独占欲(1)



「カーメイ氏の研究の盲点ですって?」

今、私は日当たりのいい喫茶店の窓際の席に座っている。
目の前には亀井絵里研究家を自称するエリリンコ・カメノフ氏が、2メートル近い巨躯を木製の瀟洒な椅子に押し込んでいる。
カメノフ氏のグローブと見紛わんばかりの大きな手には、亀井絵里研究家にとって必携の史料、『かなしみ文書』のコピーが携えられている。

「盲点と表現するのは適切ではなかったかもしれませんね。」 

カメノフ氏はトマトジュースで喉を潤すと言葉を続けた。

「カーメイ氏の業績は非の打ちどころがありません。 世界中の亀井絵里研究家は彼のことを尊敬しています、勿論私も」

コマンドサンボの黒帯だという目の前の巨漢の言葉を、私は素直に受け取ることが出来なかった。
亀井絵里の、そしてリゾナン史研究の巨人であるカーメイ氏への対抗心、あるいは気負いが感じられるのだが。

私はリゾナン史関連の書籍を発行する出版社で編集に携わっている。
この仕事に就いていると、リゾナン史上の新発見を書籍として出版したいという売り込みに遭うことも珍しくない。
今私の目の前にいるカメノフ氏もそんな一人だ。

「以前、カーメイ氏があなたの社から出版された本を読ませていただいた限りでは、カーメイ氏は意識的に隠されていたようです。」

エリノフ氏がそう言って大きな茶封筒から取り出したのは、カーメイ氏が私の社から出版した『かなしみをゆく』だった。

「この本の後半で、カーメイ氏はこう語っておられますね。 
かなしみ文書は当時の単位で1レス分以内で物語を収束させているために、本筋に関係ない状況が綺麗に削ぎ落とされている、と」

「ええ、最大で32行以内に収められているその簡潔さが後世の研究家泣かせだと嘆いておられてますよね」

「こう考えることは出来ないでしょうか。 32行以内に収められているから、詳細な記述に欠ける部分があるのではない。 
詳細な記述を行いたくなかったから、敢えて32行以内に収めたのだ、と」

「何ですって」

私は無意識のうちに大声を出していた。

「それは一体どういう意味なんですか」 

「私はこう考えています。 かなしみ文書には、意識的に隠されている要素が存在する。 それは“血”です。」

カメノフ氏はそう言うと真っ赤なトマトジュースを飲み干した。

「しかし、唐突にそんなことを仰られても、すぐには信用しかねます。 何かあなたの推論を実証する材料が存在しなければ」

「勿論こうしてあなたにお時間を割いて頂いた以上用意してきています」

カメノフ氏はA4サイズの用紙のファイルを取り出した。
紙面には細かい文字が踊っている。
先頭には何やら警告文が記載されている。

  ☆     ☆     ☆

【警告】

この先の文章には、読み手を不快にさせる要素が含まれています。
ホラー映画なんて規制されて当然だという倫理観の持ち主は、閲覧を回避されることを推奨します。


『immortality』


横浜の中華街、一軒の中華料理屋に息を切らせて駆け込む一人の少女がいた。
彼女の手には中国語の新聞が握りしめられている。
駆け込んできた少女は厨房に駆け込むと、そこで具材の下拵えをしていた年上の女性の名を叫ぶ。

「李姐、李姐」

李姐と呼びかけられた女性、李純は駆け込んできた少女をたしなめる。

「銭琳、外から帰ってきて厨房に入ってくるときは、ちゃんと手を洗ってからにしろと…」

ただならない様子の銭琳を見て、李純の言葉が途切れる。
銭琳は李純に握りしめてきた新聞を差し出した。
そこには「無人の町を跋扈する死者の大群?」という文字が踊っている。

「遂に来たか」と呟く李純。 震え出す銭琳。
李純はそんな銭琳を抱きしめる。

「恐れるな銭琳。 来るべき時がやって来ただけだ。 そうこれが私たちの運命だ」

  ★    ★    ★


頭痛がしてきた私は文字の羅列から目を離すと、原因を持ち込んだ元凶であるカメノフ氏に疑問を投げかけた。

「私はかなしみ文書についての検証を記録したものを期待していました。
ですが、あなたの持参されたこの文章は小説のように思えるのですが」

「それはかなしみ文書の原本が著述されたと推定される年代とほぼ同時期に、web上で発表された記録です」

「ほうっ」

誠意のこもっていない相槌を打ちながら、私は失望しきっていた。
web上に流布されていた記録だと。
どうやら目の前の大男は、駆け出しのリゾナン史研究者がはまってしまう落とし穴にまんまと落ち込んでしまったようだ。
どうやってカメノフとの無駄な時間を切り上げようかと頭を捻っていると、続きを読むように促された。
しょうがない、もう20分ぐらいはお義理で付き合うとしようか。

記録と称する小説まがいの雑文は、二人の少女李純と銭琳が怪事件の一報を知った時点から、10年前に遡っていた。
舞台は中国の辺境部の小さな町らしい。
人家から離れた山の洞窟に、1人の少女が食物と衣類の入った籠を手に訪れる場面から始まっている。

   ☆     ☆     ☆

洞窟を奥に進むと人間の手で掘られたのだろうか。
幾つかの横穴があった。
横穴の入り口には太い鉄格子が填められている。

少女はその横穴の一つで暮らしているらしい人間に食物と衣服の替えを持ってきたらしい。
その人間とは老人だった。
老人は小柄で温厚そうに見えた。
いかにも好好爺という感じだ。

老人の手と足は長い鎖で岩肌に拘束されている。
鎖の長さは横穴の中で老人が動ける程度に確保されている。
鎖は頑丈な金具で岩肌に固定されているが、強い力が加えられたのか岩肌にひびが入り、金具も歪みかけている。
老人はそのことを少女に告げ、新しい穴に移る準備を進めるよう家人に伝えるように告げる。

少女は鉄格子越しに食物を置き、洗濯の為に持って帰る衣服を籠に詰め込むが、その表情は暗い。
老人はその様子を訝しく思うが、口にはしない。
やがて少女は口を開く。

「お祖父様。 私は覚醒したいのです。お祖父さまのように神獣として」

老人は驚いた様子で少女の顔を見つめる。

  ★    ★    ★

『神獣』という言葉とその使われ方に違和感を覚えた私はカメノフ氏に尋ねた。

「神獣というのは一体?」

「この先を読み進めて頂ければ、おわかりになると思いますが、その記録の中では人でありながら、獣の姿に変化する者のことを神獣と称しています」

「いわゆる獣化能力者のことですね。 ということは老人の孫である少女が李純ということになるんでしょうか」

小説と呼ぶには拙すぎるその記録を読み進める気の無い私は、カメノフ氏の口から情報を聞き出そうとしたが、当のカメノフ氏は笑って先を読むように勧めるばかり。
いい気なものである。 抗議の意を込めて、わざとらしく大きなため息をつくと、用紙に目を落とした。


   ☆     ☆     ☆


洞窟の外は日が傾きだしていた。 
鉄格子の中で老人と李純が並んで座っている。
老人は優しい声で李純を諭す。

「いいかい、純。お前に“覚醒”は起こりえない。
何故なら私は200年前ばかり前に東欧を訪れたことがある。
そこで出会った魔女へケートと契約を交わし、我が血族の“覚醒”を封印したからだ。
残念ながら既に覚醒してしまった私は、人に災厄を及ぼすことを防ぐために、こうして人里はなれた洞窟に住んでいる。
だがな、純。 "獣”として目覚めていないお前は違う。
普通の子として育ち、普通の娘として男と結ばれ、普通の母として子を生し、普通の人としてその生を全うする。
それが私がお前に望むこと。 それは神獣として不死の運命を背負った私には叶わぬこと」

  ★    ★    ★

「ちょっと待って下さい」

今度こそは目の前の大男との不毛な時間を終わらせるつもりで、語気を荒げて言った。

「カメノフさん。 あなたが持参してこられた文書ですが、リゾナン史の新発見とは到底認めがたい内容です」

「それはどのような点を差してのご指摘なのでしょうか」

「この文書の中で神獣として覚醒した老人は、山中の洞窟に軟禁状態になっています。 まるで怪物のように。
神の獣と呼ばれながらこのような扱いを受けているのは明らかに矛盾しています。 したがってこの記録は捏造されたものだと私は考えます」

「果たしてそう言い切れるでしょうか」

カメノフ氏は穏やかな表情を崩すことがなかった。

「想像してみて下さい。 あなたは科学の発達していない時代の人間です。
そしてあなたには老いた父母と愛すべき妻、守らなくてはならないお子さんがいます。
もしもそんなあなたの身の回りに獣化能力者が存在したとすれば。」 

一気に話した所為で喉が乾いたのか、空のグラスをかざしてトマトジュースのお代わりを催促する。
ウェイトレスが跳ねるようにやって来て空のグラスをトレイに載せていった。

「因習と迷信が支配的な世界で、あなたは自分の隣人として、獣化能力者を受け入れられますか?」

唐突な質問だった。
勿論受け入れられると答えようとしたが、カメノフ氏の真摯な視線は私にそんなお座なりな解答をすることをためらわせた。
口ごもる私を見て、カメノフ氏は言った。

「残念ながら市井に暮らす人々の大多数は、獣化能力者を恐れるでしょう。
そして彼らを排斥しようとさえするでしょう。
しかし獣化能力者の力の前に適わないならば、彼らを神と崇め自分たちに災いが及ばないようにするでしょう」

「それはあなたの思い込みにすぎないでしょう」

カメノフ氏の言葉に承伏しかねた私は、やんわりと反論した。

「確かにこの記録が書かれた年代は、現在と比べれば科学は発達していなかったかもしれません。
しかしその代わりに神と人との距離も現在より近かった筈です。 神獣は人々に畏敬の念を持たれていたのではないのでしょうか」

「その記録の中で神獣である老人は、人々に災いを及ぼさぬよう、半ば自分の意志で拘束されていますが」

「カメノフさん、どうやらお互いの論旨がすれ違っているようですね。
あなたはどこからか発掘してきたその記録が真実だという前提の基に、前時代の獣化能力者たちが偏見に晒されてきたと仰られる。
一方の私はその記録自体が、当時の人間の想像の産物だという認識を持っている。」

今度こそは迷宮に入り込んだ感のあるカメノフとの会話から抜け出せると思ったが。

「おう、そうでしたね。 私も自分の見解に固執し過ぎた感はありましたね。 まずはその記録の信憑性の検証、これが先決ですよね」

やれやれだ。 とりあえずこの雑文が真実の記録と呼びがたい箇所を発見すれば、解放されるってことか。
それとも一通り目を通した上で、個人では判断しかねるので、社に持ち帰って検証するとでも言って誤魔化すか。
そうしよう。







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44話
最終更新:2010年06月27日 15:44