放課後。姫神は寮への道を一人で歩いていた。上条は補習中だ。特にその予定はなかったのだが、小萌先生が名指しで呼び出したので、避けようもなくこってりと絞られているのだろう。どうせいつかは受ける補習だった。小萌先生がそんなことをした理由も姫神は分かっている。姫神には、小萌先生が早く帰れと言ったからだ。――――シスターちゃんが上条ちゃんのおうちで待ってますから。特に知り合いでもない男子生徒が、姫神を振り返る。男子寮の側に女子生徒がいるのだ。上条の名は知らなくとも、姫神の彼氏にやっかみくらいは感じているのかもしれない。エレベータの壁に貼られた鏡で、軽く服を調える。小萌先生は何も教えてくれなかった。インデックスが折れてくれるのか、それともはっきりと敵対関係になると宣言されるのか。万が一のときのために、隙だけは見せられなかった。7階にたどり着いて、上条の部屋のほうに歩き出す。慣れるほどにはまだ足繁く通ってはいない、上条の部屋。大してエレベータから離れてもいないそこにたどり着くと、「あ、あいさ……」玄関前に座り込んで猫と戯れる、インデックスの姿があった。「こんにちは」「うん、こんにちは」ぎこちない挨拶がインデックスから返ってきた。いきなり喧嘩腰で罵りあうようなことにはならないらしい。それに少し安堵する。「ねえインデックス。今日は。あなたが私を呼び出したんだよね?」「……うん。そうだよ。あいさと、話がしたかったから」目線が互いに真正面でぶつかった。今日自分を呼び出した意図は、読み取れなかった。「とうまに鍵もらってるから。中で話しよう」「いいよ」チクリと劣等感を感じて、すぐさま考え直す。同居しているのだからむしろ鍵を持っていて当然なのだ。それは、自分とインデックスのどちらが上条に大切に想われているかの差ではない。事実そういうことを気にしていないのか、インデックスはもったいぶらずにすぐ鍵を開けた。「ただいま」「お邪魔します」その掛け声の差に敏感なのは、自分が意識過剰なだけだとは思う。「あいさ、お茶飲む?」「え。いいよ。今日は。あなたと話をしに来たんだから」「そっか。あ、座って」「うん……」テーブルを挟んで、向かい合わせに座る。インデックスを見つめると、何かを言うのを躊躇うように、視線をあちこちに揺らした。姫神は急かすことなく、じっと待った。インデックスの出方を窺いたかったからだ。しばしの時間を置いて、インデックスが修道服の膝のあたりをきゅっと握り締めて、口を開いた。「あいさ。その……ごめんなさい」「え?」「一昨日。出て行けなんて言っちゃって、ごめんなさい」「ああ……それのことだったんだ。別にいいよ。怒るとかそういうつもりはないから」「怒ってないの?」「だって。どうしてあんなことを言ったのかのほうが。今は大事でしょ?」「……」言い方をきつくしたつもりはなかった。だがインデックスは辛そうに、目を逸らした。「こんな言い方したら一方的だってこもえにも言われたけど、私にはあいさがとうまを盗っちゃう、って。そう思っちゃった」とる、という響きに盗るという字を当てるべき、そういうニュアンスの「とる」だったことに姫神は気づいていた。当麻君はあなたのものじゃなかったよね、と確認してやりたい気持ちを抑える。……それは上条を盗られそうな、自分もそういう危機感を感じていることの表れだからだ。それではインデックスの言い方が一方的なのと同じだった。「別に。盗るつもりなんてないよ」「え……?」「もしあなたが当麻君の恋人じゃないのなら。私はあなたの居場所を盗ったりはしない」暗に確認をする。お前は上条の何なのか、と。それはこの間、追い出されたときには聞かせてもらえなかった答え。さらさらと、インデックスの肩から髪が零れ落ちる。深くうつむいたせいで姫神からは表情が見えなかった。肩が震えるように上下し始める。その意味が分かっていながら、姫神は答えを催促する沈黙を、頑なに守った。「……っく。わた、しは」「……」「とうまの、家族、いもうと……だよ」罪悪感が姫神の心の中を広がっていく。自分が勝利を確信して優越感を覚えたのに気づいたからだ。「それで。いいの?」「いいんだよ。仕方、ないもん」「どうして。仕方ないって思うの?」追及の手を緩めない自分が嫌だった。浅ましい。でも、止められない。だって、浅ましいなんて思ってる部分は心の表層でしかなくて、自分の本音はまさに行動の通りなのだ。「だって! とうまが彼女として好きなのは、あいさ……だもん。私じゃ、ないから」それはどうしようもなく、事実を認める、敗北宣言だった。上条が好きな女の子が、例えばあの常盤台の子だったりしたら、自分は何をしただろう?告白しただろうか、横から奪うこともいとわずに、それをしただろうか。多分答えは否。インデックスが身を引こうとしている理由は、そう考えてみれば分かりやすかった。――――自分の好きな人が一番好きなのが、自分じゃないから。「私が。当麻君と一緒にいてもいいの?」「……だって、とうまがそうしたいんだったら私なんかに止める資格はないもん」「……それは。そうだね」一般論として、確かにそうだった。「でも、あいさ」「何?」「とうまに抱きついても、いいよね?」「……うん」この年になって普通とはいえないかもしれないが、インデックスがスキンシップを好む性格なのは知っている。恋人らしい雰囲気なしに、上条とじゃれあっているところを見たことは何度もある。だから、それは許すべきだと思った。「とうまによく怒られるけど、私、噛み癖があるんだ。それも、止めたくない」「別に。いいよ。でもね」涙で僅かに赤く腫れた目を覗き込む。決して苛めたいわけではない。ただ、どうしても許せないところに、線引きはするつもりだった。「キスは駄目。やっているのかどうかは知らないけど、一緒にお風呂も一緒に寝るのも駄目」「しないよ。……どれも全部、とうまとしたことないもん」なあんだ、よかった、と安堵する自分を自覚しながら、姫神はそっけなく「そっか」と呟いた。陰鬱とした気持ちを打ち払うためだろうか、あーあ、とインデックスは伸びをして、ベッドに倒れこんだ。「ずっと、今までどおりがよかったのに」それは紛れもない、インデックスの本音だった。恋人か家族かなんて、そんなのを分けられないままなら良かったのに。ご飯を作ってくれて、毎日話を聞いてくれて、そして時々エッチなことをされたり、ドキッとしたり。そういう、上条との距離感がたまらなく好きだった。ため息をつく。それは諦めるための儀式だった。「そのままだったら、あいさにも嫌われなくて済んだのにね」「……」言葉の真意を測る。嫌われたという言葉は、実はインデックス自身が姫神を嫌いだということの裏返しだろうか。違うと思う。……私に嫌われたくなくて。否定して欲しくてそう言ってるのかな。こちらこそ、インデックスに嫌われていると思っていたから、もしそうなら、仲直りできるかもしれない。「私は。インデックスのことを嫌いになんて。なってないよ」「え?」「だって嫌いになる理由がないから」「でも。とうまのことで、喧嘩しちゃったよ……?」それは敵対する理由にはなっても、嫌う理由にはなっていなかった。インデックスは不正を犯したわけではない。「仲良くは出来ないかも。って思ったけど。だけど嫌いになる理由はなかったよ」「そっか」薄く、インデックスが笑った。あまり友達の数を増やす趣味のない姫神にとっても、インデックスにとっても、互いはいい友人だったのだ。譲れないものがあるにしても、憎しみあっているわけではないことは、喜び合えることだった。姫神も、インデックスがいるベッドに腰掛けた。インデックスがすぐさま体を起こして、姫神の隣に座った。インデックスの背中に手を回す。空いた手で、涙をぬぐってやった。それは無意味な行為だった。拭いたそばからまた涙が溢れてきたからだ。インデックスは、姫神の体に抱きついて、嗚咽を漏らした。抱きつく相手こそが、自分に涙をもたらした相手だというのは本当に皮肉だと思う。たぶん、インデックスは抱きついた自分に上条を投影して、泣いたのだろうと姫神は思った。当然のことだが、自分の体は上条よりずっと頼りない。それでもせめて、撫でる手だけは上条のように優しくあろうとした。もう、日が沈むのは随分と早い季節だ。撫でているうちに、すっかりインデックスの表情が見えにくくなっていた。嗚咽はおさまって、姫神にしがみついたその腕の力も、かなり緩くなっていた。「そろそろ明かりつけるね」そっと腕を解いて、姫神はスイッチを付けに行った。ぱちんという音と共に、部屋が明るくなる。太陽とは違うその人工の色は、夜の始まり。インデックスを見ると、目元をこしこしとこすって、いつもどおりの笑顔を少し無理して作っていた。「あいさ。今日、ご飯一緒に作ろう?」「うん。いいよ。そうしよっか」そうできればいいなと、思っていた。自分だけ一人で食事をするのは嫌だった。それに自分ひとりでご飯を作っても構わないが、二人で出来たらなと、そう思っていた。「献立とかは、あいさに頼ることになるかも」「いいよ。冷蔵庫の中身を見て考えるね」開いてみると、中には大して食べるものがない。買出しが必要だった。「スーパー行こうか」「うん。それとね、お風呂は」「どうしたの?」「お風呂はとうまと一緒に入る」「え? ……え?」それはお伺いとかじゃなくて、宣言だった。「駄目」「それで、夜はとうまと一緒に寝る」「駄目!」「駄目って言われてもするもん」「でも。私が当麻君の彼女!」「知ってるよ。だけど、私がそれを認めるのは明日からだから」「どうして? そんな。急に」真意がつかめなかった。確かに今さっき、自分のことをインデックスは認めてくれたのだと思ったのに。「あいさにとうまを任せるのは、明日からだから。今日は、いままでの続き」「駄目。そんなの駄目だから」「知らないもん。駄目って言うんだったら、私は明日からとうまの彼女になる」「駄目!」駄目という言葉は敵意や反感というよりも、混乱の現われだった。インデックスの目にそういう負の感情があるなら分かりやすかった。しかし、実際にはどちらかといえば晴れやかな感じのする、微笑みが浮かんでいた。「どうしても駄目って言うの?」「だって……」「じゃあ、一緒にあいさがいても良いよ?」「えっ?」「お風呂も、一緒に寝るのも、あいさが隣にいてもいいよ?」インデックスは挑戦的な笑みを浮かべていた。それは上条を遠く感じてしまうことの寂しさの裏返し。諦めるための儀式。だから、許して欲しかった。今日、眠りにつくまで、恋人になれたかもしれない上条に、一方的にそんな気持ちをぶつける。明日からはもう、妹でいよう。姫神のことだって好きだし、きっと上条に選ばせたら、自分は選んでもらえないのを知っているから。……姫神のいない二人っきりじゃなくて、良かったのかもしれないと思う。きっと上条と二人っきりなら、自分は泣いてしまうだけで何も出来ないのだ。姫神への対抗心があるから、こんなにも積極的になれる。お風呂には裸で入ってやるつもりだった。ベッドの中ではぎゅっとしがみつくつもりだった。全然意識してくれない上条に、せめて今日一杯は、あらゆる手を使って自分を刻み付ける。心の中でインデックスはそう決意した。それは明日から想いを絶って妹になろうとするインデックスが、女になった瞬間だった。「ただいま」完全下校時刻までたっぷりと絞られて、ようやく上条は帰宅できた。早く帰りたい旨とその理由を伝えた上条に、インデックスを泊めてくれた小萌先生自身から待ったがかかったのだった。何よりまず、インデックスを待たせたくなくて、買い物も後回しにして急ぎ足で帰ってきた。扉を開けると、部屋にはいつもどおりの明かりが点いていた。それだけで少しほっとする。「お帰りなさい。当麻君」「あ、秋沙……」パタパタとスリッパの音をさせて出迎えてくれたのは、姫神だった。それに戸惑いを覚える。部屋の鍵は姫神には渡していないから、あけたのは、インデックスのはずだ。……姫神がインデックスから鍵を奪ったのでなければ。「あの」「とうま、おかえり」インデックスの事を聞こうとする前に本人が台所から現れた。エプロンの端で濡れた手を拭う仕草が、料理をしていたことを教えてくれた。家にインデックスと、そして姫神までいる。現状がよく上条にはつかめない。その隙を突くように、姫神の虚さえも突いて、インデックスが上条の前に近づいた。そして、ぎゅっと、上条を抱きしめた。「イ、インデックス?」「おかえり。あと、心配かけてごめんね」「いや、それは別にいいけど……」戸惑いながら姫神を見ると、してやられたような悔しそうな目で睨み返された。「今日はあいさと一緒に作ったご飯だから」「お、おう。分かった」「もうすぐ出来るから手を洗って待ってて――――」「当麻君」鞄を受け取ってリビングへ上条を案内しようとするインデックスの横から、姫神が割り込んだ。多分インデックスに対抗したのだろう、というのは上条にも分かった。充分あからさまだった。それに対してどうすべきかを逡巡する。そこに、ごく僅かだけ、ついと唇が突き出された。恥ずかしいと思う気持ちと、したいと思う気持ちと、そして、インデックスと姫神とを区別すべきだという気持ちが上条の中でぶつかり合って。「ん――」「ただいま、秋沙」「うんっ。当麻君。お帰り」隣のインデックスを見ないように、姫神に口付けた。つい昨日それが理由で家出したインデックスに、見せ付けることはためらいがあった。「はいはい。もー早くとうま行くよ!」強がり、だろうか。違う気もする。インデックスは昨日までの見ているこちらも辛くなるような必死さはなかった。もっと自然と、上条と姫神の関係を認めた上で、不貞腐れているようだった。「とうま、そろそろ出来るからね」「当麻君は。座っててくれたらいいから」「あいさ。お皿はどれが良いかな?」「深皿が良いんだけど。あ。これがいいかも」「じゃあこれ運ぶね」「うん。よろしくね」分からない。見たままをそのまま言えば、二人は仲直りしたように見える。事情の説明を求める視線を姫神に送っても、曖昧に微笑まれるだけだった。どうも姫神自身も混乱しているらしい。「とうま、テーブルの真ん中空けて」「お、おう」インデックスが皿を三人分配って、スプーンと一緒に置いた。匂いからして今日はカレーだった。「インデックス」「なあに?」「食べてからでも駄目とは言わないけど。こういうのはなあなあに出来ない話、だろ?」「……そう、だね。それじゃお鍋だけこっちに持ってきちゃうから、それが済んだら、話、しよっか」一瞬、インデックスの手が躊躇うように手を止めた。しかし朗らかな口調と、明るい表情を見せることは止めなかった。姫神が台所からじっと見つめていた。鍋にたっぷり作ったカレーが、表面を僅かにふつふつさせながら運ばれてきた。空腹の3人の鼻腔を良い香りがくすぐる。サラダを持ってきた姫神が後から座って、大して大きくもないテーブルの上に料理がそろい、そして三人が、席を共にした。「準備できたみたいだな」「うん」「じゃあ、インデックス。聞かなくちゃいけないことだから、聞かせてくれ。その、秋沙と仲直り、したのか」その質問は核心を突くものではなかった。いやそもそも、核心とはどうやって聞いたら突けるものなのか、よく分からなかった。問われたインデックスは、戸惑うことはなく、ただ、こう聞き返した。「とうまは。あいさのことが好きなの?」「……ああ。好きだ」「私よりも?」「比べたことなんて、ねえよ。ただ俺の恋人なのは、秋沙だけだ」「私は、違うんだね」「だって、そうだっただろ?」「うん。……そうだね。とうまの言うとおり、だったね」遠くから綺麗なものを見つめるように、インデックスは目を細めて微笑んだ。「私は血は繋がってないけど、とうまの家族、妹みたいなものなんだ。きっと」「……」「何も言ってくれないの? とうま」何を言ったらいいか、分からなかった。単純にそうか、と素っ気無く返すことは出来なくて、そしてそれでいいのかと問いただすことも出来なかった。「いいんだよ。それで」「本当に?」「あいさ。……だって、とうまがあいさを選んじゃって、私がとうまの家族であることを受け入れなかったら、私はこの家から出て行くしかないんだよ。……それは嫌」「納得、したのか?」「これからするの。あーあ、今までどおりが一番良かったな。べったりはくっつかないけど、くっつくことには遠慮がなくて、そういうのが良かったのにな」寂しそうにインデックスが笑う。悩む様子を見せず包み隠さず話すインデックスの仕草は、吹っ切れたような印象を上条に与えた。「だから、明日からは私はとうまの家族だから。今までもそんな感じだったから、変わらないよ」行為を取り出せば、きっとそのとおりだろうと思う。変わるのは、意味合いだけ。可能性だけ。だというのに上条の心中に隙間っ風が吹き込んだような気持ちになる。たぶん、その喪失感は自分だけじゃなくてインデックスも感じているものだ。それを振り払うように、インデックスがいたずらっぽく笑う。「でも今日は。違うから」「え?」「今日はあいさのことを、認めない」「認めない、って……」「とうまは私に浮気しちゃ駄目なんだよ? あいさだけ見てなくちゃ、駄目なんだよ?」インデックスが身を乗り出して、ちゅ、と上条の頬に唇を押し当てた。「はいとうま。あーん」「当麻君。あーん」「いや、あの……お二人とも?」カレーはスプーンで掬う料理だ。そしてスプーンは誰かの口に食べ物を運ぶのに便利な道具だ。インデックスか姫神か、どちらかが狙ってこの料理にしたのか。申し訳ばかりに上条の前に置かれたスプーンは、まっさらだった。……それどころか皿も綺麗なままだった。全部、姫神かインデックスの皿から、上条の分のカレーは供給されているのだった。「もう充分でしょ?」「あいさこそ」「何度でも言うけど。私は当麻君の彼女だもん」「今日は、そんなこと知らない」もうそのやり取りは三度目くらいだった。そしてインデックスと姫神の間では埒が明かないので、姫神はすぐに上条を見つめるのだった。線引きをすべきだと上条も思うから、初めは姫神のスプーンからばかり、食べていた。「とうま、食べてくれなかったら、口移しにするよ?」「ばっ……馬鹿!」そう言うのだ。上条がインデックスのスプーンを無視すると。先ほどはカレーを口に含んで本当にやろうとしたところで、姫神が怒った。真実は、怒ったというより、焦っただった。奔放に見えるようで、インデックスが線引きをしているのに姫神は気づいていた。本当に踏み越えてしまっては、妹には戻れなくなるような一線をインデックスは越えていない。きっと口移しだって、自分が止めることを計算に入れた挑発なのだ。姫神は監視の目を強くする。アクシデントだけは、絶対に避けなければいけない。「じゃあほら、あーん」「う……おう」面白くない。すごく、面白くない。申し訳なさそうな目でこちらを見ても、許してなんてあげない。明日はたくさんたくさんたくさん埋め合わせをしてもらわなければ、気持ちが治まらない。インデックスが口をつけたスプーンから、上条がカレーを食べた。「おいしい?」「まあ、うん」「えへへ。まだいる?」「はい当麻君。あーん!」「ちょ、秋沙。まだ口の中に」気にしない。スプーンに一口ならまだ入るに決まってる。強引に口の中にカレーを入れてやった。インデックスは、心の中に重くのしかかる寂しさを精一杯無視して、楽しい、と思った。上条を振り回して、こちらを振り向かせるのは楽しい。時々姫神のほうを向く視線はチクリと胸にさすものがあるが、上条が自分を見てくれた瞬間は嬉しくなる。もっと振り回したいと、そう思う。……そうしていないとあと何時間でこの楽しいひと時が終わってしまうのかを数えてしまうから。見えやすいところに置かれた置時計が、邪魔だった。面白くない。大して多くもないが、今しがた使った皿やコップを一つ一つ洗っていく。姫神は一人で、台所で洗い物をしていた。チラチラと自分を見る上条の申し訳なさそうな視線に腹が立ってくる。「えへへ、とうま、とうま」「あ、おい。服の中に手を入れるなって!」インデックスは上条の腰にしがみついている。お腹に、直接手を触れたらしかった。こんな構図になっている経緯は、分かりやすかった。食べ終わったら誰かが片づけをすることになる。作っていない上条が当然それを引き受けるという。そしてそうなれば姫神もインデックスも上条と一緒に洗うと言い、三人も入るわけのない台所事情のせいで、誰かがリビングでくつろぎ、誰かが洗い物をすることになる。選び方を提案したのはインデックスだった。別に、取り立てて特殊なルールを提案したわけではなかったが、じゃんけんで決めようというインデックスの提案にはそれなりに思惑があったのだ。それを、姫神は全く警戒できなかった。「ねえとうま。お風呂まだ?」「へ? まあもういい時間だけどさ、まだ秋沙だっているし」そんな会話を遠くに聞きながら、姫神は後悔を続ける。じゃんけんに負けた人が洗い物をする。負けは一人でも二人でもいい。それが役割分担のルールだった。不公平に姫神は気づかなかった。インデックスは、上条と何度もじゃんけんをしたのだろう。そして、癖を覚えていたのだろう。インデックスがことごとく上条と同じ手を出しているのに気づいた頃には、姫神は一人負けしていた。ルール上、何の違反もなかった。インデックスの記憶力の良さは反則にはならなかった。「終わったよ」「秋沙、お疲れ。ありがとな」「うん」色々腹立たしいので、うまく愛想良く笑えない。しかしそれだってインデックスがいることを考えれば、不利益なのだ。不機嫌な表情の姫神と、楽しそうに自分にじゃれ付くインデックスの、どちらを上条は可愛く思うだろうか。「当麻君」「ん?」「ご褒美のキス」「……えっと」「嫌なの?」「そんなことないって」濡れた手を拭いて上条の隣に座る。そっと顔を持ち上げられて、キスをされた。キスをした上条の表情が優しくて、ささくれだった機嫌が少しだけおさまる。「とうま、次は私」「駄目」「あいさには聞いてないもん」「じゃあ当麻君に聞いてみたら?」「とうま。ぎゅって、して?」あくまでキスはねだらない。それは姫神への敗北を意味するはずだが、むしろしたたかな印象がある。キスをねだって、上条を困らせても、結局欲しいものは得られない。それよりも上手い妥協案を示したほうが、よほど美味しいのだった。インデックスはこうして、まんまと上条の胸に抱かれた。そして安堵したようなため息をつく。インデックスの意識とは関係なく出たものだったが、姫神を抱いたときと同じ反応で、上条はその吐息にドキリとした。三人でべたべたとくっつきながら過ごしているうちに、もういい時間になっていた。姫神がまだ帰らない。いつ帰るのかと聞くと、帰って欲しいと思っているように受け取られそうで聞けなかった。「お風呂、沸いたね」電子音がそれを告げている。「とうま、お風呂入らないの?」「いや、秋沙がいるし、さ」「私。お邪魔かな?」「馬鹿。違うって。秋沙がいるのにほったらかしは良くないだろ?」ある程度予想がついていたので、さっと姫神に腕を回して抱き寄せる。インデックスが積極的なせいで、いつもよりしっかり抱きしめたり撫でたりしてやらないと、姫神が満足しない。「当麻君」「ん?」「一緒にお風呂。入ろっか」「……水着、どこにしまったっけな」「要らないよ。当麻君は自分の家で水着を着てお風呂に入るの?」「秋沙……冗談じゃなくて、本気で言ってるのか?」「死んじゃうくらい恥ずかしいけど。当麻君が望むんだったら」ゴクリ、と上条は唾を飲み込んだ。ついこないだ、かなりきわどいところまで見たところだった。胸の先端の桜色が、まだ脳裏に焼きついている。「とうま。私も一緒に入る」「……」駄目と、姫神が言わなかった。上条から見えないところで、インデックスを見つめた姫神の視線が本気の怒りを孕んでいた。インデックスが目を逸らす。そうやって、本気で姫神と喧嘩してまで、やりたいことは出来ないのだ。「インデックス」「嘘だよ。ほら、あと二人も待ってるんだからとうまは早く入って!」「あ、ああ……」戸惑いながらも、上条はせかされて服を携え、風呂場に向かう。インデックスと姫神はそれを見送る。「ごめん」「……わたしこそ睨んでごめん。でも。あれは」「別にあいさも一緒に入っても、いいのに」「そういう問題じゃないよ」裸を見て、上条が暴走しないとも限らない。自分にその欲望が向くのであれば、程度の問題はあるが、構わない。だけど、インデックスを上条が意識するのは許せない。「あいさはとうまに裸を見られるの、嫌なの?」「嫌なんてことは……ないけど」「ならいいよね」「え?」「別にあいさがいてもいいから。私、今からとうまのところに行く」嫉妬が、インデックスの心の奥底で燻っていた。自分とは違うのだというところを見せ付けたいのだろう。一体何度、姫神は上条にキスをねだって、そしてしてもらったことか。……その行為を、自分は諦めている。戻れなくなると分かっているから。だというのに、なぜ姫神は何度も見せ付けてくるのか。姫神の焦りが、インデックスの強引さを誘っていた。恋人の一歩手前で止まるはずのインデックスは、姫神に触発されてその一歩手前という線引きのギリギリを狙ったチキンレースを始めていた。さっさと体や髪を洗い、上条は湯船に足を突っ込む。女の子を待たせると碌なことがないのは分かっているからだ。一応、そういう気遣いをするのがマナーでもあるし。「ふう……」少し温いな、と感じた。温度設定を見るといつもより2℃低かった。こういうことにはインデックスは疎いはずだが、と風呂を入れてくれた人間のスキルを疑うが、この二日ほどで、インデックスは劇的に家事の能力を向上させたのだった。その理由を考えると、痛ましい気持ちを感じないでもなかった。追い炊きしようとスイッチに手を伸ばしたところで、パチ、と明かりが消えた。「え? 停電?!」当たりを見渡す。もちろんその行為に何の意味もない。ついでに言えば風呂の温度を制御するコンソールは明かりを発していた。そして風呂の扉の外に見えていた明かりが、カラカラという音と共に消えていく。つまり洗面所も真っ暗で、明るいリビングとの間の引き戸が閉められたということだった。「ねえとうま」「インデックス?」「私も入るね」「……へ?」上条の諒解をとるより先に、バタン、と風呂場の扉が開いた。目も慣れていないし明かりがごく僅かしか入らないのでよく分からないが、シルエットは、確かにインデックスのようだった。体のラインでそれが分かった。つまり、風呂に入る人としては自然なことだが、インデックスは修道服なんて着ていなかった。「お、おい」「見えないでしょ? もしかして見えててこっちのほうジロジロ見てるの?」「そんなことねーよ! 全然見えてない」「本当に? 当麻君」インデックスの後ろから、姫神が入ってきた。こちらはタオルを持っているらしい。巻いているのとは違う陰影に見える。腰と胸のラインが、インデックスより年上な分だけ、成熟していた。ついこないだを思い出して、そのシルエットだけで体が熱くなる。「大丈夫、見えてないから」大丈夫かどうかを聞くなら風呂に入ってこなければいいのだが、そうできない事情があるのだろう。「とうま。まだ上がったりしないよね」「あ、ああ……」「ここのお風呂。私の部屋と反対の形だ」「ひゃっ、あいさ! 冷たい冷たい!」「ごめん」慣れない風呂に真っ暗なまま入っている姫神が、インデックスの肩に触った。「ちょっと寒いね。先に体洗う?」「どっちでもいい……やっぱりだめ。私が先に入る」「後でもいっしょなのに」姫神は上条の隣からお湯を汲んで、体に掛けた。髪を洗う気はないのか、束ねてタオルで包んであるらしい。すこしづつ目が慣れて、瞳の潤みと濡れた体の照り返しが見えてきた。はっきりとは分からないが、上条はその胸元らしきカーブに目線が釘付けになった。「当麻君。あんまり見ないで……」「へっ?」「目線がこっち見てるのくらい。わかるよ……」成る程、胸を隠す仕草がこちらから分かるくらいだから、逆も然りだろう。あわてて上条は体ごと目を逸らす。「……絶対に。こっちを見ないでね?」理由は分かりすぎるほど分かる。いまから、姫神は足を広げて湯船の縁を乗り越えるのだ。その行為の最中には隠すべきところを隠せない。それも上条から50センチくらいのところにあるのに。コクコクと上条が頷くと、姫神が立ち上がった音が聞こえた。――――ちゃぷ足のつま先が水に浸かった音がする。上条は押さえ切れなくなって、そっと、姫神のほうを覗き見た。太ももから、足の付け根、そしておへそが間近に見える。とはいえ、真っ暗なので陰影と肌からの照り返しだけで判断してのことだ。……足の付け根のところは、光の反射がなくてよく分からなかった。勿論それは、その部分には地肌が露出してない、ということを意味している。黒々としているかどうかまでは、分からない。「当麻君……」「な、なんだ?」「見ちゃ駄目って言ったのに」「見えなかったから、大丈夫」「そういう問題じゃないのに。もう」浴槽の横でインデックスがじゃばじゃばと水音を立てていた。ふーんだと苛立っているような雰囲気だった。「当麻君」「秋沙、その」広いとは言え所詮は浴槽だ。姫神のスペース確保のために体育座りをしている上条に、姫神が抱きついた。間違いなく、胸は腕に当たっていた。「あは。……恥ずかしいけどこうやってくっつくと安心するね」ばしゃばしゃとインデックスが石鹸のついた体をお湯で洗い流す。目が随分と慣れてきて、ひときわ白いインデックスの体が、少しずつ闇から浮いてくる。目のやり場がなくて、困る。「当麻君。またいやらしい目してる」「……見えないだろ?」「見えてるもん。鼻息荒いし」「げ」見えずとも分かる、ということか。「とうま、自分から入っておいて言うのもなんだけど、あんまりじろじろ見られたら恥ずかしいんだよ」一応きわどいところを隠してはいるインデックスだった。だが、隠されたほうが気になるのが複雑な男心だ。「インデックスの体が気になるんだったら。こっちを見てれば良いのに」「いいのかよ?」「だめ……だけど。いいよ。隠してるから。多分見えないと思うし」「そっか」上条は体育座りをして前にかがんだ姫神の、顎を上げ、そして上体を反らせようとする。そうすれば胸元は丸見えになる。「あ。ちょっと当麻君。だめ。だめ!」「見ろって言ったの、秋沙だろ」「手を出すのは反則だよ。や。だめ。あ」姫神の片腕を奪って、体を仰け反らせた。たぶん、明るければ乳房の形をはっきりと確認できたことだろう。……暗がりの中、半分水の中に浸かった胸元は、外形すらもよく分からなかった。「だめ……! 恥ずかしい」「……見えない」「嘘言っても駄目」「嘘なら良かったんだけどさ」「うー……とうま!」「な、なんだ」「次は私の番だから!」「何がだよ」いつの間にか洗い終えたインデックスが、洗い場から身を乗り出して上条を睨んでいた。胸は隠してあったので見えなかった。「変な事はしちゃだめだよ。当麻君」「しねーよ。それよりほら、次は秋沙が体を洗う番だろ? インデックスじゃなくて、俺は秋沙のお尻見てるから」「馬鹿! ……もう、外に出られないよ」「あいさが出ないんだったら狭いけど私が入っちゃうんだよ。とうま。見られないようにするけど、見えちゃうかもしれない。けど、見ちゃ駄目だよ。とうまが勝手に見ても私は気づかないけど」「いってる意味がよくわからねーんだが」ただまあ、男はどうにもこうにも欲望に忠実な生き物で、見ちゃ駄目だと分かっているのに、ついインデックスの胸元から目をそらせない。インデックスの肢体は少女らしいラインだと言っていい。姫神が成熟して丸みを帯びつつあるのに比べて、腰からせり出した骨盤の周りだとか、胸元だとか、そういう所に未成熟な硬さを感じさせる体つきだった。どちらかというと姫神のほうが、欲を言えばもう一回りくらい成熟したラインが上条の好みなのだが、そういう好みとは別次元で、綺麗な女の子の体というのは視線を惹きつけて離さない魔力がある。「とうま。横、もっと空けて」「お、おう」冷静になって考えれば自分がここから出て行くとか、そういう方法も取れるのだが、上条も動転していて気が回らなかった。三人入れば明らかにお湯が溢れるであろうそこに、インデックスが入り込もうとしていた。姫神は上条の余計な一言で外に出るのが恥ずかしかった。だが、今インデックスが入ると同時に出なければ、下心丸出しの上条はインデックスに釘付けになるかもしれない。勿論それは怒って、無理矢理視線を逸らせればいいわけだが、自分が逃げている癖に、上条に文句を言うのもフェアじゃないかと姫神は思うのだった。……改めて、上条の言ったことを反芻する。お風呂から上がるとき、上条は自分のお尻を眺めるといった。それは、恥ずかしい。とにかく恥ずかしい。だけど、それは嫌なことか。そう自問する。答えはノー、だと思う。強い羞恥心を感じることは、ノーという答えと直結はしない。少しだけ、心の中のほんの少しだけ、自分の裸で上条が喜んでくれるのなら、見せてもいいかと思う心がある。上条にほかの女の子を見て欲しくない。その独占欲を正当化する理屈として、女の子としたい行為は全て自分にして貰う、というのを姫神は心に決めている。上条が女の子の裸を見たいと思うのは、まあ、たぶん、男子高校生として自然なんだろうと思うし、それなら自分は、裸を、見せてあげても良いんじゃないだろうか。これは自分を安く見せることにはならないだろう。上条の隣には今、もう一人インデックスという女の子がいるのだから。激戦区で商店が客取り合戦をするのと同じだ。もちろん明るいところなんて絶対に駄目だけど。さすがにそれは恥ずかしすぎて死んでしまう。「当麻君」「秋沙?」「絶対に。見ちゃ駄目だよ」「……」少しあざとかったかな、と姫神は自覚があった。上目遣いで上条を見て、少しだけ、上条に分かるように腰を浮かせた。胸元のガードもちょっと甘いと思う。知ったことか。どうせもう上条には、まじまじと見つめられて、それどころか吸われてしまった胸だ。上条が、横でそろそろと入ろうとしているインデックスより、こちらに注目したのに姫神は感づいていた。下半身の、前は絶対に見られないようにしながら、姫神はざばりとお湯から立ち上がった。上条は、目の前10センチのところにある白い肌から、目が離せなかった。肌を水が滴っていく。膝の辺りから上へと視線を這わせていくと、すぐに、ぷっくりとしたお尻に行き当たった。どちらかというと姫神はスレンダーな、あまり肉感的ではない肢体をしているほうだと思うが、それでもお尻のラインはどう見ても女性のそれだ。水着を見たときから分かっていたことだが、そのラインに物凄く興奮した。丸みがあって、肉厚で柔らかい感じがして、そして大きく二つに分かれた山のその間の谷が黒々としている。「とうま、さすがにそれは見すぎだと思う。えっち、って怒る気にもならないよ……」「ぅえ!? あ、いやこれは」「当麻君の馬鹿」「う、馬鹿で結構。秋沙のお尻が魅力的なのが悪い」「この前から当麻君そればっかりだよ……」姫神の声が泣き出しそうな響きだった。「この前って、何?」「あ、いや。まあなんだ」「当麻君と。プールに行って水着でいちゃいちゃしたの」「……ふーん」ちゃぽん、と上条の隣にインデックスが体を沈めた。「ねーとうま」「ん?」「あいさとどんなことしたの?」「ぶほ」上条は直球すぎるその質問に吹かざるを得なかった。「キス……した?」「う、そりゃまあ」インデックスはそれについては確証があった。さっきも目の前でされたところだ。あれはファーストキスには見えなかった。「あいさの体の変なところに触ったの?」「へ、変なところってなんだよ」「……とうまのえっち」「いやいやインデックスさん! 話振ったのあなたですよね?」「でもとうまはえっちだもん!」変なところってどこだ、と聞いた上条の視線がどこに向いたのかをインデックスは見逃さなかった。明らかに、自分の腰のほうだったと思う。お風呂の中だし、隠しているので見えたはずはないと思うが、それでも抗議するのは当然だと思う。「で。何したの?」「内緒だ」「髪に触った?」「……それは別に普通だろ」「じゃあ背中」「それも問題ないだろ」「じゃあ……胸、とか」「……」「触ったんだね」「黙秘する。そう思うんだったら勝手にそう思え」「とうまが嘘ついたときとかすぐ分かるよ。今のは肯定の沈黙だった。お尻には触ったの? ……今のは曖昧だね。服の上から? あ、図星だ」「あの、お願いだからそれ以上追及しないでもらえませんでしょうか」黙り込むときの息遣いなんかが正直すぎるのだ、この同居人は。「じゃあ最後の質問。とうま、あいさの胸、触ったの?」再び沈黙。「……もっと答えたくないことがあるみたいだね。触るよりすごいこと……?」インデックスの想像力では、ピンとこなかった。触るよりすごいというと、もう、こねくり回すとか、そういう――――「……胸は何のためについてんだよ」「それは、赤ちゃんに母乳を、って。まさか、嘘、とうま」「文句あるか」「あいさのおっぱい、吸ったの?」死にたい、と上条は思った。恋人の胸を吸うくらい、普通だと思うのだ。エロ本などの、そういうメディア各種で学んだ知識が正しいなら、それはごく普通の行為だと思う。……現に姫神は気持ちよさそうな声を上げていたわけで。だというのに、インデックスはまるで大の大人がおねしょをしたという話を聞いたような、そんな、ありえないことを上条がしたかのようにこちらを見た。「だぁっ、もう、別に良いだろ!?」「駄目とは、言ってないけど」インデックスは自分の胸元をそっと見た。慎ましい。さすがに「無い」とは言わないで済むが。姫神との差は歴然だった。姫神が小萌くらいなら、いい勝負になったのに。一応、子どもを授かれる体ではあるのだ。今子どもを授かれば、自分は母乳を出せるのだろうか。無理かもしれないと、そういう気がする。成長した女の人の体というのは姫神のような感じなのだ。これじゃあ、上条は、興味を持たないのも仕方ないのかもしれない。「……私の胸じゃ、吸いたいとか思わないよね」嘆息するように、インデックスは独り言をポツリと漏らした。姫神と、上条がいるその隣で。「え、っと」「インデックス。駄目だからね。絶対に駄目だからね」「え、何が、って……っっっっっ!!!!! ちがうもん! 私そんなこと考えてないもん!」どう二人が受け取ったのか、ようやく理解した。違うのだ。誤解なのだ。胸を吸うという行為が恋人同士の行いに分類されるらしいというのは今分かったが、上条に胸を吸わせればお互いがお互いを好きになるとか、そういう事とどうしてもイメージが結びつかないのだ。だってどう考えたって、胸を吸うのは赤ちゃんだろう。上条はそんな年ではない。だから、上条に胸を吸われたら、という想像はインデックスの中で、上条を恋人に見立てるようなこととは関係なかった。「インデックス、お前、結構エッチだったんだな」「だからちがうって言ってるのに! とうまのばかばかばかばかばかばか!」「お、おい、やめろって、ごめん! ちょっとやめろいででで! 当たってる!」インデックスは照れ隠しに、いつものとおり上条に噛み付きにかかった。……裸のままで。ぷるんと、胸が上条の手に当たった。「ごぼごぼごぼごぼごぼ」「インデックス、ばか沈むな!」「当麻君?」「違うぞ秋沙、今のは俺の意図どころかコイツの意図も超えて完全に事故中の事故だった!」「事故なら私以外の女の子の胸に触ってもいいの?」「そりゃもちろん良くは無いけど」「……もう。当麻君の馬鹿。隣空けて。私も入る」「あ、ああ、って、ん――」画期的な方法を使って姫神は浴槽に入ってきた。キスをして上条の視界を防いでいる間に入ったのだった。「当麻君。残念そう」「いや、だってさ。もう隠しても意味ないから言うけど、秋沙の裸、見たい」「……また今度。いつか」「え?」「お風呂じゃなくてもっと落ち着けるところで。二人っきりで」風呂以上にくつろげる場所なんて、とっさに思いつくのはベッドくらいだ。姫神の言葉が、非常にきわどい意味で誘っているようにしか見えなかった。「でも。当麻君が約束守ってくれたらだよ。私以外の女の子と。変なことしないって」「……分かってる」「本当に分かってるのかな。今だって……」インデックスに、上条は甘いと思う。もっときっぱりとインデックスを突っぱねてくれればいいのにと思わないでもない。ただ、それが出来ているならこんなにこじれることも無かったのだ。離れがたい理由が、恋人同士だとか、肉体の関係だとか、そういうのがなくてもあったのだろう。それはそれで、妬ましいことだった。言葉が悪いが、そういう関係の深さは、寝取ることも出来ない居場所を、インデックスが上条の仲に作っていることを表している。「とうま」「当麻君」二人は同時に、上条の両手を取った。姫神の体に触れた腕からは、柔らかい胸の感触があった。インデックスに触れたほうからは、僅かだけそういう感触があった。良くないと心のどこかで知りつつ、上条はその両方を振りほどけなかった。先に二人を上がらせて、随分と長湯をした上条がリビングに戻ると、インデックスがいつもの薄青のパジャマを、そして姫神が薄赤色のパジャマを身に着けていた。インデックスの毛先が濡れたのを姫神が拭いてるらしかった。「秋沙。なんでパジャマなんだ?」「……今日は。この子が私に遠慮しないみたいだから。私も遠慮しない」「え?」「とうま。とうまのふとん、こっちに敷くね」もうそれだけで上条はだいたい事情を察していた。よく見れば机の位置がおかしいのだ。部屋の隅に立てかけられていた。ゲーム機器もテレビ下のラックに押し込まれ、布団が充分敷ける広さを確保している。「いやあの、そりゃ秋沙に地べたで寝ろとはいえないけどさ、さすがにあの寒い浴槽で薄い布団すらないと死にそうなんですけど」「当麻君。いつもお風呂で寝てるの?」「ああ、コイツ寝ぼけると自分で鍵開けて人のベッドにもぐりこんでくるからさ、中から鍵をかけられるあそこで寝るしかなかった」「ふーん……」「とうま。今日はお風呂じゃなくていいから」「え?」インデックスはベッドから布団を下ろし地べたに敷いた。そしてさらに上条の掛け布団を追加した。もとからあった掛け布団も別に小さくはなかったが、二つあるとしっかりと体に掛けられそうだ。「今日は、三人で寝るの」「え? いや、そんな」「あいさも良いって言ったから」「良いとは言ってないよ。仕方ないってだけ」面白くなさそうな顔で、姫神は歯ブラシセットを持って洗面所へ行った。上条もそれに続いた。「秋沙」「何かな」インデックスの死角に入ってすぐ、上条は姫神を抱きしめた。だが姫神の表情はそれでは晴れない。頬にそっと手を当てて、上条はその唇を吸い上げた。「ベッドの中で。あの子に変なことしたら駄目だからね」「しないよ。そういうのは全部秋沙にする」「……あの子の隣で?」「したくなったらする」「変なことは。私にもしちゃ駄目」「なんでだよ」「恥ずかしいからに決まってるでしょ」拗ねたようにそんなことを言う姫神が可愛かった。耳たぶにキスをしてやる。「あ」「したくなったら、するから。秋沙愛してる」「あ。あ……もう」それだけ言って上条は話を切り上げた。長く睦みあっていれば、インデックスが来てしまいそうだから。姫神が照れ隠しにつんと唇を尖らせて、水道の蛇口を捻った。歯を磨いて戻ってくると、インデックスがベッドサイドに座って、ぼうっとしていた。時間はいつもよりは早いが、まあ、もう電気を消してもいい頃だろう。「もう、寝ちゃうんだね」「まだなにかすることあるのか?」「ううん。それはいいんだけど、あっという間だったな、って。今日の遊び」眠りにつくまで、精一杯に目を開けていて一時間くらいだろうか。それで、上条に可愛がってもらう夢は、おしまい。「明日からはまたあっちで寝るんだよね?」「そりゃそうだろ。お前と同じ布団は、まずいって」「……そうだね。血の繋がってない妹じゃ、そういうのは駄目だよね」妹、という響きが出るたびに、上条は違和感を感じていた。インデックスは妹ではなかった。恋人という響きにも同じ違和感を感じる。自分たちの関係は、そのどちらでも、なかったのだ。もう、その名状しがたい特別な関係は、終わってしまったけれど。それは観測によって状態が収束する量子のようだった。観測の仕方によって、それは粒子のようにも波動のようにも現れる。本質はどちらともつかない、曖昧な状態、可能性がどちらにも開かれた状態なのに、観測してしまえば、どちらかに可能性を収束させなくてはならない。上条当麻とインデックスという二つの存在を学生寮というブラックボックスに閉じ込めていたこの系(システム)は、姫神秋沙という外乱に干渉された結果、二人の相互作用を兄妹という形に収束させつつある。それに抗える、最後の時間が今だった。いや、抗うのとは違う。未収束な状態に最後の夢を見る、そういう時間だった。シュレーディンガーの猫はもう一つの結末の夢を見るか。インデックスはきゅっと布団の端を握り締めた。「ほら、はやく布団に入ろう?」「あ、ああ。もう明かり消してもいいか」「うん……」姫神がインデックスに促されて、一番右側に押しやられていた。そこまで見て、上条は明かりを消した。向かいの家が明るいせいで、真っ暗とは行かない。「次は、とうま」「お、おう。おじゃまします」「ここ当麻君のベッドだよね」クスリと姫神が笑った。その隣へと、近づく。ついこないだを思い出す距離だった。そしてあの時よりも布団がある分、暖かい感じがした。「とうま。狭いからもっと詰めて」「ちょ、おい」背中を押される。それで、姫神に密着した。風呂上りで、いい匂いがした。インデックスの匂いがした。インデックスの使うボディソープを使ったせいだった。軽く抱き寄せるように、姫神が手を回してくれた。それに従う。「よいしょっと。えへへ。とうま」後ろから、インデックスが布団に進入してきて、上条に抱きついた。第三者から見れば、上条は黒髪美人と銀髪美人を同時に布団に連れ込んだ色男そのものだった。「とうま。あいさばっかりみてないでこっち向いて」「しなくていいよ当麻君。キスしよう?」「えっと」三人で同衾してすぐ、二人はこんな調子だった。相手を咎めるようなことはあまり言わない。声のトーンも楽しげな感じ。ただ、内容は上条を独占するようなことばかり。「ん。ちゅ。あ……当麻君。当麻君」「むー!」インデックスには悪いが、上条はおねだりをされたときは、姫神を優先していた。女の子とベッドに入るとそう言うことをしたくなるのである。しかし、インデックスとはキスをするような仲じゃない。となると姫神を優先するのは自然だった。「秋沙。愛してる」「当麻君。私も……あ」前より、姫神からこぼれる声が大きかった。それに上条はドキドキする。そして実はそれ以上に、インデックスが刺激されていた。ちくん、ちくんと心を刺すものがある。だけどそれはいい。もう、覚悟していたことだ。びっくりしてしまったのは、姫神の反応。上条に撫でられたことなら何度もある。抱きついたことも何度もある。だけど、自分の体がこんな風になったことはなかった。腕の動きで、上条が姫神の背中を撫でたのが分かる。「ふあぁ……」姫神のその声に、自分の体が反応しているのが分かった。今、上条にあんなことをされたら自分はどうなるのだろう。あんなふうに気持ちよくなるのだろうか。声が、その、出てしまうのだろうか。くたりと力を失った姫神の腕が上条に絡みついた。「とうま」「いででで! 噛み付きすぎだ馬鹿」「撫でて」「え?」「私も撫でて!」上条が姫神に向けていた体を、仰向けにする。インデックスは姫神にじとっとした目で睨まれたのが分かった。牽制するような目というよりも、良いところを邪魔されたのを恨む目のような、そんな風に見えた。「ほれ、インデックス」「あ……」身構えるまでもなく、さすさすと上条に頭を撫でられた。嬉しい。……けど、それ以上のことはなかった。別に、体に電気が走るとか、そんなことはない。それがインデックスと、姫神の差だった。姫神は女として、上条にされたいことがいくらでもある。言葉にすることは恥ずかしくて出来ないが、上条の手と口で体が昂ぶったことがあるから。あれこれと期待をして、それが快感に変わっていくのだ。インデックスにはそれがなかった。何をされたいのか、その答えが自分の心と体の中にない。撫でられると、嬉しい。それ以上のリアクションを持ち合わせていないのだった。「当麻君。続き……して欲しい」「つ、続きって」「もっと。キス欲しくなっちゃった」「いや、でも」あの子の前では恥ずかしい、と言ったのは姫神だったと思う。まさかねだられると思わなかった上条は戸惑った。その揺れる瞳を姫神は繋ぎとめるようにじっと見つめる。続きをして欲しいといった自分の言葉に、半分だけ嘘が混じっていた。本当は、インデックスを無視して自分を愛撫してくれるという、はっきりとした構図が欲しかったのだった。「当麻君……して?」普段ならあざといとさえ思う言葉だと思う。なのに今はまるでそんな気がしない。上条がインデックスに背を向けた。ベッドをきしませて、自分を見下ろしたのが分かる。はぁっという吐息と共に、耳に噛み付かれた。「はぁぁぁん!」声がこぼれてしまう。そういう体の正直な反応に、身を任せるということを姫神は覚えつつあった。隣にインデックスがいることを気遣った音量ではなかった。いやむしろ、隣にいるからこその、声だった。喪失感と共に言いようのない驚きをインデックスは感じていた。上条と姫神は男と女で、自分は違うのだという疎外感。恋人らしい側面を持っていた上条を喪失する感覚。それと同時に、女とはこういうものなのかと、インデックスはまざまざと見せ付けられた。きっと普通の女の子は、女同士のセクシュアル・トークや女性向け雑誌で仕入れた情報なんかで、女というものを前知識として知り、そして男の手で身を持って体験していくのだ。きっと、自分の友達が自分が大切に想う男の人の手で愛撫されている光景を直視することで、学ぶことは無いと思う。耳という器官は人体の中でも割と複雑な構造をしているほうだ。その形をなぞるように、姫神の耳を上条の舌が這う。耳たぶをペロリとされたときだとか、かぷりと耳朶全体を噛まれたときだとか、そう言う瞬間に姫神が甘い声で鳴く。それを聞きながらインデックスはそっと自分の耳に触れた。なんとなく、インデックスは分かり始めていた。姫神がどうして声を漏らしてしまうのか。何を気持ち良いと思ってしまうのか。二人にばれないように、そっと太ももをこすり合わせた。インデックスは自覚していなかった。上条は気づかなかった。姫神は逆効果なのを理解していなかった。自分とインデックスの差を見せ付けようとしたこの行為によって、インデックスは男と女がすることというのを、酷く具体的に理解し始めていることに。いや、男一般が分かったかどうかは分からない。それでも、上条当麻という男がどんな風に女を可愛がるのかを、インデックスは知ってしまったのだった。「もう、終わりな?」「えっ……?」意外な上条の言葉に、姫神は切なくなった。長いキスを終えて、かなり体に火がついてきたところだった。「二人っきりじゃないしさ。また今度、な?」上条としては、やはり落ち着けないのだ。男女の差も有るかもしれない。愛撫されている間、姫神は理性を飛ばすことも出来るかもしれないが、上条のほうは割と冷静なままなのだ。隣に見つめる目があると、気になるのだ。「……わかった」「ん、ごめんな。秋沙」キスをして、上条は姫神に覆いかぶさる姿勢を止めた。再び二人の女の子の間に体を落ち着けた。「とうま。次は私」「だめに決まってるでしょ」「あいさには聞いてないよ。ねえとうま?」「え、いや……」「噛み付くくらい、私いつもしてるもん。次はとうまが私に噛み付く番」「だ、だめだって。そりゃ、まずいだろ」「なんで? どうして?」「何でって」耳を噛むのは恋人のすることだというのだろうか。「私はもう、当麻に噛み付いちゃ駄目だってこと?」真剣な声で、インデックスは上条にそう尋ねた。それはインデックスにとっては自然な愛情表現だった。恋心が無くてもそれは自然とやってしまう行為だ。禁じられるのは、納得がいかない。「別に、駄目だとはいわねえよ。けど、俺からは駄目だ」「……」姫神としては色々言いたくなる判断だった。単なる親愛の情の発露だとしても、上条とインデックスが触れ合うのは嫌だ。ただ、これを禁じると、全ての協定を反故にして、インデックスが上条を求めてしまうかもしれない。渋々だが、姫神はこれを認めるつもりだった。「よかった。私からはしてもいいんだね」「……変な意図がないんだったら」「明日からはね。今日は、知らない」その挑戦的な言葉にカチンとなる。早速と言わんばかりにインデックスが上条の片腕を封じて、耳に噛み付こうとしていた。その反対側の首筋を狙って、姫神も上条に噛み付いた。「ってて! って、秋沙、うあ……」「とうま可愛い」たまらず上条は声を漏らした。ぬるりとした感触が、耳と首筋から同時に這い上がってきたからだ。マーキングをするように、二人の女の子が自分を攻めていた。「あ、く……」ドキドキする。自分の甘噛みで上条がなんだかドキドキしてくるような嗚咽を漏らすのだ。始めたときは姫神に対する対抗心があったのだが、どちらかというと今は上条の反応を楽しむためにやっていた。「ぷは、秋沙。もう……」「私とキス。嫌?」「そんなこと、うぁ、ないけ、ど」姫神と会話する上条にちょっとムッとしたので、耳の奥のほうまで舌をねじ込んでやった。くすぐったがって暴れる上条を、無理矢理に抱きついて押さえつける。上条にべったりとくっつくいい口実だった。「とうまって、耳、弱いの?」「し、知らねえよ……」ちゅっともう一度耳たぶをついばむ。そろそろ、潮時か。これ以上やれば本当に姫神が怒る、そういうギリギリの線だった。「当麻君は。こういうことする女の子が良いの?」「いや。どっちかって言うと、俺は秋沙にするほうが好きだ」「……ふうん」安心したような、勝ち誇ったようなその返事にインデックスは悔しくなる。知ってることだ。上条が自分じゃなくて姫神を選んだことなんて。今夜は、負けると知っていながら足掻く夜なのだ。いや、もう、だったのだと言うほうが良いかもしれない。ベッドに入って時間もかなり立った。それなりに暴れて、疲れがまぶたにのしかかり始めた。「……グス」「インデックス?」「なんでもない……よ」嬉しい。上条は、ほんの少し涙がこぼれて鼻をぐずらせただけの自分に、すぐ気づいてくれた。嬉しい。こちらを見つめてくれたその目が、本気で心配してくれていた。嬉しい。こんなに心配してくれる人が、これからも毎日傍にいてくれるなんて、なんて幸せなんだろう。……そして、どうしてこんなに素敵な人を、もっと早く独占しなかったんだろう。「あ、インデックス」「おやすみ、とうま。……それとあいさ」最後にインデックスは、上条にのしかかるくらい体を上条に多いかぶせて、抱きついた。上条の占有面積で、姫神に勝つ。どうせ今日、これっきりでおしまいなのだ。最初で最後の一勝だけは、死んでも譲らない気だった。「……おやすみ。インデックス」「まあ、寝苦しくなったらどかすからな? お休み」「離れないもん。とうまが、私のこと嫌いって言わない限り。……おやすみ」馬鹿、と上条が笑うように言って、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。インデックスはもう、上条の胸にうずめたまま周りを見なかった。上条と姫神がキスをしたような衣擦れの音は、聞かなかったことにした。自分が涙で濡らした上条のパジャマの冷たさで、ふとインデックスは目を覚ました。うつらうつらとしたまま、いつしか寝ていたのだろう。目をこすると、涙の乾いた後がかさついていた。見上げれば、あどけない上条の寝顔。隣の姫神の顔は髪に隠れてはっきりと見えなかった。のしかかっていた上条の体から、インデックスは体を下ろした。意識を手放してしまう直前の、あんなに強かった上条を奪ってしまいたいという気持ちが、戸惑ってしまうくらい下火になってしまっていた。まるで祭りの後の会場にいるみたいに、もう終わってしまったのだという空虚さだけが残っていた。もう諦めろと、姫神にきつく言われたらまた燃え上がれるのかもしれない。違うのだ。終わってしまったあとの空気は、じわじわと、自分に終わりを悟らせるのだ。思い知らせたりはしない。三人でかぶった布団の中はどちらかというと暑かった。上条の腕枕に頭を乗せると、すこし汗ばんだ上条の匂いがした。夏休み明けの体操着なんかについては、臭いと文句を言ったこともあった。少なくともこの匂いを好きだとなんて思ったことは一度もない。なのに、今はこの匂いのする人の腕に抱かれて眠るのが、幸せだった。どうして、意味合いが変わってしまったんだろう。上条が寝返りをうとうとして、失敗した。そりゃあどちらの腕にも女の子が寝ているのだから、当然なのだ。それで、少しだけ上条がインデックスのほうを向いた。鼻息がインデックスの手を軽く撫でた。「とうま。キス、していい?」声にはしなかった。姫神に気づかれては、いけないから。上条は寝ているから、もちろん返事はない。それでいい。起きていれば断られるのは、分かっている。真っ暗闇の部屋の片隅、ベッドの中で音を立てないように、そっとインデックスは唇を上条に寄せる。当の上条にさえ知られなくても、もう叶うことのなくなった恋心でも、伝えずには、いられなかった。音はしなかった。舌でも絡めないと、音は鳴らないものだ。どさりと、大きめの音を立てて再び上条の隣に倒れこんだ。涙が溢れて、止まらない。吐息が震えて、嗚咽が漏れそうになる。泣き疲れて再び眠るまで、ずっとインデックスはそうしていた。姫神は最後まで、何も言わなかった。朝、いつもよりもいくらか早く、上条は目を覚ました。暑いくらいの布団の中、自分の両側から、寝息が聞こえてくる。一つは姫神で、一つはインデックス。二人とも上条に頬を寄せるようにして眠っていた。そっと首を動かして、二人の寝顔を見る。どちらも可愛かった。姫神にだけ、キスをする。「ん……」僅かに姫神は反応したが起きなかった。二人を起こしかねないが、上条は布団から自分の体を引き抜いた。どうせ10分もすれば目覚ましが鳴って、朝は始まってしまう。いつもより人が多い分、手間をかけて朝食を用意するつもりだった。「とうま、とうま……」「……ぁ。当麻君」脱出には成功したのだが、着替えを始めたところでインデックスが目を覚ました。姫神もつられたらしい。「おはよう、二人とも。朝飯つくっちまうから、まだ寝てていいぞ」「うん……」だがインデックスも姫神も、寝起きが悪いほうではなかった。姫神は目をこすると、インデックスがこちらをじっと見つめているのに気がついた。「あいさ」「どうしたの?」「おはよう」「うん。おはよう」姫神の胸元に、インデックスが滑り込んできた。そのまま抱きしめる。誰にも見えないように表情を隠して、インデックスはそこから上条に声をかける。「ねーとうま。何作るの?」「え? まあレタスがあるしサラダをパパッと作って、あとは目玉焼きかな」「むー! 私と二人のときはそんなの作らなかったくせに」「し、仕方ないだろ。朝の時間は限られてるんだから」「トースト一枚じゃ満足できないんだよ」「じゃもう一枚焼いてもいい」「そういうことじゃないの! とうまのばか」手伝うとは、インデックスは言わなかった。もうしないのだ。ご飯を作ってあげたりは、しない。それは姫神か上条自身の仕事だから。自分が上条に食事を作ってあげれば、またおかしなことになってしまうから。「それはそうと、秋沙」「どうしたの?」「おはようのキス、するぞ」「えっ?」姫神は硬直した。だって寝起きの顔を見られるのっていろいろ気になるし恥ずかしい。だが上条は待ってくれなかった。インデックスが面白くなさそうに横を向いたのを知りつつ、姫神の腰を抱いて、唇を重ね合わせた。「ん……」「ん、今日も可愛いな秋沙」「もう、急すぎるよ」「制服はあるのか?」「うん。必要なものはあるから、あとは替えの服とパジャマを部屋に戻しに行くだけ」部屋に帰るのは別に放課後でも大丈夫だった。「そっか、じゃあ朝飯食って、さっさと行くか」「うん」寂しそうな顔をしたインデックスの髪を、上条がくしゃりと撫でた。インデックスは何も言わなくて、そして上条もそれ以上は何もしなかった。それが今日からの、二人の距離だった。
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