第2章 国家の概念と歴史的展開

阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)    第Ⅰ部 統治と憲法   第2章 国家の概念と歴史的展開    本文 p.5以下

<目次>

■1.国家の概念


[4] -


国家を捉えることは、先人たちが大いに悩んできた難問である。
国家概念を把握するに当たって、我々に強い影響を与えてきたのは、次の二つの発想だった。
第一は、 国家を自然人に喩えながら、君主が国家の head に位置して元首(head of the state)となり、○○の機関が手足のように働き・・・・・・という擬人的発想である。
この見方は、 国家有機体説 といわれる。
第二は、 国家とは政治的共同体だ、という見方である(⇒ [1])。
これは、上の第一の見方でいう「自然人」の部分を「多数人による集合体」に置き換え、“集合体のうちでも、政治的な集合体が国家だ”というのである。
これも、実は、国家有機体説の一種である。
というのも、多数人が有機的に連帯して一つになるからこそ「共同体だ」と捉えられるからである。
政治的共同体説 を精緻にしたのが、有名な 国家法人説 である。
人々が求心的に国家へと集合した持続的な集まりを、自然人を法人格と捉えたときと同じように、法の主体と考えればよい、というわけだ(ドイツの公法学者、G. イェリネック(1851~1911年)がその理論を体系化したといわれる)。
但し、国家が他の法人と異なるのは、国家が主権という独特の法力と領土という広がりを持っている点だ、と必ず指摘されてきた。
「主権・領土・国民」という、お馴染みの国家三要素説はここから来る。

上の二つは、国家を擬人化している点で共通の発想に立っている。
国家法人説は、精緻な擬人化理論である。
これは、国家の意思(精神作用)を語り得るだけに、法的思考に馴染み易く、我々にも分かり良い。

とはいえ、 現在の憲法学 は、“国家が主権をもつという国家法人説は、国民主権の理論と相容れない”“人権保障の思想と相容れない(*注1)”と、 国家法人説に批判的 である。
最近の体系書なり教科書で、“私は国家法人説論者だ”と正面から認める論者はいない。
が、多くの憲法学者は、何時の間にか国家法人説に絡め取られている。
“国家は政治的共同体だ”“国民が選挙人団として国家の機関となる”といった説明は、国家法人説だからこそ出てくるはずだ。
国家の三要素に言及しながら、「私は国家法人説論者ではない」という体系書があるとすれば、それは、その筆者の思考の混乱を示している。

この本を書いている私は国家法人説論者ではない。
国家や社会や国民を実在するかのように語ることは、決定的に誤っていると私は考えている(国民主権の [38] でふれるように、私は国民を実体化して考えることをしない)。
国家や社会を「共同体」と表現する論者の知性を私は疑っているほどだ。
知力の高い社会科学者・政治学者は、国家や社会を実体化しないようにと、重々留意しているはずだ。
国家(※注釈: state)や社会(※注釈: society)は、実在の単位である個人および結社(※注釈:おそらく政府 governmentも含む→阪本氏は、非実在の国家 state と、実在する政府 government を区別する)の活動を通して把握の対象となる抽象的観念に過ぎない。

オーストリー生まれの偉大な法学者H. ケルゼン(1881~1973年)が、イェリネック流の国家法人説を否定し、国家を規範的に把握しようとして、《国家は法秩序そのものだ》と主張してのは、炯眼だといわなければならない(但し、ケルゼン理論は「国家論なき国法学」だった)。
政治学やケルゼンの成果があるにも拘わらず、なぜ法学(憲法学)においては、なお依然として“国家は政治的共同体だ”などと口にされるのだろうか?
そこには、「国家とは、公事のための共同体= civitas だ」と捉えてきた歴史的な背景があるからだ。
国家という国民から成る政治的共同体こそ公共性を担うよう意欲する主体だ、という考え方である。

(*注1) 国家法人説と人権
イェリネックの国家法人説は、基本権の保障に関して、“国家は主権団体として絶対的な権力をもっているが、自制して、人々に権利を与えよう”という理論を説いた。
これは、人権保障のための理論ではなかった。
『憲法2 基本権クラシック』 [18] を参照願う。


■2.「国家」の歴史


[5] (1) 中世までの「国家」


古く、ギリシャの時代には、“国家は市民たちから成る政治的共同体だ”と捉えられた。
civitas モデルである。
当時の国家は、労働を奴隷たちに任せたまま、兵役義務を有する人たちが城壁に囲まれた狭い地域での政治をいかに舵取りをするかにつき、等しく参加しながら審議し決定する、まさに「共同体」だった。
公事(res publica)を考え実践しようとする人々の繋がりがそこにあった。

その後の「国家」は、領主、武士、貴族、僧侶、農奴、商人等々、さまざまな身分の人たちから構成される、広い地域となった。
いわゆる中世封建制の「国家」である。
そこでの統治は、国王、領主、その臣下、さらにその臣下といったふうに、重層的だったばかりでなく、教会の支配地域、ギルドの支配領域等々、領主の支配権の及ばない地域が散在していた。
ギルド、教会、自治体等は、今日、「中間団体」といわれる。
このような中間団体を擁した「国家」においては、ギリシャ時代にみられた「市民から成る政治的共同体だ」という命題はもはや通用するはずがなかった。
個々人は、「国家内国家」における住民であり、身分制によって雁字搦めにされていた。
君主も、国家内国家の権力によって拘束を受け続けていた。

散在していた「国家内国家」のなかで、自前の軍隊をもち、そのための徴税制度を整備する領主が、次第に勢力を伸ばすことに成功し、ついには、国家のなかに国家が存在することを許さなくなった。
統一的支配者としての君主(国王)の誕生である。
法王の宗教的権威から解法された君主が「国家内国家」を権力的に押さえつけたとき、初めて、近代的意味での国家が誕生したのである。
それは、同時に共同体の崩壊をも意味した([194] もみよ)。
16世紀のヨーロッパにおいてのことだった。

[6] (2) 絶対主義国家


君主は、ギルドや封建領主等の中間団体を否定し、それらの有していた権力(課税権、裁判権、立法権等)を吸収した。
そして、“我が権威は、世俗のいかなる勢力によっても拘束されない”と主張した。
これが「絶対主義」であり、この国家が「絶対主義国家」である。
絶対主義国家を理論的に擁護したのが、フランスにおいてはJ. ボダン(1530~1596年)、イギリスにおいてはT. ホッブズ(1588~1679年)だった。
彼らは、《国家の主権は君主の人格に体現され、それは、全ての法の源泉であり、一切の法に優越し最高である》と説いた。
そのことを決定づけるために必要な第一条件は、王位を世襲とすることだった。
世襲制によって断絶のない統治の制度が可能となった。
当時にあっては世襲制こそ constitution だった。
世襲制は、それまで度々みられた互選制に代わるものとして、君主が長期間に亘る闘いのなかで勝ち取ったものだった([19]をもみよ)。
上のような展開は、フランスに顕著にみられた(英国においては、君主制は絶対主義化することなく、徐々に議会制と調和していった)。

絶対主義の行き着く先は、君主と国家との同一視だった。
「朕は国家なり」というわけだ。
その主張は王権神授説によって頂点に達した。
神授説は、神聖ローマ帝国の権勢が衰退するなかで、君主が法王と同等以上の権力を獲得しようとして意図的に前面に押し出された。
もっとも、絶対的権力といわれる君主権といえども、“慈愛と正義をもって臣民に対するべし”とする神の教え(法則)や“封臣契約を遵守すべし”という制約下に置かれるのが通例であった(この契約は「中世立憲主義」といわれることがある)。
が、その教えは、法的統制力に欠けていた点で、今日我々がイメージする法的統制とは決定的に異なっていた。

理論上、一体性をもつといわれた絶対主義国家も、「市民革命」によって、もろくも瓦解した。
当時の国家の役割は、今日と比べてはるかに限定されたものであったために、自律領域が個人、結社や地方に残されており、理論上は否定されたはずの中間団体が現実には生き残っていたのである。

[7] (3) 国民国家の成立


“国家は政治的共同体だ”という思想を歴史に再登場させたのが、近代啓蒙思想家たちだった。
彼らの説いた「社会契約」にも多種多様なものがあるが、その最大公約数をいうとすれば、《自然権保全という統一目的をもって人々が自由意思によって政治的共同体を樹立するのだ》という政治理論であった。

啓蒙思想家は、かっての共同体が崩壊したいま、自然的な結合性向をもたない人々をいかにして結びつけるかを考えた。
人々を人為的に結合させる動因力、それが「自然権を保全する目的」だった。
啓蒙思想家は、共同体崩壊後に生活する人々が、各自の利害を基点として他者と協働できるときにだけ結合するだろうことを知っていた。
その結合の表象が「社会契約」である。
このように、ひと味もふた味も違う共同体論を説いたところが、啓蒙思想の躍如たる側面だった([20]もみよ)。

「社会契約」は、絶対君主の権力を否定する革命の理論でもあった。
そのために、人間の同質性を敢えて強調し、君主に対抗する全ての勢力を結集してひとつの集団となるのだ、と訴えたのだった。
だからこそ、“人間はすべて法人格であり、普遍的権利の主体だ”と格調高く謳われたのだ。
その主張をさらに補強するために、万人が自由意思や理性をもっていることも指摘された。
こうしたユートピア的理論が、市民革命の原動力となった。

市民革命によって誕生した国家は、「国民国家 nation state」と呼ばれた。
国民国家とは、
第一に、 君主や封建領主が統治する国家ではないこと、
第二に、 「国家内国家」が散在するモザイクの如き凹凸のある国家ではないこと、
第三に、 平等なる法主体となった国民によって構成された国家であること、
を指した。
このうちでも、第三の点を力説しながら、“平等なる法主体、すなわち市民の有する自然権を憲法協約によって守ろう”という理論が、「立憲主義」の原型である。
立憲主義とそれを基礎とする国家論は、18世紀に最高潮に達した(この点については、後の[20]でふれる)。

[8] (4) 国民国家内部の亀裂


ところが、人であり市民であるという点で均質な存在を構成員とするはずの「国民国家」は、対抗する君主勢力が姿を消すと、その内部に様々な亀裂を顕在化させていった。
亀裂の第一は、 「市民」概念に表れた。
市民革命における「市民」とは、ギリシャのポリスにおけると同様に、政治的な責任を自覚し自発的・積極的に判断し行動する人を指していた。
ところが、“国家における主権は誰に帰属するのか”という主権問題が改めて問われる段階で、「市民」概念が国籍と結びつけられたのだった。
ここに、「国民/外国人」という亀裂がまず現れた。
「国民国家」は、外国人を統治過程から排除する、ナショナリスティックな概念ともなっていった。
第二の亀裂は、 統治される者と統治する者との間に現れた。
現実の統治は、「自己統治」「市民自治」などというヤワなものでは決してあり得ない(私は、「自己統治」という言葉を使う論者の知的誠実さを疑っている)。
他の活動と同じように、統治には分業と専門化が必要不可欠である。
統治の分業・専門化のためには、政治家と官僚団とが必要となる(このことは、市民革命以前でも変わらず、政治家と官僚団とが存在していた)。
「国民国家」といえども、政治家とそれを支える合理的官僚制という国家装置によって統治や一定のサーヴィスを提供せざるを得ない。
ここに、「統治する者/統治される者」の亀裂が顕著となったのである。
第三の亀裂は、 「資本家/労働者」「持てる者/持てざる者」という「市民」の中に現れた(といわれる)。
「市民」の中には、その実態をみたとき、自由で平等な主体とは到底いい得ない人々が多数存在している、というのである(⇒[25])。

これらの変化は、ひとえに「国民国家の危機」にとどまらず、「立憲主義国家」の危機となった。
この危機とは、何を指すのか。
これを理解するためには、憲法の意義、憲法に基づく統治(=立憲主義)の意義を知らなければならない。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第一章 国家とその法的把握

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