目覚めたとき、魔理沙はベッドの上で倒れこむようにうつ伏せになっていた。ひどい気
だるさと頭痛、不快感に顔をしかめる。どうにか上体を起こして辺りを見回す。光源は窓
からの月明かりだけで薄暗いが、それでも見慣れた我が家の輪郭が浮かび上がっていた。
それを頼りにテーブルへたどり着き、オイルランプに火を灯す。
 ぼんやりとしか見えなかった家の中の様子が照らし出された。魔導書やら魔道具やらが
散乱し、最低限の足の踏み場しか確保されていない。相変わらずの散らかりぶりに、魔理
沙は起床してから初めて安堵を覚えた。

「……?」
 だが同時に、拭い去れない違和感が付きまとう。家の様子にこれといって変わりは無く、
静かな夜だ。窓から見える三日月もいつものように白々と輝いている。こんな時は神社の
縁側で酒を飲んだら気分が良いだろう、と魔理沙は思った。しかし、魔法使いとしての直
感が何かを告げている。それも、あまり良くない何かを。
 首をひねりつつ、改めて自分の身なりを確認する。白黒のエプロンドレス、魔法使いの
帽子。魔理沙の定番の服装だった。寝巻きにも着替えず眠っていたのか、と胸中で呟く。
それに前後の記憶があやふやだった。普段着のまま寝ていたということはよほど疲れてい
たのだろうが、どうしてもそこへ至る経緯が思い出せなかった。

 妙に目が冴えてしまって、今夜はもう眠れそうにない。ミニ八卦炉と箒を手に、戸口へ
向かう。だが思い直し、ウエストポーチを腰に巻いてそこに球状の物体を詰め込んだ。採
取したキノコで作った魔法燃料である。道具としては失敗作で、弾幕ごっこの役には立た
なかった。だが強い衝撃を与えれば爆発するため、いざという時の護身に使えそうなので
取って置いたのだ。
 何を警戒しているのだろう、と自嘲する。幻想郷には妖怪がいる。夜道に危険が伴うの
はいつものことだ。魔理沙はそれをものともせず、今日まで生き延びている。なのに今回
に限って嫌な予感が頭から消えなかった。こんな日もあるさ、と自分を半ば強引に納得さ
せて、魔理沙は家を後にした。



 玄関を出ると、夏半ばにしては冷たく湿った空気が肌にまとわりついた。そこでようや
く違和感の正体に気づく。静か過ぎる。この季節なら様々な虫の音や鳥の鳴き声が森中に
反響しているはずだった。だが今はそれが無い。不気味なほどに静まり返っていた。まる
で、魔法の森から生命という生命全てが絶えてしまったかのように。

「さて、どうしたものか。……アリスのところにでも行ってみるか」
 魔理沙は努めて明るい声で、思考を口に出した。そうしないと、心細さに押しつぶされ
そうな気がしたのである。そうと決めると、箒にまたがって夜空へ飛び出していった。

 ……つもりだった。飛べない。いつもの要領でやっているはずなのに、身体はピクリと
も浮き上がらなかった。まだ寝ぼけているのかと思い、手順を頭の中で再確認してからも
う一度試みるが、やはり何も起こらない。

「……」
 嫌な予感がして、小さな星屑を発生させようとしてみた。何も起こらない。何度やって
も同じ事だった。本格的に焦燥がこみ上げてくる。魔法が使えない。それが意味するとこ
ろは明白、今の魔理沙はただの少女だ。ただの少女が妖怪に襲われれば――そこから先は
想像するのがはばかられた。
 どうする、と自問する。今の魔理沙は極めて危険な状況下にある。家に立てこもったと
しても、結界を発生させられないのでは意味がない。魔理沙の家は要塞ではないので妖怪
に襲撃されればそれまでだ。

 結局、最初に口にした言葉を実行することにした。アリスの家に行って守ってもらいつ
つ、原因の究明を行う。魔理沙にはそれが最善に思えた。夜の森を歩くことは危険だが、
しかしもうここも安全ではない。結論を出すと、魔理沙はやや早足で蒐集家仲間の家を目
指した。



 こうして改めて歩いていると、魔法の森は不気味だった。頼りになるのは木々の隙間か
ら漏れる月明かりのみ。そして今はうっすらと靄がかかっている。耳が痛くなりそうな静
寂の中、自分の靴音だけが妙に反響していた。その音で、あるいは臭いで、妖怪に嗅ぎつ
けられないかと心配になる。

 足元で何かが折れる音がした。ハッとして視線を向けると、半ばで割れた小枝が転がっ
ている。安堵したのも束の間、辺りを騒々しい物音が覆った。慌てて見渡すと、空を埋め
尽くすようにカラスの群れが飛び交っている。生物の気配は乏しかったのだが、まだ残っ
ているものもいたらしい。
 カラスの群れは何かから逃れるかのように、一様に同じ方向を目指して飛んでいる。耳
鳴りのような羽音を聞いていると、言い知れぬ不安が湧き上がってきた。

「くそっ、なんだって私がこんな……」
 普段の自己イメージとはかけ離れた心境に魔理沙は苛立った。自分は霧雨魔理沙、傲岸
不遜なまでの自信に満ちた魔法使い。それなのに今は『ただの女の子』のように怯えてい
る。それが気に入らなかった。同時に魔法が使えないというのはこんなにも心細いことな
のか、と改めて思う。
 現状を打開するすべは早くアリスの家にたどり着き、原因を調べて解決すること。自ら
に言い聞かせると、魔理沙はさらに足を早めた。



「おーいアリス、来たぜー」
 目的地にたどり着くと、魔理沙は平静を装ってノックした。返事はない。留守なのかも
う眠ってしまったのか、窓からは明かりが漏れていなかった。無事に到着したという安堵
が崩れ、再び不安が首をもたげてくる。アリスは留守じゃない、眠っているだけだ、と魔
理沙は自分に言い聞かせた。

「いないのかー、せっかく来てやったんだから、出迎えくらいしたってバチは当たらない
だろ?」
 わざとらしく傲慢に振舞いつつ、ノブを廻した。鍵がかかっていない。軋んだ音を立て
て、ドアが手前に開いた。隙間から見える屋内は暗い。ただ、漏れ出た空気が鼻についた。
はっきりと思い出せないが、この場にはそぐわないものに思える。

「……おい、アリス」
 声をかけつつ、家の中に踏み込む。濃密な闇の中、わずかな輪郭を頼りに歩いていく。
魔導書のカビ臭さや人形用の生地の匂いに混じって、何か異臭がした。怪訝に思いながら
も、あえて無視して探索を続ける。
 本棚に囲まれた書斎に踏み込む。ここでは明かりが灯っている。窓が無いので外からは
わからなかったのだろう。
 そして目当ての人物はあっさりと見つかった。魔理沙の位置からは机が陰になって、腰
から下しか見えないが。アリスは苦しいのか、床にうずくまっている。そして先程から水
音のような何かが絶えなかった。

「どうしたアリス、大丈夫か――」
 駆け寄った魔理沙は絶句した。彼女の意識は目の前の光景を拒絶しようとしている。し
かし身体機能は無情にも正確に働き、視覚情報を脳へ伝えた。

 パチュリーが仰向けに倒れていた。端正な顔を苦痛と驚愕に歪め、血で汚している。見
開いた目がもはや何も映していないのは見ただけでわかった。魔理沙が感じた異臭、それ
は血の臭いだったのだろう。
 彼女は腹部を食い破られていた。ランプに照らされて、極色彩の臓物がはっきりと見え
る。そしてアリスは――パチュリーの腸を素手で引きずり出し、麺類をすするように食っ
ていた。

「なっ……!」
 信じがたく、凄惨な光景を前に魔理沙は思わず後ずさった。本棚にぶつかってしまい、
降ってきた本が頭に当たるが、今はそんなことは気にならない。物音に反応したのか、ア
リスが首を捻るようにしてゆっくりとこちらを振り向いた。
 それは魔理沙の知っているアリスではなかった。皮膚は青黒く変色し、ところどころで
組織が欠損して筋肉が露出している。特に顔は酷いもので、左頬の肉がごっそりと削げ落
ち、骨と口腔内が覗いていた。こうしている間にも血で赤黒く汚れた腸をクチャクチャと
噛み締めており、その様子が頬の孔からはっきりと見える。

 濁りきった虚ろな双眸が魔理沙を捕捉した。ノロノロと起き上がる。彼女はこちらへ向
き直ると、大口を開けて獣のようなうめき声を上げた。そのまま突進してくる。

「アリスッ……! やめろ、何するんだ!?」
 魔理沙は悲鳴に近い声を上げた。掴みかかられ、背中から壁に激突する。アリスは歯を
むき出しにして首筋に噛み付いてきた。魔理沙は顎を押さえ、必死でそれを阻止する。今
にも押し負けそうなほど、物凄い力だった。アリスの華奢な体のどこにこんな力があった
のか。そして鼻が曲がるような腐臭にむせ返りそうになる。

「やめろって……言ってるだろ!」
 叫びを気合の掛け声に、振り払うようにアリスを突き飛ばす。よろめきながら後退した
彼女はしばしバランスを崩したが、やがて再び魔理沙の方へ向かってきた。

「来るな……それ以上近づいたらただじゃ済ませないぞ!」
 箒を握り締め、魔理沙は怒鳴りつけた。元々はただの箒だったが、魔力で強化され極め
て丈夫になっている。その硬度は楼観剣の一撃を受け止めるほどのものだ。そんなもので
思い切り殴りつければ、相手は無事では済まないだろう。
 だがアリスには警告の声など届いていないようだった。両腕を突き出し、まっすぐ突っ
込んでくる。

「……警告はしたぜ!」
 魔理沙はヤケクソな思いでアリスに躍りかかった。箒で左の脇腹を殴りつける。あばら
の軋む音がはっきりと聞こえた。そのまま柄を返し、体重を乗せた突進と共に相手のみぞ
おちを先端で突く。アリスの体が冗談のように吹っ飛び、本棚に叩き付けられて倒れた。
大量の蔵書が降り注ぎ、彼女を埋めていく。
 箒を構え直し、距離を取って相手の様子を窺う。少なくともすぐには動けない程度のダ
メージは与えたつもりだった。だが、アリスは本の山など意に介さぬ様でのっそりと起き
上がる。そして何事も無かったように、足を引きずるようにして歩き始めた。

「……嘘だろ」
 信じがたい思いで呟く。だが獣の如きうめき声で我に返り、再度反撃を試みる。振り回
してきた腕をかわし、右膝へ前蹴りを叩き込んだ。膝蓋骨の砕ける感触が靴越しにはっき
りと伝わってくる。一瞬バランスを崩し、アリスが前かがみになった。その顔面を膝で蹴
り上げる。打ち上げられたようにアリスの体が宙を舞い、床に墜落した。
 今度こそ、という思いで相手を見つめる。だが結果は同じだった。アリスは起き上がり、
右脚をおかしな方向へ曲げながら向かってくる。

 魔理沙ははっきりと恐怖を感じた。今、目の前にいる『モノ』は何なのだ。痛みなど感
じないのか、骨が砕けてもお構いなし。そして生肉と臓腑をむさぼり、新鮮な肉を求めて
何度でも向かってくる。話に聞いたことのある『ゾンビ』とはこういうものの事を言うの
か。

「なんだよ……、なんなんだよぉぉぉ!!」
 半狂乱で絶叫し、魔理沙は箒を振り回しながら突進した。叩きつける度に骨の折れる音
が聞こえるが、アリスの活動は停止しない。
 そして彼女が獣のように呻き、大口を開けた時だった。滅茶苦茶に振り回していた箒が
アリスの側頭部にめり込む。その勢いで彼女の頭部が回転し、乾いた音を立てた。頭部を
捻じ曲げたまま、その場に崩れ落ちる。どうやら頚椎がへし折れたらしい。

「……」
 肩で息をしながら、魔理沙は成り行きを見守った。やけにゆっくりと時間が流れていく。
先程までならとっくに起き上がっているはずだが、その気配は無かった。首をありえない
方向へ曲げたまま、アリスは沈黙している。その身体は微動だにしなかった。
 ようやく彼女はその生命活動を停止――つまり死んだらしい。当面の危機が去ったこと
を魔理沙は悟った。

「死んだ、か……。死んだ? 死んだ……殺した、私が、アリスを……?」
 一瞬の安堵の後、たまらない嫌悪感がこみ上げてきた。身を守るためとはいえ、この手
でアリスを殺した事実に変わりはない。今、彼女の前には二つの死体が横たわっている。
一つはパチュリー、ここへ来た時には死んでいた。そしてもう一つはアリス――たった今、
魔理沙によって殺されたのである。

「うぐ……うげ、げえええええ!」
 血の臭いと露出した臓物、転がる死体、そしてアリスを殺したという事実。それらがも
たらす嫌悪に耐え切れず、魔理沙はその場で嘔吐した。胃はからっぽだったらしく固形物
は出なかったが、酸っぱい胃液が喉を焼くような感触はたまらなく不快だった。生理的な
反応で涙がこみ上げてくる。

 吐くだけ吐いて、しばらくすると魔理沙はいくらか落ち着きを取り戻した。なるべく死
体の方を見ないようにしながら、今起こった出来事の分析を試みる。
 ここでいったい何があったのか。どうしてパチュリーはここにいたのか。後者の答えは
容易に想像できる、恐らくは魔導書絡みの用件で訪れていたのだろう。問題は前者だ。状
況から察するにアリスがパチュリーを殺害し――食っていた。そして魔理沙に気づき、標
的を変え、今に至る。流れとしてはこんなものだろう。
 解せないのはアリスの異常な有様だった。あろうことかパチュリーの身体を食い、そし
て魔理沙を見つけると飢えた獣のように襲い掛かってきた。腐乱死体のような容貌といい、
分からないことだらけだった。

「異変……なのか……?」
 ポツリと呟く。確かに異変には違いないが、今まで見てきたものと比べてあまりに血な
まぐさい。すでに二人も死んでしまった。……一人は魔理沙が殺したのだが。
 また気分が悪くなってきたが、魔理沙の脳裏をよぎるものがあった。異変――異変が起
こればそれを解決しようとする者が現れる。それはたいてい、自分か霊夢だった。

「そうだ、霊夢……霊夢はどうしているんだ?」
 博麗の巫女の名を口にしたとき、魔理沙の行動の指針は決まっていた。目指すは霊夢の
居所、博麗神社である。



 逃げるようにアリスの家を出ると、魔理沙は夜の森を駆け抜けた。幸いな事に、妖怪に
遭遇せずに済んだ。いや、今の状況がすでに幸いじゃないさ、と魔理沙は胸中で自嘲する。
 脚の筋肉が悲鳴を上げ、息も上がり始めたころ、ようやく鎮守の杜と石段が見えてきた。
いったん立ち止まり、両膝に手を置いて呼吸を整える。日頃は空を飛んでいるため、走る
ことには身体が慣れていなかった。
 休憩もそこそこに、魔理沙は石段を登っていった。鳥居をくぐり、境内へ足を踏み入れ
る。外観は普段の博麗神社と何も変わりなかった。しかし、ここも奇妙なほどに静まり返
っている。相変わらず靄は晴れず、湿った冷気が不快だった。

 本殿を避け、住居を兼ねた社務所へと向かう。不在で無いなら、今の時間は眠っている
はずだろう。万一に備えて靴のまま縁側に登り、障子越しに寝室の前に立つ。

「霊夢……いるのか?」
 抑え気味の声で問いかける。大声を出すと何かを呼び寄せてしまいそうで怖かった。し
かし、返事は無い。つい先程、アリス宅での出来事が脳裏によみがえった。不吉な予感を
追い払い、そっと障子を開ける。

 とりあえず異臭がしないことに魔理沙は感謝した。そして改めて室内を見渡す。薄暗い
寝室は無人で、畳の上には布団が敷きっぱなしだった。掛け布団は乱雑にはねられている。
霊夢の体重で出来たであろう跡に手を触れてみると、ほんのりと温かかった。どうやら少
し前まではここで眠っていたらしい。
 とりあえず霊夢はまだ無事である可能性が高い。魔理沙はそのことに安堵したが、一方
で途方に暮れてしまった。これからいったいどうすればいいのか。霊夢なら持ち前の勘で
何か手がかりを掴んでいるかもしれないと思ってやってきたのだが、その期待は空振りに
終わってしまった。行き先の心当たりも無い。

 魔理沙が立ち上がろうとしたとき、障子が大きな音を立ててぶち破られた。素早く、黒
い影が飛び込んでくる。慌てて飛び退き、魔理沙は箒を握り締めた。目の前の黒い物体は
低いうなり声を上げている。

「犬……!?」
 後ずさる魔理沙にゆっくりと迫るそれは、大型の野犬のようだった。しかし格子から注
ぎ込む月光に浮かび上がったそれを見て、思わず絶句する。あちこちの体毛が抜け落ち皮
膚は爛れ、骨や筋肉も露出していた。あのアリスがゾンビだと言うなら、これはゾンビ犬
といったところか。
 背後でも障子が破られた。ハッとして振り返ると、似たようなシルエットがこちらめが
けて飛び掛ってくる。軌道から察するに狙いは喉笛、そして今からでは回避が間に合わな
い。
 魔理沙はとっさに左腕を顔の前にかざした。直後、前腕部に焼け付くような痛みが走る。
鋭い牙と強靭な顎で食いついたゾンビ犬は、腕を振り回してもなかなか離れようとしなか
った。

「このっ……離せよッ!」
 苦痛に顔を歪めながら、魔理沙は箒を逆手に持った。そのままゾンビ犬の左眼球に振り
下ろす。ぐにゃりとした感触が柄を通じて伝わり、相手の左目が潰れる。甲高い悲鳴を聞
きながら腕を振り回すと、ゾンビ犬は奥の壁に叩きつけられた。
 もう一方の動く気配がする。魔理沙は勘を頼りに振り向きざま、身体をひねって箒を水
平に振った。狙いに違わず、飛び掛ってきたゾンビ犬の顔面に直撃した。空中で叩き落さ
れ、床に倒れこむ。

 しかしアリス宅での経験から、こいつらはまだ動くだろうと魔理沙は考えた。動きの速
さを考えると、下手に逃げるのは追われて危険かもしれない。
 ふと、腰のポーチ、その中身の存在を思い出す。キノコで作った『失敗作』だ。だが、
固形爆弾としては充分な性能を持っている。取り出す間にも二匹のゾンビ犬はうなりなが
ら身体を起こしていた。考えている時間は無いらしい。

 魔理沙は意を決して、固形爆弾を壁めがけて思い切り投げつけた。同時に屋外へ身体を
投げ出す。直後、小爆発が発生し寝室から爆風が吹き出した。障子という障子をなぎ倒し、
格子からは物凄い勢いで炎が噴き出している。
 地べたにうつ伏せで倒れこむ魔理沙は、轟音でやられた耳の痛みに顔をしかめた。軋む
身体を起こして振り返ると、寝室から上がった火の手は広がりつつあり、神社全体が炎上
するのも時間の問題に思えた。

「悪いな、霊夢。修理の時には手伝うぜ」
 そう口にしながらも修復できるのだろうか、という不安が魔理沙の頭をよぎった。が、
今は考えないことにしておく。この事態を生き延びることができたなら、その時にゆっく
り考えればいいだろう。



 燃え盛る神社を後にした魔理沙は、人里を目指して林道を走っていた。ここから一番近
い場所で頼れそうなのが慧音だったためである。彼女なら、今の事態について何か知って
いるかもしれない。
 足が地面を蹴るたびに左腕の噛み傷に響き、魔理沙は顔を歪める。おそらく骨にまで達
しているだろう。

「この傷……出血が止まらないな……」
 主要な血管は破られずに済んだようだが、そのわりに治まる気配が感じられない。それ
だけ深い傷ということなのか、それとも他に理由があるのか。だが、今の魔理沙には知り
ようもないし、知ったところでどうにかできるものでもなかった。



 視界が開け、人里の入り口が見えたとき――魔理沙は呆然とその場に立ち尽くした。ど
うしようもない絶望と無力感が胸を埋め尽くす。両の瞳に映るその光景を前に、魔理沙は
乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。

「は、はは……。何の冗談だ、こりゃ……」
 人里のあちこちから火の手が上がっていた。そのために崩れかけた家々も少なくない。
そして里を舐める炎の舌は、闇の中を蠢く者たちの姿をも浮かび上がらせていた。
 遠目にも分かる、目に付く人間という人間の全てがアリスのようにゾンビと化している。
彼らは呻き声を上げながら、生肉を求めて彷徨い歩いていた。中には身体が炎上している
者もいたが、お構い無しに歩き回っている。魔理沙は地獄を見たことがない。しかしこれ
を地獄と呼ばずして、何と呼ぶのだろうと彼女は思った。

 時折、生きた人間のものと思われる悲鳴も聞こえてきた。しかしゾンビの呻き声が圧倒
的なのに対し、逃げ惑う人々の声はあまりに少ない。この里はもう死んでいる、魔理沙は
確信に近いものを感じた。だがそれでも、彼女は里へ向かう足を止めようとはしない。

「慧音……あいつはどうしてる!?」



 炎を避けゾンビを避け、死の支配する人里を魔理沙は駆けた。行く手を阻むゾンビは殴
り倒し、転ばせ、突き飛ばし、あるいはかわしてやり過ごしていく。彼らの力は強いが、
動きが鈍いのが幸いだった。煙を極力吸わないようにしつつ、先を急ぐ。

 だが嫌というほど見慣れた建物の前にやってきたとき、魔理沙は思わず立ち止まってし
まった。炎に飲み込まれつつある家の入り口には『霧雨店』の看板が見える。そう、彼女
の実家だ。勘当されてから数年、目の前に立つのは実に久しぶりのことである。しかし彼
女が立ち止まったのは、単に懐かしさや感傷のためではなかった。

「親父……」
 周囲にゾンビは少ないが、店の前で一人、ゾンビと化した中年男が人間の腕をかじって
いた。彼はこちらに気づくと腕を捨てて、呻き声と共にゆっくり立ち上がる。やはり新鮮
な肉を好むのだろう。こちらへ迫る醜悪なゾンビ――魔理沙の実の父親だった。
 娘の生肉を求めて、彼はフラフラと向かってくる。魔理沙は後ずさり、悲痛な思いで叫
んだ。

「やめろ……やめてくれ親父!」
 箒を握り締める手に、うまく力が入らない。仲違いしたとはいえ、実の父親だ。肉親の
情は簡単に断ち切れるものではないのだろう。ごく普通の娘がそうするように、父として
慕っていた時期もあったのだ。
 それがこんな姿に成り下がり……自分を食おうとして迫ってくる。これほど酷い話があ
るか、と彼女は思った。

 躊躇しているうちに、父は目の前まで接近していた。両腕を伸ばし、掴みかかってくる。
魔理沙は辛うじて箒の柄で止めたが、体格差もあって今にも押し倒されそうだった。
 白目をむいて歯をむき出しにする父を見ていると、恐怖や嫌悪を感じると同時に、魔理
沙は悲しくなった。魂を失くした抜け殻となり、本能に突き動かされるだけの怪物として
人を襲う。父をこのままにしておくのは――彼の人格に対する侮辱のように思えた。

 意を決して、魔理沙は父の腹を蹴り飛ばした。彼はよろめき、上体が大きく後ろへのけ
ぞるが、転倒には至らない。そして体勢を直すと再び向かってきた。

「うわああああああああああああ!!」
 絶叫しながら飛び掛り、魔理沙は箒をフルスイングした。狙いはアリスの時と同じ、頭
部。物凄い音がして父の首が捻じ曲がった。頚椎の折れる音がやけに非現実的に響く。彼
はようやく動きを止めて、その場で崩れ落ちた。

 それを見届けると、魔理沙はその場にへたり込んだ。勘当されて以来、父とは一度も顔
を合わせていない。最後に交わした言葉は魔理沙が出て行く時の捨て台詞、そしてそれが
本当に最後のものとなってしまった。
 娘と離れて過ごす日々、彼は何を思ってきたのだろうか。魔理沙は周囲の状況も省みず、
ただ泣きじゃくった。

「父さん……父さん……」
 頬を伝って涙が零れる。それは焦げかけた父の衣服に吸い込まれ、消えていった。



 ゾンビたちは父の死を悼む暇も与えてはくれなかった。囲まれそうになった魔理沙は包
囲の一角を破り、まっすぐに寺子屋を目指す。慧音がいるとすればあそこだ。背後からは
無数の殺意がうねり、迫ってくる。魔理沙はそれを感じながら、ようやく寺子屋の前にた
どり着いた。

「おい慧音、いるのか!?」
 怒鳴りながら扉を開けようとするが、びくともしない。向こう側からかんぬきを差し込
み、さらにバリケードを築いているのかもしれない。そうこうするうちにもゾンビの群れ
は距離を縮めてきた。これでは引き返すこともできない。突破するにはあまりに数が多す
ぎた。

「くそっ! これまでなのかよ……!!」
「……理沙……魔理沙、なのか?」
「!?」
 寺子屋の中から慧音の声が聞こえる。ただ、その響きがひどく弱々しいのが気になった。
ともかく魔理沙は大声で叫んだ。

「ああ、そうだ! 死体野郎に囲まれてる、中に入れてくれ!!」
「裏だ、裏口に……」
 声に従い、魔理沙はゾンビの腕をかわして寺子屋の裏へと回った。そこに木製の引き戸
がある。戸は何の抵抗も無く開いた。魔理沙は急いで中へ飛び込む。引き戸を閉めると、
名前を呼ばれた。

「魔理沙!」
 同時に、戸をロックするためのつっかえ棒が回転しながら飛んでくる。魔理沙は器用に
受け取ると、引き戸を閉ざした。



 寺子屋の中はまるで台風が通った後のように滅茶苦茶だった。物という物が散乱し、破
壊され、そして無数の血糊があちこちを汚している。魔理沙の想像通り、正面入り口には
机や椅子が積み上げられ、バリケードになっていた。ゾンビたちが外から叩いているよう
だが、とりあえず破られる気配は無い。

「魔理沙……お前も無事だったのか」
 壁にもたれかかるようにして座る慧音が力なく笑った。右脇腹、右前腕、左肩口に包帯
を巻いており、どの部位も染み出した血液で真っ赤になっている。出血のせいか、肌は紙
のように白かった。

「なんとかな。……ひどい怪我じゃないか」
 魔理沙も腰を下ろし、慧音を気遣った。そして遅まきながら、彼女の周りに横たわる子
供たちの姿に気づく。皆、どこかしらに傷を負っていて、そして息をしていなかった。魔
理沙の視線に気づいた慧音が、悲しげに顔を歪める。

「……守ってやれなかった。それどころか、私は……私は……」
 その先は聞かなくとも魔理沙には想像がついた。子供たちからもゾンビ化する者が現れ、
慧音はその手にかけざるをえなかったのだろう。
 しかし感傷に浸っている時間は無さそうだった。正面入り口を叩く音が先程から少しず
つ激しくなっている。バリケードも揺らぎ始めていた。生肉と血の臭いをかぎつけて大勢
集まっているのだろう。

「慧音、これはどういうことなんだ? お前がいながら、なんで里はこんなことになっ
た?」
「そうか、お前は知らないんだな。そういえばしばらく里に姿を見せなかったからな…
…」
 言いながら慧音は救急箱を持ち出し、魔理沙の左腕の治療を始めた。そして同時進行で
事の成り行きを語る。

「この一ヶ月ほどだろうか、里におかしな噂が流れ始めた。深夜、妖怪とは違う、見たこ
ともない化物が現れたという話だ」
「化物?」
「ああ……私も調査してみたが、それらしい痕跡だけで実物は確認できなかった。そして
噂がささやかれるようになったのとちょうど同じ頃、里で奇妙な病が流行り始めた」
 消毒薬が傷口にしみる。魔理沙は顔をしかめつつも、病と聞いてピンと来るものがあっ
た。それを裏付けるような慧音の言葉が続く。

「始めは皮膚病のようなもので、痒みを訴える者が現れ始めた。症状が進行すると体組織
が壊死し、腐り落ちる。やがて定期的に意識混濁を引き起こし、最後には人間としての理
性を失う。……後は、お前が外で見てきたとおりだ」
「……」
「それでも最初は発症者が少数だったから対処できた。だが、数日前に奴らが爆発的に増
えた。もう私の手にも負えなくなった。力も使えなくなってしまったしな……」
「ちょっと待て、お前も力が使えない? ひょっとして空も飛べないのか?」
「そのとおりだ。……お前も? なら、魔理沙……」
「ああ、魔法は使えないし空も飛べない。私だけじゃなかったんだな、くそっ……!」
 魔理沙は思わず舌打ちした。これはどういうことだ、自分だけでなく慧音まで、なら他
の連中も……。彼女がそんなことを考えていると、左腕の手当てが完了した。しっかりと
包帯が巻かれ、いくらか楽になった気がする。

「力が使えなくなったのは……ちょうど奴らが一気に増えたのとほぼ同じ時期だ。何か関
係があるのかもしれないが……」
「奴ら、話に聞くゾンビにそっくりだ。ゾンビ……紅魔館の仕業か?」
 レミリアは吸血鬼、吸血鬼は不死者の王。この異変と関わりがあってもおかしくない。
だが魔理沙は途中で思い直した。それならどうしてパチュリーは殺されたのか。魔理沙の
認識が正しければ、彼女とレミリアは親友だったはずだ。そんな疑念を裏付けるように、
慧音がかぶりを振った。

「いや、それは無いだろう。まず、皮膚病の説明がつかない。そして何よりあのお嬢様は
『スカーレットデビル』だからな……」
 幾ばくかの嘲りもこめて、慧音が言った。血を吸いきれずに服を汚し、眷属を増やせな
い。それゆえの二つ名だ。そんな彼女にこれほどの事態を引き起こせるとは考えにくい。

「紅魔館がどうなっているのかはわからん。湖上の要塞であるあの館なら、あるいは防ぎ
きれるかもしれないが……」
「じゃあ、いったいなんだってこんな……」
「……魔理沙、少し前に霊夢が来たぞ」
「本当か!?」
 最初に探し求めていた人物の名を聞いて、魔理沙は思わず声を上げた。その無事を安堵
すると共に、彼女なら核心に迫れるのではという期待が高まる。

「霊夢もやはり力を失っていたが、それでも勘だけはまだ働くらしい。ここでしばらく話
をした後、永遠亭に――」
 今までゾンビの猛攻を防いでいた正面入り口、その限界がとうとう訪れたらしい。大き
な音がして扉が破られ、バリケードの机や椅子が崩れ落ちた。そして燃える里を背にした
ゾンビの大群が腕を突き出し、こちらへ向かってくる――その新鮮な肉にありつくために。

「ちっ、おいでなすったぜ!」
「魔理沙、逃げろ! ここは私が食い止める!」
「無茶を言うな、お前も来るんだよ!」
 古びた刀剣を手にゾンビの前に立ちはだかる慧音。魔理沙はそんな彼女の腕を引くが、
振り払われてしまった。

「永遠亭、永遠亭に行くんだ! 霊夢が向かった行き先だ、きっと何かある! だから、
お前は――」
 こちらを振り向いていた慧音の首筋に、ゾンビが勢い良く噛み付いた。慧音の悲鳴が狭
い寺子屋に反響する。それでも彼女はゾンビを振りほどき、古刀で生ける屍の首をはねた。
しかしゾンビの数はあまりに多く、一斉に群がってくる。

「慧音!」
「行け……私に構うな……ああああああああっ!!」
 全身を食いちぎられ、絶叫して倒れる慧音。すでにゾンビの群れに遮られ、彼女の姿は
見えなくなっていた。こうなってはもうどうしようもないことくらい、魔理沙にも理解で
きる。彼女は己の無力を呪いながら、裏の引き戸から脱出した。



 辛くも人里を脱した魔理沙は、迷いの竹林を走っていた。人里から流れてきたと思われ
るゾンビがうろついていたが、数が少ないので無視して先を急ぐ。しかし魔理沙は内心の
焦りを抑えられなかった。この竹林を迷わずに突破し、永遠亭にたどり着けるのか。神が
かり的な勘を持つ霊夢ならともかく、自分にできるのか、自信がなかった。
 だがしばらく進むうちに、ゾンビ化した因幡の姿を見かけるようになった。どうやら永
遠亭も災厄からは逃れられなかったらしい。理性を失い、生肉を求めてこちらまで彷徨い
出てきたのだろう。

「待てよ、だったら……」
 あることに気づき、魔理沙は思わず呟いた。因幡は永遠亭に住んでいる、ゾンビ化した
者は基本的にあそこから流れてきたと考えていいだろう。ならば、ゾンビ因幡をたどって
いけば、やがて永遠亭にたどり着けるのではないか。数秒の検討の後、魔理沙はこの案を
採用した。何の手がかりもなく、やみくもに進むよりはマシだろう。彼女は自分の思い付
きを信じてさらに足を速めた。



 彼女の目論見は見事に的中し、永遠亭にたどり着くことに成功した。門前をうろついて
いた数体のゾンビ因幡を殴り倒し、邸内へと侵入する。
 久しぶりだな、と思いながら魔理沙は廊下を歩いた。おぼろげながら、間取りは覚えて
いる。彼女が目指すのは輝夜の間だった。何か知っているとしたら、彼女か永琳だろう。
 大多数が外へ流れてしまったのか、ゾンビ因幡の数は少なかった。この程度ならば脅威
にはならない。それでも油断はせずに、先へ進んでいく。記憶は正しかったようで、さほ
ど労せずして輝夜の部屋にたどり着いた。しかし、薄暗く広大なこの部屋には誰の姿も見
当たらない。

「さて……どうしたものかな」
 当てが外れ、魔理沙は肩をすくめた。その時、首筋に水滴が落ちる。魔理沙は思わず飛
び上がって悲鳴を上げそうになったが、辛うじて自制した。直後、違和感を覚える。

「……水滴?」
 どうしてこんな室内で、という疑問がわいてくる。答えを求めて天井を見上げたとき、
魔理沙は言葉を失った。

 天井に張り付いていたのは異形の怪物だった。全身の皮を剥いだように筋肉組織が露出
した四足歩行の存在で、前足には鋭く巨大な爪が伸びている。だが何よりも魔理沙の目を
引いたのは剥き出しの脳と眼球の無い顔、そして異常なまでに長い舌だった。今の水滴は
怪物の唾液だったのだ。
 怪物は金切り声を上げ、魔理沙の目の前に降り立った。思わず後ずさり、箒を強く握り
締める。

 何の前触れもなく怪物が飛び掛ってきた。巨大な爪の生えた腕を振り上げている。魔理
沙は反射的に身体を投げ出していた。鋭い一撃が身体をかすめていく。攻撃をやり過ごし、
飛び込み前転の要領で体勢を立て直す。
 その時、怪物の長い舌が鞭のようにしなった。脇腹を打ち据えられ、魔理沙の身体が吹
き飛ぶ。襖に激突し、そのまま襖と一緒に畳へ倒れこんだ。打たれた左脇が酷く痛む。肋
骨をやられたのかもしれなかった。

 どうする、と魔理沙は自問した。怪物はゾンビとは比べ物にならないほど素早く、強い。
相手には鋭い爪と、リーチの長い舌がある。半端な攻撃ではこちらが先に殺されるだろう。
固形爆弾なら見込みもあるが、霊夢と合流する前に永遠亭を炎上させるのは躊躇われた。
 ふと、いつまでたっても怪物がこちらへ向かってこないことに気づく。そういえば怪物
には眼球が無い。音を頼りに行動しているのかもしれない。そして床の間に飾られた大小
の日本刀が目に付いた。

 意を決して、音を立てぬようそっと床の間に近寄る。箒は畳に置いて、大小を静かに鞘
から抜いて手に取った。怪物はまだこちらに気づいていない。魔理沙はポケットからコイ
ンを取り出すと、少し離れた位置へ放り投げた。
 途端に物凄い勢いで怪物がその辺りに飛び掛った。振り下ろされた爪が畳に突き刺さる。
魔理沙は怪物へ――正確には怪物の舌へ跳んだ。逆手に握った長刀で伸びきった舌を刺し
貫く。怪物の金切り声が耳障りだが、構わず長刀をそのまま畳に押し込んだ。怪物は長刀
で釘付けにされた格好になる。
 そして脇差を思い切り振り下ろした。露出した脳の重要部位――脳幹に刀身が突き刺さ
る。怪物は激しく痙攣し、やがて全身が弛緩した。どうやら死んだらしい。

「……いったいどうなってるんだ、この屋敷は」
 魔理沙は安堵のため息と共に呟く。そして箒を拾い上げたとき、掛け軸のズレが目に付
いた。気になってめくってみると、壁に小さなボタンが隠されている。少し考えた後、ど
うせ手がかりも無いのだからと魔理沙はボタンを押してみた。
 地鳴りのような音がする。書棚が横にスライドし、隠されていた部屋が露になった。小
さな部屋だが、地下へ降りる梯子がかかっている。これはいよいよ怪しい、と思いつつ魔
理沙は梯子を降りていった。



 梯子を降りた先はまるで別世界だった。つるつるした床、塗装された石造りの壁、剥き
出しの配管や通気孔、そして近づくと機械的な作動音を立てて開く金属の扉。純和風の永
遠亭とは正反対の空間だった。
 そしてここにもゾンビの姿はあった。人間や因幡をベースにしたと思われるもので、外
にいたものとは異なり、全身の皮膚が失われていて筋肉が剥き出しだった。数は多くない
が、見ていて気分のいいものではない。魔理沙はゾンビをかわし、あるいは排除しながら
探索を進めた。
 あちこちで様々な書類を発見したが、それらの記述は今回の異変に永遠亭が関わってい
ることを匂わせるものばかりだった。ただ、この事態は彼らにも予想外だったようで、報
告書などからはその追い詰められた心理がうかがい知れる。

 やがて魔理沙は広い部屋にたどり着いた。中には大きなテーブルがあって、他の部屋で
も見かけたものだが『コンピュータ』と呼ばれる式が置いてある。香霖堂で見かけたこと
があるが、ここにあるのはそれよりも新しいもののようだった。
 そして奥の壁には大きな掛け軸のようなものが垂れ下がっている。しかし不可解なこと
に何も描かれておらず、一面真っ白だった。
 魔理沙が一歩踏み出したとき、何かで口を押さえられ、いきなり物陰に引きずり込まれ
た。

「!?」
「魔理沙さん、私です、鈴仙です」
 そう言うと、鈴仙は魔理沙の口から手を離した。心臓が飛び出すような思いだったが、
どうにか落ち着きを取り戻す。それと同時に苛立ち、怒りがこみ上げてくる。目の前に災
厄の元凶、その一人がいるのだ。

「お前らのせいだろ、こんなことになったのは!」
「それは……否定しません。怪物を生み出すウイルス兵器を作ったのは私の師匠――八意
永琳です」
「兵器? ……まあ、そんなことだろうと思ったぜ。で、お前はその助手か?」
「……信じてもらえないでしょうが、私は関わっていません。私は何も知らされていなく
て、今まで必死で逃げ回っていたんです」
 魔理沙が反論する前に鈴仙はコンピュータのもとへ行き、何かを操作した。すると先程
まで真っ白だった掛け軸に文字や画像が浮かび上がる。それはにわかには信じがたい内容
だった。

「あのスクリーンを見てください。これが師匠の考案した兵器の産物です。……姫と師匠
は、幻想郷を我が物とする野望をいつからか抱いていたようです。そのために二つのもの
を考案しました。一つはこれらの怪物を生み出すウイルスです。各地で発生したゾンビは
感染した者の成れの果てです……」
 スクリーンには次々に色々なものが映し出されていく。ゾンビ犬や舌の長い怪物、それ
に魔理沙が遭遇していない奇怪な生物などだった。最後に『E-001』とだけ書かれ、詳細
のはっきりしないデータが映し出される。

「ですが、師匠はそれだけでは不十分だと考えたようです。幻想郷の住人には強い力を持
った者が少なからず存在します。そこで製作したのが『マジックジャマー』――あらゆる
魔力や霊力を無力化する装置です。その有効範囲は幻想郷の全土に及びます。幻想郷の強
者の力を封じ込め、強力な兵器と怪物で圧倒する――それがあの人たちの計画だったよう
です」
「そうか、それで魔法が……」
 自分が飛べなくなっていたのも、慧音が力を失っていたのも、鈴仙の言葉が真実ならつ
じつまが合う。

「ただ、実験中の事故でウイルスが大量流出し、汚染が外にまで及んでしまったようです。
事態の収拾が不可能と判断し、マジックジャマーを起動して自分たちは地下で研究を最終
段階まで進めた――これが、私が調べた限りで知っている事実です」
 突拍子も無い話に、魔理沙はどうしたものかと思った。鈴仙が一味でないという保証は
無い。
 だがそれなら最初に魔理沙の口を押さえた時点で殺していたはずだ。それによく見ると
鈴仙の服はボロボロで、顔には疲弊が色濃く現れている。信じてもいいのではないか、と
魔理沙は思った。

「そう、それと霊夢さんがこの施設に監禁されています」
「なんだって!?」
「師匠たちを止めようとして、逆に捕らわれたようです。今、霊夢さんは――」
 耳慣れない乾いた音が室内に反響し、鼓膜を貫く。そして火薬の臭いがほんのりと漂っ
た。鈴仙は胸を押さえ、その場で崩れ落ちる。魔理沙には何が起きたのか理解できなかっ
た。

「裏切り者が余計なことをベラベラと……。鈴仙も馬鹿だなあ、姫たちに従っていればこ
んなところで死なずに済んだのに」
「お前……!?」
 妙に明るい口調と共に姿を見せたのは妖怪兎のリーダー、因幡てゐだった。その手には
黒い金属の塊が握られている。魔理沙はそれに見覚えがあった。香霖堂で見かけた外の武
器、自動拳銃と呼ばれる代物だ。火薬の力で金属の弾丸を発射し、相手を殺傷する。香霖
堂には一つしか無かったが、ここ永遠亭ならゴロゴロしているのだろう。

「なるほど、お前はあっち側か……」
「そういうこと。……妙な事は考えないほうがいいよ。弾丸より速く動ける人間なんて存
在しないから」
 銃口を向けられ、振り上げかけた箒を下ろす。鈴仙が撃たれた時の事を考えると、てゐ
の言葉は事実だろう。どうしたものか、と思案する。この距離ではどの手を選んでも、先
に撃たれるのは明白だった。
 確かに永遠亭の技術は強力だ。しかし、それだけで本当に様々な人妖を相手にできるの
かという疑問もある。魔理沙は隙を窺う時間稼ぎも兼ねて問いかけてみた。

「幻想郷を支配するつもりらしいな。本気でそんなことができると思ってるのか?」
「できるよ。魔理沙だって外の様子は見てきたでしょ? それに、私たちの手には最高の
研究成果があるんだから」
「研究成果?」
「……いいよ、見せてあげる。どうせ死ぬなら、いいものを見てからのほうがいいでし
ょ?」
 完全に優位に立っていると確信しているのか、てゐは小馬鹿にしたように笑った。そし
て奥の扉を示して言う。

「あのエレベーターに乗って。その先にあるから」
「……そりゃ楽しみだ」
 鈴仙も研究が最終段階に進んだと言っていた。てゐの言うものはそれと同一なのか、と
いう疑問がわいてくる。そして、魔理沙には従う以外に選択の余地は無かった。



 エレベーターはどんどん下降して行き、やがて秘密研究所の最下層へとたどり着いた。
てゐに促されるままに先を歩く。魔理沙には理解できないものばかりだったが、恐らくと
ても高度であろう機器が大量に設置されている。いくつもの大型水槽が並び、得体の知れ
ない物体が浮かんでいた。

「見てよ魔理沙、あれがそうだよ」
「……!?」
 一番奥、円筒状の水槽に『それ』はいた。それは禍々しいまでに美しい女体、一糸纏わ
ぬ白い裸身が魔理沙の前に晒されている。その姿にはどこか見覚えがあるように思えた。

「輝夜……いや、永琳……か?」
 輝夜と永琳を足して二で割ったような容貌のそれを前に、魔理沙は思わず口に出してい
た。腰まで伸びた長い髪は輝夜のもの、だがその色は銀。顔立ちは輝夜とも永琳とも言え
るようなものだった。

「まあ正解、かな。正式にはE-001『永夜』、あの二人が融合した存在だよ」
「融合だと!?」
「月人であり蓬莱人である二人を掛け合わせることでその力は増大、そして地上の妖怪を
取り込むことで究極の存在へ進化するんだよ……」
 顔中に暗い愉悦の笑みを貼り付けながら、てゐは手元の機器を操作した。液体が抜け、
次いで水槽のガラスが降り『永夜』が解き放たれる。それは目を開くと、ぞっとするよう
な笑みを浮かべた。

『てゐ、よくやったわね』
 輝夜と永琳の声が重なったような、奇妙な響きだった。労いの言葉にてゐは満足げな笑
みを浮かべている。その彼女を、長い銀髪の一部が蛇のように鋭い動きで襲った。触手の
ような髪がてゐの胸に突き刺さる。自動拳銃が音を立てて床に転がり落ちた。

「ああ……姫、永琳様……」
 てゐはまるで抵抗の素振りを見せず、それどころか恍惚とした笑みを浮かべていた。そ
の身体がどんどん萎れていく。永夜はてゐを『吸収』しているらしい。異様な光景を前に、
魔理沙は立ち尽くすことしかできなかった。やがててゐの身体は完全に消滅し、衣服だけ
が床に残された。
 そして永夜。見た目ではよく分からないが、てゐの言葉が事実ならその力は強大化して
いるのだろう。いくらか身体が大柄になったようにも見えた。その永夜がこちらを向く。
射抜くような異形の眼差しに、魔理沙は思わずすくみあがりそうになった。

『魔理沙、光栄に思いなさい。究極の生命体に進化した私たちの、最初の餌食になれるの
だから』
「冗談じゃない、そう簡単にやられてたまるかよ!」
 魔理沙は絶望的な心境で、それでも自らを鼓舞するように叫んだ。そして腰のポーチに
手を伸ばす。今は火災がどうのと気にしている場合ではない、とにかく目の前の化物を殺
して生き延びることが最優先だった。

「!?」
 だが固形爆弾を取り出すよりも速く、永夜が目の前まで踏み込んできた。いつの間に、
と思った次の瞬間、永夜の膝がみぞおちにめり込む。爆発のような衝撃が体内を突き抜け
た。部屋の反対側まで吹き飛ばされ、背中から壁に激突する。息が止まり、そのまま床に
ずり落ちる。
 軽い脳震盪を起こしたのか指先まで痺れていたが、それでも起き上がろうとする。だが
その時、魔理沙は強い吐き気に見舞われた。耐え切れずに嘔吐すると、床が真っ赤に汚れ
る。今の一撃で内臓をやられたらしい。酷いめまいがして体は鉛のように重く、時おり視
界が霞む。

 永夜の圧倒的な力を前に、魔理沙は逃げ回ることしか出来なかった。枝分かれする無数
の髪が鞭のように振り回され、室内の機器が徹底的に破壊されていく。水槽が割れて液体
が流れ出し、壁や天井の配線が剥き出しになっていく。魔理沙は必死で走り、ギリギリの
タイミングで攻撃を避け続けていた。どうやら向こうはこちらを弄って遊んでいるらしい。
 このままでは埒が明かないと、魔理沙は床に転がっている自動拳銃に飛びついた。てゐ
が使っていたものだ。基本的な扱い方は霖之助から教わっている。照準を合わせ、引き金
を引き絞り、二連射。発砲音が立て続けに耳を劈き、反動が肘まで伝わってくる。永夜の
胸の辺りから血が噴き出していた。二つの空薬莢が床に転がって澄んだ音を立てる。

『こんなもので私たちを殺せると思ったの?』
 永夜が嘲笑うように言った。その言葉を裏付けるように、胸の傷が瞬く間に塞がってい
く。確かに究極を名乗るだけあって、尋常ならざる再生能力だった。

「マジかよ……」
『そろそろ飽きてきたわね。知り合いのよしみよ、せめて楽に死なせてあげるわ』
 つまらなそうに言うと永夜の手、その五指の爪が伸びて長大な剣のようになった。あん
なものをまともに食らえばひとたまりもないだろう。何か、何か手は無いのかと魔理沙は
必死で考えた。思いつかなければ死あるのみである。
 永夜はゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。ひたひたとした足音が、水音に変わった。
破壊された水槽からあふれ出た液体である。魔理沙はハッとして辺りを見渡した。足元に
は切断され、剥き出しになった高圧電流のケーブルが転がっている。その先端は音を立て
て放電していた。

「悪いな、やっぱり私は往生際が悪いらしい」
 魔理沙はケーブルを放り投げながら告げる。ちょうど永夜の足元の水溜りに落下した。
放電しているケーブルと水の接触、その結果として当然の現象が発生した。

『ウガアアアアアアアアァァァァァッ!!!!!』
 全身を高圧電流が駆け巡り、永夜はすさまじい絶叫を上げた。激しく痙攣し、体中から
煙が上がっている。それでもなおこちらへ向かってこようとしていたが、やがて前のめり
に倒れた。奇妙な静寂で室内が満たされる。
 魔理沙はしばらく放心状態で永夜を眺めていた。うつ伏せになったまま、永夜はピクリ
とも動かない。危機が去ったことを理解するのに、しばらく時間がかかった。やがて魔理
沙は心からの安堵のため息をつく。

「……そのザマじゃ、幻想郷は取れなかっただろうな」



 エレベーターで上へ戻ると、建物中に警報音が鳴り響いた。機械的な音声が施設を爆破
する旨を伝え、すみやかな避難を勧告している。魔理沙は湧き上がる焦燥を抑えられなか
った。まだ霊夢を見つけていないというのに、ここを爆破されてはたまらない。

「魔理沙さん!」
「鈴仙!? お前、無事だったのか」
 駆け寄ってきた鈴仙を見て、魔理沙は目を丸くした。彼女はてゐに胸を撃たれて倒れた
はずである。そんな魔理沙の疑問に答えるように、鈴仙はブレザーを軽くめくった。内側
には黒いチョッキのような物を身に着けている。

「これは良い防弾ベストですよ。もっとも、頭を撃たれてたらそれまでだったんですけど
ね」
 魔理沙にはいまいち理解できず、そういうものかと思うしかできなかった。それに今は
そんな事は些細な問題である。鈴仙はすでに事態を把握しているらしく、早口で告げた。

「魔理沙さんが師匠たちを倒したみたいですね。『あれ』は施設のシステムと連動してい
たようで、活動停止に反応して起爆装置が作動するようです」
「細かいことはどうでもいい、霊夢はどこだ!?」
「ここの地下牢です。詳細な位置とロックの解除コードをメモしておきました、急いでく
ださい!」
 そう言って鈴仙は地図と数字の羅列の記された紙切れを押し付ける。これを見る限り、
霊夢の位置はそう遠くない。

「それでお前はどうするんだ?」
「私はマジックジャマーをシャットダウンしてきます、力さえ使えれば空を飛んで安全に
逃げられますから! 中庭で待っててください!」
「よし、そっちは頼んだぜ!」



 やかましい警報が鳴り響く中、魔理沙は廊下を大急ぎで駆けていた。行く手には数体の
ゾンビが待ち受けている。彼女は動きを止めず、むしろ加速させながら箒を振り回した。

「邪魔だああ!!」
 勢いに任せてゾンビをなぎ払い、頭に叩き込んだルートどおりに進んでいく。やがて見
るからに頑丈そうな鋼鉄の扉の前にたどり着いた。地図が正しければ、ここに霊夢が閉じ
込められている。
 扉の脇の入力装置で、メモの通りの数字を打ち込んだ。程なくして、重い音を立てて扉
が開く。

「霊夢、生きてるか!?」
「魔理沙!? なんであんたがここに……」
「話はあとだ、早く脱出するぞ! 急がないとここが吹っ飛んじまうぜ!」
 霊夢も警報で事態は把握していたようで、駆け出した魔理沙の後に続く。今、考えるべ
きことは急いでここを出ること。それ以外には何もなかった。



 秘密研究所を抜け、降りてきた梯子を昇って永遠亭の地上部分へと出る。魔理沙と霊夢
はそのまま中庭へと脱出した。後は鈴仙を待つのみである。日の出は近く、すでに空は白
みかけていた。生きて朝日を拝みたいものだ、と魔理沙は心の底から思った。同時に例の
音声が爆破まであと三分であることを告げる。

「鈴仙、急げよ……!」
 この状況下で待つというのは辛いもので、魔理沙はいてもたってもいられなかった。そ
れは霊夢も同じだったようで、いつになくそわそわしている。その時、警報に混じって異
様な物音が聞こえた。どうやら地面から聞こえているらしい。

「何の音かしら……?」
 霊夢が不安げに呟く。その直後、中庭の中央が異様な盛り上がりを見せた。二人は思わ
ず後ずさり、距離を取る。魔理沙はポーチから残る全ての固形爆弾を取り出した。いつで
も投げられる体勢を取っていると、やがて地面が勢いよくぶち抜かれ、下から何かが飛び
出してきた。
 それは霊夢には得体の知れないもので、魔理沙にとっては二度とお目にかかりたくない
ものだった。

「なんなの、これ……!」
「チッ、しつこい奴らだな!!」
 現れたそれを見て、魔理沙は吐き捨てるように言った。永夜だ。体のあちこちが焦げた
ようになっているが、まだ動くには十分らしい。永夜はこちらを向くと、先程の余裕とは
打って変わって怒りをあらわにした。

『魔理沙、やってくれたわね! これで計画は台無しよ!』
「ああ、そうかい!」
 魔理沙は相手が動き出すのを待ってやるつもりなど毛頭無かった。怒鳴り返すのと同時
に全ての固形爆弾を投げつける。その全てが命中し、永夜の姿は爆炎に飲み込まれた。そ
れでも油断せず、自動拳銃を構えて警戒態勢を取る。
 黒煙を切り裂き、永夜が飛び出してきた。魔理沙は銃を連射するが、動きが止まる気配
は無い。そして永夜は魔理沙ではなく、霊夢へと向かった。

「まずい、逃げろ霊夢!」
『もう遅い!』
 魔理沙が叫ぶや否や、霊夢が殴り倒された。地面と水平に吹き飛び、落下すると何度も
転がっていき、庭木に激突してようやく止まる。意識を失ったのか死んだのか、霊夢は微
動だにしなかった。

「くそっ、この化物め!」
 魔理沙はヤケクソになりながら拳銃を撃ち続けた。だが永夜はまるで意に介さない。や
がて全弾を撃ちつくし、スライドはホールドオープン状態になった。予備弾倉など持って
いない。
 ここまでか、と思いながら銃を捨て、箒を握り締める。永夜の両手の爪が再び剣のよう
に長大になった。ここで仕留めるつもりらしい。それに対し、こちらに残された武器は箒
のみ。どうにも分の悪い勝負だった。
 猛烈な勢いで永夜が突進してくる。力はもちろん、速さも圧倒的にあちらが上だ。見て
からでは遅いので、魔理沙は先読みで動く。
 心臓を狙った一突きを横に跳んでかわす。次に来るのは首へのなぎ払い。腕が動くのと
ほぼ同時に魔理沙はその場で屈んだ。帽子が引き裂かれ、布切れと化したそれが爪にさら
われていく。そして足首を狙って斬り払ってきた。それをバク転で避け、後方へ飛び退く。
魔理沙が箒を握りなおすと、永夜は忌々しげに言う。

『チョロチョロと逃げ回って……! おとなしく殺されなさい!!』
「言ったろ、私は往生際が悪いんだ」
 魔理沙は不敵に笑うが、このままではいずれやられるのはわかっている。その時、邸内
から弾丸状の光が飛来し、永夜の背に直撃した。背中での小爆発にふらつき、永夜は後ろ
を振り向いた。魔理沙もそちらに視線を向ける。縁側にはいつの間にか鈴仙の姿があった。
右手を拳銃のような形にして構え、指先を永夜に向けている。

「魔理沙さん! ジャマーはシャットダウンしました、もう魔法が使えます!!」
『ウドンゲェェェェッ!!』
「姫、師匠……お別れです」
 憤怒の永夜に対し、鈴仙はどこか寂しげに呟いた。その双眸が真紅に輝く。途端に永夜
の動きが止まった。狂気の瞳をまともに見てしまったらしい。

「今です、魔理沙さん!」
 縁側から鈴仙が駆け寄ってくる。魔理沙はその意図を察すると、懐からミニ八卦炉を取
り出した。持てる魔力を魔道具に集中し、この一撃に全てをかける。射線上に永夜を捉え、
魔理沙は腹の底から叫んだ。

「マスタースパァァァァァクッ!!!」
 膨大な熱量を持った極太のレーザーがミニ八卦炉から噴き出した。信じられないと言い
たげな永夜が、光の中に消えていく。魔理沙が放った全力の一撃は永遠亭を半壊させ、遥
か彼方の山にぶつかってようやく止まった。木々や土砂が飛び散っているのが遠目にも見
える。そして初めからそこに存在などしていなかったかのように、永夜の姿は消えうせて
いた。



 傷ついた霊夢を箒の後ろに乗せ、魔理沙は大急ぎで飛び立った。鈴仙もそれに続く。直
後、永遠亭は地下から噴出する爆炎に飲み込まれた。大爆発によって何もかもが吹き飛び、
辺りに無数の残骸が飛散している。それを見て、ようやく終わったんだ、と魔理沙は実感
することができた。

 魔理沙たちはゆっくりと空を飛んでいた。東の地平線からは太陽が顔を覗かせている。
既に空は明るくなっており、見渡す限り雲ひとつ無い。今日は快晴で暑くなるだろう。ご
く当たり前の景色だが、惨劇の後に見るそれはとても素晴らしいものに思えた。

「……とりあえず生き延びたのはいいけど、これからどうすんの?」
 魔理沙の背にもたれかかりながら、霊夢が気だるげに言う。鈴仙も何も言わないが、そ
の表情は同じことを問いかけていた。少し考えて、魔理沙は答える。

「そうだな、白玉楼にでも行ってのんびりやるか。あそこならウイルスの影響も無いだろ
うしな」
「でも、幻想郷はどうなっちゃうんでしょうね。それに師匠たちは蓬莱人、またよみがえ
ってしまうと思うんですが……」
「さあ。でも、どうせ紫がなんとかするんでしょ。私たちが考えてもしょうがないわ」
 なんとも投げやりな霊夢の言葉だが、魔理沙も同感だった。あのスキマ妖怪には底知れ
ないところがある。彼女なら本当にどうにかしてしまうように思えた。それにマジックジ
ャマーが失われた今、輝夜たちにできることなど限られているだろう。

「ま、そういうことだ。私らはのんびりやろうぜ」
 考えても仕方が無いことはどうしようもないのだ。魔理沙はそう決め込むと、言葉とは
裏腹に飛翔速度を上げる。三人の少女たちは太陽が昇る地平線の彼方へと、飛び去ってい
った。

























「……ふう、ぎりぎりだったかな。最後は間に合わないかと思ったわよ」
 ホッと一息ついて、長い黒髪の少女が呟いた。ゲームパッドを手にしているこの娘は永
遠と須臾を操る月の姫君、蓬莱山輝夜である。彼女の前にあるモニターには、飛び去って
いく魔理沙たちの姿が映し出されていた。
 やがて画面が暗転し、スタッフロールとエンディングテーマが流れ始める。出てくる名
前はどれも『Eirin Yagokoro』ばかりだった。しかし輝夜はそんな事は気に留める様子も
無く、座椅子に寄りかかりながらぼんやりと画面を眺めている。やがて最後に白玉楼の部
屋でくつろぐ魔理沙の映像が現れ、『06:32』という数字とCというアルファベットが表示
された。

「6時間半、ランクCかぁ。ま、初回プレイならこんなものかしら」
 パッドを畳に置き、それなりの達成感と共に輝夜は呟いた。その時、背後の襖が開いて
誰かが入ってくる。彼女は振り向くまでも無く、それが永琳であると分かっていた。

「お気に召しましたか、姫」
「うん、いいんじゃないかな。細かいところまでそれなりに作りこんであったし」
「そうですか、それなら私も作った甲斐があるというものです」
 輝夜の反応に、永琳は満足げに微笑む。試行錯誤の末に完成させた作品が評価されると
いうのは嬉しいものだ。それは月の頭脳と呼ばれる永琳も例外ではないらしい。輝夜は永
琳のそんな一面を垣間見ることが出来て良かったと思う一方、気がかりなこともあった。

「でもさぁ、こんなことしちゃって本当に大丈夫なの?」
 そう言って輝夜は視線を部屋の隅に這わせる。そこには醜悪なまでに大量のケーブルに
繋がれた大型の機器が設置されていた。数あるケーブルのうちの一つは、輝夜が使ってい
たUSBゲームパッドのものだった。
 機器の中央には永琳の作品中に登場したものに酷似した、円筒形の水槽がある。液体で
満たされたその中には、人間の脳が浮かんでいた。これが誰のものであるのか、そしてそ
もそもその存在を知っているのはこの部屋にいる二人――輝夜と永琳だけである。

 計画はずっと前の段階から周到に準備されてきた。そして全てが整ってからしばらく経
った頃、風邪をこじらせたと言って魔理沙が永遠亭を訪れたのである。この発病も計画通
りだった。その前回に魔理沙がやってきた際、彼女が滞在した部屋には大量のインフルエ
ンザウイルスが散布されていたのだから。
 後は簡単だった。診察室で全身麻酔をかけ、魔理沙を拘束する。そして永琳が執刀し、
魔理沙の脳を無傷で摘出した。今、この部屋の水槽に浮かんでいる脳、それは紛れも無く
霧雨魔理沙本人のものだった。そして永琳が手を加えてこんな姿――つまり、生体コンピ
ュータにしたのである。

 コンピュータなので、当然のことながらソフトウェアをインストールすることができる。
たとえば輝夜がたった今クリアしたゲームなどがそうだった。魔理沙の脳は生きている。
『彼女』はプログラムされた擬似的な世界を体感するが、彼女自身は――つまり彼女の脳
はそれを現実に起こっている出来事と認識し、苦痛や恐怖も感じる。つまりダメージを受
ければ痛いし、怪物に追われれば恐怖もするのだ。そしてゲームオーバーになれば、擬似
的なものとはいえ『死』を体験する。
 だから先程のゲームは魔理沙にとっては紛れも無く本人に降りかかった災厄なのだ。自
分がゲームパッドで操作されているなどとは、夢にも思わない。プレイヤーである輝夜は、
モニターやヘッドセットを通じてそんな魔理沙の様々な感情や感覚を知ることができる。
暇を持て余した輝夜のために永琳が用意した、実に悪趣味な遊具だった。

 輝夜の危惧は魔理沙が失踪したことで騒ぎになり、疑われないかということである。良
くも悪くも幻想郷において、魔理沙は有名人なのだ。しかし、永琳の余裕の表情は少しも
崩れなかった。

「その点は抜かりありませんよ。一ヶ月で培養したクローン魔理沙に所持品を持たせ、外
に放っておきましたから。クローンと言っても急ごしらえの出来損ないで、プログラムど
おりの行動しか出来ません。しかし、今回の目的を果たすには十分です」
 クローン魔理沙はプログラムどおりのルートを通過し、竹林をねぐらとする妖怪のテリ
トリーに侵入した。そして形ばかりの抵抗をした後、その妖怪に惨殺されたのだ。今頃は
死体が発見されていることだろう。

「目撃者も用意しておきました。『魔理沙』が永遠亭を出たことは、何も知らない妹紅が
証言してくれるでしょう。彼女が『魔理沙』の姿を見かけるようなルートを設定したので
すから。……これで安心できましたか?」
「さすがね、永琳。心配して損しちゃったわ」
 輝夜は永琳の回答に満足した。そしてここは輝夜と永琳しか知らない秘密の遊戯部屋、
発覚の危険は無い。

「ところで姫、水槽は剥き出しのままでよろしいのですか? 筐体でそれらしい体裁を整
えることもできますが」
「ううん、このままでいいわ。脳がはっきり見えている方が『魔理沙』で遊んでいる実感
が持てるもの」
 そう言って輝夜は狂気じみた笑みを浮かべる。やはり彼女も月の民、地上の者とは感覚
が違う。掃いて捨てるほどいる人間の命に対して、重みなど感じていないのだ。

「さてと、今日はこの辺りでお開きね。明日はもっと良いランクを取って見せるわ。それ
にルート分岐とか隠し要素もあるんでしょ?」
「ええ、もちろんです」
「しばらくはこれで退屈がしのげそうね。……でもさあ、ラスボスが私たちってのがちょ
っと微妙よね。なんとかならない?」
 輝夜が少し口を尖らせた。ゲームとはいえ、やはり自分たちを吹き飛ばすのはあまり良
い気分がしないらしい。

「別のゲームを作ってインストールすれば、そちらをプレイすることもできますよ。私と
しても、次はもっと面白いものを作ってみたいと思いますね」
「そう、じゃあ楽しみにしてるわね。それまではこれを極めることにするわ」
 輝夜は嬉しそうに笑う。そう、彼女が飽きるまで魔理沙は永遠に『ゲーム』の中で苦し
み続けるのだ。永遠を生きる輝夜がいつになったら飽きるのか――それは神のみぞ知る。