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精霊医文章」(2010/12/07 (火) 01:14:13) の最新版変更点

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 t:要点 = ゴーグル,マスク,手術服  t:周辺環境 = 手術台 t:要点 = 笑顔,精霊,刺青  t:周辺環境 = 密林  t:要点 = 体中に模様,半裸,手が光る  t:周辺環境 = 森  精霊医。玄霧藩国において、最も新しい医者の名である。  精霊の力を借りる事で、傷を負い、病に倒れたものを癒していくもの達の事であり、 科学的医療を一切用いず、純魔法的な治療のみを行なうそのあり方は、 もはや医者というよりは祈祷師や僧侶、あるいは、精霊に対する司祭と表現する方が近い。  しかし、玄霧藩国においては、これまでと変わらず、精霊”医”と呼ばれており、 これまでと同様に、これからも、人々の苦しみや悲しみに抗い続ける事を職務としている。  精霊医。玄霧藩国において、最も古くから受け継がれてきた精神を、新たに受け継いだ者の名である。  その装いは、実に特徴的だ。  その身に広く刺青を入れ、服は(拵えこそ現代の製法ではあるが)まるで原始の人のように布地が少ない。  医師と名乗りながら、医学による療法を用いないために白衣を着ておらず、 いわゆるマッドサイエンティスト系統の医療者が特徴として保有していた、多機能式医療装備も持っていないどころか 一般的な医師のイメージである所の、『無菌室で白衣にマスクとキャップ、ゴーグルをしてメスを握って手術台の前に立つ』というテンプレ姿の欠片もない。  そちらはそちらで、玄霧藩国の医師の姿の一つであり、現在も変わらず活動しているのだが、 精霊医のありようが既存の医師とは異なる事が、外見一つでここまではっきり示されるというのも、稀有な例かもしれない。  魔法医の技術が、玄霧藩国で過去に使用されていたそれである事と同様に、 精霊医の技術体系も、過去の文献や藩国内の文化を元に再編された物である。  元々、精霊を敬う心と生活習慣は、玄霧藩国の文化に存在していたし、 魔法医の治療法と精霊医の治療法は、原理的にはほぼ同じものと言ってよかったから、 精霊医が現れ出でる事に対し、技術的ブレイクスルーのようなものは特に必要がなかった。  とはいえ、精霊の力を借りるという、再現性の高くない技術を用いた医療であることから、 現在のNWにおいては稀な存在ではある。  では、精霊医の扱う”精霊”とは一体何なのだろうか。  位の高い星見司に精霊という言葉の定義を問えば、得られるのは”リューン(情報子)”という答えである。  しかし、玄霧藩国内の文化伝承における”精霊”とは、もう少し広い意味を持つ存在のようであった。    参考として、精霊によるとされる治療について精霊医に話を聞いてみたところで、 実際に行なわれている治療方法はといえば、精霊医(魔法医)が、自身の周囲に光の粒子を纏い、 患者の傷や病んでいる箇所に手をあて、その患部を包むようにその光を移して行く。ただそれだけである。  患部を包んだ光の粒子が拡散した後には、そこに回復した健康な体が残されているだけなので、 光による治療が行なわれたのだと解釈する事が出来るぐらいだ。  乱暴に考えれば、彼らが治療の時に纏っている光そのものを指して、精霊と呼ぶ事は出来る。  実際、彼らにとって、それは精霊の光であるようだし、その光をリューンと考えるならば、辻褄は合う。  しかし、これはどうも、一面的かつ恣意的な解釈に過ぎないらしい。  精霊医達に対し、精霊について聞くとき、彼らは決まってこう言うからだ。  自分達にとって精霊とは、ただの力ではなく、使役するものでもなく、ただ必要と認めた時のみ力を貸してくれるものなのだ。  精霊医の治療が、あくまで精霊の意志によってのみ行なわれる事を忘れては、この技術が成立しない。  そう言うのだ。  人を癒すのは人ではなく精霊で、精霊医は患者と精霊の仲立ちを行なう立場でしかないのだという。  精霊医は患者を癒す事を目的にして精霊に助けを求めるが、対象となる疾患を癒すか否かは、精霊が判断する、という理屈であるらしい。  そして、精霊医の纏う光は、あくまで精霊が活動を起こす際に発生する現象に過ぎないというのだ。  リューンを情報子、ある種のエネルギーと考えた場合、ここで精霊とリューンは幾らかの食い違いが発生する。  少なくとも、精霊医が精霊を単純なエネルギーとみなしていない事だけは明確で、 一般に考えられるリューンのそれと、扱いは異なっているようだ。  彼らにとっての精霊とは、光という単純な現象やエネルギーではなく、もっと観念的な存在なのだ。意志を持っているかのようにも聞こえる。  それはこの世界に偏在し、常に人と共にあるものであり、自然物だけでなく、人工物にすら宿っているという。  こうなると、精霊とは何かという問いに対しては、こう答えるのが正しいだろう。  精霊とは、『森羅万象、ありとあらゆるもの』であると。  つまり彼らにとっての精霊の光とは、ありとあらゆるものの内包する光であり、 有機物・無機物の別に関わらず、世界に存在する全てが持っている、命の輝きという事なのだろう。    自分達は、精霊と共に生きている。精霊医はそう言う。  それは確かにその通りで、彼らは精霊と共に生きている。  勿論、精霊が森羅万象を指すというなら、この世界に生きる全ての人が、精霊と共に生きている訳であるが、 精霊の存在を身近に感じ、その声に耳を傾け、時に呼びかける生き方をする事で、 より精霊を近しいものとしているという点が、精霊医(及び玄霧藩国における精霊文化)の特徴的な部分だ。  その身に刻んだ刺青も、布地の少ない服も、全ては精霊をより身近に感じるためのものなのだろう。  花に、鳥に、風に、月に、共に居てくれる事への感謝と、変わらぬ繋がりを求めて、日々を生きる。  良いことがあればそれを精霊と共に喜び笑い、悲しいことがあれば、精霊に包まれながら涙を流してそれを昇華する。  時に川の流れの中で精霊を感じ、時に明日の太陽の輝きを祈って歌い踊る。  それは文化であり、生き方である。原始的とも言える精霊信仰のあり方ながら、彼らは確かに、精霊を感じていて、 そんな彼らの心は、少しだけ明るく、少しだけ開かれている。世界を好きでいられるのだ。      精霊医による治療。それは、森羅万象の力を借りて、誰かの笑顔を守る技術である。  死者蘇生を禁忌とする事を(神々と)精霊に誓った以上、どうしても死ぬ者は出て、助けられない人はいるが、 精霊が力を貸してくれる限り、自らの出来る最善を尽くすことが、この世界から悲しみを減らす事に繋がると信じている。  言うほど大層なものではない。そこにあるのは、特別に美しい心などではない。  少し心を開いて、精霊を感じれば、人はそれに感謝を捧げることができる。  そして、大切な人に幸せであってほしいという願いは、誰にでもある。  心を開いて、誰かを好きになれるから、その周囲も好きでいられるし、世界が好きになる。世界が好きだから、人は頑張れる。  そして精霊は、頑張る誰かに力を貸してくれる。  精霊医は特別な存在ではないが、その心は少しだけ、世界に対して開かれている。
 t:要点 = ゴーグル,マスク,手術服  t:周辺環境 = 手術台 t:要点 = 笑顔,精霊,刺青  t:周辺環境 = 密林  t:要点 = 体中に模様,半裸,手が光る  t:周辺環境 = 森  精霊医。玄霧藩国において、最も新しい医者の名である。  精霊の力を借りる事で、傷を負い、病に倒れたものを癒していくもの達の事であり、 科学的医療を一切用いず、純魔法的な治療のみを行なうそのあり方は、 もはや医者というよりは祈祷師や僧侶、あるいは、精霊に対する司祭と表現する方が近い。  しかし、玄霧藩国においては、これまでと変わらず、精霊”医”と呼ばれており、 これまでと同様に、これからも、人々の苦しみや悲しみに抗い続ける事を職務としている。  精霊医。玄霧藩国において、最も古くから受け継がれてきた精神を、新たに受け継いだ者の名である。  その装いは、実に特徴的だ。  その身に広く刺青を入れ、服は(拵えこそ現代の製法ではあるが)まるで原始の人のように布地が少ない。  医師と名乗りながら、医学による療法を用いないために白衣を着ておらず、 いわゆるマッドサイエンティスト系統の医療者が特徴として保有していた、多機能式医療装備も持っていないどころか 一般的な医師のイメージである所の、『無菌室で白衣にマスクとキャップ、ゴーグルをしてメスを握って手術台の前に立つ』などという姿の欠片もない。  そちらはそちらで、玄霧藩国の医師の姿の一つであり、現在も変わらず活動しているのだが、 精霊医のありようが既存の医師とは異なる事が、外見一つでここまではっきり示されるというのも、稀有な例かもしれない。  魔法医の技術が、玄霧藩国で過去に使用されていたそれである事と同様に、 精霊医の技術体系も、過去の文献や藩国内の文化を元に再編された物である。  元々、精霊を敬う心と生活習慣は、玄霧藩国の文化に存在していたし、 魔法医の治療法と精霊医の治療法は、原理的にはほぼ同じものと言ってよかったから、 精霊医が現れ出でる事に対し、技術的ブレイクスルーのようなものは特に必要がなかった。  とはいえ、精霊の力を借りるという、再現性の高くない技術を用いた医療であることから、 現在のNWにおいては稀な存在ではある。  では、精霊医の扱う”精霊”とは一体何なのだろうか。  位の高い星見司に精霊という言葉の定義を問えば、得られるのは”リューン(情報子)”という答えである。  しかし、玄霧藩国内の文化伝承における”精霊”とは、もう少し広い意味を持つ存在のようであった。    参考として、精霊によるとされる治療について精霊医に話を聞いてみたところで、 実際に行なわれている治療方法はといえば、精霊医(魔法医)が、自身の周囲に光の粒子を纏い、 患者の傷や病んでいる箇所に手をあて、その患部を包むようにその光を移して行く。ただそれだけである。  患部を包んだ光の粒子が拡散した後には、そこに回復した健康な体が残されているだけなので、 光による治療が行なわれたのだと解釈する事が出来るぐらいだ。  乱暴に考えれば、彼らが治療の時に纏っている光そのものを指して、精霊と呼ぶ事は出来る。  実際、彼らにとって、それは精霊の光であるようだし、その光をリューンと考えるならば、辻褄は合う。  しかし、これはどうも、一面的かつ恣意的な解釈に過ぎないらしい。  精霊医達に対し、精霊について聞くとき、彼らは決まってこう言うからだ。  自分達にとって精霊とは、ただの力ではなく、使役するものでもなく、ただ必要と認めた時のみ力を貸してくれるものなのだ。  精霊医の治療が、あくまで精霊の意志によってのみ行なわれる事を忘れては、この技術が成立しない。  そう言うのだ。  人を癒すのは人ではなく精霊で、精霊医は患者と精霊の仲立ちを行なう立場でしかないのだという。  精霊医は患者を癒す事を目的にして精霊に助けを求めるが、対象となる疾患を癒すか否かは、精霊が判断する、という理屈であるらしい。  そして、精霊医の纏う光は、あくまで精霊が活動を起こす際に発生する現象に過ぎないというのだ。  リューンを情報子、ある種のエネルギーと考えた場合、ここで精霊とリューンは幾らかの食い違いが発生する。  少なくとも、精霊医が精霊を単純なエネルギーとみなしていない事だけは明確で、 一般に考えられるリューンのそれと、扱いは異なっているようだ。  彼らにとっての精霊とは、光という単純な現象やエネルギーではなく、もっと観念的な存在なのだ。意志を持っているかのようにも聞こえる。  それはこの世界に偏在し、常に人と共にあるものであり、自然物だけでなく、人工物にすら宿っているという。  こうなると、精霊とは何かという問いに対しては、こう答えるのが正しいだろう。  精霊とは、『森羅万象、ありとあらゆるもの』であると。  つまり彼らにとっての精霊の光とは、ありとあらゆるものの内包する光であり、 有機物・無機物の別に関わらず、世界に存在する全てが持っている、命の輝きという事なのだろう。    自分達は、精霊と共に生きている。精霊医はそう言う。  それは確かにその通りで、彼らは精霊と共に生きている。  勿論、精霊が森羅万象を指すというなら、この世界に生きる全ての人が、精霊と共に生きている訳であるが、 精霊の存在を身近に感じ、その声に耳を傾け、時に呼びかける生き方をする事で、 より精霊を近しいものとしているという点が、精霊医(及び玄霧藩国における精霊文化)の特徴的な部分だ。  その身に刻んだ刺青も、布地の少ない服も、全ては精霊をより身近に感じるためのものなのだろう。  花に、鳥に、風に、月に、共に居てくれる事への感謝と、変わらぬ繋がりを求めて、日々を生きる。  良いことがあればそれを精霊と共に喜び笑い、悲しいことがあれば、精霊に包まれながら涙を流してそれを昇華する。  時に川の流れの中で精霊を感じ、時に明日の太陽の輝きを祈って歌い踊る。  それは文化であり、生き方である。原始的とも言える精霊信仰のあり方ながら、彼らは確かに、精霊を感じていて、 そんな彼らの心は、少しだけ明るく、少しだけ開かれている。世界を好きでいられるのだ。      精霊医による治療。それは、森羅万象の力を借りて、誰かの笑顔を守る技術である。  死者蘇生を禁忌とする事を(神々と)精霊に誓った以上、どうしても死ぬ者は出て、助けられない人はいるが、 精霊が力を貸してくれる限り、自らの出来る最善を尽くすことが、この世界から悲しみを減らす事に繋がると信じている。  言うほど大層なものではない。そこにあるのは、特別に美しい心などではない。  少し心を開いて、精霊を感じれば、人はそれに感謝を捧げることができる。  そして、大切な人に幸せであってほしいという願いは、誰にでもある。  心を開いて、誰かを好きになれるから、その周囲も好きでいられるし、世界が好きになる。世界が好きだから、人は頑張れる。  そして精霊は、頑張る誰かに力を貸してくれる。  精霊医は特別な存在ではないが、その心は少しだけ、世界に対して開かれている。

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