規範的秩序-ハイエク-

あらゆるルール、わけても法的ルールは、主権者と呼ばれる主体によって、意図的に設定されたものである、あるいは、あらゆる法は、主権者の意志の表出である、と考える法の主権者意志説は、主権者の権力の無制限を帰結した。
多数者としての大衆が主権者の高みにある今日においては、これは、多数者大衆に無制限の権力を委ねることに等しい。
しかし、総ての(法的)ルールを主権者が意図的に設定することなど、果たして可能なのであろうか。
あるいは、如何なる(法的)ルールによっても制限され得ない主体など、果たして存在し得るのであろうか。

ハイエクは、この問いに対して、如何なる行為、あるいは、如何なる主体と言えども、何等かの先験的なルールあるいは形式に従うことによって、始めて行為あるいは主体足り得るという議論を以て答える。
すなわち、ハイエクは、あらゆる行為(主体)は、カントの言う先験的カテゴリーに類似した、先験的なルール(あるいは形式)を前提することによって、始めて存在し得ると言うのである。
ハイエクによれば、あらゆる行為は、あるカテゴリーに属する行為の当否を決定する一般的なルールが、無数に重ねあわされることによって、特定されたものである。
言い換えれば、ある特定の行為は、ある一般的なクラスに属する行為の是非を判定する抽象的なルールが、幾層にも積み重ねられることによって、構成(constitute)されるのである。
従って、ハイエクの言う抽象的なルールは、具体的な行為に常に先行し、行為を行為足らしめるという意味において、それを構成するものである。
すなわち、ハイエクの言う抽象的なルールは、カントの意味において、まさに先験的なのである。
この意味において、ハイエクは、紛れもないカント主義者であると言えよう。

ハイエクは、ある特定の具体的な行為が、一般的、抽象的なルールの重ね合わせによって構成されるとする彼の主張を、抽象的なるものの優位性(primacy of the abstract)と呼んでいる。
抽象的なるものは、具体的なるものから、主体的な行為によって、作成されたものではなく、むしろ、主体的な行為をも含む具体的なるものこそが、抽象的なるものによって、そのものとして構成されると言うのである。
言わば、ハイエクは、あらゆる行為を、何等かの抽象的なルール群によって構成された、社会的なゲームの具体的な遂行であると考えているのである。
従って、あらゆる行為は、社会的なゲームを構成する先験的なルールを前提として始めて存在することになる。

しかし、ハイエクは、具体的な行為に対する抽象的なルールの先験性を主張するからと言って、必ずしもカントの議論の総てを引き受ける訳ではない。
ハイエクにとって、先験的なルールは、決して絶対的なものではあり得ない。
前章で見たように、ハイエクの言うルールは、行為の持続的な遂行を通じて生成され、また、経験的に遂行されていること以外には、それに従うべきいかなる根拠も持ち得ない、相対的なものである。
すなわち、ハイエクの言うルールは、行為の歴史的あるいは地域的な遂行に相対的である、遂行的な秩序なのである。
ここで、行為の持続的な遂行にのみ根拠を持つルールが、何故、行為を先験的に構成し得るかという疑問が、当然、生じて来ると思われる。
行為によって生成されるルールが、何故、行為を構成し得るのか、まことに当然な疑問である。
しかし、この問いに答えることは、本節の後半まで、しばらく預けて置くことにしよう。
ここでは、行為を構成する先験的なルールの存在が、法の主権者意志説に現れている主体主義あるいは個体主義に対して、いかなる含意を持ち得るかを、まず検討してみたい。

さて、ルールの、行為の当否を判定して、行為の秩序を構成するという側面を、その規範的(normative)な側面と呼ぶことにする。
すなわち、ルールは、暗黙的な側面とともに規範的な側面を持つ秩序なのである。
ところで、ルールが存在すると言うことは、行為に何等かの秩序が存在すると言うことに外ならないのであるから、ルールの存在と、ルールに行為が従うことによって形成される自生的秩序の存在とは、実は、同じ一つの事態に外ならないと言い得る。
自生的秩序は、ルールの構成する社会的なゲームであると見なし得るので、これは、あるルールの構成するゲームの記述と、あるゲームを構成するルールの記述とが、同等である、と言うに等しい。
従って、ルールが、規範的な側面を持つということは、取りも直さず、自生的秩序もまた、規範的な側面を持つということに外ならないことになる。
すなわち、自生的秩序もまた、暗黙的であるとともに規範的でもある秩序なのである。
言い換えれば、自生的秩序は、行為の内に黙示され、行為の意識的な対象とななり得ない秩序であるとともに、行為の外に前提され、行為を規範的に拘束する秩序なのである。

このような、ルールと、それに行為が従うことによって形成される自生的秩序とに、規範的な側面が存在することの主張は、たとえば法の主権者意志説に対して、いかなる含意を持っているのであろうか。
あらゆる行為には、その行為を行為として発効させる、先験的なルールが前提されるのであるとすれば、主権者による法の制定という行為もまた例外ではあり得ない。
すなわち、主権者による法の制定もまた、(主権者自身の制定に因らない)何等かのルールに従っている筈である。
この意味においては、主権者と言えども、なるほど無制限ではあり得ない。
しかし、この意味において主権者を拘束するルールは、たとえば、法は言語によって記述されねばならず、法の制定は言語のルールに従わねばならない、といった極めて抽象的なレベルのルールを含むものである。
従って、この意味におけるルールに、何の限定も加えないとするならば、なるほど、主権者は何等かのルールによって制限されてはいるが、法的には全く無制限である、ということにもなりかねない。
たとえば、日本語で立法しさえすれば、いかなる法でも立法し得るといった具合である。
すなわち、主権者を制限するルールが、実質的な意義を持ち得るのは、あくまで、それが法的なレベルにおけるルールである場合なのである。

それでは、主権者の立法に先行し、主権者の立法を制限する、法的なルールとは、いかなるルールであるのか。
それは、主権者が意図的に設定する(法的)ルールを、(法的)ルールとして妥当させる理由あるいは根拠となるルールである。
すなわち、主権者の法を制定する際に従うべき手続きや、主権者の制定する法の充たすべき一般的な内容といった、法が法として発効するための要件を規定する(法的)ルールによって、主権者は制限されるのである。
このようなルールは、言語によって記述された憲法をもちろん含み得るが、決して、それに留まるものではあり得ない。
何故なら、このようなルールは、書かれた憲法のように、主権者によって意識的に制定されたものではありえないからである。
すなわち、法の主権者意志説が主権者の無制限を帰結することの対偶を取れば明らかなように、主権者を制限し得るルールは、主権者によって設定されたものではついにあり得ないのである。

主権者を制限し得る法的ルールは、主権者の意図的に設定したものではないとすれば、主権者の遂行的に従っているそれ以外にはあり得ない。
すなわち、主権者の、その行為において、慣習的に遂行しているルールこそが主権者を制限し得るのである。
言い換えれば、主権者の行為は、自らの遂行的に従う、慣習的なルールを根拠にして始めて、主権者の行為として法的に発効し得るのである。
従って、この場合、主権者の遂行的に従うルールが、その行為を規範的(あるいは先験的)に構成するルールに転化していることになる。
しかし、このような、遂行的なルールの規範的なルールへの転化の問題は、本節の最後で取り上げることにする。
ここでは、主権者の行為を法的に発効させる根拠となるルールによって、主権者が法的に制限されるという事態が、あらゆる法的なルールは主権者によって意図的に設定されたものであるとする、法の主権者意志説を、真っ向から覆すものであることを確認しておきたい。
すなわち、主権者の行為を(法的に)構成するルールの存在は、主権者の無制限を帰結する法の主権者意志説とは、決して両立し得ないのである。
言い換えれば、法の主権者意志説に現れた主体主義あるいは個体主義は、主体あるいは個体それ自体を構成するルールの存在によって、その理論的な貫徹を、阻止されざるを得ないのである。

このような、主権者の行為を制するルールを、ハイエクは、(法的)ルールが(法的)ルールとして妥当するために充たすべき一般的な条件についての、世間一般の意見(opinion)と呼んでいる。
言い換えれば、主権者は、世間一般の意見によって制限されるのである。
ハイエクの言う、世間一般の意見は、世間一般の意志(will)とは明確に区別される、かなり独特な概念である。
すなわち、世間一般の意志が、たとえばルールの可否をめぐる投票などによって、意識的に表出されるのに対して、世間一般の意見は、主権者の設定したルールがルールとして実際に従われるか否かによって、遂行的にのみ示されるのである。
従って、主権者の制定する法は、世間一般の意見によって拒否されない限りにおいて、法足り得ることになる。
今日においては、多数者大衆が主権者なのであるから、世間一般の意志と主権者の意志は一致していると考えてよい。
この場合、世間一般の意志によって設定されたルールと言えども、世間一般の意見によって拒否されるのであれば、ルールとしては発効し得ないことになる。
すなわち、世間一般の意見は、世間一般の意志をも制限し得るのである。
この意味において、ハイエクのいう世間一般の意見は、アナール学派の言う集合的心性(mentalite)に、かなり近しい概念である。
何故ならば、いずれも、行為を規範的に限定し得るとともに、自らは遂行的にのみ存在し得る、集合的な精神の秩序に外ならないからである。

それでは、本節の前半で残して措いた問題を取り上げることにしよう。
すなわち、行為の持続的な遂行の意図せざる結果として生成されるルールが、何故に、行為を先験的に構成する規範たり得るのか、という問題である。
あるいは、この問題を、自らに従う行為の持続的に遂行されていること以外には、いかなる根拠をも持ち得ないルールが、何故に、行為の社会的に発効し得るか否かを決定する根拠たり得るのか、と言い換えてもよい。
すなわち、この問いは、行為の発効し得るか否かを決定する根拠それ自身が、行為の結果として生成されるということに、果たして何の矛盾も生じ得ないのか、という疑いから発せられているのである。
このような疑いには、充分な根拠がある。
何故ならば、もし行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるとするならば、行為の有効/無効を決定するのは行為自らである、という事態が生じ得るからである。
たとえば、「私の決定(行為)は無効である」と私は決定(行為)する、といった事態が生じ得るのである。
このような事態は、明らかにパラドックスを孕んでいる。
すなわち、もし、「私の決定は無効である」という私の決定が有効であるとするならば、私の決定は無効であることになり、逆に、「私の決定は無効である」という私の決定が無効であるとするならば、私の決定は有効であることになる。
従って、このような事態においては、私の決定の発効し得るか否かを決定することは、論理的に不可能となるのである。
このパラドックスは、いわゆる自己言及(self-reference)のパラドックスと同型のパラドックスとなっている。
すなわち、自己の決定の発効し得るか否かは、自己自身によっては決定不能であるという事態は、自己言及による意味の決定不能性と同型の構造を持っているのである。

従って、行為の有効/無効は、行為自らによっては決定し得ないのであるから、行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるような状況においては、行為の社会的な効力など、全く決定不能であるように考えられる。
すなわち、行為の社会的な発効の条件を規定するルールが、行為の持続的な遂行の結果として生成されるという状況においては、行為の社会的に発効し得るか否かは、ついに決定し得ないように思われるのである。
しかし、このような帰結が導かれるように見えるのは、実は、行為の発効し得るか否かを決定するルールを、行為自らによって意図的に設定(決定)し得ると考えているからに外ならない。
すなわち、行為の発効条件を規定するルールを、決定や制御や言及やといった行為の意識的な対象となり得ると考えるが故に、行為の発効し得るか否かを、行為自らが決定するという事態が生じているように見えるのである。
言い換えれば、ルールが行為の意識的な対象として(意図的に)設定されるという事態であると見なすが故に、行為の有効/無効を行為自らが決定しているように見えるのである。
従って、行為の有効/無効を決定するルールが、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によって意図的には設定(決定)し得ない事態であると考えるならば、この問題(自己言及の非決定性)は、ひとまず解消することになる。
すなわち、行為の社会的な効力を決定するルールが、行為の持続的な遂行の結果であるにも拘わらず、行為の意識的な対象とはなり得ないという意味において暗黙的であるならば、行為の発効し得るか否かは、ひとまず決定可能となるのである。
言い換えれば、ルールが、行為の有効/無効を、とりあえず決定し得るとするならば、それは、ルールが、暗黙的であるからに外ならないのである。

以上の議論から、遂行的に生成されるルールが、にも拘わらず、行為を規範的に拘束し得るとするならば、それは、ルールの暗黙的である場合に限られることが明らかになった。
言い換えれば、行為が、自らを行為として発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬとするならば、そのようなルールは、暗黙的たらざるを得ないのである。
ここで注意すべきは、この、行為が自らを発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬ、という(次々節で行為の文脈依存性と呼ばれることになる)命題は、ここでは単に仮定されているだけなのであって、何の論証も為されている訳ではないということである。
すなわち、ここでは、行為が自らの発効をルールに依存していることが、とりあえず仮定されるならば、そのようなルールは暗黙的であることが帰結される、という議論をしているのである。
従って、行為は自らの発効をルールに依存しているのか否かという問いが、また改めて問われねばならない。
しかし、この問いを問うことは、次節以下に委ねたい。

ここでさらに注意すべきは、行為の発効を根拠付けるルールが、たとえ暗黙的であったとしても、いわゆる自己言及の非決定性が、完全に解消する訳ではないということである。
なるほど、行為の有効/無効を決定するルールが、行為自らの言及(決定)対象とはなり得ないとすることによって、行為の発効し得るか否かは、確かに決定可能となった。
しかし、そのことによって、ルールそれ自体は、自らの有効性あるいは妥当性を決定し得る、いかなる根拠をも与えられるわけではない。
何故ならば、ルールそれ自体の妥当性を、(行為ではなく)ルールに根拠を置いて決定することは、明らかに自己言及のパラドックスを引き起こすからである。
従って、ルールそれ自体の妥当し得るか否かは、依然として決定不能なのである。
言い換えれば、行為の有効/無効を決定するルールが暗黙的であるとすることによって、行為についての(自己言及の)非決定性は、確かに解消されたのであるが、それは、(自己言及の)非決定性を、ルールについてのそれに、ただ先送りしたに過ぎないのである。
あるいは、ルールが暗黙的であるということは、取りも直さず、ルールそれ自体の妥当性が決定不能であるということに外ならない、と言い換えてもよい。
すなわち、ルールの暗黙性とはその自己言及性に外ならないのである。
いずれにせよ、自己言及の非決定性は、行為についてのそれからルールについてのそれへと、そのレベルを変更しただけであって、パラドックスそのものは、少しも解消していない。
自己言及性は、(次々節に述べる文脈依存性と共に)人間とその社会にとって、ついに逃れ得ない、言わば運命的な特質なのである。

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