中川八洋・皇位世襲と国民の自由

<目次>


中川八洋『国民の憲法改正』(2004年刊) p.51以下



第ニ部 「国民の憲法」の絶対三条件 - 皇室、国防軍、家族



第一章 「世襲の共同体」日本の皇統 - 天皇への敬愛は悠久の日本の礎


◆第一節 「女系の天皇」か、旧11宮家の皇族復帰か


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◆第ニ節 「開かれた皇室」論 - 生きているコミンテルン「32年テーゼ」


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◆第三節 皇位の世襲こそ、「国民の自由」の淵源


真に自由な社会とは、「君主制下のデモクラシーはどうあるべきか」を論じても、必ず「デモクラシー下の君主制はどうあるべきか」という転倒の思想を排除する。
なぜなら、君主制は保守し擁護すべき高級な憲法制度であるが、一方のデモクラシーは制限し抑制されるべき低級な政治制度の一つに過ぎない。
君主制は国民が生命にかけても積極的に守るべき「制度」だが、デモクラシーは消極的に容認されて存在が許される現実の政治に過ぎない。

この理由は明白であろう。
君主制は政治理念たる“美徳ある自由”の淵源の一つであるのに、デモクラシーは民衆(デモス)の要求する「平等」という、徳性を喪失した非道徳で反・自由な制度(クラシー)だからである。
こうも言ってよいだろう。
我々が空高く掲げるべき“自由”は価値であり、君主制こそはこの“自由”の芽を大樹に育てあげてくれる。
が、デモクラシーは、「平等」という土足で、この“自由”の畑を踏み荒らす。

現実にも、英国であれ日本であれ、君主のもつ尊厳と尊貴とが、国中に君主の威徳を満たして英国民や日本国民の“自由”に徳性を附与してきた。
“美徳ある自由”が、君主制と封建制度のある国に限定されて発展した理由の一つである。
が、一方のデモクラシーは(橋・道路を造ってくれ!、年金をもっと増やせ!・・・・・・の)下劣な欲望を背景とした投票に、政治家が議員になりたいばかりに屈服する政治制度である。
つまり、デモクラシーは民衆のそのような非道徳若しくは反道徳的な政治参加によって国中から美徳を破壊して、野卑を蔓延させる制度である。
この故に、君主制は憲法原理であるが、一方のデモクラシーは、「デモクラシーの暴走を抑制する(たがを嵌める)」ことのみが憲法原理となっても、デモクラシーそのものは反憲法となる。
米国は、君主制ではないが、その憲法を起草するとき、デモクラシーについてはこの通りに考え、「デモクラシーの制限」を憲法の柱の一つとした。

以上の事柄は、“自由”は憲法原理であるが、「平等」は「法の前の平等」を除いて反・憲法であるという、“自由”と「平等」の関係と酷似している。
つまり、君主制は憲法上の至高の制度であるが、デモクラシーは憲法とは無関係か、仮に憲法的に考慮するとすれば「デモクラシーを否定的に制限すること」のみが憲法原理となる。

このようなことは、「米国憲法の父」で米国を建国したアレグザンダ・ハミルトンや、ハミルトンと共にジョージ・ワシントンに仕えた初代副大統領(第二代大統領)ジョン・アダムズらにとっては常識であった。
米国憲法(起草1787年、施行1788年)が、「平等」を完全に拒絶し、デモクラシーを可能な限り抑制することを根本思想として制定された理由は、これで分かってもらえるだろう。
とくに、「建国の父たち」の絶対多数意見は、新生アメリカがアナーキーな政治状態に転落することを防ぐことと、古代ギリシャに始まりそれ以降の全てのデモクラシー国が政治を腐敗させ自壊的に亡国した歴史を繰り返してはいけないという反デモクラシーの思想に立脚すること、の二つで一致していた。
米国憲法が起草・制定されていくその間、当時のアメリカにも存在していたデモクラシー支持の少数派は、その巨頭トマス・ジェファーソンが、在仏公使としてパリに「追放」されていた。
アメリカにいなかったのである。
ジェファーソンは「アメリカ13邦の独立の父」の一人であるが、1789年3月に誕生した「米国の建国の父」ではない。

◇一 イギリスの「権利章典」 - 憲法原理の神髄

国民の“自由”は、デモクラシー(民衆政治参加制度)とは何の関係もない。
むしろ、デモクラシーは“自由”を侵害する危険をはらむ。
また“国民の自由”と表現しても、決して「人間の自由」と表現され得ないのは、“自由”はそれぞれの国家・民族に固有な“ナショナル(national)”なものだからである。
現実にも世界190ヶ国の各国でその“自由”は千差万別で、“自由”は人類に普遍的なものではない。
“自由”はあくまでもオリンピックの出場権と同じく、国家単位である。
今日のアフリカには、全体主義ではないのに、10歳ほどでゲリラに拉致されそのまま殺戮専門のゲリラになるのを強要される、人間として陰惨をきわめて全く自由がない国がかなりある。
“自由”は“自由”の伝統がない国では棲息できない。
“自由”とは、人間の知力や制度の移植で簡単に創造することの出来ないものである。
なぜなら“自由”とは、祖先から“相続”したものだからである。
そして、それをたまたま享受できた、ある特定の国の国民だけが、この“相続した自由”を育んでいる伝統的な諸「制度」を一生懸命に保守する義務を果したときだけ、この自由が満天の星空の如く光を放つ。

“自由”を擁護する伝統的な諸「制度」には主要なものが三つある。
「世襲(相続)の原理」が機能していること、
「法の支配」が守られていること、
「中間組織」が繁茂していること、
である。
世界の近代史を見ても、“自由”と不可分の関係にある、生命と財産が擁護されているのがヨーロッパ諸国と日本だけに限られていたのは、その双方のみが君主制と封建体制(貴族/武士階級)の二つの政治制度を共通に持っていたからであった。
君主制が主として①の「世襲の原理」を、封建体制が③の階級や家族という「中間組織」を、発達させたからであった。

②の「法の支配」は、“古き良き法”と考え、“法”を神よりも王よりも上位にあるとし、いわんや議会での立法による「法律(legislation)」は、この“法という支配者に従う下僕の身分を弁(わきま)えよ”と考える中世ゲルマンの法思想が、近代ヨーロッパの中で一ヶ国だけ残っていた英国において発展した。
この「法の支配」は、17世紀のアメリカの英国人植民地人によって米国にも継承されていき、「法の支配」が米国の憲法原理として不動のものになった。

日本にも、この英国に発祥した「法の支配」に類似な思想が、英国の法思想的な表現ではないが、存在していた。
皇室(天皇)が連綿として守り続ける「祖宗の遺訓」がそれである。
明治憲法の告文は、「皇祖皇宗の遺訓を明徴にし・・・・・・」「皇祖皇宗の後裔に胎したまへる統治の洪範を紹述する・・・・・・」としているから、記録や記憶を超えての「皇祖皇宗の遺訓」こそが“法”で、憲法とはこの“法”を文字で以って条文とした最高の法律だと考えていることになる。
このためであろう、明治憲法には、英米的な「法の支配」が香水の香りのように爽やかに漂っている。

立法に当たって、この立法を道徳その他の上位の規範に従って拘束し無制限な立法を禁じる思想が存在しなければ、立法権力は必ず暴走する。
革命フランス、レーニンのソ連、ヒットラーのドイツでは立法に制限がないから、恣意的に大量殺人の法律が平然と立法され、この法律に従い行政と司法はあらん限りの悪を実行したのである。
ナチスの法治主義は、その法律の内容の是非を問わなかった。
レーニン、スターリンは自分たちを「人民の代表」という“無謬の神”と信じていたし、その個人的な単なる恣意は「神の法」だと狂信していた。
オウム真理教の教祖・麻原彰晃をスケール的に大きくしたものがレーニンやヒットラーであった。

日本は、偶然にも英国と似て、自由の三つの淵源 - ①「世襲の原理」、②「法の支配」、③「(階級などの)中間組織」 - を、成長させていたことになる。
日英の相違は、英国では主としてコークが②「法の支配」と“自由”の関係を、主としてバークが①「世襲の原理」③「中間組織」と“自由”の関係を明らかにしたのに、日本にはそのような理論的作業が全くなかったという点であろう。
ただ、明治憲法の起草者である井上毅の法思想には「旧慣」という概念(※注1:「旧慣の尊重」、坂井雄吉『井上毅と明治国家』、東京大学出版会、1983年、111~22頁)など、エドワード・コークやエドマンド・バークを思い起こさせるものがあるが、井上は例外的であった。
この①「世襲の原理」や②「法の支配」については、拙著『保守主義の哲学』のそれぞれ第三章/第二章において詳述している。
以下①「世襲の原理」について、少しばかり説明しておこう。

1688年の名誉革命によって英国はオランダよりウィリアム国王・メアリ女王を奉戴したとき、翌年サマーズ卿が起草した「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」(「権利章典(Bill of Rights)」)を制定したが、これを例として説明する。
この権利章典とは、「英国臣民の権利/自由」は「古来より相続した」「家産である」が故に、国王陛下に対してそれらを尊重して頂きたいと奏上する形式になっている。
フランス人権宣言のように、オレは人間だから人間の権利をもっているぞ!と、アフリカのジャングルで吼えている形式のものではない。

つまり、国民の享受する自由や諸権利は、
英国の国王(女王)陛下の臣民であること、
祖先から「家産として相続したこと」、
の二つを法的根拠にして国家より尊重されるものだとする論理である。
これが、マグナ・カルタ(1215年)から権利請願(1628年)を経て英国を貫く「世襲(相続)の権利」という憲法原理である。
バークの、次のような簡素な説明は、美事にその核心を表現している。

「われわれ(英国民)の自由を主張し要求するに当たって、それを、祖先から発してわれわれに至り、更には子孫にまで伝えられるべき限嗣相続財産とすること、またこの王国の民衆にだけ特別に帰属する財産として、何にせよそれ以外のより一般的権利(=人間の権利)や先行の権利(=自然権)などとは決して結びつけないこと、これこそマグナ・カルタに始まって権利章典に至るわが国体(=憲法)の不易の方針であった」(※注2:エドマンド・バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、43頁)(カッコ内中川)。

だから、この自由の権利の要求には、“臣民の義務”として国王への忠誠が発生するのである。
“臣民の義務を果さずして、自由なし”こそ永遠の真理である。
権利章典には、両陛下への忠誠の宣誓文まで明記されている。

「私、何某は、ウィリアム国王陛下およびメアリ女王陛下に、忠実であり、真実なる忠誠をつくすことを、誠意をもって約束し、宣誓します。神かけて」(※注3:『人権宣言集』、岩波文庫、84頁)

臣民が国王の王座(世襲)を守る、代りに国王は臣民の自由(世襲)を守る、という、このような自由擁護の構造は、名誉革命よりさらに450年以上も昔のマグナ・カルタを踏襲したのである。
マグナ・カルタは次のように定めていた。

「朕は、イングランドの教会が自由であること、ならびに朕の王国内の臣民が前記の自由、権利および許容のすべてを、正しくかつ平和に、自由かつ平穏に、かつ完全に彼ら自身のためおよびその相続人のために、朕と朕の相続人から、いかなる点についてもまたいかなる所においても、永久に保有保持することを、欲し、かつ確かに申し付ける」(※注4:同右、53~4頁)(傍点中川)

もう一度いおう。
“自由”とは、国王の王位が“世襲(相続)”であるが故に正統性をもつように、父祖から“世襲(相続)”したが故に国家権力から最大限に保障されるという原理である。
日本に当て嵌めれば、“世襲(相続)”である天皇に“世襲(相続)の義務”として忠誠を尽くすが故に、陛下の臣民である日本国民は“自由”を“世襲(相続)”として享受できる、というのである。
一言でいえば、天皇制廃止の運動をするものに対して自由は保障されない、保障しなくてもよいのである。
英国が共産主義者の団体を「非合法」としているのは、その憲法原理からも自明の、極めて正しい立法というべきだろう。

なお、ロックはその『統治論』で、この1688年の名誉革命を、「国民の信託と同意に基づく」などと、さも国民が良き国王に変更したかのような歴史の捏造をしている(※注5:ジョン・ロック『統治論』、「世界の名著」第32巻、中央公論社、334~8頁)
ヒュームは、この狡猾さ故にロックを侮蔑するし、その『道徳・政治・文芸論集』第Ⅲ巻(1748年)に収録されている論文の「原始契約について」で、ロックを非難している。

「名誉革命で・・・・・・変革されたのは王位継承だけであり、・・・・・・。しかも、1,000万人近い人民に対してこのような変革を決定したのは、多数といってもたった700人に過ぎなかった」、と(※注6:ヒューム『原始契約について』、「世界の名著」第32巻、中央公論社、542頁)。

英国には、国王の地位は“正統な継承”において正当化される、という思想しかない。
「国民が国王を選択する」などという、ロックのような発想は荒唐無稽にも度が過ぎる。

◇ニ ウォルター・バジョットの『英国憲政論』と福沢諭吉の『帝室論』

君主制擁護論として、18世紀のバークに続く影響ある著作は何と言ってもバークから約100年後のバジョット著『英国憲政(国体)論』(1867年)であろう。
バジョットはまず、国家の政治機構を三権分立ではなく、“威厳ある部分(the dignified parts)”と“機能する部分(the efficient parts)”からなるとし、この“威厳ある部分”が、とくにその演劇的要素が被治者大衆を動かし忠誠や信頼を獲得し、一方“機能する部分”はこれを利用して統治を行っていると考えた(※注7:ウォルター・バジョット『英国憲政論』、「世界の名著」第72巻、中央公論社、71~2頁)。
つまり、「立憲君主制」こそ理想の統治が可能となる、強権を発動する抑圧を不要とする、正しい統治が体現し得るという。
また、国民を(ソフトな政治参加の前提たる)統治機構に関心をもたせ得る働きをするという。

この“威厳ある部分”が存在すれば、国家権力は国民に対して、秩序や法への従順や遵守に強権をもって強制する度合は格段に少なくて済むから、その分国民の自由への抑圧が大幅に減ることになる。
君主制の(あるいは君主制の遺制がある)国に自由社会が誕生したのは、君主のもつこの働きによる。

バジョットとほぼ同時代の、福澤諭吉はその『帝室論』(1882年)で、政治権力をソフトにする天皇の機能について、「万年の春」「甘きこと飴のごとし」と次のように述べている。
これこそ、自由の精華であろう。

「帝室(皇室)はひとり万年の春にして、人民これを仰げば悠然と和気を催ふすべし」
「国会の政府より頒布する法令は、その冷なること水のごとく、その情の薄きこと紙のごとくなりといえども、帝室(皇室)の恩徳はその甘きこと飴のごとくして、人民これを仰げばもつてそのいかりを解くべし」(※注8:福澤諭吉『帝室論』、『福澤諭吉全集』第5巻、岩波書店、265頁)

さて、日本の問題は、今日、日本国民一人ひとりが皇室の尊貴性と聖性を守る“世襲の義務”を果しているかである。
また日本は憲法上の制度として、皇室の尊貴性と聖性を守る“制度”をつくっているかである。
いずれも否である。
例えば、東大法学部ですら、世界の古典であるバークの『フランス革命の省察』も、バジョットの『英国憲政(国体)論』も教えていない。
いや国会議員ですら読んでもいない。
君主制に関する日本国民の無教養は目を覆うレベルにある。
また、福澤の『帝室論』を読んでいない政治家も増えてきた。

さらに、日本では君主制論の入門書といえば、すぐ福澤諭吉の『帝室論』をあげる人が多いのに、そして岩波文庫はあれほど福澤の作品を出版しているのに、この『帝室論』のみ文庫に決してしない。
岩波書店は『帝室論』を焚書にしている、と非難しても過言ではないだろう。

◆第四節 皇室の藩屏をどう再建するか


(省略)

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最終更新:2013年04月20日 16:37