第八章 憲法の保障と憲法の変動

阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)   第一部 国家と憲法の基礎理論    第八章 憲法の保障と憲法の変動 p.118以下

<目次>

■第一節 憲法の保障の意義


[133] (一)憲法典は、それ自体の妥当性を維持するための工夫を施さねばならない


憲法典は、その持つルールとしての力によって、すなわち、妥当性(法規範として正当であると受容されているために拘束力をもつこと)によって、統治権力を拘束することを目指す。
ところが、これまで繰り返してきたように、 憲法典のルールとしての力は、憲法典に内在するものではない ([94]参照)。
通常、憲法典自体の妥当性は、憲法典の外にある制憲権意思から与えられるもの、と理解されている。

そればかりでなく、 憲法典自身は、制裁規定を備える真正の法規範とは言い難く、そのために、その実効性を確保する点でも心許ない ところがある([62]参照)。
下位法が、憲法典から授権される妥当性と実効性(法規範として現実に適用され遵守されること)とを主張しうるのに対して、憲法典自体は、本来「直接有効な法」ではないのである。
憲法典は、そのルールとしての力を確保すべく、その内部に様々の工夫を凝らし、「直接有効な法」としての性格を自ら与えようと試みるのである。

制憲権の発動によって与えられたはずの 実定憲法典の妥当性および実効性を確保するための様々な装置 を「 憲法の保障 」という。

[134] (ニ)憲法保障の類型は平時における保障方法と非常時におけるそれとに分けられる


憲法の保障のうち、 平時における方法 としては、 実体的保障 と、 手続的保障 とがある。
実体的保障の方法としては、 憲法典の最高法規性を宣言し、さらに憲法典への忠誠の宣誓や憲法擁護義務を課すこと( 宣言的方法 )や、
権力分立、二院制、独立行政委員会制等による政治部門内部の抑制を通して、権力の集中を防ぎ、憲法秩序の破壊が生じないようにすること( 制度的方法 )が挙げられる。
手続的方法としては、 特別な憲法改正手続 を要するとすること、
違憲審査制 を導入すること、が挙げられる。

違憲審査制は、国家機関の行為の合憲性を当該機関以外に判断させることによって、憲法典を「直接有効な法」とするための方策である。
そのための機関と手続にも様々なものがあるが、「憲法の保障」にとって最も中心と目されるのは、裁判所による違憲審査制である。
裁判所による違憲審査制にも、憲法裁判所を設置するやり方( 憲法裁判型 )と、通常の裁判所によるやり方( 司法審査型 )とがあるが([438]参照)、いずれの場合であっても、裁判所には、憲法秩序の維持という観点が要請され、「違憲」と判断された国家の行為を取消可能とし得る(voidable)権限が与えられる(ここで「取消可能とし得る」との表現を用いたのは、「違憲」と判断された国家行為が「当初から無効」と理解すべきではないからである。この点については [409] でふれる)。

非常時における方法 としては、①国家の側からの 緊急権の発動 と、②国民の側からの 抵抗権の行使 、とが考えられる。

[135] (三)国家緊急権は超憲法典的に存在せざるを得ない


国家緊急権 とは、平時の憲法典上の手段では対処しきれない緊急事態(戦争・内乱・天災地変等)において、国家の存立と全体としての憲法秩序に対する重大かつ明白な侵犯状態に対して、現行の憲法秩序を維持・防衛・回復するために行使される国家統治権力をいう。
国家緊急権には、憲法典が緊迫した非常事態を予定し、一定の条件のもとで、その行使を認めるもの( 実定憲法上の国家緊急権 )と、憲法典の一切の枠や授権の範囲を超えて行使されるもの( 超実定憲法的国家緊急権 )、とがある。
緊急事態は、憲法典の予想を許さないだけに、ヴァイマル憲法での大統領の独裁権限にみられるように、前者の方法をとってみても、実効的に統制することは困難である。
憲法典上の明文による実効的な統制部分は、主に事前の手続的な側面であろう。

国家緊急憲は、多くの場合、軍事力が行使され、一次的に立憲主義が停止される(憲法典に基づく統治を守るために憲法典を踏み越える)だけに、明文規定を欠くとしても、不文のルールのもとで極めて例外的状況下でのみ許容されなければならない。
すなわち、その要件は、立憲主義にとっての緊急事態が発生していることは当然として、
(a) 一時の臨時的な措置であること、
(b) 代替手段に欠けること、
(c) 少なくとも、事後的な責任所在の明確化や責任追及のための制度が用意されること
等、である。

[136] (四)抵抗権は国法のなかに取り込むことのできない人権である


抵抗権 とは、憲法典の基礎をなす憲法秩序を維持または回復するために、実定法上の義務履行を拒否する国民の基本権をいう。
実定法上の義務履行を拒否するという消極的なものである点で、積極的な武装行使を容認する革命権とは区別される。

国家が人民の社会契約によって作り上げられ、基本権保護に奉仕することにその存在根拠をもつと考えた場合、国家の不正に対して契約を解除する最終的手段としての抵抗権は、明文の有無に拘らず、超憲法典的に存在するといわざるを得ない。
国家による保護が終われば、一切の服従義務も終わり、個人はその自然状態での自由を取り戻すのである。
抵抗権が実定法上の義務を破る権利である以上、それは実定的権利では在り得ない。

なるほど、近代立憲主義以降の諸国家は、法治国家という理念に立って、「合法性」判定基準を「憲法典を頂点とする実定法」に求め、国家自らの合法性を根拠づけると同時に、基本権と権利を国家法において具体化し保障してきた。
ところが、「法」は「立法」と同義ではなく、また、「法」も「自由」も立法によって語り尽くされるものではない。

非常時における抵抗権は、国家法と同一平面にある権利ではなく、個人にとっての最後の保障手段であり、「譲り渡すことの出来ない、しかしまた、組織化することも出来ない」真正の基本権である(シュミット『憲法論』195頁。「自然権」といってもよく、constitution 上の権利といってもよい)。
配分原理からしても、抵抗権は本来無限定の「自由」に淵源をもち、国家によって承認される必要はなく、従ってまた、制度化される必要もないのである(ドイツ基本法20条4項は、他の方法がないときには、憲法的秩序を除去しようと企てる「何人」に対しても、全てのドイツ人が抵抗権を有する、と定めている。この規定は、抵抗権概念を拡大して制度化したものである)。

ただし、抵抗権は、国家が個々の憲法律上の規定に違反することを超えて、憲法秩序全体に対する重大かつ明白な侵犯行為を為す場合に、国民の合法的権利行使では国家の合法性が維持できない状況下で初めて、「極限の保障手段」として国民による発動が許される。

[137] (五)日本国憲法は憲法保障のための規定を数多くもっているものの、国家緊急権規定を欠いている


我が国の憲法典は、平時の実体的憲法保障として、①基本的人権保障を国政の目的と定めて(13条)、②その永久不可侵性の宣言(11、97条)、③国民によるその不断の保持義務(12条)、および、④天皇や公務員の憲法尊重擁護義務(99条)等の宣言的方法を組み入れているばかりでなく、⑤「権力分立」、⑥二院制等の制度的方法をも採用している。
平時の手続的保障として憲法典は、「最高法規」と題する一章を設けて、憲法典が最高法規であるが故に、①その改正のためには加重された手続を要すること(96条)、②憲法典の規範性を確保するために司法審査制を導入すること(81条)を明らかにしている。

大日本帝国憲法(以下「明治憲法」または「旧憲法」という)においては、①緊急勅令(8条)、②緊急財政処分(70条)、③戒厳(14条)、④非常大権(31条)等の規定が、国家緊急事態に備えるものであった。
これに対して、現行憲法典には、①臨時会(53条)および②参議院の緊急集会(54条2項)以外に緊急事態に備える規定は見当たらない。
ところが、これらの規定は平時の立憲体制を想定してのものであって、本来の意味での国家緊急権規定ではない。
日本国憲法は、それにつき明示的規定を欠いているために、本来の国家緊急権の有無につき学説の対立を呼ぶことになる。

まずA(否認)説は、 一切の戦争を放棄している9条が、国家緊急権行使の主要手段としての軍事力を否定した以上、国家緊急権の存在自体否定されているとみる。
次にB(欠缺(※注釈:法律用語で「適用すべき法の規定が欠けていること」)説は、 緊急集会しか認めていない日本国憲法には、国家緊急権に関する定めはなく、憲法の欠缺と解するほかないとする。
これに対してC(許容)説は、 国家緊急権が「必要は法を知らず」という不文の法理(英米でいうマーシャル・ルール)または constitution に内在する国家の権力である、と説く。

以上の諸説のうち、A説は、国家緊急権発動を戦力に限定したうえで、9条のみを根拠としてこれを否定している点で視野が狭すぎる。
憲法の欠缺と捉えるB説は、憲法と憲法典との区別を明確に意識しないままに、結論を避けている。
憲法典は、自己完結的な法典ではなく、国家の存立を前提とした二次ルールである以上、国家存立そのものに関するルールは、明文で語られないかたちで存在せざるを得ない。
C説が正しい。

[138] (六)日本国憲法は抵抗権についても明文規定を欠く


日本国憲法は、抵抗権についてふれるところがない。
我が国の論者は、抵抗権の存在につき肯定するものの、それが実定法上の権利であるのか、それとも、非実定法上の権利でなければならないのか、見解を異にしている。
A説 は、抵抗権が憲法典上の自由権に包摂されているとする。
これに対して B説 は、シュミット同様、抵抗権が実定法に取り入れられることは在り得ず、自然法上または constitution 上の権利(人権)として説明されるべきである、と説く。
抵抗権は、国家緊急権同様、二次ルールによって語り尽くされるものではない。
B説が妥当である。


■第二節 憲法の変動の意義とその種類


[139] (一)憲法典は憲法を語り尽くせない


「いかなる社会も恒常的な憲法をつくり得ない」(T. ジェファーソン)とか、「もっとも硬性度の強い憲法であっても新しい実質的な憲法原則の形成を阻止できなかった」(イェリネック)とかいわれる。
国制は、日々発展生成し、新たな統合をみせるために、それを憲法典で語り尽くすことは不可能である(もともと、あるルールが明文上のルールのなかに全面的に取り込まれることは在り得ない)。

憲法の変動 」とは、 憲法典の予期しない不規則な社会的・政治的プラクティス 反復継続される定型的行態 に、憲法典がどう対応するか、または対応させられるか 、という問題をいう。
人為の業である憲法典が、実態としての国制を全て語り尽くすことはない。
だからこそ、憲法解釈の枠を超えた、または、憲法典上の正文(テクスト)に抵触するプラクティスの生起をある程度予期した対処方法を、憲法典は準備しておかなければならないのである。

[140] (二)憲法の変動は憲法典の変動と同義ではない


憲法の変動 とは、憲法典上の条規の意味変化それ自体を指すのではなく、 国制という意味での憲法上の社会的・政治的プラクティスの変化 をいう。
憲法の変動の種類としては、憲法の改正、憲法の変遷のほか、次のものがある。

憲法の廃絶 憲法(憲法典上の条規ではない点に注意)のみならず、その根底にある憲法制定権力まで除去すること。
憲法の除去 根底にある憲法制定権力を維持しながら、既存の憲法を除去すること。
憲法の破毀 憲法典上の一つ、または、幾つかの規定の効力はそのまま変更されることがないにも拘らず、それと異なる命令によって諸規定が侵犯されること。
憲法の停止 一つ、または、幾つかの憲法典上の規定を一時的に効力停止すること。これは、一時的に憲法典上の規定を失効させる点で、憲法の破毀と異なる。

以下では、憲法の変動のうちの、⑤憲法の改正と、⑥憲法の変遷、について、検討する。


■第三節 憲法改正の意義


[141] (一)憲法改正とは憲法典上の条規を意思によって変更することをいう


憲法の改正 とは、憲法(国制)上の社会的・政治的プラクティスの変化(憲法の変動)に対応させるべく、憲法典の定める正式の手続に従いながら、改正権者の明示的意思によって、憲法典(の一部)またはその条規に変更(削除、追加等)を加えることをいう。
その手続の類型には、
議会とは別の組織体によるもの(1791年のフランス憲法型)、
改正のために召集された両議院と国王との共同決定制とするもの(ベルギー憲法型)、
議会の特別多数決制によるもの(ワイマール憲法型。国民の請願による改正手続も残されている)、
国民による最終的決定を要するとするもの等、
様々である。

[142] (ニ)全面改正は改正ではないという議論は形式論である


憲法の改正 とは、憲法(国制)の変更ではなく、 憲法典の変更 であるが、憲法典全体の変更(全部改正)も改正といえるのか、それとも、改正とは憲法典中の個別的条規につき、削除、修正、追加または増補するという部分的変更(部分改正)をいうのか、につき、見解は分かれている。
通常は、もとの憲法典の内容との「同一性」を判断基準にしながら、同一性を保持する変更だけを改正と呼ぶ。
つまり、「全部改正」は、新たな憲法典の制定であって、改正ではない、とするのである。
「同一性」を保持しているか否かの判断基準は、constitution に変更があるか否かに求められることになろう。

しかしながら、憲法典の基礎にある constitution の内容をいかに捉えるかによって、「同一性」の有無の判断も微妙とならざるを得ず、全面的改正か否かの判断も微妙となろう。
例えば、日本国憲法の場合、その constitution は、通説風にいえば、①基本的人権の尊重、②平和主義、そして、③国民主権、という三大原理または憲法典の根本規範部分を指すことになろうが、それが、正確な識別テストとなるわけではなく、それ以外の基本原則(④「権力分立」、⑤法の支配、⑥代表制等)といった要素を無視してよいか、大いに疑問である。
従って、「同一性」をキー・ワードとした右のような形式論から「全面改正は改正ではない」とする限界肯定説は、断念されるべきである。


■第四節 改正権の本質と憲法改正の限界


[143] (一)憲法改正の限界は制憲権や改正権の本質論と繋がっている


硬性憲法典の改正規定は、手続的な「憲法の保障」という意味を持つのであるから、憲法典の改正が同手続に従っての作用でなければならないことについては、異論はない。
これに対して、改正対象につき法理論上限界があるかどうかについては、学説の対立するところで、従来から「 限界説 」と「 無限界説 」との間で、種々論議されてきた。
その個別的論点としては、

憲法典全体に変更を加え得るか、
制憲権の帰属先に変更を加え得るか、
改正手続規定自体を、その手続で改正できるか、
改正対象としないとの規定を改正し得るか、

等が挙げられる。

学説を対立させる主要因は、制憲権の本質を何とみるか、その制憲権と改正権とが同質であるか、にあると言っても過言ではない。

[144] (ニ)改正権の性質は制憲権との繋がりを論じて明らかになる


改正権が、超法的な、事実の力としての制憲権と同質であるとすれば、それに限界はないことになろう。
これに対して、シュミットのように「制憲権→憲法→憲法律→憲法律上の権能」という階梯的公式を考えれば、改正権は「憲法律上の権能」にとどまる。
また、右の階梯的公式のもとで「憲法制定」と「憲法改正」(すなわち、個々の憲法律的規定の修正)という場合、前者の「憲法」とは全体決定としての憲法を指し、後者の「憲法」とは憲法律を指し、質的に異なるのである。
改正規定は、その母胎たる憲法の派生物にとどまり、従って、憲法律上の改正権でもって、全体としての憲法(国制)を変更できないとの結論に至る。

[145] (三)改正限界説は実体的にも手続的にも法的に制約された改正権を説く


我が国の通説は、改正権をもって「法制度化された制憲権」と捉え、事実上の万能の力ではないことを指摘しつつ、その限界を説く。
この限界肯定説は、改正権が憲法典に定められた手続に従わなければならない、という限界を前提としていることはいうまでもない。

しかし、同説は、改正権が「法制度化」され、事実上の力ではなくなったと説くものの、実体的権能(権力的モメント)まで凍結されているとみる訳でもない。
改正権に権力的モメントを残しながらその実体的な限界を説くとなれば、憲法典を拘束する法理を構想せざるを得ない。
その法理として、論者は、根本規範を仮定するか、個人の尊厳または自然法という普遍的価値を挙げながら、改正権はこれらによって拘束される「権限」であると説くか、または、憲法典自身が恒久・普遍的価値を明示的に改正対象から除外している点を指摘する。
つまり、限界説は、「改正権が、実体的には普遍的価値(または憲法典上の制約規定)によって拘束され、手続的には憲法典の改正手続規定に拘束された権限でる」と解するのである。

[146] (四)改正限界説は数多い疑問を残す


限界肯定説に対しては、
(ア) 既存の憲法典の神聖視から来てはいないか、
(イ) 一時代の産物である憲法典は後世代を拘束できるはずはなく、常に後世代の選択に開かれているべきではないか(諸外国の憲法典には、定期的に国民の審査に服するとする例がある)、
(ウ) 限界を説いたところで、それを超えた改正は、結局のところ、新憲法の制定(新たな制憲権の発動)と捉えざるを得ず、国制の合法的継続性まで否定できないのではないか、
(エ) 改正権を限界づけるとされている価値は、論者の思考の産物に過ぎないのではないか、
といった疑問が残されている。
こうした疑問がある以上、限界を否定する見解(無限界説)が説かれるのも当然である。

[147] (五)無限界説の論拠は一様ではない


無限界説も一様ではなく、

改正行為は、本質的に事実行為であって、法的限界を説くことが出来ない、とする立場、
改正行為は法的行為であるものの、人為法は如何なるものであれ、人間によって変更されざるを得ない、とする立場、
改正権は、憲法を創り出す力であると捉えて、制憲権と同質とみる立場、

等、様々である。

[148] (六)本書は改正権を権力と捉える


制憲権の主体とされる国民は、観念上の統一体である。
制憲権の性質は、憲法典を支える正当性のための仮設である(この点については、国民主権を論じた [132] でふれた)。

これに対して、改正権の主体としての国民は、実在する。
主権者としての国民が「権力」を持つとすれば、それは、実在する国民が主体となる改正権の発動の局面ではないか、と思われる。
すなわち、改正権規定は、手続的に統制されているとはいえ、実体的な権力的モメントを実在としての国民に付与するための「変更のルール」である、と解される。
とすれば、改正権は、憲法典のいわゆる全面的改正や制憲権所在等 [143] で指摘した諸事項にも及び得ることになる。

もっとも、権力としての改正権は、国民によって恒常的に発動されるとすれば危険であり得る。
そこで我が憲法典は、改正の発案権まで国民に与えないで、国会に与えて手続的に統制しているのである(96条1項)。

ところが、無限界説に立つ以上、憲法を改正するに当って、権力主体としての国民は、改正手続に関し、「国会による発案権を否認し、国民が発案する」という憲法改正案であれ、「国民投票を不要とする」という改正案であれ、いずれの案であってもこれを承認することが出来る。


■第五節 憲法の変遷


[149] (一)憲法の変遷の意義は論者によって一定しない


憲法の変遷 とは、国家機関のプラクティス(反復継続される定型的行態)が不文の実質的憲法を生み出すことをいう。
もっとも、変遷の定義は、論者によって一定しない。
我が国では、変遷を狭義に捉えて、①国家機関がある条規につき違憲行為を反復継続するにつれて、同条規の実効性がまず失われ、それに従ってその妥当性も失われて、②新たな実効性がその条規の周辺に生まれ、それに伴って妥当性も生まれて、③最終的に、同条規の規範的意味変化がもたらされること、とみる。
つまり、憲法典正文の規範的意味変化とみるのである。

この論は、「ある国家機関の行為が違憲である」ことを前提にして、「違憲事実の集積が憲法典を破るか」と変遷論問題を設定する。
しかし、この設定の仕方は、
第一に、 論者の思考からみて違憲であるとの前提に立っている点で結論先取りの論であり、
第二に、 変遷の対象として憲法典正文の意味変化のみを念頭に置いている点で狭きに過ぎ、
第三に、 憲法典と憲法(国制)とを厳格に区別していないうらみがあり、
正確とは言い難い。

変遷論は、違憲とは限らない国家行為が憲法(国制)を生み出す、との命題を指す。
変遷論をめぐる論争は、法の特性や憲法(国制)に対する見方と繋がる難問である。

[150] (二)変遷論は実質的憲法の成立を説く理論である


変遷論は、イェリネックに始まる(巻末の人名解説をみよ)。
彼の言う憲法の変遷とは、憲法典正文の意味変化に限られない。
正文の有無に拘らず、憲法典に「並行する」実質(不文)憲法と、憲法典に「対立する」実質憲法の成立することを説いたのである。

つまり、彼のいう憲法変遷にいう「憲法」とは、憲法典のことではなく、国家秩序全体を指す場合の憲法(国制)である。
その意味での憲法の成立する領域としては、
(ア) その意味を補充・発展させるもの、
(イ) 憲法典の欠缺部分を埋めるもの、
(ウ) 憲法典の正文に違反するもの、
があり得ることになる。

また、その成立の契機としては、
憲法典正文についての公権的解釈の変更という事実、
特定事実の反復によって生ずる慣習、
国家機関による特定権能の相当期間の不行使という事実
等が考えられる。

[151] (三)変遷論の依拠する基本的発想には基本的な疑問がある


イェリネックの変遷の考え方の基礎には、いわゆる「 事実の規範力説 」がある。
それは、事実の反復によって人の心理内に規範的力が生じ、人々の社会的規範意識によって支えられて客観化されたものが妥当性を獲得して法となる、と思考する(法の主観説)。

法哲学上、慣習が社会の法的(または規範的)確信によって支持される程度に達すると慣習法となる、としばしば説かれるのも、イェリネックの思考の影響のためである([36]参照)。
しかし、この解明は、プラクティスが法となる条件として「法的(規範的)」確信を挙げる点でトートロジーであって、ナンセンスであるばかりでなく、客観的な法規範の淵源を「確信」なる主観的要素に求める点で解けない謎を残す。

そればかりか、その考え方は、事実から規範が生ずるとするだけに、事実と規範とを峻別する分析哲学の前では通用力を失わざるを得ない。
また、イェリネックは、憲法典を改正手続の加重された法形式とみる形式的な立場を採用したが故に、「後法は前法を破る」という法の一般原則に従って、実質的憲法の成立を肯定したのである。

なるほど、実質的憲法の成立は、硬性憲法のもとでさえ避けることは出来ず、あるいは、硬性だからこそみられるともいえよう。
全ての法治国は、「誰が番犬の番をするか」という問題をこれまで、結局解決できなかった。
しかしながら、憲法保障の具体的方策として、実体的な最高法規性を憲法典中に宣明し、なおかつ、違憲審査制まで導入することによって、憲法典を直接有効な法とせんとしてきたポスト近代立憲主義の狙いからすれば、国家機関のプラクティスから実効性と妥当性とが生ずるとする理論に、我々は懐疑的とならなければならない。

[152] (四)変遷論は憲法の「法源」論を検討して初めて理解できる


憲法の法源には、不文のものも当然に存在するとはいえ、そのことを承認することと、ある国家行為の反復・継続が憲法としての地位を獲得すると承認することとは別個の事柄である。
後者の命題を承認することは、「変更のルール」を通過しないものを「最高法規」の一部に組み入れることを承認することであるから、その条件を慎重に検討することが特に重要となる。

近代国家は、道徳を中心とする社会規範と、法規範とを識別する規準を用意してきた。
それが、H. ハートのいう「確認のルール」、「変更のルール」、や「裁定のルール」という二次ルールである(この立場は、慣習のうち、国家による承認を得たものが慣習法となる、という承認説に近い。巻末の人名解説をみよ)。

法が存在するというためには、行為従事者たちが受容し、遵守している一次ルールがあるばかりでなく、アンパイアとしての資格を持った人物(または機関)が権威をもって、「そこでは、これがルールとされている」と判定するための二次ルールがなければならない([47]参照)。
この法の見方からすれば、法的ルールが拘束力を有するのは、人々がルールを習慣的・定型的行態(プラクティス)として単に受容しているからではなく、「『変更のルール』(または裁定のルール)によって変更(裁定)されたルールは妥当し拘束力を持つべし」、と「変更のルール」たる憲法典(「裁定のルール」たる違憲審査制規定)により定められているから、なのである。
この立場からすれば、憲法の変遷が妥当性をもつためには「変更のルール」または「裁定のルール」を経由することが必要である。
成文・成典形式を採用する国制にあっては、改正規定が「変更のルール」であり、違憲審査制規定が憲法法源に関する「裁定のルール」である。
これらの規定に基づいて承認を受けていないルールは、法以前のルールにとどまり、厳格な意味での「法源」とはならない(「法源」なる用語を最もルースに解して、「社会的に受容されるルール」の意味で用いれば話は別である)。

[153] (五)変遷をめぐる我が国の学説は大きく三つに分かれる


我が国の学説は、憲法変遷を肯定するか否かについて、法規範の識別テストにつき峻厳な反省を加えないまま、次のような三つの対立を示してきた。

A説 全面的肯定説 )は、イェリネックさながらに、一定事実の反復継続がみられ、それが国民の法的(規範的)確信によって支えられれば、変遷を肯定して、その部分を憲法法源とみる。
ところが、この説に対しては、
明確な制憲権意思よりも非意図的な慣行を優先させてよいか(何のための成文・成典・硬性憲法だったのか)、
慣行が人々の確信を通して法となるという思考は正しいか、
何をもって「国民の確信」であるとするか、
事実と規範との関係につき峻厳な検討を加えていないのではないか
等、強い批判が寄せられている。

ついで B説 限定的否認説 または 習律説 )は、国家機関によって反復継続されるプラクティスが習律(convention)を作る、とする。
習律とは、憲法の働きに携わる人々が義務的なものとして受け入れたところの行為規範であるものの、国家によって強制または裁定される根拠とはならないものであって、法以前(pre-legal)のルールをいう。
この説によれば、習律は、憲法典の意味を補充・発展させる領域、または、憲法典の欠缺部分を埋める領域について成立するものの、憲法典の正文に違反するものについては成立しない。
なぜなら、法以前のルールが、明文の法的ルールを破るほどの妥当性をもつことは在り得ないからである。
確かに、このB説は、変遷の問題領域を的確に捉えているばかりでなく、憲法と憲法典との区別を意識しつつ憲法の法源として不文のものもあり得ることを指摘している点で、正当である。
ところが、なぜプラクティスが習律を生むか明らかにしていないで、画竜点晴を欠く。

さらに C説 全面的否定説 )は、変遷とは、国家機関による違憲のプラクティス領域に拘わる問題である、との限定的な変遷観を前提に、違憲事実が幾ら集積されても、それはあくまで違憲事実の積み重ねに過ぎず、その種のプラクティスが憲法典正文を破るということはあり得ない、とする。
この説の根底には、変遷を肯定するとなると恒常的に制憲権が発動される状態を容認することになって、硬性憲法典の論理からしても、その事態はありうべくもない、との見方が横たわっている。
このC説に関しては、既に [149] で指摘したように、
変遷の概念規定が狭義過ぎないか、
「違憲」事実の集積という場合、「違憲」であるとの前提は論者の思考の産物(結論の先取り)に過ぎないのではないか、
この説を徹底すれば、憲法の法源は憲法典正文のみということにならないか、
変遷は、事実の集積を問うものではなく、人々の行為(プラクティス)のもたらすものを問うのではないか、
といった疑問が残される。

[154] (六)本書は変遷を一次ルールの形成にとどまると捉える


学説の論争を前に我々はどう考えるべきか。
この点、憲法改正規定という「変更のルール」を経ていない国家行為は、いかに慣行上遵守され規則性をみせていても、厳格な意味での法的ルールではない、と考えるべきであろう。
また、司法審査権という「裁定のルール」を通過しないルールを厳格な意味での「法(【N. B. 12】参照)」と呼んだり、「法源」となると思考することにも疑問が残る。
変遷によって生ずるのは一次ルールのみである、と理解するのが正しい(一次ルールにとどまるからといって、それが、憲法政治に従事する人々に対して規範的な力を持たないという訳ではない。先にふれた習律説のいう習律とは、一次ルールを意味すると解し得る)。

一次ルールが、公権的解釈者たる司法府によって後に「これこれが一次ルールとなっている」と確認されれば、法源として取り込まれたことになる。
変遷の成立する契機として、「公権的解釈の変更という事実」が挙げられるのは、このことを表す。

【N. B. 12】法となるための属性について。
従来のイェリネックに代表される古典的な法理論は、法を実効性(efficacy)と妥当性(validity)という二つの要素からみようとした。
その際、実効性をもって、「規範に従って人々が行動すべきであるように、人々が現実に行動すること、または、法規範が現実に適用され遵守されること」をいい、妥当性をもって「規範として拘束力をもつこと」をいう、とされてきたようである。
ところが、その理論には次のような疑問が残る。
第一に、実効性について、「法規範が現実に適用されて遵守されること」の意味合いが不明である。
そもそも「遵守する」という、人のルールに従う行為を「現実(事実)」問題として説明できるか(「遵守する」という表現を選択する時点で、それは既に現実(事実)問題を超えている。ハートであれば、「現実に遵守される」とはいわないで、「遵守されているという事実があるか否か」を、外的視点から問うであろう)、もし、現実に遵守されているという命題設定が正しいとしたとしても、何ゆえに守られているのかを問うべきではないか。
第二に、法の主観説に立って、規範としての拘束力の淵源を問うに当って、主観から客観への架橋に成功していないのではないか、との疑問が残る。
さらには、第三に、これら二つの要素が如何なる関連性をもつのかを明らかにすることなく、ニ要素を列挙しているだけの如き印象を持たざるを得ない。

【表11】 憲法変遷に関する諸説
否定説    →  憲法実例は、事実の集積に過ぎない
習律説    →→  憲法実例は、習律でとまる
補充性肯定説 →→→  憲法実例は、慣習憲法となる
全面的肯定説 →→→→  憲法実例は、正文の拘束力を破る慣習憲法


■関連ページ

阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第10章 憲法(国制)の変遷


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