霊夢が袖を失うわけだ。

袖が無い霊夢など、ただのノースリーブの女の子でしかない。
巫女らしい要素は消えてなくなる。セーラー襟ノースリーブに巫女要素は皆無であり、祓い棒を手にしてみたところで所詮は付け焼刃、陰陽球もウンともスンともいわなくなる。しまいには空も飛べなくなる。

困った困ったとうろたえていると、魔理沙がやってくる。駆け出して親友の名を呼ぶが、怪訝な顔で「誰?」と問われ、狼狽する。
自分は霊夢だと訴えるのだが、まったく相手にされない。「似てない」と。あるいは証拠として術を使ってみろといわれるのだが、前述のように使えなくなっているので立証しようがない。

レミリアがやってくる。三妖精がやってくる。優曇華がやってくる。幽香がやってくる。早苗がやってくる。
誰も霊夢を霊夢だと認識できない。
てっとりばやく既成の服の袖を切り取って装着してみたが、妙なものを見る視線を向けられるばかりである。

そもそも上衣本体から分離したアレを袖と呼んでいたこと自体おかしかったのだ――誰かがそんなことを言った。つまるところ袖という概念そのものに破綻が生じつつあると思われた。
また、ここに至って気づくのであるが、霊夢の別称である「紅白」の白の部分は、靴下とリボンの末端を除くと、その大部分を袖に依存している。なんと彼女はもはや紅白ですらなかったのだ。紅である。

ならばどうせよというのか!霊夢だった少女は叫んだ。
いつの間にか彼女は山中に放逐されており、神社がどちらにあるのかも判然としなかった。
人里はここから遠く離れており、力を失った彼女が自力で、怨霊はびこる山中を突破して人里へ辿り着くことは絶望的であるように思われた。
たちまち夜となった。山中を彷徨い、空腹と疲労それに体温低下で消耗した彼女は、すでに傷だらけになった足をかばうこともなく、力を失って地べたに倒れ伏すばかりだ。

なぜ、このようなことになったのか。
混濁する意識の中で、彼女は取りとめもない思考に埋没した。
死の前兆であろうか、やがて幻聴が聞こえてきた。

正しい巫女服を着よ。正しい巫女服を着よ。巫女服は肩口が開いてなどいない。正確にはこうだ。正確でない巫女服には、価値がないばかりか、神社の品位を破壊する。
正しく巫女服を描画せよ。正しい巫女服を表現せよ。一寸の不正確もあってはならない。正しくない巫女服は害悪である。許されることではない……

なぜだ!なぜそのように画一的な価値観を押し付けようとする!
もはや声も出なかったが、たまらずわめいた。確かに自分は巫女服というものを、個人的な美意識に沿って改造していたが、それは神社の神格を貶めるような意図などなかった。
だいたい、本物の巫女服とは窮屈なものだ。遊びたいざかりの少女には酷である。

だが、声は続ける。
神社の巫女とは、本来前髪を垂らさないものだ。それはケガレである。
下着もショーツなどではない。暴力を振るうようではならない。職務を放り出し、だらしない格好で遊んでばかりいるとは……

既に肉体は消滅し、魂だけの存在となった彼女に、声は容赦なく追い討ちを浴びせる。
このような無念な死に方をしたうえ、どこまでも声がついてきて無限の更正を要求するようでは、成仏などかなわないであろう。
彼女はうんざりして、時間と空間を飛び越えて声から逃れようとした。しかし、逃げれば逃げるほど声は大きく、強くなっていった。
声は、一つだけではなかった。どうも、移動するほどに多数の声が加わっているように感じられる。
よくよく聴いてみると、それは自分だけに向けられたものであった。

「あのアニメはなっていない。脚本は何を考えているのだ」
あにめ、とは何だ?
「この政党はいつも見当はずれのことばかり言う。存在しなくなってしまえばいい」
せいとう?聞き覚えの無い言葉だ。
「あの絵師は人気のあるコンテンツの二次絵ばかり描いて、不愉快だ」
「同人ゴロめ、我々のジャンルから出ていけ」
「あんなクソゲーを擁護するとは目が腐っているんじゃないのか」
「我々の思想に共感できないとは、こいつは他民族にちがいない」
「我が党派以外の思想など、踏みつけて破壊してしまえ」

物騒な声がそこかしこに満ちている。幻想郷の面影はどこにもなかった。
しかし、それは耳から入ってくるのではなく、視覚に訴えていた。ネガティブな情動が、言語の羅列となって、数行ごとに区切られ、めまぐるしい勢いでスクロールしていく。
鯨が見えたような気がした。その瞬間、すべての怨嗟の声は停止し、静寂が訪れた。ただ、なんともいえぬ苛立ちの感情だけが、具体性を伴うことなく場に残留し、今も発され続けているようだ。

すくなくとも、自分が慣れ親しんだ、あるいは自分が酷い目に遭っていた「掲示板」のインタフェイスではない。
もっと単純だが、ダイレクトなシステムであるようだ。遠くで、誰かがうっかり洩らした頓珍漢な発言に、何百という亡者が喰らいつき、地獄の底へ引き摺り下ろそうとしている。

彼女は恐ろしくなってそこから逃れようとした。
だが、「掲示板」へ戻るのは困難だった。濁流に抗うかのような、猛烈な抵抗が身体に作用し、なかなか前進することができない。
ひとつの原因は、自分の身体がiPhoneないしAndroid携帯にあったためだが、それを乗り越えて元の場所に戻ったかと思えば、そこには既に機能を停止した掲示板しかなく、別の掲示板へ向かう必要があった。

検索されず、人目につかず、したがってクソリプによって追求もされない場所。
それは今や約束された楽園のようだが、しかし実際はどうなのだろう。

気がつくと、霊夢は神社の縁側に倒れていた。
袖を確認する。ちゃんとついていた。足に傷はなく、陰陽玉も出るし、浮かぶこともできた。
いつもの自分だ。ほろりと涙が出た。戻ってきたのだ、この住み慣れた場所に――

――だが、なぜだろう。目の前の情景が、妙に殺風景に見えるのは。
情報の濁流に呑まれすぎて感覚がおかしくなったのかもしれない。あれは何だったのだろう……

ゆらゆらと、接近してくるものがあった。魔理沙だ。いつものように境内に着地し、帽子を取り、こちらを向いて、はにかんだ顔を見せて笑った。
開口一番、魔理沙は言った。

「霊夢、FBをやらないか?私が招待してやるから――」

霊夢は電池が切れたように倒れ、二度と動かなかった。