8月20日午後5時55分、アビニョン『教皇庁宮殿』近くの庭園
何事も無かったかのように攻撃態勢を取るエツァリに、ショチトルが囁くように尋ねる。
「大丈夫なのか……?」
「はい。安心してくださいショチトル」
エツァリを囲むように浮かぶ粉塵を見て、テッラが憎々しげに吐き捨てた。
「まさか、『原典』を使う魔術師だったとは思いませんでした。少しばかり面倒な事になりましたねー」
戯言を最後まで聞いてやる理由は無い。
原典の粉末と言う“猛毒の嵐”が、悠然とたたずむテッラへ牙を剥く。
「……理解力に欠けているようですねー。“少し”の意味が分かっていますか?」
そして。
「――優先する」
「!」
常人なら骨も残さず食い尽されるであろうその攻撃を、テッラは真正面から受け止めた。
その平然とした表情が、『原典』による攻撃ですら意味が無い事を何よりも明らかにしている。
「残念ですが、これが格の違いというモノです。例え『原典』でそこそこタフになろうと、勝ち目はありません」
ゴバッと空気を切り裂いて、今度はテッラの操る小麦粉が刃となって襲いかかった。
原典の粉末と、小麦粉。
奇しくも似たような形状の『武器』が、互いに噛みつき、引っ掻き、爪を立てる。
本来なら圧倒的に原典よりも質が劣るはずの小麦粉が、テッラの魔術によって互角以上の力を振るっていた。
(く、力負けしている……!)
この原典を文字通り肉体に刻んだショチトルならば、己の肉体と引き換えにさらなる力を引き出せたはずだ。
しかし現在原典は、かつての所有者である彼女を離れてエツァリのものとなっている。
「おやあ、考え事をしている余裕があるのですかねー?」
「優先する。――人肉を下位に、小麦粉を上位に」
エツァリのごく僅かな思考の合間を縫って、テッラが刃を振りまわす。
その矛先は――。
「これ以上、お兄ちゃんの足手まといになってたまるか!」
叫ぶショチトルが、『マクアフティル』で小麦粉を受け止めた。
衝撃で剣が吹き飛ばされるものの、彼女は斬られていない。
(やはり、あの術式は……)
それを見たエツァリが、テッラの術式の弱点を察知した。
「しぶといですねー、イライラします」
「させませんよ!!」
間断なくショチトルに迫る第二波を、原典の嵐が迎え撃つ。
暴風の余波を受けて転がるショチトル。
その拍子に、彼女の持ち物である小物や化粧品、アステカのお守りなどが散乱した。
「霊装としての価値は無し……只のゴミですか」
ほんの一瞬身構えたテッラが、小馬鹿にしたようにお守りである石を踏み砕く。
「あ……」
確かに、あの石に魔術的な意味は無い。
あれは学園都市の空港で売っていたチープな模造品だ。
それでも。
日本と言う異国の地で、アステカの文化に出会えると考えもしなかったショチトルは衝動買いをしてしまう。
内緒で購入しておき、後でこっそりエツァリにプレゼントしてやろうと思ったのだ。
こんな命のやり取りをしている状況なのに、何故かショチトルはお守りを壊された方がショックだった。
「ほら、遅いんですよ」
「が、はあ!?」
そんなショチトルの眼前に、胸部を一閃されたエツァリが落下する。
大事な人のそんな姿を見て、ようやく彼女は正気に戻った。
「よくも!」
まるで獣のように飛びかかろうとする彼女を、エツァリの微かな声が呼びとめる。
「駄目……ですよ……テッラに……正面から……挑んでも……勝てません」
「ようやく理解しましたか。では、さっさと死んでほしいものですねー」
ゴボッと血を吐きながら、エツァリがゆっくりと立ち上がる。
そのまま自分の体で隠すようにして、彼は“ある物”をショチトルに手渡した。
(これを、あなたが使ってください)
(……!)
その意味を理解したショチトルが、テッラに気づかれないように小さく頷く。
ヨロヨロと起きたエツァリには、微かな笑みがあった。
(チャンスは一度、失敗は許されない)
(自分に出来るのはコレしかありません)
(――どうか許してください、ショチトル)
「『原典』をフルに使って、このザマですか」
「ええ。自分でも情けなくなりますよ」
テッラの挑発に、静かに返答する。
胸を斬られたエツァリだったが、原典のおかげで傷はすでに塞がっている。
それでも、何度も致命傷を受けた所為ですでに死人のような顔色だ。
肉体的にはともかく、精神的に限界が近い。
(この『原典』を辛うじて掌握していられるのも、あと数分が限度ですね)
残る気力を振り絞って、粉塵と化した『原典』をテッラに叩きつけた。
「優先する。――原典の動きを下位に、小麦粉を上位に」
が、それも無駄。
全てを小麦粉で阻まれて、逆にエツァリ自身にはじき返される始末。
彼はそれを承知の上で、さらに何度もテッラへ攻撃を繰り返す。
――そしてことごとく返り討ちにあった。
「まだ足りないんですかねー?」
無様に地を転がるエツァリに、呆れたようにテッラが言葉を放つ。
しかし。
エツァリの耳に、テッラの言葉は届かない。
(ようやく、ここまで来れた……)
(目的は半分達成したも同じ)
(これ以上の我慢は、後一回)
無理な特攻を繰り返したつけか、彼の回復は遅くなっている。
体のあちこちから血が吹き出て、今にも死にそうだ。
「お、おぉぉぉぉぉぉぉ!!」
正真正銘、全力を掛けて。
ベッタリと濡れる右手を振りかぶり、エツァリは最後の突進をした。
雄叫びを上げるエツァリを、テッラは醒めた目で見つめる。
(所詮は異教のクソ猿、最後まで愚かでしたねー)
(このまま嬲るのも哀れですし、死なせてあげましょうか)
小麦粉の刃が、テッラの意のままに踊りだす。
「優先す……!?」
その時、テッラはエツァリの狙いに気付いた。
彼が突っ込んでくるその後ろで、ショチトルが“黒曜石のナイフ”を構えている。
『トラウィスカルパンテクウトリの槍』による、分解魔術。
異教の魔術であるが故、テッラは詳細を知らなかったが。
(あの魔術の直撃は、マズイ事になりますね)
(……仕方ありません、優先術式を組みなおしましょう)
(半死人の拳など、問題にするまでもありません)
「優先する。――魔術を下位に、人肌を上位に」
その言葉を聞いた瞬間、エツァリは勝利を確信した。
(やはり、彼の魔術はその対象が1つだけに限定される)
その予測を決定づけたのは、さきほどの攻撃だ。
ショチトルが、『マクアフティル』で小麦粉を受け止めたあの時。
原典すら相手取る強力な魔術なのに、あの剣1本で攻撃を受け止められた。
つまり、優先の順位は融通が利かない。
再度剣相手に設定を変えなければならなかったのだ。
(恐ろしい魔術師なのは認めましょう)
恐らく、エツァリではどんな代償を払ったとしても追いつけないような高みに位置する魔術師。
(魔術や原典すら無力化するあなたに、自分が勝てる道理は無い)
(今までならば)
そう、アステカの魔術師エツァリではどう足掻いても勝てない。
だが、今のエツァリは魔術師ではなく『猟犬部隊』……いや『対魔術師用特別編成隊』の一員だ。
(あのナイフに、意味などないんですよ!)
『トラウィスカルパンテクウトリの槍』は、只のフェイク。
金星が沈み、辺り一帯に粉塵が舞うこの状況下では利用出来ないのだ。
術式を知らないテッラが、それに気づくことは不可能だった。
(自分の腕1本と引き換えに――)
魔術だけを警戒していたテッラの顔に、エツァリの濡れた手が直撃する。
(あなたの命を戴きましょう!!)
ボン!!
直後、エツァリの右手に付着していた“液化爆薬”が炸裂。
彼の右腕と、テッラの頭部が――冗談のように庭園に転がった。
「エツァリ、しっかりしろ!」
「しょ、チトル……?」
エツァリが意識を失ったのは、ごく数秒だった。
「くそ、『原典』が修復してくれるんじゃないのか!」
どういう意味だろうかと彼は考えて、すぐに思い至った。
右腕が、回復していない。
しかしそれは、予想の範疇だった。
「恐らく、未熟な自分が調子に乗って『原典』に頼りすぎた為でしょう」
「え」
「腕1つ無くしたぐらいじゃ死なないと判断したんじゃないですかね?」
あっさりと言ってのけるエツァリに、ショチトルは涙目になる。
「泣かないで下さい、あなたのおかげで勝てたんですから」
「ぐす……泣いてない……エツァリお兄ちゃん……」
テッラの攻撃で、ショチトルの荷物が散乱した。
その荷物の1つ。
化粧品の中に、液化爆薬を混ぜたクリームがあったのだ。
暗部に供給される学園都市製の道具だが、上手い事偽装されたらしい。
エツァリはそれを利用しようと考えた。
テッラに特攻をしてわざと吹っ飛ばされ、クリームの落ちた場所まで自然に行く事が出来た。
後はそれを右手に塗りつけて、優先術式を外させた上でぶん殴ればいい。
上手く行くかは五分五分の賭けだったが、それは成功した。
「さあ、そろそろ『C文書』の奪取が終わる頃です」
このまま学園都市に帰り、また戦いの渦へ赴くのだろう。
そんなエツァリの予感はしかし、外れる事になる。
「驚いたのである。テッラを破るとはな」
「な……」
あのテッラよりも遥かに危険なチカラを感じさせる男。
後方のアックアが、巨大なメイスと共に現れた。
最終更新:2011年06月11日 16:21