雪世という名前は、麗奈が夫や親族の反対を押し切って付けた名前だった。男、女どちらとも取れる名前。それが麗奈の狙いだった。3月に産まれた子は小・中学校、もしかしたら高校の間も同級生に比べるとひとまわり小さいままで過ごさなければならない。同級生より運動能力が劣っていたりするかも知れない。あるいは知能だって少し遅れ気味になるかもしれないと妊娠中に考えた末の結論だったらしく、その決意は固いものだった。本当のところは女の子が欲しくて仕方なかった麗奈が、たとえ生れてくる子が男の子であっても、女の子のように育てようという考えが初めからあったのかも知れない。新聞記者の夫は仕事が多忙で家にいつかないのは結婚して二年の生活で分かっていたし、どのみち育てるのは専業主婦である自分しかいないのだと知ったからでもあった。子は私の宝。子は私のもの。私の育てたいように育てる。
 実際、その育て方は度を過ぎていた。洋服はスカートこそ穿かせなかったが女の子のものばかり着せていたし、髪も常に肩までは伸ばしていた。その髪は茶色がかった柔らかなウェーブが掛かっていたからますます男の子には見えなかった。あげくは決して立ち小便はさせず、必ず女子トイレに入って便座に腰掛けて用を足させていた。さすがに小学校前には男子トイレで用を足すようにしつけたが、必ず念を押した。うんちする方でするのよ、と。何も知らない人は当然にしても、町内の人たちでさえ雪世という名前のあやふやさにも助けられて誰一人として男の子であるとは知らないで接していた。可愛い女の子ですねぇ。と言われても麗奈は黙って微笑むだけだった。嘘は言いたくないが本当のことも言いたくない。そういうことだった。
 幼稚園には通わせず、麗奈が教育をした。読み書き計算は小学校に入る前に、飛び級で四年生から始めても構わないほどになっていた。雪世も母と一緒に勉強することが楽しくて仕方なかったようで、時間が空くと、今日は何を勉強するの。そう言って机の上にノートを広げて待っているという具合だった。麗奈も雪世と一日を過ごすことが楽しくて毎日あれやこれやと知恵を絞って課題を探し出してくるのだった。結婚する前は小学校の教師をしていたこともあって教え方は理解していた。
 何事もなく、麗奈の思ったように育ったことに満足していた。だが、それも小学校に入るまでのことだった。小学校では男の子として過ごさなければならないことは麗奈も承知していたが、決して「雪世は男の子なのだから」とは言わなかった。父は口を開く度に「お前は男なのだから、もっと強くなれ」と言っては柔道や剣道を習わせようとして道場へ何度か連れてはいくのだが、麗奈が反対するだけでなく、雪世本人もまったく興味を示すことがなかった。雪世はそれよりも母親と一緒に台所に立つことの方が楽しく、野菜の飾り切りやケーキ作り、洗濯物をきちんと畳むことや、部屋の隅々まで綺麗に掃除することの方が性に合っているのだった。だがそれは麗奈の教育がそうさせたのかも知れない。もし雪世の生まれ出た最初から男の子として育てていれば違っていたのかも知れない。今となってはそれは分からないことだ。雪世の生来の素質だったのかも知れないし、麗奈の教育ゆえだったのかも知れない。
 小学校に入ってしばらくは何の問題もなく過ぎて行った。男の子らしさとか女の子らしさとかはまださほど強い意味を持たない時期であったが、それでも洋服がどことなく色彩が豊かで可愛らしい物を着ている雪世のことを賢一という男の子がからかった。
「おまえさぁ、女みたいだな、その服」
「着たい服着るんだもん」
「ひまわりの花だろ、それ」
「うん、ひまわり好きだもん」
「男はそんな服着ないぞ」
「そうなの?」
「おまえ、男だよな」
「そうだよ。男だよ」
「ほんとか、おちんちん見せてみ。おまえ、いつもうんちする方に入るじゃん」
「だって・・・」
「ほら、見せてみ。男ってのは、こういうもんよ」
そう言うと賢一はズボンを下げて、まだどこのもんとも知れない柔らかないち物を出した。
「いやだ、見せない」
「やっぱし、女だろ。オマエ」
「違うもん」
「だったら見せろよ」
そこへ二人の話を聞きつけたクラスの他の子達が寄ってきて囃した。みせろ!みせろ!みせろ!みせろ!女の子までが笑いながら手を叩いて合唱している。
「いやだ」
後ろの方で誰かが叫んだ。
「脱がしちまえ!」
雪世は皆の勢いに押され後ずさりしながら両手でズボンの前をしっかりと抑えた。が、その抑えたことがいけなかった。囃し立てる子たちの興奮はかえって増していき、ついに女の子のひと声が発せられた。
「雪世くんのおちんちんが見たぁ~い」
前列で囃していた男の子数人が雪世に飛びつくとズボンに手を掛けた。そのとき、なぜか賢一は小さな声でこう言った。「やめろよ・・・」だが、もう遅い。雪世の抵抗は全く意味を成さず、あっという間にズボンはズリ下げられた。
「あっ・・・」一瞬の沈黙が辺りを支配した。目を背けていた賢一も、その静寂の理由を知りたくてズボンのズリ下げられた辺りに目をやった。
 見てはならぬもの。決して大人には他言してはならない重大な秘密。まるで子供たちしか知ることが許されない幻想的な世界への鍵の在りかを知ってしまったことの驚愕と喜び。誰もが一度は通らなければならない子供たちだけの世界への扉が開かれようとしているかのようだった。
 だが、その思いはすぐに消えて子供たちの笑い声が辺りを満たし春の淡い空に木霊した。
 誰もが目にしたもの。それは赤いリボンだった。