とある世界の残酷歌劇 > 第一幕 > 8


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声が聞こえた。

「――――って。――の」

遠く、耳元でわんわんと木霊す。

「――――ら、――――。早く――――」

まぶたの裏に満たされた霧に浸透してくるような声。
ゆっくりと意識が水面に浮かび上がっていくのが分かる。
そうして、薄い肉越しに見える人工の光を微かに感じ。

「――――ね。――――――わよ、浜面」

名。

「っ!」

瞬時に覚醒し、跳ね起きた。

「わ、滝壺? アンタ何、寝てたんじゃないの」

急に身を起こした滝壺に驚いたのか、麦野は携帯を握り締めたまま素っ頓狂な声を上げた。



「ははぁ。浜面の名前に反応したか。耳いいね、アンタ。それとも浜面に関してはビンカンなのかしらね」

目を細め、麦野はくつくつと哂った。
馬鹿にされた、のだろう。それとも茶化されたのだろうか。
判断に迷い、滝壺は困ったような微笑を返す。

「ねぇむぎの」

「ん?」

「はまづら、どうしたの?」

何かあったのだろう。そうでなければ麦野が好き好んで彼に連絡を取るはずがない。
そして案の定、滝壺の問いに麦野はばつが悪そうに視線を僅かに逸らし。

「絹旗、回収に行ってもらおうと思って」

「…………きぬはた?」

「そ」

直感的に、滝壺は麦野が何かを誤魔化していると悟る。

声の調子。目の微かな動き。小さな仕草。

……慌てていたり何かを隠している時の気配。
以前、買い置きしておいた冷蔵庫のプリンを食べられた時に同じだ。



回収、と麦野は言った。

その言葉に含まれたニュアンスは幾つか考えられる。
だが、どうにも嫌な気配がした。

「どうしたの」

それを確かめようと滝壺は尋ねる。

「…………」

その問いに、麦野はあからさまに視線を逸らせる。

ああ、と滝壺は落胆にも失望にも似た喪失感を覚える。
嫌な予感とは大概にして的中するのだ。

やがて、ようやく麦野はぼそりと呟くように言った。

「…………片腕潰された挙句にビルの屋上から落ちたって。病院行きだね」

低い声に、滝壺は胸を撫で下ろす。

――――死んだんじゃない。生きてる。

よかった。そう思った。

ここのところずっとそうだ。
また誰かがいなくなるような、そんな予感めいたものが滝壺の意識を苛んでいた。

……同時に、もう一つ。安堵する。

――――はまづらに何かあったんじゃなかった。

そう、どこかで思ってしまった事を意識して、滝壺は吐き気に顔を顰めた。



麦野はそんな滝壺の様子に眉を寄せ。

「ん。頭痛でもすんの? 寝起きなんだからあんまり頭使うんじゃないわよ。アンタ低血圧っぽいし」

苦笑する麦野に罪悪感を感じずにはいられなかった。

最低な理由で自己嫌悪に陥って、どころかそれを心配させた。

……最悪だ。

なんでこんな自分がのうのうと惰眠を貪っていて、その間に絹旗は大怪我を負ったのだろう。
その役目は自分こそが担うべきではないのだろうか。絹旗は何も悪い事はしてないのに。

殺意にも似た感情が湧き上がる。けれど向けるのは己自身にだ。
最低で最悪で自分がどうしようもなく気持ち悪いイキモノのような気がした。

人の皮を被った、醜悪の塊。
自分の本当の姿を知ったら、彼女らは…………彼は、どういう顔をするだろうか。

だから滝壺は、どうしようもなくなってしまって。

「むぎの」

「なーに?」

「ごめんね」

謝る事しかできなかった。



滝壺は俯き、指を組んだ両手をじっと見るくらいしかできなかった。
文字通りに、顔向けできない。そんな風に思ったのだ。

そして、少しの静寂の後、ふ、と麦野が嘆息し。

「――――謝るなよ。私が惨めになるじゃん」

その言葉に、どうしようもない過ちを犯したことを悟る。
自分の一言は麦野を容赦なく傷つけた。
どうしてだかは分からないけれど、分かったところでどうしようもなかった。

「…………、……」

だから滝壺は黙る事にした。
俯き、貝のように口を閉じ、じっと海底で身を潜めるようにソファに座り微動だにせず、このまま石になってしまえと思い。

けれど感情だけは相変わらず騒がしくがなりたてるのだった。

「……ちょっと、出かけてくるわね」

「………………」

だから麦野の言葉には沈黙で返し。

「ねぇ、滝壺」

名を呼ばれても振り返らず。

「……あんまり考え込むんじゃないわよ。馬鹿正直に阿鼻叫喚を直視しようなんか思うな」

微かな足音と、がちゃりと、戸の開く音。

「狂うわよ」

ばたん。

「………………ばれてた」

やっぱりむぎのはすごいや、と滝壺は小さく呟いた。







――――――――――――――――――――







麦野が部屋から出てしばらくして。

またいつの間にかうつらうつらとしていた滝壺は、物音に目を覚ました。

――――かたん、

軽い、何か板だか棒だかを倒したような音。
それが呆とした意識を叩いた。

「………………」

部屋には誰もいない。
麦野も、浜面も、戻ってない。病院行きだと言っていた絹旗はどうなっただろうか。

無音の光に照らされた室内はがらんとしていて、妙に寒々しかった。
明るいはずの照明は熱を持たず、ところどころに配された人工物が無機質な冷たさを放っている。

――――――こつっ、

再び、音。

それは、部屋の外――ベランダの方からした。

大きなガラス戸。閉ざされたカーテンの隙間からは夜闇が覗いている。
いつの間にか日は落ちてしまっていた。
今何時だろう、と頭の片隅でぼんやりと思いながら、滝壺はふらふらとカーテンに歩み寄る。

ガラス戸の向こうにはベランダ、そして手摺りに仕切られ、空がある。

常識的に考えてあるはずがないのに。

そこに『何か』の気配がした。



「………………」

部屋には誰もいない。
誰かがいた気配もない。

しばらく滝壺以外にこの部屋に人がいた形跡はないのだ。
だから誰かが何かしらの事があって、カーテンの向こうに出たという可能性はない。

その証拠に、左右のカーテンの合わせから覗く、街からしてみればひどく原始的な、引き違い戸に付けられたクレセント錠は閉じ、誰かが外に出た事を否定する。
マンションの中でも角部屋。左右に他の部屋はない。

だからそこに誰かがいるのであれば、それはその空間のさらに向こう……何もない空中を渡ってきたのだろうか。

そんな事を考えながら、滝壺は熱に浮かされたような覚束無い足取りで窓へ近付く。

――――――こと、

また音がした。

カーテンの前に立つ。
証明に照らされた自分の影が布幕に映り、波打つその面に歪な輪郭を描く。

ゆっくりと手を伸ばし、滝壺は二枚のカーテンの隙間に、指を突っ込む。
布で隠されていた空間はひやりと冷たい。その中に、クレセント錠の取っ手が指に触れる。

ごり――っ、と擦る音を立て、ゆっくりと鍵を回転させる。
指に触れる金具は結露によって冷たく濡れている。
ともすれば滑りそうになるそこを指に引っ掛け、摩擦に削るような音を伴い鍵を開いた。



途端。

がらっ――――! とガラス戸が勝手に開いた。

いや、勝手に開くはずがない。

誰かが開いたのだ。

外にいた何者かが。

びう――――、と外の冷たく強い風が部屋に吹き込み、夜気を孕んだカーテンが翻る。
それは目の前にいた滝壺を直撃し、ざらざらとした布の表面で顔を撫でる。
その感触に思わず目を瞑ってしまった。

じぁっ――――!

カーテンレールが擦れ、騒々しく鳴く。
顔を舐める布の感触が奪われ、滝壺は頬に外気の気配を感じた。

そして、確かな人の気配。

目を閉じた闇の中、すぐ鼻先に誰かがいる。

外の冷気の吹き込みに混じって微かに感じる体温。呼吸。
体に遮られ流れを変える気流の渦。

そして、滝壺は目をゆっくりと開く。

そこには。

「ピーター=パンじゃなくて残念だったか?」

「………………玄関から入ってこようよ」

案の定、垣根が立っていた。



「寒ぃ」

「うん、私も寒いよ。早く入って。閉めたいんだけど」

「………………」

なぜか妙に肩を落として部屋に入ってくる垣根。
手には靴が下げられ、そのまま玄関に置いてくる。

「なんで素直に玄関から入ってこないの。常識的に考えようよ、かきね。ベランダは出入り口じゃないよ」

「…………だって飛んだ方が早いんだもんよ」

何やらぶつぶつと呟く垣根を無視して、滝壺はマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れポットから湯を注ぐ。
それを抱えるようにして持ちソファに腰掛けると熱さにふぅふぅと息を吹きかけ冷まそうとしながらちびちびと飲む。

「……俺のは?」

「せるふさーびす」

「つれねぇなぁ……世知辛いなぁ……」

寒さの所為だろうか、鼻を啜りながら垣根は自分の分に湯を注いだ。



「はまづらは。一緒じゃなかったの」

「アイツなら絹旗と一緒に病院だよ」

コーヒーに口をつけ、ほう、と息を吐き垣根は答える。

「まだ何も終わってねぇよ。今頃絹旗のヤツ、手術中じゃねぇの?」

「かきねはなんで帰ってきたの。はまづらは帰ってこないのに」

「……、……」

なぜ彼はこんなに悲しそうな顔をするのだろうか。滝壺は小首を傾げる。

垣根は少しだけ難しい顔をして何かを考える素振りをして、それから滝壺の座るソファの後ろに回る。
そして腰を折り片手でソファの背を抑えながら、垣根は滝壺の耳元に口を寄せ――。

「俺よりアイツの方がいいか」

「うん」

即答した。

「だよなぁ……だろうなぁ……」

気が抜けたように垣根はしゃがみこみ、熱いだろうに、自棄のようにコーヒーを一気に飲み干した。
若干咽ながら、垣根は机の上にカップを置き、そして変わりに目的のものを掴む。

「調べるものができたんでな。コイツを取りにきた」

手にした、長いガラスの爪のようなものが突き出たグローブ――ピンセットを嵌め、垣根は肩を竦めた。

「ふーん」

滝壺にはどうでもよかったが。



「病院でよぉ、驚愕の事実が発覚したんだ」

「ふーん」

ピンセットを手遊びする垣根に適当に返事をするが、何やら妙に視線を感じて見てみれば、垣根がじっと滝壺の顔を凝視していた。

「………………」

至極真面目な表情なのだが、口を開く様子もなく、ただ。

じぃ――――――っ、と。

見つめてくる。

鬱陶しくて仕方ない。嘆息して、滝壺は口を開く。

「…………なに?」

返事を返してやれば、ようやく頷いた。

「凄ぇ医者がいるんだけど。『冥土帰し』って呼ばれてる。知ってるか?」

話の続きらしい。
興味はなかったが、残念ながら覚えがある呼び名だった。

「…………あー」

なんだか妙に蛙に似た顔をした、初老の男性だったはずだ。
天才的な腕を持つ医者で、彼の手に掛かれば死人ですら生き返るとかなんとか。そんな事があるはずはないが。

「それがどうしたの」

なんとなく、話は長くなるんだろうなあと予想しながら滝壺は相槌を打つ。

その声に垣根は、すっと息を吸い。

「死んでた」

四文字で済んだ。



垣根は言葉を続ける。

「どうも心臓発作か何かだったみてぇだ……何日か前にぽっくり逝っちまってたようでよ。
 あの人も結構な年だったしなぁ。なんか病院に住んでるみてぇな人だったし、結構無理もしてたんだろ。
 ま、お陰でアテにしてたこっちは大迷惑だったんだが」

半ば独り言のように言う垣根の言葉が引っかかって、滝壺は眉を顰めた。

「迷惑?」

ああ、と垣根は頷く。

「絹旗の手、イイ感じにぐしゃっとやっててな。多分ありゃ無理だ。
 あのジィサマがいねぇとなると、コイツはもう使い物にならなくなるかも知れねぇ」

死ぬときは死ぬって言ってからにしてくれよ、と勝手極まりない事を好き放題に言って垣根はピンセットを弄る。

……滝壺はどうにもその言い分が理解できなくて、勝手に結論付ける。

「要するに」

当然の事を、当然のように、感情を伴わずに言う。

「大怪我をしたら、死ぬ。それだけでしょ」

滝壺の言葉に垣根は一瞬、呆気に取られたようにぽかんと間の抜けた顔を向け、そして。

「…………そうだ、それだけだ。よく分かってんじゃねぇか」

薄く自嘲的な笑みを浮かべ、疲れたように息を吐いた。



それからしばらくの間、垣根はソファに座りながら無言でかちゃかちゃとピンセットを弄っていた。

ピンセットを取りに来た、と言っていたが、だからと言ってそれを使って何かしている様子ではない。
確かに指先は何かを操作しているのだが、目は茫とどこか虚ろで、何も見てはいなかった。
手持ち無沙汰というか、他にやる事がなくて仕方なくピンセットを適当に弄っているだけのように見える。

「……、……」

そんな様子を見て滝壺は、彼はもしかしたらなんでもない風に装っているだけで、本当はもっと強いショックを受けているのではないだろうかと思う。

先程の口ぶりからは、彼はその医者の事をよく知っている気配だった。
故人の事を話している時はどこか嬉しそうですらあった。
そう、自慢話のように。

その医者の腕は折り紙つきだったのだろう。
何せ『無理だ』と言った絹旗の怪我を唯一『どうにかできる』と、そう言ったのだ。
もしかすると垣根自身もその手腕の世話になっていたのかもしれない。

絹旗は仮にも暗部の人間だ。
それを任せる事を躊躇わない相手。

つまり、

「かきね」

きっと、こういう事なのだろう。

呼ばれ、上げられた垣根の顔を見て滝壺は確信する。

「そのお医者さん、好きだったの?」



「――――――、」

垣根は滝壺の言葉に、ふと悲しそうに笑い。

「語弊がある言い方をするなよ。……ただ……尊敬してた、かな」

「そっか」

その一言で十分だった。

ただ、彼になんと言葉をかけていいのか分からなくて、滝壺はそれ以上の事を言えなかった。

かちゃかちゃと、音が再開する。

その耳障りなはずの音を聞きながら、



私はむぎのやきぬはたが死んだら、どう思うだろう――――。



きっとその時が来てみないと分からないだろう。
けれど、いつか来るだろうその時。
果たして自分は何を思うだろうか。

そして。



もしも――――はまづらが――――、



続きを想う前に、滝壺はまた眠りに落ちた。





――――――――――――――――――――





ぴ、と小さく電子音がして、画面にざらざらと文字が流れる。

「………………やっぱりか」

小さく、垣根は嘆くように呟く。

全部を見なくてもいい。何か確証が持てれば十分だった。
出てきたものは期待していた以上のものだったが。

「麦野は…………知ってんだろうなぁ」

声に出して気付く。そういえば彼女はどこに行ったのだろう。

「なぁ、アイツは――――」

尋ねようとして、その相手が寝てしまっている事に気付く。
彼女は不気味なうさぎのぬいぐるみを枕代わりに抱いて寝息を立てていた。

「………………そうやって何も見ないでいればいいさ。現実ってのはちょっとばかし残酷だからよ」

滝壺を起こさぬよう小声で囁きかけ、横になった彼女の上に脱いだジャケットをかけてやった。

垣根は名残惜しそうに滝壺の寝顔を見て、玄関へ向かう。
靴を履き、ズボンのポケットから潰れかけたタバコのパッケージを取り出し。

がちゃり、

扉を開け、タバコを咥え、外に出る。
ドアノブから手を離しライターでタバコに火を点け、深く吸い込んだ。

ばたりと扉の閉まると同時に自動で鍵がかかる音がした。

「……寝てる間に全部終わるくらいに簡単ならいいんだけどなぁ」

誰に言うでもなくぼそりと呟き、

「――――――へくしっ」

くしゃみを一つして歩き出した。







――――――――――――――――――――









――――ガチャ、

「ただいま。飯、買ってきたぞ」

「つってもまたコンビニだけどな。代わり映えしなくて悪いな」

「よし、暖かいうちに食おうぜ」

「…………ほら、口開けろ」

「恥ずかしがるなよ。そろそろ慣れろ」

「――っと、悪い。熱かったか?」

「ふーっ、ふーっ」

「ほら、冷ましてやったから。これなら大丈夫だろ」

「……どうだ、美味いか?」

「………………そうか。ならよかった」

「あぐ……お、確かに。いけるなコレ」

「……何だよその顔は。俺ばっかり食べてずるいってか?」

「へいへい……ほら、アーン」

「……美味いか。そりゃよかった」

「……はい、御馳走サマ」

「あーあ、口の周り汚しちまって……」

「ちょっと待て。今拭いてやるから」

「…………う、悪い。痛くしちまったか」

「そうむくれるなよ。可愛い顔が台無しだぞ」

「ったく、じっとしてろって……」

「…………、ほら。綺麗になった」

「よしよし、美人美人」

「…………」

「…………」

「…………大丈夫だ」

「大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ」

「何も心配する必要はない……そうだろ。オマエは何も心配しなくていい」

「オマエは俺が守るから――」

「あァ――――だから何も心配なンかしなくていいンだよ――――」

「そうだろ、なァ――――」

「――――――」

「――――――」

「――――――」





――――――――――――――――――――





「そろそろ、いや、ようやくってトコかな」

「何が」

「役者。ようやく出揃ってきたって感じ?」

「……まあどうなるのかは知らねえけどな」

「連れないねぇ」

「俺は観客に徹させてもらう。……それしかできねえけど、それくらいはするさ」

「そ。……細工は流々後は仕上げを御覧じろ、ってね。まぁ見てるがいいですよ」

「そうさせてもらう」

「…………連れんねぇ」

「…………」

「…………」

「…………なぁ」

「なーに?」

「前から思ってたんだけど……オマエなんでまた、よりによって青なんだ?」

「だって金髪だと被るやん?」

「…………オマエも大変だにゃー」







――――――――――――――――――――















――――目が覚めた。

何か、夢を見ていた気がする。
けれどどんな夢を見ていたのか。内容は思い出せない。

(――――まあ、どうでもいいか)

きっと、それを思い出せば泣きたくなる。
だから考えない事にした。

既に日は落ち、部屋は暗い。
ここ数日は寝てばかりだった。疲れているのだから仕方ないが。

部屋には他に誰もいない。自分だけだ。
そこだけ世界から切り取られたような錯覚。
自分の立てる僅かな衣擦れの音だけが嫌に耳についた。

時間感覚はとうに狂い、サイドテーブルの上で緑の光を放つデジタル時計でようやく時刻を知る事ができる。
寝過ごしたらしい。もう少し早く起きるつもりだったが。

ぐしゃぐしゃになったシーツを蹴飛ばし、同じようになっていたブラウスを手繰り寄せた。
丁寧にボタンを留め、リボンタイを付ける。
皺の目立つスカートに足を通し、誤魔化すように上からブレザーを羽織った。

部屋に鏡はなく、仕方なく暗い中で手櫛で髪を整える。
それから、ぱちんと髪飾りを留めた。



「ん、よし」

頷き、それから彼女は右手で左腕を抱くように胸に寄せ、まるで何かに祈りを捧げるように目を閉じる。

「――――――」

小さく何か囁き、同時、左の手指に口が触れた。



もし神という存在がいたとして。

そんな最低なヤツになんて祈りを捧げる必要はない。



カーテンの開け放たれた大きなガラス窓から見える夜景はちかちかと、まるで満天の星空のようだ。
空は雲が広がっているが、所々に切れ間がある。しかし下界が明るすぎて星は見えない。

壁際、ハンガーに掛けられた黒い上着を手に取り、袖を通す。



何故ならここから先は悉く地獄の底まで一方通行で。

故に、ここには救いも願いも祈りも赦しもなく。

だからこそ、



「――――――さぁ」



ばさりと、黒衣の裾を翻し彼女は発つ。

ようやく、燦然と煌く摩天楼の下に広がる地獄の舞台に。

主演が登場する。

























「――――行くわよ、幻想殺し」















  • 第一幕
    (或いは客席に対する悲劇の出題、各々の回答への過程)

    『ゆめ』

    Closed.










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