『ダークブルー・ナイトメア~7.親愛ジャンクション』


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ここで手を離せば楽になれる。
幾度となく浮かべた考えを振り払うように、愛佳は大きく頭を振った。


「なんでこんな体張ってんのやろ・・・」

プラットホームの下は闇。
本来であれば線路が敷かれているべき場所に深い闇が広がっている。

愛佳はプラットホームのへりにしがみつき、今にもずり落ちそうな身体を腕力で懸命に支えていた。
足はすでに地を離れ、宙を掻いている。
ここで気を抜けば闇の中から手招きする亡者たちの群れへ真っ逆さま。
ホームに食らいつく腕に力が入る。

「っつ・・・!」

指先に痛みが走った。
体勢を崩さないよう、そっと指先を窺う。
見ると、コンクリートの僅かな窪みにかけた右手の指に血が滲んでいるのがわかった。
負荷を掛け過ぎて皮が擦り剥けたのか。
じわじわと指先の赤の範囲が広がっていく。

折れそうな心。
落ちそうな身体。
心身ともに限界が近いという自覚はあった。
けれど、何度絶望に心を支配されそうになっても自分から手を離す気にはなれない。
愛佳には、意地があった。

先程、愛佳が高橋愛に助けを強く願った時。
一瞬とはいえ本当に愛は現れた。
普段接している愛からは想像もつかないような、虚ろな表情だったけれども。
あれは見間違いなんかじゃない。
そう確信している。

だから愛佳は、“次”を待った。
このまま何も言えず、言われずに終わるなんて冗談じゃない。
愛と会って、話がしたい。
手を離すと決めるのはそれからでも遅くないはずだ。

“もう一度愛に会うまでは諦めない”。
それは希望とも絶望とも異なるフラットな想い。

“意地”という感情だけが、今の愛佳の心を支えていた。



『間に合った・・・・・・』
「え?」



不意に、頭上から馴染みのある声が聞こえた。
愛佳がずっと聞きたくて。
だけどもずっと、聞けなかった声。

「愛・・・ちゃん?」
『会いたかったよ、愛佳』

目線を上げたその先に、愛佳が敬愛してやまない命の恩人が立っていた。

『このまま引き上げてやれたら楽なんだけど・・・やっぱそんな都合よくはいかないか』

苦笑して、愛は伸ばした両手を引っ込めた。
愛佳の身体を引っ張り上げようとして、できなかった。
まるで幽霊のように、愛の手はするりと愛佳をすり抜けてしまう。


照れたようにはにかんだ、その顔も。
ちょっと投げやりに落とす、その声も。
全部いつも通り。
愛佳のよく知る姿のままの高橋愛が、そこにいた。

愛佳が愛の様子をまじまじと見つめる一方で、愛はマルシェに言われたことを思い出していた。
“最初から心の中に存在していたもの以外は触れない”。
今の愛は強引に愛佳の世界に入り込んだ、いわば部外者。
心の外から来た存在が内部の事象に干渉することはできないのだと、思い知らされる。

『残念だけど、あたしは見てることしかできない。愛佳が自力でどうにかしないとダメみたいだね』

つまり、逆境を乗り越えるも乗り越えないも愛佳自身の手にかかっている。
すべてを愛一人の力で切り抜けられるほど、この悪夢の世界は甘くはなかった。


「愛ちゃんは、助けてくれへんの?」

自分でも情けないと思うほどの声が出る。
愛佳は、希望も意地も消え失せて絶望だけが心を支配していくような感覚に襲われた。

「・・・自力でどうにかなんてできるわけない。愛ちゃんかて覚えとるやろ、
 愛佳が死にそうな顔してホームに突っ立っとった時のこと」

当時のことを思い出すたびに、自分が惨めになっていく。

あの頃の自分は本当に弱かった。
孤独に怯え、運命を嘆くばかりで、決して自分から動こうとはしない。
駅のホームに立って、ここではないどこかへ連れて行ってくれる電車を待っているだけ。
愛という電車が現れなければ自分はどうなっていただろうか。
きっと今も、ホームに立ち尽くしている。

「あん時愛ちゃんに声かけてもらわへんかったら、愛佳は死んでた。
 たとえ線路に飛び込まんかったとしても、心は死んだままやった。
 ・・・お願い、助けて!愛ちゃんが助けてくれへんと愛佳は生きていかれへん!」

感情の爆発。
ついに愛佳の心は限界を迎えた。
このまま愛が行動を起こしてくれなければ。愛佳を光のあたる場所へ導いてくれなければ。
愛佳の心は救われない。
しがみつく腕を離す。
闇に、堕ちる。

けれど。

『でも、あの時の愛佳と今の愛佳は違うでしょ?』

ぴしゃりと。
撥ね退けられる弱気。
どんなにすがっても。泣きついてみせても。
愛はそんな愛佳の弱気を許さない。

『あたしは愛佳は変わったなって思うよ。いつまでもあの頃のままじゃない。自分じゃ、そうは思わないの?』

そして、言い切った愛は穏やかに笑う。
厳しく突きつけるような言葉とは対照的な、信頼感に満ち溢れた笑顔。

そうだ、この笑顔だ。

愛の口調と笑みがあの日のそれと重なり合う。
愛佳の脳裏を、鮮やかな記憶が駆け抜けた。


―――――『飛び込むんなら、次の電車にしてよね。あたし、帰れなくなっちゃうから』

―――――『明日を知ってるのはあなただけ。自分で変えるんだよ』


まさにこの、生死を分かった乗換駅で。
愛は愛佳を諭してくれていた。
諦めるにはまだ早い。未来は自分で変えるものなのだ、と。

“あの時と今の愛佳は違う”。目の前の愛に告げられた言葉。
当時と今で、変わったものはなんだろう。
自分はどう変わったというのだろう。

あの頃は、毎日が「世界の終わり」だった。
どこにいても一人ぼっち。希望なんて見えない。
だから、いつ消えてもいいとさえ思っていた。
このまま自分がこの世から消え去っても未練はないと。
けど、今は違う。

今の自分には、心を許し友に笑い合える仲間も友人もいる。
孤独なんて感じない。絶望なんて見えない。

「・・・なにが変わったかは、わからへん。変わったような気もするし、変わってへんような気もする」

生きることだって、諦めたくない。
みっともなくしがみついてでも、生に執着していたい。
この世界には楽しいことがいくらでもあると、教えてくれた人たちがいるのだから。

「そやから今の愛佳にあんのは、“未来を守りたい”っちゅう気持ち。それだけや」

家族や友人の存在。
仲間といる生活。
それらすべての未来を、この手で守りたい。

守りたいと思えるほど大切なものができた。
その事実こそが、過去と現在の愛佳における絶対的な違い。

『うん。それでいんじゃない?』

愛からは簡単な言葉だけが返ってくる。
愛佳が“乗り越えた”こと、愛にはちゃんと伝わっているのだろう。
固い絆で結ばれた二人。そこに過剰な反応は必要ない。

「ありがとう愛ちゃん。もうわがまま言わへん。自分のことは自分でカタつけてみせる」
『おう。頑張れ!』

満足そうに頷き、愛は次第にその輪郭をぼやけさせていく。
実体は徐々に幽体へと変わりながら色を薄め、やがて完全に視認できなくなった。


「・・・見届けてくれへんのかい」

事の顛末を見届けぬまま、愛は去った。
もう、この愛佳の世界に彼女は現れないだろう。

結果的に、愛佳は悪夢の世界に一人置き去りにされた。
けれど先程と違って、それを嘆いたり非難したりといった気持ちは生まれてこなかった。
愛が愛佳を置いて先に出て行ってしまったこと。
そこに含まれている意味を、愛佳はもう取り違えたりしない。

「信頼されてる・・・ってことやもんな」

見放されたのではなく、信頼。
愛佳なら一人でも大丈夫だと、愛は信じてくれたのだ。
だから、その信頼に応えたい。寄せられた期待を裏切りたくない。

下で蠢く亡者たちを見遣る。
しかし、それは一瞬で。
自身の闇から目を切って、両腕にありったけの力を込めた。
そのまま懸垂の要領で身体をぐいと持ち上げる。
半身が浮いた。そして流れるような前転。
宙に舞った愛佳は、一回転してプラットホームの上に見事な着地を決めた。

どこにそんな力が残っていたのか。
そもそも元々の愛佳にそんな力が備わっていたのか。
信じられることも、信じ難いことも。
夢はすべてを呑み込んで、愛佳の望むがままに事態を進展させていく。

「『まもなく電車が参ります。白線の内側に下がってお待ちください』、やったかな?
 いつまでもあんたらと遊んでるほど愛佳は暇やない。・・・さっさと消えや」

構内に夢の終わりを告げるランプが点灯する。
そこから、迫りくる光。レールの擦れる音。
亡者たちの断末魔が、けたたましい警告音に交じって愛佳の鼓膜を横切った。

ホームに、愛佳の待っていた電車が滑り込んできた。
同時に、亡者の存在は入ってきた電車によってかき消され、果てしなく広がる闇はどこまでも続く線路へと戻る。

悪夢という名の心の闇が少しずつ晴れていくのを感じることができた。


「よっし!行くかぁー!」

電車の扉が開く。
迷わずそれに飛び乗った。
車内は、照明が隅々まで明るく照らし出してくれている。
不安なことはなにもない。
この電車が行きつく先はきっと―――――

自由になった手足で、思いきり伸びをする。
身体が軽い。
今なら、どこへでも行けそうな気がした。

発車ベルが鳴り、扉が閉まる。
電車は次の駅へ向かって走り出した。