『confrontAtion ―終息―』


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。



衣服を裂き皮膚を撫で肉を断つ感触。
血飛沫が舞い骨の軋む音。
それらの微細な感覚が鋼線を通じて里沙の指先に伝わってくる。

はずだった。

「え…?」

里沙は己の右手と眼を疑った。
手応えが、ない。
振り下ろした鋼線の先は無。
そこには空気以外の何物も存在しておらず、得物が獲物を捉えることはなかった。

一瞬、負った深手が視覚にまで影響を及ぼしたのかと思った。
だが違う。目に異常が生じたわけでも狙いを誤ったわけでもない。
そこに標的は“いなかった”のだ。
倒れ動けなくなっていたはずの亀井絵里。彼女はその場から忽然と姿を消した。

「やられた……」

頭をくしゃりと一掻き。里沙はこの大広間を見渡した。
ひびの入った壁。原型を留めない調度品。大量に散らばるなんらかの破片。
戦いの激しさを物語るには充分な光景だが、先程と比べて足りないものが一つある。
この現状を生んだのはそれだ。

武器を手にした里沙の前から人一人消える。否。消せる。
そんな芸当ができるのはこの場においてたった一人しか思い当たらなかった。

「…愛ちゃん……!」

高橋愛も姿を消していた。
恐らくはその力で亀井絵里を連れて。

がくり、膝が折れた。
脱力か安堵か、あるいは出血多量のせいか。
なんにせよ里沙は膝をつく。
張りつめていたものが解けていくような心地がした。

「なんで…そんな、勝手な……」

一度解けた感情は止まらない。
浮かんだ数多の「なぜ」と涙が堰を切ったように溢れ出す。

この十年という間を里沙は愛と共に生きてきた。
だから本当は、「なぜ」なんて思う必要はなかったのかもしれない。
愛の考えが里沙には手に取るようにわかった。
人には優しく甘過ぎて…だけど決して己には妥協を許さない彼女の心理。

愛は独りで幕を引きに行った。
里沙にその手を下させないために。
さらには仲間意識と職務意識の狭間で揺れ動く自分自身に引導を渡すために。

勝手過ぎる。
しかしそれが高橋愛という人間だった。

そしてこれが、新垣里沙という人間の姿。
誰より近くにいながら彼女のすることを止められない。
手を伸ばせばすぐなのに、手を伸ばしても届かない。
僅かながらも決定的な二人の実力差。この差がいつも里沙に悔しくもどかしい思いをさせる。
そんなにたくさん背負わせたくないのに。

「…っく……っ…」

恐らく愛は誰にも邪魔されない場所を選んだはずだ。里沙にはもう手が出せない。
その事実がまた悔しくて、もどかしくて。
ひどく視界が歪む。零れ落ちる。大粒。
滲み歪んだ里沙の世界にあって、確かな輪郭を保っているのは今や記憶だけだった。

「かめぇ…っ!…みんな……!」

亀井絵里。
ジュンジュン。
リンリン。
そして久住小春。

彼女たちの笑顔が、言葉が、思い出が。
浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
まるで走馬灯のように。

「……大好きだったよ、守りたかったよ。……でも………………守れなかったね…」

悲痛と無念に染められる魂の叫び。
この広い空間に一人取り残され、咎める者も責める者もいないのに、里沙は声を抑えて秘かに泣いた。






突然の風切り音がジュンジュンの体を貫いた。
いや突き刺さった。
予期せぬ背後からの一閃に防御も儘ならず、ジュンジュンはその場に崩れ落ちる。

「……あ?」

何が起きたかもわからず呆然としている。
場違いにも、さゆみはジュンジュンのその顔を可愛いと思った。

考えてみれば、彼女に面と向かって「可愛い」と言ったことは一度もなかった。
先輩としてか日本人としてか、はたまた自分の容姿にある程度の自信を持つ年頃の女性としてか。
妙なプライドが邪魔をして、さゆみは正直に彼女を褒めるということができなかった。
こうなる前に一度くらい言ってあげればよかったな。少し後悔をする。
今となってはもう、遅いのだけれど。


愛佳が時間を稼ごうとしているのはさゆみにもわかっていた。
それこそ先輩として、その頑張りを無駄にさせたくない。
敵二人のどちらかが隙を見せたらさゆみはいつでも向かっていくつもりでいた。
誰かに先を越されるなんて考えてもみなかった。

「そ、れ……見たこ…ない。田中さ……その武器、なぁに…?」

息も絶え絶えにジュンジュンが振り向いてれいなに問いかける。
れいなはうつ伏せから半身を起こした体勢のまま、まだそれを構えていた。
軽量化された小型のボウガン。
その発射口に矢はない。一発しか用意されていないそれはすでにジュンジュンの左の背中に刺さっている。

さゆみより早くれいなが動いたのだ。
れいなは自らがジュンジュンとリンリンの死角に入った機を逃さず、隠し持っていたボウガンを撃った。
勢いよく口外に飛び出した牙は迷うことなくジュンジュンの心臓付近を突き立てる。

予期せぬ速攻に驚かされたのはさゆみもだが、ジュンジュンにしてみれば思いがけないにも程があるだろう。
気を失っていると思っていたれいなに致命傷を負わされ、しかもそのれいながいつの間にか武器を持つようになっていたなんて。

「…れいなだって変わると」

武器に頼らず己の体技のみで戦うスタイルを採っていたれいな。
そんな彼女が方針転換をしたのは「リゾナンター」が五人になった頃。絵里たちが去ってからだ。
あの日かられいなはボウガンを使うようになった。
『確実に相手を仕留められる手段があったほうがいい』と。
時期はちょうどすれ違い、ジュンジュンが知らなかったのも無理はない。

れいなは徐に立ち上がった。

「もう甘い顔はせん。さゆと愛佳を…れいなの仲間を傷つける奴は、ただじゃおかん」

言葉の迫力とは裏腹の静穏な口調。
怒りに震えているようにも感情を抑えつけているようにも見えない。
淡々と言葉が紡がれていく。

あの日から裏でどんな葛藤があったのかさゆみは知らない。
知らないが、彼女の立ち居振る舞いが大きく変化していく様をずっと傍で感じていた。


物腰が柔らかくなった。
一歩引いて全体のことを考えられるようになった。
人に話しかけることが増えた。
反抗的な態度が減った。
以前よりも物事に寛容になった。
少し、優しくなった。


失う痛みを知って今あるものを愛しんでいるのだろうと述べた人物もいた。
しかし、さゆみは。

れいなは全ての敵意を外に向けることにした。だからその分だけ内が穏やかになった。
“これ以上自分から何かを奪おうとする者は容赦しない”。彼女の背中がそう叫んでいるように思えてならなかった。

「…その、武器……かっ、こ…いね。これか、らも……使、うの…?」

血塗られた微笑は苦しげな息を吐く。
ジュンジュンは理解しているようだった。満足しているようだった。
己の運命を。
彼女の顔には、失せた殺気や生気の代わりに充足と寂寞の念が拡がっている。

「使っ…て、ほし…な。それがジュンジュン…こ、殺したの、ず…っと、忘、れな…よ…に」

一筋の涙が彼女の頬を伝う。
焦点の定まらない瞳が虚空を見上げた。

「忘れんよ。絶対に忘れん」
「言うだけじゃ……嫌だよぉ…!お願…っい……………」

途切れる。

項垂れる。

よろめく。

横倒れる。

ジュンジュンは動かなくなった。
もう笑うことも話すことも聞くことも歌うことも走ることも食べることも立つことも嘆くことも怒ることも泣くこともない。
彼女は逝った。
“忘れないで”。最期にその一言を残して。

誰もその場を動かない。動けない。
ただじっとその亡骸を見つめ、立ち尽くす。
もしかしたら、もしかしたら何事もなかったかのように起き上がるのではないかと。
待っているのかもしれない。
だが本当は皆わかっているはずだった。


賽はとうに投げられた。終わりの始まりは半ばを過ぎた。亀裂の修復は不可能だった。
やり直しのきく段階はとっくに過ぎている。
だけどそれでも。今なら。まだ。
心のどこか深い部分に燻っていた想い。

『戻ろうと思えば戻れるんじゃないのか?』

だけどやっぱり。今となっては。もう。
心の奥に忍ばせていた祈るような想いは露と消えた。
賽の目は開かれた。終わりの始まりは終わった。亀裂は完全に断裂した。
もう元には戻れない。二度と。

時計の針は“今”しか刻めない。
過去に巻き戻すことも未来に早送りすることも叶わないなら、今を生きるしかないのだ。

さゆみは決意を固めた。
目を閉じ集中し、未だ脈打つ痛覚を遮断する。
やるべきことは一つ。
全員の視線がジュンジュンの亡骸に注がれているのを確認し、さゆみはそっと床に手を這わせた。

なぜだか無性に、絵里に会いたくなった。






「やぁぁぁぁぁっ!」

背後から近付き両肩を押さえる。
足を払う。
相手はバランスを崩す。
逃さない。
体重をかける。
組み敷く。

床に落ちていたダガーを拾い上げてから約四秒。
さゆみはリンリンの鼻先に刃を突きつけていた。

「一応、選択権をあげるよ。生きるか死ぬか、どっちがいい?」
「さゆ…」「道重さん!」

れいなは放心したように呟き、愛佳は戸惑いの声を張り上げる。

「生きたいなら、この場で拘束して上へ引き渡す。まあしつこく審問はされるだろうけど、
 リンリンはこの件で人を殺したわけじゃないし大人しく投降すれば死罰にはならないかもよ」

先程の攻防で愛佳が投げてジュンジュンが払いのけたダガー。さゆみの倒れたすぐ近くに落ちていてくれた。
この軽くて単純な武器ならさゆみにも扱える。
好運に恵まれた。やはり天は見ているのだと思った。

ダガーの鈍い光が反射し、さゆみの瞳が鋭く光る。

「死にたいなら、今ここでそうしてあげる。そのほうがいいでしょ?」

そう。
天は見ている。
ここで逃げ出すことは許されない。


さゆみはリンリンに選択肢を与え、決断を迫った。
いつどのような形で下るかもわからぬ裁きを待つか、今ここで仲間の手によって討たれるかの二択。
…いや違う。“選択肢を与えた”など詭弁に過ぎない。
縋りつきたかったのだ。さゆみが。
彼女の命を奪わずに済む可能性。最悪を回避する僅かばかりの。

結局は自分の手を汚すのが嫌なだけだ。れいなと違って。
さゆみは可愛い。我が身が可愛い。
れいなのようになりたくない。
仲間の命を一生背負って生きていくなんて、したくない。

「……道重さんは、ちゃんとわかってますですか?」

その時、向けた刃の先から落ち着き払った声。
何もかも見透かしたような。

「要らないだったら簡単に捨てちゃえるですよ、人は」

言ってリンリンは自嘲的に笑んだ。
諦観とも達観ともつかない曖昧な表情。
眼前に“死”を突きつけられていても動じる様子はまるでない。
彼女もまた理解し、覚悟をしているというのか。ジュンジュンと同じように。

瞬間、さゆみの脳裏に様々な人物の顔が甦る。
大丈夫だからと笑顔で向かった小春、消えた理由を詰め寄る二人、首を横にしか振らない監督者、何かを決意したような絵里、二人は一人を加えて闇に消え、
ひどく憔悴した愛、奮い立つ里沙、やけに冷静なれいな、歯を食いしばる愛佳、再会した二人、忘れないでと残したジュンジュン、“死”に動じないリンリン。

リンリンの発した言葉と表情はさながら額縁のようだった。
バラバラだった記憶のピースが額縁という輪郭を得て一つにまとまっていく。
この時になってようやくさゆみは彼女たちが何を望んでいたかを悟った。
やり直しのきかない今になって、ようやく。

まったく、嫌になる。
さゆみは嗤った。

「…わかってる。大丈夫だよ、さゆみはリンリンたちと違って、世渡り上手だからね」
「ハハハ。じゃあいいです」

自分が手を汚したくないと駄々をこねる横で、彼女たちはただひたすらに想い、闘い、散っていく。
全ては組織に不必要となった者の顛末を仲間に思い知らせんがため。
愚直なまでに実直で剛直な彼女たちの透明は鏡となってさゆみ自身の歪みを映し出した。
反逆者に徹する彼女たち。この期に及んでまだ逃げ道を探す自分。
刃を突きつけられたのはさゆみのほうだったのかもしれない。


順手から逆手へ、さゆみは慎重にダガーを持ち替える。
この隙を狙われては元も子もない。注意深く、そっと。
しかしリンリンはそんなさゆみの周到さを横目に堂々と手を伸ばした。
その手でダガーの鍔元をゆっくりと握る。
リンリンの掌に、じわり血が滲んでいく。

「…なんのつもり?」
「私を殺してください道重さん。じゃないと、私が道重さん殺します」

和やかな一瞬の瞳の奥に燃え盛る炎のような激情を垣間見た。
冗談でも懇願でもない。これは警告。
彼女の瞳は本気でどちらかが死ぬことになると告げていた。

「私の願いは“家族”を守ること。あの二人はきっと周り見えなくなるだから、私が二人の目になろうと思った」

至情の光と炎の激情、二つの灯が瞳の奥で交互に点滅を繰り返す。

「でも…ダメだった。私は二人を導いてあげられなかった……」

慈しんでいるのか猛っているのか。
一言では表せない複雑に入り組んだ感情が彼女の中で蠢いているのがわかった。
さゆみは声をかけられない。手を貸せない。見届けることしかできない。

「道重さんは『わかってる』って言ってくれましたね。あの二人の気持ち届きました。…だから、残ってるの私の気持ちだけ」

不意に。

目の覚めるような冷たい直感がさゆみの全神経を駆け巡った。
心臓が揺さぶられ全身が硬直し頭が痺れて冷や汗が吹き出す。

理解してしまったかもしれない。
彼女が心の奥底で何を思い、何を願っていたのか。
さゆみに何をさせようとしているのか。
警告はいつしか冗談のような懇願に変わっていたのだ。

「私は裏切り者だから。みんなの敵なんです。……最後まで」

ぐっと掴まれたダガーの先で、緑の火花が小さく爆ぜた。

自分たちの存在を刻みつけることで仲間への周知と小春への追悼が完成するというのなら、これもまたその一つの形。
この手でその命を刈り取れば記憶は永遠になる。
道を踏み外した者の末路を絶対に忘れない。

選択肢の提示も可能性の模索も初めから無意味だった。
彼女は自分で自分の最後を決めていたのだから。

「こうするしか、ないんだね」
「ハハハ。やっぱり道重さん優しいですね、はい」

リンリンは目を細めて笑った。
一点の曇りもない晴れ晴れとした表情。
その笑顔は今日これまでに見たどの笑顔よりも明るくて軽やかだった。


「さゆっ!」

呼びかけられて振り返る。
れいなが体を引き摺るようにしながらこちらへ向かっていた。
歩き方がぎこちない。骨が一本や二本折れているのだろう。
ただその目線と足取りは力強く、心は決して折れていないと感じさせてくれることが救いだった。

「道重さん、その武器は愛佳のです!せやから愛佳が…!」

反対側の愛佳は瞼と拳を固く閉じ、言葉を絞り出すように。
今にも泣き出しそうな顔をしているがまだ泣いてはいない。
恐らく彼女は泣かないだろう。最後の時が訪れるまでは。
そんな愛佳の内なる強さを頼もしく思うと同時に、ひどく申し訳なく思った。

れいなと愛佳の気持ちは同じ。
さゆみのすることを理解し、代わろうとしてくれている。
だが。
悪いが二人には譲らない。
れいなは先に答えを示してくれた。愛佳は時間を作ってくれた。
だから次はさゆみの番。
今度はさゆみが「リゾナンター」としての意地と誇りを見せる番だった。

一つ、大きく深呼吸。そして。

「ありがとれいな。…愛佳ごめん。この武器もらうね。多分、一生返さない」

ダガーを持つ手を振り上げた。
あっさりと外れるリンリンの手。
れいなと愛佳の叫喚が鼓膜を震わせる。
熱くなる目頭に反し頭はひどく冷え切っていた。
どこに刃を突き立てれば効率的か本能に告げられる。

「じゃあねリンリン。いつか行くから地獄で待ってて」
「再見、兔姐」

その口が、閉じるより早く。

生温かい。
手元に赤の浸食。
鉄錆の微臭。
鼻孔を掠める。
二つの嘆きは鳴り止んで。
無音の世界。

リンリンは首にダガーを携え息絶えた。
彼女は二度と、笑わない。




放心。

人を一人、それも自分を慕ってくれた後輩をこの手にかけたというのにまるで実感が湧かない。
当事者でなく傍観者。画面の外から自分が映った映像でも眺めているような気分だ。
こうした場面なら普通はもっと様々な感情が渦巻いて息が苦しくなったりしそうなものなのに。

「ひっ……ぅ………っく…」

れいなはその場に立ち尽くして嗚咽。
憚らず子供のように泣きしきるその姿は、誰よりも自分に正直だったかつてのれいなを思い起こさせた。
どれだけ内面が変わったように見えてもやはりれいなはれいななのだ。
そう思うと少し、ほっとする。


ふわふわとした、やけに客観的な自意識に浮かされながら。
さゆみは緩慢に立ち上がった。愛佳たちのいるほうへ向かって歩き出す。
足が、縺れた。

「道重さんっ!」

倒れ込みそうになるところで愛佳に抱き留められる。
愛佳の顔がすぐ近くにあった。
このまま体重をかけていては悪い。体を起こそうとしたが、足に力が入らない。
さゆみは愛佳に体を凭せ掛け、腕に縋っていた。
手を染める赤が縋った腕にも付着する。
愛佳はそれを厭わず、さゆみの背中の傷に触れないようそっと腕を回してさゆみを支え直した。

「…ごめんなさい。ごめんなさい道重さん…ごめんなさい……!」

支える腕の力強さとは裏腹の涙に濡れた悲痛な謝罪。
泣かないで。そう伝えたいのに口が上手く動かない。
口だけじゃなく手も足も。
石のように固まって思い通りに動いてくれない。

辛うじて動かすことができたのは首だった。
愛佳の呟く「ごめんなさい」の数だけさゆみは首を横に振る。

頭を振っていると、頬が冷えていくのがわかった。
冷たい空気に撫でられる。
風が吹いてきたわけでもないのに。

考えて。

さゆみは、自分が涙を流していたことを知った。






南国の空と海は想像以上に美しかった。

足元には今にも溶けてしまいそうなスカイブルー。
頭の先には全てを包み込んでくれそうなコバルトブルー。
世界はどこまでも青く澄んでいた。
もうすぐ自分たちもこの一部になれる。そう思うと少し恐怖が和らいだ。

洋上数千メートルの空中落下。

愛は絵里をきつく抱き締め、落ちていく。
文字通り身を切るような風が肌を刺した。
パラシュートのない真っ逆さまの急降下は傷口を刺激する。
意識が飛びそうになった。
いっそ、飛んだほうが楽だったかもしれない。

だがそうするわけにはいかなかった。
組織に反旗を翻し、この混乱を招いた絵里。
それを未然に防げなかった愛。
どちらにも非がある。責任がある。
だから。

「一人ではいかせないよ。絶対に…」

飛び込む時は一緒だ。
罪人二人に墓標は要らない。
揃って海の藻屑となってしまおう。

それが、わざわざ赤道を越えてまでこの場所へやって来た理由。
この美しくも広大な青が二人の眠る棺桶だ。
ここなら彼女にも納得してもらえる。
あの世で笑って再会を果たすことができるだろう。


「……ね…」
「え?」

遥か遠くに引かれた水平線を眺めていると、服を引っ張られた。腕の中の絵里が小さく口を動かす。
しかし、ゴオゴオと吹き荒ぶ風に気圧の変化。
すでに耳はその役割を果たしていない。
特に注意をしていなかったこともあって絵里の言葉を聞き取ることはできなかった。

今の状況で耳は使い物にならない。
けれど、愛にはもう一つの“耳”がある。

「……いい?」

愛は軽く絵里に手を翳し、尋ねるように視線を向けた。
声が聞こえなくとも意図は伝わっているだろう。
絵里は薄く目を開いて愛を見つめ、やがてこくりと頷いた。

精神感応能力を開放。
絵里の心に耳を寄せる。

『…ごめんね。こんなことになっちゃって』

―――――こんな結末で、ごめんね

凍りつく背筋。
一瞬、時を忘れた。時間が巻き戻ってしまったかと思った。
絵里の心の声があの日のあの子の声に重なって―――

『最初は全然そんなつもりなかったんだよ。ただみんな聞き分けがあまりに良過ぎたから…反発しちゃって。
 みんなの小春に対する気持ちは、いつかまた誰かが消されるかもしれない不安は、その程度なのって……』

絵里は顔を埋めるように俯いている。表情を窺い知ることはできない。
けれど愛は、自身の腕の下に隠されたその表情を知っているような気がした。
寂しくて切なくて儚くて、しかし絶対に折れない芯の強さを。
愛は知っている。覚えている。

『ごめん、言い訳だね。……うん。大丈夫、もう逃げない。自分のしたこと、ちゃんと受け止める』

―――――誰のせいにもしない

全身が痛くて冷たい。
唸るような風が爪先から頭頂部に至るまで体全体を締め上げる。
だが、頭の奥が痺れるようなこの痛みだけは決して風のせいではなかった。

喚き暴れ出したい衝動に駆られる。
懸命に抑え込む。
どうしてそんなことを言うんだ。どうしてあの子と同じようなことを言い出すんだ。
これでは、まるで。

820 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/02/20(月) 23:32:24.90 0

『聞いてくれてありがと、愛ちゃん。…あのね、私たちに愛ちゃんがいてくれて本当によかったと思うんだ。これからも、みんなをよろしくね』


まるで、絵里まで。


『たくさんの愛を、ありがとう』

―――――さよなら


消えてしまうみたいじゃないか。


気がついた時には、絵里に全力で腕を振り解かれていた。
どこにそんな力が残っていたのかと思うほど乱暴に。
絵里の決死が二人の身体を引き離す。

一方は留まる。
他方は落ちる。
一方は手を伸ばした。
届かない。
二人の距離が遠ざかる。

愛は絵里の作り出した風の壁に押し戻された。
瞬間移動を試みる。が、絵里の風と上空の風の両方に煽られ集中ができない。
見る見るうちに絵里が小さくなっていく。
もがいて、足掻いて、慟哭。空に響き渡る悲痛。
それでも絵里には届かない。伝わらない。
二人一緒に逝くことは叶わない。


遥か遠くの青に、一輪の白い華が咲いた。
花弁が散ってまたすぐに青に戻る。

絵里が海に咲かせた花を、愛は気の狂うような無力感に吹かれながら見ていた。








こんな結末でごめんね。
でもさ、関係ない人をあんなに巻き込んで死なせたくせに、
天罰が下るのを待ってるだけっていうのは卑怯だと思うんだよ。
わかってくれとは言わない。
でも…わかってほしい。

じゃあね愛ちゃん。
この四年間、マジで最っ高に楽しかった。
本当だよ。
絶対、死んでも忘れない。

さよなら