『ダークブルー・ナイトメア~8.愛しさと苦しさの狭間に』


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先が見えることと、先が見えないこと。
どちらのほうがより苦しいのだろう。

絵里はこれまで、先が見えるほうが苦しいと思っていた。
自分の命の限界を自覚できることほど苦しいことはないと。

けれど今、その認識は改められようとしている。

先が見えないことだって苦しい。
もしかしたら、先が見えることよりもずっと。



絵里は、迷宮を彷徨っていた。
迷えば迷うほど分岐が増える、終わりなき心の迷宮。
この世界に入り込んでから、絵里は一度も足を止めていない。
休むことなくこの迷宮を歩き続けている。

――――ちょっとでも止まったら、二度と前に進めなくなる気がする。

「立ち止まりたくない」とでも言えば聞こえはいい。
だが、絵里が止まらないのはそんな綺麗事のためなどではなかった。

絵里は身体の自由が利かなくなるという恐怖をよく知っている。
故に「いつ身体が動かなくなっても不思議じゃない」と思って生きてきた。
だからその時が来るまでに、少しでも前へ。

止まらないのではない。
絵里は“止まれない”のだ。

しかし、もはやそんな意志を保っていられないほどに事態は切迫している。
先の見えない道を歩き続けることに対する不安と疲弊。
とうとう絵里は立ち止まってしまった。

「なんか・・・疲れちゃったな」

廊下の壁に寄りかかり、頭を凭せかける。
このままずるずると座り込み、倒れて寝てしまいたい。
楽になりたい。心からそう思った。
これ以上は歩けない。
歩きたくない。

「・・・・・・なに?」

痛いほどの静寂の中で、なにか音が聞こえた気がする。
絵里を呼ぶ声、のような。
錯覚だろうか。それとも。
壁に預けていた頭を僅かに傾け、絵里は音の出所を探った。

目についたのは、斜向かいにある古びた木製の扉。
鉄の取っ手が縦に一つついただけのシンプルな造り。
なぜだか、目が逸らせない。

絵里は吸い寄せられるように、足を扉へと向けた。
無心で取っ手に手をかける。そして引く。
ぎい、と音を立てて、扉が開かれた。


恐る恐る、足を踏み入れる。
室内は薄暗くはっきりとはしないが、そこはどうやら倉庫のようだった。
床から天井にまで達しようかという大きな棚が所狭しと並び立てられ、どの棚にも物や本がぎっしりと詰め込まれている。

なにが保管されているのだろうか。
絵里は近くの棚へ手を伸ばした。
平たいものをつかむ感触。
引き寄せて、その正体を確かめる。

「写真立て・・・?」

それは、どこにでもある平凡な写真立てだった。
観覧車を背景にクレープを食べる二人の少女の写真が収められている。
一人は自分、もう一人は・・・誰だ?
互いを信じきったように笑う二人の表情を見る限り、この少女と自分はとても親密な関係なのだとは思うけど。

でも、思い出せない。
この子はいったい誰だ。

写真立てを置いて、今度はその奥にある本を引き抜いた。
今にも擦り切れそうな背表紙に、手首が沈まんばかりの重量感。
半ば本を抱えるようにして、台紙のごとく厚いページを捲った。
開いた左右のページには、日常のワンシーンを写した写真がいくつも並べられている。

「アルバム・・・・・・」

たった今開いたそれを置き、隣にあった本も手にとった。
ページをめくると、やはり同じような構成で写真が収められている。
他の棚もすべて同じようなものだった。
倉庫の棚を埋め尽くしていたのは、大量の写真立てとアルバム。
膨大な数の写真が、この部屋には保管されていることになる。

見覚えのあるようなないような写真たちを眺めながら、ようやく絵里はこの倉庫のような部屋が
なんのために存在しているのかということに思い当たった。

ここは、“思い出”の眠る部屋なのだ。


『絵里?』

はっと、絵里の身体に緊張が走った。
自分を呼ぶ声が先程よりも強くはっきりと聞こえた。
やはり、この部屋には誰かがいる。

『・・・やっと見つけた』

声は奥の通路の辺りから聞こえてくる。
絵里は慎重に、けれど足早にそちらへ歩いていった。

待っているのは、天使か悪魔か。
どちらでもいい。
どちらにせよ、これで絵里は“ひとりぼっち”から解放される。
一人で歩かなくて済む。
期待と諦めの両方を胸に抱き、絵里は通路の中を覗き込んだ。

「えっ?」

予期せぬものを前に、動きが止まる。
思わず瞬きを繰り返した。

『こんな深いところにいたんだね。道理でなかなか見つかんないはずだよ』

その場に人はいなかった。
あるのは、絵里と同じ目線の棚に置かれた一つの写真立てだけ。
声はそこから聞こえてくる。
写真に写った髪の短い女性が、言葉を発している。

「あなたは・・・誰?」

まず問いかけたのは、彼女の素性。
なぜ写真の中の人物と話ができるのか、なんて当たり前の疑問すら湧いてこない。
絵里は彼女を見つめた。
彼女は、寂しくも納得したような表情を返す。

『・・・そっか。もうそんなところまで進行しちゃってるんだ』

そんな顔、してほしくないのに。


記憶の糸を手繰り寄せてみても、糸は必ずどこかでぶつりと切れる。
彼女が誰なのかわからない。

『でもよかった。絵里が絵里でいてくれて』
「・・・どういう意味?」
『一番怖いのは“自分”を見失うことなんだよ。逆に言えば、どんなにあたしやみんなのことを忘れても
 “自分”さえ持っていればいつか取り戻せる時が来る』
「そんなの・・・!」

だけど、とても大切な人だった気はするのだ。
絵里は彼女を慕っていた。彼女も絵里を想ってくれた。
だからこそ、何一つ思い出せない今の状況がひどく苦しくて。

『疲れたら休んでもいいから、少しずつここにある写真の意味を考えてみて。そうしたらきっと』
「・・・っ!やめてよ!」

もどかしい思いをする絵里とは裏腹に、当の彼女は絵里に忘れられたことなど大した問題ではないかのように振舞う。

どうして平気でいられるの?
忘れられたことは悲しくないの?
じゃあさっき見せたあの寂しそうな顔はなに?
本当は、そんな物わかりのいい顔をしたいわけじゃないくせに!

「“休め”なんて簡単に言わないで!あなたにいつ人生が止まってもおかしくない人の気持ちがわかるの?わかんないでしょ!?
 私には休んでる暇なんかないんだから!休んだら全部止まっちゃうかもしれない!全部、終わっちゃうかもしれない!」

思い出せない自分に対する苛立ちは、形を変えて写真の彼女に向けられた。

彼女に当たるのは筋違いだ。それはわかっている。
が、感情を抑えられない。
喉の奥から熱いものがこみ上げてきそうになる。
せめて彼女の前では泣くまいと、なんとかこらえてはみたけれど。

我慢は長くは続かなかった。
なぜなら。

「なんで、あなたが泣くの」
『・・・なんでだろ。わかんない』

彼女が先に、泣いたから。

『ごめんね。絵里の気持ち、あたしはわかってあげられない』
「・・・別に」
『でもね、抑えきれないほどの不安があるっていう気持ちはわかるよ。そういうのって、誰にでもあるもんだから』

涙が一筋、また一筋と彼女の頬を伝っていく。
まるで絵里の代わりに泣いてくれているかのように。
彼女が涙を流すたび、絵里の中の泣きたい気持ちはどんどん奥へ追いやられてしまう。

『あたし、よく泣くんだわ』
「ふうん」
『だからってわけでもないけどさ、涙は無駄じゃないと思う。涙のあとには笑顔が待ってるよ。
 あたしはいつもそうだった。あたしが泣いたそのあとは、みんなが笑顔を運んできてくれた』

だから泣くのも悪くない。
そう言い切る彼女を見て、不思議と絵里の心には懐かしさと安心感が広がっていく。

涙は苦しい時に流れるもの。
ずっとそう思ってきた。
だけど、目の前で泣き笑う彼女はこんなにも美しい。
肯定的な意味を持つ涙があることを、絵里はこの瞬間に初めて理解したような気がする。

『泣いた分だけ笑顔になれる。だから絵里も、立ち止まることを恐れないで。
 迷ったり不安になったりしてもいいんだよ。そういうのも全部ひっくるめて、“亀井絵里”なんだから』

おそらく彼女は、絵里に救いの手を差し伸べてくれている。
この手を取っても、いいのだろうか。
彼女の名前すら思い出せない自分にその資格はあるのだろうか。
尋ねずにはいられない。

「・・・なんで」
『ん?』
「なんでそこまで優しくしてくれるんですか。私はあなたのこと、まだなにも思い出せてないんですよ?」

写真の中の彼女は、絵里の思案など気にした風もなく、柔らかく笑んでこう答えた。


『だって好きだもん、絵里のこと』

迷いが、晴れていくのを感じた。


“好きだから”。
それは、どんなもっともらしい言葉で説明されるより説得力があった。

好きだから助ける。
好きだから見返りを求めない。
絵里は、その感情の名を知っていた。
過ごした日々の記憶は忘れても、そうした普遍的な事柄については覚えていた。

だから、ようやく呼べる。
あなたの名前。

「・・・・・・愛ちゃん」

この世で最も尊い感情の名を冠する彼女は、絵里の呼びかけに満面の笑みで応えた。
雨上がりの青空のような爽快な笑顔が絵里を迎えてくれる。

――――この顔が見たかったんだ、きっと。

“涙のあとには笑顔が待ってる”。
愛の言った通りだ。
もう愛の顔に寂しさや哀しさは浮かんでいない。
そしてそれはおそらく、絵里も同じ。

「愛ちゃん。絵里も愛ちゃんのこと大好き。だから・・・・・・もう、大丈夫だよ」

迷ってもいいのかもしれない。立ち止まってもいいのかもしれない。
迷えば迷った分だけたくさんの可能性に出会えるわけだし、
今の自分は少し止まったくらいでその後二度と動けなくなるなんてことにはならない。

迷う時は迷って、疲れたら休んで。
そうして少しずつ前へ進んでいこう。
たとえ歩く速度が落ちたとしても、そばには絵里を愛してくれる人たちがいる。
怖くない。一人で歩いていくことを、もう怖いとは思わない。
みんなも絵里と同じだと、愛が教えてくれたから。

『夢の終わりで・・・待ってるからね』


最後にとびきりの笑顔を残して、愛の写真は単なる写真に戻った。
表情を変えることもなければ、語りかけてくることもない。
愛がこの世界から去ったのだろう。
だが、彼女の残してくれたものは絵里の心に深く刻みつけられている。

「ありがと、愛ちゃん」

言って、絵里は後ろ向きに倒れ込んだ。
固く冷たいはずの倉庫の床が、なぜだか今はやわらかくあたたかい。
まるで毛布のように、絵里を受け止め包んでくれている。

「・・・なーんか、疲れちゃったなー」

“毛布”の優しい温もりは、絵里に心地よい眠気をもたらした。
このまま目を閉じてしまおうか。
愛に、疲れたら休んでもいいと言ってもらえたことだし。

少し前までの自分には考えられなかったことだ。
立ち止まり、心身を休ませる時間を設けるなんて。

絵里は瞼を閉じ、睡魔に身を委ねた。
大丈夫、起きる頃にはみんなに会える。
一休みして、目が覚めたらきっと。


仲間たちとの再会を夢みて、絵里はひとまずの眠りについた。