『狂犬は亀を背負う』(後) - 3


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残業なう。
ゲームに飽きた美貴はツィッターにアクセスして、韓流俳優のハッシュタグをチェックしていた。

「あ~愛しのサン様」

氷の魔女の二つ名からは考えられない表情を覗かせている。

「サン様とは誰だ。 ヨン様の間違いじゃないのか?」

「いいか、今後二度とサン様の名を口にするな。 汚れる」

思わず、抗議の声を挙げようとした闇の王は、場所と時間と美貴からの鉄拳制裁を考えて思いとどまった。

「しかし韓流も次から次と新しい顔ぶれが登場してくるものだな。 しかしヨン様の名は口にしても良いのか。 汚れてしまわないのか」

回りくどい表現で、美貴の移り気を責めるダークネスだったが、当の美貴は気にも止めない。

「ヨン様も良かったんだけどねぇ…」

溜息混じりの美貴は、ヨン様からサン様へ鞍替えした理由を明かした。

「ヨン様も良かったんだけどなあ。 しかしあの写真集がなあ」

どうやらヨン様が鍛え上げた肉体美を披露した写真集が原因らしい。

「そりゃあ脂肪膨れのとことんだらしない身体も願い下げだが、あの気品のある顔で、あそこまで腹筋を割られたら引くわ、正直」

顔もダメ、頭も特別出来が良いわけじゃない人間がコンプレックスを解消するために鍛え上げた身体はOKなんだけどなと自分の好みを披露する。

「その点サン様はねえ」

そう言いながら携帯の待ち受けにしているサン様の画像を披露した。
ダークネスの目にはどう見ても、その辺を歩いている普通の人間にしか見えなかった。

蓼食う虫も好きずきということだな。 

年輩者らしい黴の生えそうな感想を抱いた闇の王に美貴が話を持ちかける。

「で、アタシまだ残ってなきゃいけないわけ」

今からダッシュで帰れば、サン様の主演したドラマの最終回ラストシーンに間に合いそうだという。

「勿論録画予約はしてるけど、最後の感動はリアルタイムで味わいたいじゃんよ。 見終わったら速攻で最初から視聴するけど」

「まあそう言わずに、もう少し待っておれ。 折角あの娘が感謝の気持ちを表したいと言ってるんだから」

あの娘、亀井絵里が面接の件で騒がせたことのお詫びと、助言に対する感謝の気持ちとして、自慢のケーキ作りの腕を振るってくれるという。

「だから感謝の気持ちは金で表せっていうの」

美貴は出来合いのケーキミックスをホットプレートで焼くだけなら誰にも出来る、と憎まれ口を叩きながら目を転じる。

客席から視ることの出来るオープンキッチン仕様の厨房には亀井絵里の姿があった。
美貴から借り受けたフリル付きのエプロンを身につけた絵里は、ホイッパーで空気を含ませたケーキ生地を焼いている。

ふん、好きこそ物の上手なれってことか。

洋菓子店で働こうしただけあって、その手際はかなりこなれているように見えた。
平素の亀井絵里からは少し想像できない真剣さを帯びている。
不躾な美貴の視線に気づいたのか、にっこりと微笑んできた。

「ちっ」

不機嫌さをまとった美貴を闇の王は興味深げに見つめる。

そんなに帰りたいのなら勝手に帰ればよかろうに、何故お前は律儀に残っているのだ。
その思いを込めて話しかける。

「あの姿。生き生きと立ち働くあの娘の姿を見て何とも思わないのか」

闇の王の真意を窺うように、暫し間を置くと改めて絵里の姿を見つめる。

「…そうだな。なかなかいいケツしてやがるじゃねえか」

「うむ、確かに。 だが尻単体だけの破壊力なら愛キュンも負けておらん。 彼女、亀井絵里の魅力は尻を支える発達した太ももからふくらはぎにかけてのライ…」

美貴の口車に乗って、口を滑らせ過ぎたこと悟った闇の王は口をつぐむ。

「嵌めたな?」

「はぁ? 何のこと。 エロ親父が勝手に墓穴を掘っただけじゃないの」

とことん素直じゃないな。 苦笑しながら闇の王は己の思いを言葉にする。

「あの笑顔、何物にも換え難いとは思わぬか。 何物にも換えて守る価値があるとは思わぬのか」

闇の王のその言葉を聞いた美貴は、携帯を手で弄びながら嘲弄するかのような笑みを浮かべた。

「あのバカがこの店の求人広告に応募してきたのは確かに偶然かもしれないが、お前は判っていたんだろう。 それがあいつだってことは?」

闇の王は無言をもって応えた。

「お前は優しい奴だ。 世界征服を企む悪の組織の首領としては間違ってるが、夢破れ、悲しみに囚われた人間を黙って放っておくことが出来ない優しい人間だ」

だから、自分の夢を見失いかけていた亀井絵里のことも放って置けなかったんじゃないのか、という美貴の言葉を耳にした闇の王の漆黒の頭巾が僅かに揺れた。

「お前が世界を覆おうとしている闇は、光の中を歩く勇気のない人間を守ろうとする闇だ。
謂れの無い理由で迫害を受け、どうしようもない悲しみに囚われた人間に立ち直る時間を与える為の防壁だ。 そんなお前だからあいつのことも…」

「信頼とは厄介なものだな」 闇の王の言葉にはそれまでにない重みが含まれていた。

「時に相手のことを思いやるがゆえに隔たりを生じてしまうことがある。 もしもそれ故にあの娘が道を見失ったのなら暫くの間は預かってもよいと思ってもみたのだが…」

「思い上がるな。 お前は自分のことを何様だと思ってやがる。 お前が征服して新たに作り変えようとしている世界はさぞや素晴らしいものになるんだろうよ。
虐げられた者を助け、持たざる者に分け与える、傲慢の罪を犯すものには正しい道を指し示す。 そこに住む全ての人間が手を取り合って生きていく理想の世界」

しかし、全ての人間がそんな世界を望むわけじゃない。今この世界で甘い汁を吸っている奴らはお前の作ろうとする世界なんて望みやしない。 
美貴の頬に不遜な笑みが湛えられている。

「そいつらはいつかお前を潰しに来るぞ。 いや、外からとは限らない。 アタシたちの中からだってお前の背中を刺そうとする奴が出てくるかもしれない」

「お前はどうなんだ?」

「さて、どう思う?」

「お前に限らず、美女の手にかかって果てるなら、男子の本懐というべきだろうな」

「いずれにせよ、お前の傍にいるってことはお前とお前を狙う奴との潰しあいに巻き込まれるってことだ。 お前の傍らに居るってことはどす黒い闇に覆われるってことだ」

それはお前の生み出す純粋で静寂さを湛えた闇じゃない、美貴の口調は冷淡だった。

「人と人の欲望が入り混じって生まれたどす黒い闇だ。 静寂も無く、人の怒号と悲鳴に満ちた闇」

闇の王の頭巾の揺れが収まった。

「そんな場所であいつみたいなボケっとした奴を預かってもよいだと、思い上がるな。 闇の王、お前は誰のことも守れない。 誰のことも救えない。 それにそもそも…」

自らを断罪するかのような美貴を咎めもせずに、その先を促す。

「あのバカ。 高橋愛は自分の掌から誰かを零れ落ちさせることなんてしやしねえよ。 テメエなんかが差し出がましいことをする必要なんて無いんだよ」

心の内をさらけ出した美貴は、どうだと言わんばかりの表情で闇の王を見つめる。

「判っておる。 そんなことは最初から判っておる」

闇の王が寂しげに呟く。

「だがな…」

「ハイハイ、二人とも何怖い顔をして話してるんですか」

ホットケーキを盛り付けた皿をトレイに載せた絵里が、二人のテーブルにやって来た。

「悪の組織の首領と幹部の会話が楽しそうじゃ変だろうが」 美貴の至極真っ当な指摘が絵里を動かすことは無かった。

「ハイ、食べてみてくださいよ。 お菓子にはね、人を幸せにする不思議な力があるんですよ」

だから、悪の組織の構成員が、ホットケーキ食って幸せになってもねえという美貴の正論はスルーされた。

絵里がテーブルに載せた皿には、生クリームや蜂蜜、チョコレートにカットフルーツでトッピングされたホットケーキが盛り付けられていた。

「お前、何でこんなにいっぱい乗せてるんだ。 ああ、もう沢山乗せればいいってもんじゃないぞ」

店を預かるものとして、材料の無駄遣いは見逃すわけにはず思わず注意してしまう。

「あ、ああ。 隠してた練乳まで使いやがって」

「蛇の道は蛇ってことですよ」

ペロリと出した舌を見て、テメーつまみ食いしやがったなと絵里を糾弾しながら、闇の王を見やる。

闇の王はワナワナと震えていた。
体の奥底からこみ上げてくる怒りを抑えられないかのように。

「こ、これは食べられない」

王の言葉を聞いた絵里の顔がまるで夕立時の空のように曇った。

オッサン、判ってるじゃないか。
そうだ。 テメエは誰も救えないし、誰のことも守れやしない。
ご立派な理想、叶わない夢を抱えるテメエの傍にいる人間は深い闇に包まれる。
その闇はテメエがこの世界を覆い尽くそうとしている、静寂な音が広がる純粋で清冽な闇じゃねえ。
人間のどす黒い欲望が混じり合い、怒号と悲鳴が鳴り響く薄汚い闇。
そんなところにこんなボケッとしたヤツを近づけるわけにはいかねえよな。
さっさと追い出してしまえ。
そいつが愛想をつかして、二度とここに近づかないようなこっぴどい言葉を浴びせかけて、今夜の茶番は終わりにしようや。

「このホットケーキには魔法がかかっておらぬではないか」

「えっ、魔法ですか」

「そうだ、魔法だ。 さっきカメちゃんも言っておったではないか。 お菓子には人を幸せにする不思議なチカラがあると」

その不思議なチカラを言葉に乗せて、魔法をかけるんじゃ、闇の王の言葉は絵里を戸惑わせる。

テメエは底抜けのアホだ。
闇の王のお気楽ぶりに愛想を尽かしながら、否応無く目に入ってくる事の顛末を仕方なく見届けようとする。

「でも私魔法のかけ方なんか判りませんし」

「しょうがないなり。 小生が手本を見せるからその後をついてくるなり」

なりって、何だなりって、オイ。 闇の王に唐突にコロ助入りましたあ。
もうツッコむ気力も体力も失った美貴の目の前で、闇の王による魔法の講習会が繰り広げられる。
闇の王の手には髑髏の紋章が施された錫杖。 絵里の手には店で誂えた魔法の杖があった。

「まずはオーダーを復唱。 いたずら魔女の気まぐれホットケーキ、生クリームチョコレート蜂蜜練乳全部乗せスペシャル持ってまいりました」

「いたずら魔女の気まぐれホットケーキ、生クリームチョコレート蜂蜜練乳全部乗せスペシャル持ってまいりました~」

「ではこれからこのケーキがもっともっと美味しくなる魔法をかけま~す」

絵里は声を裏替えしながらお決まりの呪文を唱える闇の王の熱演を真似していった。
呪文を唱え終わると二人してクルクル回りながら、美味しさの魔法をかけていく。
絵里はカラフルな魔法の杖、闇の王は髑髏の紋章の入った錫杖を振り回しながら乱舞している。

何このシュールな空間。
溜息をつきながら手にしたフォークで、切り分けられたホットケーキの一片を突き刺した。

まあ不味くは無いわな。
絵里に知らせたら喜びそうな感想を胸に秘めたまま、口と手を動かす。
こんなもん食っちまったら、もう晩飯は食えないな。
コンビニでサラダでも買って帰ろかな。

ふと熱い視線を感じた美貴が顔を上げると、絵里が嬉しそうにこちらを見ている。
闇の王は乱舞したためか息を切らしている。

「テメー勘違いするなよ。 折角片付けたのにまた生ゴミを出すのが面倒だから食ってやってんだからな」

「美貴様、デレてますよ」

けっ、何言ってやがる。