『狂犬は亀を背負う』(後) - 5


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もう一度だ。 もう一度、精神の触手を藤本美貴に侵入させる。
あの光景を見て感じたことがある。

あの光景は藤本美貴にとってとても大切な物のような気がする。
あれは藤本美貴の原点ではないのか。
あの光景は私がやろうとしていることにも重要な意味を持つ気がする。

私がやろうとしていること。
私がやらねばならないことと。
それは藤本美貴の異能の根源を突き止めることだ。
自然であれ、人為的であれ生まれながらの能力者ではない人間に、異能を発現させる存在の正体を突き止めることだ。
そして、もしそれが人から人に伝播していき、人を危険な存在に変貌させるものならば、私の手で封印する。
だから、もう一度精神の触手を藤本美貴に侵入させる。
今度は美貴の抵抗を排除するために、より強力に…。

一瞬の内に思案を巡らせた里沙は、美貴に自分の名を呼ばれたことに気づいた。

「ガキさん。 ガキさんはこの鋼線でアタシのことを捕獲したつもりでいるみたいだけど…」

その通り。
里沙の脳内で発生した干渉電流をより効率よく美貴に流し込む導体として。
手足を拘束して動きを制し、逃亡を図る者の肉体を容赦なく切り裂く凶器として。
里沙の鋼線は藤本美貴をこれ以上ないくらい完璧に捕らえている…筈だった、が。

「アタシから見たらさ、ガキさん捕まえた」

そう笑った美貴の顔は、時間も場所も見失ってしまった里沙が邂逅した少女の顔によく似ていた。

やはり、あの子どもは藤本さんだった。
推測が確信に変わるのに大した時間は要さなかった。 だから隙は見せなかった筈だったが。

「くっ!」

強烈な力で手繰り寄せられた。
念動のような異能のチカラとは異なる。
人間の肉体が産み出した単純明快な物理的な力によって鋼線が動かされている。

バカな!

今、里沙が張り巡らしている鋼線は、太さや強度、弾性の異なるものを用いている。
単一のものでは、運動の規則性を把握され、回避される可能性が僅かながらも高まるからだ。
だがどの鋼線も表面は微細な棘状に特殊加工されていて、迂闊に手に取れば流血を避け得ない。

だから取り扱いに長けた里沙も頑健なグラブを装着して、操っているのに。

「ふぁんへふぉふぉはふぁい」

はぁ?

意味不明な物言いを訝しんだ里沙は、美貴が何本かの鋼線を噛み締めていることに気づいた。

鋼線なんかに噛みついて、まるで狂犬じゃない。

自らの肉体に絡み付く鋼線を、身体能力で動かす。
そんな無茶をすれば普通は肌が切り裂かれ、かなり血が流れる筈だが、鋼線の一部を噛み締め、里沙のコントロールから切り離すことで、動かす余裕を作り出している。

でも、全ての鋼線を好きに動かせるわけじゃない。
あの人が噛みついていない経路を使って…。

里沙は自分の掌握が生きている鋼線を使って、美貴の頸動脈を絞めにかかる。
精神の触手を使って抵抗を排除するよりも、その方がより速く、かつ有効だと判断したからだ。

頸動脈を絞めて脳への酸素の供給を止め、意識を飛ばしてやろう。
微調整しながら左の薬指を動かした瞬間、先刻よりも強い力で鋼線が引かれた。

私が操ろうとした瞬間を見計らって、力を加えている。
これなら最小限の力で鋼線を動かせるし、負傷する頻度も低くなる。
でも私だって鋼線操作のタイミングを気取られるようなことはしていない筈なのに、どうして。

予想だにしなかった美貴の逆襲は、一気に里沙を窮地に追いやった。
これまで里沙の手足のように動いてきた鋼線。
幾多の敵を拘束し切り裂いてきた鋼線は、今里沙の意思に逆らって里沙の両腕を絡め取り、高く掲げた状態に留め置いている。

美貴はというと里沙の動きを封じたことを確信したのか、噛みしめていた鋼線を吐き出した。

「何ていうことはないな」

口の中の鉄気を吐き出しながら、ほくそ笑んでいる。
その手には里沙の両腕を絡め取った鋼線の先が握られている。

「掌という面で掴まず、指の先という点で掴めば何ていうことはない。 ガキさんの筋肉が収縮した瞬間を狙ってやれば、最小限の力で動かすことができる」

簡単に言ってくれるけど、それがどんなに大変なことなのか判ってるんですか。

里沙は心の中で問いかける。
口に出したところで答えの返ってこない問いかけ。

私が指先を動かそうとしたほんの僅かな筋肉の収縮を見て取って、自分の身体を誤差無く動かすことで、私の仕掛けを無力化してしまう。
それがどんなに難しいことかあなたには判らないの。
それを事も無げに口にするのは、自分の身体能力の凄さを判っていないからなんですか。
それとも判っていながら、私に惨めさを味合わせる為に、そんな風に振る舞うんですか。結局…。

「結局、鋼線みたいなオモチャじや、あなたを慌てさせることも出来なかったってことなんですね」

藤本美貴の圧倒的なポテンシャルを知りながら、封じ込めるが出来ると思っていた自分の愚かしさが今となっては忌まわしい。

「オモチャなもんか」

ウンザリしたという口振りだった。

「この鋼線ってヤツはどうしようもないくらい厄介な武器だけども、所詮は武器だ」

武器には人格も思想も宿ることはない。武器を使ったことでもたらされる結果は武器の使い手の人格や意志が反映される。

「だからアタシがこうやって無傷でいるのも、ガキさんにアタシへの殺意が欠けていたからなのは間違いない。といって感謝する気なんてないけどね」

あぁ・・。
思わず溜息が出てしまった。 全部見透かされてしまっている。 まったく。

「他人の頭の中をかき回しておいて、好き勝手なことを言うのは私の専売特許なんです」

だから取らないで下さいよと訴えながら、先刻引きずり込まれるようにして見せられた幼い頃の藤本美貴について疑問に感じたことを口にする。
あの光景、幼い藤本美貴が動かない犬を抱きしめ、泣いていた景色は美貴にとってどんな意味があるのかと。

「さあ?知らねーな」

里沙は自分には覚えのないことだという美貴の言葉を彼女流の韜晦だと受け取った。
しかし美貴が何処か遠くを見つめるような瞳をしていることに気づく。

「藤本さん、まさか…」

あなた本当に覚えてないんですか? 忘れてしまったというんですか?

里沙の思いが届いたのかどうか、美貴は淡々と話し始めた。

「念動系のチカラってのはわかりやすいよな」

念動力、発炎能力、重力操作etc…
物であれ人であれ、対象を破壊し、燃焼させ、歪めるチカラ。
それら念動系の能力ならば、チカラが行使されたモノを原子レベルに分解して、何が起こったかを解析することが出来る。
その異能がどんな現象を起こしたのか、実相に迫ることが可能だ。

「だがよっ。人間の精神ってやつは肉体と違ってバラバラに分解して調べるわけにはいかない」

強力な薬物や催眠、倫理を無視した医術的措置によって、調査対象の精神の深層を掘り起こしたとしても、そこで得られたデータが事実だという確証はない。
調査の手が精神の深層に到達したのかも、実のところ定かではない。

「ガキさんのような精神という領域を対象とする能力者が、そこで行ったことやそこで見聞した事象。 それら全てを他の能力者が共有できるわけじゃない」

精神系の能力者のチカラの実態は、能力者一人一人によって形を異にしている。
精神感応や精神干渉といった名称は便宜上付けられた区分に過ぎない。

「だからガキさんがアタシの精神の中の魔女を閉じこめるだ、子供の頃のアタシの犬を見ただの言われても何のことか判んねえ。でも…」

でも?

「やっぱガキさんが目にしたのは昔のアタシなんだと思う。 愚かで何も持っていなくて、何者でもなかった頃のアタシをガキさんは見たんだと思う。 覚えてはいないけどな」

そうか、犬を抱いていたのか、遠い目になって虚空を見つめる美貴に里沙は言った。

「ほんのついさっきのことだからかしれませんが私は鮮明に覚えています。 まるで実際に体験したことのように」

それが美貴本人の記憶に無いなんてことがありうるのだろうか。 どうせ答えは返ってこないだろう。
しかし精神の領域で起きたことならば解明したい、真実に触れたいという思いは里沙を雄弁にした。
精神干渉のスペシャリストとしての矜持がそうさせた。

「ガキさんは言ってたな。 アタシの精神の中に檻を築いて、アタシん中の魔女を封印するって」

里沙は黙って頷いた。
予想に反して美貴が真実を口にし始めている気がする。
但しそれはあくまで藤本美貴の中での真実であって、里沙の価値観が認める真実なのかどうかはまだ判らない。

「既にアタシがやっている」

美貴は言った。

「ガキさんがどんなやり方で魔女のチカラを封じ込めようとしたのかは判らない。
説明されたところで判らない。 何たって精神というブラックボックスの中でのことだ。 
そこで何をやらかそうとしたか。  実際何が行われたか。
アタシとガキさんが同じ認識を共有することなんか端っから無理に決まってる。
ただ私は塔を築いたよ。この世界を呪って止まない性悪の魔女を幽閉するための塔を」

藤本の解釈によれば魔法とは本来能力を持たざる者が、生まれながらの能力者と同じ高みに立つための階であるという。

「あるいは尋常では成就しない願いを叶えるための異常な手段」

膨大な術式、難解な呪文、侵してはならぬ禁忌。
それら魔法の発動に必要な手順は煩雑かつ厳格であり、必要な知識量もいきおい半端なものではなくなってくるという。

「一系統のごく初歩的な魔法のグリモアール(魔道書)だけでも、掌に持て余すほどの厚みに達するんだ」

魔女は隠れ家に身を潜め、魔法に必要な知識を蓄積し技術を研鑽し、世界への呪詛を込めた魔法を練り続ける。
そして魂を代償に差し出すことを厭わぬ契約者が現れた時、初めて魔法は発動される。
自分への反作用を避けるために、魔法書というマニュアルを参照しながら慎重に行われる魔法の召還、喚起の儀式。
魔女の一連の作業は傍目には地味に映り、患者の症状に応じて薬を調合する薬剤師の姿に重なる。


「つまりよっ、料理で言うところの下拵えの部分が魔法のメーンってわけ」

箒に乗り空を飛ぶ。 杖を振りかざして作り出した光弾で敵を攻撃する。
そんな魔女の姿はフィクションに過ぎないらしい。
極一部の稀な例外を除いては。

へケート。
16世紀の欧州の闇にその名を刻んだ稀代の天才。
もしも20世紀に生まれていれば、コンピュータのプログラム言語の開発者として財を残したかもしれない。
しかし中世の闇に生まれた彼女は、魔道に足を踏み入れた。
魔女として生きていくことを選んだ彼女は、従来の言語で魔術の呪文を詠唱することは非効率なことに気付いた。

そして彼女は普通の人間には発声不可能な魔法言語を創り出し、それを現すために39文字からなる魔法文字を考案した。
その魔法文字を己の身体に刻み、自らを魔方陣と化すことで、他のどんな高名な魔女がもたらしえなかった秘跡をたちどころに発現させたという。

「そいつがアタシの中にいる、っていうと霊に取り付かれたみたいでオカルトっぽいがね」

魔女といえど人外の化け物ではない。 人間だ。
己の死期が近いことを悟ったへケートは、頭脳に蓄積した魔法言語の情報をより高密度に圧縮して後世に伝えることにした。
その記憶媒体は紙ではない。 人の精神というデバイスだ。

へケートの魔法を継承することを望んだ若き魔女の中から選ばれた生体デバイスとしての適格者。
へケートは彼女に自らが考案した魔法言語によって編まれた魔法を口移しに伝えていった。
デバイスとして選ばれた女性は魔女として生きていく。
が、しかし次の魔女の器として相応しい女性が見つかれば、魔法言語は自動的に移植されていく。
そんな異様なシステムを病床に着いたへケートは創り出した。

しかし、彼女の目的は魔法を後世に残すことではない。
膨大な魔法言語の中にプログラム化した己の人格を混入せることで、永遠を生きようとしたのだ。


「そもそも魔法って物自体が毒みたいなものだ。 魔道に足を踏み入れた人間は遅かれ早かれ闇に飲み込まれていく。
まして稀代の魔女へケートの人格が潜んだグリモアだ」

ウィルスの潜んだファイルを開いたPCが侵されていくように、へケートのグリモアを読み込んだ歴代の魔女たちは侵食され、壊れていった。

「その中でもかなり悲惨な例がアタシの先々代の魔女にあたる平家みちよだった」

平家みちよ。
単独犯としては過去最多の犠牲者をもたらした史上最悪の能力犯罪者。
普通のOLとして平凡でありふれた日常を過ごしていた彼女は、夏休みに学生時代の友人達とヨーロッパの古城巡りツアーに参加した。
帰国した空港で、彼女は豹変した。
炎上する旅客機。崩落する空港ビル。救援活動を阻む氷の槍。
魔女ヘケートを名乗る平家を拘束するために、投入されたのMの初期メンバー5名。
死闘の末に無力化した平家の身柄を確保したものの、支払った代償も大きかった。
5名の内、最強の天使、最高と謳われた女神こそ無事だったものの、残り3名は負傷のため戦線離脱を余儀なくされた。

「ヘケートの目的は永遠を生きることだ。 そのためには次の器を確保しとくことを意識しなくちゃならねえ」

だから人格の浸食は緩やかなスピードで進行する筈だった。だがしかし…。

「バカらしい話だよな。 平家とヘケート。 似通った名前の響きが魔女ヘケートとその器である平家みちよの親和性を高めちまったなんてよ」

その結果が平家みちよの暴走ともいえる魔力の顕現だった。

「そんな最悪なやつがアタシの中にいる。 自分が魔女の器になったことを知ったときアタシは思ったのさ。 こいつはすげーことになったけど、野放しにして置くわけにはいかないとね」

そう考えた藤本美貴は精神の中に、魔女ヘケートを幽閉するための塔を築いたという。

「要らなくなったアタシの記憶の領域を廃物利用してね」


そんなことが出来るものなのか。 里沙には判らない。
精神という領域の中で起きたことの認識は、各人の意識に準拠する。
だから藤本美貴がそう言うのならば、彼女にとっては、それが真実なのだろう。
だが人は藤本美貴の言うように記憶を必要なものと不要なものを簡単に峻別してしまえることが出来るのだろうか。
たとえどんなに悲しい記憶でも、人が生きていくには大切な礎になるのではないか。
仮に記憶の仕分けが出来たとしても、それは行ってよい措置なのだろうか。

「アタシは要らない記憶を押しつけてやったつもりだった。でも…」

「でも?」

「実はアイツに喰われちまっているのかもしれないな。 魔女の契約の代償として、アタシの記憶を手当たり次第にな」

藤本美貴は深く溜息を吐くと瞑目した。

「藤本さん!」

呼びかけなければ、繋ぎとめなければ、藤本美貴が消えてしまいそうな気がした。

「んン」

目を開いた美貴は笑っていた。
その笑顔を目の当たりにした里沙は、その無邪気な美しさに戦慄した。

「心配するな。アタシは消えてなくなりなんてしないよ。 といってヘケートを解き放つ気もない。
アタシは欲張りなんだ。甘い蜜なら勿論苦い毒薬だって他人にくれてやるつもりはない。で…」

「で?」

「で、この落とし前をどうつけるかってことだ。 
テメーのところのバカが突然店に押し掛けてきて、散々引っかき回してくれた挙げ句、
どうにかお引き取り願えると思ったら、今度はテメーが待ち伏せした上に、緊縛プレーに付き合わされて、魔女を封印するだぁ?」

よくもそこまでアタシを虚仮にしてくれたもんだなあという美貴の言葉とは裏腹の上機嫌な笑顔は却って里沙を震撼させた。

そうだった。
この人は…藤本美貴という人は、自分が自分であることを証明するためには、平気で絆を壊せる人だ。
親愛も友情も信頼も、この人にとってはいかほどの価値もない。
たとえ朝に血の契りを交わしても、夕べには捨て去ってしまえる。
そういう人だ。

硬質な音がした。
まるで空気が金属化して摩擦し合っているような。
藤本美貴の立っている場所を中心とする上空数メートルの空間に数十、あるいは百以上の氷の矢が形成されている。

「空気が湿気てる所為か材料には困らねーな」

藤本の言葉を耳にすると、里沙は傍らに寝転がっていた亀井絵里の身体に覆い被さった。
腕には拘束されている鋼線が強く食い込んだが、そんなことは気にもならなかった。
氷の矢から、この世のあらゆる災いから絵里を守ろうとするように、その身体に覆い被さった。
その姿を見咎めた藤本は憎まれ口を叩く。

「おいおい、発情しちまったのか。 仲間の上に乗っかっちまってよ」

「何とでも言ってください。 カメには指一本触れさせません」 決然とした里沙の声が響く。

「いや、いや。 テメーがカメを巻き込んでるんじゃねえのかよ」 藤本はあくまで揶揄することに徹するつもりのようだ。

「私は調べてきました。 あなたがMに加わる以前、加わってから、そして裏切ってからのあなたの言動を」

全ては藤本が里沙の精神干渉に対して、強い抵抗を示すことを想定してのことだった。
藤本の言動から思考パターンを分析して、その精神の形状をイメージする。
それを足掛かりに精神干渉によって、藤本を無力化する心積もりだったのだ。

だがその心づもりは無駄に終わろうとしている。
藤本美貴が自らの精神の中に気付いた幽閉の塔に足を踏み入れることもままならず、生命の危機に瀕している。
今この段階で里沙に出来ることは絵里の身の安全を図ることだけだ。
もしも藤本美貴の思考パターンが里沙一人の命だけを狙ってくるようならば、里沙は絵里から少しでも遠ざかり、そこで敵わずとも氷の矢を迎え撃っただろう。
だが里沙が把握する藤本美貴はそんな風には動かない。
天使のような笑みを浮かべている藤本美貴は、悪魔のように冷酷で、蛇蝎のように卑劣に振舞うだろう。
だから、里沙は絵里を庇った。
自分の身体の全てを使って、藤本の作り出した氷の矢を受けることで、絵里を守る覚悟だ。

「全く、これだからマインドコントローラーって奴は。 人の考えることを勝手に先読みしやがって」

美貴の眉が一瞬吊り上がったが、里沙がそれを目にすることは無い。

「だったら、アタシがこうすることもテメーは予測できたのかな」

美貴の左手が虚空に何かを描いた。
闇色の光が鈍く煌く。
百本を越す氷の矢が標的に向かって放たれた。

来るっ!!
目を閉じ、舌を噛まないように丸め、襲い来るであろう衝撃に備える里沙だったが、その身体を氷の矢が刺し貫くことはなかった。

何よっ!!
里沙は無数の衝撃音を耳にした。
爆発音などではない、純粋に物と物とがぶつかり合う音が断続的に響く。

恐る恐る目を開けた里沙は氷の矢が、周囲の建造物の窓ガラスに当たり、罅を生じさせていることに気付いた。
今の衝撃は周囲に施していた催眠を解除してしまうかもしれない。
それは私にとって、決してマイナスではないのか? 損得勘定の算盤を弾く。
部外者を巻き込むことは本意ではないが、助けを求めることを考えた里沙は自分の考えが甘かったことを思い知らされる。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

美貴が叫んでいる。
絹を裂くような悲鳴というのはきっとこういう声のことを言うのだろう。
それぐらい甲高い声で美貴が叫んでいる。

「町内の皆さん。 変態がいます。 下半身丸出しの変態が一人、美人の女子大生を襲っています。
誰か助けてあげて。 早くしないと取り返しのつかないことになってしまうぅぅぅぅ!!」

「え、えええ!」

ちょっと待って下さい、と呼びかけようとした里沙にウインクをすると、拘束していた鋼線を手放した藤本美貴は足早に走り去ってしまう。

え、何? ちょっと待ってこの事態。
下半身丸出しの変態が女子大生を襲ってるって!
下半身丸出しの変態は私で、美人の女子大生はカメってこと?
それはカメが美人なのは間違いないし、今日の服装は女子大生風に見えないこともないけど、何この展開。

里沙は焦った。
藤本美貴の放った氷の矢の衝撃によって、催眠を解かれた町の人間が起き出して来る気配を感じたのだ。
何だって、下半身丸出しの変態野郎だって。 一人なら俺たちでも何とかなるだろう。
女子大生を襲うとは太い奴だ。 逃がしはしねえ。 簀巻きにして川に叩き込んでやろうぜ。
変態が一人だという美貴の言葉に意を強くした町の住人が、美人女子大生の危機を救わんと駆けつけてくる。

ヤバい。 とりあえずカメは置き捨てにしてでもこの場を離れないと。
慌てて起き上がろうとした里沙だったが、美貴が手放した鋼線の先がどこかに引っかかっているのか動きが制約されてしまう。
その動きが刺激したのか、里沙の身体の下で絵里が目を覚ましたようだ。

「う~ん、重いなあ」 

絵里の眠たそうな声は、里沙から事態が緊迫していることの認識を消し去ってしまった。

「ああ、起こしちゃったね」

「ガキさん。絵里ね、夢を見てたんですよ」

「どんな夢を見てたんだい」

夜の路上で折り重なった女二人が交わさないような会話が繰り広げられる。

「う~ん、忘れた」

でも自分はリゾナントが好きだと言いながら、眠たそうに目をしょぼつかせる絵里に里沙は思わず言ってしまった。

「もうお休み。 いい夢を見るんだよ」

は~いと返事をして再び眠りの国に戻った絵里を見て里沙は思う。
この存在、私の命に代えて守る価値があるって、オイ!

「カメ、寝るな。 あんたが寝てしまうとあたし非常にまずいことになりそうなんだ。 とにかく起きろ、オイ!」

地面だというのに平気で眠ってしまった絵里を揺り起こそうとする里沙に光の筋が当たる。

ヒィ、懐中電灯だ。
起きてきた町の住人が節電中ゆえ照度の落ちた街灯を補う為に、懐中電灯で闇を照らしたのだ。

ひでぇ。 本当に尻丸出しで女子大生に乗っかってるよ。 許せねえな。 失神してる女の子を起こしてまた辱めようとしてるぞ。
かわいそうに、すぐに助けてやるからな。 何だこの鋼線は、危ない。 まさか、こんなもので女の子を縛ってるのか。 鬼だ。 獣だ。 
逃がしやしねえ、逃がしなんてしねえよ。

町の人々の怒号を耳にした里沙の口から腹の底からの叫びが突いて出た。

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」



里沙の叫びを耳にしながら、藤本美貴は哄笑していた。
その笑いは夜の闇に吸い込まれていく。
闇の中に佇む黒い影を認めた美貴は、笑いを止め走り寄ると渾身の力を載せた拳を振るった。
美貴の拳は影に炸裂する前に何か見えない壁のようなものに当たった。
それは決して固くはないが、揺らぐこともない。
美貴の拳を優しく受け止めて、その衝撃を吸収する。

けっ。
喰らった相手が死んでも構わないという意志を込めた拳が、難なく跳ね返された屈辱に美貴の唇が歪む。

「藤本、残業乙!!」

闇の王が魔女を睥睨していた。

「今夜はどういう風の吹き回しだ」

「いや、今日はお前に散々痛いのを喰らってるから、流石にな」

だから自分のチカラでアタシの拳を防いだってか、そんなことは無いな。
お前はそんなことで自分のチカラを解放する奴じゃねえ。

「そんなにあいつ、新垣里沙のことが心配だったのか?」

藤本の口ぶりは、闇の王の解答にかかわらず、その心中は判っていると言わんばかりだった。

「ワシは部下が残業しているのを放って置いて帰るほど不人情な上司ではない」 闇の王の口ぶりはいつもと変わりない。

けっ、よく言うぜ。
だったら、この問いにはどう答える?

「ならばよっ。 もしも、もしもアタシとアイツがマジに殺りあうことになってたら、テメーはどっちに味方してた?」

闇の王、お前が本心を明かすことは無いだろう。
軟弱で優柔不断な男を装って、誤魔化そうとするんだろう。

「もしもそんな事態に陥ったなら、ワシは両方を助けようとしただろうな」

「ふん。 そんなこと出来やしねえ。 いいか。 今日はたまたまああいう風に収まった。 幸運なことにたまたまな。 
だがな、相容れないものを心に抱いた者同士が向き合えば、最低でもどちらか一人が斃れない限り収まらねえ。 よっぽどとびっきりのペテンをかけて、どちらかを騙くらかさないかぎりはな」

選べよ。 
お前はいつか選ばなきゃならないんだ。
かつてのアタシがそうだったようにな、どちらか片方をな。
Which? (どっち?) Witch(魔女)
くだらねえ言葉遊びさ。
だけどお前の選択はお前の、お前に関わる人間の運命を変えて行くんだ。
アタシが魔女になったようにな。 さあ、闇の王、お前はどっちを選ぶ?

「ならばペテンをかけてみせよう。 それもとびっきりのペテンをな。 嘘でも良い、誤魔化しでも良い、騙かしでも良い」

どんな詐術を用いてでも、子供たちの今日を明日に変える。
暗い夜を乗り切り、希望に満ちた朝を迎えさせる。
それが大人の責任だと言う闇の王の態度はいつになく決然としたものだった。

こいつは…。
こいつはとことん、どうしようもない大バカ野郎だ。 あるいはとびっきりの偽善者なのか。

「だから藤本、お前も…おやすみ。 今日は散々な一日だったかもしれないが、 明日はきっと今日と違う日だ」

「けっ、闇の王が部下に言う言葉じゃねえよ。 それに生憎だけどアタシは今夜はやすまないよ。
思いっきり夜更かしして、録り貯めてあるドラマを見まくることに決めてるんだ。 一晩中サン様の名演技に酔って明日は一日中呆けてやるんだ」

闇の王の三角覆面が仄かに揺れた。
まるで覆面の中で笑っているように見えた。

「お休み、いい夢を。 お休み」

こうして藤本美貴の長い一日は終わりを告げた。 この冗長な物語も幕を閉じる。
厳密に言えば、藤本には悲劇が待っている。
コンビニで飲み物やお菓子を調達して、たどり着いたマンション。
シャワーを浴びて、肌の手入れも済ませ、ヘアケアは更に念入りに済ませた上で、陣取った自慢の52インチ薄型テレビでサン様の主演ドラマの最終回を鑑賞しようとした時、それは起こった。
いや、すでに起こっていた悲劇を確認することになる。

ドラマが録画されていなかったのだ。
HDDに録画されていたファイルに、サン様主演のドラマの最終回が記録されていなかったのだ。
半狂乱の藤本が汗だくになりながらテレビ周りを調べた結果、アンテナの端子が脱着しているのを見つけたとき、形容しがたい叫び声を上げて隣の住人に壁をドンされたのは日付が変わってからのことである。
したがってその有様を克明に描写することは蛇足というものであろう。

更にいえば、下半身丸出しの状態で亀井絵里の身体から手荒く引きずり降ろされた新垣里沙が、いかにして窮地を逃れたかその仔細を描くのも本題とは外れている。

ただ一つ、記しておくことがあるならば。
それは喫茶リゾナントの店頭に新たにショーケースが設置されるようになり、見るだけで頬が緩むような可愛いケーキが飾られるようになったということ。
リゾナントの常雇いバイトとして働くようになったケーキ職人が、立ったまま居眠りをしているのを見咎められて叱られる声がよく響くようになったということである。
そのケーキを味わいたい方。 居眠り常習犯の顔に興味がある方はご自分で喫茶リゾナントを捜すしかない。
この世界のどこかにきっとあるリゾナントを。