第五章 立憲主義の展開

阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)   第一部 国家と憲法の基礎理論    第五章 立憲主義の展開 p.71以下

<目次>

■第一節 近代立憲主義の特質


[76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ


近代国家は、
(ア) 統治権力を独占し、集中的な、しかも恒常的な租税体系を基礎とし、
(イ) 中央より指導される常備的軍事力をもち、
(ウ) 行政を専門的官僚の支配という形で組織し、
(エ) 統治領域以外は、社会の自動調整システムが機能するように最小限しか干渉しない、
という特徴を示してきた。

近代立憲主義は、[74]でふれた「法の支配」思想のもとで近代国家の統治権力を形式的な合法的権威に転化させるべく、一般性・抽象性・平等普遍性を満たす立法の制定と、そのもとでの行政。司法という定式を憲法典で実現した。
そうすることによって、リヴェイアサンともなりうる国家から、自由を中心とする基本権を守ろうとした。
すなわち、 近代立憲主義とは、基本権保障と権力分立という内容を、正式の法文書という形式で確認する思想 をいう。
それは、先に述べた 「配分原理」と「組織技術」(分立技術)とを、成文憲法典で確認すること と同義である([53]参照)。

[77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である


しかし、それだけではない。
近代立憲主義国家においては、統治者が法に対する責任を負うことばかりでなく、政治的にも被治者に対して責任を負うことをも、謳われなければならない。
これを「 責任政治の原則 」という。
責任政治の原則を具体化するものとしては、大臣責任制、そのための弾劾制度、その後に登場した内閣不信任制度(内閣の連帯責任制)がある。
また、何よりも、選挙制度が忘れられてはならない。
もっとも、これらの責任政治のための制度が、現実の統治過程で有効に機能するとは限らない。
現代立憲国家に登場してきた政党は、責任政治を実質化するために「反応よき統治」(responsive government)を目指すのである。

[78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった


では、近代立憲主義は国民の政治参加についてどう見ていたか。
この点に関しては、一方で、近代立憲主義は民主主義と結びついて国民の政治参加に肯定的であったとする見解(芦部『憲法講義ノートⅠ』28頁)と、他方で、近代立憲主義は積極的な国民の政治参加に好意的ではなく、自動制御装置的政治機構を望んだとする見解がある(佐藤幸治編著『憲法Ⅰ』15頁)。
そのうちのどちらが妥当であるか。

その解答はどの国を念頭に置くか、誰の理論をモデルとするかによって、当然異なってくる。
概していえば、理念上は積極的な政治参加が説かれながらも、いざそれを現実に法制化する段になると、統治者たちは慎重な態度に出た。
その理由を理解するためには、近代立憲主義の拠って立つ理念上の人間観・国家観と、現実のそれとの乖離が解明されなければならない。

■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観


[79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた


市民社会は、私的所有または自由意思の主体たる個人の集合体と考えられた。
個人の私的領域の総計が社会的領域と観念されたのである(この見方が、本書の冒頭の [1] でふれた「方法論的集団主義」の典型である)。
「私的領域」とは、いかなる領域をいうか。
また、それをどう評価するか、という争点は、そこに生きる人間への見方によって変動する。

近代立憲主義は、身分制の桎梏から解放された、自由で独立した合理的・理性的個人を想定した。
それは、個々人の示す事実上の違いを捨象した抽象的な人(人格)として捉えられた。
この人間観の発生には、キリスト教、なかでも改革派の説いた、内心または道徳の内面・絶対性、法の外面・形式性という考えが大きく影響している。
中世にあっては、「神の法→自然法→人間の法」という序列が「信仰→(信仰を通して発見される)理性→(理性を具現する法による)利害関心の調整」という序列に対応していたのである。
ところが、宗教改革後、信仰の内面性または多様性が承認された段階で、その対応関係は消滅し、人間社会の利害関心の調整は「(人間に自然に備わっている)理性によって発見される自然法による統制」や「自然法による人為法の統制」という、人の内面とは別個の規準に委ねられるものと再構成された。
その際の基軸は、《人は道徳的で人格的な理性的存在だ》という、人間存在の特質に求められた。

こうした歴史的展開の影響のもとで、人間の合理的で自由な意思を信奉する近代合理主義哲学を基礎として、法学は、「私的領域」を、理性的、道徳的存在としての個人の精神的集合体であると想定してきた。
自然法、自然権思想を支える人間観は、これと無縁ではない。
国家以前の自然状態における個人は、まさにこのような存在として仮定されたのであった。
例えば、ロックの社会契約論は、理性的な決定を為し得る、没社会的な神人同型の個人を前提としていた。

[80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている


近代市民法または伝統的法学は、こうした人間観に立って、「公的領域/私的領域」の峻別を説いてきた([4]参照)。
そして、私的領域について国家の不介入や「自由放任」があたかも自明であるかのように扱ってきた。
近代立憲主義国家が消極国家である、といわれてきたのは、こうした意味あいを込めてのことである。
しかしながら、消極的国家または夜警国家のもとですら、国家は、一方で、社会・個人の一定領域を保護してきたのが現実であり(その領域に関してオフ・ハンドでいたことは決してなく)、他方で、権力組織としてその領域を浸食する主体でもあった。
その意味で、個人的領域と政治的領域との分離といわれる場合でも、その分離は、国家内に存在し、国家によって維持されるのである。
その個人的領域は、法のもとでの自由の意味であって、法の欠如でもなければ、「自由放任」でもなかった([54]参照)。
また、「公的(公権力の)領域/私的(市民社会の)領域」という二分法も、社会のある部分をときに「公的」と呼び、経済市場をときに「私的」と呼ぶに至った段階で、相互の浸潤現象を否定しさることも出来ずに、次第に通用力を失っていく。
それは、人間の本性への見方の変容を反映してもいる。

[81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった


楽観的人間観に立つ近代立憲主義、なかでも大陸のそれは、国王の権力を制限するための諸理論と手段を発見したものの、人民による「自己統治」(または国民の意思から発するとされる主権)を制約する手段を見出してはいなかった。
有効な制約手段がないために、近代立憲主義は、制憲権を国民の意思の発動とみながら、理念的な国民主権([127]でふれる正当性原理としての国民主権)を説く一方で、実際の統治に当っては、民意を遮断するための諸メカニズム(例えば、代表制、二院制、間接選挙制等)を考案したのである。
さらに、オリュー、デュギーの如く、論者によっては、主権概念自体を否定するものすらみられるのも([8]参照)、主権を統制するものを解明できなかったからである。
近代立憲主義は、人間の本性に対する楽観的な信頼の上に成立していた。

[82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる


近代立憲主義を支えた啓蒙思想は、政治または権力とは異なる次元に属するところの理性(またはそれを客観的に具現する正義(イウス))のもとに、政治的利害関心や抗争を従属させ、統制しようとしてきた。
当時、理性は、自然、人、社会を律する客観的な秩序を意味していた。
理性の主体である人は、秩序づけられたこの世界にスッポリと違和感なく収まりきる存在であった。
個々人は、その事実上の違いを捨象されて、普遍的に「人格」として捉えられた。
ところが、国民国家の枠組みが顕著となるにつれて、制度的支えのない普遍的人格を語ることの限界が、G. ヘーゲルによって鋭く突かれた。
人を人格として超越論的に扱うだけでは済まなくなったのである。
この時点で、近代啓蒙思想体系は、一度、打ち砕かれることとなった。

国家と市民社会のなかで生きていく人々の本質的特徴は、行動すること、他者と共同して生活すること、労働すること、消費することにある。
人格として存在することではないのである。

そうなると、法的地位、生産能力、消費量等々、個々人はそれぞれに異なっていることに気づかれてくる。
近代立憲主義の想定する人間観は通用性を失って、再検討を迫られたのである。
こうした再検討のなかで出てくるのが「 現代立憲主義 」である。
近代立憲主義が中世立憲主義とは異質な様相をもって登場したと同じように、現代立憲主義は近代立憲主義を否定する中で誕生したのである。
現代の憲法理論が近代啓蒙の時代に安閑と依拠してはおれない理由は、ここにある。

■第三節 「現代立憲主義」へ


[83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である


19世紀後半以降のマルクス主義と労働者階級の勃興は、近代合理主義哲学が説いてきた意思中心主義、個人(主体)主義への反省を迫った。
それは具体的には、
個人的意思の集積の結果、実体として出現するといわれる一般意思への批判と、それを支える社会契約論への批判(これらは階級対立を隠す)、
社会に存在する中間団体の見直し、
人々の身分・利害の多様性と、法の多元性との承認
という方向として表れる。
この方向は、人間存在や法の見方のみならず、国家の見方までの変更を思想家に迫らざるを得なかった。

近代国家を法的に統制しようとして出てきた近代立憲主義は、この変容を一部取り込みながらもその根幹を維持しようとするが、様々な課題・矛盾を背負い込んで、様々な変更を余儀なくされる。
[11] でふれた「現代国家」の実相に応じて変容されてきつつある立憲主義を「 現代立憲主義 」という。

[84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る


「現代立憲主義」は、理性的でもあるが、同時に、私利私欲をもった経済的に合理的な人間像を反映したものとなってくる。
この時点で、客観的な秩序を意味していた理性は、目的に対する手段の適合性を判断する主観的能力を意味するものに確実に変わった。
それは、道徳的実践理性よりも、道具的理性を優先させる人間像への転換を承認することでもあった。
中でも「現代立憲主義」は、個々人の置かれた具体的な生活の状況を考慮しながら、経済的自由市場がもたらす経済上の恐怖や脅迫から市民を「自由」にすべく、国家による非干渉経済を一部断念するのである。
国家の市場介入を容認するために、「弱肉強食」という根拠のない表現が乱発された。

[85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える


現代国家は、人間の私利私欲から発生する弊害を予防または除去し、各人の生存に配慮するために、「公共政策」の名のもとに、財・サーヴィスの供給者、規制者、創造者(企業家)、またさらには審判者として、「社会的領域」に進出し、各人が幸福となるための条件を各人に約束し始める([11]をみよ)。
それが、「社会的法治国家」、「 積極国家 」または「 福祉国家 」と通称される国家である。
それは、既にふれたフランス啓蒙思想の影響である([54]での【N. B. 9】参照)。

現代国家は、権力組織としての顔と、実質的平等・実体的正義の実現や、さらには結果の平等までをも意識して国民の生存を配慮することなどといった高次の目的にも仕える二つの顔をもつ(現代国家の特徴については、[11]でふれた)。
こうした変化は、自由権のうちでも経済的自由権を変質させて相対化し、人権論のなかでは、象徴的(スローガン風)に、「自由権から社会権へ」といわれ、国家論のなかでは、「夜警国家から社会(福祉)国家へ」といわれる中にみられる。
なかでも、その国家における行政の特徴は、生存配慮のために為される社会保障行政に表れる。

[86] (四)福祉国家は「隷従への道」?


片や権力を独占し、片や各人に幸福を約束するという二つの顔をもつ国家の統治は、余剰権力を発生させ、パターナリズムのもとで、各人の自由領域に干渉し、ほとんど全ての領域を政治領域としそうな勢いを示している。
それは、あるいは我々が既にハイエクの最も警戒する「隷従への道」を歩んでいることを示唆しているのかも知れない。
なぜなら、不平等を是正して幸福を各人にもたらすために提唱される「分配的正義」(社会保障に代表される所得再分配)は、国家が人々の置かれる位置まで決定し監視せざるを得なくさせるからである。
そのための国家権限は、我々が自由な営為のなかで獲得した地位をパターン付き社会に適合させるべく、我々の為すべきことまで決定する権限ともなろう。

こうした危機を目前にして、ハイエクは、「法の支配は、配分的正義を排除する」といい、Th. ローウィは、明確な基準を欠く所得再分配(福祉行政)は、官僚と一定集団とが癒着する利益集団自由主義を生むといい、M. フリードマンは、財産権の侵害であるといい、R. ノージックは「道徳的に正当化され得ない国家となる」という。
この病理に対処するために、全ての行政活動に法律の留保を求める「全部留保説」が唱えられるものの、それは、かえって社会領域の政治化を呼ぶばかりでなく、無数の委任立法に拠らざるを得ないこととなろう。

配分的正義を実現するために説かれてきた「現代立憲主義」国家像は、かくて、脆弱な姿を露呈することになる(その最も強力な擁護論は、すぐ後にふれるJ. ロールズの政治哲学であるが、それとても弱点がない訳ではない)。

[87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである


「自由」とは、強制の加えられることのない状況下で、各人が各人の望むところを各自の知識に従って追求するチャンスを与えられていることである。
知識の程度と範囲は人によって異なり、その活用の程度もまた各人の機会が異なるために、違ってこざるを得ない。
その結果、各自の生み出すもの、獲得するものに相違が出てくるのも当然である(「生産」と「分配」は対応する)。

「自由」は、「機会の平等」とは両立するものの、生産と分配との区別を前提とする「結果の平等」とは両立しない。
となれば、「自由」を尊重することは、結果の平等を志向する福祉国家理念とは、基本的に、相容れないばかりであんく、結果を予め計画して、それへの邁進を目指す共産主義とも対立する(この点については『憲法理論Ⅱ』 [135]~[137]、『憲法理論Ⅲ』 [415]~[416] をみよ)。
自由主義のもとでは、成果を発生させる過程での各人の努力は、国家によって評価されてはならないのである。

[88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか


代表機関としての議会に信頼を寄せた近代立憲主義に対して、「現代立憲主義」は、不断に活動する執政府に頼らざるを得なくなる。
執政府は、法令の執行に携わるだけでなく、委任立法に従事し、さらには、国家の基本政策の形成・実行・検証のみならず、社会領域における自動調整システムの機能不全に対処すべく、計画・統制へと乗り出してくる。
それは、それだけの自由裁量的権限と機構とを備える「行政国家」への変質を意味する(古典的な意味での「行政国家」とは、執政権行使が司法裁判所の統制から除外される国家を指した)。

ところが、「自らが公共善とみなすものに専ら関わる効率的な専門行政官が、自由に対する最大の脅威となる」(ハイエク)。
その脅威を最小化するために、執政府活動に対する司法的統制が期待されてくる。
「司法国家」への変質の要請である。
その際、執政府の活動も通常裁判所の判断に服するという「法の支配」理念が再び強調されることになる。
また、議会が、法律で独立行政委員会を設置するのも、執政府を統制するための対応である(後述の[405]参照)。

しかしながら、肥大する執政府を前にして、議会や司法がその統制に成功しているとは思われない。
特に補助金の交付にみられる資金助成行政は、特定目的をもって、特定人(法人を含む)を対象として為される私的・個別的契約であると理論構成されるために、一般的抽象的ルールのもとに執政府を置こうとする近代立憲主義または法の支配の思想から大きく逸脱する。
近時、ノージックのように、福祉国家観に正面から反対する自由尊重主義者が夜警国家への回帰を提唱しているのは、この点を真剣に懸念しているからである。

[89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある


ノージックは、各人が「獲得、移転または匡正」という経緯を通して得た物(自らが作り出した物、他人から譲渡されて得た物、そして他人からの賠償によって得た物)は各人の物であって、各人はそれに対して正当な権原(entitlement=自然権としての資格)を有し、何人もそれを侵さないことが正義である、という(権原の正義論または経緯の正義論。巻末の人名解説をみよ)。
この正義論は、正義や人権を達成されるべき国家目標とみないで、国家権力を制約する原理(横から制約する原理)と考えている点に特徴がある。
権原の正義論は、彼のいう最小限国家、つまり警察国家だけを正当とし、彼のいう拡張国家、つまり福祉国家を道徳的に正当とはしない。
なぜなら、拡張国家は、所得再配分によって個人の「権原」を侵害するからである。

以上のようなノージックの理論は、すこぶる評判が悪い。
例えば、「大きな権原」(持てる者)と「小さな権原」(持たざる者)との差は、権力関係を反映したものとなって、自発的な獲得・移転等といわれるものを歪めるのではないか、さらには、貧富の差をさらに拡大し、いわゆる「社会的正義」に反しないか、と強い批判に晒されている。
彼の理論からすれば、自由尊重主義は、必然的に、自由経済体制(資本主義)擁護のための理論となることになろうが、巨大法人(組織)によって支配されたように見える市場システムの評価の仕方によって、その理論の是非が決定されよう(「市場/組織」の二分法がどこまで通用するか疑問である)。
その是非はともかく、ノージック理論は現代国家の実態に対して痛烈な批判となっている。

[90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている


ロールズの国家観は、最近の政治哲学のうちでも、最も強い影響力を各方面に与えてきている(巻末の人名解説をみよ)。
彼の理論は、ノージックとは正反対に、自由と平等(なかでも「結果の平等」)との調整が可能であることを説きながら、国家による所得再分配を、「公正としての正義」の名のもとで、次のような思考順序で正当とする理論である。

合理的に思考し、行動できる人々であれば、個々人でいるよりも社会を形成して協働による利益を増加させるほうが善いと考えるであろう。
しかし、誰もがフリー・ライダー(ただ乗りする人)に成りたいと考えるに違いない。すなわち、彼らの中で利害が対立するのは、社会的協働に必要な費用の分配と、社会的協働の成果である利益をどのように分配したら良いか、という点である。
そこで、各自の置かれた状況についても、選択の結果についても、誰も何も知らない「無知のヴェール」のもとに万人が置かれたと仮定しよう。そのもとでは、万人は最悪の選択が最善となる(予想される損失を最小化する maximin rule のもとで)、次の原理を選ぶであろう。

正義の第一原理 》=各人は、万人のための同様の自由の体系と両立する限りで、平等な基本的自由の最も広範な全体系に対する平等な権利を有すべきである、とする原理( 最大の平等な自由の原理 )。
正義の第ニ原理 》=社会的および経済的不平等は、次の二条件を満たした場合にのみ許されるとする原理。
第一に、不平等は地位や役職に付随したものでなければならないこと( 機会の平等 )、
第二に、不平等は社会構成員のうち最も恵まれない人にとって最大の利益となるべきであること( 格差原理 )。

以上の原理には、第一に自由を、第二に機会の平等を、第三に格差原理を、という優先順位が想定されている。

[91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない


このロールズの見解に対しては、「無知のヴェール」のもとで人々が二つの正義原理を選択するという保証があるか、余りに理念的な人間像を前提としていないか(「記憶喪失の哲学」と批判される理由はそこにある)、といった疑問が残る。
彼の哲学は、非経験的な知によって人間の本性を把握しようとする超越論的哲学から離れようとしながらも、その枠内にとどまっている。
政治哲学の出発点は、現実的なありのままの人間でなければならないはずである。

ありのままの人間から法や国家をみるという視点は、スコットランドの啓蒙知の伝統にみられる。
その知によれば、共に自由に生きたいという一般の人々の願望を実現するために、一般的・抽象的ルールを提供し維持することこそ、国家の存在理由なのである([28]参照)。

確かに、現代立憲国家は、近代立憲国家における「社会」がもたらしたといわれる様々な弊害を、人為的で個別的なルールによって除去し、「社会的正義」を実現しようとして登場した。
しかしながら、社会は、一般的・抽象的ルールのもとで各人が自由に行為するよう保障した結果として自生的に登場する秩序である、と考えるのが正しい。
その秩序に対して「社会が責任を持たなければならない」と主張することはナンセンスである。
「正義」なる観念は人間の行為についてのみ問われなければならない。
社会は、個々人の自由な営為の結果として生まれ出た秩序であって《主体ではない》のである。

「社会的正義」の名のもとで、巨大な官僚の監視機構を背景にして、強制的に所得再分配をしようとする国家こそ、社会的正義を破壊しているのである。
これこそが、現代立憲主義国家の病理である。
その病理は、国家が個人の私的領域に介入する「国家の社会化」に現れるだけでなく、利益の分配を巡って利益集団が政治過程へと深く侵入する「社会の国家化」によって、さらに深刻化する。
近代立憲主義を人間の意図(設計主義)によって修正し、「社会的正義」を追求し実現しようとする「現代立憲主義」には大きな期待はかけられない。

[92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む


現代国家の病理はそれだけではない。
大量殺人兵器の登場、秘密事項で武装された軍隊の存在は、国内国外の平和をいかに実現するか、「開かれた政府」をいかにして貫徹するか、という問題を「現代立憲主義」に突きつけて久しい。
これに対応すべく諸国家は、侵略戦争の放棄を憲法典上で謳い、民主的統治の理念に立って情報公開制度を実現しつつある。

なかでも、「現代立憲主義」は、20世紀になって、政治と軍隊との関係(civil-military relations=軍政関係または民軍関係)について、具体的な解決策を迫られる。
というのは、政治が、軍隊という機能集団を管理する専門技術・知識・装置を修得すべしとされて以来、法制度上、専門職業的将校団を看過するとなれば、軍隊こそ典型的な暴力機構であるだけに、国民の自由やときには民主制にとって最大の危機と成り得るからである。

専門職業的将校団を、法的に有効に統制しようとする試みが、 文民の優勢の体制 (civilian control=一般には「文民統制」と訳出されている)である。
もっとも、文民統制なる用語も極めて多義的である。
それは広義には、非軍人を意味する文民の政治的指導によって軍隊を効果的に管理することをいう。
その広義の文民統制のもとでは、将校団は軍事面だけの専門的知識を文民たる政治家に助言するにとどまるよう、政治的中立の枠内に閉じ込められる(「政治家が戦争目的を決定し、軍隊は戦争に勝利することを目的とする」といわれる)。

狭義の文民統制とは、軍隊の最高司令官が非軍人であることを指す(これに対して、日本国憲法にいう「文民統制」は、特異な内容と狙いを持つ。通常いわれる「文民統制」は、広義であれ、狭義であれ、軍隊または将校団の存在を所与のものとして、それをいかに有効に管理するかのやり方を示した。ところが、正規軍を持たないはずの日本国憲法にあっては、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と定められているため、その趣旨を巡って論争されることになる。この点は周知のように、文民とは、職業軍人の経歴を持たない者をいうとする説、職業軍人の経歴を有し、しかも強い軍国主義思想の持ち主である者以外をいうとする説の二説が対立していた。ところが、自衛隊が設置されて以降、文民とは現役軍人以外の者をいうとする説が登場するに至る)。

こうした努力にも係わらず、主権国家の独立性や平和の確保が最終的には武力によってもたらされる、という冷厳な国際政治の現実は、これまでと同様、不動のようにみえる。
この現実を前に、現代立憲主義が、「平和国家」や「開かれた政府」に向かいつつあるか否か、定かではない。
軍事秘密によって武装されて肥大する軍隊をみれば、夜警国家が最小国家である、とは必ずしも言い得ないのである。

現代国家の病理は国家機構の肥大に象徴的に現れるが、その病巣は政策遂行のために使用される手段にある。
それが、無数の、個別立法ともいうべき、無数の人為法の制定である。

現代立憲主義は、「社会的正義」を即効的にもたらそうと、ときに、所得の再分配のための立法、ときに、需給調整のための立法、ときに、「社会的弱者保護」のための立法等々、望ましい社会秩序実現のための法制定を「公益」の美名のもとで要請してきた。
そればかりでなく、無数の個別立法をきめ細かくし執行するための行政機関の肥大をもたらしてきた。

実は、「社会的正義」、「公益」なる抽象的概念に客観的判定基準はない。
また、現実の政治過程での最終決定因は、正義という理念ではなく、利得である。
そのために、利益集団が民主主義過程に食い込み、一般性・抽象性・平等普遍性という法の属性から自分だけ免除するよう求めてくるのである。
それは、自由経済体制がもたらす「市場の失敗」よりも、是正困難な「政策立案過程での失敗、立法の失敗、執行の失敗」をもたらさずには置かないのである。

【表7】「現代立憲主義」の課題
実体的正義または「社会的正義」を実現すること
肥大化してきた執政府活動を司法的に統制したり、「開かれた政府」を実現すること
軍隊に対する文民優位の体制を確立すること。

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