~コールド・ブラッド~ <Ⅲ>



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傍らの絵里から微かな緊張が伝わってくる。

―きっと自分と同じことを絵里も感じているのだろう

ドアのハンドルに手をかけながら、れいなは無意識に小さく深呼吸をした。

素早く階段を駆け上がりここに立つまでの間に、漠然とした予感は確信へと変わっていた。
このドアを開いた瞬間、おそらく自分たちは今回の一連の事件の真ん中に飛び込むことになる――
一枚のドアを隔てた静かな室内からは、根拠もないのにそう思わせられる不穏な気配が伝わってくる。
だがそれと同時に、逡巡しているヒマはないということもれいなの中の感覚が告げていた。

「…いくよ?」

声を出さずに問いかけたその言葉に、絵里の頷きが返ってくる。
それを確認するとほぼ同時に、れいなはドアを押し開けた。

 かわいらしくも落ち着きある色でまとめられた室内の内装。
 その中に調和して置かれている、きれいに整頓された女の子らしい小物。
 少女の個室としては広すぎるほどに広い空間に点在する、素朴ながらも上等そうな家具類――

室内に踏み込んだれいなの目に、それらの様々な視覚情報が飛び込んでくる。
だが、それらは即座に片隅へと追いやられ、真正面からの情報がれいなの意識のほとんどを占拠していた。

 大きく開け放たれた窓。
 外から吹き込む微風に小さく揺れるカーテン。
 そしてそれらをバックにして立つ一人の少女―――

「梓……さん…?」

斜め後方から聞こえた絵里のその声にも、愕然とした響きが滲んでいる。
室内にいたのは、先ほど写真の中で両親と共に明るく微笑んでいたあの少女に間違いなかった。

だが、その姿を確認したれいなの中に安堵感は欠片もなかった。

つい2日ほど前に他でもないこの部屋から失踪した少女が、当然のようにそこにいる奇妙さ。
しかも、2階であるというのに明らかに窓から入ってきたとしか思えないという不可解さ。
れいなと絵里が入ってくるのを待ち構えていたかのような、平然とした立ち姿の不気味さ。
そして何より、その全身から発散される禍々しい空気が、れいなの中の警鐘を打ち鳴らしていた。

「れいな…!」
「わかっとー」

注意を喚起するかのような絵里の強ばった声に短く応え、れいなはゆっくりと少女の方へと歩を進めた。
そのれいなの行動にも、少女は薄く微笑んだ表情を動かすことすらせず、無造作に立ち尽くしている。

「あんた…梓さんっちゃろ?この2日間、どこに行っとった?何をしとった?」

少女から僅かに離れたところで立ち止まり、れいなは口を開いた。
行方不明になっていた少女にかける言葉としては少々乱暴にすぎるとも思ったが、半ば反射的に詰問口調になる。
だが、その問い掛けにもれいなの鋭い視線にも、少女は変わらず薄笑いを浮かべているだけで反応を示さない。

「なぁ、聞こえとるっちゃろ?どこに―――」

痺れを切らしたれいながさらにもう一歩少女の方に足を踏み出そうとした瞬間―――それは起こった。

棒立ちになっていた少女の足が突然床を離れ、ワンピース型のナイトウェアの白い裾がフワリと持ち上がる。
気付いたときには、その白い姿はれいなの目の前にあった。
半開きになった少女の口内に、人間のものとは思えないほど鋭く尖った歯を認めるのとほぼ同時に、左側から衝撃が来る。

「――!?」

咄嗟にガードした腕に伝わってくる衝撃が、想像をはるかに超えて大きいことを瞬時に悟り、れいなの足は反射的に床を蹴っていた。

ダメージを軽減するための自らの跳躍とも相まって、大きく弾き飛ばされたれいなの体は、壁に叩きつけられてようやく静止する。

「ぐっ……」

一瞬絶息しながらも、れいなの意識は現在進行形で得た情報を瞬時に分析していた。

 突然の不可解な失踪と帰還。
 その口元から覗いた、もはや牙と呼べるほどに鋭い歯。
 長い黒髪が舞い上がった瞬間首筋に見えた、2つの赤い点のようなもの。
 常人とは思えない動きと力。
 何よりその存在そのものが持つ禍々しい空気。

それらから導き出されるのは―――

「――!!」

一瞬にしてれいなが“結論”に達するのとほぼ同時に、その視界を再び白い影が遮る。
壁を背負ったれいなに覆いかぶさるように両手を広げた少女の表情は、ゾッとするほどに禍々しく…しかし美しかった。

「れいな!!」

叫ぶようにれいなの名を呼ぶ絵里の声が聞こえる。
薄笑みを浮かべた眼前の少女の手が喉元に向かって伸びてくる。

 ―間に合わん……!

少女の凄みある表情に気を取られたその一瞬が対応を遅らせ、致命的な隙を作っていた。

次の瞬間――

眼前に広がる純白の布地に散る鮮やかな朱が、れいなの瞳に映った。

「グ……!?」

低い…どこか獣にも似た呻き声を上げ、少女がその動きを止めた。
身にまとった衣服があちこち切り裂かれ、その下にある蒼白い肌が覗いている。
その青磁のような皮膚もそこかしこが痛々しく裂け、そこから噴き出す鮮血が、白一色だった世界を朱く侵食しつつあった。

相手が静止した一瞬を逃さず、れいなは鋭く踏み込むと、その体の真ん中に両の掌底を叩き込む。
体重を乗せた正確な打撃は華奢な体を軽々と弾き飛ばし、少女は激しく床を転がった。

「ありがと絵里。助かったっちゃん。今のはマジでヤバかったと」

床に倒れて動きを止めた少女に油断のない視線を注いだまま、れいなは額の冷や汗を手の甲で拭った。

 ―鎌風(ピアシング・ウィンド)―

そう呼ばれる絵里の能力は、対象を風圧の刃で切り裂く危険なチカラである。
切羽詰ったあの状況下で、味方を巻き込むことなく正確に相手だけを捕捉したのはさすがと言う他ない。
この場に頼れるパートナーがいてくれたことを、れいなは改めて感謝した。

「これ…どういうことなのかな、れいな…」

落ち着きを取り戻した静かな絵里の声がれいなに届く。
しかし、そこに滲む動揺の色は隠し切れなかった。

きっと先ほどまで会話していた母親の顔がチラつくのだろう。
たった今自分が切り刻んだ相手が、写真立ての中で幸せそうに笑っていたことを考えてしまうのだろう。
“どういうこと”なのかは、本当は絵里にもはっきりと分かっているはずだ。

「その子は……もう人間やない」

だから、れいなはただその一言だけを返した。

吸血鬼は間違いなく存在する―――

もはやそれは疑惑や推測ではなく、純然たる事実だった。
そして、事態はそんな一言で済ませられないところまで進み始めている。

この梓という少女は、吸血鬼による被害者だ。
首筋にあった咬み痕が何よりもそれを物語っている。
おそらくこの部屋で少女は吸血鬼に襲撃されたのだろう。

だが今は……

「助ける方法は…ないのかな」

僅かに震えを含んだその絵里の声に、れいなは感情を殺した言葉を返す。

「わからん。あるかもしれんし、ないかもしれん。…やけど、一つだけわかることがあると」
「今のこの子は“人間の生命を著しく脅かす存在”……だよね?」
「…そう、つまり速やかに“除去”すべき対象。迷っとー時間はないとよ」

先ほどの少女の人間離れした動きを思い出し、れいなは自分にも言い聞かせるようにそう言い切る。
もし一般の人間が襲われれば、ひとたまりもないだろう。
少女が街に放たれれば、何人の犠牲者が出るか分からない。
その上―――

そこまで考えたれいなの背筋を冷たいものが滑り落ちる。

 ―もしも、この少女のように吸血鬼に血を吸われた者が、すべて吸血鬼化するのだとしたら……

その被害はどこまで広がるのだろう。
いや、広がっているのだろう。
もしかすると、すでに「迷っている時間はない」どころの話ではないのかもしれない―――

「なっ……!?」

一瞬注意が逸れたそのとき、床に倒れていた少女がゆらりと立ち上がった。
絵里のチカラで切り裂かれ、赤と白の斑模様になった衣服はところどころで垂れ下がり、その隙間からは少女の肌が妖しく覗いている。
だが―――

「傷が……ふさがりよう……!?」

自身の体から流れ出た鮮血により、少女の素肌もまた赤と白の斑模様を描き出している。
しかし、その元となった裂傷はほとんど消えかけていた。

 ―超再生(リジェネレイト)……!

今まさに急速にふさがっていく傷を目の当たりにして、れいなは完全に覚悟を決めた。
頭部、もしくは心臓部を一気に破壊するしか、おそらくこの“化け物”を止める手段はない。
そしてそれが伝承の中で語られる吸血鬼退治の方法そのものであることに、少し遅れて気付いた。
さゆみの言ったとおり、伝承が生まれるのにはそれなりの理由があるということなのだろう。

「ごめん。今のれいなたちには、こうするしか方法がないけん…」

そう口の中でれいなが呟やいたとき、少女の足が再び床を離れた。
ほぼ同時に、れいなは自身の能力を解放する。

 ―身体増強(エンハンス)―

れいなの能力は、自身の身体能力を著しく増進させ、強化することができるチカラ。
先ほど程度の敏捷性や膂力の相手であれば、能力さえ解放すれば十分以上に対処できる自信があった。

少女の白い姿が迫ってくるのがれいなの瞳に映る。
末梢神経にまでチカラが行き届いた今は、その動きを余裕で視認することができた。
「ごめん」と再び小さく呟いた後、れいなは自身の体に命令を出した。

眼前に迫った少女が腕を突き出してくる。
明らかに喉元を掴もうとする凶悪なフォルムを形作ったその手を、れいなはサイドステップと同時に身体を捻ることでかわした。
避けられたと見るや、少女はれいなを追って身体を反転させ、その勢いのまま腕を振る。
側頭部を狙ったその腕の軌跡を目で追いながら、れいなは僅かに身体を沈めた。
頭上ギリギリを少女の細い腕が通過していくのを確認しながら、がら空きになった鳩尾辺りに突き上げるような片手の掌底を叩き込む。

「ガッ…」

低い呻きとともに少女の体が床から少し浮き上がる。
動きの止まったその身体の中心に向かい、れいなは手刀を突き出した。

ズブリ――

吸い込まれるように、その手は少女の白い胸の中に入っていく。
そして……その先で脈打つ物体の前で、鋭い刃は圧搾機へと姿を変えた。

「…ごめん」

三度その言葉が呟かれると同時に、少女の口から断末魔の叫びと鮮血が溢れ出る。
直後、少女の四肢は完全にその力を失って垂れ下がった。

深紅に染まったれいなの右手が少女の胸からゆっくりと抜き出される。
同時に、支えを失った華奢な体が静かに崩れ落ちていく。
床に横たわったその顔には、ただの愛らしくか弱い少女の表情が浮かんでいた。

「ひどいよ……こんなの…ひどすぎるよ…」

後味の悪い“仕事”を終え、やりきれない思いで立ち尽くしていたれいなの耳に、絵里の湿った声が流れ込んでくる。

心底同感だった。
これまでにいくつも見てきた、どんな“ひどすぎる”案件のときとも違ったやるせなさが、れいなの全身を包んでいた。

静かに少女のもとに歩み寄った絵里が、そっとその側にしゃがむとハンカチを取り出した。
少女の体を真っ直ぐに横たえ直し、胸の傷を隠すように両手を組ませる。
そして口から溢れ出た血で汚れた白い肌を丁寧に拭いていく。

その様子をいたたまれない思いで横目にしながら、れいなも少女の血で汚れた自分の手を怒りを込めて拭う。
これまでにも“対象”の命をやむなく奪ったことはある。
すっきりした気分になったことなどもちろん一度もなかったが、今回は特にモヤモヤとしたものがわだかまっていた。


「ごめんね、れいなに嫌な役を押し付けて…」

少女に向かって2人で黙祷を捧げた後、絵里がその視線をれいなに向けた。

「なん言うと。絵里が謝るようなことやないとよ」
「それはそうかもしれないけど…」
「れいな、絵里がここにおってくれてほんとによかったって思っとーよ。一人やったらこんなん……耐えれん」
「……そうだね。絵里もれーながいてくれてよかったよ」

普段の呼び方に戻り、微かに笑顔を浮かべる絵里に一瞬笑い返した後、れいなは真顔に戻って立ち上がった。

「早く戻って報告せんと。このままやったら大変なことになるっちゃん」
「うん。それに……梓さんのお母さんにも…このことを伝えないとね」
「………」

何かを言おうとして言葉にならないれいなに、絵里は静かに立ち上がりながら言う。

「それは絵里がするよ。させてほしい」

「ごめん」――そう口を開きかけたれいなは、背後に妙な気配を感じて振り返った。
チカラの影響が残って神経が鋭敏になっていた故かもしれない。
その視線の先――窓の外の庭木に、れいなは一匹の黒猫の姿を認めた。

「猫……?」

なんということはないはずのその姿を見た瞬間、れいなは形容のし難い不気味さを覚えた。
こちらをじっと覗き見るその瞳は、禍々しさを放っているようにすら感じる。

次の瞬間、黒猫はひらりと身を翻し、れいなの視界から姿を消した。

「……!」

反射的に窓に駆け寄ったれいなは、庭に降り立ってこちらを見上げる黒猫と再び目が合う。

 ーあの猫…やっぱりなんか普通やない…!

「れーな!?」

窓枠に足を掛けたれいなの背後から、絵里の驚いたような声が飛んでくる。

「絵里、あの猫怪しい!」
「猫?」
「あ、逃げよう!絵里、ごめん。すぐ戻るけん」
「わかった。こっちのことは任せて」

絵里の声を背中で聞きながら、れいなは再びチカラを解放し、窓の外へと飛び出した。


―――自分のその行動をずっと後悔し続けることになるとは、このときのれいなはまだ知る由もなかった。


黒猫を見失い、梓の家に戻ったれいなを待っていたのは静寂だった。

絵里も、梓の母も、ハウスキーパーも…少女の遺体すらどこにも見当たらない、静まりかえった邸内だった―――






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最終更新:2010年09月17日 21:44