終身刑


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死刑賛成派と反対はの対談スレ◆Part25
312 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/17(金) 11:56:36 ID:kvX0Fjit0
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/17(金) 11:56:36 ID:kvX0Fjit0<> >>302, 305

   >他者に人間の命を奪う行為を強制せずに済む。
   >→廃止論者だけに通用する理由。辛くてもやらなくてはならないことはある。

   他者に、命を奪う行為を無理強いするのは、死刑のデメリット。

   >・抑止力は証明なし
   >→死んだ人間が再犯しないことだけは証明あり

   終身刑でどれだけ抑えれるかによる。つまり終身刑囚の再犯を限りなく0に近づけた時、
   有意差が大きく生じないので比較対象に成りうるかということ。

   >・外部圧力は抗うことで、逆に国益を損なう恐れがある。
   >→否定はしないが現実的ではない。

   心の問題として、くみした方が良いのか、抗った方が良いのか扱うのならば、
   どっちとも言えない結果になる。

   >・民主主義:裁判員制度で死刑を出したくないという世論が高まれば死刑廃止もありうる。
   >→否定はしないが可能性は薄いだろう。

   可能性が薄いかどうかは、現時点で判断できないのでは。

   >→政策と個人の倫理を同一視する理論では、
    お金や自由は奪ってもいいのだ、という教育もなされることになる。

   人間の命の扱いまで、政策で扱えることを国民に示すことにもなるが? <>
318 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/17(金) 12:29:47 ID:FfrXayLd0
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/17(金) 12:29:47 ID:FfrXayLd0<> >>312
   >他者に、命を奪う行為を無理強いするのは、死刑のデメリット。
   →他者に、金銭や人生を奪う行為を無理強いするのは、刑罰のデメリット。
    そっちを無視するダブルスタンダードが問題。

   >終身刑でどれだけ抑えれるかによる。つまり終身刑囚の再犯を限りなく0に近づけた時、
   >有意差が大きく生じないので比較対象に成りうるかということ。
   →どの道、終身刑の再犯率が死刑の再犯率を下回ることはないのが問題。
   →「有意差」などと言うが、そこにあるのは人の命。一件であろうとそれを無視するのは廃止論の理念と矛盾する。

   >心の問題として、くみした方が良いのか、抗った方が良いのか扱うのならば、
   >どっちとも言えない結果になる。
   →従う方はそれで良いが、廃止国が圧力を掛ける側となると、廃止論側に矛盾が生じる。
    それを無視するのであれば、自分には甘い理想だということになる。

   >可能性が薄いかどうかは、現時点で判断できないのでは。
   →逆転するほど劇的に世論が高まる気配がない。したがって薄いと判断する。
    廃止論自身が廃止論の足を引っ張っているのも一因。

   >人間の命の扱いまで、政策で扱えることを国民に示すことにもなるが?
   →現在、罰は罪の重さに対応して与えられるものであって、政策と個人の倫理を同一視したものではない。
    また、政策が命の扱いをしてはいけないという合意もない。 <>
350 死刑制度には反対です。 2010/09/17(金) 15:09:14 ID:V5j+Hxsl0
   死刑制度には反対です。<><>2010/09/17(金) 15:09:14 ID:V5j+Hxsl0<> >>335
   >・死刑に代わる刑罰(対案)を言わない
   死刑廃止は、何かに代えるものではなく「廃止するもの」だと思っているので、
   代案という考えはありません。
   まぁ、経過処置的な終身刑とかは良く話題にでますが。
   廃止支持者の考えを納得いきませんか?
   「代えるものではなく廃止するもの」そう考える事がおかしいですか?
   <>
401 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/17(金) 21:51:10 ID:uMiDgR7g0
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/17(金) 21:51:10 ID:uMiDgR7g0<> >>396
   正直良く解らん
   終身刑やどっかの懲役260年みたいな事に否定的なのかな
   それとも、代案を出して死刑廃止ではなく、あくまで民意の盛り上がりのみで
   廃止したいから、取引のようでやだって事なのか
   <>
434 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/18(土) 09:26:46 ID:h142Ux780
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/18(土) 09:26:46 ID:h142Ux780<> 人間に意思決定の自由があるかないかは肯定、否定、中間論があるが私は否定説をとる。
   従って、刑法においては違法(法益侵害)はあろうとも、
   責任(反規範的人格態度に対する道義的非難)という概念は処罰する側からの自己満足の概念であり、
   処罰される側には意思決定の自由がない以上、「殺さないことも選択できたのに、なぜ殺すほうを選択したんだ。」などと言っても無意味。
   そもそも、あの時点での福田には犯罪をしないという脳の情報処理による行動は期待しえなかったのだから。
   それが俺が福田を非難しない理由であり、福田を非難できない以上、非難を理由としての死刑の選択もしない理由だ。
   将来的な改善は福田の持って生まれた人格と今後の福田のあみだくじの線(福田の脳の情報処理)次第だが、
   終身刑導入を持って社会防衛、福田の再犯の可能性は塀の中で完結する。
   例えば、サカキバラは家庭から出て、医療少年院、少年院の生活で改善し、そこで暖かい人との出会いもあり、人格が変わった。
   つまり、あみだくじの線がサカキバラを違う方向へと導いたのだ。
   当然、ここには経済的余裕が必要となるが、死刑囚100人の日本で、一人年300万円としても3億円で足りる。
   日本の国家予算から見ればチリや埃程度の金額。国民一人当たり年間3円の金額。
   感情的に許せないという反論があろうが、上記のとおり、福田に意思決定の選択の余地がなかった以上、
   福田の不幸なあみだくじの因果の流れに同情こそすれ、非難するのは酷だ。
   永山が兄弟は犯罪者にならなかったのに、永山だけが犯罪者になったから不幸な家庭環境は原因とならないとか、
   不幸な家庭環境でもまっとうに生きているから云々という反論もあるが、全く反論になっていない。
   あみだくじの線は一人一人違うし、持って生まれた人格も人間は皆違う。
   あみだくじのスタート地点(生誕時の人格、脳機能)は人によって違うし、
   人間が導かれるあみだくじの線(外部的環境因子)の数は星の数ほどある天文学的な線なのだ。
   君の今の人格、今この瞬間の思考は、遺伝的生来的人格と、生誕後に与えられた情報の連鎖を脳内処理して、今この瞬間の君の思考がある。
   自由意思などありえない。従って、行為後に犯罪者を非難し、刑罰を与えることは犯罪者への意思決定の因子(外部的環境因子)として有効だが、
   行為時の犯罪者を非難することは非難する側の自分勝手な自己満足に過ぎん。
   刑罰が外部的環境因子として与えられた場合に、犯罪者を改善更正させる外部的環境因子として機能するのかという問いがあろうが、
   ある者には機能するであろうし、ある者には機能しないであろう。
   人間の意思(自由意思ではない)決定は、生来的人格(生まれた時点での脳)が
   外部的環境因子(生誕後に脳の意思決定に影響する全ての因子)の影響を受け、人格が形成され、
   それによって形成された意思(脳機能)が外部的環境因子の影響を受け、それによって人格が外部的環境因子の影響を受けの繰り返しである。
   生来的人格と外部的環境因子の数、それによって形成された人格は計測不能、認識不能であるゆえ、
   どの外部的環境因子がどのように影響するかなど明らかにはできない。
   終身刑導入が人間実存の本質から導かれる論理的帰結。 <>
438 反対に反対なのだ 2010/09/18(土) 09:48:15 ID:VRHbA5kX0
   反対に反対なのだ<><>2010/09/18(土) 09:48:15 ID:VRHbA5kX0<> ID:h142Ux780君
   一応目が痛いながらも読んでみたが

   >終身刑導入が人間実存の本質から導かれる論理的帰結。

   人間実存の本質って何?
   君のは「起承結」
   承諾させるために色々と持論展開しているが、何を持って終身刑導入が是だと言うのか。
   我々の意識を転ずるにはムリがあるな。

   さて仕事仕事

   <>
456 廃止派? 2010/09/18(土) 15:40:55 ID:Snc0HQ750
   廃止派?<>sage<>2010/09/18(土) 15:40:55 ID:Snc0HQ750<> 冤罪と死刑存廃の議論とは関係ない理由
   ・冤罪は死刑になるような凶悪犯罪だけに関わらず、他の軽犯罪にも起こり得る問題
   ・冤罪の可能性から死刑廃止の理由にはならず、むしろ冤罪の予防(捜査、裁判、教育など)システムや保障制度を整備すべき
   ・冤罪の疑惑のある事件については法務省は死刑執行を停滞し、再審請求の受理をする。
   ・冤罪で死刑判決を受けずとも無期懲役や終身刑では、むごいことには変わりはないし、両者とも取り返しのつかない点で同じである
   ・冤罪の可能性は残るが、死刑制度は国民が議会により可決した制度であり、公共の福祉または社会制度の維持のためには仕方のないことである
   ・冤罪の可能性のために、疑いようもない凶悪犯罪者を死刑にしないのはおかしい
   (・死刑制度が廃止されれば、冤罪がなくなるというわけではない)
   (・死刑廃止すれば冤罪を起こしてもいいということになり、かえって冤罪を増やしてしまう)
   (・全ての犯罪に冤罪の可能性があるといえるので、全ての犯罪を有罪にはできなくなるのでは?)
   (・冤罪の可能性は残るとしても、それを限りなく0に近づければ統計的に無視できる)
   (・そもそも疑われるような人が悪い)

   これだけかい?これだけなら、冤罪が死刑廃止の根拠の一つにならないとはいいきれないと思うよ。
   「人間が司法を行う以上、間違いは必ず起きる。もし死刑執行後に、冤罪とわかったときどうしようもなくなってしまうだろ。」
   の意見の前に存置派は論点をずらすこと以外に、反論できるうまい言葉が見当たらないと思うよ。 <>
508 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/18(土) 17:59:21 ID:h142Ux780
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/18(土) 17:59:21 ID:h142Ux780<> 現実に今の裁判は道義的責任論を前提に判決文を裁判官は書いているし、
   自由意思を前提に加害者を非難しているのが社会の多数だろが。
   全説を議論のまな板いに載せて、考えている国民など僅少だろが。
   自由意思論を取るからこそ道義的責任論を取れるのであり、
   そこから行為者人格を非難して、極刑として死刑にしやすい思考の流れになる。
   自由意思否定論をとれば社会的責任論、終身刑で目的は達成しやすいという思考の流れに傾きやすい。

   そもそも死刑制度が現状ある以上、
   論じるべきは死刑廃止論であり、死刑肯定論ではない。
   終身刑論が完全否定されていない現状で、死刑があること自体が誤りなのだ。
   刑罰として死刑が終身刑より重いとすれば、
   終身刑論が全否定されなければ、死刑廃止、終身刑導入であるべきなのだ。
   これは人権制限は最小限度でなければ何らないという基本的人権概念から導かれよう。
   そもそも、生きるという権利は自然権、前国家的権利である。
   ゆえに、死刑を廃止し、終身刑にし、またある場合には無期懲役にし、
   仮に出所した者がいたら、本村氏過去に主張の如く、おのれの手で殺させ、本村氏を別途殺人罪で起訴すればいいのだ。
   しかる後、自由意思の存在の証明後に、最大限の道義的責任の死刑という刑罰、場合によってはを作ればよいのだ。
   終身刑導入後に終身刑囚を事後的に死刑にすることは、現行刑訴法では無理だが、法改正すればできないことはない。
   なぜなら、死刑論者が後で死刑廃止論に転向したいときに、
   おのれが死刑肯定論に立って死刑にしてしまった者に対する贖罪の重荷を背負うこととなるのだ。
   それは、足利事件の冤罪に対する贖罪とまったく同じだ。
   その意味で、
   死刑肯定論者は死刑廃止論を批判することのみをするべきであり、
   死刑肯定論を論じるべきはないのだ。
   本村氏のように死刑肯定論を論じ、行脚し、テレビでも主張する男は、
   今後の人生において、考えが変わって、 死刑廃止論に転向したくともできない、
   なぜなら、面子、自己同一性が崩壊し、PDSよろしく、脳神経が機能障害を起こし、人格が崩壊してしまうからな。
   ここにいる死刑肯定論者も同じ。
   脳神経の機能障害を恐れ、自由意思が証明できないにもかかわらず、頑なまでに死刑論にこだわるのだ。
   引くに引けなくなってしまうのだ。
   それはブログが荒れた足利事件の県警の刑事とまったく同じだ。
   その意味で本村氏の行動は思慮分別に欠けている。
   論ずべきは死刑肯定論ではなく、死刑廃止論を否定することのみなのだ。
   本村氏は死刑肯定論を論じたが、死刑否定論を全て論破することができずに終わった。
   死刑廃止論を論破できなければ、終身刑論に与するしか選択肢はないのだ。
   本村氏の最後の拠り所は被害者感情のみとなる。
   逆は真ではない、なぜなら、一度死刑にしたものを生き返らせることは不可能なのだ。 <>
510 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/18(土) 18:03:21 ID:h142Ux780
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/18(土) 18:03:21 ID:h142Ux780<> 人間は精子と卵子との結合によって、生物となり、
   脳機能が生じる。これは自分の自由意思で生まれたのではなく、
   生まれさせられたに過ぎない。
   犯罪者の本質は脳、脳以外のなにものでもない。
   その脳は脳を持っている本人の自由意思で生じたものではなく、
   精子と卵子との結合によって、自然に生じさせられたもの。
   脳の所有者たる犯罪者には当該脳を生じさせた責任はない。
   脳の生来的特質+外部的環境因子によって人間行動が生じる。
   この過程に自由意思の介在する余地はない、ゼロ、nothingだ。
   ゆえに、
   加害者たる脳の所有者の人権を保障するのは当然の事理。
   加害者たる脳の所有者は生来的に持たされた脳と外部的環境因子によって
   必然的に人を殺しただけの話。
   被害者の人権が保障されるのは当たり前の話。
   議論すべきは加害者の人権をどこまで保障するか、逆に言うと、どこまで制限するか。
   そして、おのれの選択によって脳を持ち、外部的環境因子を得たわけではない以上、
   社会的責任として隔離される、つまりは終身刑にされればそれですむ話だ。
   それを超えて死刑にするのは加害者の人権無視もはななだしい。 <>
514 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/18(土) 18:10:06 ID:h142Ux780
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/18(土) 18:10:06 ID:h142Ux780<> >>511 責任は取らせる、
   だがそれは自由意志を前提とした道義的責任(死刑)ではなく、
   自由意志否定を前提とした社会的責任(終身刑)。 <>
520 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/18(土) 18:17:31 ID:h142Ux780
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/18(土) 18:17:31 ID:h142Ux780<> 現状の「被害者遺族が死刑を望んでいるから死刑にする」という被害者感情、
   これ自体が被害者は死んでおる以上、被害者遺族は2次的被害者に過ぎないが、
   これを肯定したとして、
   検察、裁判所のあり方として、被害者感情をその理由とするならば、
   被害者遺族が死刑を望んでいるか否かで死刑判決を個別基準で出すこととなる。
   仮に100人を殺した殺人者がいたとしても、
   偶然、被害者遺族が100人とも死刑を求めないならば、
   死刑にしない判決を出せるか、出せやしないのだ。
   ならば、応報刑論を持ち出すしかない。
   被害者感情を理由としての死刑は、
   1人を殺しても死刑にできることもあれば、10人を殺しても死刑にならないこともありうる。
   まさに、
   被害者遺族の感情次第で判決がことなるわけだ。
   運悪く(?)本村氏の親族を殺せば死刑、
   運よく死刑廃止論者の親族を殺せば何人殺しても終身刑。
   これが論理というものだ。 <>
529 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/18(土) 18:30:25 ID:h142Ux780
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/18(土) 18:30:25 ID:h142Ux780<> 喜怒哀楽の感情、思想、すべて、個々人の生成するものなり。
   関連した話題だが、生成変形文法理論という言語理論がある。
   人間はいかにして言語を習得するか。それまでは生誕後の周囲の人物の言語を真似て文型や文法理論を習得すると考えられていた。
   だが、子供は明らかに教わっていない文型や修飾構造の文を生成することがわかった。
   そこで、生まれた時点から脳内に言語生成構造の機能が備わっておるという理論が提示された。
   人の思考も今まで教わったものを切った貼ったするだけでなく、時として、独創的なものを創造する。
   だが、それとて、自由意思ではなく、脳のシノプスの電気信号の接触による生来的脳と生誕後に習得した情報との生産物なのであろう。
   自由意思否定論に接すると、人間が空しくなる気分なのかもしらんが、何もそんな考えに陥る必要はない。
   当方はそういう意味においては人間も機械と同じだと考えておるが、だが、人間は人間だ、
   だから、面白いし、また悲しい存在なのだ。
   自由意思否定論に接すれば、最初は面食らう。
   意思というものを子供の頃から教わり、それを自由意思と同義に思っていた人間が、突然、自由意思否定論に出会えば、
   強い拒絶反応を起こす者が出るのもそれは当然の脳の反応であろう。
   当方も最初は自由意思の否定という概念がピンとこなかった。
   また、自我意識の強いもの、今まで自分で生きてきた、自分の力でがんばってきたという意識の強いものほど自由意思は否定したがる傾向にあると思う。
   当方もまたそうであった。
   だが、いろいろな人と出会い、多種多様な人間に触れ、視野が広がるにつれ、人というものは色々なものを背負って生きているのだと実感しておる。
   本村氏もまだ若いときに妻子を殺されたので、そこまで人にやさしくなるだけの人間に対する理解を求めるほうが酷というものだとも当方は思っておる。
   もっとも、あくまでも当方は自由意思否定論だが、本村氏には同情する、福田にも。
   自由意思否定論に立つと、犯罪者天国、無責任主義になるかの誤解は誤解なり。
   自由意思否定を前提に社会的防衛のため、そして、そのような意思(自由意思ではない!)改造のための外部的環境因子として、
   そしてまた、社会防衛のためにも社会的責任は取ってもらう。
   つまりは、終身刑導入だ。
   <>
541 廃止派? 2010/09/18(土) 19:02:25 ID:Snc0HQ750
   廃止派?<>sage<>2010/09/18(土) 19:02:25 ID:Snc0HQ750<> >>536
   直接的に命を奪うということと、獄中死による死を 結果的に殺した もしくは 死亡した点で同じと言いたいのかい。
   それでは、いつまでも論議が進まないのだよ。
   死刑の代替刑でといわれる終身刑も、死刑囚が獄中死まで待つということだからな。

   死刑が執行されれば、命は戻らないばかりか、直接的な名誉の回復はできなくなると同じことを言わせるなよ
   必ずではないだろうが、死刑以外なら直接的な名誉の回復はできるだろう。 <>
581 存置派 2010/09/18(土) 22:06:44 ID:YE5XMa960
   存置派<><>2010/09/18(土) 22:06:44 ID:YE5XMa960<> >>567
   君に是非考慮して欲しいことが
   「廃止状態の方がコストが安い」と主張する廃止派の中には
   「死刑にする場合、非常に慎重な裁判が求められる」という点を挙げた者がいたことだ。
   …言外に「終身刑なら(死刑に比べ)裁判・捜査がいい加減でも良い」ということだよ。

   終身刑化、即、裁判・捜査の杜撰化とは言わないが、
   同時に(よりによって廃止派から提示された)その可能性は否定できないと思うが。
   <>
599 存置派 2010/09/18(土) 22:59:32 ID:YE5XMa960
   存置派<><>2010/09/18(土) 22:59:32 ID:YE5XMa960<> >>596
   いや、コストじゃなく
   「廃止状態の方が冤罪起きやすくなるかもよ?」ってこと。

   あと、君は冤罪死刑に感情を移入しているようだが、例えばその感受性を応用して
   「冤罪で、長い間牢獄に繋がれ、終身刑囚として数多くの自由を規制され、
    牢獄の中での人生に何の楽しみも見出せず、死ぬまで名誉が回復されることもなく、
    冷たいベッドの上で、ある冬の朝、病死した男」とかを想像してみてくれるかな?

   多分、他の人の言ってることの何割かが分かると思う。 <>
607 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/18(土) 23:34:21 ID:y+kH7B8di
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<><>2010/09/18(土) 23:34:21 ID:y+kH7B8di<> アムネスティ声明によると、
   死刑で犯罪の背景は解決されない。
   国は国民の命を奪ってはいけない。
   残虐な行為として十数ヶ国でしか行われていない。
   死刑が終身刑より抑止力がある証拠がない。
   だけ見ると、廃止派が有利に思えるのに、
   なんでここのスレでは存置派が有利に見えるんだろう。
   日本政府は死刑に頼らない刑事司法制度を構築しろとまでいってるよ。 <>
611 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/18(土) 23:45:27 ID:tiejhjKDO
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<><>2010/09/18(土) 23:45:27 ID:tiejhjKDO<> >>607
   >死刑が終身刑より抑止力がある証拠がない。

   例えばこの一文、何故そういう結論になったか解る?
   アムネスティは、廃止を謳ってる団体だ。
   そういう奴らが、「死刑が終身刑より抑止力がある」という主張を覆す為のデータを集めて「覆せなかった」。
   「証拠が無い」ってのは有り体に言えばそういう事で、突き詰めると、データは「死刑が終身刑より抑止力がある」という理論を肯定する方向を指し示す。

   大きな団体が、主義をもって活動しているのに、その主義をデータや事実によって「肯定出来ない」。この時点で、死刑廃止論者側、アムネスティに有利に見せかけてあるのは所詮ハリボテって事だ。 <>
622 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/19(日) 02:59:07 ID:mvANKTb70
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/19(日) 02:59:07 ID:mvANKTb70<> 「なんで死刑にしてはいけないんだ」ではなく、
   「なんで死刑にする必要があるんだ」ということである。
   後期高齢者医療制度、なんで高齢者を姥捨て山に捨ててはいけないんだではなく、姥捨て山に捨てる必要があるのかと同様に、
   生活保護(貧困者保護)、身体障害者保護、子育て保護、派遣労働者、非正社員保護、男女同権、
   すべては、弱者保護のイデオロギー、主義だろ。
   被害者保護は当たり前。
   論じるべきは加害者保護、加害者の脳を脳神経科学からどう考えるかだろ。
   脳神経科学、サイエンスから自由意思否定、社会的責任論、道義的責任否定となるわけだろ。
   社会的責任とすれば、そのような脳を持ったゆえに、
   脳以外に骨、肺、心臓、手足胴体といったものを持つ個体としての人間を殺す必要はあるのかということだろ。
   自由意思のない犯罪者は
   身体障害者、女、貧乏人、子持ちの主婦、子供、貧困労働者同様に保護されるべきというのと同列に、
   保護論が主義として論じられるべきだろ。
   竹中小泉アメリカ的な新自由主義、徹底した自由競争主義が死刑肯定主義なのであって、
   社会主義、福祉主義、平等主義に立てば、
   サイエンスとしての脳神経科学から自由意思否定論にたてば
   主義としての死刑廃止主義、終身刑主義というイデオロギーになるわけだ。
   選挙同様、サイエンスを前提に最後は主義の争い、
   新自由主義、徹底した競争主義が死刑主義論者であって、
   社会主義、福祉主義、平等主義が終身刑主義となるのである。 <>
628 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/19(日) 08:36:35 ID:mvANKTb70
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/19(日) 08:36:35 ID:mvANKTb70<> 自由意思否定論、肯定論はサイエンス、科学の問題。
   自由意思否定論→社会的責任論
   自由意思肯定論→道義的責任論
   主義、イデオロギーの問題ではない。

   主義としての死刑肯定論、廃止論、終身刑論は
   イデオロギーの問題、サイエンスの世界ではない。
   それは自民党、民主党、社民党、共産党などの政治と同じ思想の自由の問題。

   自由意思肯定論、否定論の議論こそが責任論を論じる際の
   サイエンス、科学たりうるもの。
   イデオロギー論として死刑論を論じるのみでは思想の自由の問題。
   脳科学者に論じさせることが肝要なり。 <>
631 存置派 2010/09/19(日) 09:31:05 ID:SEIcglJn0
   存置派<><>2010/09/19(日) 09:31:05 ID:SEIcglJn0<> >>607
   >アムネスティ声明によると、死刑で犯罪の背景は解決されない
   →廃止しても解決しない。社会福祉政策と刑罰は無関係

   >国は国民の命を奪ってはいけない。
   →国は、国民のために、一部の国民の命を奪うことを許されてます。

   >残虐な行為として十数ヶ国でしか行われていない。
   →EUとその旧植民地を抜いて数えてみ。偉いことなるから。

   >死刑が終身刑より抑止力がある証拠がない。
   →抑止力があるといえない証拠もない。
   …文系なら「ある調査やリポートで、自分に有利な結論を出せなかった」っていうのが
   どれだけ絶望的なことなのか、よく分かると思う。 <>
651 反対に反対なのだ 2010/09/19(日) 18:38:09 ID:5xpZGWIl0
   反対に反対なのだ<><>2010/09/19(日) 18:38:09 ID:5xpZGWIl0<> >>634

   > 死刑執行後に、冤罪と分かったとき、どのような保障制度でもその命はもどらないし、直接的な名誉の回復もない。
   死刑以外のの冤罪事件と異なり、死刑冤罪では、国家が強制的に寿命を終わらせ、直接的に殺してしまうからだ

   死刑に限定した場合、命は戻らないが「名誉の回復」は可能だ・・・あくまで他者から見た視点だが。
   それでは他の懲役刑で考えてみよう。

   無期懲役や終身刑の場合、失われた当事者の得られたであろう「時間」は戻らない。
   名誉の回復が本人に帰属されてもいかほどの満足感であろうか?

   君は命の部分だけ特別扱いをして論理形成しているが
   >絶望、無念、怒りは如何ほどのものであろうか。

   この定義を「命の重さ」>「時間の重さ」に置いている。
   たしかに単純に考えれば命なんだが、その定義を自己の定規で当てはめることは不可能だと前レスで書いたはずだ。

   そこの見直しをしてからロジックを形成した方がいいだろうね。 <>
763 反対に反対なのだ 2010/09/20(月) 21:04:01 ID:oIvqhvy70
   反対に反対なのだ<><>2010/09/20(月) 21:04:01 ID:oIvqhvy70<> >>755

   いや、だから他の国の価値観を比較することにムリがあると言ってるよね過去レスの数々で。

   禁固何百年の思想が近代的合理性というなら、それこそエセヒューマニズムだろう。
   国民の理解を得る為に「終身刑」という刑罰(一生出てこれないから安心)を機械的に刑罰に当てはめた結果であって
   これが合理的だと俺は思えない。(茶番であるともいえる)


   <>
832 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/21(火) 00:08:11 ID:R55xz+ac0
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/21(火) 00:08:11 ID:R55xz+ac0<> 差別意識、排除意識、これは人間の脳の自己防衛本能から生じる。
   差別、排除の意識が死刑を生む。
   日本の場合、農民中心の共同体村国家、江戸幕府の長い統治、戦争時の人権制限の激しい統治、
   戦後の高度成長期の製造業を主体とした組織構造。
   これらが自由主義、個人の尊厳に制限的に働いた。
   政財官の村的談合システムもこの現れである。
   死刑を好むものは、被害者遺族が感情的に死刑を求める本村原理主義、被害者感情絶対主義を別にすれば、
   自由主義、個人の尊厳という憲法の基本概念の回路が脳内でできていないことに起因する。
   法律家に死刑廃止論者が多いのは、憲法を徹底的に学び、自由主義、個人の尊厳を叩き込まれ、
   また、刑法を学び、自由意思否定論(社会的責任論)に対しても理解があるからである、
   行為無価値、要するに行為者を道義的非難する道義的責任論が主体であったことも日本的文化構造に起因する。
   とはいえ、日本の法律家、検察官、裁判官は論理としては道義的責任論に立っている者が多いが、
   その矛盾は充分理解しておるのであり、
   明治大正戦前教育を受けた者はその文化的背景から道義的責任論にたちやすいが、
   科学が進歩し、脳に対する研究の進んだ今日、社会的責任論が主流となる環境は整っておる。、
   いわゆる責任論において、社会的責任論ではなく、道義的責任論が主流となった理由は
   国民の基本的人権に関する意識がそこまで高くなかったゆえである。
   個人の尊厳、自由意思否定論、社会的責任論、これらの概念が根底にない者はそもそも死刑廃止論を理解する能力はないのである。
   犯罪者の脳というものを尊重しつつ、社会防衛を図るには、終身刑をもって足りる。
   国民の人権意識、人間の脳に対する理解を学校教育でより進める必要がある。 <>
834 傍聴席@名無しさんでいっぱい 2010/09/21(火) 00:13:44 ID:R55xz+ac0
   傍聴席@名無しさんでいっぱい<>sage<>2010/09/21(火) 00:13:44 ID:R55xz+ac0<> 後期高齢者医療制度、なんで高齢者を姥捨て山に捨ててはいけないんだではなく、姥捨て山に捨てる必要があるのかと同様に、
   男女平等、雇用機会均等法、生活保護(貧困者保護)、身体障害者保護、子育て保護、派遣労働者、非正社員保護、
   これらは平等主義を前提とした弱者保護のイデオロギー、主義である。
   これらと同列に死刑廃止がある。
   被害者保護は当たり前。
   論じるべきは加害者保護、加害者の脳を脳神経科学からどう考えるかである。
   脳神経科学、サイエンスから自由意思否定、社会的責任論、道義的責任否定となるわけだろ。
   社会的責任とすれば、そのような脳を持ったゆえに、
   脳以外に骨、肺、心臓、手足胴体といったものを持つ個体としての人間を殺す必要はあるのかということだろ。
   自由意思のない犯罪者は、
   身体障害者、女、貧乏人、子持ちの主婦、子供、貧困労働者同様に保護されるべきというのと同列に、
   保護論が主義として論じられるべきである。
   竹中小泉アメリカ的な新自由主義、徹底した自由競争主義が死刑肯定主義なのであって、
   社会主義、福祉主義、平等主義に立てば、
   サイエンスとしての脳神経科学から自由意思否定論にたてば、
   主義としての死刑廃止主義、終身刑主義というイデオロギーになる。
   選挙同様、サイエンスを前提に最後は主義の争い、
   新自由主義、徹底した競争主義と同列な主張が死刑主義論者であって、
   社会主義、福祉主義、平等主義と同列な主張が終身刑主義となるわけである。
   <>
847 838 2010/09/21(火) 00:39:21 ID:R55xz+ac0
   838<>sage<>2010/09/21(火) 00:39:21 ID:R55xz+ac0<> 人間に意思決定の自由があるかないかは肯定、否定、中間論があるが私は否定説をとる。
   従って、刑法においては違法(法益侵害)はあろうとも、
   責任(反規範的人格態度に対する道義的非難)という概念は処罰する側からの自己満足の概念であり、
   処罰される側には意思決定の自由がない以上、「殺さないことも選択できたのに、なぜ殺すほうを選択したんだ。」などと言っても無意味。
   そもそも、あの時点での福田には犯罪をしないという脳の情報処理による行動は期待しえなかったのだから。
   それが俺が福田を非難しない理由であり、福田を非難できない以上、非難を理由としての死刑の選択もしない理由だ。
   将来的な改善は福田の持って生まれた人格と今後の福田のあみだくじの線(福田の脳の情報処理)次第だが、終身刑導入を持って社会防衛、福田の再犯の可能性は塀の中で完結する。
   例えば、サカキバラは家庭から出て、医療少年院、少年院の生活で改善し、そこで暖かい人との出会いもあり、人格が変わった。つまり、あみだくじの線がサカキバラを違う方向へと導いたのだ。
   当然、ここには経済的余裕が必要となるが、死刑囚100人の日本で、一人年300万円としても3億円で足りる。日本の国家予算から見ればチリや埃程度の金額。国民一人当たり年間3円の金額。
   感情的に許せないという反論があろうが、上記のとおり、福田に意思決定の選択の余地がなかった以上、福田の不幸なあみだくじの因果の流れに同情こそすれ、非難するのは酷だ。
   永山が兄弟は犯罪者にならなかったのに、永山だけが犯罪者になったから不幸な家庭環境は原因とならないとか、不幸な家庭環境でもまっとうに生きているから云々という反論もあるが、全く反論になっていない。
   <>
848 838 2010/09/21(火) 00:40:18 ID:R55xz+ac0
   838<>sage<>2010/09/21(火) 00:40:18 ID:R55xz+ac0<> あみだくじの線は一人一人違うし、持って生まれた人格も人間は皆違う。
   あみだくじのスタート地点(生誕時の人格、脳機能)は人によって違うし、
   人間が導かれるあみだくじの線(外部的環境因子)の数は星の数ほどある天文学的な線なのだ。君の今の人格、今この瞬間の思考は、遺伝的生来的人格と、生誕後に与えられた情報の連鎖を脳内処理して、今この瞬間の君の思考がある。
   自由意思などありえない。従って、行為後に犯罪者を非難し、刑罰を与えることは犯罪者への意思決定の因子(外部的環境因子)として有効だが、
   行為時の犯罪者を非難することは非難する側の自分勝手な自己満足に過ぎん。
   刑罰が外部的環境因子として与えられた場合に、犯罪者を改善更正させる外部的環境因子として機能するのかという問いがあろうが、
   ある者には機能するであろうし、ある者には機能しないであろう。
   人間の意思(自由意思ではない)決定は、生来的人格(生まれた時点での脳)が外部的環境因子(生誕後に脳の意思決定に影響する全ての因子)の影響を受け、人格が形成され、
   それによって形成された意思(脳機能)が外部的環境因子の影響を受け、それによって人格が外部的環境因子の影響を受けの繰り返しである。
   生来的人格と外部的環境因子の数、それによって形成された人格は計測不能、認識不能であるゆえ、どの外部的環境因子がどのように影響するかなど明らかにはできない。
   終身刑導入が帰結。 <>
872 838 2010/09/21(火) 04:40:42 ID:R55xz+ac0
   838<>sage<>2010/09/21(火) 04:40:42 ID:R55xz+ac0<> そもそも死刑制度が現状ある以上、
   論じるべきは死刑廃止論であり、死刑肯定論ではない。
   終身刑論が完全否定されていない現状で、死刑があること自体が誤りなのだ。
   刑罰として死刑が終身刑より重いとすれば、
   終身刑論が全否定されなければ、死刑廃止、終身刑導入であるべきなのだ。
   これは人権制限は最小限度でなければ何らないという基本的人権概念から導かれよう。
   そもそも、生きるという権利は自然権、前国家的権利である。
   ゆえに、死刑を廃止し、終身刑にし、またある場合には無期懲役にし、
   仮に出所した者がいたら、本村氏過去に主張の如く、おのれの手で殺させ、本村氏を別途殺人罪で起訴すればいいのだ。
   しかる後、自由意思の存在の証明後に、最大限の道義的責任の死刑という刑罰、場合によってはを作ればよいのだ。
   終身刑導入後に終身刑囚を事後的に死刑にすることは、現行刑訴法では無理だが、法改正すればできないことはない。
   なぜなら、死刑論者が後で死刑廃止論に転向したいときに、
   おのれが死刑肯定論に立って死刑にしてしまった者に対する贖罪の重荷を背負うこととなるのだ。
   それは、足利事件の冤罪に対する贖罪とまったく同じだ。
   その意味で、
   死刑肯定論者は死刑廃止論を批判することのみをするべきであり、
   死刑肯定論を論じるべきはないのだ。
   本村氏のように死刑肯定論を論じ、行脚し、テレビでも主張する男は、
   今後の人生において、考えが変わって、 死刑廃止論に転向したくともできない、
   なぜなら、面子、自己同一性が崩壊し、PDSよろしく、脳神経が機能障害を起こし、人格が崩壊してしまうからな。
   ここにいる死刑肯定論者も同じ。
   脳神経の機能障害を恐れ、自由意思が証明できないにもかかわらず、頑なまでに死刑論にこだわるのだ。
   引くに引けなくなってしまうのだ。
   それはブログが荒れた足利事件の県警の刑事とまったく同じだ。
   その意味で本村氏の行動は思慮分別に欠けている。
   論ずべきは死刑肯定論ではなく、死刑廃止論を否定することのみなのだ。
   本村氏は死刑肯定論を論じたが、死刑否定論を全て論破することができずに終わった。
   死刑廃止論を論破できなければ、終身刑論に与するしか選択肢はないのだ。
   本村氏の最後の拠り所は被害者感情のみとなる。
   逆は真ではない、なぜなら、一度死刑にしたものを生き返らせることは不可能なのだ。 <>
876 838 2010/09/21(火) 05:18:14 ID:R55xz+ac0
   838<>sage<>2010/09/21(火) 05:18:14 ID:R55xz+ac0<> 人は殺人者と無関係に生きることはできない。
   殺人者と出会いたくなければ無人島に住むしかない。
   人間いるところに殺人者あり。
   人を殺すも、殺されるも、人間社会の必然なり。
   そもそも、このスレにいる死刑論者の脳は転向する脳ではない。
   それは殺人者が殺人をするのと同じく必然の世界なり。
   ゆえに、このスレは各説に立つ各自が思考のウォーミングアップをする場なり。
   殺人者が殺人を犯すのと同様に、
   意思決定の自由のない死刑論者はその自由のない意思によって死刑に固執する脳に支配されておる。
   従って、このスレの死刑論者は決して転向をすることがないであろう。
   それはまた、彼を支配する脳が頑なに転向することを拒むのは、
   終身刑論者が死刑論者に転向することよりも強い脳の抵抗に支配される。
   脳が強い拒否反応を示す。
   自由意思のない脳の支配からは誰も逃れられない。
   死刑存廃の決着は
   いまだ死刑存廃に関して詰めた思考をしたことのない人間、
   思考がぐらついている人間に、
   全主張を提示し、ニュートラルな人間、ぐらついている人間を説得し、
   はっきりとした立場をとらせることにある。
   そのために叩く、対立した説を叩く、論理をもって。
   頑なまでに抵抗するであろうが。
   かなりの部分は論理の問題。
   最後の選択は純粋思弁的論理ではなく、主義の問題。
   論はサイエンス・論理の世界なり、主義は価値観の世界なり。
   人間に自由意思がなく、自由意思のない脳に支配されておるのはサイエンスの世界なり。
   自由意思否定論、ゆえに社会的責任論、復讐権としては終身刑を与える主義、
   復讐権として死刑を認めるか、終身刑にするかは人間観の価値観による判断なり。
   どちらの選択もありえよう、あとは国民の判断なり。
   当方、あくまでも自由意思否定論、自由意思のない殺人者の脳を生かす道を選択す。
   自由意思否定論はサイエンス、科学の世界なり。
   死刑論はイデオロギー、主義主張の世界なり。
   選挙同様、100%の国民が同一政党に投票することはなかりけり。 <>