佐藤幸治・「国民主権」論


佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) 第二編 国民主権と政治制度  p.92以下


第一章 国民


<目次>


■1.第ニ節 主権者としての国民


◆Ⅰ. 日本国憲法下の国民主権論


◇(1)総説


日本国憲法は天皇主権を排して国民主権に立脚するが、その国民主権の意味ないし内容については必ずしも一義的に捉えきれないところがあり、実際様々な見解が存する。
以下主な諸見解に触れ、あわせてその問題点について述べる。

◇(2)最高機関意思説


いわゆる国家法人説的見地に立って、統治の権利主体は常に国家それ自身であるとの前提の下に、国民主権をもって、国家の意思力を構成する最高の機関意思、国家の原始的直接機関(ここに「直接機関」とは他の機関から委任されたのではなく、直接に国家の組織法によって国家機関たるものをいい、その中でも、他の直接機関を代表するものではなく、憲法上自己に固有のものとして認められる権能を有するものを「原始的直接機関」という)として統治権を発動する力が国民に属するとする主義であると解し、その国民とは参政権を与えられているものの全体であるとする見解がある。
この説によれば、理論上、主権の所在は憲法によって定まることになり、主権は憲法によって創設された最高権という意味合いをもつことになる(美濃部達吉は、国民主権は憲法の民定性を要求すると解しているようであるが、主権者をもって憲法・法律によって組織された国民と解する限り、憲法以前にそのような国民が存しうるのか疑問である。この点、佐々木惣一は、日本国憲法は欽定憲法であるとなし、ただ、日本国憲法の規定によれば、天皇の制定による欽定憲法というものは将来は存在しえないと説く)。
主権者たる国民からは一般に天皇は除かれる。
ただ、この国民は、雑然とした多数者であって常に直接国家意思を決定することはできないので、主権者たる国民の意思を現実に表示することを職分とする代表者が必要であり、日本国憲法上は国民の選挙によって選ばれる国会がそれにあたるとされる。

この見解は憲法発足当初有力に主張されたものであるが、次のような問題性が指摘されうる。
まず、 主権をもって機関意思と把握する以上行為能力が問題となり、そこでこの説は主権者を有権者とするのであるが、国民の中には主権者たるものと主権者でないものとがあることになって、国民主権の根本理念に反することにならないか。
第二に、 主権者たる国民は具体的には有権者とされるが、誰が有権者かは日本国憲法上基本的には法律で決まることになっていること(44条参照)、また、日本国憲法が国会をもって「国権の最高機関」としていること(41条)、との関係をどう考えるか。
第三に、 主権は憲法を生み出す力(憲法制定権力)と解すべきであって、憲法によって主権の所在が決まるというのは主権の本質を見誤るものではないか。
第四に、 論者によっては、国民主権をもって、国民が国権の源泉者または国権の「総攬者」であることの意味に解するが(佐々木惣一)、天皇が「総攬者」であると同じような意味において国民の「総攬者」を語りうるか否か。
第五に、 この説は、国民の選挙によって組織される国会が立法権を中心に国政を統括する地位に立つとすれば、国民主権の趣旨は満たされるとする傾きをもつが、国会の権能ももとより憲法による拘束下にあることをどう理解するか、また、選挙にそのような本質的契機を認めることは果たして妥当であろうか。

◇(3)憲法制定権力説


(イ)総説

最高機関意思説の右のような問題性を踏まえて、国民主権をもって憲法制定権力が国民にあるという趣旨に解そうとする見解が主張される。
もっとも、この点において基本的発想を共通にしつつも、仔細をみれば、さらに次のような諸説の分岐がみられる。

(ロ) 実力説 まず、憲法制定権力の本質を最高の実力に求める見解がある。
これは、上述の(第一編第一章第四節Ⅱ(57頁))シュミットの憲法制定権力論に通ずる見解である。
しかし、この見解に対しては、憲法制定権力が実力であるとして、その実態は何かという段になると一向に明らかにされないという批判、あるいは、最高の実力としての憲法制定権力にとって、憲法典の制定とはそもそも如何なる意味をもちうるのかという批判、が妥当する。
制定権力の実態は明らかにされず、しかも制定権力はそれを制約づけるもののない全能の存在ということになると、誰もが制定権力の行使の名において憲法を変更することを正当化する途が開かれていることにならないか。
そうなると、憲法はもはや法の世界ではなく、全く政治の世界そのものと化してしまわないか。
(ハ) 権限説 実力説の右の問題性を忌避して、実定的な「根本規範」の存在を想定し、憲法制定をもってかかる「根本規範」の授権に基づき(内容的制限を含めて)行われるところの機関としての行為として捉えようとする見解が登場する。
つまり、憲法制定権力は、厳密には憲法制定権限となる。
そしてここにいう「根本規範」とは、純粋法学流の仮設規範ないし法理論的意味における憲法ではなく、すべての成文憲法の前に妥当する、人間人格不可侵の原則を核とする価値体系にかかわる規範であるとされる。
かかる考え方に依拠して、一般に、権限主体は、シェイエスの場合と同様国民でなければならないとされ、そして君主主権に対峙する意味で国民からは天皇は除かれ、かつ機関としての行為が問題となることから具体的には有権者が想定される。

この見解に対しては、次のような問題性が指摘される。
まず、憲法制定の権限主体、制定の手続、制定さるべき憲法の内容を定める実定的な「根本規範」といったものはそもそも存在するのか。
第二に、人間人格不可侵の原則の実定性が承認されるとしても、その具体的内容および実現の方法は決して一様ではありえず、その違いが如何にして確定されるかはなお重大な問題として残るというべきではないか。
第三に、国民の中に主権の担い手たるものとそうでないものとの区別が生じ、国民主権の根本理念に反することにならないか(未成年者などの非有権者は、何故に憲法に従わなければならないのであろうか)。
第四に、有権者は日本国憲法上基本的には法律によって定められるが、憲法制定の権限主体が結局国会によって定められることになって不当ではないか。
(ニ) 監督権力説 主権者としての意思活動を憲法制定権力の発動と把握する立場に立ちつつ、国民主権の本質をもって、国民の代表の行なう統治に対して、同意を与えまたは与えない監督の権力たるところに求める見解が存する。
つまり、国民主権は、具体的な積極的行動を行なう組織化された主体にかかわるのではなく、国家の統治作用に同意を与えまたは与えないという受動的な作用を本質とするところの、現に生活しているすべての国民全体の「一般意思」の力であるところにその眼目があると解するのである。
国民主権国家にあっては、国権が国民の代表によって行われるにせよ、結局国民の同意が国政における決め手となることが力説される。

この見解は、実力説および権限説のそれぞれ有する問題性を免れ、と同時に国民主権における討論の自由(表現の自由の保障)と自由なる選挙の不可欠性を提示している点で優れた説というべきである。
が、そこでいう「一般意思」とは具体的に何であり、それは如何にして認定されるか、一時点における支配的意思が「一般意思」として絶対視される危険はないか、あるいは、国政は結局「一般意思」によって行われるということになって悪戯に現状肯定的な保守的説明手段に堕しないか、といった疑問がありえよう。
また、国民の同意が国政における決め手であるということであるとすれば、およそ国民が政治的意思を持つ限り、憲法の定め如何に関わりなく国民が主権者ということになりはしまいか、という疑問が生ずる。
それは、結局、いわゆる「事実の確認としての国民主権」論や後述のノモスの主権論に接近する。
(ホ) 最終的権威説 国民主権をもって、憲法制定権力が国民によって担われるという意味において把握するが、制定権力をもって実力とみたり権限とみたりせずに、統治を正当化すべき権威が国民に存するという意味において理解する見解が存する。
ここにおける国民とは抽象的な観念的統一体としての国民であって、およそ日本国民であれば誰でも包含され、天皇も私人としてみる限りこの国民に含まれると解することが可能となる。
この見解は、主権 = 憲法制定権力から権力的契機を徹底的に排除し、あくまでも権力の正当性の所在の問題として把握し、主権 = 憲法制定権力という実定法上の概念の名の下に憲法破壊ないし人権侵害が正当化されることを回避しようとする立場であると解することができる。
そして、主権者たる国民は権威の源泉としての国民であって、国家機関としての国民とは異なり行為能力を問題とする必要はなく、最高機関意思説や権限説のように国民の範囲をめぐる問題にかかわる必要はないという長所をもつ。
しかし他面、この説による国民主権はあまりにも無内容ではないか、国民主権はそこから一定の政治組織上の原則が帰納さるべき性質のものと捉えるべきではないか、の批判が加えられることになる。

◇(4)ノモスの主権説


主権をもって事実の世界から完全に切断し、純然たる法理念の問題として把握しようとする見解が存在する。
それによれば、いかなる権力も超えてはならない「正しい筋途」すなわちノモスがあるのであって、国の政治を最終的に決めるものが主権であるとすれば、主権はノモスにあるとみるべきであるとされる(因みに、ノモスは、古典古代のギリシャにおいて自然[ピュシス]の対立概念として考えられ、絶対的なものではなく破られやすいものではあるが、それに従うべきであるとされたものであるという)。
あるいは、この説は、法の効力根拠をノモスという道理・規範に求める説だとみる余地もある(*1)(そうだとすると、この説は、「根本規範」の存在を前提とする先の権限説に接近する)。

この説によれば、国民主権か君主主権かという問題は全く第二義的な問題と化してしまう。
事実、この説は、国民主権も君主(天皇)主権もすべてノモスという理念の支配であるから、明治憲法から日本国憲法に変っても「国体」は不変であると主張した。
しかし、仮にそのようなノモスが存在するとしても、具体的にどのような内容のノモスが、どのような方途を通じて支配するのか、という問題意識がこのノモスの主権説に欠落しており、天皇制の弁明としての性格をもつものであった。
ただ、国民主権の場合であっても、あるべき政治とは何かの課題は残るのであって、その限りでは、ノモスの主権説も考えるべき課題を提起しているといえよう。

(*1) 尾高朝雄はこのノモスの主権説の論者として知られるが、そのノモスの主権は結局のところ為政者への「心構え」の問題にとどまって、それに反する立法の無効の主張にまでは及ばなかった。
そこには、法の効力をもって「法的規範意味が事実の世界に実現され得るという『可能性』である」と捉える考え方が作用していたようである。
つまり、法の効力は当為のレヴェルではなく、事実のレヴェルにつなぎとめられていたからである。

◇(5)人民主権説


国民主権の主権をもって憲法制定権力と解することに反対し、主権を実定憲法秩序における国家権力の帰属の問題として捉えるべきであるとし、従って主権が国民にあるとされる場合の主権は、憲法秩序に取り込まれた構成的な規範原理として、国民をして実際の国政の上で最高権の存在に相応しい場を確保せしめるという民主化の作用を果たすべきものとみるみるべきであるとする見解が存する。
そして、国民主権をルソー流の人民主権の方向で把握するのがあるべき歴史的解釈であるとし、日本国憲法に即していえば、15条1項、79条2項・3項、96条1項などは人民主権に馴染む規定であると捉え、43条1項や51条の規定にかかわらず、命令的委任の採用は可能であると説く(命令的委任の意味は必ずしも明確ではないが、一般に、選挙で選ばれた代表者は選挙区の訓令によって行動する義務を負い、それに違反した場合には有権者によって罷免されうるという要求を内容とするようである)。

この見解は、まず、主権は法的権力であるが、憲法制定権力は法の外の世界に属する事象と捉えるところに特徴をもつ(この説によれば、主権 = 憲法制定権力という定式では、国民主権は建前と化し、結局現実の国政の場で国民を主権者たる地位から追放することになるという。)
しかし、主権観念が国家統治のあり方に最も根源的にかかわり合う憲法の制定に無関係とすることは問題で、ドイツのように、「ドイツ国民は・・・・・・その憲法制定権力に基づき、この基本法を決定した」(前文)とうたって、憲法制定権力を実定化している例のあることが留意さるべきである。
そして、主権 = 憲法制定権力と基本的に把握することが、直ちに主権観念をして無内容のものとすると解するべきではなく、後述のように一定の構成的作用を果たすものであるとみるべきであろう。
なお、フランス的文脈でいえば、いわゆる「国民主権」から「人民主権」へという定式が成り立つとしても(1946年憲法も58年憲法も、国の主権は人民(peuple)に属するとしている)、そのことから、一般的に、あるいは日本国憲法上、命令的委任が当然に帰結されるといえるかは問題で、この点については後述する(第二章(13頁)参照)。
国民代表の観念が、現実でないものを現実であるかのごとく装うという「イデオロギー」的性格をもつとすれば、命令的委任も、そのような「イデオロギー」的性格を免れえているわけではない。

◆Ⅱ. 国民主権の意義


◇(1)総説


以上みてきたように、日本国憲法下の国民主権の意味について諸種の見解が存するところであるが、今日国民主権は単一の次元においてのみ捉えるべきではなく、複数の次元を包摂する全体像において把握されるべきものと思われる。
すなわち、国民主権には、大別して、憲法を定立し統治の正当性を根拠づけるという側面と、実定憲法の存在を前提としてその憲法上の構成的原理としての側面とがあり、後者はさらに、国家の統治制度の民主化に関する側面と公開討論の場(forum)の確保に関する側面とを包含するものと解すべきである。

◇(2)憲法制定権力者としての国民主権


国民主権は、まず、主権という属性をもった国家の統治のあり方の根源にかかわる憲法を制定しかつ支える権力ないし権威が国民にあることを意味する。
この場合の国民は、憲法を制定した世代の国民、現在の国民、さらには将来の国民をも包摂した統一体としての国民である。
従って、この場合の国民は、基本的には、それ自体として国家の具体的な意思決定を行ないうる存在ではない。
換言すれば、雑然とした国民の全体を一つの観念で把握し、そこに一つの意思があると想定し(あるいはこれを一般意思と呼んでもよい)、その意思に国家の合法性の体系を成立せしめる究極の正当性の根拠をみるのである。

もとより、国民主権を標榜する場合であっても、現実には、憲法は、ある歴史的時点において、その世代の人々により、ある方法をとって(憲法会議と国民投票という方法をとることもあれば、そうでない場合もある)制定される。
その意味では、国家の合法性の体系は具体的な意思ないし実力(権力)から生まれるものといわなければならない。
つまり、権限説やある種のノモスの主権説のように「根本規範」ないし自然法といったものを想定し、国家の実定法体系をその具体化・実現として捉える(法の根拠についての道理説)のではなく、法の根拠について意思ないし実力に求める立場である。(*1)

しかし、その場合に問題となるのは、何のために、如何なる原理に基づく憲法を制定するかである。
主権者(憲法制定権者)たる国民が立憲主義憲法を制定する場合、そのときの国民は、個人の人格的自律が尊重される“良き社会”の形成発展という長期的視野に立って自己拘束をなし、また、後の世代の国民がそれぞれの時代の状況に柔軟に対応しつつ“良き社会”の形成発展に向けて自己統治を行なうことを容易にする政治システムを構築しようとするのである。
過去の国民(“死者”)は現在の国民(“生者”)を拘束することはできない。
立憲主義を支える道徳理論によるならば、過去の国民(“死者”)が現在の国民(“生者”)を拘束することが許されるのは、現在の国民(“生者”)が自由を保持しつつ自己統治をなすことを容易にする制度枠組を構築する、換言すれば、現在の国民(“生者”)が自由な主体として自己統治をなすことができる開かれた公正な統治過程を保障するという場合のみである。
国民をもって、憲法を実際に制定した世代の国民、現在の国民、さらに将来の国民を包摂した観念的統一体として把握し、そのような国民の意思に国家の合法性の体系の成立・存続の正当性の根拠を求めることが道徳理論上認容されうるのは、そのような条件が満たされる場合においてのみであろう。

このような意味において、国民がその担い手である憲法制定権力は基本的には端的な実力ではなく、一般的な意思ないし権威となる。
ただ、上述のように憲法改正権は制度化された憲法制定権力と解されるから(第一編第一章第三節(34頁)参照)、改正の場に登場する国民は具体的には一定の資格をもったもの(有権者)のみではあるが、主権者たる国民そのものに擬すべき存在と解するべきであろう。
これによって、主権者たる国民は、制度枠組自体をそれぞれの時代に制度的に適応せしめる途が開かれている。

(*1) 宮沢俊義は、尾高のノモスの主権説を批判するにあたって、意思ないし実力説的見地に立つことを示唆したが、他方では、「憲法の正邪曲直を判定する基準になる『名』」の存在、さらには憲法の効力さえ左右する自然法論のごとき立場に与することを示唆した。

◇(3)実定憲法上の構成的原理としての国民主権


(イ)統治制度の民主化の要請

国民主権は、憲法を成立せしめ支える意思ないし権威としてのみならず、その憲法を前提に、国家の統治制度が右の意思ないし権威を活かすよう組織されなければならないという要請を帰結するものと解される。
次節にみるように国民は有権者団という機関を構成するが、それは民意を忠実に反映するよう組織されなければならないとともに、統治制度全般、とりわけ国民を代表する機関の組織と活動のあり方が、憲法の定める基本的枠組の中で、民意を反映し活かすという角度から不断に問われなければならないというべきである。
国民主権のこの要請から例えば命令的委任が帰結されるかどうかは、日本国憲法の定める基本的枠組の解釈の問題であって、その点については後述する(本編第二章(136頁)参照)。
また、有権者団としての国民の意思、その意思に基づいて組織される国家機関の意思は、(2)の憲法制定権力者としての国民の意思そのものではないのであって、絶対性を主張することはできないことが留意さるべきである。

(ロ)公開討論の場の確保の要請

構成原理としての国民主権は、統治制度の民主化を要請するのみならず、かかる統治制度とその活動のあり方を不断に監視し問うことを可能ならしめる公開討論の場が国民の間に確保されることを要請する。
集会・結社の自由、いわゆる「知る権利」を包摂する表現の自由は、国家からの個人の自由ということをその本質としつつも、同時に、公開討論の場を維持発展させ、国民による政治の運営を実現する手段であるという意味において国民主権と直結する側面を有している。
しばしば国民主権は“世論による政治”であるといわれるのは、国民主権の右の面にかかわるが、ただ、ここでいわれる世論は憲法制定権力者としての国民の意思そのものと目さるべきでないこと勿論である。

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