とある世界の残酷歌劇 > 幕前 > 04

深夜の病院、自分の研究室で彼は凝った肩を回し一息ついていた。

一部若い看護士の間ではゲコ太先生などと呼ばれている初老の医師。
どこかカエルを思わせる容貌だが爬虫類的な冷たさは持っていない。
この頃流行のファンシーキャラクターの名で呼ばれる通りどこか愛嬌のある顔だった。

どこにでもいるような一介の医師だがその腕は半ば伝説となっている。

『冥土帰し』――いつしか彼はそう呼ばれていた。

あらゆる手段を模索し患者を死の淵から生還させる医師。
既に年若いとはお世辞にも言えぬものの彼の腕は衰えるどころかいまだ成長を続けている。

彼の武器は医療技術のみならず卓越した機械工学の知識と技術による総合医学。
あくまで人の技術のみを用いてあらゆる傷と病を治療する彼は異能の街である学園都市の中では極めて珍しいといえるだろう。
能力開発も科学技術の一環ではあるが異能の力である事には変わりない。       ゴッドハンド
異能に頼らずあくまで人の持つ知識と技術のみを武器に死神を撃退するその腕はまさに神の御手と呼ぶに相応しい。

ただ、そんな彼も寄せる年波には勝てないのか疲れた顔で椅子に腰掛け脱力している。
痒みを持つ目を閉じ指でやや強く押し深く溜め息を吐いた。

今日だけで何件の手術をこなしただろう。
完璧といえるその一つ一つはしっかりと脳裏に焼き付いているが数を数えるのはいつの頃か止めてしまった。

本来手術に掛かるだろう時間の数分の一、もしくは十数分の一という常識的には考えられないような早業を得意とするが、
連日連夜大手術の立て続けとあっては彼自身への負担を緩和するという意味はない。
もっともその分だけ患者一人ひとりの負担は減り、その時間の分だけより多くの患者を救えるという事なのだが……。

実質この病院は彼のお陰で保っているようなものだ。
腕の立つ医師はそれこそごまんといるが彼のような規格外ともなれば世界に数人もいないだろう。
この病院の看板は彼だ。大きな病院だがその実、ほとんど個人の開業医とあまり変わりない。
彼の手に掛からずともよい雑務や通常の技術でも可能な手術などは任せている。
が、患者のほとんどは彼でなくば対応できないような重症が大部分を占めている。
手足が吹き飛んだり重い心臓や脳の病気、末期癌などはまだ可愛い方だ。

治療法の糸口すら見えていないようないわゆる不治の病。
能力開発の副作用で起こる、あるいは起こされた難病奇病、人体汚染。
そして現代医学の範疇を超えたそれこそ呪いじみた異形の病。
果ては世界の倫理を逸脱した、考える事すら禁忌とされる代物まで。



その治療を一手に引き受けているのだ。疲れるなという方が無理がある。

けれど休んでいる暇などないのが現状だ。患者は後から後からひっきりなしに病院の門戸を叩く。
休憩も治療を万全に行うための必要な事だとは思うが、そうとしか思えない辺りで既に肉体の限界を超えている。

彼はもう若くない。体力は衰え若い頃にはまだ楽だった徹夜ももうかなりの負担を発生させる。
それでも夜間に緊急の手術などが入れば出張らざるを得ない。彼が出なければ患者は死ぬ。

患者を一人でも多く救おうとした結果、彼自身が最も死に瀕しているのかもしれない。
持ち前の知識と技術を総動員して何とか繋ぎ止めてはいるが常人ならばとうに過労死している。
それでも彼は、一人でも多くの命を救おうと我が身を犠牲にして孤立無援の戦いに挑む。
他ならぬ自身の背後に死神が迫っている事を自覚しながらも無視し戦い続けるしかない。

自分が死んだ後どうなるのだろうと彼はふと思う事がある。

彼をしても死だけはどうしようもない。
終生の哲学でもある。治療とは死を撃退する事ではなく、生を全うするためのものだと認識している。
やがて来たる死を想起しながらも今この時を十分に生きる。
メメント・モリ……死を思え、と訳されるそれは医療の世界では欠かせない概念だ。

人は、生物はいつか必ず死ぬ。究極的に生とは死によって完結する。死ななければそれは生とは言えない。
限りなく死を遠ざけたところで必ず終わりはやってくる。それは彼とて同じだ。

だから、と思う。彼の死んだ後、未来に現れる患者は誰が救うのだろうと。

理想論はさておき現状としてこの病院の根幹は自分の手に係っている。これは確固とした事実としてだ。
他の医師たちがヤブとは言わない。むしろ極めて優秀だ。けれど客観的に見れば彼に劣るといわざるを得ない。

彼なら救える患者も、彼がいなくては救えない。
近頃初老のカエル顔の医師が憂えているのはその点だ。



この状況を打開する方法は二つ。

一つは、彼に比肩する、あるいは凌駕する技量の持ち主が現れる事。
これは完全に運頼み。神の采配に期待するしかない。

だがもう一つは彼自身がどうにかできるものだ。
即ち後継。技術と知識を託す者の育成。既に候補はいる。

木山春生――若いながらも脳医学の分野で目覚しい活躍を見せる女医。
学園都市外部から招聘された医師だがこの街の特徴である能力開発の医療分野での意味について彼女ほど詳しい者も珍しい。
そして同時に、将来の能力者治療の可能性を秘めているAIM拡散力場の研究を専攻としている。
これほど条件に合致する適任者はそうそういない。だが――。

「…………」

木山を後継にするつもりはなかった。

彼女は医師であり、研究者であると同時に教師でもある。
そして彼女の天職はと訊かれれば木山をよく知る者ならば口を揃えて言うだろう。
先生と呼ばれる木山に付けられる敬称は彼のものとは違った側面を持つ。

彼女の才能は正直なところ惜しいと思う……が無理にと頼み込むなどできるはずもなく、またそうする自分を誰よりも許せない。

だがもう一つ、こちらは半ば博打だが心当たりがあった。
彼の他者が真似することすら不可能なほどの特殊な技術と知識を残らず全て継承できるだろう稀有な存在が一人だけいる。

学園都市最強の能力者にして最高の頭脳を持つ少年。

彼ならば間違いなく自分の全てを引き継げる。どころか、新たに発展させ医療技術を革新させる可能性すら十分にある。
専門でないにも関わらず医学にも造詣が深い。能力者の少年だが、彼はその能力を使って自身の健康を維持していた。
身体的に、特に脳に大きなハンデを負わされた少年だがその点は既に自分が解決済みだ。
彼は自分の医療全てに足る力を持つ。その上まだ若い。これほどの逸材が転がり込んでくるあたり神の見えざる手をつい夢想してしまう。

そして彼と密接な関係を持つ彼女たち……同じ顔をした一万に近い数の少女たちが後援できる。
世界中に散らばった彼女たちはお互いの間に特殊なネットワークを形成する能力を持つ。
知識や経験、思考すらも同調させるそれは距離という絶対の壁をも凌駕する事ができる。

彼と、そして彼女たちによる大規模な医療ネットワーク。
初老の医師は年甲斐もなく少年のような野望に燃えているといってもよかった。

もっとも……最初の一歩、彼と彼女たちを口説き落とすのが最大の難関なのだが。



同僚の看護士一同から誕生日にと贈られたものの一つ、デフォルメされたカエルの描かれたマグカップに口を付ける。
コーヒーではない。中身は白湯だ。これからしばらく仮眠を取るつもりだというのにカフェインなど摂取できない。

ポットの中身をそのまま注いだそれは思った以上に熱かったが、疲れた体に十分に染み渡ってくれる。
本当は塩を一つまみでも入れたほうがいいのだろうが生憎と手近なところに調味料の類はない。
一度治療用の生理食塩水を飲んでいたところを見つかって医療品を勝手に消費するなと婦長にしこたま怒られた事がある。

「……さてと」

首と肩、腰の関節をぐりぐりと回し解した後、彼は仮眠室に向かおうと重い腰を上げた。

その時だった。

こん、こん、と。二回。
控えめに部屋の戸がノックされる。

「……」

机の上のカエルのマスコットの腹部に描かれたデジタル表示は既に午前三時を過ぎている事を告げていた。

病院そのものは二十四時間不眠不休の態勢を取っている。
だがその活動の中心は矢張り日中だ。あえてこんな深夜に好んで活動する者もそういない。

緊急手術の要請なら机の上の内線電話が鳴り響くはずだ。
そういう事情を鑑みればさほど急用ではないか、もしくは――内密の事案か。

「誰だい?」

扉越しに立っているであろう相手に問い掛ける。
返ってきた言葉は思った通りの人物のものだった。

「ミサカです。正確に表現するならば検体番号一〇〇三二号です、とミサカはミサカのプロフィールを明らかにします」

「……入りなさい」

がちゃり、と戸が開かれ、暗い廊下を背後に現れたのは中学生くらいの少女だった。
とある少年に御坂妹と呼ばれる人造の少女……カエル顔の医者の患者の一人がそこに立っていた。



「こんな時間に何の用かな。それに夜更かしは美容の天敵だね?」

意図的に普段と変わらぬ様子で彼は対応する。
同僚なら別だが彼女は自分の患者だ。疲れを見せてはいけない。不安へと繋がる。

そして彼女も、普段と同じように。
その顔には感情が希薄だった。

近頃になってようやく自我らしきものが見えてきた少女だ。
知識はあっても経験が圧倒的に不足している彼女たちには感情の多くがまだ未発達だった。

だがいつもに増して表情が乏しい。
こと患者を見る目だけはあると自負している。
細かな仕草、様子、表情の変化から患者の内面を診るのは医師の役割だ。
だから彼は瞬間的に『何かがあった』のだと察知した。
もっとも具体的にそれを測る超能力じみた読心術など持ち合わせていない彼にはそれが何なのかこの時点では知りようがないのだが。

「……まぁ立っていても仕方ないね? 掛けなさい。それで、どうしたのかな?」

だから単刀直入に核心について切り込む。
他の患者に対してはもう少しゆっくりと時間を掛けて臨むのだが彼女たちは別格だった。
何せ抱えている事情が事情。そしてその点においては格別の信頼を勝ち取っていると自負している。
彼女たちが深刻な事態に直面したというのならその生い立ちや身体の特徴、そして固有の能力について以外にありえないだろう。
故に今この時ばかりは遠慮は必要ない。そう思っていたのだが。

「……用があるのはミサカではありません、とミサカは仲介役である事を示します」

その言葉に一瞬眉を顰める。
こんな時間に、それも彼女を介して現れる人物など限られている。

先ほど考えた白髪の少年か。
それとも、黒いツンツンした髪の特徴的な特異な能力と事情を持った少年か。

そのどちらでもなかった。

一度室内に入り、そして彼女は戸の前から逸れるように壁に一歩寄り。

「こんばんは、センセ。夜中に押しかけてごめんなさいね」

暗がりから顔を出した二人目の来客は、先に現れた少女と同じ顔をしていた。



御坂美琴。

電磁系能力者の頂点に立つ七人の超能力者の一角、序列第三位、『超電磁砲』。
そして彼女と同じ顔をしたクローンの少女達、妹達のDNAの元となった少女。

何度か面識はある。彼女もまた幾つかの暗い事情を抱えている。
病院以外でも電気工学などの分野での学会では何度か見かけた。

御坂はクローンの少女と同じく、常盤台中学のブレザー姿のまま、奇妙な事にその上から男子学生用の学ランを羽織っていた。
そして肩から……これから釣りにでも行こうというのか、大きなクーラーボックスを提げている。

随分と珍妙な格好だった。
そしてこの時間もだ。何か重大な問題が発生した事は間違いない。

「えっとね、ちょっと確認とお願いに来たんだけど」

彼がそれを問い質すよりも先に御坂の方から切り出した。

「この子達の、妹達のクローンプラントってあったじゃない。あれ、どうなってる?」

……矢張り、と彼は思う。
彼女がこんな時間に尋ねてくる理由など他に考えられなかった。
彼女達の抱えた問題は未だ全てが解決されたとは言い難い。

新たに何か問題が発覚したとしても今さら驚くような事ではない。
ただ速やかに障害となるもの……彼にして言えば病巣を治療するまでだ。

ただ、老いを感じさせぬ内面の素早い思考を表に出さぬまま彼は御坂の問いに答える。

「うん。間違いなく全部壊したね? 後でまた何か妙な事に使われても困るからね?
 丸ごと爆破なんて荒っぽい真似ができればそっちの方がいいんだろうけど、復旧は無理なくらいに壊しておいたから心配いらないだろうね?」



彼の答えに御坂は。

「そっかー。やっぱりそうよね。その辺は信用してるからそうだろうとは思ってたんだろうけど」

にこにこと、笑顔のまま頷く。

「じゃあやっぱり無理かー。困ったわね」

「……何だって?」

困る、と彼女は言う。
あの負の遺産が使用不可能な事で何か不都合があると言う。

「君はまさか……あれを使おうとしていたのかい」

「うん」

笑顔のまま御坂は即答する。

カエル顔の医者はこの時になってようやく彼女の異常性に気付いた。
彼女にとっては悪夢の傷痕でしかないものについて平然と、それも笑顔で語る。
挙句の果てにそれを彼女自身が再び動かそうと言う。

どのような事情があるのかはさて置き、絶対にあり得ない事だった。
御坂美琴はそんな真似ができるような少女ではない。まして嬉々としてそれを使うなどとは決して言えぬ。

まるで彼女の顔をした誰か別の人物であるかのような印象。
いや、雰囲気は確かに御坂美琴のものだが――その行動原理の基礎部分が限りなく本人のものとはかけ離れている。

「まぁ実際、最初からそんな事考えてないんだけどさ。知識とか記憶とか人格とか何もないところから生成するのは無理だし。
 あ、でもアイツ使えばなんとかなりそうな気もするけど、やっぱり別物よね。だからこの手は最初から使えないんだけど、一応の確認」

最初から返事も理解も期待していない言葉を御坂は独り言のように吐く。
けれどその意味するところ、根本の部分を察せぬほど彼は愚かではなかった。

「まさか君は――」

背筋を冷たいものが走る。
見えない死神の気配が知れたような錯覚を覚え、彼は絶句した。
そして続く言葉は彼の予想のままだった。

「魔法でもない限り無理よね。死んだ人を生き返らせるなんて」



「――君は何を考えている――っ!」

思わず腰を上げ彼は御坂に怒声を放った。

それは治療の、医学の――人としての域を完全に逸脱した行いだ。
クローンなどという技術すらも霞んで見えるほどの最悪の禁忌。
人が人であるために絶対に犯してはならない最後の砦だった。

「例えどんな事があったとしてもそれだけは絶対にやってはいけない!
 医学は死を否定するためのものじゃない! 生を肯定するためのものだ!
 死人を生き返らせるなんて、それは神の領域だ!」

「うん、だからそもそも、私達ってそういうもんじゃん?」

激昂する彼に、御坂は平然とそう返した。

「――――――」

「神ならぬ身にて天上の意思に辿り着くもの、でしょ? 今さら何言ってるの?」

そう、この街は神に歯向かうために作られた悪逆の都市。
人の身でありながら人知を超えようとする異端の集団。
この学園都市というものの根本はそれだ。だが――。

人の身に余る力は必ず破滅を招く。
バベルの塔は崩壊し、パエトーンは太陽に焼かれ、イカロスは天から墜ちた。
あれは何も神話だけの話ではない。身の程を弁えず得意になった愚者は必ず報いを受けるのだ。

彼はこの学園都市にありながら、誰よりもその超科学に深い造詣を持ちながらその理念に真っ向から反発していた。

死を否定する事はそれまでの生を否定する事にもなる。
その人がどのように生き、どのように死んだのか。全ての意味を無にする所業だ。



彼女がこんな事を言うなど考えられなかった。
そして、何があったのか、とは考えるまでもない。

彼女の心を壊すほどの誰かが死んだ。

御坂のプライベートについては詳しく知らない。
だが間違いなく掛け替えのない人物。家族か、親友か、恋人か。そのどれかだろう。

しかし今はそれが誰なのかはさほど重要ではない。
なまじ強い力を持っている彼女だ。何をするか分からない。
倫理観すらも怪しい状態だ。下手を打つ前に捕まえておかなければならない。

思わず大声を出してしまった事を悔やみながらも彼は腰を下ろし椅子に深く腰掛けた。
思考を表情には出さず、落ち着いた口調で彼は平静を装い御坂に語りかける。

「君は気付いていないかもしれないが……少し厄介な病気に罹っているようだね?」

「んー、自覚はしてるんだけど。実感があんまりないっていうか」

自覚がある。ますます性質が悪い。
だが。

「なら話が早いね? 治療をしよう」

カエル顔の医者は頷きスリープ状態になっていたコンピュータを起動させる。
そして電子カルテを作成しようとソフトウェアを立ち上げ。

「――いや」

予想外のその言葉に動きを止めた。



「当麻がね、助けてくれたの」

そして彼女の言葉にあったその名に戦慄した。

「今の私はね当麻がいたからいるの」

それは彼のよく知る少年だった。
特殊な手と不幸な事情を抱えた少年。

死んだのは、上条当麻。

「だからそれをどうにかするなんて、出来るはずないでしょ?」

彼女はどこか嬉しそうにそんな事を言う。

彼の死を何より尊重する一方で、彼の死を否定したいと彼女は言う。
矛盾する言葉。だからこそ彼女は最悪の病に侵されていると言えるのだろうが。

『冥土帰し』のその手を以ってしても治療不可能な、最悪の病魔。
人が人であるが故に生まれてしまった史上最悪の感染症。

――恋の病。

「だから、この心を否定するなんて誰にもさせない」

たとえそれがカミサマでも。

そう彼女は誇らしげに言うのだった。



けれど、と彼は思う。
どれほどの難病奇病であろうとも病を前にして退く事は許されない。
何故なら。

「……それでも僕は医者だからね? 患者を前にして指を咥えてるなんてできない」

それが彼の矜持であり唯一無二の誇りだ。
今まで数え切れないほどの患者を救ってきたその手だけは何よりも信頼している。

たとえ相手が難攻不落の要塞だろうと切開し病巣を打破する事ができると信じている。
今、最悪の敵を前にしてもその信仰が揺らぐ事は決してない。

「君は明らかに異常だよ? それは君も分かっているね?
 とりあえずカウンセリングをしよう。そこに座ってくれるね? その荷物を降ろして――」

そう彼が横手にあるパイプ椅子を視線で指し。
彼女の提げていた重そうなクーラーボックスを手を伸ばし示し。

それが彼の失敗だった。



「――――触るなぁっ!!」



怒声と共に、ばちん、と小さく紫電が舞った。



ぶつん、と机の上のコンピュータの動きが止まり画面がブラックアウトする。

咄嗟に御坂の起こした電撃は宙を走り机に突き刺さる。
金属製のその枠組みを伝達し本体へと流れた予期せぬ電流に瞬時に機能停止に陥った。

「……あ、ごめんねセンセ。びっくりさせちゃった?」

直前のそれが嘘のように、御坂は悪戯がばれた子供がそれを誤魔化すような笑顔を初老の医師に向けた。

「これはだーめ。センセが協力してくれるならまだいいけど、そうじゃないなら絶対に触らせないわよ。
 あ、そこのとこ確認するの忘れてたわね。念のため聞くけど、私に協力してくれたり、しないわよね?」

にこにことそう尋ねる御坂の表情はいつもの朗らかなものだ。
だがその笑顔の裏にある混沌としたものを隠せるほどのものではない。
まるであえてそういう仮面を付けているかのような、どこか無機質めいたものだった。

………………幾ら待っても彼女の問いに対する返事が無い。

「……?」

可愛らしく小首を傾げ、御坂はそっと初老の医師に近付く。
椅子に深く腰掛け、左手は机の上に、右手は肘掛けに乗せたまま。
無言で俯いている彼へ。

すぐ傍まで近付いて、暫く何の反応もない事を不思議に思い、彼の顔を覗き見る。

そうしてまた暫くの間、彼の様子を観察して。
それから彼女は少し驚いたように小さく呟いた。

「あ、死んでる」



彼の左手はその机に触れている。

御坂が突発的に起こした小さな雷は机に落ち、そこに据えられていたコンピュータの機能を殺した。
基盤を破壊しない程度。彼女の能力からしてみれば至極弱いものだった。

だがそれは机に触れていた彼の手から体内に侵入した。

火傷すら起こさぬような小さなものだ。
けれど御坂の電撃は血液の流れに乗りその果て、心臓へと辿り着く。
例えどれほど弱いものだとしても老いに疲弊し切ったその心臓には致命的だった。

「…………ま、いっか」

半ば投げ遣りに呟き体を起こす。

このまま何もなければ突発性の心筋梗塞と、そう判断されるだろう。
足が付いてはこの後の諸々に影響する。
殺人の容疑者として手配されては、捕まる事もないだろうが邪魔になる。
瞬時に隠蔽へと冷静に思考を切り替え、何か証拠はないかと見回して。

「…………」

戸の脇に立つ自分と同じ顔をした少女と目が合った。

機械めいた無表情のまま、微動だにせず立つ少女。
『彼』に自分の妹と呼ばれていたとしても一部始終の目撃者には違いない。

「ね。アンタも私の邪魔する?」

そう御坂は笑顔で尋ねた。



「…………いえ、とミサカは否定の答えを返します」

機械的に彼女は口だけを動かす。

「あの方の行いが今のこの状況を生み出したのだとすれば、ミサカはそれを甘受します、とミサカは結果ではなく原因に判断を委託します。
 あの方がお姉様を助け――いえ、死なせなかったのだとすれば。
 あの方はその後のお姉様の生、行いを肯定したものと認識します、とミサカは半ばこじつけな事を自覚しながらもその解に妥協します」

妥協、と彼女は言う。自分でもどこか腑に落ちない点はあるがそれで納得すると。
そして判断材料を他者の行動を肯定する事に求める。
それは彼女自身の答えではない。他者に依存し、自らの解を持たないのだとすればそこに彼女の思いはない。
ただ、そうするだけの理由が彼女にはあった。

「ミサカはお姉様のクローンですから。その現場に居合わせ、当事者だったお姉様ほどではないにしろ、同じようになっているかと」

「つまり?」

「中途半端の欠陥品は嫌ですね。お姉様には遠く及びませんが、ミサカもどこか壊れたようです、とミサカは下らない洒落を言ってみます」

彼女は面白くも何ともないという様子で肩を竦める。
この状況下、その仕草もまた明らかな異常だった。

「そしてその分、お姉様にない感情が芽生えたようです、とミサカは自己分析します」

「へえ。どんな?」

「あの方に愛されたというお姉様に対する嫉妬、これについては何も言うつもりはありませんが。むしろ祝福すらします」

「……ありがと?」

素直に喜べばいいのかと若干迷い、疑問形で御坂は答えた。



「いえ。これはミサカの願いでもありましたから、とミサカは少し複雑な胸の内を明かします。
 ……そして、それともう一つ、とミサカは前置きします」

そこで今まで静止していた彼女は初めて動く。

ごく自然な動作で手を伸ばした。

彼女が背にしていた部屋の戸、その金属製のドアノブを掴む。

そして捻り、引いた。
僅かな金具の擦れる音と共に部屋の戸を開き――。

「――こちらも、妹を一人と居場所を一つ、それから大切な人を一人奪われましたので。
 お姉様が何か行動を起こすのでしたらお手伝いする所存です、とミサカは全会一致の採択を発表します」

そこには、部屋の中の二人と同じ顔をした少女が四人、静かに佇んでいた。

「どうか気にせず、お好きなように。
 ミサカはお姉様のために生き、お姉様のために死ぬよう作られたのですから、とミサカはミサカの存在意義をここに宣言します」





――――――――――――――――――――





証拠の隠滅は妹達には慣れたものだった。

あらゆる手段と状況を想定した絶対能力者進化計画。
それはあらゆる事態を想定した殺人現場の隠蔽工作でもある。

元より実験下においてその死体処理は彼女達自身の手によって行われている。
現場に何一つ痕跡を残さず、少なくとも表向きの警察組織ではそこで何があったのかを理解する事もできない。
風紀委員は勿論、専門装備を持つ警備員や検死の技術を持つ医師であっても自然死と判定するだろう。

事後処理を彼女達に任せ御坂は病院を後にする。
窓から直接屋外に出、そのまま建材に組み込まれた鉄筋を磁力で足場としながら彼女は悠然と地上に降りる。

ただ一人、そんな彼女を待つ人物がいた。

タイルに舗装された地面に降り、病院の裏手から外へ出ようとした彼女の前に、植樹の裏の暗闇から人影が現れる。
彼女にはよく見知った顔だった。

カッターシャツに黒い学生ズボンの、黒いツンツンした髪の少年。
上条当麻――正確には彼の姿をした別人が。

彼は無言で、優しげな笑みを浮かべて御坂の正面に立つ。

対する御坂も、彼の姿を見つけ破顔した。
ぱぁっと天真爛漫な笑顔を浮かべ彼に駆け寄り、それから彼のすぐ目の前で立ち止まる。
それから笑顔のまま目を細め。

「――それ、何のつもりかな?」

返事を待たず、鋭い蹴りが彼の脇腹に突き刺さった。



手加減の一切ない、暴力のままに任せた蹴り。
それは中学生の少女から放たれたものとは思えないほどの威力を持っていた。

その一撃を彼は回避も防御もせず甘んじて受け、そして踏み堪える。
確実な手応えがありながらも彼の笑顔は崩れぬまま。

「…………」

蹴りを放った姿勢のまま、御坂は暫く彼の表情を見た後、ふっと力を抜き蹴り抜いた足を戻す。
そしてどこか詰まらないといった風で溜め息を吐いた。

「アンタ、あれよね。前に海原君の格好してた奴」

「ええ。覚えていてくれましたか」

彼の顔、彼の声色でアステカの魔術師は御坂に微笑む。

「お久し振りです、御坂さん」

「当麻の顔でそんな風に私の事呼ばないで」

「これは失礼」

謝罪の言葉を述べるものの彼の顔は相変わらず薄く微笑んだまま。
仮面じみたその顔を一瞥し御坂は僅かに目を細める。

「で、何でアンタが当麻の格好してんの? 事と次第によっては殺すけど、言い訳はある?」

「そうですねぇ」

彼は少し困ったような、演技めいた表情を浮かべて御坂を見る。

「彼がいない事が露見すると色々と面倒な事になりそうでして」

「アンタが困ろうが私には知ったこっちゃないわよ」

「いえ、あなたもきっと困りますよ? 彼は――と言うより彼の手は、色々な方々がご執心ですから」

そう言った彼の視線は御坂が肩から提げたクーラーボックスへと注がれる。
正確にはその中身に。彼女が大事そうに抱えているそれが何なのか察せぬはずがなかった。



「うーん。確かにそれはちょっと、困るわねえ」

「ええ。ですから一つ、ご相談に上がった次第です」

「うん?」

「一つ二つ、面倒事を頼まれてくれませんか?」

「何で私が」

「そう仰らず」

そう唇を尖らせる御坂に彼は変わらぬ笑みを向ける。

「多分あなたの考えている条件と一致するはずですから」

彼の言葉に御坂はぴくりと眉を動かす。
対し、彼の表情は微動だにしない。笑顔の仮面を貼り付けたまま。

「…………どうして私の考えてる事がアンタに分かるのよ」

『心理掌握』でもあるまいし、と小さく付け加える。
そんな御坂に彼は即答した。

「もし自分が同じ状況にあったらどうするか――自分なりに考えてみたまでです」

「ふーん」

さほどの興味もなさそうに適当な答えを返す御坂は、少し考えた後、彼には一瞥もくれず歩き出す。

「……で? アンタの描いてるプランってのはどういうのな訳?」

背中越しに言葉を投げる御坂に彼は満足げに頷き、後に続く。

「それはですね――」



……なるほど、と御坂は思う。

確かにこれは彼女なりに考えていたものの条件に合致しているし、何より彼の協力は願ったりだ。
そのために引き受ける『面倒事』とやらも彼女にしてみれば容易い。そして確かに面倒ではある。

「……で」

ただ一つ解せないものがあった。

「どうしてアンタは、そうまでして私のメリットになるようにばっかり事を進めるの?」

「『彼』と、そう約束しましたので」

その言葉に御坂の足が止まり、一瞬送れて彼の足も止まる。
彼と『彼』、二人が交わした約束。それを御坂は知っている。

「これでは勝ち逃げされた気分なので……というのでは理由に足りませんか?」

背後から投げられる声に振り向かぬまま御坂は下唇を噛む。
それからはっと気付いて、口を薄く開いて、薄く歯型の付いた唇を口内に折り含んだ。

「ご満足頂けないようでしたらもう一つ」

そんな御坂の仕草を目にすることもなく彼は相変わらずの調子で続ける。
ざあ――と夜風が病院内に植えられた木枝を揺らし音を立てる。

「――――というのではどうでしょう」

「…………」



彼の言葉に御坂は目を瞑り、暫く考えた後。
ふっと笑って再び歩き出した。

「でも私は」

背後に付き従う彼に一瞥もせぬまま御坂は言葉を投げ掛ける。

「当麻のものだからね?」

「それは重々承知の上」

「じゃ、いいわ。アンタの口車に乗ってあげる」

「ええ。ありがとうございます」

御坂の答えに彼は満足そうに頷き、今度こそ本当の意味で微笑んだ。
そして彼女と数歩の距離を保ったまま後に続く。

「あ、でも私にアンタのその顔、あんまり見せないでね?」

駐車場の監視カメラの死角を潜り、振り向かぬままに彼女は言う。

「飛びついてキスしたくなっちゃうから」





――――――――――――――――――――






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最終更新:2012年08月04日 18:21
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