~コールド・ブラッド~ <Ⅱ>


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朝もやが街を白く包んでいる。
ひっそりと静まりかえった白磁色の景色の中、数羽の鴉だけが蠢いていた。


「吸血鬼……そんなもんがほんとにおるっちゃろか」

朝露に濡れたタイル舗装の上を歩きながら、れいなは自問するかのように小さく呟いた。
その視線の先では、夜中のうちに出されていたと思しきゴミ袋が食い破られ、散乱した生ゴミの中で一羽の鴉が嘴を動かしている。
見ていて気持ちがいいとは言い難い光景だったが、だからといって不吉な前兆と捉えるには、それはあまりにも“日常”すぎた。

「んー?さゆが言ってたじゃん、『いるかもしれない』って」

ひとり言のようなれいなの言葉が自分への問いかけであることを心得ている絵里は、いつものように簡潔に答えを返す。

「『おるかもしれん』じゃ答えになっとらんけん言うとろーが。結局どっちか分からんってことやん」

相変わらずの悠長な態度と答えに苛立つように、れいなは憮然とした顔で傍らを歩く絵里を睨んだ。

「あはは、ごめんごめん」

そんなれいなに緩んだ笑顔を向けて謝った後、絵里はそのままの表情ながらやや真面目な声を出した。

「でも今はどっちとも決めてかかるべきじゃないと思うよ。愛ちゃんがいつも言ってるじゃん。『対象の全貌を勝手に想像してはいけない』って」
「まあそれはそうっちゃけど……」

 ― 対象の全貌を勝手に想像してはいけない。
 ― 生半可な情報を基にした無責任な推測で相手を理解したつもりになることは、混乱や油断を…ひいては危険をもたらすことになる。

「自分自身だけではなく、下手をすれば仲間全員に―――ね」
「あーもうわかったわかった。れいなが悪ぅございました!」 

つい先ほどもリーダーの口から繰り返されたばかりの「リゾナンターの心得」を暗誦する絵里から逃げるように、れいなは足を速めた。
そのふて腐れた後ろ姿に微笑みを湛えた視線を送りながら、絵里はなだめるように言葉を重ねる。

「とにかくさ、今は与えられた責務のことだけに集中しようよ。少なくとも今回の件がホンモノの吸血鬼絡みかどうかはそのうち嫌でも分かるんだからさ」

――そう、嫌でも分かるだろう。

ここ最近相次いでいる、不可解な失踪事件。
ごく一部以外にはまだ極秘となっているが、これらの事案の大半には様々な共通性が見られる。
絵里とれいなは現在、その失踪者名簿に名を加えられたばかりの一人の少女の家に向かっていた。
言わば、対象が残したと思しき最も新しい“痕跡”に接触する任務を2人は負っている。
それ故、或いは現時点での真相に…そして危険に最も早く近づく役割であると言えるかもしれないのだから。

「…それもそうやね。今考えても仕方ないか」

数歩前で立ち止まって振り返り、肩をすくめて見せるいつものれいなの姿を瞳に映しながら、絵里は何故か微かな胸騒ぎのようなものを覚えていた。


       ◆   ◆   ◆


「立派な家やねぇ。家いうかもうお屋敷って感じ」
「ちょっと、行儀よくしなよれーな。遊びに来たんじゃないんだよ?」

キョロキョロと周囲を見回していたれいなが、ムッとした視線を絵里に移して何かを言い返そうとしたとき、正面の扉が静かに開いた。
先ほど絵里とれいなをこの客間まで案内してくれた女性が、湯気の立つティーカップを載せたトレーを手にした姿を現す。

「あ、どうぞそのままでいらしてください」

ソファーから立ち上がりかけた絵里とれいなを上品さの漂う笑みと声で制し、女性はそっと背後の扉を閉めた。
次いで、座ったまま頭を下げる2人に軽く会釈を返しながらゆっくりと歩み寄る。

「ごめんなさいね、こんなものしかお出しできなくて」

優雅な手つきでティーカップを2人の前に並べながら、女性は整った顔に柔らかい笑みを浮かべてそう言った。
だが、かなり早朝の訪問にも関わらず起きぬけであることをまったく感じさせないその表情や振る舞いの中にも、やはり隠しきれない憔悴が窺える。
起きぬけではなく、或いはまったく眠れていないのかもしれない。

れいなが「お屋敷」と表現したのも頷ける立派な邸内も、優雅な雰囲気ながらどこか重苦しさが漂っている。
朝もやが晴れて室内に差し込み始めた明るい朝の光も、それを取り払うほどの力は持っていないようだった。

「や、そんな。どうぞお構いなく…」

先ほどから一転、借りてきた猫のようになっているれいなを横目に、絵里は女性がソファーに腰掛けるのを待って口を開いた。

「早速で申し訳ないんですが…。お嬢さんがいなくなったときのこと、詳しく話していただけますか?」

同時に、女性の表情に目に見えて影が落ちた。
その心中を思うといたたまれないものがあったが、躊躇っていては捜査は前に進まない。
絵里は静かに女性の答えを待った。

「詳しくと言いましても………梓(あずさ)が…娘がいなくなったのは夜中の間らしくて……」

憂い顔に微かな困惑を浮かべながらも、女性は前後の経緯の説明を始めた。

就寝の挨拶をして、少女――梓が2階の自分の寝室へ上がったのが23時頃。
自分自身もその30分後には寝室に入り、おそらく午前0時頃には眠っていたらしい。

「失礼ですが…そのときこちらにはお2人だけだったんですか?」
「ええ、主人は航海士でして、今は海に出ておりますもので…」

口をはさんだ絵里に対してそう答えながら、女性は傍らのサイドボードへと視線を動かした。
その視線を追った絵里の目に、趣味のいい写真立てに入れられた家族写真が映る。
そこには、幸せそうな親子3人の笑顔があった。

「…あの、お手伝いさんのような方もいらっしゃらないんですか?」
「はい。あ、いえ、つい先日から掃除なんかのお手伝いに来てもらっている者が一人おりますが、夕方には帰りますので」
「そうですか…」

父親も、海の上ではいかな緊急事態であったとしてもすぐには帰って来られないだろう。
まださほど馴染みのないハウスキーパーが精神的な支えになるはずもない。
一人娘が突然失踪した今、頼る者もおらず、一人で不安に抱かれて過ごしている女性の心労はいかばかりか。

「……失礼しました。続けてください」

だが、その痛ましい思いを押し殺し、絵里はただ事務的に先をうながした。
自分が同情したところで、目の前の女性にとってプラスになるものなど何もないことは百も承知だった。

「はい。眠ってしまいましたので、その後のことはほとんど分かりませんが……」

再び視線を絵里の顔に戻し、女性は話を続ける。

特に眠りを妨げるような物音や声もないまま、翌朝普段通り6時くらいに起床し、洗顔等を済ませ朝食の準備をした。
やがて6時半を回り、その時間になってもめずらしく起きてこない梓を起こしに2階へと向かい、扉をノックした。

「ですが、まったく返事がありませんでしたもので…扉を開けて部屋に入りました。そうしたら……」

僅かに言葉を詰まらせ、一瞬手にしたハンカチを目に当てながらも、女性は気丈に話を続けた。

梓の姿はなかった。
僅かにシーツが乱れたベッドの上にも、部屋の中のどこにも。
一瞬、梓は知らない間に階下に下りていて、洗面所にでも入っているのかと思った。
だが、もしそうであるならば、必ずいつもの習慣である朝の挨拶を自分にしていったはずだ。
そう思い直すのと、室内のおかしな光景に気付くのとはほぼ同時だった。

「窓が……開いていたんです。全開に」
「窓……」

随分暖かくなったとはいえ、まだまだ夜中や朝方は肌寒い。
寝室の窓が全開になっていたというのは、確かに不可解と言えた。
……それが、この一件のみの事例であるならば。

「家の中で、他に鍵が開いていた箇所はありませんでしたか?」
「いえ、先ほども申し上げましたように女2人なものですから、戸締りは必ず確認しております。警察の方も他に開いていた場所はなかったと…」
「…そうですか」

――同じだ。
先にあったいくつかの事例とまったく。

失踪した本人のいた部屋の鍵のみが開いており、特に争った形跡もないままに、忽然と人ひとりが“消え”ている―――
今回の件が、一連の失踪事件に列していることは明白だった。
同時に、間違いなく“リゾナンター向け”の案件であることも。

そして―――

無意識のうちに、絵里は傍らのれいなへと視線を遣っていた。
同じ思いであったらしく、れいなの瞳も絵里の方を向いている。

―――「吸血鬼」は本当に実在するかもしれない


理屈ではなく、経験からくる感覚のようなものがそう告げていた。

今回の一連の事件は、過去に請け負ったどの事例ともどこか違った色を含んでいる。
“現場”の空気に実際に触れてみた今、確信とは言えないまでもそれに似たような奇妙な感覚が、絵里とれいなを包んでいた。

そもそも「吸血鬼」などという突拍子もない可能性が取り沙汰されたのは、“名簿”に載った失踪者の中に、体内の血液の大半を抜き取られた死体となって発見された者があったかららしい。
「“たったそれだけ”のことで?」…という思いは、正直なところ絵里やれいなに限らず、大なり小なりリゾナンター全員の中にあったに違いない。
確かにそうそうある事例ではないが、被害者がそのような姿となって発見された例は、絵里もれいなも過去に経験している。
だが“現場”に漂う空気感は、それらの例とは明らかに何かが違うと感じさせた。
おそらくは、「吸血鬼」の可能性を俎上に載せた捜査関係者も、“現場”に足を踏み入れ関係者に話を聞くうちに、今の絵里たちと同じ感覚に捉われたのだろう。

「――だから梓はその窓から出て行った可能性が高い……警察の方はそうも仰いました」

続いて発せられた女性の声で我に返った絵里は、宙を漂っていた視線を正面へと戻した。
その先にある顔には、困惑か悲哀か不安か恐怖か……おそらく本人にも把握できていないであろう混沌とした感情が浮かんでいる。

「でも……2階なんですよ?あの子は体もあまり丈夫な方じゃないですし…あの日だって思えば少し体調が悪そうにしてたんです。あの窓から出て行ったなんて言われても……」

問いかけてくるような女性の瞳から逃げるように、絵里は自分の膝に視線を落とした。
何かを言うべきだとも思ったが、答えるべき言葉が見つからない。

「お話は分かりました。とにかくお嬢さんを無事に保護できるよう、全力を尽くします」

言葉を失った絵里に代わって、れいなが訪れた沈黙を埋める。
形式的な台詞ではあったが、その場にわだかまる空気が和らぐのを感じ、絵里は内心でれいなに感謝した。
任務に当たってはれいなと組んで行動することが多いが、こういった部分では本当に頼りになるパートナーだと改めて思う。

「どうぞよろしくお願い致します」

女性が深々と頭を下げる。
絵里とれいなが慌てて礼を返したちょうどそのとき、邸内にチャイムの音が響いた。

「あら?もうお手伝いさんがいらしたみたい。随分早いけど…お気遣いいただいたのかしら」

室内のモニタを見遣った女性は訝しげに首を傾げ、「ちょっと失礼します」と断わりを入れるとソファから立ち上がる。

「どうぞお上がりください。…あ、いえ、もう冷めてしまっていますよね。後で淹れ直します」

思い出したようにテーブルの上のティーカップに視線をやる女性に、2人が同時に手を振って辞退の言葉を発しようとしたとき―――今度は階上から微かな物音が響いた。

一瞬、上方に鋭く向けられた絵里とれいなの視線が、直後に交差し絡み合う。
微かではあったが、今のは明らかに“生きているもの”が立てた音であると―――互いの瞳が語っていた。

「様子を見てきます。…構いませんね?」

素早くソファから立ち上がりながらそう確認する絵里に対し、女性は強張った表情で「はい」と声を掠れさせた。
その両手は、内心の不安と恐怖を表すように胸の前で強く握り合わされている。

「奥様はお手伝いの方とこちらでお待ちになっていてください」

怯えを含んだ目で頷く女性を安心させるように微笑み返し、絵里はれいなに再び視線を戻した。
そちらからは力強い頷きが返ってくる。


だがこのとき―――2人はまだ気付いていなかった。


既に、事態は想像を遥かに越えて逼迫していたのだということに―――