慣習あるいは《遂行的なるもの》

近代産業を推進する中心的な価値態度としての産業主義や手段主義、あるいは、近代科学を招来した価値態度とされている実証主義や記述主義といった、一連の合理主義とも言うべき世界の捉え方と、近代民主政治あるいは近代主権国家を支持する価値態度としての民主主義や主権主義、さらには、近代的自我あるいは「内面的意識」を析出する価値態度としての情緒主義や表出主義といった、一連の個体主義とも言うべき世界の捉え方とを、同時に懐疑し得る立脚点として、我々は、自生的秩序やルール、あるいは言語行為といった、遂行的に生成される社会秩序の概念を定礎してきた。
本節では、この《遂行的なるもの》とも言うべき概念の持つポテンシャルを、改めて評価してみたい。
すなわち、《遂行的なるもの》が、合理主義や個体主義を含めた概念のシステムの中で、如何なる位置価を持ち得るかを、正確に測定してみたいのである。

まず、合理主義によれば、世界は、ここでは差し当たり人間とその社会は、理性による意識的な制御あるいは言及の対象として捉えられる。
すなわち、世界は、合理的に制御可能あるいは言及可能な客体として把握されるのである。
何等かの目的を達成するために、世界を効率的に制御せんとする産業主義や手段主義、あるいは、総ての発話の真偽を、それが言及する対象の存否によって決定し得るとする実証主義や記述主義が、この意味における合理主義を、その共通の前提としていることは言うまでもない。
しかし、世界を、わけても人間とその社会を、合理的な制御あるいは言及の対象として捉え得るとする態度は、飽くまで一つの価値態度に過ぎないのであって、世界と我々との関係が、この態度のみによって覆い尽くされる筈のないことは、容易に理解されよう。
もちろん、このような態度によって捉え得る世界が、全く存在しないと言う訳ではない。
ただ、そのような世界が、世界の総てである筈はないと言っているのである。
この合理主義によって捉えられる世界を、世界の一つの捉えられ方であることに留意して、ここでは、《世界Ⅰ》と呼ぶことにしよう。
すなわち、《世界Ⅰ》とは、合理的に制御可能あるいは言及可能な対象として捉えられる世界の謂である。

次に、個体主義によれば、世界は、わけても人間の行為とそれによって形成される社会は、行為を遂行する個体の主観的な意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属され尽くし得る事態として捉えられる。
すなわち、人間の行為とそれによって形成される社会は、その個体的な意図や情緒や目的やに還元可能あるいは帰属可能な事態として把握されるのである。
この意味における個体主義が、社会の全体的な意志決定は、その社会を構成する諸個人の合意あるいは主権者の意志に還元され得るし、また、されるべきだと考える、民主主義あるいは主権主義の前提となっていることは言うまでもない。
さらに、このような個体主義は、人間の行為を、その主観的な意図に帰属させて理解する、言い換えれば、人間の行為を、その内面的な意識の表出として解釈する、情緒主義あるいは表出主義の前提をなす世界の捉え方でもある。
すなわち、個体主義は、人間の行為を帰属させ得る場所として、それを遂行する個体の内面に、「自我」と呼ばれる何ものかを仮設し、そのような「自我」の表現として、人間の行為を解釈するのである。
しかし、世界を、あるいは少なくとも人間とその社会を、個体に内蔵された意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属させて捉え得るとする態度によっては、たとえ世界を人間とその社会に限定してみたとしても、世界と我々の関係の、ついに覆い尽くされる筈のないことも、また、少し考えれば明らかであろう。
個体主義も、また、世界の一つの捉え方に過ぎないのである。
この個体主義の態度によって捉えられる世界を、ここでは、《世界Ⅱ》と呼ぶことにしよう、すなわち、《世界Ⅱ》とは、個体的な意識に還元可能あるいは帰属可能な事態として捉えられる世界の謂である。

この合理主義と個体主義とは、人間の行為を、何ものかを目指す志向的な事態であると見なす志向主義の産み落とした、一卵性双生児であると考えられる。
何故ならば、志向主義は、人間の行為を、志向的な事態であると捉えることによって、人間の行為に拘わる世界を、志向のベクトルの吸い込み口である、志向される対象(客体)と、志向のベクトルの涌き出し口である、志向する意識(主体)とに、二分して把握するからである。
すなわち、志向主義は、世界を、合理的な制御あるいは言及という志向的な行為の対象と、その志向的な行為が還元あるいは帰属される個体的な意識とに、二元的に分割するのである。
言い換えれば、志向主義は、世界を、《世界Ⅰ》と《世界Ⅱ》とによって、完全に分割し尽くし得ると主張するのである。
志向主義のもたらす、このような主客二元論こそ、近代の産業主義や科学主義、あるいは民主主義や自我主義に通底する、《近代的なるもの》それ自体に外ならないのである。
従って、志向主義として特徴付けられる、このような《近代的なるもの》から見るならば、世界は、客観的(あるいは合理的に制御可能)な《世界Ⅰ》であるか、さもなくば、主観的(あるいは個体的に還元可能)な《世界Ⅱ》であるかのいずれかであり、また、そのいずれかしかあり得ないことになる。
しかし、世界は、本当に主客いずれかでしかあり得ないのか。
あるいは、行為は、全くの志向的な事態であり得るのか。
この問いに答えるためには、世界を、わけても人間とその社会を、遂行的な事態として捉える視点が、改めて導入されねばならない。

《遂行的なるもの》とは、行為遂行の累積的な帰結として生成される秩序の謂である。
すなわち、《遂行的なるもの》とは、行為自らの生成する秩序なのである。
人間とその社会を、この意味における《遂行的なるもの》として把握する態度は、《近代的なるもの》あるいは志向主義による人間と社会の捉え方を懐疑する、最も確かな立脚点となり得る。
すなわち、《遂行的なるもの》として捉えられる人間と社会は、合理的に制御可能(あるいは客観的)な《世界Ⅰ》でもあり得ず、かつ、個体的に還元可能(あるいは主観的)な《世界Ⅱ》でもあり得ない、世界の第三の可能性を示しているのである。
このような《遂行的なるもの》が、いかなる意味において、制御可能ではあり得ず、また、還元可能でもあり得ないかについては、続いて述べる。
ここでは、客観的でもなく、主観的でもない、遂行的な事態として捉えられる世界を、《世界Ⅲ》と呼ぶことにしよう。
人間の行為を、志向的な事態として把握する態度によっては、ついに捉え得ない人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》という在り方に外ならない。
すなわち、《近代的なるもの》と真っ向から対立する人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》に外ならないのである。
それでは、《世界Ⅲ》すなわち《遂行的なるもの》としての人間と社会は、何故に、合理的に制御可能な事態とも、さらには、個体的に還元可能な事態ともなり得ないのか。
あるいは、人間の行為は、如何なる意味において、志向的な事態ではあり得ないのか。
これらの問いが答えられねばならない。

《遂行的なるもの》は、個体の意図や情緒や目的やに還元あるいは帰属され得ず、むしろ、個体の行為が行為として発効するための根拠となるという意味において、規範的な事態である。
すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図には、ついに還元不能あるいは帰属不能な事態なのである。
何故ならば、《遂行的なるもの》を生成する行為それ自体の、行為として発効し得るか否かは、その主観的な意図とは全く独立に、その社会的な文脈にのみ依存して決定されるからである。
すなわち、行為の文脈依存的であることとは、取りも直さず、行為の発効し得るか否かが、自らの生成する《遂行的なるもの》を根拠として決定されることに外ならない。
しかし、《遂行的なるもの》の還元不能性を帰結する、行為の文脈依存性という命題において、行為の依存する文脈それ自体が《遂行的なるもの》であるとするならば、そこには、何等かの循環論あるいは論理的なパラドックスをが発生するのではないか。
しかし、この問題の検討は、後段に委ねることにして、差し当たり、行為の依存する文脈それ自体は、行為と独立に与えられていると仮定して置くことにしたい。

行為は、何故に、その主観的な意図に還元あるいは帰属され得ない、文脈依存的な事態であるのか。
たとえば、陳謝という行為のように、主観的な意図の表出以外の何ものでもないと見なされる行為ですら、陳謝の行為として発効しうるためには、その主観的な意図とは全く独立な、幾つかの条件 - 自己の行為によって他者に損害が生じたという事実の存在、他者に損害を与えたとしてもなお自己の行為を正当化し得る理由(たとえば正当防衛など)の不在等々 - を充たさねばならない。
自分が相手に何の危害も加えていない場合や、相手の暴力を避けるため相手に触れた場合やに、陳謝の言葉を発する行為は、たとえ、それが陳謝の主観的な意図に充ち溢れたものであったとしても、滑稽な錯誤の行為であるか、さもなくば、卑屈な追従の行為である、と見なされるのが落ちなのであって、真摯な陳謝の行為としては、決して発効し得ないのである。
あるいは、むしろ、陳謝の主観的な意図そのものでさえ、陳謝という行為が、ある文脈の下で発効することによって始めて、その文脈に応じた内容を持つものとして確定されるといった、文脈依存的な事態なのであると言ってもよい。
すなわち、行為を遂行する個体の内面的な意識は、行為の遂行される文脈が与えられて始めて、その内容を決定し得るのである。
従って、行為は、その主観的な意図に帰属させて解釈し得る筈もなく、その社会的な文脈に依存させて始めて、その効力(あるいは「意味」)の何たるかを決定し得るのである。
ゆえに、行為とそれによって生成される秩序は、個体的に還元可能ではあり得ない。
すなわち、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅱ》ではあり得ないのである。
それでは、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》であり得るのか。

《遂行的なるもの》は、合理的に制御あるいは言及し得る対象とは、ついになり得ないという意味において、暗黙的な事態である。
すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その意識的な対象としては、制御不能あるいは言及不能な事態なのである。
何故ならば、《遂行的なるもの》とは、何等かの文脈あるいはルールに依存して、自らの発効し得る否かを決定される、行為の秩序に外ならないのであるから、その全体を対象として制御あるいは言及する行為は、自らの依存しているルールそれ自体をも、その対象として制御あるいは言及せざるを得ないことになる。
すなわち、《遂行的なるもの》を対象として制御あるいは言及せんとする行為は、自らを妥当させる根拠としてのルールそれ自体を、その対象とせざるを得ないという意味において、まさに自己組織(制御)あるいは自己言及の行為に外ならないのである。
従って、《遂行的なるもの》に対する制御あるいは言及は、いわゆる自己組織あるいは自己言及のパラドックスに陥らざるを得ない。
すなわち、《遂行的なるもの》は、それを対象として意識的に制御あるいは言及せんとするならば、制御の効率や言及の真偽をも含む、あらゆる行為の当否を、全く決定し得なくなるという意味において、制御不能あるいは言及不能とならざるを得ないのである。
言い換えれば、《遂行的なるもの》は、それに対する制御あるいは言及が、自己組織あるいは自己言及とならざるを得ないがゆえに、暗黙的となるのである。

行為の当否を決定するルールに対する制御あるいは言及の行為、すなわち、自己組織あるいは自己言及の行為は、何故に、行為の当否を決定不能に、従って、それが生成する秩序を制御不能に陥れるのであろうか。
たとえば、「私の決定は妥当しない」と私は決定する、といった典型的な自己言及(決定)の場合を考えてみる。
この場合、私の決定は妥当すると仮定すれば、私の決定は妥当しないことが帰結され、逆に、私の決定は妥当しないと仮定すれば、私の決定は妥当することが帰結される。
すなわち、この場合、私の決定の妥当するか否かは、決定不能い陥っているのである。
一般に、自己組織、自己言及、あるいは自己回帰といった循環的な事態は、この種の論理的なパラドックスに陥らざるを得ない。
すなわち、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体への制御あるいは言及である。
自己組織あるいは自己言及の試みは、自らの妥当し得るか否かの決定不能を帰結することによって、挫折せざるを得ないのである。
従って、制御や言及やをも含む行為の秩序である《遂行的なるもの》は、合理的に制御可能とも言及可能ともなり得ない。
言い換えれば、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》では、決してあり得ないのである。

これまでの考察から明らかなように、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》でも、あるいは、《世界Ⅱ》でもあり得ない。
《遂行的なるもの》は、《遂行的なるもの》によってはついに捉え得ない、世界の第三の可能性としての《世界Ⅲ》なのである。
すなわち、《遂行的なるもの》は、行為遂行の累積的な帰結として、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図にも還元され得ず、また、その意識的な対象としても制御され得ない、規範的かつ暗黙的な事態なのである。
言い換えれば、《遂行的なるもの》は、その構成要素たる行為の文脈依存的であるがゆえに、また、それを対象とする行為の自己言及的であるがゆえに、個体的に還元不能かつ合理的に制御不能となるのである。

行為は、何等かの文脈あるいはルールに従うことによって始めて、行為として発効し得る。
言い換えれば、行為は、自らを妥当させる根拠として、何等かの文脈あるいはルールを前提せざるを得ない(文脈依存性)。
この意味において、行為は、文脈やルールやといった秩序から、ついに逃れ得ないのである。
すなわち、行為にとっては、従うべきいかなる文脈やルールやをも見い出し得ない、秩序の全き「外部」など、決して存在し得ないのである。
しかし、行為に、その妥当根拠を与える、文脈あるいはルールそれ自体には、いかなる妥当根拠も在り得ない。
ルールの妥当し得るか否かを決定する根拠を、ルールそれ自体に委ねたとしても、あるいは、ルールを根拠として、自らの妥当し得るか否かの決定される、行為に委ねたとしても、ルールの妥当し得るか否かは、ついに決定し得ないからである(自己言及性)。
すなわち、ルールは、自らの発効し得るか否かを、その「内部」においては、ついに決定し得ない秩序なのである。
しかし、そのような秩序は、《遂行的なるもの》としてしか在り得ない。
すなわち、そのようなルールは、行為遂行の累積的な帰結としてしか在り得ないのである(行為累積性)。
従って、ルールは、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によっては設定され得ない秩序であることが明らかになる。
言い換えれば、ルールは、行為によって意識的には語り得ず、ただ、行為において遂行的に示される秩序なのである。

《遂行的なるもの》は、行為の当否を決定する根拠であるとともに、自らは如何なる根拠も持ち得ず、行為の意図的な設定にもよらない、行為の累積的な帰結として生成される秩序である。
このような《遂行的なるもの》は、日常言語において、慣習(convention or practice)と呼ばれる事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。
すなわち、慣習とは、規範的、暗黙的かつ累積的な事態に外ならないのである。
あるいは、慣習とは、個体的に還元不能であり、合理的に制御不能でもある、世界の第三の可能性であると言ってもよい。
従って、個体的な主観としての《世界Ⅱ》や、合理的な客観としての《世界Ⅰ》やに対して、《世界Ⅲ》は、慣習的な遂行として捉えられることになる。
個体主義と合理主義とを共に懐疑し得る、《遂行的なるもの》の視点は、いわば慣習主義とでも呼ぶべき視点なのである。

この慣習という概念こそ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール論、さらにはオースティンの言語行為論を通底する、キー・コンセプトに外ならない。
すなわち、自生的秩序論においては、その自己言及性(制御不能性)が、また、ルール論においては、その外的視点から見た自己言及性(無根拠性)とその内的視点から見た文脈依存性(従根拠性)の双方が、さらに、言語行為論においては、その文脈依存性(還元不能性)が強調されつつも、慣習という概念の三つの構成要素である、文脈依存性、自己言及性、行為累積性の総てが、いずれの議論においても等しく登場している。
自生的秩序もルールも言語行為も、文脈依存性、自己言及性、行為累積性のトリニティを、その不可欠の構成要素としているのである。

市場も貨幣も法も権力も社交も言語も技能も儀礼も流行も、およそ社会あるいは文化と呼び得る総ての事態は、人間という事態をも含めて、《遂行的なるもの》として捉えられる。
すなわち、社会も文化もさらには人間それ自体も、慣習という事態に外ならないのである。
この発見は、あまりに当然と思われるかも知れないが、その含意は、極めて重大である。
しかし、その検討は、次節に委ねたい。

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