辛亥革命~中国近代化運動の実際

明治維新を手本に近代化に着手しながら、共産主義に取り込まれて道を誤った中国

「 ありのままに言えば、私達の目的はヨーロッパ人の目的とは全く正反対である・・・
私達は自由があり過ぎて反抗したのであって、私達には団結心も抵抗する力もない。私たちは砂粒に過ぎぬ。 」

孫文 (1905年 『三民主義』)

◇目次

1.百年経っても近代国家に成れない中国の現状

【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑦ 【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑧
【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑨ 【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑩
【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑪ 【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑫

2.清朝(Qing Dynasty)と支那(China)の区別

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1760年代の東アジア
(乾隆帝治下:清朝最盛期)

(1)濃い黄色部分⇒支那(China)…万里の長城以南の漢人の伝統的な居住地(=漢土)
(2)薄い黄色部分⇒支那ではないが清朝(Qing Dynasty)の領土(満州人・モンゴル人・チベット人・ウイグル人など漢人以外の諸民族の居住地)

※台湾が支那に含まれる一方、朝鮮が支那以外だが清朝の領土に含まれていることに注目

3.辛亥革命~中国近代化運動の実際

※1.の動画の解説となります
(1) 始まりは日清戦争:遅まきながら立憲君主制を目指した清朝(1894-)
・日清戦争(1894-95)敗戦に危機感を持った清朝は、康有為 梁啓超 らの進言で日本を手本にした近代化改革(戊戌維新)を始めるが、守旧派の抵抗で百日で頓挫。康有為・梁啓超は日本に亡命し、立憲君主制樹立を目指して活動(保皇党)
・日露戦争(1904-05)での日本勝利により、ロシアによる満州・モンゴルの植民地化を逃れた清朝は、日本に傾倒。1万人以上の留学生を日本に派遣し明治維新を手本に本格的な近代化への準備を進める。(政治・経済・社会制度改革に着手、1913年の立憲君主制発足も約束)
・日本政府/民間団体は清朝の改革を熱烈に支援(共に近代化したアジアの強国となって欧米列強に対抗することを目指した)
(2) 「滅満興漢」を旗印に民族主義革命を強行した孫文、「満州割譲」に釣られた日本右翼(1911)
・ところが日本で新思想に触れた漢人留学生の間に、民族主義(漢民族による満州王朝打倒)を訴える孫文 黄興 らの革命党が台頭し、康有為らの保皇党(改革派・立憲君主制支持)を圧倒してしまう。
・清朝の自己改革を支持する日本政府は、孫文ら革命党に否定的であり警戒していた。(革命による混乱/日本への影響を懸念)
・一方、攘夷論(反欧米主義)/大アジア主義を標榜する日本在野の右翼団体(頭山満 の玄洋社、内田良平 の黒竜会など)は、孫文・黄興の革命路線に共鳴。亡命中の孫文らを資金/組織両面で支え続けた。
玄洋社 /黒竜会 は、かって征韓論を唱えて下野し、維新政府に討伐された西郷隆盛に連なる在野士族を主体に発足し、明治・大正~昭和初期の政治状況に大きな影響力を及ぼした在野の政治結社で、日本の右翼運動の源流とされる
・特に内田系の黒竜会は、孫文の「革命が成功し清朝を満州に駆逐したあとは、満州を日本に任せる」との誓約を信じて、多数の壮士が大陸に渡航、辛亥革命の武力面での指導者として活躍・・・「辛亥革命は日本人がやったことだ」(内田良平)
(3) 袁世凱による革命の簒奪~清朝皇室と革命派の妥協により「中華民国」発足(1912)
・清朝は北洋軍閥の巨頭袁世凱 を起用し革命鎮圧を委ねるが、自身が皇帝に成り上がる野心を抱いていた袁世凱は、①清朝宮廷(北京)には紫禁城内での宮廷維持・皇帝成人後の復位の仄めかし、②孫文の臨時政府(南京)には清朝皇帝の退位・共和国樹立、を餌に妥協を強い、自身が大総統に就任。発足した「中華民国」の実権を奪う(1912.2)
・しかし袁世凱の帝政樹立の野望は、改革派(立憲君主制支持派)・革命派双方の支持を得られず失敗(1916.3)
・袁世凱は失意のうちに病死し(1916.6)、以降、中華民国は軍閥・革命派・独立派諸民族が割拠する分裂状態に陥る
・袁世凱の統治期に日本政府から出された所謂「対華21ヶ条要求」については1.動画及び5.動画を参照
(4) ロシア革命の波及~共産主義者に煽動された五四運動・五四文化革命(排日運動・伝統文化否定)(1919.5.4)
・清朝末期の留学生には、在野の日本右翼ではなく、幸徳秋水 など日本の左翼運動、更に欧州の共産主義運動に共鳴する者も現れた。その代表格が陳独秀 李大釗 である。(陳・李は、のちに中国共産党を結成(1921))
・陳独秀は帰国後、雑誌『新青年』を刊行、徹底した儒教批判と近代思想の紹介を行う。これに魯迅・胡適らの「白話文運動」(口語文を用いて民衆教化を訴える運動、「文学革命」ともいう)が合流して新文化運動 が始まる。(1916-21、「五四文化革命」ともいう。1960年代の文化大革命の先駆的運動)
・1917年11月(露暦10月)ロシア10月革命。1919年2月 ソ連は世界革命を実行するためコミンテルン(国際共産党組織)を設立
・1919.5.4、第一次世界大戦の講和条約締結問題を契機に、陳独秀・李大釗ら左翼文化人に煽動された学生達による排日運動が暴発(五四運動 、2005年の反日デモをイメージせよ)・・・辛亥革命に成功した漢族の民族主義が、日本を次の標的とし始める。
(5) 孫文、革命のために「連ソ容共」に転じ、日本右翼を裏切る(1923.1)
・1919年7月 ソ連がロシア-清朝間で結ばれた不平等条約の即時撤廃を表明(カラハン宣言 )、中国民衆の好感を獲得
・辛亥革命の失敗を味わった孫文は、「孫文=ヨッフェ共同宣言」(1923.1)を発表し、革命の主パートナーを日本の在野右翼からソ連に切り替え、中国共産党と協力関係を結ぶ(第一次国共合作:1924.1)・・・国内基盤の弱かった孫文は革命運動を進めるために常に外国勢力の支援を必要とした。
・孫文の「満州譲渡の誓約」を信じていた内田良平の黒竜会はこれに反発。以降、満州独立派に接近。
・一方、頭山満の玄洋社は、なお「同種同文」たる日中両民族が同盟して欧米列強打倒を目指す「大アジア主義」 構想を捨て切れず、孫文(のち蒋介石)率いる国民党との関係維持・日本政府との提携推進に努めたが、大東亜戦争終結に至るまで彼らの期待は裏切られ続けた・・・戦前の右翼は「大アジア主義」に固執し大失敗を犯したと言える。ただし、頭山・内田らは孫文らを叱りつけるなどの対応や反撃をしている。※参照外交の基礎知識
(6) 清朝皇室の紫禁城追放、立憲君主制構想の消滅(1924.7)
・軍閥抗争が続く華北で、なお将来の復位を望んで存続していた清朝宮廷は、1924年 軍閥(馮玉祥 )の反乱により紫禁城から追放され、中国の立憲君主制構想は最終的に消滅
・前皇帝溥儀 は自身の希望により、北京の日本公使館を経て天津の日本租界に亡命。将来の満州帝国復活に希望を繋ぐ(帝師を務めたR.F.ジョンストン『紫禁城の黄昏』(1934刊)の記述から確実。しかし同書は東京裁判では戦勝国の建前に反するため無視された)
(7) 蒋介石の北伐・国民革命(1926-28)、張作霖爆死(1928)
・孫文死去(1925)後の国民党(華南に基盤)は、蒋介石 を指導者に北伐 を開始。華中次いで華北を攻略し、不完全ながら漢土を制圧(国民革命)。その過程で蒋介石は、孫文の残した中国共産党との合作を破棄(上海クーデター、1927.7)
・蒋介石の北伐軍に敗れた張作霖は満州に退去するも、その途上で爆死(1928.6.4)
・張作霖の後継者で息子の張学良は、1928.12末に蒋介石の国民政府に帰服を宣言(易幟 )。蒋介石は漢土・新疆に加えて満州も名目上統治することになったが、華南や陝西省などで共産党勢力との抗争が継続しており不安定な状態は続いていた。
⇒以降の展開は中国はなぜ反日か?を参照

4.参考図書


紫禁城の黄昏―完訳 (上・下)
R.F.ジョンストン (著), 中山 理 (翻訳), 渡部 昇一(監修)

伊ベルトリッチ監督・坂本龍一音楽/出演でヒットした1987年公開の英・伊・中合作映画『ラスト・エンペラー 』の重要なモチーフの一つであり、岩波文庫の翻訳本でも知られる名著
ところが、岩波文庫本は、原著者R.F.ジョンストン(清朝最後の皇帝溥儀の帝師を勤めた英国人)が、自身の史観を述べた第1章~10章、第16章を完全に削除しており、序章も肝心の箇所を勝手に虫食い状に隠蔽、さらに訳文自体も少なからぬ意図的誤訳が検出されています。(岩波書店は月刊誌『世界』の発行元として知られる左翼傾向の強い出版社で、戦後GHQ職員が常駐し出版物を厳しく検閲したことで知られています)
本書は、岩波文庫本で削除された章・誤訳された箇所も全て、1934年(溥儀、満州帝国皇帝に就任)当時の原著に忠実に訳出した2005年の新訳です。
  
近代中国は日本がつくった
黄 文雄 (著)

自虐史観の刷り込みによる先入見とは全く無縁の著者が、当時の資料から浮かび上がる歴史事実を極力数値を用いて実証的に検証した目から鱗の名著。以下、数値による実証例。

《1》中華民国南京臨時政府(1912年1月就任)内閣メンバー:18名中、9名が日本留学組
《2》北京政府(1912-28)の閣僚経験者:1,447名中、556名が日本留学組
《3》広州国民政府(1925-26)委員:24名中、14名が日本留学組
《4》南京国民政府(1928-37)委員:81名中、40名が日本留学組
《5》中国共産党創立大会の正式代表:12名中、6名が日本留学組
大東亜戦争への道
中村 粲 (著)

特に中国(支那)・ソ連(ロシア)との歴史問題を事実関係の綿密な検証を通じて公正に解き明かした点で重要な平成2年(1990年)初版の名著
但し、事実検証重視は、裏を返せば「歴史物語」的な面白みに乏しい(=演繹的ではなく帰納的)ということであり、余程の歴史マニアでなければ通読は困難か。興味のある人は図書館で捜すべし。下と5.の動画が同書の内容紹介となります。
   

   

続き⇒  5.「対華21ヶ条要求」の動画も参照

5.「対華21ヶ条要求」(1915年1月18日)の実際

◇動画による解説(【桜塾】大東亜戦争への道 【第十回】第一次世界と日本(1):中村粲(獨協大名誉教授))
大東亜戦争への道 Twenty-One Demands in 1915 Jan 18① 大東亜戦争への道 Twenty-One Demands in 1915 Jan 18②
大東亜戦争への道 Twenty-One Demands in 1915 Jan 18③ 大東亜戦争への道 Twenty-One Demands in 1915 Jan 18④
大東亜戦争への道 Twenty-One Demands in 1915 Jan 18⑤
ニコニコ動画版はこちら⇒   



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■セットで読む中国の民族問題解説ページ■
東トルキスタン侵略の正体
チベット侵略の正体
南モンゴル侵略の正体
台湾の真実
中国の歴史・中国文明
辛亥革命~中国近代化運動の実際



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最終更新:2019年12月29日 03:54