「“好き”とかよくわかんないけど……2ヶ月の間りっちゃんに会わなくてさ。
退屈はしてたけどそれでもなんとかならなくないじゃーん、って思ってたんだ。
でも、久しぶりに顔見たらなんか自分でびっくりするくらい心臓ばくばくしちゃうし、
いきなり旅行行こうって言い出してそれで中国行っちゃうって聞かされて…
あ、
もしかしたらこれからりっちゃんにずっと会えなくなるのかなーって、
そう思ったら…、
これムリ、って。
ダメだーって。
楽しかったこととか急に思い出しちゃったりして、うん。
別れ別れになったらもう、
そういうのこれからなくなるんだー、
全部過去になるんだーとか、
思っちゃって。
…ごめんうまく言えない」
りっちゃんと一緒にいるとたのしいし、安心する。
でもそれは澪ちゃんやムギちゃん、あずにゃんとだって一緒だったし、りっちゃんだけが特別ってわけじゃない、って思ってた。
思ってたのに。
「はい。ハンカチ」
「…え」
あれ、わたし。泣いてる?
「それが“好き”ってことだよ」
「そうなのかな?」
「そうだよ。そうに決まってるじゃないか」
「そっかぁ。そうなのかぁ」
わたし、りっちゃんのこと、“好き”だったんだ。
そっか。そうだったんだ。
そばにいるから気がつかなかっただけだったんだ。
きっとずっと。もうずっとずっと前からわたし、りっちゃんのことが“好き”だったんだ。
「こないだ言わなかったことだけど」
「なに?」
「律が就職先を地元に決めた理由」
「うん」
「唯の近くに居たかったからだと思うんだ」
アイツ、何にも言わないからホントのことはわかんないけど、
あくまでわたしの憶測だけど。
律、バカだから。そういうことで大事なこと決めちゃうとこあるから。
そう断りながら澪ちゃんは言った。
まさか、ね。
それじゃまるで、りっちゃんがわたしのことめちゃめちゃ“好き”みたいじゃん。
…そうだよ。わたしはずっと、わかってたよ。
澪ちゃんは瞳を閉じてそう呟いた。
「ねぇ唯。誰にも言わない、って約束してくれる?」
「なに? いいよ。澪ちゃんが言うなって言うなら誰にも言わない」
「わたしもさ。好きだったんだ、律のこと」
「なんとなく、そんな気がしてたよ」
「そっか。バレてたか」
傾き始めた午後の太陽が眩しかった。
落葉を終えて裸になった街路樹が高く、雲ひとつない青空に向かって伸びていた。
「ごめん。わたし嫉妬してた。
二人のことが羨ましかったんだ。いい歳して、恥ずかしいよな。
でもこれだけは信じてほしい。
唯にも律にもしあわせになってほしい、って
そう思ってるのは本当だって」
「わかってるよ。そんなこと」
「ごめん」
「はい。ハンカチ」
「…え」
「澪ちゃん。泣いてる」
なーにしてんだか。
いい年こいてオバさんふたり公共の場で泣いちゃって。
やだもう化粧、落ちちゃう。
窓から差し込む光が澪ちゃんの黒髪を照らした。
昔、たわいもないことに怖がってはよく涙を流した女の子がいた。
彼女は大きくなったけど、今も変わらず泣き虫だった。
彼女はとてもやさしい女の子だった。
それはきっと、昔も今もこれからもずっと変わらない。
「律のこと、よろしくな」
そう言った少女の綺麗な黒髪を、わたしはそっとやさしく撫でた。
★★
ピンク色に染まった枝が風に揺れている。
枝から離れた数枚の花びらが、りっちゃんの髪に背中に降りかかった。
その一つをつまみあげ、りっちゃんに見せる。
「りっちゃん。この花の花言葉、知ってる?」
「…知ってる」
「言っとくけどこれ、桜じゃないよ?」
「わかってるよ」
りっちゃんは少し恥ずかしそうに顔を背けた。
遠く、山の向こうが霞んで見える。
春霞、なんていいもんじゃなくてあれは黄砂なんだと、昔澪ちゃんが教えてくれた。
ずれ落ちかけたマスクを鼻にかけながら、稜線を眺める。
あの砂の故郷へ行くんだなぁ、と思うと不思議な気持ちだ。
砂…砂かぁ。
砂といえば。
大学のとき、思い立って鳥取砂丘へ旅行したことを思い出した。
旅番組だったかなんだったかでラクダ見てたんだっけ?
それでラクダに乗りたくなって、レンタカー借りて泊まりに行ったんだ。
目的のラクダを堪能したあと、ながらかな丘上になっているところまで登るとその先に海が見えた。
広がる大海原に興奮したわたしは、大きな砂の坂のてっぺんから海めがけて思いっきり駆け下りた。
坂道は結構急で、駆け出した両足はとまんなくなって、少しでも躊躇すれば足を取られて転んでしまいそうだったから、勢いそのままに走り抜けた。
砂丘に入るとき借りた黒い長靴が、踏み出すたびにがっぽがっぽと珍妙な音を立てる。
一歩一歩足に絡みつく砂を振り払い、前だけを向いて全身で風を切って走る。
目の前には空と海。そのまま空まで飛べそうだった。
無事に坂を下り終えると、そこはもう波打際。
静かに打ち寄せる波。その向こうに水平線が青の濃淡をくっきり分けていた。
水平線の向こうには行ったことのない国があって、そこにはいろんな人がいて、わたし達と同じようにいろんな気持ちを抱えて生きているんだ。
でもそれはずっとずっと遠く、想像もできない世界に思えた。そのときは。
「なぁ唯。おいってば」
りっちゃんに声をかけられてふと我に帰る。
ガラガラとキャリーバッグを引きずる音はいつの間にか止んでいて、立ち止まったりっちゃんがわたしの方をじっと見ていた。
「なーにりっちゃん」
「ひとつお願いがあるんだけど」
「どしたの? 改まっちゃって」
「出発の日だし…ケジメっつーかなんつーか…」
もごもごと口ごもったりっちゃんが頭をかきながら言う。
「中国語の勉強も職探しも炊事も掃除も洗濯もがんばるよ! 中国茶の淹れ方も上手になってみせるよ!
こう見えてやればできるタイプだから! 任せといて!」
「いや…そうじゃなくて」
「あれ? ちがうの? じゃあ…なに?」
「えっと、だな…」
強く風が吹いた。
枝が大きく揺れて、花びらが舞う。
「これからもずっと一緒にいてほしい」
…
……
………
鳥取旅行の話の続き。
坂を降りた後の話。
波打際のわたしが丘の上にいるみんなに手を振ろうと振り向くと、
りっちゃんが坂を転がっていた。
わたしに続いて砂の坂を駆け下りたはずのりっちゃんが、ごろごろごろごろ転がってる。
砂に足を取られたんだ。
風を切るどころじゃない。
まるでマンガみたいにごろごろと前のめりに転びながら坂を下り続けるりっちゃんを見て、
そのあまりのカッコ悪さにこらえきれず、わたしはお腹を抱えて倒れこんだ。
りっちゃんは、全身を隈なく砂まみれ。
つけてたカチューシャもどっか飛んでって、前髪も化粧もめちゃくちゃで、
これぞまさしく砂だるま、になりながら下まで転び終えると、
『長靴がサイズに合わなかったんだよ!』
って真っ赤な顔して叫んでた。
丘を見上げると、三人もお腹を抱えながら倒れてた。
『あのときの律先輩を思い出せば、
この先どんなに辛いことがあっても笑顔で乗り切れられそうです!』
ってあずにゃんは今まで見たことのないくらいさわやかな顔でそう宣言してた。
いや、実に同感。
今はもう、わたし達は別々の道を歩んでいるけれど、
楽しかった思い出があれば、それできっとみんな元気にやっていける。そう思う。
「…おい、唯。お前何笑ってんだよ」
「え? あ、ごめん。なんか言った? 聞いてなかったや」
「……は? マジか? マジで言ってんのか??」
「うん、マジ。ごめんぼーっとしてた。もぅいっかい言って」
「……ヤダ。もう二度と言わない」
「えぇー言ってよぉぉ〜」
呆れ返った表情のりっちゃんはわたしに背を向けて歩き出す。
「ほら、行くぞ! 電車に遅れる!」
「あっ、りっちゃん待ってー!」
ガラガラと音を立てながらキャリーバッグを引いて追いかけると、
りっちゃんの右手の袖を捕まえてわたしは言った。
「我也一様!」
「・・・聞こえてたんじゃねーか」
もう一度振り返ったりっちゃんは真っ赤な顔をしてた。
でもそれはきっと、わたしもおんなじ。
目と目が合うと、わたしの左手をぎゅっと握って、ニッ、と笑った。
わたしもそれを見て、ニッ、と笑った。
桃の花びらが、わたし達を春色に染めていた。
おしまい。
最終更新:2015年11月27日 19:14