第4章 憲法の構造と憲法の解釈

阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第4章 憲法の構造と憲法の解釈    本文 p.15以下

<目次>

[12] (1) 憲法の構造


実質的意味の憲法(国家の根本構造を定めるルール)は、成文の部分、不文の部分、法律、裁判例、慣習(習律)等の総体から成る(⇒[10])。
が、それらを総計したとしても、憲法が完全な姿を現すことはない。
憲法の全体像は常に朧気で、広範囲にわたり確定的な外延をもたない。
憲法のどの部分であれ、我々が議論しようとするとき、“依拠すべき基準枠がない”という心許なさを感じるのは、そのためだろう。

それでなくても、国家と統治という話題は壮大である。
それを分析しようとするときに、依拠すべき基準枠すらないとは!
“憲法(学)は、入るは易く、出るは難し”といわれる理由がここにある。
ときには、出ようにも手がかりすら与えない「解釈」が、憲法学においては多過ぎる。
例えば、「保護に値する利益が保護される」、「合理的な制約は許される」、「憲法の基本原則に適合的な国家行為は違憲ではない」等々。
これでは、完全な循環論だ。
そういえば、「憲法は、・・・・・・を要請している、よって、・・・・・・である」という論法も同質である。
解釈に求められるのは、「要請されている」ことの論証のはずだ。

憲法は、自己完結的な規範体系ではない。
憲法が憲法典として実定化されたとしても「法の欠缺」は避けられない。
なぜなら、憲法は、統治の歴史上、重要な国家活動だけを大綱的に規範化してきたものであるし、なかでも実定憲法(憲法典)は、統治に関する規範の一部だけを切り出して文章として配列したにとどまるために、条文の文理を細目にわたって解釈したとしても、その真の意味は把握できない。
憲法のある論点は、ときに歴史と思想史を振り返って初めて理解できることが多いのだ。
いわゆる統治機構の部門においては、権力分立制度、議会制度、内閣制度、選挙制度等々の「制度」を論ずるとき、それらの制度を理解するには、それを支えている「概念」を理解する必要がある。
議会を語るとき「立法」という概念抜きには空回りするだろうし、内閣を理解するには、「執政」、「執行」という概念を抜きにしては内閣権限は理解されないだろう。
それらの概念は、また、歴史と思想を抜きにしては掌握できないのである。

憲法が統治の大綱だけを規律対象としてきたのは、政治活動の実践が歴史的な変遷を免れないからである。
歴史的変遷を無視して、ある世代が後世代を長く硬直的に拘束することは、規範として正当でない(⇒[44])。
憲法の内容は、時間に対して開かれていなければならないのだ。

また、憲法はある活動領域を全く規律対象としないで開放しておくこともある。
これは重要な意味をもっている。
例えば、経済体制の選択問題や閣議の議事手続を意識的に開かれた領域としている場合である。
憲法は、この形成を自由とすることによって、自由な選択の幅を意図的に残しておくのである。

さらに、事柄の性質上、活動内容を法規範化し難い領域が幾つかある。
憲法は、それをも自由な形成に委ねている。
その例が外交である。
外交のうち、戦争、条約等、格別に重大な統治領域については、憲法上手続的に規範化されることもあるが、外交全般は規範化に馴染み難いが故に、憲法はこの領域を開いておくのである(この領域が、厳密な意味での「行政」に該当しないことについては、後の [89] [145] でふれる)。

憲法が未決定のままにしている領域は、政治を活気づかせる契機となる。
自由な国家の憲法が自由な政治活動を保障しているのは、国民の自由な討論・決定によってこの開かれた領域を埋めることを可能とするためである。
憲法改正規定は、そのための一つの手続的ルートである。

[13] (2) 憲法の解釈


このように、憲法は不完全な規範の体系である。
不完全だからこそ、せめてその一部であれ、安定的で確実なものとするために、成分化される。
ところが、成文化されたとしても文理が一義的であることは珍しく、確実性が保証されるわけでもなければ、法的統制力が必ず生まれるというわけでもない。
ここに憲法解釈の必要が生まれる。
大綱的な憲法は、解釈過程によって明確化されていくのだ。

憲法は、統治の達成すべき、目標を掲げることがある。
そのために、憲法の条文が理念で満たされることも多い。
理念は現実からズレる。
現実からズレた条規は、目標実現の過程を統制し難くするかも知れない。
そのとき、無理やり目標実現の方向を示そうと、強引な解釈を展開する論者も登場するだろう。
そうなればなるほど、多種多様な解釈がそこに生ずる。
例えば、ある条文を巡って、法的権利を保障したものか、それとも、国家の政治目標として掲げたにとどまるか、と論争されるように(25条を想起せよ)。

憲法は、国家機関の組織法であると同時にそれらの機関の行為規範を含む。
が、これらの規範すべてが裁判規範とはされない点に、憲法の特異さが現れる。
歴史上長く、憲法は、行為規範に違反した国家機関に対して制裁を用意してこなかった。
そうなると、ある行為規範の解釈権者は、当の活動に従事する国家機関それ自身となる。
議会は立法にあたって、自らその合憲性を判断し、行政機関はその適用にあたって“自らがみずからの裁判官となる”おそれも出てくる。
そのうえ問題の憲法条規は、上に述べたように、不完全で大綱的だ。
となると、余りにも強引な解釈は論外としても、多くの理屈が同時に成り立ち得る。
そうなると、ある解釈によれば行為規範に違反するとさっる活動も、別の解釈によれば違反ではない、という事態となる。

「憲法は、真正の法規範ではない」とか「憲法は直接有効な法ではない」といわれてきたのは、そのためだった。

細部にわたって規範化されている他の実定法の場合と比べ、憲法における解釈は、重要である。
なぜなら、大綱的な憲法は解釈過程によって明確化されていくからである。
なかでも、違憲審査制度を擁する憲法においては、違憲審査機関の最終的な有権解釈権者が憲法の内容を表現することとなる(⇒[14])。
違憲審査機関の憲法の解釈と、これに影響を与える憲法学説は特に重要である。

憲法学説は、理解可能なかたちで憲法知識を国民に提供するだけでなく、違憲審査にあたる国家機関に対しても語りかけ影響を与える。
ときに、学説は、審査にあたって参考とされ、引用されることすらある。

[13続き] (3) 憲法解釈の技法


学説は、「違憲/合憲」と白黒をはっきり診断する必要はない。
慎重な医師であれば、病気だと断定しないで、“○○%の確率で△△病だろう”と診断するのと同じように、真摯な研究者は「違憲/合憲」の間に、様々な色調があり得ることを知っている。
違憲審査にあたる機関も同様で、「□□は違憲だ」とはいわないで「違憲の疑いがある」ということがあるのは当然のことだ。

憲法解釈は、成文化されている部分については、条文の文言、制定者の意図、他の条文との関連性、憲法全体構造との関連性等々を引証しながら、行われる。
それらのうち、いずれに最大比重を置くべきかに関して、絶え間ない論争となってきた(憲法解釈の拠りどころとして、①文理、②憲法構造、③歴史、がよく挙げられるが、これら自体、様々に解釈されざるを得ないのだから、確固たるものではない)。
ある者は制定者の意図を最重視すべきだといい、ある者は条文の文理だといい、また、ある者は条文の究極的目的だ、という有様である。
いずれか、ではなく、いずれもだ、と私は考えている。
ただ、論点に応じて、それらのウエイトの掛け方を上手く調整するのが、よき憲法解釈者だろう。

特に、憲法(正確には国制)は、成文化されていない領域を含む。
実証主義的に言葉の論理操作をするだけでは、明らかに足らないのだ。
我々は、言葉自体は地図上の点を指すかのような精度に欠けていることを銘記しなければならない。
憲法条のあるタームは、思想の流れや歴史の展開を知って初めて理解可能となる(⇒[12])。

解釈は、憲法の条規が一義的でないからこそ、必要となる。
そしてまた、論争を呼ぶ重要な局面だからこそ、多種多様な解釈が登場するのだ。
解釈は、一義的でないところを補いながらの創造活動なのだ。
もっとも、創造活動だからといって、引証されるべき要素を無視して為していいわけではなく、上にふれた諸要素が常に勘案されなければならない。

[13続き2] (4) 憲法解釈の解釈


憲法は、国家機関による法令の解釈・運用を、実体的にも形式的にも統制しようとする。
とはいえ、議会や内閣(大統領)といった政治部門は、その機関独自の法解釈に従いながら、法令を制定したり、解釈し、運用したりすることを一定限度許されている。
その独自の法解釈には、憲法解釈も含まれる。
そうなると、特定国家機関がその解釈権をもって“開かれた部分”を閉じることはないだろうか?
その機関が、解釈の名のもとに、憲法改正権者または主権者でなければ為し得ないはずの価値を選択することはないだろうか?

この懸念を考慮したとき、“ある国家機関が自らの行為規範に関して最終的な解釈権者となってはならない”というルールを作り上げることも一法であろう。
日本国憲法73条1項が内閣の職務として「法律を誠実に執行」することを挙げているのは、内閣に法令に関する最終的な憲法解釈権を与えない工夫である。
また、99条の国務大臣その他の公務員の憲法擁護義務は、それが訓示規定にとどまるとしても、憲法解釈に対するマナーのあり方を示したものとして見過せない意義をもっている。

さらには、ある国家機関の憲法解釈を最終的に解釈する国家機関を設置することが望まれるだろう。
この要請を満足させる制度が、違憲審査制である。
違憲審査制は、自らが合憲判定者となりがちな機関に“鈴をつける”工夫だった(違憲審査制については、次章でふれる)。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第三章 憲法(典)の存在理由とその特性

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最終更新:2013年03月22日 00:41