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1月15日。
雪はやんでいる。
当たり前だけど今日は平日。律は仕事。
でもちょっと早めに上がってくれるみたい。
うれしいな。待ち合わせは、18時。
雪の通学路を歩く。
3年間、この道をふたりで歩いて通った。
あの頃、毎日のように見慣れた風景が、今はこんなに懐かしい。
つるっ。
うわっ。
周りをキョロキョロ見ていて足元がお留守になっていた。
凍った道に足を滑らせて危うく転ぶところだった。
そういえば昔もこんなことがあったな。
私が滑って転びそうになって、律にしがみつこうとして律まで巻き込んでふたりで転んで…。
思い出し笑いをかみころす。
今はしがみつく相手がいないんだ。転ばないように気をつけなきゃな。
少し早い時間に着いた。
律が来るまでコーヒーを一杯だけ注文して席に着く。
放課後のファーストフード店は女子高生でいっぱいだ。
大きな声で笑い、はしゃぐ彼女たち。
制服の着こなしが自分が高校生だった頃とはちょっと変わっていることに気がついて、時間の流れを感じる。
自分もかつてあの中にいた。
あんなふうに笑っていた。
昨日も今日も明日も…同じような毎日が永遠に続くように思えてならなかった。
「今」が「過去」になるなんて思いもしなかったそんな頃があった。
随分早く着いてしまった。
まだ約束の時間まで30分もある。
ぼんやりと窓の外を見やる。
また少し、雪が降り出していた。
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私に好意の眼差しを向けてくる相手は、異性に限らなかった。
女子高女子大と7年間女の園で暮らしていたから、
所謂同性愛者がいることは知っていた。
けれど、私自身が同性に対して特別な感情を抱いたことはなかったし、
昔からそういうアプローチはなくなかったけれど、丁重にお断りしてきた。
私は外れることが怖かった。
私が恋をする相手は異性でなくてはならなかった。
同性が同性に恋をする…世の中にそういう恋が、愛が、存在するのだと頭で理解していても…私自身が嫌悪を抱いていないとしても…まわりはどうだろう?はたして世の中は許してくれるだろうか?
世界の多数派からこぼれ落ちた存在を許容してくれる場所はあるのだろうか?
あったとしても私はそこにたどり着くことはできるのだろうか?
私は怖かった。
だから、考えることをやめた。
とにかく、深く深く気持ちを心の奥にしまい込んだ。
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そんな私の前に現れたのは高校時代の同級生、佐々木曜子だった。
恥ずかしい思い出を披露すると、高校時代の私にはファンクラブなるものが存在した。
結成に至った理由はここでは明かせない。
元来照れ屋だった私にとって、その存在は黒歴史。
彼女はその一員だった。
彼女が私に憧れの視線を向けていたことは知っていた。
あの日、高校卒業以来初めて会った彼女は、もう立派な大人の女性だった。
あれは偶然の出逢いだったのだろうか?
あの日、直前になって約束をすっぽかされた私は、
ひとりで喫茶店でコーヒーを飲みつつ本を読んでいた。
そんなときたまたま同じ店に入ってきた高校時代のクラスメイトに声をかけられるなんて。
出来過ぎた偶然じゃないだろうか。
最初、彼女のことがわからなかった。
曜子は曖昧な笑顔を見せた私の表情を見て、そのことを悟ったのだろう。
寂しそうに笑い、高校時代にクラスメイトだった佐々木曜子だと名乗った。
「私は後ろ姿を見てすぐに秋山さんだ、ってわかったよ」
「あの頃から素敵だったけど…本当にきれいになったよね」
曜子はそういって笑った。
彼女の笑顔と言葉には、普通の女友達のものとは異なる意味合いが含まれていることを、私は感じ取っていた。
「もし、よかったら…」彼女は言った。「ちょっと映画でも見に行かない?」
どうせ予定はなくなったのだ。私は彼女の申し出を受けた。
映画はありきたりなラブストーリーだった。
映画の登場人物たちは、どうしてこんなに…自然に…「まともな」恋ができるのだろう。私にはわからない。
まったく持って退屈な展開。
眠たくて仕方がなかったけれど、さすがにそれは誘ってくれた曜子に悪い。
うつらうつらしながらも、寝落ちしないように2時間をやり過ごした。
「退屈だった?」
「え?いや、そんなことなかったよ」
どうやら曜子にはバレていたらしい。
「うそ。秋山さん、寝てたじゃない」
「あ…ごめん」
「ううん、いいの。だって私が無理に誘ったんだし。でも意外」
「なにが?」
「だって、秋山さん。こういうラブストーリー好きかなって思ってた」
十年だぞ。
人が変わるには十分すぎる時間だ。
でも、高校時代の私は、いつかこんな映画みたいな恋をするんだって、
当たり前のように信じていた。
「せっかく誘ったのにごめんねー…そうだ、お詫びに晩ご飯おごるよ」
「いいよ、悪いし」
「なにか予定、あった?」
「ないけど…悪いよ」
「じゃあ、割り勘でいいから付き合って。いいでしょ、久しぶりに逢ったんだし」
こんなに積極的な子だったろうか?いや…そもそも私は曜子のことはあまりよく知らなかった。
それに人は変わる。
十年だぞ?
人が変わるには十分すぎる時間だ。
断る理由のなかった私は、曜子に付き合うことにした。
なかなか雰囲気のあるレストランでディナーを済ませると、彼女はちょっと飲み直さないかと私をバーに誘った。
もうこうなったら、最後まで付き合うつもりで私は彼女についていった。
「映画にレストラン、最後はバー。いかにも定番のデートコースね」
「…そうだな」
「相手が私で残念?彼と一緒に来たかった?」
「そんなことないよ。久しぶりに同級生に会えて嬉しい。楽しいよ」
「そう?ありがと。お世辞でも嬉しい。私も秋山さんに逢えて…嬉しい」
曜子は笑った。
彼女は笑うとき、けして私の瞳から目を離さない。
私はいまさらながらこのときに初めて、なんだか急に緊張したように胸の鼓動が早くなるのを感じた。
「顔が赤いよ、秋山さん。大丈夫?」
「うん、大丈夫。そんなに飲んでないから」
「そう?あまり無理、しないでね」
曜子はそういいながら、カウンターの左隣りに座った私の背中をさすってくれた。
その撫で方は、私の体をさわる時の男のそれとよく似ていた。
「でもちょっと残念だな」
「何が?」
「さっきの話。さらっと流されちゃったけど…恋人、いるんだね」
「まあ、ね。もういい年なんだし」
「そうよね、いるわよね。恋人くらい」
私には曜子の意図がよくわかった。
羽虫のように私に寄ってくる男たちは、こんな風に私を口説くことがあったから。
それに気づいた私は、少し意地の悪い質問をしようと考えた。
「佐々木さんは?恋人、いないの?」
「今はね」
「前はいたんだ。どんな人?」
「いいじゃない。そんなこと。もう忘れちゃった。それより秋山さんは?」
「え?なに?」
「…結婚とか…しないの?」
上目遣いをしながら曜子が尋ねる。
「うまくいけばね。でもよくわかんないかな」
「どうして?何か問題でもあるの?」
「いや別に…何もないよ。たぶんうまくいってる」
その時付き合っていた相手は、本を読むことが好きな、のんびりとして穏やかな男だった。
毎日真面目に働き、帰宅して料理を作り、洗濯を欠かさず、休みの日には部屋をきれいに掃除して整理整頓を怠らず、少しの余暇に読書を楽しむ男だった。
ときに、私をアクセサリーのように…ただ美しい女を横に携えて町を歩きたい…そんなくだらない願望を隠すこともない破廉恥な男もいたけれど、彼はそんな男ではなかった。
彼が、顔を真っ赤にして私に愛を告げてくれたことは、私にとっても嬉しい出来事だった。
いろんな男たちが(ときには女たちも)私に言い寄ってきたけれど、彼ほど真剣なまなざしを向けてくれた人はいなかったように思う。
私は素直に嬉しかったのだ。でも。
私は恋をしていなかった。
彼に恋することはできないでいた。
残酷だけれどもそれは真実だった。
彼がそれに気がついていたかどうか、私にはわからない。
けれど、彼は自分が愛されていなくても、
私が側にいてくれさえすればそれだけでよいのだ、と多くを望んでいないようにも見えた。
彼も、私と同じなのかもしれない。
私がそうであるように、彼も都合の悪い真実から目を背けていたのかもしれない。
この女は自分を愛していない、
そして自分は一生愛されることもないのかもしれない、
という疑念を封じ込めて、私と付き合っていくことができる男のように思えた。
彼となら、恋をしなくても自分の「役柄」を全うできるような気がしていた。
ちゃんと次の舞台に上がることが出来るような気がしていた。
彼となら…結婚して出産して子供を育てて…「まともに」暮らしてゆける。普通に。
恋なんて必要ないじゃないか。
私たちは必要以上に恋愛に縛られ過ぎている。
恋なんてしなくたって生きてゆける。
そう、恋をするより「まともに」生きて幸せになる方が、よっぽど大事なんじゃないか…。
恋って、どんなものなんだろう。一体、なんなのだろう。
それがわからないのだとしたら、私にとって大切なのは、「普通」をはみ出さず、「まともに」生きていくことだった。
彼はいつだって私を大切にしてくれた。
酒の付き合いもほどほどに、約束の時間に遅れたこともなく…今日がはじめてだ。
約束を違えたのは。急な仕事って言っていたけれど…。
「どうしたの秋山さん。ぼうっとして」
「ごめん、なんでもない」
「何か悩みでもあるんじゃないの?」
「ないよ、ないない」
「そう?ならいいんだけど…でも秋山さんも結婚かぁー」
「いやまだ決まったわけじゃないから」
「いずれはそのつもりなんでしょ?」
「うん。たぶん…」
「たぶん、って何よ…好きなんでしょ?彼のこと」
なんでこの歳になって、こんなときに上手にごまかすことすらできないのだろう。
私は変なところで自分に正直だった。
答えに詰まって返事の遅れた私の隙を、曜子が見逃すはずはなかった。
「…好きじゃないの?」
「そういうわけじゃないんだけど…」
「そうかしら?秋山さん、自分に嘘ついてるでしょ」
そう言って、曜子はまた私の瞳をじっと見つめた。
私の神経を逆なでした彼女の図々しい物言いに、腹が立って強い口調で言い返す。
「そんなことない。久しぶり会った佐々木さんに何がわかるんだよ」
「興奮しないで、秋山さん」
手をぎゅっと握られる。心臓を鷲掴みにされたみたいだった。
「私にはあなたの考えていることがわかるの、あなたの本当の気持ち」
「何がわかるっていうんだよ!なんでそんなことが言えるんだ!」
「わかるわ。だって私…ずっと澪のこと見てたもの」
曜子はごく自然に…まるで昔からそうしていたかのように、私を下の名前で呼んだ。
「気づいてなかった?
そうよね、あの頃の澪は私のことなんて少しも見てくれなかった。
ずっとあの人のことばかり見てたもの。
でも今は違うわ。
今、私は澪を見てる。
そして澪は私を見てる。
そうね、私なら教えてあげられるわ。
澪も、澪の彼も知らない本当のあなたの気持ち。
私が教えてあげる」
曜子はそう言って、蠱惑的に微笑んだ。
獣を相手に隙を見せてはいけない。
わかっていたはずのに油断した私が悪かった。
今までまとわりついてきた獣(男共)と勝手が違うのは、
相手が同性で旧友だったことだ。
うさぎだと思っていて気を許してしまっていた。
けれど曜子は狼だった。
十年のときを経て、彼女は立派な獣になっていた。
狼は、期を見て牙をむき、私に噛み付いた。
私は振りほどくことができずそれに飲み込まれていった。
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17時55分。律からのメール。
『悪い!残業が長引いて帰れそうにない!もうちょっと待ってもらっていい?』
おい。5分前に送る文面じゃないだろ。
『わかった。でも新幹線の時間があるから、待てるの20時までだぞ』
ブーッブーッ…返信早いな。
『な、なんとかその時間までには…ガンバリマス』
おい。それ、ちょっと待つじゃないだろ。まったく律の奴…
でも高校時代と変わらないやりとりに、私はしあわせを感じていた。
最終更新:2015年01月18日 23:07