過ぎし日々を思い出す時、私は必ず静止画としての視覚記憶から入る。次に匂いの記憶が蘇り、次々と前後する視覚記憶がフラッシュバックされる。それらの視覚記憶、つまり絵がどう繋がるのかの記憶が呼び起こされることで、ある種の動画の状態になって脳裏で上映されるのだ。
 だが、それは記憶の断片を無理に繋ぎ合わせようというこちら側の物語りへの依存性がそうさせるだけなのではないかと疑っている。
 本来、記憶の断片は、部屋いっぱいに散らかった写真であり、そこには何の繋がりもない。
 物語りを必要とする私がバラバラに散らかっている何枚かの写真を集めて繋ぎ合わせの作業をすることで生まれ動き出すシネマのようなものが、人生の物語りを形作る。
 つまり、私の過去は今この場所で作り出される、編集可能なシネマなのだ。こんなことを言うと、過去にしてしまった行為も都合良く書き換えられることになり、それは真実を見ないことになるではないかと思うかも知れない。例えば、私が盗んだチョコレート一枚への悔いは真実であると言えるかを考えてみた。チョコレート一枚を盗んだ記憶がある、というのは本当か?その記憶は事実か?たぶん、事実だろう。だが、誰がそれを知っているのか。誰も知らないのだ。
 私はひとり懺悔し、その記憶を思い起こすたびに、自身が罪を犯すに吝かでない人間であることを知らなければならない。だが私の今は、善良な一市民であり、それは去勢された法の元で何かを怖れる被支配者としての民草でしかない。チョコレート一枚の罪は永遠の罪に等しいのに私は許されてあるかのように暮らしを続けていられる。なぜだ!
 もしかしたら、チョコレート一枚の罪は無かったことだったのか?そのことを知る者はすでにこの世には、それが罪だと認める私自身を除いては誰ひとりとして存在しない。私を知る者はすでにこの物語りから抜け落ちてしまったのだ。神は知る?そうか、だが私は神を知らない。
 チョコレート一枚の罪はもはや私にとっては部屋に散らかっている一枚のテキストにしか過ぎないのかも知れない。そのテキストにはあの板チョコの絵が描かれていて、横に震える文字で書かれた罪という文字と共に黄色く変色しているのだ。放っておいても誰も拾うことにない記憶の部屋の片隅で風に揺れることもない。暗号ほどの謎も持たないただの記号と成り下がってしまっている。
 それを罪と感ずるためには、私自身が時々でも思い起して、他にある無数の絵とテキストの中から選択してシネマを作るほかないのだ。物語はこうしてひときりのカミソリの刃となって皮膚を撫ぜる自傷の罪となる。