない」
センニンというのはセンジュツという魔法に似た術を行使する者のこと、と聞いた。
どういう事だろう。
「その話――」
「長くなるから、また今度だ。
まぁ、何だ。あー、要は気の持ち方次第ってことだ。
別に魔法を使うだけが貴族ではあるまい」
慰めてくれているようだ。背を向けているため、殷雷の表情は見えない。
ルイズの目から涙が一粒こぼれ落ちた。
「……ぁりが」
ぐぅるるる。
「……………………」
その時、唐突にルイズの腹の虫が鳴いた。
嗚呼、空気の読めぬ空気の音よ。
「……食堂の場所、教えてくれるか?」
*
『アルヴィーズの食堂』は、学園の敷地内で一番高い真ん中の本塔にある。
そして厨房は、食堂の裏にあった。
がやがやざわざわほれスープ上がったぞがや待ってくれ今手ががやざわ何してやがるわいわい
皿が足りねえがやがやガシャンさらに足りなくなりましざわ馬鹿野郎てめえわやわやさっさと洗え
ざわざわわいわいスープまだかよがや誰だ俺が切った野菜を捨てたのはざわがやわいわい…………
「……何事だ、こりゃ」
修羅場である。
……地獄絵図の次は修羅場とは、何とも気の利いた話ではないか。
「変ね。いつもはこんなことないのに……」
最短距離で食堂へと向かいたかった二人であったが、そのただならぬ殺気につい足を止めてしまった。
――と、突然厨房から飛び出したメイドが殷雷にぶつかりそうになった。
殷雷は慌てず身をかわす。
「す、すいません!」
メイドが頭を上げると、殷雷と目が合った。
「貴族の方……ではないのですよね?」
「いや、俺は」
「――手伝って下さい!!」
「あ? ああぁぁぁ!?」
問答無用。彼女は殷雷の手をひっ掴むと、そのまま厨房へと引きずり込んでしまった。
「……あれ」
ルイズ一人だけが残された。
「…………まぁ、いいわ。そんなことよりご飯よご飯」
彼女の空腹はもはや天元突破であった。
二
ギーシュ・ド・グラモンは後悔していた。
『喧嘩は相手を見て売れ』とはよく言ったものだが、実際に見てから売ってしまったのだから
言い訳のしようがない。
いや、ある。
何というか、その、メイジでもない相手がいかほどの者であるかなど、どうやって計れと言うのか。
そして、これが一番大事なことだが……学院中で持ちきりになっているという噂が、何故僕の耳に入ってこないのか。
故意か? 偶然か? それとも僕が適当に聞き流していただけか?
……大体、元々悪いのは完全に僕の方ではないか。それなのについ、かっとなって……
……その場の勢いで簡単に物を言うものではない。肝に銘じておこう。
……まぁ、今更何を言ったところで後戻りはできない。言ってしまった言葉は撤回できない。
売ってしまった喧嘩は――買い戻せない。
ギーシュ・ド・グラモンは、激しく後悔していた。
*
遡ること数分前。アルヴィーズの食堂にて。
ギーシュは友人達と楽しく談笑していた。
もっぱらの話題は
「なぁ、ギーシュ。お前今誰と付き合ってるんだよ!」
「恋人は誰なんだ? 白状しろよ」
「そんなものは居ないさ。薔薇は誰か一人のために咲くものではない。
見るもの全てを愛し、愛されなければいけないのだから」
――の、ような。
その時だ。彼のポケットからガラスの小壜が滑り落ちた――らしい。
らしい、と言うのは、それが床に落ちる音を聞いていないからだ。
「落としたぞ」
髪の長い給仕の男が、落ちる直前に小壜を掴み取ったのだ。
その小壜を横目で見て……ギーシュは絶句した。
それは、モンモランシーからもらった香水の壜だった。
……これを人に見られるのは非常に不味い。無視。無視するんだ。
頼む。その小壜は君にくれてやる。だからさっさとポケットにでも仕舞って早くこの場から去ってくれ……!
――ギーシュの願いもむなしく、給仕はその壜をテーブルの上に置いてしまった。
そして、目ざとい友人の一人がそれを見つけてしまった。
「おお? それ、もしかしてモンモランシーの香水じゃないか?」
……そこから先は積み木崩しだった。
彼の恋人二号、ケティが近くで今の話を聞いており、ギーシュが言い訳を考える暇も与えず平手打ちを食らわせた。
さらに、離れた席にいた恋人一号、モンモランシーには頭からワインをぶっかけられた。
力技の一号、力技の二号。ギーシュが二人との破局を迎えるまでの、ほんの数十秒間の出来事であった。
――最初はただの八つ当たりのつもりだった。
頬の痛みと失恋の哀しみを、誰かにぶつけてしまいたかった。
給仕の男が先ほどとは別のトレイを持って通り掛かったところで、声を掛けた。
「待ちたまえ。君、どうしてくれるんだ」
「あん?」
貴族に向かって『あん?』とは礼儀知らずな。
「君の心無い仕打ちのせいで二人のレディが深く傷つけられてしまった……どうしてくれるのだね?」
「何の話だ?」
小壜を置いた後、彼はさっさと厨房に戻っていた。先ほどの騒動のことは知らないのだろう。
それでもギーシュの気は治まらない。
「君……名前は?」
「殷雷だ」
インライ。聞き覚えがある。……確か、ゼロのルイズが召喚した使い魔の名前だったはず。
「ふん……君が噂のゼロの使い魔か。まさか、平民だったとはね」
あの娘が何を召喚しようが知ったことではないが、躾が出来ていないのではないか?
さらに言葉を続けようとしたところで、友人の一人が彼の袖を引いた。
「おい、ギーシュ……そいつはまずいぜ」
まずい? 何がまずいというのか。
「やめとけやめとけ。もしかしたら痛い目見るかもしれんぞ」
カチンと来た。何が痛い目だ。自分は所詮『ドット』クラスのメイジだが……相手はたかが平民ではないか!
天地がひっくり返ったところで、後れを取るとは思わない。
……教育的指導を与えてやらねばなるまい。
だから、言ってしまった。つい、勢いで。
「インライと言ったね。君に――決闘を申し込む」
「はぁ?」
食堂中がざわめきに包まれた。
先ほどの友人が弱気な顔で言ってきた。
「おいおい、ギーシュ……大丈夫なのかよ。相手は――」
「ただの平民だろう? 何、手加減はするさ」
「いや、だってあいつ…………
インテリジェンスソードだぞ」
――は? 何だって?
「流石だな、ギーシュ……お前にかかれば、人間に変身する得体の知れない魔剣も、所詮はただの平民ってわけか。
いや、その発想は無かった!」
え、いや。え? いんてり……え?
「やるじゃねえか! 俺、お前のこと誤解してたよ!!」
「頑張れよ! 応援するぜ!」
「素敵! わたしと付き合って!!」
「ギーシュ! ギーシュ! ギーシュ!!」
ちょっ、待っ――
ギーシュ! ギーシュ! ギーシュ! ギーシュ!
食堂内を包むギーシュコールの中、未だ状況を呑み込めない男が一人。
「……何がどうなってんだ」
――当事者の片割れ、殷雷であった。
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