───青ピ「あちゃー……やってもうた……」 気まずそうに頭を掻く少年と、ぽかりと口を開けてそれを取り巻く三人。 次に口を開いたのは紅一点、教師・小萌である。小萌「青ピちゃん、張り切るにも程があるのですよ?」 腕組みをしてはきはきと如何にも教師らしいことを言っている。 傍目には幼子が駄目な兄貴を叱っているようにしか見えないのだが。土御門「青ピぃ、どうすんだにゃー。 これじゃ俺達が測定できないぜい」 床の残骸──かつての、割と高価な計測機械──を指しながら、 何処か楽しげな調子で軽口を叩く元春。青ピ「いやーすまん、小萌せんせにええとこ見せよう思たら……」 照れ臭そうに頬を掻きつつ言い訳をする。 轟音と破壊が起こった直後とは思えぬ、和気藹々といった空気を醸す三者だが…… 一人、納得いかぬ、というか興奮冷めやらぬ男がいた。上条「ちょ、ちょっと待てええぇぇ!!」 のほほんとし掛けた雰囲気を必死にぶち壊さんと、悲痛な叫び声が木霊する。 そこには『俺だけ取り残されてないか』という焦りも含んであったろうという事を記しておく。上条「その、おかしいだろ! 人の力で、これ、叩いただけで、秤、っていうか、机?」 どうやら大いに焦っているらしく、不自由な日本語を駆使しながら 床に散らばる瓦礫を指し指し、精一杯に現状の不可思議さを説明しようとする。 が、青ピ「だって僕、階級参の肉体強化やし」 当事者の青ピの一言で一蹴されてしまう。 いやだから、と尚も説明を続けようとする当麻だが、 青ピの"怪力"に特段懸念も興味も抱いた様子の無い他の二人を見ると 自分が狐にでも化かされてるのかと不安にもなる。思わず口をつぐんで考え込む当麻に、何やら所感有り気な視線を送るのは小萌である。 急に黙り込んでしまった当麻と、それを不思議そうな顔で見遣る二人の友人。 何やら妙な空気が流れ始めた現場だが、そこに小萌の可愛らしい声が投げ込まれる。小萌「ええと、青ピちゃんと土御門ちゃんは、最後に測定したのはいつですか?」青ピ「僕は半年前の入學したときに」土御門「あー、俺も入學したときだにゃー 確か……4ヶ月前!」 元気良く答える教え子に「なるほど」と一言零すと、小萌は顎に手を当ててしばし逡巡する。 そして、「上条ちゃん」と当麻に声を掛けた。上条「はい」小萌「上条ちゃんは、今まで念術測定したことは?」 念術測定、という言葉も今日初めて聞いたのだ。 勿論、当麻は測定を受けたことは一度も無い。上条「いえ、まだ……」 何処か不安げに応える当麻に、にこりと笑顔を向けると 小萌は何か名案でも思いついたかのように明るい声を出した。小萌「そうですか、では今回は上条ちゃんだけ別室で測定しましょう」 えーっという声が青ピと元春から漏れる。小萌「二人は以前の測定データを使います。 時間も施設も限りがありますから、しょうがありません」 そう結論付けた小萌に言い返すべくも無い。 二人は顔を見合わせると、諦めたようにはぁと溜息を付いた。 それを見た小萌がこほんと一つ咳払いをする。小萌「青ピちゃん、元春ちゃん、二人がとっても格好良い術士なのは、ちゃんと知っているのですよ」 天使の様な笑顔を向けつつ、しっかり男心を掌握する科白をのたまう辺りは やはり"大人の女"である。青ピ「ほ、ほんまですかーっ!?」土御門「こ、小萌先生が俺のことを格好良いと……」 感動に打ち震える二者を尻目に、小萌は当麻の手を引いてさっさと体育館から出て行ってしまった。 ちなみに、二時間後体育館の鍵を閉めに来た用務員が発見するまで、二人は感涙に咽び続けていたという。
───
─── 木が軋む音。 足音は、二つ。 刺々しい髪型が特徴的な、少し不安げな顔の少年と、 齢一桁と見紛う、というかそうとしか見えぬ少女(?)が とある木造校舎の廊下を闊歩する。「さっきの様子だと、上条ちゃんは念術を見たのは初めてなのでしょうか?」 くりくりとした愛らしい目を向けて、そんなことを聞いてくる。 当麻は思わずどぎまぎしながら「ええ」とだけ答えた。「ふむ、じゃあ歩きながら説明しましょうか」 と、若干歩みを遅くしながら手振りを交えて説き始める。「まず、あれはただ青ピちゃんの腕力だけで叩き割った訳ではありません」 あれ、とは先刻の騒動のことだろう。 しかし腕力だけでは無いとはどういうことか、当麻はまだ掴みあぐねた顔をしている。 小萌は教師らしく、分かりやすく噛み砕くようにほつりほつりと説明を続ける。「あれは所謂、念術……まあ御伽噺(おとぎばなし)で言うところの、あやかしの術、といった所でしょうか」 そこまで言って小萌は一旦話を切り、当麻の反応を探るように目線を向けた。 一方の当麻は、急な話の飛躍に戸惑いを隠せないでいた。「あやかしの術……ですか」 随分胡散臭い話になったぞ、という怪訝が隠し切れずに言葉の節々に覗く。 それに対して、小萌は少し困ったような顔をしながら言葉を紡いだ。「はい、すぐには信じ難いかもしれませんが、理屈は通っているのですよ」 突拍子も無い会話の中で、理屈、という言葉がやけに浮いていた。「そうですね、少しやかましい話になるかもしれませんが、我慢して聞いてくださいね」「はあ」「まず、私達は物事を観測することで、様々な事象を認識しています」「……」「簡単に言ってしまえば、林檎(りんご)を見る、そして私達は、そこに林檎がある、と認識する訳です」「はあ、成程」「では、逆だったら?」「逆?」 それを聞いて当麻は思わず歩みを止めそうになった。 おかしなことを言うものだ。りんごを見る前にりんごを想えと云うのか。「つまり、林檎が在る、と認識すれば、そこに林檎が現れる訳です」「そんな馬鹿な」 品の無い言葉が思わず口をついて出てしまった。 小萌の機嫌を損ねてしまうのでは……と、怒らせるというよりむしろ泣かせてしまうのではと心配したが、 当人は特に気にした風も無く、淡々と口を開いた。「それを可能にするのが、洩出型亜現物理上無自覚性精神行動状態拡散力場……通称・洩亜無(ヱアム)力場なのです」「え? へ?」 突然念仏のような節を言われて面食らってしまい、間の抜けた声が漏れる。 と、小萌が申し訳なさそうな顔をして、もう一度、今度はゆっくりと告げる。「ヱアム力場。 まあ、學者さん達の付けた名前なので、仰々しいのは勘弁して欲しいのですよ」「はぁ……まあ、つまり、それのおかげで……念術?が使えると……」 どうも、『學者がそう言っている』という手合いには弱い。 にわかには信じ難いが、どういう訳か信じてしまいそうになる。 しかし、と当麻は思う。 実際に目にしたのだ。青ピが机を叩き割るのを。 すぐに信じる訳にはいかない。 しかし、信じない訳にもいかない。 ふむ、と一旦様々な思いを胸に落とすと、改まった調子で小萌に声を掛ける。「それで、青ピは念術を使って、あの怪力を出した、と、こういう訳ですね」 所々念を押すように確認を取る。 これは一応は小萌の言うことを信用したという当麻なりの表現でもある。 それを受けて、それまで曇り気味だった小萌も瞬時に明るさを取り戻した。 やはり彼女としても、当麻に信じてもらえるかは不安だったのだろう。「はい! 青ピちゃんは階級参の肉体強化でして……あ、」 ふと、思い当たった様な顔をする。「ついでに説明しちゃうとですね、念術を使う人を術士と言い、更に六段階に分けられるのです」「六段階?」「ええ、まず、念術が使えない人を階級零、ここから更に階級が上がると、最大で階級伍になります」「はあ、階級が上がるにつれて、念術の使い勝手も良くなる、という訳ですね」「その通りです!階級伍ともなると、軍隊一個師団相当の力があるとされます」「ぐ、軍隊!?」 そういえば、階級弐と言っていた青ピですら相当な強力(ごうりき)に思える。 更に三つも上がれば其処まで行くのかと、何だか薄ら寒い物を感じてしまう。「ええ、ですが神術士(しんじゅつし)はそうそうは存在しなくて……」「神術士?」「ああ、ええとですね、階級零を無術士、壱を底術士、弐は並術士、参の人は旺術士、四を皇(こう)術士」「……」「そして、階級伍の人々を神術士、と言うのです」 一息に喋って疲れたのか、小萌は一旦深呼吸をした。 説明にお疲れのところを済まないが、当麻にはどうしても一つ聞きたいことがあった。「あのう……」「はい?」「俺も、なれるんですか、術士に」 男の子なら誰もが持つ、強さへの憧れ。 自分も怪力を持てるのかと期待に胸が膨らんでしまうのも致し方あるまい。「それは、今からの測定次第なのですよ」 大人らしい悪戯っぽい笑顔を向けながら小萌がなだめるように諭す。 そして「それに」と続けた。 「それに、測定するのは階級だけでなく、型もですからね」「型?」 また新しい単語が飛び出し、せっせと記憶領域に詰め込む。「ええ、青ピちゃんのように肉体強化だけでなく、火を灯したり、水を繰ったり、様々な"型"があるのですよ」 なるほど、馬鹿力だけでは無いのか、と。 それはそれで更に期待が増えるというものだ。「大体型が分かったら、己だけの現実も定まりやすいですからね」「己だけの……現実?」「ああ、己だけの現実っていうのは、ヱアム力場が可能にする"観測"の"結果"なのです」「……?」「つまりええと、さっきの林檎の例えですと、"林檎が在る"というのが己だけの現実で、それが念術の源となる訳です」「はあ、つまり思い込めば現実になる……と?」「まあ、言ってしまえばそういうことです」「成程……」「それに付け加えると、『術称』を付けることで、より『己だけの現実』を確固たる物に出来る、という性質もあります」「どういうことですか?」「まあ要するに、ただ林檎が在ると思うよりも、『林檎が在る!』と叫んだ方が、術は発現しやすい、ということですよ」 発する言葉は自分で決めてしまえば何でも良いんですけどね、と小萌は続けた。 そういえば、と当麻は思い出す。 青ピが例の場面で何やら叫んでいたことを。 ────「唖槌(あづち)!!」 今思えば、あれが青ピの術称とやらだった訳だ。 ここ数分で随分と新しい知識を詰め込んだ気がする。 稼動し疲れた頭を軽く揉みほぐしていると、小萌がある部屋の前で歩みを止めた。 部屋の引き戸には『臨時測定室』の札が掛かっている。 「では」、と彼女が芝居めかした口調で引き戸に手を掛ける。「上条ちゃんの念術測定を行いまーす!」 小萌が勢い良く扉を引き開けると、部屋の中には様々な器具が所狭しと並んでいる。 見たことも無い計器類。棚にぎっしりと並んだ硝子瓶や書籍等々。 年頃の少年の冒険心をくすぐるには十分だった。「っよろしくお願いします!」 一体どんな結果が出るのだろう。 自分はどんな念術が使えるようになるのだろう。 期待と希望に胸が張り裂けんばかりのこの少年。 その末路を、懸命な読者諸君は既にご存知かもしれない。 しかし、せめて せめて一時の幸せだけでも、願ってあげようではないか。 その無情な結果が出る迄は。
上条「不幸だ……」 冒頭から軒並みかつ期待その他ぶち壊しな台詞を吐いているのは 我らが主人公、上条当麻である。 その主たる人物が机に突っ伏してうなだれているのには理由がある。土御門「かみやん、元気だすにゃー」青ピ「そうそう、別に念術が使えんかて死ぬ訳やなし……」 そう。あれ程期待に胸を躍らせて挑んだ念術測定だったが、出た結果は"階級零"。 結局、術を使うことの出来ない、所謂『無術士』の烙印を押されただけだったのだ。上条「ふーんっ! お前らはいいよなっ! 術士さんよぉ!」 拗ねた様な声を出してぷいと横を向いてしまう。 自分でも餓鬼臭いと思うが、こう自分だけ除け者にされは致し方あるまい。青ピ「も~機嫌直しぃや~」 しかし海栗頭の少年は、ふてくされた猫のように背を丸くして窓の外を眺めるばかりだ。 更に、外は土砂降りの豪雨が降りしきり、時折遠くで雷鳴が響いているという生憎過ぎる天気。 まるで彼の機嫌の様に大荒れである。土御門「術士ゆーても、外でおおっぴらに術を使える訳でもないんだぜい?」 その言葉にぴくりと耳を傾ける。上条「どういうことだ?」 そう言って机に伏した姿勢のまま、首だけめぐらせて元春の方を向けてやる。 土御門「喧嘩なんかに術を使ったら、じゃっぢめんとに引っ張られちまうぜい」 難しい顔をした元春が答え、青ピがそれに続ける。青ピ「そうそう、下手したら"あんちすきる"のお世話になるかもしれんしなぁ」上条「あんちすきる?」 また聞き慣れない単語が飛び出して、つい聞き返してしまう。青ピ「まあ、學園都市の警察みたいなもんや、じゃっぢめんとは學生警邏隊、っちゅーとこかな」 成程、と納得しながら、当麻は先日会ってそれっきりの飾利のことが頭に浮かんでいた。 確か彼女もじゃっぢめんとだと……そしてその先輩の……白井黒子?と言ったっけ……。 その子も確かじゃっぢめんとだったはずだ。 ここ最近、新しい知識を詰め込んだせいで 心太(ところてん)方式で追い遣られている古い記憶を必死で掘り起こしていると、 思い出したように元春が言った。土御門「あー、でも中には街中で術を使ってくる悪い輩もいるからにゃー、かみやん、気をつけんといかんぜよ」上条「そんな奴らがいるのか」 自分の様な階級零の無術士がそんな者々に絡まれたら成す術も無い。 何だかまた暗澹たる気持ちが当麻に広がり始める。土御門「最近なんかは、"音"を使う厄介な術を繰る三人組がいるらしいぜい」 うちの生徒も何人か金を巻き上げられたらしいにゃー、と続ける。青ピ「ああ、はよじゃっぢめんと辺りが捕まえてくれるとええんやけどなー」 腕組みをしてうむうむと頷く青ピ。 そして、新入りたる当麻が學園都市の治安について少し不安を感じ始めたところで、土御門「あ、でも」 元春が少し眉間に皺を寄せながら零した。土御門「術を使うって点では、そいつらより性質が悪いのが……いるかもしれないぜい」
─── 当麻達が教室でだべっているその頃と時を同じくして、 舞台はとある地区の、余り治安の宜しくない路地裏へと移る。 数間程離れた學校で自分等のことを話のねたにしている男達がいることも知らず、 "最近噂の音系術士の三人組"が土砂降りの中を早足で駆けていた。「ったくよぉー!ツイてねぇよなぁ!こんな土砂降りん中駆けっこなんてよぉ!」 髪を後ろに尖らせるように撫で付けた男が仲間二人に怒鳴る。「誰だよすぐ止むから大丈夫っつったのはよぉーっ!!」「悪ぃ悪ぃ~、まさかこんな酷くなるたぁ~思わなくてよぉ~」 他の二人から少し遅れてどすどすと重々しく走っている、小太りの男がそれに答える。 雨で濡れ鼠になっているが、そうでなければ汗だくだろう。「……ごらぁ!ぐっぢゃべっでねえで、雨宿り出来んどご探んぞ!」 一際ごつい体をした熊のような先頭の男──恐らく彼らの頭目であろう──が、 後ろの二人にどすの利いた声を掛ける。 へーい、と鷹のような髪をした男が、風貌宜しくきょろきょろと鋭い目線を巡らせる。 と、その眼光がある建物の前で止まった。 それは古びた煉瓦造りの四角四面のビルヂングで、どうやら今は使われていないらしい。 頑強に入り口は閉ざされて色褪せた立ち入り禁止の紙が貼り付いている。 目を付けたのは建物それ自体では無く、入り口付近の出っ張りである。 雨を凌げる面積はやや狭いものの、雨宿りにはうってつけだ。 おうと仲間に声を掛ける鷹頭だが、入り口に目を戻すと同時に「ん」と眉間に皺を寄せた。 屋根の下で小さな黒い影が動く。 どうやら先客がいたようだ。 屋根の下には一人の少年がぽつねんと佇み、ぼんやりと長雨を眺めていた。 ハンチング帽を目深に被った彼。 學園都市にしてもまだ珍しい、釦(ぼたん)留めのシャツを身に着け、 下はサスペンダーでキュロット(半ズボン)を吊っている。 帽子の端から覗く橙掛かった茶髪も、"英国少年振り"に拍車を掛けている。 足元の足袋と草履だけが、唯一の彼の日本人らしさの表れであった。 三人組が入口に駆け寄る。 見れば、四人がゆとりを持って入れる程広くは無いようだ。 小太りの男が舌打ちをして少年を見遣る。「おい坊主、そこどきな」
そこで初めて少年が顔を上げて三人組を睥睨した。 その眼光に、割と"鳴らした"不良達が一瞬怯む。 が、鷹頭がそれを誤魔化すように巻き舌で凄んで見せる。「あぁぁん!?なんだぁてめぇその面はよぉ!舐めてんのか!!」 ぐいと顔を近づけて唾を撒き散らす男に軽く顔をしかめると、 少年はハンチング帽を親指で押し上げて、苛立った声を出した。
・・・ ・・・
「あんたら、あたしが誰だか分かんないの?」 少年然とした格好が実は少女であったとか、それとも男装癖のある童女なのかとか そういった疑念は一旦放って置いたのか、激昂した鷹男が尚も唾を飛び散らす。「ああぁぁあ!? 何だてめぇーその口の利き方はよぉーっ!?」 男が拳を振り上げる。 "少女"は軽く溜息を一つ付くと、苛立ちを吐き出すように、呟いた。「棲雷(すまうら)」
上条「もっと性質が悪いって……どういうことだよ?」 横殴りの雨が窓を叩く。 少し蒸し始めた教室で、当麻は頬杖を着きながら言(ごち)る。上条「そうやって無闇に術をを使ってくる不良より悪者なんて、上条さんには想像も付きませんよ」 お手上げ!の格好でおどけてみせるが、元春は眉間の皺を解かずに言葉を続けた。土御門「いや、悪者って訳でもない……うーん、悪者はいずれ捕まるからええんやけど、その……」 何やら言いあぐねている元春に、それまで黙って聞いていた青ピが助け舟を出した。青ピ「術士の階級が伍まであるって話はしたよな?」上条「ああ」 その件については小萌先生から手解きを受けている。青ピ「まあ、僕ら學園都市の生徒は等しく奨学金を貰っとる身や……研究対象としてな」 自身が実験の材料であることにやはり抵抗があるのか、後半は少し言い淀んだ。青ピ「それが、稀少な階級伍の神術士ともなれば、そりゃあ金の卵の扱いよ 奨学金も桁違いや」 それに加えて、と青ピがいつに無く真剣な声を絞り出す。青ピ「學園都市の警察機構も、おいそれとは手を出せん身分、という訳や」 元春は口をへの字に曲げて腕組みをして聞いている。 その内心は当麻にも分かる。そりゃあやるせない心持ちだろう。 學園都市に来て間も無い頃、舞夏に言われた言葉がふつりと浮かんでくる。 『身分』。青ピ「ま、めったに遭うことは無いし、見掛けても速攻で逃げてまえばええんやけどね」 そう言って、それまで締めていた顔の筋肉を緩めると、青ピは何時もの微笑みに戻った。上条「うへぇ、確かにそんじょそこらの不良よりも怖い存在だなぁ」 何かしら良くない話題は自身に降り掛かるという不幸体質の持ち主は、 ふと脳裏に走る嫌な予感に顔を顰(しか)めるしか無かった。上条「それで、どんな奴なんだよ その階級伍ってのは」
─── ごしゃり、と鈍い音が響いた。 後の余韻は激しい雨音に掻き消された。 しかし、男の背を貫き腹まで刺さる痛みは消えてくれない。 むしろ鼓動に合わせてずきんずきんと内臓をえぐる鈍痛は吐き気となって喉を震わす。「げはっ!? あ、が、なああぁぁっっ!?」 男は混乱していた。 とうとう立っていられない。 膝を着き、したくも無いのに地面の雨溜まりに映る自分の顔を拝む。(何だ……!? 何をされたってんだ!?) 鷹の様な突々(とげとげ)しい髪型とは裏腹に、何とも情けない顔で自分の背後をぎこちなく振り向く。 男が動転するのも無理はない。 . . . ... . ... .. . . . ... . .. . . . . . . .. . 自分が殴りかかった少女が背後から蹴り込んで来たのだから。 静寂を破ったのは頭角、熊男の怒声である。「気゙ぃ付゙げろお! こいづ、術士だ!!」 それと同時に小太りの男も少女から一旦離れ、警戒の態勢を取る。 鷹男も何とか立ち上がり、彼女を睨み付けると攻勢の構えを取って見せた。「てめぇ……よっくも……」 月並みな攻め口上を吐き捨てて、仲間二人に大声で吠える。「おいっ!!こいつ、肉体強化系だっっ!!間違いねぇ!! 俺達の敵じゃねぇっ!!」 拳を避けて背後から攻撃なぞ、そんなちんけな攻撃が出来るのは身体強化以外有り得ない……っ!! そして鷹男は確信していた。 そんな単純な術を使う奴なぞ、俺達の敵では無いと。 三者の仇に囲まれて尚、少女はつまらなそうに突っ立っていた。 彼女にとっては雨宿りを邪魔されて、挙句ずぶ濡れになっている現状が面白い訳が無い。 その飄々とした佇まいが男達の神経を逆撫でした。 最初に癇癪を爆発させたのはやはり鷹男だった。 ぎりと歯を噛むと、勢い良く息を吸い込む。「擬音(ぎおん)!!」 男がそう叫ぶと同時に、 . . . . .. . . . . ... . . . 突然少女に向かって雨粒が弾けた。「っ!」 何かを察知した少女が素早く地に伏せる。 純白のシャツに泥水が染み込む、と同時に 彼女の上を何かが"ぶっ飛んだ"かと思うと、 背後から耳を劈(つんざ)く破砕音が響いた。 続けて瓦礫の崩れる音。 蹲(うずくま)る少女の上に容赦なく煉瓦の破片が降り注ぐ。 少女がちらりと振り向くと、背後の煉瓦壁が まるで"馬鹿でかい刃物で斬り付けられた"かのように醜く抉られている。 見えた。 『雨を切り裂きながら突っ込んでくる空気の刃』が。「どうだぁ? ちったぁ驚れぇたか」 口端を吊り上げながら男が嗤う。
少女はそれに応えるでも無く、ただ自分の服を大きく侵した茶色い染みに目を注いだ。 そしてまた、一つ溜息を付いた。 「あーあ、これじゃまた黒子に何て言われるか……」 彼女の落ち込んだ様子に勘違いしたのか、気を良くした鷹男の高笑いは止まらない。「ひゃはははぁ! びびって声も出ねぇかぁーっ! 俺の階級参の念術、"音の斬撃"は、見えない刃っ!!」 機嫌良く弁を流す男とは対照的に、少女は俯いたまま突っ立っていた。 時折ぴくりと体が震える。 他の何物でも無い──苛立っているのだ。「もう一度喰らいなぁっ!」 男が威勢の良い口上と共にもう一度大きく息を吸い込む。 同時に、少女が再び何やら呟いた。「擬……!」 言い掛けた言葉の続きの代わりに、男が吐いたのは血飛沫だった。「!? !?」 再び腹に耐え難い鈍痛を叩き込まれた事に気付く。 男はまたも混乱の渦に突き落とされた。 己の技は音速のはず。 それを超える攻撃をされたのか。 いや、肉体強化なんて"分かりやすい"術にそんな迎撃が出来るはずは無いっ! しかし、腹には既に座布団程の血染みが出来ていた。 痛みで気を失いそうになりながらも、 何時の間にかどてっ腹に開いた穴──赤黒い液を吐き出すそれを必死で手で押さえる。
身を裂くような痛みと腹の違和に、顔を引きつらせ、まるで笑っているかのような、情けない表情(かお)で 蹲(うずくま)り、のたうつことしか出来ない。 それを端整な澄まし顔で見つめる少女。 その目には何の恐れも、躊躇いも、映っていない。 男が呻いたと同時に、その腹から何かが零れた。 それは硬質な音を立てて道に転がる。 男はその金属音にびくりと体を震わせた。 転がり出たそれは、血に塗れたことを除けば、何処にでも有りふれた ただの、銅貨だった。 男の目が大きく見開かれる。 がくがくと噛み合わない顎で、懺悔者の様な声を零した。「おま、え……ま、さか……」 同時に、それまで呆気に取られていた二人の男達も焦った様子で彼女に向き直る。「た、大将! この女、もしかして……!」「ぎ……貴゙様……!」
上条「レヰルガン?」
これまた難しい言葉が出て来たぞ、と当麻がしかめっ面をしてみせる。 それに特に気を払うでもなく淡々と説明を続ける元春。土御門「そう、零路鬥(レヰルガン)。 神術士の一人だにゃー」上条「随分けったいな名前だな、それが通り名か」青ピ「路(みち)で鬥(たたか)えば零刻(いっしゅん)でぶちのめす、けったいどころかおっそろしい名前やで」 そう言って親指を立てて首を切る動作をしてみせる青ピ。 冗談めかしてはいるが、確かに恐ろしい話だ。土御門「街中で遭う階級伍って言ったら、その女しかいないにゃー」上条「へえ……って女なのか!?」 物騒な呼び名から、勝手に喧嘩っ早い大男を想像していただけに驚きも一入(ひとしお)だ。青ピ「ああ、しかもまだ中等學校生って噂やし……いやー若者は怖いのう」土御門「全くだにゃー、日本の未来はどうなってしまうんだにゃー」 鮮やかな青髪に西洋の耳飾の六尺男と、黒眼鏡に肌見せの崩し着を纏った金髪漢がそんなことをのたまう辺り、 まだまだ日本は平和なのかもしれない。上条「ちゅ、中學生で"鳴らして"んのかよ!? すげぇな……」 決して誉めている訳では無く、これからその糞餓鬼……いや、術士様を恐れながら生きていく暮らしに嘆息しているのである。 やれやれ、と言った感じで机に体を預ける当麻。 これから自分に降り掛かる不幸を嫌々予感しているのだろうか。上条「あ、ところで……どんな術を使うんだ? その……零路鬥(レヰルガン)ってのは」 そう聞かれて困ったような顔をする元春。 ぽりぽりと頬を掻きながら、「分からないにゃー」とだけ答えた。上条「分からない?」土御門「ああ、何だか噂に寄ると……こう、"天災的"らしいぜい」 はあ、と返す当麻だが、当然意味は分かっていない。 なんだ、天災的って。上条(まあいいか、今後関わることも無いだろうし) そう考えて伸びをしようとしたその時。 相当近くで落ちたのだろう。 凄まじい光が照ったかと思うと、地を揺るがす轟音が鳴り響いた。 教室で女子の叫び声が連なる。 突然の出来事に心臓が早鐘を打っている。 当麻はごくりと唾を飲み込んでみた。土御門「落雷……?」青ピ「今のは近かったなぁ……」上条「…………」 俺は何か、雷様を起こらせるようなことをしたかしら。 そんなことを考えながら臍(へそ)の辺りを押さえる当麻は、 勘は良くても運の悪い、そんな何処にでもいる、階級零。
─── 相当近くで雷が落ちたらしい。 馬鹿でかい音に耳がきんきんと痛む。 しかしそんな事は、どうでも良かった……この三人にとっては。 ばちり、と青白い火花が散る。 それも、少女の指先からだ。 ───よっぽど性質の悪い雷が、目の前に『堕ちて』いた。「てめぇ……零路鬥(レヰルガン)……御坂美琴(みさかみこと)……だな?」 男が口の端から血を垂らしながら、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。 その余りに哀れな姿に多少の慈悲を感じたのか、 無言を守っていた少女がその口を開いた。「へぇ、最近はあたしの氏名まで広まってんだ 面倒臭いわね」 黒子に言い逃れ出来ないじゃない、と嘆息混じりに零す表情は歳相応だ。 逆にそれが、零路鬥──御坂美琴が恐れられる所以である。 . . . .. . . . . . . . . .. .. . 子供特有の、無邪気さ故の躊躇いの無い圧倒的暴力。「この銅貨を……飛ばしたのか……がはっ」 信じられない、と言ったように血反吐と共に吐き捨てる。 それもまた億劫そうに、美琴が口を開いた。 ..「ええ、私は肉体強化でも何でもない……これ、電気っていうらしいけどね……要は雷よ」 そう言いながらばちばちと自身の周りに青白い電光を弾かせる。 その様子に三者とも口惜しさと焦燥の入り混じった顔を向けることしか出来ない。 絶望の余りか、血を失い過ぎたのか、鷹の男はがくりと頭を垂れた。「体に雷様を憑かせて素早く動くことも出来るし、金物を自由に動かすことも……ま、いっか」 やはり面倒臭くなったのだろう、やや大きめのハンチング帽をぐいと押し上げると、 小首を傾げて軽く微笑んだ。「もういいや、誰かに見られても面倒だし、さっさと終わらせよ」 二人の男がいきり立つ手前で事も無げに言ってみせる。
ついに噛み付いたのは、小太りの男だ。 怒りに満ちた目で美琴を見定めると、一息に肺に気を溜めた。 それを見て、美琴もまた呟く。「棲雷(すまうら)」 先程言った、体に雷を纏う術だ。 理屈は良く分からないが、こうすると動きも早くなるし、かなりの怪力だって出せる。 まあ、その後の筋肉痛には閉口するが。 そして、零路鬥(レヰルガン)。 ポケットから銅貨を取り出し、構えた拳の親指から弾丸の様に放つ。 普段は手加減して撃っているが……全力を出せばそこらの鉄板なぞ簡単に撃ち抜くことが出来る。。 その威力に加えた圧倒的瞬発力は、今や素手から銅貨を取り出して撃つまでは"零刻(しゅんかん)"と称される程だ。 最も、それは血の滲む様な反復練習の賜物である。 この太った男に、速攻で零路鬥を叩き込んでやっても良い。 しかし少しこいつらの術にも多少の興味が無い訳でもない。 一旦、棲雷で避けてからとどめを刺す、というのも一興だ。 美琴の口元に余裕の嗤いが漏れる。すると、意を決したのか小男が雄叫びを上げた。「音吹汰(ねぶた)っ!!」 その瞬間、傍らの建物の硝子という硝子が、残らず砕け散った。 それと全く同時に、美琴の耳がおかしな違和感を感じる。 耳を塞がれたような、妙な閉塞感。 不味い、と感じるのと同時であった、美琴の視界がぐらりと歪んだのは。「くっ……」 唇を噛み締めて、一旦美琴はその俊足を駆って場を離れようとする。 が、「っ!?」 足がもつれ、その場に無様に転んでしまった。 耳の違和、そして体の不調、間違いない……この攻撃は……。「気゙付いだがあ?」 太った男の斜め後ろに、熊男が身構えている。 といってもそれは防御の姿勢では無く、相撲取りの片張り手のように掌を突き出した、 攻めの構えである。「そゔ、ごいづの攻゙撃は死゙角無じの超゙音波攻゙撃 避げるごとなぞ出来ん゙」 ドスの利いた声で勝ち誇ったように言い放つ。「いぐら階級伍ど言っでも゙、三半規管が狂え゙ば立つごともでぎまい゙」 ましてや、と尚も熊男が続ける。「零路鬥で狙うごとなどでぎまい゙て」 怪音波の根源、太っちょの男がにやりと嗤う。 『避けよう』という選択自体が、最初の男の攻撃に釣られていた。 完全に美琴の誤算であった。「そじで俺が……」 熊男が目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。 美琴の頬を汗が流れる。「鈍鐸(どんたく )!!」 熊男の、咆哮。 そして、男の目の前が"爆ぜた"かと思うと、その爆発は次々と地面の石畳を抉り飛ばして 美琴へと突っ込んでいく。 さながら、超弩級大砲弾の迫撃。「吹゙っ飛゙べええ!!」 『衝撃特化型』の音波攻撃。 喰らえば神術士の美琴と言えどもただでは済まない。 瓦礫を撒き散らして迫り来る爆風が、ついに少女の眼前に迫る。 地べたにへたり込んだ美琴が、観念したようにその目をと瞑った。 そして破壊の権化たる、衝撃波の塊が 美琴を 飲み込んだ。「きゃああああああああああああっ!!」 しかし哀れ、 少女の悲痛な叫び声は、破壊が巻き起こす轟音に掻き消されてしまう。「ぎゃばははははあ゙!! やっだぞお!」「や、やったぜ大将~! ついにあの御坂美琴を殺ったぜ~!」 手を取り合って喜ぶ二人。 一人の少女を吹き飛ばした直後にしては、何とも和やかな一場面である。
しかし、そんな微笑ましい情景を切り裂くように、 背後から冷たい声が刺し込まれた。「へぇ、あたしを倒したのがそんなに嬉しいんだ」「!?」 聞こえるはずの無い、声。 馬鹿な。「三半規管? 御生憎様、そんなものこっちは……」 風切り音が薙いだと思った次の瞬間、あらぬ方から鈍い打撃音が起こる。 熊男が慌てて音のした方を向くと、そこには 相棒の腹に深々と肘を埋め込んだ美琴の姿。 超高速の肘鉄が繰り出す"一点破壊"が容赦なくその内臓を、抉る。 男は一言も発することも出来ずに、白目を剥いて膝を着いた。 この高速移動で散々鍛えられてんのよ、そう呟くと 美琴は肘を引き抜いて、退屈そうに髪を掻き揚げた。
食らったように見えたのは全て、演技。 そして相棒二人があっさりと、 ───残る唯一人は身動ぎも出来ず立ち尽くしていた。 額にじっとりと汗が噴き出している。 しかし恐怖に固まっていたその顔が 何かに気付いた様に、目を見開いた。 悪魔が……地面に倒れ伏す太っちょを見下ろしたのだ。 .. .. .. . . . . . とびっきりの冷たい眼で。「や゙……や゙めろ゙お!!!」 ……微かに、少女の口端が吊り上がる。 そして 泡を吹いて寝ている『それ』の顔面を、思い切り蹴り飛ばす。 相当の勢いと威力なのだろう。 首が捻じ切れんばかりに"吹っ転がって行った"。 ごとりとその動きが止まるのを 待たなかった。「ゔがあ゙あ゙ああああああああ゙あ゙ああ!!!」 正しく、熊の咆哮。 びりびりと辺りの空気が振れる、震える。 その一瞬、雨音、雷轟、全ての音が、静止したかの。 どんだぐ 「 鈍 鐸 っ!!!」 ぶち切れんばかりの、いや、既に焼き切れているであろう血管を全身に浮かせ 學園都市の熊が、吠える。 此れ迄とは比に成らぬ爆風が弾けた。 石や煉瓦は砂へと回帰し地に舞った、雨粒は一切の分子まで飛散した。 その"余震"で傍の瓦斯(ガス)灯は根元からへし折れ彼方へ吹き飛んだ。
もはや階級を飛び越したであろう"破壊の一切合財"が美琴を喰らわんと突進する。 それでも尚、"小さな雷様"は微笑を崩さない。 避ける、かわす、退く、何れの選択も、下さない。 「零路鬥」 . . . . . . . .. . . .. . . . . 一筋の槍がひたすら真っ直ぐに飛んだ。 それだけだった。 只それだけで──凄絶な衝撃波の塊を、あっさりと貫いた。 芯を抉られた破壊の渦は霧散し、掻き消される。 そして一閃の槍と化した銅貨は、熊の顔面──下顎を容赦無く撃ち抜いた。「っ!!?」 もんどり打って吹き飛ばされる熊男。 衝撃波に緩和されて幸い喉には至らなかったが、その意識を刈り取るには十分な威力だった。 びくりと全身を震わせたのを最後に、ぐったりと動かなくなった。 少女がハンチング帽を目深に被り直す。「……弱い奴は弱い奴でのうのうと生きてればいい」 その台詞を聞く者は、もはやこの場にはいない。 一人の悪魔を除いて。「強い奴に喰われる、その日まで」
全てが元に戻った。 雨音だけが、支配する世界。 少女はぼんやりと空を眺める。 まだ止みそうも無い。 はあと一つ溜息を付いて ぴしゃり、ぴしゃりと一歩ずつ。 雨に濡れながら、帰路につく。 後に残るのは、何も無い。 在るのはきまぐれな爪跡、それだけ。
ぴかぴかに磨き上げられた廊下に、濁った泥水が足跡を刻む。 清掃係が絶叫しそうな濁川を作りながら小奇麗な寮の中を闊歩する少女。 たっぷり水を吸ったハンチング帽から雨を滴らせて、あるドアの前で立ち止まった。 物憂げに表札を見上げると、何だか投げやりにノックをしてから取っ手に手を掛ける。美琴「はぁ……ただいま」 そっとドアを開けながら、一応は帰宅を呟いてみる。 ドアが微かな軋みを立てながら、世界の隙間を広げていく。 願わくば、この服を洗濯するまでは一人の世界が良いのだが。 そんなささやかな願いを打ち砕くような、喜色満面の声が部屋の中から響いてきた。黒子「お姉様ぁ~んっ! おかえりなさいませっ!」 左右に束ねた巻き髪を跳ねさせながら、ばたばたと騒がしく駆け寄って来る同棲相手の少女。 彼女こそ風紀委員(じゃっぢめんと)の一員であり、飾利の先輩たる白井黒子である。黒子「んもぉっ!お姉様ったらまた門限ぎりぎりに帰ってきなさってっ!黒子は心配で心配で……」 自前の白いハンカチを噛み咥えながら頭をぶるんぶるんと振る黒子。 そこには風紀委員を遂行する時の毅然とした面影は全く無い。 ただ、"お姉様"に憧れる普通の少女である。黒子「お姉様にもしものことがあったら……黒子は……黒子はぁぁ~……しくしく」 少し過剰ではあるが。美琴「いっちいち大袈裟なのよあんたは……」 いつものことながら、呆れ半分、疲れ半分の顔をしてみせる。 街では神術士として恐れられる彼女だが、後輩の黒子の前では一人の女の子だ。 水気を含んだ帽子をそっと脱ぐと、服の前にそっと当てて浴室へ向かう。 と、それを黒子が見咎めた。黒子「お姉様、その帽子はこちらに掛けておきましょうか?」 そう言って帽子掛けを指差した。 確かに服は浴室の籠に入れておくのが常だが、帽子は同様に洗濯する訳にも行かない。 ぐっしょりと濡れてしまってもいるから、掛けて乾かして置くのが吉だろう。美琴「い、いや、その、別にいいわよ、そんな」 急に慌て始める美琴に、怪しんだ黒子がずいと詰め寄る。黒子「お姉様……? 何か隠していませんこと?」 先程の真っ黄色の声からはうって変わって、何かを探るような言葉でにじり寄って来る。美琴「い、いや、ほんと何でも無いって……」 汗をたらりと流しながらも必死に弁解しようとする美琴。 しかしどうしても黒子と目を合わすことも出来ず、胸の前で帽子を持つ手に力が入る。黒子「! その帽子の下に何か隠していますわねっ?」 黒子の目がきらりと光る。 それにどきりと肩をすくめる美琴。 思わず後ずさりをして黒子から距離を取ってしまう。 しかしそんな素直な反応を見逃す風紀委員では無かった。黒子「ルレーブ!」 そう叫ぶや否や、黒子の姿が揺らぎ、掻き消えた。 はっとした美琴が慌ててきょろきょろと辺りを見回すが、黒子「お姉様……油断は禁物ですの」 すぐ真下から聞こえた声に驚いて見下ろす。 自分の足元にしゃがんだ状態で、黒子が見上げていた。 その手はしっかりと、件の帽子を掴んでいる。 これを引き剥がされては元も子もない。 美琴も渡すまいと必死で指に力を込めるが……黒子「ジョーゼット」 次の瞬間、既に帽子は黒子のもう一方の手にしっかりと握られていた。
美琴「あっ、あんた空間転移使うなんて卑怯じゃないっ!」 あっさりと隠蔽を看破された美琴がわたわたと言い責めるが、 当の風紀委員は帽子を指で弄びながらやれやれと言った様子で答える。黒子「お姉様、"くうかんてんい"なんて古臭い言葉ではなくて"てれぽおと"と言って欲し……あら?」 何かに気付いた様に眉をひそめる。 その視線は美琴の胸元──帽子でひた隠しにしていたその箇所である。 慌てて手で隠そうとするが、白いシャツに大きく広がった茶色い染みがそうそう隠せるものでは無い。黒子「お・ね・え・さ・ま?」 じとり。 正にそんな表現が似つかわしい曇り眼の視線が美琴に突き刺さる。美琴「いや、あはははは、これ、その、転んじゃって……」 じとり。美琴「あは、ははは……」 じとり。美琴「だ、だって……喧嘩売ってきたの、向こうだし!」 案外早く開き直る。 その台詞に一旦は卒倒しそうになるのを踏ん張った黒子が口を開いた。黒子「お姉様ぁぁぁっ!!また喧嘩事ですの!? あれ程、あれほど私闘はお止めくださいと言いましたのにぃぃっ!」 がみがみと説教を始める後輩に汗をかきかき言い返す。美琴「だって……だって、弱い奴が悪いんだもん!私は強いから勝った、それだけじゃない!」 もはや反論というか論なのかどうかすら危うい弁を振るう先輩に負けじと黒子も言い返す。黒子「それがお姉様の悪い癖ですのっ! 強さにこだわるのはいい加減にして下さいましっ!」
しん、と突然部屋が静まった。
強さにこだわる、その言葉が存外に効いた様だ。 急に口をつぐみ、唇を噛み締める美琴。 はっとした黒子が声を掛けようとしたが、
美琴「……あんたには……分かんないわよ」 そう言い放ち、美琴は浴室へ消えていった。
残された黒子は、ただ立ち尽くすしか無い。 美琴が何をしようと問題にならないことは分かっている。 しかしそれは"無罪"なのでは無い。"黙認"だ。 その事実が、歯痒い。 自分は美琴に憧れている。愛していると言っても良い。 しかしだからこそ、これ以上危険を冒す様な真似はして欲しくは無かった。 黒子の手から、するりと帽子が零れ落ちた。 ハンチング帽がたっぷりと吸った雨水が、 部屋の絨毯の染みを広げていく。 明日には、乾くのだろうか。 それとも。
コンコン、とドアをノックする音。 しばしの沈黙の後、「入りなさい」という声が内から響く。 ドアが微かな音を立てて開いた。介旅「失礼します」 隙間からお辞儀気味に顔を覗かせたのは初矢だった。 若干緊張を浮かべた顔で、しずしずと部屋に入り込む。 と、部屋の主──理事長がそれまで眺めていた書類から目を外し、 にこやかな表情を初矢に向けた。 そして初矢の緊張をほぐすかのように柔らかな口調で声を掛ける。「どうかしたのかい 介旅君」 艶やかな絹の様な、たおやかな笑みを向けられて、 初矢は同性ながらどぎまぎとしてしまう。 そもそも理事長は男ながらに中性的な顔立ちをしており、 その道の人間だったら一目惚れ間違い無しの美形なのだ。 どうやら初矢の緊張をほぐそうとした試みは裏目に出たらしい。介旅「あ、あの、報告です」 微かに頬を紅潮させながら、たどたどしく報告書を読み上げる。 ちなみに理事長の前では帽子を取っているので、ざんばらの髪が跳ね放題だ。介旅「上条当麻……階級零、確認しました」 そう言ってから、上目にこっそりと理事長の顔を覗き見てみる。 相変わらず柔らかな表情は崩していないが、その目は思慮深げに天井を見上げている。 そのちぐはぐな表情に焦りの止まない初矢だったが、 とりあえず報告は終えたのだと内心胸を撫で下ろす。介旅「で、では僕はこれで」 軽く会釈をして出て行こうとするが、後ろを向く途中ではたと止まる。 流石に理事長の「行って良し」が無ければ席を外すことは出来ない。介旅「あの、理事長……」 しかし、当の本人は胸の前で指を組み、考え深げ天井を見て……いや、睨み付けている。 初めて見る表情に、そくりと背中に冷やっこい物が走った。 介旅「り、理事長?」 返事は無い。介旅「理事長? 新井理事長?」新井「ん、 ああ、すまないね 考え事をしていたんだ」 そこで初めて彼──新井宮郎(あらい くろう)は初矢に目を戻した。 既にその面はいつものにこやかな物だ。新井「や、報告ご苦労 下がっていいよ」 手の平を向けて退室を促す。介旅「は、はい」新井「今日は少し疲れてしまったよ 私はしばらく休むとしよう」 それには答えず、初矢はもう一度軽く会釈をして出て行こうとするが、 ちらりと目の隅で理事長の姿を確認する。介旅(日がな一日寝っ転がってる理事長なんて、此処ぐらいなもんだろうな) 真っ白なベッドの上に横たわり、全身を管につながれている男を見て、 初矢は何だか複雑な心境になる。 日本國、いや、世界最大級の科學研究都市──學園都市を零から立ち上げた伝説的な人物…… しかしその体はこの生命維持装置無しでは数刻と生きられない……。介旅(この男の存在こそが、"科學の最先端"て奴なのかも知れないな……) しかしそんなことは自分にはどうでも良い。 少なくとも此処に勤めているうちはそれなりの待遇が保障されているのだ。 . . .. . . . . . . . . . . . . . . .. . .. . .. 別にこの男が上条当麻だか御坂美琴だかにこだわっていることは、どうだって良い。介旅「失礼します」 その台詞を最後に、微かな音を立ててドアが閉まる。 それっきり、理事長室は静かに、静かに、なった。
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