第六章 憲法の最高法規性と国法形式

阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第六章 憲法の最高法規性と国法形式 p.84以下

<目次>

■第一節 最高法規の意義とその淵源


[93] (一)法の階梯的組織の最上階に位置するものを最高法規という


憲法典が授権規範でもあり、制限規範でもあると考えることは、法規範の構造を階梯的に捉えることでもある、と先に述べた([70]参照)。
その法構造における階層の頂点に位置する法規範を「最高法規」という。
その最高法規は、その体系において、他の法規範の地位を確認するばかりでなく、その妥当性を判断するうえでの規準でもある。

[94] (ニ)最高規範性の淵源を解明することに成功した見解はいまだない


では、その憲法典の最高の規準としての性格づけはどこから来るか。
先に([60]参照)、憲法典は下位の法令に対して妥当性を付与する授権規範であるものの、それ自体の妥当性を根拠づけることは容易ではない、と指摘した。
最高法規としての憲法は、その体系内にある他の法規範を権威づけはするものの、定義上、最高法規より優位する法規範をその中に持たないだけに、それ自体の権威を根拠づけはしない。
その根拠づけに成功した理論は、今日までのところないと言ってよいが、次のような説がみられる。

まず、A説は、制憲権者の意思によって設定され、それによって授権されたことを根拠として挙げる。
ところが、この説について、制憲権を設定する規範は何か、再び問われることになる。
この点は、制憲権の淵源を、意思に求めるか、それとも規範に求めるかにつき、理論史上、様々な議論がみられ、未だ決着をみていない(この点については、制憲権の法的性質を論ずる [124]~[128] で再述する)。

B説は、ケルゼン流に、法としての妥当性を仮定する根本規範によって憲法典が授権されたことを根拠として挙げる。
「一定の憲法が妥当性をもち、その憲法の創設が合法的行為であるという価値判断は、その憲法が、この一般的根本規範に合致していることを意味する」とケルゼンはいう。
あるルールの体系内で、それに内属するルールの最終的な規範性を論拠づけることはできない。
あるルールは、別の体系に属する別のルールに適合して創設されるからこそ、当初のルール体系に属するのである。
この点に気づいたケルゼンは天才であった(巻末の人名解説をみよ)。

ケルゼンの「法の動態概念(【N. B. 11】参照)」からすれば、次の頁図1のようなピラミッド構造が描かれよう。
その際、法の妥当性の根拠を規範にのみ求めようとする(規範は規範からのみ生ずる)以上、その根拠となる規範(根本規範)は、そのうえに上位の規範をもたない規範、仮定する以外にない規範の形式、となる。
しかしながら、その根本規範はケルゼンの思考の中に存在するのみである。

【N. B. 11】ケルゼンの法に対する二つの見方について。
ケルゼンは、法の動態概念のほか、法の静態概念についても考察している。
彼にとって静態概念からみた「真正の法規範」は、「制裁を規定する規範」である。
真正の法規範概念からすれば、憲法の諸規範は、独立した完全な規範ではない、とされるとしている点については先にふれた([62]参照)。
根本規範概念は、法がいかなる過程を経て作られるか、に着目したものであって、この静態的法規範とは、全く別物である。

この理論によれば、憲法は、その法的《効力》を根本規範から受け取り、その《内容》を制憲権意思から受け取るのである。

この説に対しては、
この法段階説は、法を規範に還元する過度の単純化ではないか、
法体系が、ピラミッド構造をもつ論理的必然性はなく、法の上層にいけばいくほど、規範は分岐し、断層を示しているのではないか、
仮設として設定される形式的な「根本規範」は憲法にいかなる内容を吹き込むのか、
といった疑問を感じざるを得ない。

C説は、ハート流の考え方である。
これは、憲法典は「確認のルール」の一つであり、ある法体系における右ルールの最高規範性は、その体系内では、いかなる権威によっても定立されることはない、とみる。
となると、妥当性を最終的に与えるのは、人々がかく実践している(ルールに基づいて活動している)、という事態の確認しか残されていない。
その確認のためのルールを「究極の確認のルール」という([47]参照)。

ところが、この説に対しては、実践または慣習という事態から、なぜ究極の確認のルールが生まれるか、とか、「事実から規範は生じない」とする批判が必ず提起される。
しかし、この批判は決定的ではあり得ない(この点については、[41]を見よ)。
右見解は、視点の置き方(内的視点に立つか、外的視点に立つか)によって、「究極の確認のルール」が事実でもあり規範でもあるとみながら、「事実/規範」の峻別を克服する試みなのである(図2参照)。

[95] (三)本書は憲法典の最高規範性を「究極の確認のルール」にとっての手段たる点に求める


このように、憲法典自身の妥当性問題を一挙に解明する理論は今日のところ存在しないといってよい。
今日存在する諸理論のうち、最も説得的であるのは、経験論的な次のような思考であろう。

憲法典が、他の法に対するよりも大きな尊敬を払われて然るべき「最高」の法と位置づけられている論拠は、歴史的・経験的に説明できるだけであって、同一体系内に属する他のルールよりも高次の実体的価値を内在していることによる訳ではない(ルールをルール足らしめている高次のルールを同一体系内で求めようとすることは、無限に遡源する無益な行動となる)。
憲法典は、何が法と正義であるかを自らの中で定義する訳ではなく、最小限の正義と法を守るための手段を創り出す手段にとどまる。すなわち、憲法典は、持続的行為の自由な遂行の中で人々が受容しているという事態の中に出現した別のルールを可視化するための人為的ルールである。その別のルールが「究極の確認のルール」である。
以上の①、②から、憲法典の最高法規性は、それ独自の高次の積極的な価値を内容に組み込んでいることに淵源を持つのではなく、「究極の確認のルール」にとっての手段的な価値の故にもたらされる。
憲法典は、統治権力担当者が恣意に基づく統治に従事することのないように、いわば権力を両サイドから統制する手段である。憲法典は、統治権力担当者の為す不正義を排除するためには、どのような統治構造であればよいか、どこまで統治機関が行為できるか等を指示する設計図である(「憲法典は統治制度の目的意識的な整序規定」とみたり(小嶋和司)、「憲法は組織のルールであって正義に適うルールではない」とする見解(ハイエク)は、こうした観点に立って始めてよく理解できる)。

図1 ケルゼンの法の動態分析(省略)

図2 ハートの法の見方(省略)


■第二節 国法の諸形式


[96] (一)法は成文法源と不文法源とから成る


法源とは、通常、法の存在形式、すなわち、公権的解釈・適用に当って依拠できるルールをいう(法哲学上では、法源をもって、法が妥当するための根拠を指すこともある)。
近代国家においては、法は、一般性・抽象性・平等普遍性をもつばかりでなく、公知のものとされて事前に予知可能でなければならない。
これが「法の支配」の要請とされて、法は成文化されてきた。
しかしながら、ルールは全て言葉で語り尽くされるものではない。
国法の法源としては、成文法源のほかに不文法源が存在せざるを得ない。

[97] (ニ)不文法源としては、通常、慣習法、判例、条理が挙げられる


(ア) 慣習と慣習法


慣習とは、人々が長期間反復継続する実践の中から、行為の評価基準として人々の間で受容されたものをいう(もっとも、反復継続という事実の集積から、評価基準がどうやって生まれるか、謎である。本書は [41] においてその解を示した)。
すべての慣習が法ではなく、それが社会の規範意識または法的確信によって支持されたものが慣習法となる、と通常いわれる(因みに、本書は、この通常の説明に満足しない。慣習が法となるのは、二次ルールを通して「この社会では、これこれがルールとなっている」と確認されるからである)。
我が国では、慣習が法律と同一の効力をもつには、公序良俗に反しないこと、法令によって承認されること、または、法令に規定なき事項に関すること、が要件とされる(法令二条)。
憲法習律や慣習憲法が、法源であるか否かについては、論争の的となる。
これについては、憲法の変遷論([149]~[154])においてふれる。

(イ) 判例


判例とは、広義には、繰り返される同旨の裁判例をいい、狭義には、司法的判断の基礎となっている重要な法的推論部分をいう。
先例拘束力が付与されて法源となり得るのは、ratio deciendi(レイシオ・デシダンダイ)とも呼ばれる狭義の意味でのそれである(ratio decidendi を除く部分は obiter dictum [傍論] と呼ばれ、先例拘束性をもたない)。
それは、具体的事件解決に当って文脈ごとに示されるにとどまる。
しかしながら、それは、個別の文脈を超えた、法が通常有すべき一般的妥当性の宣言でもある。
具体的紛争解決で示された裁判所の判断は、あるルールの体系内で普遍化可能であるよう論拠づけられねばならない([421]をみよ)。
司法的判断の重要な法的推論部分は、一般性・抽象性・平等普遍性という法の属性を有するが故に、法源性が肯定されるべきである。
また、法は等しき状況にある人には等しく適用されるべきこと、法は明文化され尽くされることはなく、開かれた構造をもっており、その部分は裁判所の裁量に委ねられざるを得ないとはいえ、その裁量部分といえども、裁判所は常に合理的根拠を示して、恣意に流れないよう留意していること等を考慮した場合、判例の法源性は肯定されるべきである。

ところが、我が国の通説・実務は、先例拘束性を否定する。
その理由は、我が国が制定法主義を採用していることを主な理由として、「事実上の先例拘束性」しかない、という。
しかし、「事実上の拘束力をもつ」という意味は、茫漠としたものがある。
拘束力を承認することは、単なる事実問題ではなく、規範的要素を含意しているはずである。

(ウ) 条理


条理とは、事物の本質をいうとされる。
それが、ときに、広義には自然法を、実定法上では、公共の福祉、公序良俗、信義誠実という不確定概念で表されることがある。
条理は、法解釈技術としては、法の欠缺の際の解釈基準であって、法源の一つであるといわれる。

正義全体を言葉で表せないのと同様に、条理の意義を積極的に浮かび上がらせることは不可能である。
それは、文脈ごとに不条理なものを排除しながら、少しずつ可視化されて明示されるだけである。
条理は、個別的に可視化されたものの中に姿を現すにとどまる。
裁判所によって可視化された部分は法源となるといってよいが、他の不可視の部分は、法源とは言い難く、いわば一次ルールにとどまるといわざるを得ない。

[98] (三)成文法源とは憲法典その他の実定法をいう


(a) 憲法典および憲法改正された条規


憲法改正規定は、「変更のルール」を憲法典内に組み入れ、改正権限を有する者が定められた手続に従って改正すれば、新たな条規は憲法典の一部として妥当する旨を明らかにしたものである。
だからこそ、改正規定を通して変更された条規は、憲法典の一部として組み込まれるのである。
改正部分の置かれる位置については、憲法典本体の後ろに付加して、改正前の条文をそのままにしておくアメリカ方式と、改正部分を本体に組み入れて被改正部分に取って代える方式とがある。
我が国の場合、いずれでなければならないか、憲法典が明確に指示していない。
おそらく、我が国のこれまでの立法技術からすれば、後者が選択されるであろう。

(b) 法律


法律とは、立法機関によって制定される法の形式をいう。
国民の権利義務に関する創設的規制は、法律の排他的所管とされる(これが、いわゆる「法規概念」である。これについては、第二部第六章第三節の [300] 以下において憲法41条を論ずる際にふれる)。
また、国家の基本的な統治組織、選挙制度も、憲法典の規定によって、法律事項とされることが多い。
立憲主義的憲法典は、統治の基本構造を憲法典で定めながら、その細目を憲法典の委任によって、法律事項とするのが通例だからである。

(c) 予算


これについては、国会の財政決定権の箇所(第二部第六章第八節の [340] 以下)で説明する。

(d) 政令


政令とは、内閣が制定する法の形式をいう。
その所管は、日本国憲法73条に示されている。

(e) 総理府令・省令


総理府令・省令とは、行政機関が制定する法の形式をいう。
総理府令とは、総理府の長としての内閣総理大臣が制定するものを、省令とは、省の長としての主任の国務大臣が、制定するものをいう。
これらの所管は、法律または政令の実施であり、その効力は、法律および政令に劣る。

(f) 規則


これについては、議院規則制定権の箇所([365]以下)、最高裁判所規則制定権の箇所([493]以下)でふれる。

(g) 条例


条例とは、地方公共団体に憲法上認められている自治権に基づいて制定される自主立法をいう。
先の (a) ないし (f) が国の法形式であるのに対し、条例は、地方公共団体の法であるものの、憲法典によって国家内の法として承認されているからこそ、国法の一類型として言及される。
条例の所管および効力等については、地方自治の章でふれる。

■第三節 国際法と憲法


[99] (一)国際法は条約と国際慣習法から成る


従来、国際法とは、国家間の合意に基づいて、国家間の関係を規律する法をいうとされた。
しかしながら、今日では。国家以外の存在(国際連合、国際機構等国際法主体)をも含めた法関係をも含めて用いられている。
その国際法は条約と国際慣習法からなる。

条約とは、国際法上の主体間の合意によって成立し、国際的権利義務関係を形成変更せしめる一切の成文法をいう。
その名称は「条約」、「憲章」、「協定」その他いかなるものであってもよい。

日本国憲法98条2項は、不文の国際法たる国際慣習法について「確立された国際法規」と表現している(ドイツ基本法25条にいう「国際法の一般的諸原則は連邦法の構成部分である」という場合の「国際法の一般的諸原則」も国際慣習法を指す)。
一般に国際慣習法とは、国際的な慣習のうち法的確信に至ったものをいうとされる。
「確立」されているためには、明示的な合意を要するわけではないが、第一に、当該国家が明示的に異議を唱えていないこと、第二に、慣習の成立する地域内に属していることが必要である。

[100] (二)国際法と憲法との関係については一元論と二元論との対立がみられる


最終的審判・執行機関を欠いている国際法は、厳密には、法ではないという見解もみられるものの、今日の圧倒的多数の論者は、これを法の一形式と捉えている。
国際法が法であるとした場合、それと国内法との関係をどうみるかに関して、ケルゼン=トリーペル論争以来、一元論と二元論との二説が対立してきた。

まずA説(ケルゼンに代表される一元論)は、国際法と国内法とが、共通の法的妥当根拠のうえに一つの体系を形成している、とする。
確かに、国際法は国家に適用されるようにみえるものの、それは国家を擬人的にみる誤りのせいであって、実は、両者ともに、個人に適用される、と同見解はみるのである。
ただ、国際法が個人に適用されるためには、憲法を中心とした国内法による補完を必要とするに過ぎない。
その補完のやり方が国によって違うため、適用の範囲等に違いをもたらすものの、その違いといえども、一つの体系を形成している一つの上位法(根本規範)によって生み出されたものである、とこの一元論はみる。

これに対してB説(二元論)は、両者が法体系を異にしているとする。
国際法は国家の行為を規制し、国内法は個人の行為を規制するものであり、しかも、それぞれの妥当性根拠を異にする別個独立のもの、と考えるからである。
この説によれば、国際法が国内法として妥当するためには、補完(「変型」)を当然に必要とすることになる。

こうした二説の対立が長く論議されてきたが、今日では、一元論、二元論という用法は論者によって様々で一定せず、その用語によらないほうがよい、とする見解もみられる。
憲法学が一元論・二元論という場合、それは、《憲法体制が条約を国内法に取り入れるに当って、如何なる手続を必要としているか》、を問うための用語である。
この意味での一元論・二元論のいずれの立場を採っているかは、各国の憲法体制(国内法)によって決せられる。

[101] (三)条約の国際法上の効力は国内法の射程外にある


国際法と国内法は、相互に独立する法体系である。
そのために、例えば、国家が国際法上の義務を履行しない場合であっても、国際法上は、当該国家に対する国家責任の追及(原状回復、金銭賠償、陳謝等)という形となり、国内法上は、その責任を当該国家の憲法体系に従って調整するという形となる。
この意味で、条約の国際法上の効力は、国際法によって決せられるのである。
従って、憲法典の規定と抵触するとしても、原則的には、その国際法上の効力に異同はない(有効である)。
そのことを、1969年の「条約法に関するウィーン条約」は、次のように規定している。
「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない」(27条)、
「いずれの国も、条約に拘束されることについての同意が条約を締結する権能に関する国内法の規定に違反して表明されたという事実を、当該同意を無効とする根拠として援用することができない」(46条)。

我が国は、同条約を昭和56年に批准した。
条約締結手続違反の場合の効力については、国会の条約承認権の箇所(第二部第六章第五節の [323] 以下)でふれるが、同条約は、あくまで「無効とする根拠として国内法を援用できない」との表現にとどめている点には留意を要する。

[102] (四)一元論的・二元論的のいずれにでるかは憲法体系によって決定される


従来の一元論・二元論の対立は、法に関する妥当根拠をどうみるかという基本的思考の差を反映するものであって、憲法学上論争されてきた条約優位かそれとも憲法優位かという視点(現実の適用における優位性問題)とは、無関係と考えたい(憲法優位か否かの論争については、[106] で論ずる)。
憲法優位か否かの論争は、両者の妥当根拠にかかわるものではなく、実定的な法が国内において現実に適用される際の効力関係をめぐるものだからである(これまで我が国の学説は、二元論を採用すれば、条約と憲法の抵触問題を云々する必要がなく、一元論に立って初めて「国際法優位/国内法優位」が問われることになる、としてきた。例えば、佐藤・30頁参照。ところが、憲法学の領域でいう「一元論的/二元論的」というのは、先に触れたように、実定憲法体系が条約を国内法に取り入れるに当って、如何なる手続を必要としているか、という違いを指す。この意味での一元的・二元的のどちらの立場を採るかは、各国の国内法体系(憲法規範と憲法慣習)によって決められるのである)。

[103] (五)条約が国内法上の効力をもつためには変型を要するか


先に述べたように、条約の国際法上の効力は国際法によって決せられる。
これに対して、条約が国内に取り入れられ国内法上効力をもつためには、国家による「変型または補完」(transformation)を必要とするか、それとも、条約という形のままで国内に取り入れられて(incorporateされて)国内法上効力をもつのか(当然のことながら、国内法的措置を必要とする条約は論外である)。

その解答は、先に示したように、憲法体系が条約の国内法上の効力につき、どう定めているかに懸かっている。
比較法的にみると、条約を国内に取り入れるタイプには三つある。
【表8】条約の国内への取り入れの三つのタイプ
イギリス型  = 条約を実施する法律を制定する型
ドイツ型    = 「条約法律」を制定する型
アメリカ型  = 一般的受容型

第一は、条約は国内法的効力を有さず、国内に取り入れるためには、変型を必要とするとするタイプ(イギリス型)である。
これによれば、条約を国内法に取り込むには、条約を実施する法律の制定が必要とされる。
この変型は、国王大権としての条約締結権と、議会権限としての国内法制定権とを調整するという意味をもつ。
第二は、条約は、条約法律(Vertragsgesetz)という形式に変型されて、国内法上効力を有するとされるタイプ(ドイツ型)である。
このタイプのもとでは、条約の国内法的効力の淵源は、条約法律に求められる。
第三は、条約が、憲法体系によって一般的に国内に組み入れられて国内法上効力を有するとされるタイプ(アメリカ型)である。

なお、国家によるいずれの受容をも必要としない条約を、「自動執行的条約」(self-executory treaty)と呼ぶ。
その例として、私人の権利義務に関して詳細な内容をもつ著作権保護条約が挙げられるが、自動執行的か否かの厳密な客観的判断基準があるわけではない。

[104] (六)日本国憲法は一般的受容型に属するものと解される


さて、我が憲法体系は、右のタイプのうちいずれを採用しているか。
我が憲法典は、この点、明示的規定を欠いており、従って、その解決は解釈に委ねられることになる。
学説および実務は、我が憲法体系がアメリカ型を採用しているとするA説(一般的受容説または一元論的立場)に拠っているものの、その理由は一様ではない。

A説のうち、A1説は、日本国憲法全体が国際協調主義の精神を一貫させ、「「最高法規」の章にある98条2項において条約の誠実な遵守を謳っていることを根拠として、一般的受容を肯定する。
しかしながら、「最高法規」とは、国限りで制定施行される自国の法のうち、最高の効力をもつ、との意味にとどまる。
また、98条2項自体、余りに概括的であって、他国にみられるような国内法上の効力に明示的に言及する規定とは本質的に異なる(例えば、ドイツ基本法25条は「国際法の一般原則は、連邦法の構成部分である。それは、法律に優先し、連邦領域の住民に対して直接、権利および義務を生じさせる」と規定している)。
以上より、A1説は妥当ではない。

同じく一般的受容を説くA2説は、大日本帝国憲法下の慣習憲法として、公布された条約が国内法上の効力ありとされてきたことを重視する。
そのうえで、現行憲法典が国際法の誠実遵守義務を謳い、7条1号において条約の公布を定めている以上、旧憲法と同様、条約を一般的に国内法に受容する趣旨に出たものと解する。
基本的には、このA2説が妥当である(なお、A2説に立つ佐藤・31頁は、明治憲法下の慣行のほか、現憲法に至って国会による民主的コントロールが可能となったこと、98条2項が国際法の誠実遵守義務を謳っていること、をその論拠として挙げている。このうち、「国会による民主的コントロール」論は、実は、次の二元論的立場の論拠ともなること、その正確な法的意義も定かではないことを考えた場合([318]参照)、論拠として脆弱である)。

これに対して、条約が国内に取り込まれるためには、国内法上の効力を付与するための「変型」を経なければならない、とするB説(イギリス型または二元論的立場)もあり得る。
この場合、「変型」を要するとの根拠は、国会の条約承認手続規定(73条2号)に求められることになる。
しかし、条約承認権規定は、後にふれるように、内閣の条約締結権限に対する国会の「阻止する権限」を意味するのであって、これらを「変型」を要するとの根拠とするには無理がある(承認権が「阻止する権限」であることについては、[325] 参照)。

[105] (七)条約の国内法上の効力の程度も国内法によって決せられる


条約が国内法に取り入れられた場合、その国内法上の効力は、憲法や法律に優位するか。
この点は、各国の憲法体系を中心とする国内法によって決せられており、それを比較法的にみると、次のように類型化できる。

【表9】憲法と、国内に取り入れられた条約との効力についての捉え方
「憲法優位説」
「条約優位説」
折衷説
(1) 一定事項につき「条約優位説」、その他について憲法典は明示していない
(2) 一定事項につき「条約優位説」、その他については「憲法優位説」
(3) 憲法の根本規範部分は条約に優位、憲法律的部分は条約と同位または下位

第一は、法律と同等の効力を認める国(アメリカ、ベルギー。イギリスでは、条約を法律によって変型して国内効力を持たせるのであるから、その法律は他の法律と同等の効力を持つ。また、ドイツでは条約法律によって国内的に受容されるのであるから、条約法律は他の法律と同等となる)。
第二は、法律に優位する効力を認める国(フランス、スペイン)。
第三は、憲法と同等の効力を認める国(オーストリア)。
第四は、憲法に優位する効力を認める国(オランダ)。

では、我が国はどのタイプであるか。
我が国では、一般に、法律と条約の効力関係については、憲法98条2項の条約遵守義務や、条約締結に国会の承認を要するとされていることを理由に、法律に優先するといわれるが、それらは決定的でない。
この点は、国家間の法的秩序の安定性を維持するためには、法律を超える効力が望まれることにその理由を求めるべきであろう。

なお、一般的に受容された国際法が国内法としてそのまま適用・執行されるか否かは、一律に論ずることは出来ないが、国家に対して、一義的に「△△したはならない」と義務づける国際法は、国内法として直接に適用されることがある。

[106] (八)日本国憲法は条約の国内法上の効力を憲法に劣ると位置づけているものと解される


条約と憲法との国内法的効力につき、いずれが優位すると理解すべきか。
この効力問題は、国内法において最高法規たる憲法によって決定される(換言すれば、いわゆる「一元説/二元説」の対立が効力問題を決定するわけではない)。

では、日本国憲法のスタンス如何。
日本国憲法には、条約の効力に関して述べる規定はなく、解釈に委ねられている。

この点は、我が国で憲法優位説(A説)か、条約優位説(B説)か、という形で長く争われてきた(この呼称は誤導的である。ここでの論争は、条約と憲法典との一般的な効力関係を問うものではなく、国内法に取り込まれた条約が現実の適用において憲法典正文を破るか否かにある。この点に配慮して、小嶋和司は「条約適用承認説/条約適用否認説」に二分している)。

通説たるA説(清宮Ⅰ・450頁に代表される「憲法優位説」)の論拠はほぼ次の通りである(括弧内は、その論拠に対する疑問点を示す)。
98条1項にいわれているように、憲法典が「国の最高法規」である以上、憲法典に抵触する条約の国内法的効力は、憲法典に劣る(しかしながら、「国の最高法規」でいう「国の」とは「一国限りでつくられた法の内」という趣旨であり、だからこそ、98条1項は条約に言及していないのである)。
条約の締結・承認手続は憲法改正手続より簡単である。
憲法改正手続を加重している日本国憲法において、条約によって憲法秩序に変更が加えられ得ると理解することは不合理である(しかし、これは、憲法優位の法状態が簡単に変更されてはならないという結論をもって理由づけとする論に過ぎない)。
条約が憲法典上の条約締結権能および国会の承認によって成立に至るものである以上、条約に憲法優位の効力を認めることは、法論理的に不可能である(ところが、条約締結権が「憲法典上の権限」であっても、「憲法典内で為されるべきであって、憲法典に違反し得ない」との命題は、論理必然というわけではなく、憲法典違反条約であっても憲法秩序として組み込むと謳う外国の憲法典の例もある。この点は、日本国憲法が、憲法典違反的条約の締結を許容する規定を欠くことによって、裏から、「条約締結は憲法典内で為されるべし」と語っているものと解される。さお、国会の条約承認権規定は、手続規定(締結への消極的な参与)であって効力のあり方を決定しない。もっとも、承認権を手続規定であるとしてよいかどうかについては、論争のあるところである。この点は、条約承認権の箇所でふれる)。

これに対してB説(宮沢コメ・818頁に代表される「条約優位説」)は、国際協調主義を謳う98条2項の精神からして、また、条約締結が国内法の次元を超える法創設行為であることからして、国内法たる憲法典によって制限を加えることは出来ない、とする。
ところが、この説には、条約の国際法上の効力と国内法上の効力との混同がみられるばかりでなく、国際協調主義という抽象的な大原則から結論を出そうとする性急さがみられ、精密な議論とは言い難い。

以上のような学説に対して、折衷説的な立場であるC説もみられる。
もっとも、C説も一様ではなく、次のような分岐がみられる。
C1説 「確立された国際法規」や、それを成文化した条約や、一国の意思では定め得ない事項に関する条約(例えば降伏や領土の変更)は、憲法より優位し、それ以外の条約の国内法的効力について憲法典は何ら明示していない、と解する立場(小嶋・144頁)。
C2説 憲法より優位する領域についてはC1説と同じであるが、その他については、「憲法優位説」と同様の論拠にでる立場(佐藤・32頁)。
C3説 憲法のうちの根本的規範部分は条約に優位し、根本規範意外の部分(憲法律的部分)は、憲法の国際協調主義に照らして、条約と同位または下位にある、とみる立場(小林(下)・836~8頁)。

本書は、基本的には、C2説が妥当であると考える。
なお、「確立された国際法規」とは、ジェノサイドの禁止や奴隷貿易の禁止のように、普遍的に通用するに至った国際慣習法をいう。

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最終更新:2013年03月18日 15:33