阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)

<目次>

※本文途中の【N. B.】とは、「よく注意せよ」(nota bene)の意味であり、多義的に用いられる字句の解説や、ちょっとした注意事項を書き入れた部分となっている。


■第一部 国家と憲法の基礎理論


第一章 国家とその法的把握

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第一章 国家とその法的把握 p.3以下

<目次>

■第一節 国家論の変転


[1] (一)国家の見方には二つある


国家に対する社会科学的なアプローチは、大きく分けて、二つある(事実の記述によって国家の諸モデルを追究する歴史的方法は、ここでは論じない。人間の知的・道徳的行為は自然史には属さない)。
一つは、「方法論的個人主義」といわれるものである。
これは、[23]以下でふれる社会契約論にみられるごとく、国家(そして社会その他の制度)の本質を、その構成員の個別の意思や行動から、分析するやり方である。
この立場によれば、個々人を動かしている主観的要素は、国家・社会を分析するうえでの不可欠のデータであって、この分析なき理論は空論として忌避される(『憲法理論Ⅱ』[9]をも参照)。
他の一つは、「方法論的集団主義」とでもいうものであって、社会的集合体の行為や意思自体も、個人のそれと同じように客観的に理解可能とみて、個々人の主観とは独立に存在する集団の行為や意思を認識対象としながら、その本質の分析に従事するやり方である。
大陸における国家の法学・政治学的分析は、主にこれによった。

以下に述べる国家論の主流は、方法論的集団主義の典型である。

[2] (ニ)歴史上まず絶対主義国家論が登場した


国家は、16世紀に生まれた。
それは、「絶対主義国家」と呼ばれる国家であった。
絶対主義国家の最初の理論体系化は、フランスにおいてはJ. ボダン(1529~96)によって、イギリスにおいてはT. ホッブズ(1588~1679)によって為された(巻末の人名解説をみよ)。

絶対主義とは、君主の権威が、いかなる権威または機関によっても拘束されない政治システムをいう。
絶対主義国家においては、国家の主権は君主の人格に体現され、それは、すべての法の源泉であり、一切の法に優越し最高である、と説かれた。
ボダンは主権を定義して「国家の市民および臣民に対する最高、絶対、恒久の権力である」と述べた。
主権のなかでも、彼が最も重視したものが、立法権であった。
法は、君主の意思であり、何の拘束をも受けるはずのないものであった(この発想に法実証主義の萌芽が既にみられる)。

絶対主義の行き着く先は、君主と国家との同一視であり、それは王権神授説によって頂点に達した。
神授権説は、神聖ローマ帝国の権勢の衰退のなかで、君主が法王と同じ権力を獲得するための試みとして前面に押し出された(例えば、戴冠式において、君主が聖油によって聖別され、可死の神とされるための儀式は、17世紀の中葉でピークに達した)。
もっとも、絶対的権力といわれている君主権といえども、臣民に慈愛と正義をもって対すべし、とする神の法の制約下に置かれるのが通例であった。
絶対主義国家は、ギルドや封建領主、地縁団体等の中間団体を否定しながら、中世封建社会から近代国家への過渡期に現れ、常備軍、徴税制度等に支えられていった。
中間団体を解体することによって国家は、権力のメタ機構となりえたのである。
なかでも、君主の権力が強大になるにつれ、統治活動の多くが一群の専門的集団によって担われるようになる。
それが、後世にいう大臣助言制、内閣制や官僚制となっていく(これらの制度が整備され、統治を実際に担当し始めると、君主は名目的な存在となっていく。絶対君主制によって生み出された大臣助言制等が、逆に、君主権限を削減することとなるのは、歴史の皮肉であろう。大臣助言制については、後の[200]でふれる)。

合理的官僚制という国家装置によって支配や一定のサーヴィス提供が為される段階に至った国家を、「近代国家」という。
「近代国家」は、市民革命前に(イギリスにおいては17世紀、フランスにおいては18世紀に)成立をみた。
近代国家は、神のもとに服し、共同体に所属しながら生活する人々を、宗教的、身分的に解放することによって成立した。
それは、物理的手段と、技術的な行政手段とを、教会、領主その他の地方組織の任務から排除して、自らのものとして出来上がった(ウェーバー著、浜島朗訳『権力と支配』11、263頁以下参照)。
この近代国家は、従来の従属・連帯という社会形態から個人を解放したのである。
ここに、国家と対立して、自立する個人という概念が成立した。
この個々人がさらに成熟して作りあげた社会を後に「市民社会」というのである([4]参照)。

[3] (三)続いて立憲国家論が登場する


近代国家の成立を理論的に解明し、正当化しようとしたのが、啓蒙期の社会契約論である。
この理論は、「神による社会の設立」というこれまでの理論に代えて、宗教的権力から解放された国民(民族)国家の成立を合理的に説明しようとしたのである。

社会契約論によれば、契約によって樹立された国家と個人的自由とは調和・両立するものとみられた。
なぜなら、社会契約締結主体は、能動的市民、すなわち、公民(シトワイアン)であり、彼らによって樹立された社会が市民社会であり、「国民国家」であったからである。
社会契約理論は、国家樹立の目的は公共善の実現にある、と説いたアリストテレス以来の、西洋の伝統的国家観の影響を示している。

この伝統を抜け出て、「市民社会」に関する新たな見方を体系化したのが、A. スミス(1723~94)であった。
彼は、脱宗教化によって成立した政治社会を、さらに脱政治化することによって、経済社会としての「市民社会」という、別個の領域を作り上げた。
彼がイメージする「市民社会」は、政治的な契約によってではなく、経済的な市場によって自己調整される領域を指した。
このスミスの理論によって、個人の権利を擁護する政治的自由主義哲学と、市場において発生する秩序を信奉する経済的自由主義とが、初めて、結びついたのである。

この国民国家が constitution によって統制されるに至った段階のものを、「立憲国家」という(「国制」については、後の[29]以下でふれる)。
立憲国家とは、統治権力から各人の「自由」を擁護するための統治上のルールを持っている近代国家をいう(そのための憲法の具体的内容については、[76]~[77]でふれる)。
立憲国家論は、18世紀の産物である。
その理論は、絶対主義国家が余りにも不可能な前提(一人の意思の絶対性と国家との同一視)に立脚していたことの反省に基づいて、近代国家を法的に合理化しようとするところから生じた。
神の如き君主は、現実には存在せず、君主の意思が人民の利益に一致しないことが判明したのである。

もっとも、立憲国家の理論的起源となると、それは中世に遡る。
中世から18世紀を通して、暗黙かつ不文の慣習が、統治者の行動様式を制約するよう組み込まれている、と考えられていた。
H. ブラクトン(?~1268)やE. クック(1552~1634)等の思想家たちは、その慣習全体をもって、基本法 fundamental law であると主張した。
また、H. ボーリングブルク(1678~1751)のような理論家は、国民の歴史から確定されるはずの実体的な原理として、「太古からの憲法」 (ancient constitution) が存在してきた、とも主張した(この主張が、第四章の [64] 以下でふれる「立憲主義」または「法の支配」の思想となる)。

[4] (四)立憲国家は個人の倫理的自律領域を尊重する国家である


立憲国家は、「国家/市民社会」という峻別論に立っていた。
この二分法は、国家も社会も集団であることを前提としつつ、それぞれを規律する法体系が異質であるとみるからこそ成立するのである。
前者を規律する法が公法と呼ばれ、後者のそれが私法と呼ばれた。
ここから、「国家(政治社会)/市民社会」は「公的領域/私的領域」または「政治的領域(【N. B. 1】参照)/私的領域」と相互互換的に用いられることになる。

【N. B. 1】「政治」の意義の歴史的変転について。
古典的意義における「政治」とは、自由で平等な人間の間から成る共同社会での、一定のルールを共有する支配・服従関係を指した。
その後、中世ヨーロッパの絶対主義時代には、政治とは、支配する者が何らの拘束も受けずに、臣民を命令支配することであると観念された。
G. イェリネック(1885~1913)のいう「公権力とは、命令権であって、それは、それ自体の実力によって存在する」とか、E. エスマン(1848~1913)のいう「国家主権は、他に優越する権力を認めない」とする思考は、絶対主義的思考の残滓であり、政治の本質を国家による命令支配権に求めているのである。
これに対して、中世の根本法優位の思想、それを発展させた「法の支配」は、古典的意義における政治を意識しつつ、政治を再び法共同体における支配被支配関係として捉え直そうとするのである(この点については、第四章の「法の支配」において再論する)。

18世紀以降、資本主義という経済活動を中心に展開される「社会」的領域が登場するに至る。
そこでいう「社会」とは、身分制的拘束から解放された原子的諸個人の集合体として捉えられた。
この「社会」は、契約を自由に締結する主体が単位となって構成される集団であって、組織規律を異にするもう一つの集団たる国家と厳密に区別された。
これが、古典的自由主義者のいう「国家/社会」の二分論である。

これに対して、社会学という研究分野が登場して以来、国家は社会のサブシステムと位置づけられてくる。
なかでも、マルクス主義思想においては、利己心によって支えられた市民(ブルジョア)社会での競争が、政治のあり方を決定するものと想定され、政治は経済的権力関係を集約するものと考えられるに至る。
この思考が、政治を法共同体とは異質な次元へと移行させたのである。
それ以降、政治概念の独自性を求めて様々な理論が提唱され、その一例がR. ダール(1915~)の「政治とは、コントロール、影響、権力等を含む人間関係の持続的パターン」とする定義である。
この定義は、政治を社会関係にまで拡散するために、国家と国民との関係を中心とした政治概念から遠ざかっていく。

今日では、政治の意義を、①国家と国民との関係から捉えること、②自由人からなる共同社会における、ルールに基づいた全体利益に係わる権力活動であること、を視座にして捉えようと試みられている(なお、[402]をみよ)。

右にいう「市民社会」の意味するところは、論者によって一様ではないが、主には、絶対主義国家の打倒の後に出現した、個人の生命、自由および所有に対する個人の権利を尊重する社会を指す(なお、「市民」の様々な意義については、後掲【N. B. 2】を参照)。
市民社会とは、絶対政国家から解放された市民生活の領域と考えられた。
それには、まず第一に、ブルジョアジーが教会の正統主義に対して戦い取ったその自律性、第二に、封建的・絶対主義的支配に対して個人主義的自由が含まれていた。
このことから、市民社会とは、教会および国家の権威から解放された市民の生活領域を言い表したのである。
見方を変えていえば、市民社会とは、平等かつ自由な経済主体の交換市場である。
そこでのエートスは、自分自身とその財産について、各人が自己決定し自己責任を負うことである。
そのことが可能となるには、諸個人の法律上の自由と平等が保障されなければならなかった。
これに基づいて、諸個人は、強権的干渉によって妨げられることのない、完全な契約の自由によってお互いに交易し、かつ自分自身の私有財産を自由に処分することができるようになったのである(ヘーゲル=マルクス主義者にとって市民社会は、特定階級の不自由と不平等によって特徴づけられる階級社会である。彼らは、非難を込めて、市民社会を「ブルジョア社会」と呼ぶ)。

立憲国家論において、権力の制限のために援用された思想が「公的(国家)領域/私的(市民社会)領域」の分離論であった。
国家は、組織規律を異にする私的領域に侵入することなかれ、というわけである。
そこでいう「私的領域」は、道徳的存在としての人間に保障されるべき自律(倫理的自律)領域と同義であった。
道徳的で理性的な個人の自由な意思によって自律的に法律関係を形成できることが「私的自治」と呼ばれた。

[5] (五)立憲国家は経済的自律を尊重する「夜警国家」となる


19世紀後半に入ると、A. スミス(1723~90)、D. リカード(1772~1823)等の国民経済学派の説いた経済市場での自律的法則性に影響されて、「私的自治」に経済的な意味合いが吹き込まれ、これによって近代立憲国家観も変容した。
これが、F. ラッサール(1825~64)が揶揄の意味を込めて名付けた「夜警国家」観である。
その国家観のもと、こういわれた。
近代立憲国家においては、個々人の活動領域全体の秩序は、「市民社会」の自律的展開に委ね、他方、「国家」の政治的領域は、夜警機能(軍事、警察、および司法事務)に限定されるべし。

この「夜警国家」観は、経済的な力の自由な展開を認めれば、正しい社会秩序が必然的に現れる、とする「古典的自由主義」思想の産物である。
この時点で、もともとは倫理的な意味合いをもっていた「私的自治」が、個人の自由意思による私法関係の形成という「契約自由の原則」と相互互換的に用いられていくのである。
その思想は、当然に、私的所有の不可侵性を説いた。

[6] (六)立憲国家は階級国家となるとする主張がでてきた


これに対して、G. ヘーゲル(1770~1831)にとっては、市民社会は経済社会であり、欲望の体系であった。
市民社会を基礎づけるものは、労働にほかならなかった。
労働によって、主体は客体となり、意識は物に外化されて相互行為となりうるからである。
相互行為として、相互に承認されるためには、普遍的原理が必要となる。
その原理を、市民社会の外から与えるのが、国家である。

この理論によって、市民社会の公共善や合意によって政治社会(国家)を正当化するヨーロッパ的伝統(一元的思考)は断ち切られ、その断絶はK. マルクス(1818~83)の哲学において絶頂に達した。
彼らの影響のもとにある論者にとって、「私的」とは、利己的、手段合理的、戦略的と同義であった。
この見方は、必然的に、私的自治のみならず、自由経済体制の批判となる。

彼らによれば、立憲国家とは、なるほど人であれば当然に普遍的に有する権利を保障しようとする国家であるが、実際にその権利を実定法化する際には、政治的権力関係を反映して、その中心的関心を当時勃興しつつあった市民(【N. B. 2】参照)層の権利・利益の擁護に置く国家であった。
これを「階級国家」と呼ぶ。
「国家/市民社会」の峻別論も、一面では、階級国家の実現に奉仕する結果となった。
憲法典は、普遍的な価値を目指すようでありながら、個別的な利益を擁護する、アンビヴァレントな目的をも、もっていたのである。

【N. B. 2】「市民」の三つの用法について。
18世紀中葉までの古典的用法では、「市民」とは公的・政治的能力を有する有徳の人=公民を意味した。
それをもとにいう「市民社会」とは、国家という政治的支配形式と同義であった。
19世紀初頭には、別の新用法が現れた。
そこでいう「市民」とは、自由、平等な私人、つまり、所有者としても相互に独立した存在を意味した。
自由・独立の市民の集団たる、「市民社会」とは、政治的支配を排除した「脱政治・脱国家的領域」をいう、と観念された。
19世紀後半からマルクス主義の影響を受けて、さらに第三の用法が登場する。
それによれば、市民とは有産階級をいう。
従って、「市民社会」とは、資本と労働の対立に基礎をおく社会を意味することになる。
このマルクス主義的用法に決定的な影響を与えたのが、ヘーゲル哲学であった。
彼のいうブルジョアとは、自分のためと家族のために労働し契約を結ぶ私人を指し、シトワイアンとは、万民のために働く公民を指す。

[7] (七)近代立憲国家は「契約から身分へ」の転換を迫られる


マルクスは、これまでの公法・政治理論が国家を集団と捉えてきた流れとは違って、国家を支配機構と捉える独特の視点に立った。
彼の主張の是非はさておき、その影響力は計り知れないものがあった。

近代立憲国家の憲法典は、人の類型として「市民(シトワイアン、シティズン)」、「臣民(シュジェ、サブジェクト)」、そして「外国人」しか知らなかった。
ところが、マルクス主義の勃興以降の憲法典は、各人の置かれた人的条件を意味する「身分」(estate)という類型を意識し始め、その身分を強行法規によって保護しようとしてくる。

その身分の一例が、労働者という範疇である。
現代法は、個人の意思による法形成という大前提を崩すことなく、労働者と使用者の関係を法的規律に服せしめようとする。
この現象はときに「契約から身分へ」と表される(これは、いうまでもなくH. メインの「身分から契約へ」という公式を逆転させたものであるが、今日いわれる「身分」とは、生まれによって決定されている個人的要素を指すのではなく、個人が自由意思によって入った法関係内での地位をいう)。
この段階に至った国家を、これまでの近代立憲国家と区別して、「現代立憲国家」と呼ぶ(現代立憲主義については、[83]~[92]でふれる)。

[8] (八)国家を社会的制度の一つとみて公役務国家観を説く立場も登場した


現代立憲国家観が成熟するまでに、様々な国家観が提唱された。

国家が、もし、一般意思を体現し、個人の主観的権利を統合する存在であれば、国家に対立するものは何もないはずである。
この矛盾を回避するために、主権概念には言及されなくなっていった。
その祖は、社会分業論で有名なE. デュルケームであった。
その影響のもとで、フランスにおいて、L. デュギー(1859~1928)は、国家の人格および主権という二つの概念を否定し、さらに、権利概念および公権力概念をも形而上学的産物に過ぎないとして否定し、次のように主張した。
18世紀の法律家たちは、国家を人格化して、国家なる人格が命令権をもつとか、その意思によって法が創造されるといった、有害無益な形而上学的理論を構築した。
ところが、国家を命令権の主体として説く理論は、死滅しなければならない。
国家は客観法に従って作られた制度であり、統治者はその制度のなかで、援助、教育等の社会的連帯を推進するために公役務に従事する作為義務を負う。
国家はもはや主権的権力ではなく、公共的役務を創造し管理するために権力を使用する個人の集団である。
以上のデュギーの国家観と似ているのがM. オリュウ(1856~1929)のそれである。
彼は、国家を一個の主権団体と扱わないで、公共役務機能を果たす諸制度(組織)の一つとみて、法人格としての国家の有する公権力(命令権)を、公法上の要素とは考えないのである。

これらの立場は、国家の命令権を国家の本質とはみない興味深い把握の仕方をみせる。
ところがそれは、個人だけを思考の基礎とする「方法論的個人主義」に徹したために、かえって国家の本質を見逃した。
そればかりでなく、社会の連帯を強調したために、民族主義的な連帯感情を刺激して危険な帰結をもたらしたのである。
公法から権力の観念を除いて「管理」を説き、公法の基礎として統治者の社会的機能(公共役務)だけを据え置く思考は、失敗する運命にあった。
その理論は、万人に対して、公共役務に相応しい義務を押し付け、公法の体系を義務の体系へと変質させた。
そればかりでなく、公共役務の増加は、皮肉にも、納税者の責務と統治者の権力を増加させるばかりである。
統治者の行為は権力作用ではなく「管理行為」であると説明しても解決にはならなかったのである。

デュギー、オリュウの時代は、サン・シモン(1760~1825)やA. コント(1798~1857)に代表されるように、フランス特有の科学主義の蔓延した時代であった。
彼らは、個々の科学(実証主義)的知識に期待して、形而上学的道徳に代わる実証主義的道徳のもとで、支配に代わる管理という公共役務を計画・設計する制度(組織)としての国家を夢想したのである。
しかし、国家という機構は、技術者の手による計画・設計のもとに置いて捉えきれるものではなかった。

[9] (九)多元的国家論は社会集団を出発点とした


右のフランスの国家論が、フランスの思想家としては珍しく個人を出発点としたのに対して、20世紀イギリスに登場した多元的国家論は、政治過程に噴出した多様な利益集団こそ政治の重要な要素となって機能している現実を直視した。
そして、「個人 対 国家」という図式に代えて「社会集団 対 国家(政府)」を軸に、個人的自由の観念を再構成しようとした(イギリス的「方法論的集団主義」)。
H. ラスキ(1893~1950)を代表とする多元的国家論者は、権力が多くの集団に分散されればされるほど、各人はより自由となる、と考えた。
彼らは、国家といえども社会のなかに生成する集団の一つであって、主権的権力者ではないとみた。
多元的国家においては、全能で包括的な権威の唯一の源泉など存在しないのである。
この多元的国家論の目論見は、ボダン以来の国家の最高の命令権としての主権概念を否定して、国家の役割を、デュギーが主張したような、国家構成員の最高・最善の生活のための調整に限定しようとするところにあった。

もっとも、「社会集団/国家」でいう「国家」については、彼らの多くは、その正確な分析を示さなかった。
また、国家の限定的な調整役によって、多元的な利益が構成員全員にとっての利益となる、との証明も為されなかった。
一人が多数の社会集団に属していれば、権力は分散されて自由な国家がもたらされる、と信奉する多元論の楽観的立場は明白であった。
現実の多元的集団は、一般的・抽象的ルールから自分だけの免除を求める政治勢力となって、民主過程に進出し、自由を歪めてきたのである。

難点は、そればかりでない。
多元論者は、結社(集団)が、国家と同様に偏狭で、個人の自由にとって外在的抑圧者であることを軽視した。
多元論の前提には、人格的存在としての個人の集合体である結社は、同時に、人格的である、との想定が働いているように見受けられる。
ところが、現実の結社は、マフィアから圧力団体まで、多種多様であり、国家による規制の必要性の程度も一様ではない。
規制の必要な程度、対象を吟味しないまま、調整役としての国家を語るだけの理論の不十分さは、明白である(黒田覚「多元的国家論と政治概念」法学論叢31巻6号931頁)。

[10] (十)国家はどこまでも強制する国家である


我々は、アナーキー状態で共存することは出来ない。
かといって、資源も限られ、人々の利害も対立しているという現実を直視すれば、ユートピアの実現も簡単ではない。
アナーキー状態を回避し、少しでもユートピア社会に近づくために、国家には、国家構成員に対して強制しうる法力(統治権)が与えられる。
この統治権を有する国家は、他の社会集団と同質ではない。
なるほど国家の支配は、命令によって為されてはならない。
しかし、命令ではないからといって、国家は国家構成員の利害の調整という公役務を遂行するわけではない。
国家はあくまで国家であって、他者を強制する正当な権限を法的に独占している特殊な機構である。
C. シュミットが、政治的なるものの概念が国家の本質を成すとみたのも、こうした観点に出たからであった。

[11] (十一)「現代国家」は二つの顔をもつ


近代国家と対照されるものに「現代国家」と呼ばれるものがある。
現代国家の正確な性格づけについては、定見をみないものの
原子化したマス(大衆)を統合するための利益集団が政治過程に噴出している国家、中でも、政党によって指導されている国家、
財政・金融政策によって積極的に経済市場に介入している国家、
国民の所得再分配に関与する国家、
その活動量の増大に伴って、専門職業集団としての公務員が増大し、彼らによって為される政策立案が国家の基本方針を実質的に決定している国家
を指して言われているようである。

この現代国家は、権力組織としての顔と、実質的平等・実体的正義の実現や国民の生存配慮などといった高次の目的にも仕えようとする二つの顔をもつ。
こうした近代国家から現代国家への変化は、政党の憲法上の地位、福祉政策と自由との対立、官僚制の法的統制といった「現代立憲主義」に特有な課題を憲法学に背負い込ませることになる(政党については第12章を、現代立憲主義については [83]~[92] を参照)。

【表1】国家の展開
中世封建社会の崩壊  →(16世紀) 絶対主義国家の誕生  →(17~18世紀)近代国家へ  →(18世紀) 近代立憲国家  →(20世紀) 「現代立憲国家」
→(20世紀) 階級国家を超克せんとする「社会主義国家」


■第二節 国家の諸要素の法的地位


[12] (一)ドイツ国家学は「支配機構」としてよりも「団体」として国家を捉えた


国家(state)とは、もともと一元的な支配機構を意味した。
一元的な支配が「統治」と呼ばれた([402]もみよ)。
16~17世紀においては、重層的な封建支配システムを一元的機構にまとめあげた絶対君主の支配機構が国家であった。

これに対して、近代市民革命は支配機構の正当性の基礎を君主から国民に置き換えた。
後の [113]~[117] でみるフランスの国民主権論争は、国民による支配機構を正当化するための議論であった。

これに対して、市民革命の挫折を経験したドイツでは、君主と国民とを包み込む、独特の「団体としての国家概念」が打ち立てられた。
それ以来、機構として国家を捉えないで、国家を団体として抽象的に捉える国家学(方法論的集団主義)が隆盛を極めることになる(巻末の人名解説をみよ)。
G. イェリネック(1851~1911)の次のような国家法人説は、その頂点に位置する。

国家法人説は、国家を、①領土、②国民、③主権の三要素から成ると捉える。
国家法人説は、国家の三要素を羅列しているわけではなく、これらの関係を法的に統合して、法的団体としての国家の姿を解明しようとしたのである(これに対して、マルクス主義の国家観は、機構としての国家を視座にして、官僚制、警察、軍事機構から成る支配装置から国家を特徴づけようとした)。

以下の(ニ)~(四)において、まず国家の三要素の意義を検討して、その後に、次節の [16]~[19] において、それらを法的に統合するイェリネックを中心とする法的国家観を検討しよう。

[13] (ニ)国家が支配行為を展開する地域を領土という


国家はその存立のための地域を必要とする。
国家が支配行為を展開する地域を「領土」という。
その地域の法的意味は、他の支配を排除するという消極面と、その上に住む人々に支配権を及ぼすという積極面とに、分れる。
領土の上で行使される国家権力を「領土高権」という。

領土の範囲は、領有事実に対する黙示的承認または明示的合意たる条約によって定められる。
憲法典でこれを定めても、その範囲は国際法的に決定される事項であるために、無力である(我が国の場合、ポツダム宣言によって、その範囲は「本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラル」と決せられている)。

[14] (三)国家に所属する人間の全体を国民という


国家を成立せしめている構成員の総体を「国民」という。
国家に所属しその構成員となる国民は、国家権力の主体としての地位に立つ場合(主体としての国民、または、能動的な地位を占める国民)と、国家行為の対象となる場合(客体としての国民、または、義務の主体としての国民)とに分けられる。

絶対主義国家においては、国民は専ら後者の地位にあった。
近代立憲主義国家においては、国民は双方の地位を持つと同時に、基本権の主体ともなる。

国民となる資格(権利享有の基礎)を「国籍」という。
何人が国民となるかは国内法によって決せられる。
我が憲法も「国民たる要件は、法律でこれを定める」(10条)という(国籍の法的性質については、『憲法理論Ⅱ』 [148] でふれる)。

[15] (四)主権概念は歴史上さまざまな変転をみせる


団体としての国家は、始源的な意思力を持ち、対外的にはその意思の独立性を、対内的には、その意思の最高性を主張できるとされる。
こうした国家の独立・最高の法的支配権を「主権」(sovereignty)という。

もっとも、この国家の主権という概念が成立するまでに、sovereignty なる概念は、複雑な歴史的変転を示した。
その変転は次のごとくである。
(ア) 中世ヨーロッパにおいては、sovereignty とは、皇帝と法王の支配権のいずれが「優越的」か、という意味で用いられたり、第一の高位を有する全ての者の権威を表すものとして用いられたりした。
(イ) その後、国王が、片や、国内の封建諸侯のもつ支配権を統合し、片や、法王からの独立を勝ち取るなかで絶対主義国家が成立すると([2]参照)、主権は、高位者のうちでの第一の者、すなわち君主に関してのみ用いられるようになる。
この時点で、それは法王の支配権を否定するための防御的概念から、君主の支配権を支えるための権力的・攻撃的概念へと構成し直されるものの、それでもなお君主の権力の属性を表す概念にとどまった。
ところが主権なる用語は、やがて、君主の権力そのものを指すようになる。
その用法を初めて示したのが、J. ボダンの『国家論』六篇(1576年)である。
ボダンは「国外のあらゆるものは王を拘束しえず、・・・・・・国内のすべての権力は王からの派生物に過ぎない」と説き、①対外的な独立性、②対内的最高性のみならず、その③始源的性格にも言及した。
さらに主権の理論的体系化に当って参考にされたのが、ローマ法上のイムペリウム(imperium)、ドミニウム(dominium)という概念であった(【N. B. 3】参照)。
(ウ) 君主という一人格が有する命令権としての主権に対抗する形で、市民革命時に人民は、人民という一人格の有する主権概念を君主に叩きつけた。
ここにおいて、主権は国家内権力の源を問う概念となる。
それが、「国民主権」といわれる場合の用法である。
この場合の主権とは、通常は、全体としての国民の意思作用を指す。
その思考は、かつての君主という一人格の意思に代えて、国民という一人格の意思に据え代える単純な同型の理論であった。
(エ) さらには、19世紀後半になると、次節にふれるイェリネックの国家法人説のように、法人としての国家が有する権利をもって主権と捉える立場も登場する(この国家法人説は「方法論的集団主義」の結晶である)。

こうした歴史的変転を背景にして、主権なる用語は、次のように様々な意義を持つものとして用いられる。
伝統的または伝来的な支配権とは区別される、始源的な国家の法的支配権そのもの、または、意思力を指す場合。ときに、それは「国権」と呼ばれることもある。
国際社会における国の対外的独立性を指す場合。
法人としての国家が有する権利を総称する場合。これは「統治権」とも呼ばれる。
最終的支配意思の源を指す場合。これは、国家の統治のあり方を最終的に決定する力または権威が誰に帰属するか、を問う場合の用法である。
また、主権とは、具体的政治機関のうち、優越的な決定権をもつ機関を指す場合がある(イギリスに於いては、「議会主権」となっている、と言われる如し)。
右のうち、④ないし⑤の用法は、国家論において議論する主権概念とは異質である。

【N. B. 3】ローマ法上の概念と主権との関連性について。
権利と主権的権力という概念は、それぞれローマ法にいうドミニウム(個人の所有権)とイムペリウム(支配者の命令する絶対不可分の権利)から派生した。
ローマ法は、個人または団体の他者に対して強制する能力を、この二つの権利として形而上学的に構成したのだった。
この二つのローマ法上の概念は、13世紀にはほぼ姿を消していたにも拘らず、これらを復活させたのは、17世紀末のフランス君主制とそれに手を貸した法律家(今日いう法実証主義者)たちであった。
彼らは、国家を人格化して、その意思によって法が創造されるとか、国家なる人格が命令権をもつと説いた。
そして、国家なる人格は、君主という一人の人格に化体して体現される、と説かれた。
その思考のもとで、フランスにおいては、裁判権により全ての者に対し平和を保持する君主の権利(命令権)がイムペリウムの中心的要素であり、君主の領主権(領土所有権)がドミニウムであるとされた。
かくて18世紀には、主権とは君主の有する絶対不可分の命令権をいう、とする用法が定着したのである。
その後の近代国家においては、イムペリウムの発現形式が立法権、行政権、裁判権とされ、その実体はあくまで不可分の権利であるとされたのである。


■第三節 法的国家観


[16] (一)イェリネックは国家を権利主体としての社団と把握する


イェリネックの国家法人説は、右にみた領土、国民および主権という三要素を、権利主体としての国家という基軸のもとで相互に関連づけることに成功した(イェリネックは「この理論によってのみ国家の統一性、国家組織の統一性、意思の統一性も法学的に説明できる」と自負する)。
ではなぜ、国家は主体たりうるのか。
それを考察するために彼は事実の認識から始めて、規範的分析に至る方法をとる(方法ニ元論。また、[151]でふれるように、事実の反復から法が発生するとの彼の憲法変遷論もこれと軌を一にする)。

彼は、国家をまず社会学的に認識して、国家は「(構成員の服従を承認する意思によって)始源的な支配力を付与された、定住せる人間の団体統一体」とみる。
人々の意思関係を統一するもの、それが団体目的である(国家という団体の目的については、[26]~[28]でふれる)。
次に彼は、社会学的に把握された国家を法的に理論構成して、こういう。

法的に捉えられる国家は、統一的団体目的をもった権利主体としての社団(法人格を有する社団)であって、始源的な支配力を備えた定住せる国民の社団または始源的支配力を備えた領土社団である(なお、「始源的」とは、伝統的、伝来的と対比される、という意味である)。

以上のイェリネック理論は、擬人的発想に立って、国家とは一定目的のもとに組織された「人」、すなわち始源的支配権の主体たる「法人」であると捉え、その支配権が国家にとっては権利である、とする。
国家の個人に対する命令は、この権利の行使に他ならない。

[17] (ニ)国家法人説は「権利」と「権力」との区別を真剣に受けとめていない


国家を「権利」主体と構成することは、国際法上の技術的理解にとって、または、権利義務の帰属先を明確化する際には有用であろう。
しかし、国内法上、国家を擬人的に権利主体としながら、その権利が同時に「統治権力」となると説くことは、「権利」と「権力」との本質的違いを問わないことになろう。
権力の行使のなかに権利の行使をみるのは、大きな誤りである。

また、構成員の服従意思から始源的支配力を説くことは、ホッブズ流の無制限の国家を容認することとなる。
確かに、イェリネックは、ときに国家の自己拘束の理論から、またときに、人間の「人格的存在」という性質から、国家は無制約ではないことを説いた。
しかし、自己拘束は国家の恣意的意思に一方的に依存するに過ぎず、国家の本来的絶対万能性を前提とするものであり、また、「人格的存在」が何を意味するか明らかにされている訳ではない(「人格的存在」から説くイェリネックの公権論については、『憲法理論Ⅱ』 [91] でふれる)。

【表2】イェリネックの国家観
社会学的にみた国家  始源的支配力をもつ人的団体統一体
法的にみた国家    始源的支配力をもつ領土社団(法人)

[18] (三)国家法人説は技術的でもあり、イデオロギッシュでもある


国家法人説は、国家が支配の主体となり、その行為は機関によって遂行され、その効果は国家に帰属することを、法技術的に見事に解明した。
そればかりでなく、国家の最高権力(主権)は、国家内の最高権力(統治権)とは無関係であることを明らかにして、混同されやすい主権と統治権とを見事に峻別する。
すなわち、統治権は、国家の権利であるから分割可能であるのに対して、国家主権は単一不可分である、という理論が貫徹されているのである。

こうした明晰性をもつ彼の理論は、当時の時代状況を反映して、従来の保守的な君主主権論を基礎づける訳でもなく、当時のラディカルな国民主権論にも与しない、第三の中庸な国家論となっている。
彼は、国家の主権が、君主でもなく、国民でもなく、法人たる国家自体に帰属するということによって、君主または国民を国家内の一機関としてとどめたのである。
ところが、国家の主権を論ずる段となると、彼は国家支配権の本質的万能性を前面に出し、支配すること(始源的権力を有すること)が、国家を他の全ての権力から区別させる基準であるとみて、曰く。
「国家の本質は多数人の意思関係である。命令する人と、この命令に服従することを承認する人が国家の基礎を成す」(もっとも、近代国家においては、イェリネックにおいても、国家支配権は、後の [27] でふれる国家の目的からして、内在的に法的に秩序づけられている、と論じられている)。

[19] (四)ケルゼンは法秩序そのものを国家とみる


イェリネックの如くに多数人の服従意思によって国家を正当化することは、実は、「特定集団の意思・利益=国家」となり易いのではないか、とH. ケルゼン(1881~1973)には思えた(巻末の人名解説をみよ)。
また、彼にとって、事実から規範が生ずるとする方法二元論は実証主義哲学の前には、ありえないものと映った。
「当為は当為によってのみ、規範は規範によってのみ基礎づけられる」と考えるケルゼンは、そこで、従来の因果的国家論に代えて、規範的国家論を説く。
その成果が、国家を法秩序とみる規範的国家観である(彼の国家観については、後の [33] でふれる)。

なるほど、規範による政治権力の統制を目指すことは、理解しうるとしても、当為がなぜ当為を正当化するのか、ケルゼン理論には謎が多い。
彼のいう法実証主義も、根本規範も、それへの解答となりうるとは思われない。
彼の理論は、現実に支配する国家を、規範の名で正当化してしまうイデオロギッシュな理論となる危険性すら孕んでいる(根本規範については、後の [94] でふれる)。
国家は、法の支配を維持するための機構であって、それ自体が法秩序である、という命題によって国家の本質が解明されることはない(J. マリタン著、久保正幡=稲垣良典訳『人間と国家』37頁参照)。


■第四節 国家の正当化論(何ゆえに各人が国家を承認し、国家に服従するのか)


[20] (一)国家の存在とその正当化理由は常に論争されてきた


アリストテレスがその著書『政治学』において、共同体はいずれも共同善を実現するために設立されたと説いて以来、国家の目的に関する話題は、長く国家学の根本問題とされてきた。
ところが、ロマン主義によって、この問題の立て方が否定され、《国家は自己目的的である》といわれた段階から、国家学の課題から排除されてしまった。
憲法学が限定化されて、その対象から国家学や国法学が放擲されたのは、その為である。
我々は、国家の目的を考えることから再出発しなければならない。

国家とは、「一定の地域を基盤として、その所属員の包括的な共同目的の達成を目的に、固有の支配権によって統一された非限時的の団体である」といわれる(佐藤・54頁)。
確かに、国家に独特の標識は、支配権を合法的に独占していることにあるものの、「共同目的の達成」の内容の捉え方は、論者によって様々である。
また、国家を統一的な団体として、あたかも実体として実在するかのように把握することが正しいか否かについても、論者の間に鋭い対立がある。
右にみた国家の定義は、国家が実在する団体であり、法人である、という伝統的把握の仕方の名残を感じさせる。
国家は、実在する団体ではなく、様々な制度、団体、権限の組み合わせを抽象化した際に顕現する機構である。

こうした論争は、国家とは何か、その存在理由はどこにあるか、如何なる国家であれば正当化されるか、といった争点と不可分である。
これらの争点は、抽象的で取りとめもない議論へと我々を誘う。
そこで、論者によっては、国家について語ることを断念し、「政府(【N. B. 4】参照)」についてのみ考察すべきである、とする者もある。
しかしながら、国家と政府とは、同義ではない。
政府の変更が国家の変更とはならないことからしても、同義ではないことは直ぐに了知されよう。

【N. B. 4】「政府」の意義に関する三つのタイプについて。
政府(government)の意義については、三つの流れがある。
一つは、イギリスのそれであり、法律を誠実に執行する職務またはそのための組織体、すなわち、行政府を意味する。
これに対して、アメリカでは、政府とは、政治の舵取り役または公権力を指し、執政府のみならず、立法府および司法府をも含めた意味で用いられる。
ドイツやフランス等の大陸諸国でのそれは、概して、大統領制の場合のように、権力分立内での執政府に限定して用いられている。

なお、「内閣」と「政府」との区別については、[197]参照。

[21] (二)国家は常にその正当性を主張してきた


国家の国家たる本質は、既に [10] で述べたように、強制の権力手段を独占している点にある。
その権力手段は、政治権力と呼ばれることが多い。
このことから、「政治的」と「国家的」とがしばしば同義語として用いられる。

政治権力は、なまの実力であってはならない。
政治権力は、何らかの意味において、服従者の、権力への自覚的な承認であり、この承認なくしては、権力は単なる剥き出しの暴力となってしまう。
換言すれば、国家が政治権力の保持者であるためには、治者の権力プラス正当性を必要とする。
その正当性を、すべての歴史上の国家は求めてきた(ダンドレーブ『国家とは何か』参照)。
「実力を法に、恐怖を尊敬に、強制を同意に変形させる」ための理論が必要とされてきたのである。
力は権威を生み出さず、人は正当な権威にのみ従う義務を負うのである(ルソー)。

[22] (三)現代国家は「基礎をもたない支配システム」となりつつある


ところが、現代国家は、貨幣と官僚という手段合理性を重視するシステムによって規定され、その権力創出の源泉としての民衆のコンセンサスという基盤から不断に離脱していく傾向をみせている(「基礎をもたない支配システム」といわれる)。
一方で国民の脱政治化(私生活中心主義)が進み、他方で政治権力の自己目的化が進む中で、特に、現代国家の正当性が根本から問われなければならない。

[23] (四)国家の正当性を問う理論は次第に合理的なものとなっていく


歴史上、国家正当化論としては、次のような諸説がみられた。

宗教的・神学的基礎づけ(典型的には、王権神授説
これは、国家が神によって創られ、または神の摂理によって存在するものであり、従って、何人も神の命令により国家を承認し、その秩序に服する義務を負うとする立場である。
ところが、この見解は、神学の衰退とともに、その不合理な神秘性を露わにして、以後、影響力を失う。
実力説
これは、国家が強者による弱者の支配機構であると理解し、この支配関係は自然の法則によって基礎づけられたものである、とする。
この見解は、古くはソフィストたち(紀元前5世紀後半)によって信奉された。
近くは、マルクス、F. エンゲルス(1820~95)が「国家は全ての典型的時期において例外なく支配階級の国家であり、またあらゆる場合において本質的に被抑圧階級、被搾取階級を抑圧するための機関である」と述べたところに典型的に表れている。
ところが、こうした見解は、国家の否定的側面を強調するばかりであって、「実力説の実際的帰結は、国家を基礎づけることにはならず、国家の破壊に至る」であろう(イェリネック『一般国家学』156頁)。
家父長説
これは、国家を拡張された家族とみて、家父長としての君主が子としての臣民を正当に支配する、とする立場である(R. フィルマー(1588~1653)の『族父論』に代表される見解。M. ウェーバーは、この説を「伝統的支配」の原型と考えた)。
G. ヘーゲル(1770~1831)が理想とした人倫国家は、自然的愛情を基礎とする家族を範型にして説かれた。
人倫国家においては、慈愛あふれる君主が臣民を統治するのである。
契約説
これは、各人が国家の形成に合意したからこそ、その国家は正当であるとする意思中心の理論である。
プラトン(紀元前427~347)以来、人々は自由意思により不正行為から自らを守るために国家を形成した、と説かれてきた。
ところが、歴史的にまず前面に登場したのは、「契約によって生まれるのは、国家そのものではなく、王である」とする統治契約の考え方であった。
つまり、これは、王への服従契約を説くのである。
それが、ホッブズの理論として完成された。
彼の理論は、神秘的な王権神授説に代わって、支配者の権利のための合理的な論拠を見出すことを目的としていた。
これまでの政治理論が契約に先立つ社会集団としての人民を想定していたのに対して、彼の理論は、原子論的個人を出発点とした。
ここに、初めて、個人が国家と対面することになったのである。

これに対して、それ以降の契約論は、個々人(正確には、所有権主体である家長)の自由意思による合理的国家(市民の政治的統一体)の成立を説明すべく登場した。
まず、J. ロック(1632~1704)の社会契約論は、アダムの子孫たる我々の自由な合意によって国家が成立する、との聖書の解釈を前提とした(巻末の人名解説をみよ)。
そのうえで彼は、自然状態のなかで人々は完全に自由であるものの、様々な不都合があるために、その救済策として市民政府を合意によって作り上げる、と説いた。
その論証のために、彼は、「意思の一致→『契約は守られなければならない』という客観的当為(規範)→正当な服従義務」という公式を援用したのである。
ところが、この理論は、自然状態の不都合と国家の発生との論理的関係につき明晰さを欠くばかりでなく、人々の合意形成の実体に関しても曖昧なところを残したままである。
次に、J. ルソー(1712~78)の社会契約論は「契約によって一つの精神的で集合的な団体が成立する」との前提に立った(巻末の人名解説をみよ)。
「その団体は、この同じ行為から、その統一、・・・・・・その生命およびその意思を受けとる。このように、全ての人々の結合によって形成される
この公的人格は、かつては都市(シテ)という名前をもっていたが、今では共和国または政治体という名前をもっている」と説く(『社会契約論』第一編第六章)。
これは、政治的統一体の一般意思に各人の意思が含まれる故に正当であり、各人は自己を強制するだけである、故に、一般意思を脅威と感ずる必要もない、とする楽観論でもあり、集団意思中心主義の議論でもある。
彼の社会契約論は、正当な国家の成立と、自由の保障の必然性を見事に説いたかのようにみえる。
しかしながら、彼のいう社会契約は、服従契約でもあった。
すなわち、市民としての各人は、契約によって、共同体意思に参加するものの、同時に、臣民として共同体意思に服従するのである。
ルソーは、この二面性をディレンマとは考えなかったのである(この点は、I. カント(1724~1804)の理論も同型である。彼は、人民が原始的契約によって国家を構成し、これによって自己の自由を放棄するものの、即座にその自由を共同体すなわち国家の一構成員として受け取る、とナイーヴに考えている)。

現実の統治は、一般意思による統治ではない。
それでも、ルソーは、多数によって決せられる事態につき「私の意見に反対の意見が勝つときには、それは、私が間違っていたこと、私が一般意思だと思っていたものが、実はそうではなかった、ということを、証明しているに過ぎない」と解答するのみである(『社会契約論』第四編第二章)。
その解答は大胆すぎる。
「大多数の意思はあくまでも大多数の意思であって、『人民』の意思でないことは明白である。人民の意思は大多数の意思によっては到底『代表』され得ない積み木細工の如きもの」(J. シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義 [中巻]』509頁)と考える方が正しい。
何ら実体のない「集団的意思」や「集団精神」といった語の使用は、避けなければならない。
後にふれる人民(プープル)主権論は([108]参照)、その類の意思を基礎とするだけに脆弱である。

[24] (五)社会契約論が今日まで最も影響力をもってきている


以上の諸理論のうち、今日まで最も強い影響力をもってきたのは、社会契約論であった。
この理論は、支配者と被支配者との自然的秩序を、個々人が人為(意思、合意)によって解体することを目指した。
ところが、この社会契約論も、歴史的根拠に欠ける、と常に批判されてきた。
しかし、この批判は決定的ではない。
契約論者は、合理的な国家のあり方を説いたのである。
とはいえ、その論理には、一度の同意でなぜ人々を恒久的に拘束できるのか、という決定的な疑問が残されている。
「人民の同意によって発生する主権」は、「神の恩恵による主権(神授権)」を否定するところでその役割は終わるのではないか(A. コント)、とか、契約であれば、人民は解除の自由を有するはずで、この理論は国家を基礎づけるのではなく国家を解体することにならないか(イェリネック)、などの批判が寄せられてきたのも当然である。

しかしながら、こうした批判を徹底すれば、法の継続性を無視することになるばかりでなく、近代国家の正当性を、可能な限り、合法性のなかに取り込もうとする立憲主義思想をも無視することになる。
社会契約を解除する自由は、法の継続性および国家の合法性という前提によって拘束を受けており、その例外として存在するのは、[136] でふれる国民の抵抗権だけである。

社会契約説には、様々な欠陥や疑問点があるとはいえ、それは、法思想史上、無視できないほどの貢献をみせた。
それは、契約の主体が、主体であることをやめないで、さらに自らを客体となる、と説く、一見、見事な論理であった。
イェリネックが指摘するように、自由権の理念、法治国家建設の要請および個人的公権の司法的救済の要請等は全て、契約説に帰せられるのである。
契約説は、新しい国民主権論と密接に結合することによって、国家存在の正当化理由、統治権限の淵源、その統治権限を制約する自然権等を、一つの仮設体系のなかで明らかにして身分制社会、絶対王政を打倒する重要な役割を果たした。
そして、社会契約的発想は、[89]~[90] でふれるR. ノージックやJ. ロールズといった今日の政治哲学者にも深い影響を与えている(巻末の人名解説をみよ)。
その今日の社会契約論的な思考は、「方法論的個人主義」によりながら、個々人の意思を超えるルールや秩序の生まれ出る源を解明しようとするのである。

[25] (六)国家の正当化は国家目的とも関連する


これまで歴史的に論じられてきた国家正当化論は、抽象的形而上学的思索の産物であった。
この思索上の産物をもってしては、現実に存在する、または歴史的に存在してきた国家を全面的に正当化することは不可能である。
国家がなぜ正当化されるかという問題点は、現実の当該国家が果たす目的によってのみ正当化される。
かくして、我々の考察は、国家目的論へと移行する。


■第五節 国家目的論(国家によって何を目指すか)


[26] (一)法的な国家観は国家目的を真剣に論ずる


M. ウェーバー(1864~1920)のように、国家目的は多種多様であって確定すること困難とみて、国家の性格を暴力行使という手段によってのみ定義しようとする立場もありえよう(『社会学の根本概念』15頁)。
しかし、それはあくまで社会学的な観点からみた結論である。
法の視点から国家を考えるとすれば、既に指摘したように、国家を国家たらしめるものが、単に権力以上のものであることを真剣に受けとめなければならない。
国家を国家足らしめているものは、ひとり国家のみが為し得る課題・目的である。

[27] (二)国家目的をめぐって絶対的、相対的理論の二つがある


国家が目的統一体であると考えられている以上、その目的が明らかにされなければならない。
その目的については、歴史上、様々に論議されてきた。
その方向には、二つのものがみられる。
一つは、歴史・時間を超越した国家目的を観念的に探る絶対(理念)的目的論であり、他の一つは歴史的に変化する具体的な目的を探る相対的(個別的)目的論である。
ここで議論する国家目的論は、現実に存在する国家について問おうとする相対的目的論である。

イェリネックの提唱した国家法人説は、実は、絶対的国家目的論に代わる、相対的目的論の産物であった。
彼は、法人としての国家の目的が、個人、国民および人類の連帯的諸利益を全体の進歩的な発展という方向で満足させることにある、と結論した。
しかしながらこの見解に対しては、
個人、国民、人類を同一レヴェルに置いてよいか、
「連帯利益」は、多数者の名における人権抑制を正当化するのではないか、
全体として、なお理念的に過ぎないか、
といった疑問を抱かざるを得ない。

[28] (三)経験論的な国家目的論が最も参考となる


我々にとっては、大陸的な啓蒙哲学の説く国家目的論よりも、スコットランド啓蒙思想の流れを汲む経験論的な議論のほうが参考になる。
例えば、D. ヒューム(1711~76)は、①所有の安定性、②同意による財産譲渡、および③約束の履行、という三つの基本的な法の遵守を維持することを国家統治の目的と考えた。
また、H. ハート(1907~1992)に従って、「大抵の人間は通常生き続けることを望むという極めて偶然的な事実」を仮定して、共に上手く生存しようとする慎ましい目的の維持を、ここで挙げてもよい。
これらの経験論的国家目的論からすれば、F. ハイエク(1899~1992)の言う如く、国家や国民を一つの独立した集合体として論ずること自体全く幻想と映る(巻末の人名解説をみよ)。
国家や国民を擬人的に捉えて、一つの実在する意思を有すると説くこと(方法論的集団主義)は、避けられるべき過度の単純化である。

国家の存在目的は、各人が互いに自由に各自の望むところを望むやり方で追求するなかで自生的に出てきた秩序を維持し、確認することによって、我々の共生を上手く実現させることにある。
そのためのルールが法というルールである。
国家が独占する実力・強制力は、法というルールのもとにあって、その枠内でのみ行使されるなら、正当である。
法というルールの本質と機能とを明らかにすることが、本書を通じての課題である。


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※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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第二章 国制と法の理論

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第二章 国制と法の理論 p.29以下

<目次>

■第一節 国制を意味する憲法または絶対的意味での憲法


[29] (一)憲法と憲法典とは同義ではない


先に、constitution によって統制されるに至った近代国家を「立憲国家」と呼ぶと述べた([31]参照)。
通常、「憲法」と訳出される constitution は、捉え方によって実に多義的である。
「国家あるところに憲法あり」といわれる場合の憲法とは、その存在形式の違いや、国家の統治形態の違いを捨象して捉えられている。
この視点にたって捉えられた「憲法」を、「絶対的意味での憲法」という。
絶対的意味での「憲法」は、次第に明らかにされるように、憲「法」とも「憲法典」とも同義ではない。
憲法の基礎理論の修得は、C. シュミット(1888~1985)がいうように、憲法と憲法律(典)とを区別することから始めなければならない(巻末の人名解説をみよ)。

シュミットは、「憲法の概念は、憲法と憲法律が区別される場合にのみ、可能である」という(シュミット『憲法理論』27頁)。
憲法の概念を把握しようとする場合、憲法を個々の規定にバラバラに解消したり、その存在形式や改正手続を標識とするとすれば、その本質を見誤ることになる、というのである。

憲法(国制)と憲法典とを区別することによって、次の諸点が明らかとなる。
憲法律は、憲法に基づいて初めて効力を有すること。
憲法律が相対的概念であるのに対して、憲法は絶対的概念であること。
憲法律は憲法律上の改正規定によって改正できるが、同規定によって憲法を改正することはできないこと([144]をみよ)。
憲法律は、停止されたり、破棄されたりすることがあるのに対して、憲法は不可侵であること。
憲法尊重擁護義務・宣言は、個別の条文の遵守に向けられているわけではなく、憲法に対するものであること。
憲法の変遷とは、憲法律上の条文の意味変化ではないこと([150]をみよ)。

「憲法」と「憲法律」とを、簡単に同視してはならない。
通常、我が国では、constitution または Verfassung が「憲法」と訳出されてきたため、それらが当然に法的な意義を有しているかのように理解されてきた。

[30] (ニ)憲法の語源はルールの概念と無関係ではない


constitution または Verfassung と呼ばれるものは、
(ア) 「ルールを定める行為」、
(イ) かく定められた「ルール」、
(ウ) 17世紀以降は、「国家の秩序づけられた根本的枠組み」(ギリシャ時代にいうポリティアに近く、国家の経済的・社会的構造すべてを含むもの)、
のいずれかを、意味した。

このことから分かるように、constitution または Verfassung とは、なまの事実の集合体ではなく、評価基準としてのルールのもとに秩序づけられた構成体を意味し、それが、国家という構成体との関連のなかで言及される場合、「秩序づけられた国家の根本構造」を指すに至ったのである。

[31] (三)憲法とは国制を意味するにとどまる


constitution または Verfassung は、国家という組織との関係では、発生史的には、右の(ウ)にみたように、憲「法」という法的概念ではなく、国家の骨組みまたは国家の全体的な秩序という意味での「国制」をいうにとどまり、その規範的内実は別途分析されなければならない。
Constitutional Law または Verfassungsrecht と表現された段階で、初めて憲「法」という意味をもつに至るのである。

国制の分類として、最も古典的なのがアリストテレスの『政治学』(第三編第七章)のそれである。
彼は、正しい国制として「君主制/貴族制/有産者制」を、これから逸脱した国制として「僭主制/寡頭制/民主制」を、挙げた。

【表3】国制の捉え方
政治の全体的事実状況をもって国制という立場
支配-被支配の事実状況をもって国制という立場
最高の規範の統一体をもって国制という立場

[32] (四)国制をルールと無関係と捉える立場もある


論者の中には、国制につき、ルール概念との結びつきを否定して、以下のように、政治的事実の集合体とみるものもある。
国制の捉え方は、次節の [34] 以下でふれる「法の本質とその究極にあるもの」の見方と不可分の関係にある。

第一の見方は、国制をもって、国家の政治的統一と社会秩序の具体的な全体状況(例えば、ドイツ、フランスといったような、具体的に存在する全体状況)をいうとする立場である。
この場合には、「全体的事実状況としての国家が constitution である」とされる。
これは、政治社会学的な把握の仕方であって、この意味での constitution を出発点としながら憲「法」論(規範論)を展開しようとすれば、事実と規範とを如何にして架橋すればよいか、という永遠の謎に嵌まり込むこととなる。
確かに、国制の概念は、政治と深い関わりをもつものの、全面的な事実または政治状態を指すのではなく、もともと、ルールや秩序との繋がりをもっていた。
否、政治の概念そのものも、人々の共有するルールと、それに基づいた法共同体における支配・被支配関係と結びついていたのである(政治の概念については、【N. B. 1】においてふれた)。

第二の見方は、支配-被支配の形式またはその全体的事実状態をもって、国制とする立場である。
これは、「誰が支配するか」、「誰の意思が最高か」というプラトン以来の政治哲学の問い方である(この見方は、「支配-被支配の形式」という軸を設定することによって constitution を捉え、それを、「君主制/貴族制/民主制」に分けることを可能とする点で、有効な分析枠となってきた)。
これは、法の究極を意思に求める点で、右の第一の立場とは異なるものの、一定の事実状況をもって国制であると捉えて「支配形式としての国家が constitution である」とする点では、右と同型である。
この立場に拠る限り、「支配-被支配の形式」の正当性は正面から問われることはない。

国制は「支配-被支配」という形式または事実状態からのみ成るものではないと考えた場合、支配形式の正当性を問わないこの第二の見方を肯定することは出来ない。

[33] (五)国制を法秩序そのものと捉える立場もある


以上の二つが、国制とルールとの結びつきを否定する立場であるのに対して、第三の立場は、最高かつ究極的な規範の統一体系をもって国制とみる。
これは、国制を諸規範の規範または根本規範(一つの統一的な規範)として捉える。
これは、これまでの諸説と違って、国家そのものを法秩序と考える規範主義に立つ。
そのもとでは、「規範としての国制が国家」、「国制が国家であり sovereign」とされる。

しかし、なぜ法秩序が国家であり sovereign であるか、定かではない。
ケルゼンのいうように、その秩序が実定的である(そう定められている)点に求めるとすれば、この理論の出発点である「規範性」はここで断絶され、事実上妥当しているという、なまの権力関係に転換されてしまう(シュミット『憲法理論』9~10頁は、ケルゼン的規範主義を批判して、「ここで突如として当為はやみ、規範性は断絶する。代わって現れるものは、・・・・・・妥当しているが故に、妥当するという・なまの事実性のタウトロギー(※注釈:tautology トートロジー、同語反復)である」と鋭く指摘している)。
この隘路を抜け出るために、ケルゼンは「根本規範」を最終的な仮設として置かざるを得なかった([94]参照)。
この見方は、最高の規範を、君主でもなく人民意思でもなく、憲法(国制)に求めて、市民的自由と私的所有とを政治的権力の彼方に置こうとする近代立憲主義思想の嫡流に属するといえる。

確かに、近代法治国家を構築しようとする歴史段階にあっては、私的所有権や人身の自由という、疑う余地のない真正の当為の存在が信じられ、だからこそ、あらゆる国制に先立ちそれを超える規範性が説かれた。
また、ときには、それが理性または正義に適うという理由も挙げられた。
ところが、そうした真正の当為と考えられたものが、実は、時代拘束的な相対的なものであることを論理実証主義は明らかにした。
法実証主義が、正義をもって「意欲、利害または情緒に関する理想」であって、そこに客観的基準など存在しない、と説いたのも「認識/価値判断」と峻別する論理実証主義の法学版であったからこそである。
法実証主義者たるケルゼンにとって、「根本規範」は、認識のレヴェルに属するものではなく、民主主義的な論議に対して常に開かれているべき最終的仮設であった。
その仮設は、「国家なき国法学」を生み出した、と批判された(H. ヘラー著、安世舟訳『国家学』)。

以上のような様々な国制の見方は、法の究極にあるものの見方と繋がっている。

■第二節 法の本質と法の究極にあるもの


[34] (一)国制の見方は、「法の究極にあるもの」の見方とつながっている


シュミットによれば、法学上の究極の観念は、①具体的秩序、②意思による決断、③規範、のいずれかであるという。
第一節で概観した国制に関する様々な見解も、これらにそれぞれ対応していることが分かる。

そればかりでなく、右の①~③の対立は、規範と「法」との識別基準を何に求めるか、規範の淵源をどこに求めるか、といった法哲学上の論争とも繋がっているのである。
「法」の見方は、当然のことながら、憲「法」に対する見方をも決定するといってよい。

右のうち、③の立場から、規範が法を生むと考えたのが、ケルゼンである(もっとも、晩年の彼は、民主主義的決断主義と規範主義とを結合させようとして、民主主義的意思決定によって定立された規範が法である、とする②から③を導き出す立場に変わったように思われる)。
また道徳から法が生まれるとする「道徳的規範説」もこの一流派である。

これに対して、②の立場から、主権者の意思によって法が生まれるとするのが「法命令説(※注釈:法主権者意思[命令]説)」である。
このような、意思を法の妥当根拠とする立場をもって「法実証主義」といわれることがある。
この意味では、②から①および③を引き出すシュミット流の理論も、法実証主義的な国制の見方といってよい。
だからこそ、シュミットにとって国制とは、主権者の意思(憲法制定権力)によって創り出された具体的政治的統一体をいう、とされるのである(憲法制定権力については、後の [118]~[132] でふれる)。
こうして生み出された国制が規範として妥当するのは、シュミットにいわせれば、実定的に命ぜられているが故、すなわち実存する意思の故であって、正しい規範だから妥当するのではない(シュミットは、国家の統一的秩序は国家の政治的実存にあって、法律、規則、規範にはない、と言い切った)。
これによって、H. ヘラーが批判したように、「規範なき国家学」が産み出されたのである(ヘラー著、安世舟訳『国家学』)。

しかし、その理論は、「意思」が、なぜ、どうやって権力(【N. B. 5】参照)やその正当性を生み出すかにつき、明らかにしている訳ではない(意思中心(実証)主義は、人間の合理的能力に過剰な期待を寄せたデカルト以来の近代合理主義哲学の名残りである)。
たとえ意思が権力を発生させるとしても、意思を統制するものを考察しない限り、意思は危険な万能の力となる。
歴代の思想家たちは、その危険性を予知して、人間の能力を超えた何らかのルールを、様々に模索してきた(それは、歴史的には、自然法(【N. B. 6】参照)と呼ばれてきた)。
国家や国民を擬人化して、方法論的集団主義に拠りながら、あたかも一つの意思をもったかのように説く意思中心主義は排斥されなければならない。

【N. B. 5】「権力」の見方について。
権力については、それを①関係として捉える立場と、②実体として捉える立場との二つがある。
①前者の典型例がR. ダールの見方であり、彼は、権力とは「本来ならBがしなければならないであろうことを、AがBに為し得る程度」をいうとする。
もっとも、その見方で権力の本体が判明するわけではない。
伝統的な法思考は、「AがBに対して為し得る程度」の実体を、Aの意思がBのそれよりも優越する、事実上または規範上の根拠に求めてきた。
となれば、権力を関係概念として捉えうるか疑問となり、意思という実体を議論せざるを得なくなる。
ところが、意思が実体として存在するか否か、特に、集団の意思を実体的な存在と唱えることが出来るか、なぜ意思が権力を生むか、ここで、我々の思考は中断するであろう。
これに代わる②実体としての権力論の典型例がマルクスの見方であり、彼は警察と軍隊という実体に裏づけられた力を権力として挙げるのである。
なお、本書でいう「権力」とは、その力の源につき正当性を付与されていないものを指すことをいい、これに対して、正当性を付与された力を「権威」ということとする。

【N. B. 6】「自然法」の見方について。
自然法についての見方にも、大きく分ければ二つある。
①一つは、ホッブズ、ロックにみられるような「経験論的扱い方」であり、②他はカント、フィヒテにみられるような「形式的扱い方」である。
①前者は、「自然状態」を想定して、同状態における人間の属性のなかに法則としての自然法を説く考えである。
②後者は、素朴な自然状態から規範を説く経験論的扱い方を排したところに成立した。
それによれば、普遍妥当な当為は、欲求といった主観的なものを捨象して、専ら「意思の形式」の中に求められる。
すなわち、普遍妥当な当為としての自然法は、自由な意思が善を実現するに当たって従うべき外的な形式である、とされたのである。

このように、規範の淵源については、今日に至るまで論争され続けている。
その論争と不可分の形で論議されている「法の本質」に目を転じてみよう。

【表4】法の本質の捉え方
法命令説(※注釈:法主権者意思[命令]説)  主権者の意思の発現をもって、法とみる立場
承認説  事実の反復継続が人の規範意識に支えられて法となる、とみる立場
法実証主義(※注釈:制裁規範説)  制裁を備える規範が法である、とみる立場
道徳規範説  道徳規範が人の法的確信によって支えられて法となる、とみる立場
社会的ルール説  社会の中の一次ルールが、二次ルールによって確認されて法となる、とみる立場
予測説  公的機関が人の行動を予測するための基準をもって、法とみる立場

[35] (ニ)「法」の本質を命令の要素で解明することはできない


法の本質に関する第一の立場は、ホッブズ、J. ベンサム(1748~1832)、J. オースティン(1790~1859)等に代表される「命令説」(客観説)である。
この見解によれば、法規範とそれ以外の規範との区別は、あるルールが採用され改正される方法に求められ(系譜の理論)、法とは、何ら規範的拘束を受けない主権者意思の発する命令である、と特徴づけられる。
これが絶対主義国家論における「憲法」の捉え方となった。

ところが、この説には、ギャングの命令と法とを区別できないこと、命令権者の交代があった場合の法の継続性・持続性を説明できないこと、といった難点が内在していた。

[36] (三)単純な事実の集積から法規範は生まれない


第二は、イェリネックに代表される「承認説」(主観説)である。
これは、事実の反復の中で生まれる人々の確信が規範を生み、社会的な規範意識によって支えられれば法となる、と考える立場である(事実の規範力説)。
実効性(efficacy=事実として守られること)が妥当性(validity=規範として妥当すること)を生むとする見解といってもよい。
この見解は、形而上学が衰退して科学的実証主義に最大の期待が寄せられた時代の産物であった。

しかしながら、この思考法は、事実と規範とを峻別する実証主義哲学の批判の前に、次第に影響力を失っていく。
特に、憲法学において、事実の集積が法規範を生むと考えれば、事実の反復によって基本法が形成される、とする思考を許すだけに、統治を法のもとに置こうとする立憲主義思想の出発点と相容れなくなる(この点は、[150]~[151]での憲法変遷論で明らかにされよう)。

[37] (四)制裁を備える規範が法規範であるとする立場もある


第三は、ケルゼンによって代表される法実証主義の立場である。
これは、「もし、・・・・・・なれば、その場合は・・・・・・」という仮設的命題の後半部分(「その場合は」)に、制裁規定を用意している規範を法規範と考えるのである。
この立場は、事実から規範が生ずることは決してない、という分析哲学の成果を基礎にして、
「規範は規範からのみ生ずる」こと、
法が実定的に存在することこそ、同時に、法が妥当性(validity)と拘束性(binding force)とを有することの根拠となること、
実効性が妥当性を根拠づけはしないこと、
を説く。

ところが、この見解は、法律等の規範性(真正の法規範の属性)を解明することに成功するとしても、憲法という規範の究極的淵源を仮設的な根本規範に求めようとされた段階で、その立場とは異質な、非実証主義的な道徳または自然法領域へと移行せざるを得なくなる。
この移行を避けるために、ケルゼンは、晩年、「規範は人間的意思のみから生ずる」とする意思主義に荷担せざるを得なくなったのである。

[38] (五)道徳のうち人々の規範意識によって支えられれば法規範となるとする立場もある


第四は、法の本質は道徳または正義の諸原則に一致することをいう、とする立場である。
これを「道徳規範説」と呼ぶことにしよう。
この見解は、法体系の根底にあるものを、道徳的義務についての一般的承認・確信(人々の道徳観といってもよい)に求める立場である。
今日の法学者の多くが、この立場に立っており、我が国の法学教育もこの線を基調として運ばれているように思われる。
通例、基本法としての憲法の規範的な実体も、道徳または正義に求められてきた。

ところが、「道徳」、「義務」の多義性、「一般的承認・確信」の程度のバラツキ、「道徳観」の多様性に鑑みれば、この説がどれほどの説得力をもっていようか。
確かに、法体系は道徳と内的関連性を持ちはするだろうが、その関連性は必然的ではない(特に、憲法典の場合、その統治機構に関する条文は、道徳との内的関連性を持つとは限らない)。

[39] (六)法規範は社会的ルールの一つである


第五は、H. ハートに代表される「社会的ルール説」である(ハートをもって法実証主義者として位置づけるのが通常であるが、その分類は正しくない。巻末の人名解説をみよ)。
この立場は、社会的ルールは我々が共同に生活する中で、自由を守ろうとすれば自生(自己増殖)的に生まれるのであって、人為的に意思によって作られる訳ではなく、本性(自然)的に既存しているものでもない、とみる。
ここでいう「自生的」とは、人間の行動の結果ではあるものの、人間の企図の結果ではないこと、自然的でも人為(実定)的でもない第三の範疇を指す。

ハートによれば、社会的ルールのうち、まず、権利を認め責務を課す「一次ルール」が、我々の生活の中で生まれ、その後、何が一次ルールであるかを権威をもって、外的視点から(一次ルールの外に出て)、確認、変更、裁定する「二次ルール」が生まれる
権威を持った判定者が、「二次ルール」に依拠しながら、「ここでは・・・・・・が(一次)ルールとされている」と、両者を結合する段階に至って「法体系が存在する」という([95]参照)。
この二つのルールのうち、人々の受容によって知らず知らずのうちに生まれる「一次ルール」それ自体は、「法」以前(pre-legal)の規範(ルール)にとどまる、とされる。

[40] (七)行動科学は法規範を記述的に捉える


第六は、アメリカのリアリスト法学者によって言われている「予測説」である。
彼らは、法の本質を、公的機関による将来の人的行動の予測に求める。
「憲法とは、最高裁が憲法であるというところのものである」(Ch. ヒューズ)という有名な見解も、この立場に含めてよい。
この立場によれば、法は記述的にのみ捉えられ、規範との結びつきは必然ではないと捉えられる。
この見方は、アメリカ特有の行動科学の一時的隆盛と無関係ではない。

[41] (八)本書は「社会的ルール」説を妥当と考える


以上、規範の淵源、規範と法規範との結びつきを巡って、様々な見方があることを概観した。

以下、本書では、社会的ルール説を基本に据えて、法(law)とは、社会的ルールのうち、何が正当な行為であるか(正確にいえば、何が不当な行為か)を決定するための諸ルールの体系であって、公機関によって万人(統治機構を含む)に一般的に等しく適用されるもの、をいうこととする。
その意味での法は、人為的なルールである立法(legislation)と同義ではない
またそれは、人間存在の道徳・倫理的本性といった意味での自然法を基礎とするものでもない
社会的ルールの一つである法は、我々が共に上手く自由に生きていこうとすれば、自生的に、必然的に出来上がるのである(【N. B. 6】参照)。
以下、本書では、「法」と「立法(または法律)」との違いを意識しながら、両者を明示的に使い分ける。

【N. B. 7】「社会的ルール」の自生的性質について。
「社会的ルール」説に対しては、人々が共同生活を送るという事実から、なぜ規範(価値)が生ずるのか、という批判が寄せられよう。
この批判の依拠する「事実/価値」の峻別論は、哲学上「ヒューム原則」といわれる。
それは、事実の叙述だけを含む命題から、当為についての言明に至ることは出来ないことをいう。
この原則は、長く哲学者によって信奉されてきた。
ところが、経験哲学の父、ヒュームの説く同原則といえども万能ではない。

ある命題が「もし、我々が・・・・・・を望むなら、・・・・・・をすべし」という仮設的形態をとるなら、前件(「もし、我々が・・・・・・」)から規範的ルールを引き出すことは、ハイエクの説く如く、可能である(F. ハイエク『法と立法と自由Ⅰ』105頁)。
前件は、我々の生活の中での因果法則上の(事実に関する)知識からなる。
すなわち、我々にとって望ましい目的、すなわち、自由であるためにはどうすべきかという判断基準を因果法則から学び、その目的を前件の中に含めることによって、我々は規範(ルール)を後件(「・・・・・・をすべし」)として導き出すのである。
その学習過程は、人々の共同生活の中で、長期間に亘って展開され、後世代へと受け継がれ、受容されてきたものである。
このルールのもとで発生するパターンをハイエクは「自生(自己増殖)的秩序」と呼び、本性(自然)的でも、人為的(意思の所産)でもない第三の範疇として位置づけたのである。
さらにハイエクは、ルールが如何にして発生したかにつき次のようにいう。
「ルールは、決して『発明』されたり、言葉で表現されたり、誰かに知られている『意図』をもったりしなかったが、有効的に伝達され施行された・・・・・・。ルールは、・・・・・・我々がいう実践または慣習の中に姿を現す」(ハイエク、同書 99~100頁)。

なお、「ルール」は、①事物の因果法則を指す場合、②人の行為の規範性という場合、③人の行為の当否を判断する基準をいう場合、がある。
本書でいう「ルール」は、もちろん、③の意である。

いずれにしても、単純な事実の集積から規範が生ずるという思考は単純すぎ、規範から規範が生ずるとする思考は循環論法といわざるを得ない。
「法は規範の総体であるが、それはザインの諸事実たる実際的必要性から生じた規範の総体である」(デュギー)とする思考が正当である。

と考えれば、法の究極的観念は、人間が共に自由に上手く生きるために長期に亘って修得してきた社会的ルールに求められる。
その社会的ルールをルール足らしめている根源的なモメントは、自由のための実際的必要性である。
その実際的必要性は、人間の自由な持続的行為において示されるのであって、それは、見方によっては、事実の問題でもあり、規範の問題でもある。
ただただ人間の持続的な自由な行為において示される社会的ルールの淵源を、「究極の確認のルール」(【N. B. 6】参照)という。

国家は、おそらく、各人が望むところを自由に追求しようとする中で、最も適した機構として出来上がったものと思われる。
すなわち、国家も、社会的ルールと同様に、個々人の人間行動の結果であるものの、人間の企図の結果ではない、第三の範疇に属すると考えられる。
国家も社会的ルールも、人間の自由な持続的行為に淵源をもつ。
その意味では、国家の根本構造を指す国制も、ルールの観念と決して無縁ではないはずである。
国制を事実状況として把握することは誤っている。

【N. B. 8】「究極の確認のルール」について。
我々が法の妥当性を求めるために、確認のルールという系譜テストをさらに遡って、これ以上遡れない地点に到達した場合、「究極の確認のルール」に到達したという([95]参照)。
同ルールは、上位法から妥当性を引き出す訳ではない。
その妥当性は、人の持続的行為の遂行の中で人々が受容しているという事態の中に存在するのである。
換言すれば、「究極の確認のルール」は、自らの妥当性を理由づける如何なる根拠も持ち得ないのである(ハートに従っていうならば、「究極の確認のルール」は、内的視点からみれば、他のルールを妥当させる根拠となる規範であるが、外的視点からみれば、ルールをルール足らしめる確認規準という二つの側面を持つ)。

■第三節 憲法の分類 - 相対的意味での「憲法」


[42] (一)国ごとの「憲法」を形式別に捉えて「相対的意味での憲法」という


これまで我々は、「絶対的意味での憲法」について考えてきた。
本節では、視点を変えて、憲法の存在形式からみた場合の「相対的意味での憲法」を考えることとしよう。
「相対的」とは、国家ごとにその形式が可変的である、という意味である。

相対的意味での憲法は、形式性の指標を何に求めるかによって、様々な分類が可能である。

[43] (ニ)存在形式によって、「成文憲法/不文憲法」に類型化される


第一は、「成文/不文」憲法という分類である。
これは、憲法の存在形式の標識が、成文・成典形式か否かに求められる場合の分類である。
この類型は、18世紀にアメリカとフランスに現れた新たな思考、すなわち、憲法とは人権宣言を含む成文の法文書である、とする存在形式に着目した意義づけが一般化した後に成立した。

近代国家成立の後においては、憲法は成文憲法という形式をとるのが一般的である。
これは、イギリスの不文憲法に対する懐疑・反対を動機とする。
各人の自由を守ろうとした近代立憲主義は、総じて、不文憲法に対して懐疑的であった。
なぜなら、不文の慣習は、統治者の利益のために容易に変更され、その有効な制限とはならなかったからである(レヴェラーズは成文憲法の制定の要を説いていた)。
ある論者は、イギリスは不文憲法の犠牲者であり、イギリスの統治は立憲的荒野と化した、とまで述べている。
ところが実は、そのイギリスも、「権利章典」(1689年)、「三年会期法」(1694年)、「皇位継承法」(1701年)等々様々の憲法的文書をもっており、不文憲法の国ではない。
同国では、単一文書方式によっていない点にその特徴があるのである。

イギリスが不文憲法の国ではないように、成文憲法典の国であっても、憲法を全面的に成文化することはない。
constitution は、不文(習律、先例等)の法源からも成っており、成文憲法主義とは、constitution の基本的重要部分が成文化されていることをいう。

今日、「憲法」を想起する際に人々の脳裏に浮かぶのは、アメリカ型の成文憲法典である。
同憲法典は、人権宣言、権力分立等、後の [66] および [67] でふれる立憲主義的内容をもっているために、「憲法」といえば、成文形式で存在する立憲主義的内容をもっている文書が連想されることになる。
ところが、こうした用法は、歴史からみると、比較的最近の特殊な用法なのである。

[44] (三)改正手続の難易度によって「硬性憲法/軟性憲法」に類型化される


第二は、「硬性憲法/軟性憲法」という分類である。
この分類は、イェリネック以来、改正手続を基準にして、憲法が改正手続を加重された法形式となっているか否かに対応して用いられる。
以来、今日我が国でも、この区別に言及する場合、成文憲法典に組み入れられている改正手続が基準とされている(これに対して、J. ブライスのいう「硬性」とは、成文・不文を問わず、下位法に対する権威(拘束力)および改正手続の特殊性を指した)。

改正手続のタイプには、大きく、
立法機関が通常の立法手続よりも加重された要件のもとで為すもの(明治憲法型)、
立法機関によらず、憲法制定会議によるもの、
それらに、国民投票を介在させるもの(日本国憲法は、①+③)
の三つがある。
いずれのタイプにせよ、改正手続において、誰が発案権者とされるかという出発点が重要な意味をもっており、この点は看過されてはならない。

硬性憲法典が好まれ各国によって採用されるに至った理由は、憲法典の規定内容が重大であるからこそ立法権からそれを保護しよう、とする点にある。

[45] (四)決定権威(権力)の所在別の分類もある


憲法を決定する権力(権威)がどこにあるかに応じて、「欽定憲法/民定憲法/協約憲法/条約憲法」に類型化することもできる。
欽定憲法は君主によって、民定憲法は国民によって、協約憲法は君主と国民との協定によって、条約憲法は外国との合意によって、決定されたものをいう。

[46] (五)現実政治の動態から憲法を分類することもできる


成文・硬性憲法が一般化した現代にあっては、従来の「成文/不文」、「硬性/軟性」という区別は意味を失いつつある。
そこで、K. レーヴェンシュタインのように(『現代憲法理論』一、78~92頁)、現実政治の動態から、次のような分類を提案する者もある。
他国の憲法を模倣したものであるか否かによって、「伝来的憲法/創成的憲法」の別を、
政治的理念を謳っているか、それとも、統治過程での制度のあり方だけを技術的に示しているかによって、「イデオロギー的プログラム的憲法/実利的憲法」の別を、
現実の政治過程において憲法がどれほど権力者を統制しているか、換言すれば、憲法典の実効性の程度に応じて、「規範的憲法/名目的憲法/意味論的憲法」の別を、
彼は説く。

規範的憲法とは、権力過程が憲法の諸規範に適応し、服従している場合をいい、名目的憲法とは、政治過程の動態が憲法の諸規範に従って進行していない場合をいい、意味論的憲法とは、事実上の権力保持者の排他的利益のために、仮装として利用されている憲法をいう。

[47] (六)「確認のルール」の一つとして憲法典を位置づけることもできる


法体系を有する社会では、法と、そうでないルール(法以前のルールである一次ルール、例えば、道徳的規範)とを識別するテスト(系譜テストまたは識別テスト)が存在する。
法であるためには、「これこれが、ここでは有効なルールとされている」と公的機関によって確認されるための識別ルールを通過しなければならない。
そのための判断基準が、「確認のルール」と呼ばれる二次ルールである。
二次ルールとは、公的機関に向けられたルールをいう(同ルールには、確認のルールのほか、変更、裁定のルールがある)。

憲法典は、実定法化された確認のルールのうち、他の法的ルールに対して妥当性を与える源泉となっているという意味で、最も基本的な地位を占める。
すなわち、憲法典の法的性質は、「究極の確認のルール」たる国制に基礎を置きながら、他の実定法に妥当性を与えるための「確認のルール」である点にある。

その「確認のルール」が、「究極の確認のルール」を語り尽くすことはない。
「究極の確認のルール」は、人間の自由な持続的行為において示されるのであって([41]参照)、プラクティスの中に潜んでいる(このことは、[154]でふれるように、憲法変遷を限定的ながら肯定せざるを得ない事との繋がりを示唆している)。

確かに、近代立憲主義は、「究極の確認のルール」をも成文の形で可視化しようとしてきた。
憲法典の中でも、「自由」を保障しているルールは、各人の保護領域を画定するための「究極の確認のルール」を取り込んだものと言ってよい。
その意味では、「確認のルール」としての憲法典の一部は「究極の確認のルール」ともなっていると言える。

そればかりでなく、近代立憲主義憲法典は、「自由」保障の手段にとって、歴史的に最も適すると想定されてきた統治機構のあり方を、目的意識的に設計して、これを成文化してきた。
この設計主義的な憲法典の部分は、非意図的な「究極の確認のルール」とは性質を異にしている。

また、憲法または憲法典は、「正義とは何か」という問いに対して積極的な解答を寄せるためのルールではない
それは、基本的に、人々(支配者と被支配者)に対して、何を為すべきかを指示するためのルールではなく、何を為してはならないかを指示するためのルール、すなわち、具体的な文脈の中で、不正義を排除する消極的なルールであって、負の力として作用するのである。

ところが、人々は、憲法および憲法典が最高の道徳規範または実体的正義のための規範であることに期待して、それらは、「人々に何を為すべきかに関するルール」、「正の力」であるかのように説いてきた。
その典型例が、[84]~[91]でみるような「現代立憲主義」である。
それは、「社会的正義」を標榜するだけに、人々に受け容れられ易い。
しかしながら、「現代立憲主義」それ自体が、現代国家の病理でもあることを看過してはならない。


■ご意見、情報提供

※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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第三章 憲法(典)の存在理由とその特性

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第三章 憲法(典)の存在理由とその特性 p.45以下

<目次>

■第一節 憲法(典)の存在理由


[48] (一)憲法(典)の存在理由は、共通のルールを設定して、各人の「自由」を守ることにある


「自由」という言葉は多義的である。
本書でいう「自由」とは、強制のないこと、すなわち、「消極的自由」(negative freedom)をいう。
その自由は、他者からの強制を受けることなく、各人の望むところを、自ら有する知識に立脚して追求し得ることをいう(ハイエク『自由の条件Ⅰ』)。

「消極的自由」は、政治参加して権力を獲得すること(「国家への自由」と呼ばれる政治的自由)ではなく、「求めるものを実現する力」でもなく、また、平等の実現でもない。
さらに、「消極的自由」は、「国家による自由」と呼ばれる各人の幸福実現でもない。
「自由」とは、万人に共通する究極目的の存在を否定し、究極の目的設定とその実現を各人に委ねることを意味する(自由の意義および価値については『憲法理論Ⅱ』 [48]~[53]で詳論する)。

このように、真の自由は究極目的を知らない。
ただし、自由は、各人の意図追求にとって必要な手段についてのみ合意を生み出す。
各人がその望むところを追求するにあたって必要とするその手段こそ、共通の体系的ルールであった。
自由な国家に共通の善が存在するとすれば、それは、個人的意図の追求に便宜となる普通妥当な共通のルール、すなわち法を国家が提供し、維持することである。

[49] (二)強制は避けられない


いかに自由な社会であっても、強制は避けられない。
自由は強制を基本的には忌避するものの、貴方の自由に対して強制を加える者に、国家機構が強制を加えざるを得ない。
強制を排除して、貴方の自由を保護するためには、国家機構の強制に拠らざるを得ないからである。
これを「自由のパラドックス」という(「自由」全般については『憲法理論Ⅱ』でふれる)。

法という一般的抽象的ルールは、その強制を最小化し、自由を最大化するための工夫として、人間が長期に亘って学習し、受容してきた自生的装置であり、抽象的な知識である。
法は、国家による強制を最小化しつつ貴方の自由を最大化すること以外の目的を持ってはならない。
また、法は一定の条件を満たす成員全員に等しく向けられていなければならず、特定の目的を持ってはならない。
法は、ある人が何を為さなければならないかを決定できないのであり、何を為してはならないかを受範者を特定しないで決定するものでなければならない(それは、丁度我々がルールによって「フェアプレイ」を求めたとしても、それが何であるか語り尽くせず、ただ「アンフェアなプレイ」だけを具体的な文脈の中で排除できることと似ている。先の[47]で「負の力」という表現を用いたのは、これを念頭に置いている)。

法の中でも憲法(典)は、国家機構による強制の及び得る範囲を画定し、各人の自由を最大化することを目的としている。

[50] (三)もっとも「自由」は統治構造のあり方について明示的な指示をするわけではない


「自由」は、各人の生活設計について各自の判断に委ねるよう指示するものの、万人にとっての共通の目的を持たないだけに、統治機構の具体的なあり方については何も指示しない。
「自由」は統治権力に対する「負の力」にとどまる。

そこで我々は、「自由」のために、憲法(典)において、歴史的経験的に学びながら、「自由」を諸基本権カタログとして類型・具体化し、なおかつ、各人の選好を強制のない中で統治に反映させながら、「制限された政府」として相応しい統治の機構(強制を最小化する国家機構)を定めようとするのである。
その結果、憲法は、「統治機構と基本権の部から成る」、と言われるに至る。
中でも、ヨーロッパ大陸では、その絶対主義の崩壊期に、政治的統一体としての国家を維持するためには、組織的な統一性を法文書として書き込むことが必要であった。
それが、成文憲法、すなわち、憲法典である。
成文憲法の原点は、この観点からすれば、個人の自由権を文書の上で確定することにあるのではなく、政治的統一体としての国家の構成を明示することにあった。
換言すれば、憲法典は、第一に、国家との関係で市民が自由に行為できる領域を確認すること、第二に、市民の自由な領域を最大化するに相応しい国家機構を設計図として描くこと、を目的として制定されたのである。

[51] (四)統治権力から各人の「自由」を擁護するための憲法を近代立憲主義的憲法という


近代立憲主義的意味での憲法とは、強制の不存在という意味での消極的自由を擁護するために、「配分原理」および「組織技術」(権力分立という統治技術)を内容として組み込んだルールをいう(権力分立については、後の第10章の [185] 以下でふれる)。
「配分原理」とは、自由は法の許容(国家の意思)によってもたらされるものではないからこそ、原則として無限定に各人に保障されるのに対し、その領域を侵害する国家の権能は限定されることをいう。

近代立憲主義は、多くの場合、成文、成典かつ硬性の形式をもつ憲法典のもとでの統治を実現しようとした(この時点から、憲法と憲法典とが同視され易くなる)。
立憲主義憲法は、「実質的意味での憲法」(成文、不文を問わず、およそ国家の組織・作用の基礎に関する constitution)を、「形式的意味での憲法」(憲法典という成文成典形式で存在する憲法)の中に可視化させながら可能な限り閉じ込めた。
そればかりでなく、憲法典は、最高法規という実質をもつことによって下位法に対する拘束力を併せ持った。
またさらに、それは、権力分立という組織技術に拠りながら、統治権力の行使を制限することによって、国民の自由を保障するという「配分原理」を狙ったのである。

もっとも、国民の自由とは消極的自由をいう、と先に定義づけたものの、近代立憲主義のモデルを、フランス革命に求めるか、それともアメリカ革命に求めるかによって、「自由」や憲法の存在理由を捉える方向は変わってこよう。
この点は、次の[54]でふれる。

[52] (五)近代立憲主義は「法による統治の先導・統制」を実現する目論見である


「立憲制とは、制限された政府を意味する」(ハイエク)といわれる。
近代立憲主義的意味での憲法は「制限された政府」を実現するための法文書である。
そのためには、統治に先行しそれを指導する規範を可能な限り明文化することによって、統治権力を制約することを構想しなければならない(もっとも、その規範が全面的に明文化されることはない)。
そのルールこそ「法の支配」という思想である(この点は、後の第四章[64]~[75]でふれる)。


■第二節 近代立憲主義にいう「自由」と「民主」


[53] (一)自由主義は法がどうあるべきかに関する思想である


「自由」とは、[48]で述べたように、外的強制のないことをいう。
自由主義とは、国家の強制力を制限し、法がどうあるべきか(または、誰が権限保持者であれ、権力者に課せられるべき制限、国家活動の範囲にかかわる体系)に関する思想体系である。

自由主義は、個人の自由を最優先する思想体系であるが、それは、次の二つの要素から成る。
第一は、 国家の統治活動を法の支配のもとにおいて国家の強制力の使用を最小限とすることであり、
第二は、 国民の経済活動に対する国家の介入を最小限とすることによって「市場での自由経済」を維持することである。
この第一の要素と第二のそれは、無関係ではない。
真の自由主義は、国家の経済政策をも法の支配のもとに置くことを考えたのである。

自由の領域から防御権としての個別的な基本権が生ずるとした場合(この点については、『憲法理論Ⅱ』 [55] で述べる)、基本権は超国家的・前国家的に存在するものであって、国家が法律によって授与するものではない、と考えられ易い(その思考法が自然権思想である)。
しかし、自由といえども国家内に存在し、国家によって保護されると考えるのが正しい。

国家と憲法の存在理由は、個人の自由領域を保護し、それをカタログとして例示し、自由を根源とする基本権保護に奉仕する点にある。
もっとも、自由と基本権とは同義ではない。
自由は、諸基本権を獲得するための条件を各人に提供する基盤である。
諸基本権は、一般的自由を基幹として保障されるに至るのである(この点については、『憲法理論Ⅱ』 [52]~[55] 参照)。

民主主義なる語は、個人的自由を尊重する体制を指すものとして度々用いられてきている。
ところが正確には、自由と民主は包摂関係にも、対立関係にもない、相互独立の概念である。

[54] (ニ)自由は法と対立せず、法と不可分である


自由は法と対立するものか否か、歴史を通じて絶えず論争されてきた。
かたや古代ギリシャ時代の主流思想から始まって、ロック、スコットランドの自由主義者から、今日のアメリカの政治学者に至るまで、《自由は法なしには存在しない》と説いてきた。
彼らにとって、法は、個人に何を為すべきかを指示するものではなく、個人の選択の機会を保障するものとされ、そのために、自由と法とが不可分であると考えられたのである。
他方、ホッブズ、ベンサム、フランスの思想家、そして近代の法実証主義者たちは、法は基本的に自由への侵害であり、従って、「自由とは法の禁じていないことを為す一切の権利である」(ベンサム)と説いてきた。

この見解の対立は、法に対する見方の違いを反映している。
法実証主義者は、法が人間の合理的設計(意思)に従って作られるであろうことに期待を寄せ、法(law)と立法(legislation)とを同一視しながら、設計の外に漏れやすい自由を法(立法)に従わせようとする。
このため、法と自由が対峙され、法の自由侵害性が説かれるのである。

これに対してスコットランド啓蒙思想の流れを汲む自由論者は、法は合理的設計によって語り尽くされるものではなく、人々の自由な営為の積み重ねのなかで修得されて生まれ出るものであって、権力者の意思(立法)がその法を侵害しないところにこそ自由あり(【N. B. 9】参照)、とみるのである。

【N. B. 9】自由と法の見方の変遷について。
自由の概念は、次のように、歴史的に様々な変転をみせてきた。
E. クック(1552~1634)時代の自由は、普通法上保障されてきた、具体的で伝統的な特権すべてを意味した。
その後の啓蒙期には、自由は、人であれば先験的・無条件的に有するはずの抽象的な権利(人権)を意味するようになる。
その射程も、フランス啓蒙思想と、スコットランド的それとで、異なってくる。
真の意味の自由は、後者である。
「現代における個人的自由は、17世紀のイギリスより以前に遡ることは、ほとんど不可能である」(ハイエク)。
「自由」を知らない大陸では、自由は権力に近づくことである、とか、自由は理性の命ずるところであると捉えて、抽象的な自由の議論を作り上げた。
そうしたフランス的啓蒙思想を反映したフランス革命は、貧困の撲滅から幸福の条件まで、自由の名で実現すると約束した。
それは、国家による経済市場への介入、ユートピア的社会への全面変革を容認する思想へと膨らんでいった。
これに対して、アメリカ革命は、「独立宣言」にみられるように「幸福の追求」を個人に保障しようとしたに過ぎず、権力を用いて富を再分配したり幸福の条件を整えることは論外であった。
アメリカ革命を支えた思想は、スコットランドの啓蒙思想であって、それは、自由な社会システムに諸問題の解決を委ねたのである。
こうした二つの流れは、自由とは理性によって統制された(されるべき)ものとみるか、それとも、「画一的な目的も終局も措定することもない」もの(オークショット)とみるか、「二つの自由論」として、今日まで論争されてきている。
本書は、スコットランド啓蒙思想にいう「自由」を妥当と考える。
その自由は、消極的で無内容にみえるものの、「それが積極的になるのは、我々がそれから生み出すものを通じてのみである」(ハイエク『自由の条件Ⅰ』33頁)。

[55] (三)民主主義は何が法となるかに関する思想である


民主主義とは、多数意見による決定方式に基づきながら、何が法となるかについての教義をいう。
その教義は、これまで国民主権の理論のみならず、基本的人権の尊重思想と不可分の形で、あたかも統治の目的であるかのように議論されてきた(目的としての民主主義観)。
民主主義が自由の条件であるかのように説くとすれば、それは民主主義という用語の濫用である。
自由の範囲は、政治的意思決定の及ぶ干渉の範囲によって左右されるのである。

民主主義とは、望ましい統治の方法・手段をいうのであって、統治の目的ではない。
それは、誰が権力を如何に行使するかを問うのである。

自由主義と民主主義との関係の捉え方は、次のように様々である。
第一の見解は、両者の融合・調和的に捉える立場である。
これは、フランスにみられてきた伝統的思考である。
フランスにおいては、ローマ教会との争いのなかで、教権から自由に、統治形態について自己決定することが「自由主義」の眼目であると捉えられたために、自由主義運動が容易に民主主義運動と結びついたのである。
我が国の社会科学の相当数が、民主主義は自由の擁護を内包する政治体制である、と説くのは、この影響を物語っている。
ところが、「民主主義への道を自由への道と考えた人々は、一時的な手段が究極の目的と誤解したのである」(F. メイトランド)。
これに対して、両者を対立的に捉える立場も有力である。
その代表的論者がC. シュミットである。
彼は、自由主義と民主主義とが結合したといわれる現代議会主義の危機を摘出するにあたって、こう述べる。
自由主義は抽象的人間に対して自由と形式的平等とを保障する点で異質性に根底を置き分散的であるのに対して、民主主義は人間を政治的な利害をもち政治的に規定された公民とみる点で、その同質性を原理とするのであって、両者は区別されなければならない。現代の議会主義の危機は、両者を区別しない見解にこそ内在しているのである(シュミット著、稲葉素之訳『現代議会主義の精神史的地位』参照)。
第三の見解は、本書で示したように、両者を独立した概念と捉える立場である。
自由主義と民主主義が、相互に独立する概念であることは、その反対物を挙げれば、はっきりする。
民主主義の反対物は権威主義であり、自由主義の反対物は全体主義である。

「民主主義」(democracy)は、ギリシャ語のデーモス(demos = 多くの人々)のクラトス(kratos = 権力)を語源とすることから分かるように、「権力は人々に属す」の意であり、「多くの人々による支配」を表すにとどまる。
「民主」なる用語の濫用の典型例が、「実体的民主主義」とでもいうべき民主主義観である。
この立場は、実体価値として、特に「自由で平等なる市民(シティズン)としての価値」を重視し、市民を自由で平等な道徳的・自律的存在として処遇することこそ民主主義的である、とみるのである。
先にふれたように、この見方が、残念ながら我が国にも深く浸透してきた。

確かに、民主制を専制と対比しながら、前者の特徴が「自律」による統治または「自己統治」にあり、後者のそれは「他律」による統治にある、と説くことは、専制に対するプロパガンダとしては有効であった。
ところが、個人の尊厳保障を民主制の条件と説いて、自由または平等にまで言及することは、あまりに実体的価値を吹き込んだ誤用である。
また、利益・選好を異にする多数者国民による政治的決定を「自己決定」と呼ぶことはできない。
「自己決定」は、あくまで個人についていい得るだけである。
これに対して、先に示した民主主義の意義づけは、「手続的民主主義」とでもいえる考え方であり、これは、国民が被統治者であるという事実を率直に承認しながら、その政治参加の手続(投票、言論、請願、ロビー活動等)を民主主義の中身におくのである。

[56] (四)民主主義はなぜ正当化されるか


民主主義がなぜ正当であるのかという疑問に関しては、通常、次のような解答が寄せられてきた。
(ア) 個人的自由の安全装置であること。
例えば、ケルゼンは、民主制が自由な個人意思と国家秩序との間のギャップを最小限にするシステムである、と説く。
それは、民主制とは、誰もが一票を等しく持って、いつでも多数派となる自由をもつ政体である、とする実体と形式とを合一しようとする民主主義観である。
しかし、これも誤用である。
自由が守られるかどうかは、多数者の意思次第であって、民主主義は自由にとって脆弱な防御壁に過ぎない。
多数決原理は、単なる便宜である。
基本権はその便宜を破るのである。
(イ) 長期的にみれば、多数者意思を形成するよう国民を教育する効果的な方法であること。
または「討論に基づく統治」であるから、合理的な決定に至るであろうこと。
しかし、この点を過信してはならない。
多数の意思は激情となるかも知れない。
また「討論による統治論」は、いつでもプロセスを強調するのみであって、それが何をもたらすか明確でない。
我々の政治的選好は、全生活のなかで形成されるのであって、討論によって形成される領域は限られている。
(ウ) 具体的に現存する人民と、政治的統一体としての人民とが同一であるという原理に適合すること。
例えば、シュミットは、民主制が「支配と被支配の可能な限りの同一性」を保持する国家形式であるとして、その正当性を主張した(シュミット『憲法理論』288頁)。
ところが、その同質性が、人間の同質性とは別個の、民族や国民精神の同一性として捉えられるや否や、それは、代表技術を許容しないばかりか、「敵/味方」の峻別を政治世界に要請させることになり、「味方」の意思のみによる過酷でハードな統治を呼びがちとなる。
ソフトな政治は、同一性を具現するためのものではなく、多元的な意思・利害・選好を調整することにある。
多数者の歓呼による直接民主制(【N. B. 10】参照)は、健全な多数者意思の形成にとっても、自由にとっても、危険である。
(エ) 平和的な政権交代の方法であること、すなわち、最大の投票数に支えられる選択肢(指導者ないし政策)が、より少数の投票に支えられている選択肢に平和裡に取って代わること。
この点こそ、ハイエクやK. ポパーの想定する正当化理由である。
従来の政治理論または公法理論は、国民主権の理論を民主制論と直接に連結して、国民が主権者である以上、実定憲法には、国民が政治的な最終的決定者となるための機構が整備されていなければならない、と説いてきた([130]参照)。
これに対して、ハイエク、ポパー等の見識は、民主主義を国民主権と連結することを敢えて避けているのである。
これは、民主主義をもって、被治者が治者に有効な手続的統制を加えることをいうとする現実の統治を見据えたものであって、まさに炯眼といわなければならない。

被治者が治者に対して有効な統制を加える最大の機会が選挙である。
選挙権の法的性質については後にふれるが([167]以下参照)、選挙とは機関としての国民(または主権者としての国民)の行為ではなく、各人の手続的な権利として捉えられねばならない。
もっとも、民主主義は、選挙後の平和的な政権交替の前提として、投票期において次のような条件を満たしていなければならない。
【投票期における三条件】
1. 選択肢間の選好表明、つまり投票を、最大限の構成員が遂行すること(包括度の最大化)。
2. 各個人の投票に与えられる比重は同一であること(形式的平等化の徹底)。
3. 最大多数の票によって支持された選択肢が、勝利を得た選択だと公然と声明されること。

【N. B. 10】「直接民主制」のタイプについて。
直接民主制の中にも、市民全員が集まって議案・事項につき自ら決定する場合と、受任者を決定する場合とがある。
前者を「レファレンダム」(※注釈: referendum 一般的な国民[人民]投票)と呼び、後者を「プレビシット」(※注釈: plebiscite 領土帰属や統治者選択のための人民投票)と呼ぶ。
レファレンダムは、英米においては direct legislation と呼ばれることがある。
これらは、多数者の選好を直截に表示する政治的意思決定方法であり、確かに民主的なやり方だといえる。
が、しかし、この方法は少数となる者の自由にとって望ましくないだろう。
たとえ、レファレンダムが少数者の自由に対して危険であるかどうか不問とするにしても、これは、民主主義が自由や個人の尊厳を保障する政治体制ではない、ということを我々に気づかせる材料となっているはずである。
また、プレビシットは、「英雄」の出現を待望しがちな権威主義的投票人が第二のナポレオンを選出しはしないか、と歴史的に恐れられてきた。
直接民主制、間接民主制の意義については、[162]をみよ。

[57] (五)包括度・自由度等を満たした政体を民主制という


民主主義の正当化理由もさることながら、それを制度化するに当っての条件の検討も必要である。
その検討は、R. ダールによって為された。
彼は、ポリアーキィ(※注釈: polyarchy)(民主制に最も近い「多頭制」という政体)の条件として、次の諸点を挙げている(ダール『ポリアーキー』)。
選挙民となる人口(包括度)が大であること、
政府に対して自由に異議申立する機会(自由度)が大であること、
市民(シティズン)には、平等で秘密の投票の機会が与えられること、
複数の競合的な政党が存在すること(ポリアーキィにとっては、二大政党制よりも、多党制が望ましい、とダールはいう)、
複数の政党または指導者が、投票を求めて自由に競争すること
等である。


■第三節 憲法典の意義とその規律方式・事項


[58] (NO TITLE)


憲法典とは、国家の統治の基本的事項、つまり、constitution の内容を組織的に編纂した法典(実定法)をいう。
それを「国家のあり方を国家全体との関係において規律するところの究極的法規範」と言い換えてもよい(佐藤・20頁)。
憲法典には、日本国憲法やアメリカ合衆国憲法のような単一成文典方式と、スウェーデン、フランス第三共和国のような複数制定方式とがある。
明治憲法時代には、大日本帝国憲法と皇室典範という二つの成文成典から成る複数制定方式が採られた。

憲法典が、国家の統治の基本的事項を規制するものである以上、その規制事項としては、
(ア) 統治権を意味する主権の所在、
(イ) 統治機構(立憲主義的憲法であれば、権力分立機構)の大綱、
(ウ) 国民の主要な基本権カタログ、
を最低限その内容として取り込まなければならない。
その他、対外的独立性という意味での主権や、国家の支配権という意味での主権の及ぶ範囲(領土)等に言及している例もあるものの、これらは、国際法上決定されるものであって、国内法たる憲法典で規制しても無力である。


■第四節 憲法典の特性


[59] (一)憲法典は統治権力の割当と制限に関する究極の法である


憲法典の特質として、通常、「法の法としての憲法」に言及され、それはさらに、①授権規範としての憲法典、②制限規範としての憲法典、③最高規範としての憲法典、に分類される(清宮Ⅰ・16~38頁)。
そのことを、ハート流にまとめれば、憲法典とは、ある実定法体系内での「確認のルール」のうち、最上位に位置するルールである、ということになろう([47]参照)。

憲法典は、統治に関する制限規範(実体規範)であると同時に、最上位の授権規範(手続規範)である。
換言すれば、憲法典は、赤裸々な政治上の事実の力によってもたらされがちな政治的秩序を、「確認のルール」のもとで統制し、なまの力である権力(power)を権威(authority)へと転化させるばかりでなく、憲法典以外の法規範に対して妥当性(validity)を付与する成文の法規範である。

[60] (ニ)憲法典自身の規範性は常に疑問視される


法規範が、妥当性と実効性とを持たなければならないとした場合、憲法典という法規範は、常に、両者について疑問視され、「憲法の規範性問題」として論議され続けている。
憲法典に規範性を持たせる一つの工夫が違憲審査制(憲法典に裁定のルールを組み入れること)である。
しかし、全ての憲法的紛争が、権威をもって最終的に裁定されるわけではなく、その制度をもってしても、規範性を確保し続けることは困難である。

[61] (三)憲法典自身の妥当性を根拠づけることは容易ではない


憲法典の妥当性について、通常は、人民の意思(合意)によって作られたことがその根拠として挙げられる。
しかし、意思の力はあくまで事実上の力であって、意思が妥当性をもたらすという保証はない(Iこの点は、憲法制定権力の性質を論ずる際に [118]~[132] で再びふれることになろう)。
たとえ社会契約に示された意思が妥当性をもたらすとしても、その妥当性は、政治的統一体の始源的権力の創出および獲得の段階についてまで言い得るに過ぎない。
始源的権力によって作り上げられた憲法典と、憲法典上の統治機構によって行使される権限の妥当性は、いまだ謎に包まれたままである(社会契約によって創出された政治的統一体と、憲法契約によって創出された権限とは、同一ではない)。

憲法典と憲法典上の統治機構の妥当性を意思に基礎づけようとする論者は、憲法典が民意を反映する統治メカニズムを組み入れていることを挙げたり(この点は、ときに「実定憲法上の構成原理としての統治制度の民主化の要請」といわれることがある [佐藤・100頁])、人民による定期的な選挙に服することを挙げたりして、その正当性を説いてきた(ロック)。
しかしながら、この説明が憲法の規範性問題の解決に成功している訳ではない。
意思を基礎とする理論は、その意思それ自体を拘束するルールを解明しない限り、意思から生ずる万能の権力を説かざるを得なくなるであろう(シュミットが述べた如く、「意欲すれば足りる」という仕儀に至る)。

憲法典の妥当性の根拠を意思以外に求める思考として、憲法典自身に授権する「根本規範」または「始源規範」を仮定するものがある。
その根本規範の妥当性は、疑問視され得ないものとして仮定されるのである。
基本法である憲法典に対して妥当性を付与するその実体は何であろうか(この点については、最高法規性を論ずる第六章の [93]~[95] で再述する)。

[62] (四)憲法典自身に実効性をもたせるために憲法典に工夫が施される


制裁規定に発する拘束力をもつのが通例である他の法令とは違って、憲法は、簡潔・大綱的でその細目と制裁方法とを下位法に委ねているために、拘束力(または実効性)をもたず、常に実効的であるとは限らない。
ケルゼン流に、拘束力をもつ法規範(「もし、・・・ならば、その場合は・・・・・・」という仮設の形で示されて、後件に制裁を用意しているもの)だけを「真正の法規範」と呼ぶとすれば、憲法は、真正の法規範ではない(ただし、彼の理論の是非をここでは問うてはいない)。
ケルゼンはこういう。
「実質的憲法の諸規範は、それを基礎として創設されたサンクションを定める諸規範との有機的な結合においてのみ法」となるのであって、憲法諸規範自体は、独立した完全な規範ではない(ケルゼン『法と国家の一般理論』240頁)。
こうした特性をもつことに着目して、憲法され自体は「直接有効な法ではない」といわれることがある(小嶋・29頁)。

アメリカ憲法典が、司法審査制を導入し、「国の最高法規」であると自ら宣言したのは、憲法典を、その内部から「直接有効な法」にしようとした試みである。
我が憲法典もこれに倣った。
それでも、その内部的装置の妥当性を根拠づける規範問題が解決されたわけではなく、またさらに、憲法典のなかには、政治的マニフェストやプログラム規定が残されていることを考慮に入れれば、すべての憲法上の規定が直接有効とされるわけでもない。

[63] (五)憲法典の特性として基礎性・大綱性をあげる見解は曖昧である


その他、憲法の特質として、根本性、基礎性、大綱性等が指摘されることが多いが、いずれも不明確といわざるを得ない(例えば、美濃部『憲法撮要』71頁は、憲法とは、国家の組織および作用に関する基礎法をいうとして、基礎性の要素を、国家の領土の範囲、国民たる資格要件、国家の統治組織の大綱、国家と国民との関係に関する基礎法則をあげるが、これらの事項が基礎性という特性を有しているといえるか、疑問である)。
本書は、憲法典が「究極の確認のルール」に基礎を置きつつ、他の実定法に妥当性を付与する「確認のルール」である点にその特質をみてとる([47]参照)。


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※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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第四章 立憲主義と法の支配

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第四章 立憲主義と法の支配 p.59以下

<目次>

■第一節 立憲主義の歴史的展開


[64] (一)最古の意味での立憲主義にいう constitution はルール概念と結びついていた


立憲主義(constitutionalism)の体系は、18世紀になって確立された([3]参照)。
もっとも、その起源は、古代ギリシャに遡り、封建時代にあってもその思想は消え去らなかった。
それは、ときには宗教的な主張として、ときには歴史的な主張として、その内容に変遷をみせながらも、宗教的・歴史的な秩序による統治者(統治権)の制限を説く理論から、道徳哲学によって支えられた法体系による制約論へと、理論体系化されたのである。
その過程は、円滑なものではなかった。

最古の立憲主義は、国家権力の恣意的行使(専制政治)を防ぐために、constitution によってそれを統制することを目指した。
そこでの constitution は、先にふれたように([30]参照)、「ルールを定める行為」またはかく定められた「ルール」を意味した。
もっとも、それは、政体の長所短所を判定する物差しにとどまり、強制力をもつものではなかった。

その後、中世までは、恣意的統治に対する法の勝利は、莫大な血とエネルギーの代価の割には、緩慢であった。
なぜなら、正常時においては、領主とその下の領民は、旧き良き法、良き慣習によって包まれる法共同体であったために法の必要は意識されず、不正規状態にあっては、それまでの立憲主義は、constitution に反する恣意的な統治に対して有効な「制裁」を用意していなかったからである。
それでも、立憲主義の思想は、歴史から消え去ることはなかった。

[65] (ニ)中世における constitution は「統治」と「司法」との区別を知っていた


イギリスにおいては、「立法」という思考はなく、法は作られるのではなく発見され維持されるものであると考えられてきている。
中世におけるコモン・ローは、宣言された法の集積であり、基本的な法の体系とみられたが、王権全体を統制する法力まで持たなかった。
その法上の空隙部分は、王権といえども法のもとにあるという理論によって補充され続けた。

13世紀の法律家H. ブラクトンは、王権にも、法によってその行使の制限されている領域と、制限されざるそれとがあることを指摘した。
前者は jurisdictio (司法)と呼ばれ、後者は gubernaticum (統治)と呼ばれた(マクワルワイン著、森岡敬一郎訳『立憲主義 その成立過程』)。
ブラクトンは、jurisdictio の領域に関しては、王権の行為であっても、立法行為であっても、コモン・ローによって拘束されていると説き、また、H. ボーリングブルクは、国民の歴史から確定されるはずの実体的な制約原理として、太古からの憲法(ancient constitution)が存在してきた、とも主張した。
これが後世の立憲主義思想の母胎となる。
これに対して、ヨーロッパ大陸諸国では、この思想は、意図的に排斥されてしまう。

■第ニ節 「法の支配」の観念の成立


[66] (一)立憲主義的 constitution は「基本法」による統治を求める


「人間に服従するのではなくて、ただ法に服するときに、人々は自由である」(I. カント)。
「神の支配」や「人の支配」に代わる「法の支配」は、自由の法的表現であり、近代立憲主義の追究してきたのは、まさにこの点にある。
constitution は、近代に至って初めて「基本法」(fundamental law)としての属性をもつに至る。
その属性をもつに至った歴史的背景を、イギリスについてみれば、次の通りである。

第一は、 ブラクトンの説いたように、「統治」と区別された「司法」(jurisdictio, ius)という概念が一貫して存在し続け、これが君主の統治権を絶対的・無制約とさせない力として作用していたためである。
16世紀の重大な政治的軋轢は、「司法」と「統治」との両者を分かつ不明確な境界線を巡って反復された。
その闘争の中で、コモン・ローの比類のない強靭さの故に、司法領域の最終的判定者は、パーラメントと裁判所とであり、それらの機関も、法のもとにある、との思想が17世紀にかけて勝利を収めるに至る。
国王の大権に基づいて、コモン・ロー手続に拠らない裁判をしていた星法院の廃止(1641年)は、このコンテクストで捉えられる。
第二は、 宗教上の見解の対立によって、一つの教義によって統治することができなくなった結果、宗教的教義に代わる基本的・世俗的な統一的価値が求められた背景がある(宗教教義による統治権の制約から法理論による制約へ)。
そればかりか、16世紀の宗教改革は、不正な支配者に対する抵抗と不服従の宗教的正当性を説いた。
この宗教的抵抗義務を、権利の概念に再編成したのが、モナルコマキと呼ばれる抵抗権論者であった。
彼らは、「法が国王をつくる」とするアリストテレスの言葉に依拠することによって、「神によらざれば権力なし」としてきた王権神授説を打破しようとしたのだった。

こうした歴史的背景は、フランスについても基本的に妥当する。
同国においても、フランスの国王の至上権を拘束してきた三つの枷として、16世紀の思想家たちは(J. ボダンでさえ)「王権の基本法」、「司法」および「宗教」に言及していたのである(同国の政治的実践は、現実にはこれを侵犯してしまう。それでも、立憲主義思想は、完全に死滅することはなく、市民革命という形で一挙に噴出したのである。それは、立憲主義の見方をも根本的に変えたという意味でも、まさに「革命」だった)。

[67] (二)「基本法」のもとでの統治は「法の支配」を意味する


「基本法」にいう「基本」(fundamental)とは、統治に先立って存在し、統治を先導し、拘束する性質をもつこと、そして、通常の法的手続によって改廃されないこと、をいう。
また、“law”(法、法則)とは、人間の意思を超える永遠の真理を表した。
これらが含意することこそ「法の支配」の意である。
「法の支配」(rule of law)とは、語源からみると、「法(則)による統治」(government by law)を意味した。
立憲主義(constitutionalism)とは、基本法としての属性をもった憲法による統治を指す。
18世紀末にみられた市民革命は、統治者が「法」(law)と「立法」(legislation)、「司法」と「統治」との区別を無視したために勃発した。
当時の立憲主義は、統治権からの法や司法への侵入に対して、それを保護する法的制裁方法に欠けていたために、ブルジョアジィからの実力による制裁として発生したのである。

「法の支配」の前提には、次のような思想が流れている。
統治主体が誰であろうと、統治と憲法(国制)とは、同じものではないこと。または、法と統治権力とが同じ源泉に拠らないこと。
憲法(constitution)は、統治を先導し、拘束するものでなければならないこと。
憲法は、人民が政府に委託する権能を規定していること。それ故に、憲法は、統治権限を制限するものであること。
如何なる統治であれ、憲法の示す制限を越えた権能行使は、正当ならざる権力の行使であること。「法は王である(Lex, Rex.)」とか「もともと法(lex)とは正しきこと(ius)の確認である」ともいわれる。
統治そのものが憲法であるとする国家、すなわち、統治に対して憲法が制限を課していない国家は、憲法をもっておらず、専制国家であること。

こうした思想は、さらに、統治が憲法上の限界を逸脱しているか否かの判定を為す独立機関の必要性を気づかせ、それがまずは司法府の独立保障として、そして、やがてアメリカにおける司法審査制として結実するのである。

右のような思想を底流にもつ「法の支配」は、次第に、統治者を拘束するための具体的な内容と形式とを持つものとして次のように実定法体系中に明示化されていき、法執行の正しさをも実現しようとしている。
(a) 法令の規定なく刑罰は科せられないこと。
(b) 法令は遡及的に適用されないこと。
(c) 行政官の裁量は、厳しく制限されるべきこと。
(d) 裁判官は、法が語ることを伝える口述者に過ぎないこと。

[68] (三)18世紀のイギリスにおいて法の支配は定着期を迎える


裁判官が法を発見して、それを伝える口述者としてふさわしい権能をもつためには(法の支配の一内容である右の(d)を実現するためには)、原則的に、その地位を他の政治部門の影響の外に置かなければならない。
イギリスにおいては1701年の王位継承法が裁判官の独立保障につき次のように謳ったのは、この点に配慮したためである。
「裁判官の任命は、『罪過なきかぎり』続くものとして為されるべきであり、その俸給は不動のものとする。但し、議会の両院の奏上に基づいて裁判官を罷免することは、合法である。」
この裁判官の独立保障は、後世代によって権力分立の一要素であると理論構成されるばかりでなく、裁判官の準拠する法は、君主の「命令意思としての法」ではないこと(「法を確認し維持する《司法》」と「君主の意思を確認し執行する《裁判》」との違い)を気づかせる契機となったのである([412]、[501]参照)。

その他、法の支配の内容として、前記(a)、(b)、(c)を具体化する罪刑法定主義や、一般的・抽象的法の定立と、そのもとでの平等な処遇を意味する「法の平等保護」が摘示されるようになる。
人の自由に対して強制を加えるときには、《未知の無数の将来の事例に等しく適用される法に拠らなねばならない》と考えられたからである(法の一般性・抽象性・平等普遍性)。

この「法の支配」の原型は、D. ヒュームの法哲学に求めることができる。
彼は、自由な国家においては、為政者の恣意的な裁量が廃止されるべきこと、為政者は「すべての政府構成員と被治者に予め知られている一般的で平等な法に従って行動しなければならない」こと、「法が明確に犯罪と定めた行為以外は、いかなる行為も犯罪とされてはならない」ことを述べた(ヒューム著、小松茂夫訳『市民の国について(下)』162、216頁)。

ところが、イギリスにおいて、議会主権という観念と慣行が形成されると共に、議会が制定したものが「法」である、と考えられがちとなって、ヒューム的思考は後退していった。
これに対して、植民地アメリカにおける人々は、当初、旧き良き法の保障する権益に訴えかけることによって、イギリス人としての生命・自由・所有権を正当化しようとしたが、独立戦争を契機として、自然法と結びついた「法の支配」思想を強調するに至った。
それが独立宣言中の「自然の法と自然の神の法」との表明となったのである。

[69] (四)「法の支配」は、その後一時低迷する


ところが、その後法の支配の理念は、フランス革命と、大陸的合理主義哲学(真の自由を知らない抽象的理論、人民の意思が法を作るとする意思中心主義、民主主義と自由主義とを区別しない理論)の影響によって、停滞する。
というのも、意思中心主義を採る限り、誰の意思によって制定されるかという手続が明示的に形式化されれば「法」となると観念されてしまうからである。
ここに、議会または多数者の意思が定めたものであれば、正当な意思の源泉がそこに示されている、といわれることになる([60]において既にふれた、憲法典の正当性を人民の意思に根拠づけようとする理論も、これと無関係ではない)。
こうした思考が、すぐ後の[72]でふれる形式的法治主義に繋がるのである。

[70] (五)法の支配はアメリカにおいて新たに継承・発展させられた


独立戦争は制限君主制を求めて勃発した。
為にアメリカにおいては、統治機関は人民によって委託された権能だけを行使するものと考えられた。
そのために、全ての統治機関は、基本的な法文書によって特定の権力を与えられ(授権規範としての憲法)、同時にその権力も「基本法としての憲法典」のもとで、厳格に限界を定められなければならない(制限規範としての憲法)とされた。

《憲法典は法の支配を具体化した法文書である》と観念することは、法規範の構造を階梯的に捉えることでもある。
アメリカ合衆国憲法上、司法審査に関する明文規定がないにも係わらず、裁判所は、憲法典に違反する下位法の効力を否定しうるとされてきたのは([444]参照)、法規範構造を階梯的に捉えた帰結である([93]でふれるケルゼンの法段階説と比較対照せよ)。

統治機関が人民によって委託された権能だけを行使するということは、全ての権力が人民に由来することでもある。
これは、国家機関の創設権限を有する国民、すなわち、後述する憲法制定権力の主体としての国民、という考え方をアメリカが最初に実定憲法に取り込んだことを表す([118]参照)。
これ以降、「法の支配」が憲法典のもとでの統治と同視されがちとなった。

【表5】「法の支配」の展開
①「司法/統治」の区別論 → ②「基本法」のもとでの統治 → ③イギリスでの定着 → ④大陸での低迷(形式的法治主義) → ⑤アメリカでの発展的継承 → ⑥大陸での見直し

■第三節 「法の支配」の公式化


[71] (一)法の支配はA. ダイシーによって公式化された


A. ダイシー(1835~1922年)は、「法の支配」を成文憲法典による政治権力の統制として捉えなかった(巻末の人名解説をみよ)。
彼は、イギリス独特の不文法的伝統のなかで、法の支配を公式化したのである。
彼のいうその内容は、次の三つである。

専断的権力支配とは対照的に、正式(正規)の法(regular law)が絶対的優位に立つこと。
正規の法とは、司法的合理性によって確認された法をいう。
そこには、法(law)と立法(legislation)との区別が前提とされており、前者が後者を指導していくものとされている。
従って、当然のことながら、立法の実体的側面も法による統制を受けることになる。
何人も正規の法のもとにあり、通常の裁判所の管轄権に服すること(「行政裁判所をイギリス法は知らない」といわれる)。
これは、行政官の裁量は厳に統制されるべし、という命題([66]参照)の帰結である。
憲法は、憲法典によって与えられるのではなく、正式の法の展開(裁判所による適用および議会の活動)の結果である。
人権は、正式の法がある限り破壊されることはない。
これも、法と立法の区別を前提とした議論であり、人権を実定法たる憲法典で語り尽くすことは不可能でもあり、語り尽くせると想定することこそ危険である、とダイシーは言いたいのである。

[72] (二)ダイシーの法の支配の理解は完全無欠ではなかった


右のような「法の支配」の理念は、その後、誇張され、あたかも不動の価値であるかのように説かれていく。
もともとダイシーのいう「正規の法」が何を意味するか定かではなく、正規の法によって自由を中心とした基本権が守られるというのも、イギリスが不文憲法の国であるとする誇張のうえに成立していた。

また、彼の理論は、大陸における法の支配が不完全であるという誤った前提に立っていた。
ダイシーは、大陸法上の欠陥が行政権の行使につき司法審査(適法性審査)の及ばない点にあるとみた。
そのために、行政行為を通常裁判所によって審査する点こそ法の支配にとっての鍵であるとみたのだった。
ところが、実際には、フランスにおいても、ドイツ(プロイセン)においても、法の支配と同じ観点から「法治主義」が説かれていたのである。
もっとも、フランス第三共和国やプロイセンにおいては、その理論が実践に取り込まれないまま、通常裁判所とは系列を異にする、行政機関のための行政裁判所が設置されてしまう([443]参照)。
これを契機に、R. グナイスト(1816~95)によって理論的に(政治的に)歪められた法治主義の考え方が1860年以降、支配的となる。
そして、その後は、ドイツ的法治主義、すなわち議会の定めたものをもって法とする形式的法治主義と、英米的法の支配とは、あたかも、水と油であるかのように今日まで語り継がれているのである。
形式的法治主義は、ルールが従うべき手続上の制約を課すのみである。

【表6】形式的法治主義
議会の意思による法の定立(意思の発動形式の重視)
【議会と行政との関係】
法律のもとでの統治=法律による行政の原理
(ア) 法律の法規範創造の原則
(イ) 法律の留保原則
(ウ) 法律優位の原則
【裁判所と行政との関係】
通常裁判所の民事刑事の司法権行使(限定的司法概念)
通常裁判所による国家行為の合憲性統制の意識的排除
通常裁判所の独立
官僚統制のための行政裁判所(ただし、統治行為は審判対象外)
行政裁判所裁判官の身分保障

[73] (三)H. ハートは「法の支配」を形式的・手続的正義として公式化し直した


「法の支配」とは何であるか、積極的に定義づけ、さらにその論拠を呈示しようとすることは、容易な業ではない。
法の支配は、よく次のように説明される。

(a) 人の恣意的な意思による支配ではなく(マサチューセッツ憲法前文にいうように、「人の支配ではなく、法の統治」である)、
(b) 形式的法治主義でもない(《法の支配は法律の支配にあらず》)。

ところが、この解明では、
(ア) 人の恣意によらざる支配とは、いかなる支配であるのか(《法が支配する》、との解答は、統治の実態を覆い隠すに過ぎない)、また、
(イ) 法の支配にいう「法」とは何であるのか、
積極的に論証したことにはならないのである。
上の(ア)の疑問に関しては、こう解答することも出来なくはない。
すなわち、《人権をよりよく保障することが、法の支配のいいたいところである》、とか、《個人の尊厳をよりよく保護することである》と説くこと、これである。
ところが、法の支配を個人の尊厳の実現と関連づけることは、《法の支配が何を目指すか》という問に対する解にとどまり、《法の支配にいう法とは何であるか》という、法の内実を問う際の解ではない。

法の支配の意義を積極的に呈示する方向として、二つの見方が存在してきた。
第一は、 問題の法令が、human nature という法則(実体的正義や理性)を体現しているか、という法の実質・内容を問う立場である。
その典型的立場が、自然法論である。
第二は、 法の形式を重視するタイプである。
これは、問題の法令が、どのような特定の人々をも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で抽象的な形式を満たしているか否かを問うのである。

法の一般性・抽象性・普遍平等性という形式は、次のような普遍可能性原理の応用編である。

法は、人を定数で(固有名詞として)扱ってはならない。私個人と他の個人との間の数的差異を法的には関連性のない要素とみなさなければならない。
私個人にとって重要であるとみられる類的・質的差異を、法は関連性なき要素とみなさなければならない。

以上は、要するに、《全ての人々の観点から受け入れられることのできる原理を法は組み込むべし》、とする思考である(『憲法理論Ⅱ』 [36] もみよ)。
法の支配の要諦は、法が、特定の人々に対して、特定の仕方で、処遇してはならない、という形式性にある。
その形式性は、「具体的効果を知らないこと、これらのルールがどのような目的を促進するか知らないこと」を含意するのである(ハイエク著、一谷藤一郎訳『隷従への道』108、103頁)。
ところが、ヘーゲル=マルクス主義は、この形式性こそ、人々に対して形式的平等と形式的自由だけを与えるものと批判したために、特定の個人の置かれた地位を配慮して、実質的平等・実質的自由を保障する法令が正義に適う、と考えられがちとなって、法の支配の思想が侵食されていったのである。

法の支配の復権にとって重要な視点を提供したのがH. L. A. ハートである。
ハートは、法の支配の内実として、法としての適正の原理と、自然的正義の原理を挙げる。
前者は、 法の一般性、明確性、公開性、不遡及性を要請する。
それは、形式的正義をいうものと思われる。
後者は、 個別的適用にあたって不偏不党公平であり、また事実の証明や法律の解釈に当って紛争当事者双方の意見を考慮することを要請する。
それは、手続的正義を意味するものと思われる。

法と道徳との必然的関連性を否定するハートは、法の支配の中に、「公正」とか「実体的正義」を含めることに躊躇せざるを得なかった。
この点は、「法律は悪法で、不公正であるかも知れないが、しかし、それを一般的で、抽象的な形に成文化することにより、この危険は極小にまで押さえられる」と考えたデュギーも同様であった。
正義の実体は、いつも論争されてきた。
その論争の中で我々は、得てして過剰な実体を求めがちとなる。
ハート、デュギーが懸念したのはその点であった。

法は最小限の正義を体現すべきものなのである。
その正義は、誰にも積極的な義務を課すことなく、不正義を為さないよう求める消極的なものでなければならない(負の力としての正義。[47]もみよ)。

[74] (四)「法の支配」の小括


「法の支配」とは、統治機関(立法権を含む)が強制力を用いる場合には、公知の、事前に予知可能で(確実性・公開性を持ち)、平等に適用される、一般的・抽象的立法を要請する「基本法」(fundamental law)のもとでの統治をいう。

「基本的」法は、立法とそのもとでの統治がどうあるべきかに関するルールである(統治を先導するための規範)。
「基本的」であるか否かは、法の権威の源泉(誰の意思が法をつくるか)によって決まるわけではない。
それは、一般性・抽象性・平等普遍性といった形式的正義や、両当事者の意見を聴くべしといった手続的正義に従っているかどうかによって決せられる。
この意味での正義は、先にふれたように、誰にも積極的な義務を課すことはなく、個別的な文脈の中で発見され宣言されるに過ぎない。

では、立法がこうした正義を具備しているか否かを判断するに相応しい構造をもっている機関はいずれであるか。
それは、個別的な文脈のもとで、合理的な手続を踏みながら公正な観察者の視点から法を宣言し維持する権限を与えられている司法府である。
「法の支配」が、司法府の独立のみならず、司法的手続の整備の要請、司法審査制と結びつくのは論理必然的である([446]参照)。

「法の支配」による統治機関の統制は、国家が人の自由に対して強制を加える領域に及ぶ。
もっとも、今日では、いわゆる政府の受益的活動についても「法の支配」を必要とするという立場もみられる。
国家の財政政策を法の支配に服せしめることも重大な視点であろう。

[75] (五)日本国憲法も、法の支配の思想に強く影響されている


日本国憲法は、多方面にわたって法の支配の思想を具体化している。
そのことは、
76条において、司法権を一元的に通常裁判所に帰属させ、司法権の独立を保障し、さらに、特別裁判所の設置を禁止していること、
98条1項において、憲法典の最高法規性を宣言して、階梯的法規範構造を採用し、これに反する国家行為の効力を否定していること、
81条において、司法府が一切の国家行為につき、統治を先導する基本法(最高法規)と適合しているか否かを判断できるとされていること、
11条において、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と定め、さらに、13条において「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と謳って、形式的法治主義を排除していること、
31条において、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と定めて、法令の規定なく刑罰を科せられないことを確認していること(31条の解釈によっては、実体規定の明確性まで要請しているとみることもできる)、
39条において、「何人も、実行のときに適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。」と謳って、事後処罰と二重の危険の禁止を定めていること、
等に表れている。

もっとも、以上の諸条規に言及するだけでは、日本国憲法が法の支配を組み込んでいることを論証したことにはならない。
なぜなら、ある法体系内の公理を出発点として当該体系の公理を論証しようとすることは、決定不可能だからである。
これを「自己言及のパラドックス」という。


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第五章 立憲主義の展開

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第五章 立憲主義の展開 p.71以下

<目次>

■第一節 近代立憲主義の特質


[76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ


近代国家は、
(ア) 統治権力を独占し、集中的な、しかも恒常的な租税体系を基礎とし、
(イ) 中央より指導される常備的軍事力をもち、
(ウ) 行政を専門的官僚の支配という形で組織し、
(エ) 統治領域以外は、社会の自動調整システムが機能するように最小限しか干渉しない、
という特徴を示してきた。

近代立憲主義は、[74]でふれた「法の支配」思想のもとで近代国家の統治権力を形式的な合法的権威に転化させるべく、一般性・抽象性・平等普遍性を満たす立法の制定と、そのもとでの行政。司法という定式を憲法典で実現した。
そうすることによって、リヴェイアサンともなりうる国家から、自由を中心とする基本権を守ろうとした。
すなわち、近代立憲主義とは、基本権保障と権力分立という内容を、正式の法文書という形式で確認する思想をいう。
それは、先に述べた「配分原理」と「組織技術」(分立技術)とを、成文憲法典で確認することと同義である([53]参照)。

[77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である


しかし、それだけではない。
近代立憲主義国家においては、統治者が法に対する責任を負うことばかりでなく、政治的にも被治者に対して責任を負うことをも、謳われなければならない。
これを「責任政治の原則」という。
責任政治の原則を具体化するものとしては、大臣責任制、そのための弾劾制度、その後に登場した内閣不信任制度(内閣の連帯責任制)がある。
また、何よりも、選挙制度が忘れられてはならない。
もっとも、これらの責任政治のための制度が、現実の統治過程で有効に機能するとは限らない。
現代立憲国家に登場してきた政党は、責任政治を実質化するために「反応よき統治」(responsive government)を目指すのである。

[78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった


では、近代立憲主義は国民の政治参加についてどう見ていたか。
この点に関しては、一方で、近代立憲主義は民主主義と結びついて国民の政治参加に肯定的であったとする見解(芦部『憲法講義ノートⅠ』28頁)と、他方で、近代立憲主義は積極的な国民の政治参加に好意的ではなく、自動制御装置的政治機構を望んだとする見解がある(佐藤幸治編著『憲法Ⅰ』15頁)。
そのうちのどちらが妥当であるか。

その解答はどの国を念頭に置くか、誰の理論をモデルとするかによって、当然異なってくる。
概していえば、理念上は積極的な政治参加が説かれながらも、いざそれを現実に法制化する段になると、統治者たちは慎重な態度に出た。
その理由を理解するためには、近代立憲主義の拠って立つ理念上の人間観・国家観と、現実のそれとの乖離が解明されなければならない。

■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観


[79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた


市民社会は、私的所有または自由意思の主体たる個人の集合体と考えられた。
個人の私的領域の総計が社会的領域と観念されたのである(この見方が、本書の冒頭の [1] でふれた「方法論的集団主義」の典型である)。
「私的領域」とは、いかなる領域をいうか。
また、それをどう評価するか、という争点は、そこに生きる人間への見方によって変動する。

近代立憲主義は、身分制の桎梏から解放された、自由で独立した合理的・理性的個人を想定した。
それは、個々人の示す事実上の違いを捨象した抽象的な人(人格)として捉えられた。
この人間観の発生には、キリスト教、なかでも改革派の説いた、内心または道徳の内面・絶対性、法の外面・形式性という考えが大きく影響している。
中世にあっては、「神の法→自然法→人間の法」という序列が「信仰→(信仰を通して発見される)理性→(理性を具現する法による)利害関心の調整」という序列に対応していたのである。
ところが、宗教改革後、信仰の内面性または多様性が承認された段階で、その対応関係は消滅し、人間社会の利害関心の調整は「(人間に自然に備わっている)理性によって発見される自然法による統制」や「自然法による人為法の統制」という、人の内面とは別個の規準に委ねられるものと再構成された。
その際の基軸は、《人は道徳的で人格的な理性的存在だ》という、人間存在の特質に求められた。

こうした歴史的展開の影響のもとで、人間の合理的で自由な意思を信奉する近代合理主義哲学を基礎として、法学は、「私的領域」を、理性的、道徳的存在としての個人の精神的集合体であると想定してきた。
自然法、自然権思想を支える人間観は、これと無縁ではない。
国家以前の自然状態における個人は、まさにこのような存在として仮定されたのであった。
例えば、ロックの社会契約論は、理性的な決定を為し得る、没社会的な神人同型の個人を前提としていた。

[80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている


近代市民法または伝統的法学は、こうした人間観に立って、「公的領域/私的領域」の峻別を説いてきた([4]参照)。
そして、私的領域について国家の不介入や「自由放任」があたかも自明であるかのように扱ってきた。
近代立憲主義国家が消極国家である、といわれてきたのは、こうした意味あいを込めてのことである。
しかしながら、消極的国家または夜警国家のもとですら、国家は、一方で、社会・個人の一定領域を保護してきたのが現実であり(その領域に関してオフ・ハンドでいたことは決してなく)、他方で、権力組織としてその領域を浸食する主体でもあった。
その意味で、個人的領域と政治的領域との分離といわれる場合でも、その分離は、国家内に存在し、国家によって維持されるのである。
その個人的領域は、法のもとでの自由の意味であって、法の欠如でもなければ、「自由放任」でもなかった([54]参照)。
また、「公的(公権力の)領域/私的(市民社会の)領域」という二分法も、社会のある部分をときに「公的」と呼び、経済市場をときに「私的」と呼ぶに至った段階で、相互の浸潤現象を否定しさることも出来ずに、次第に通用力を失っていく。
それは、人間の本性への見方の変容を反映してもいる。

[81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった


楽観的人間観に立つ近代立憲主義、なかでも大陸のそれは、国王の権力を制限するための諸理論と手段を発見したものの、人民による「自己統治」(または国民の意思から発するとされる主権)を制約する手段を見出してはいなかった。
有効な制約手段がないために、近代立憲主義は、制憲権を国民の意思の発動とみながら、理念的な国民主権([127]でふれる正当性原理としての国民主権)を説く一方で、実際の統治に当っては、民意を遮断するための諸メカニズム(例えば、代表制、二院制、間接選挙制等)を考案したのである。
さらに、オリュー、デュギーの如く、論者によっては、主権概念自体を否定するものすらみられるのも([8]参照)、主権を統制するものを解明できなかったからである。
近代立憲主義は、人間の本性に対する楽観的な信頼の上に成立していた。

[82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる


近代立憲主義を支えた啓蒙思想は、政治または権力とは異なる次元に属するところの理性(またはそれを客観的に具現する正義(イウス))のもとに、政治的利害関心や抗争を従属させ、統制しようとしてきた。
当時、理性は、自然、人、社会を律する客観的な秩序を意味していた。
理性の主体である人は、秩序づけられたこの世界にスッポリと違和感なく収まりきる存在であった。
個々人は、その事実上の違いを捨象されて、普遍的に「人格」として捉えられた。
ところが、国民国家の枠組みが顕著となるにつれて、制度的支えのない普遍的人格を語ることの限界が、G. ヘーゲルによって鋭く突かれた。
人を人格として超越論的に扱うだけでは済まなくなったのである。
この時点で、近代啓蒙思想体系は、一度、打ち砕かれることとなった。

国家と市民社会のなかで生きていく人々の本質的特徴は、行動すること、他者と共同して生活すること、労働すること、消費することにある。
人格として存在することではないのである。

そうなると、法的地位、生産能力、消費量等々、個々人はそれぞれに異なっていることに気づかれてくる。
近代立憲主義の想定する人間観は通用性を失って、再検討を迫られたのである。
こうした再検討のなかで出てくるのが「現代立憲主義」である。
近代立憲主義が中世立憲主義とは異質な様相をもって登場したと同じように、現代立憲主義は近代立憲主義を否定する中で誕生したのである。
現代の憲法理論が近代啓蒙の時代に安閑と依拠してはおれない理由は、ここにある。

■第三節 「現代立憲主義」へ


[83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である


19世紀後半以降のマルクス主義と労働者階級の勃興は、近代合理主義哲学が説いてきた意思中心主義、個人(主体)主義への反省を迫った。
それは具体的には、
個人的意思の集積の結果、実体として出現するといわれる一般意思への批判と、それを支える社会契約論への批判(これらは階級対立を隠す)、
社会に存在する中間団体の見直し、
人々の身分・利害の多様性と、法の多元性との承認
という方向として表れる。
この方向は、人間存在や法の見方のみならず、国家の見方までの変更を思想家に迫らざるを得なかった。

近代国家を法的に統制しようとして出てきた近代立憲主義は、この変容を一部取り込みながらもその根幹を維持しようとするが、様々な課題・矛盾を背負い込んで、様々な変更を余儀なくされる。
[11] でふれた「現代国家」の実相に応じて変容されてきつつある立憲主義を「現代立憲主義」という。

[84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る


「現代立憲主義」は、理性的でもあるが、同時に、私利私欲をもった経済的に合理的な人間像を反映したものとなってくる。
この時点で、客観的な秩序を意味していた理性は、目的に対する手段の適合性を判断する主観的能力を意味するものに確実に変わった。
それは、道徳的実践理性よりも、道具的理性を優先させる人間像への転換を承認することでもあった。
中でも「現代立憲主義」は、個々人の置かれた具体的な生活の状況を考慮しながら、経済的自由市場がもたらす経済上の恐怖や脅迫から市民を「自由」にすべく、国家による非干渉経済を一部断念するのである。
国家の市場介入を容認するために、「弱肉強食」という根拠のない表現が乱発された。

[85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える


現代国家は、人間の私利私欲から発生する弊害を予防または除去し、各人の生存に配慮するために、「公共政策」の名のもとに、財・サーヴィスの供給者、規制者、創造者(企業家)、またさらには審判者として、「社会的領域」に進出し、各人が幸福となるための条件を各人に約束し始める([11]をみよ)。
それが、「社会的法治国家」、「積極国家」または「福祉国家」と通称される国家である。
それは、既にふれたフランス啓蒙思想の影響である([54]での【N. B. 9】参照)。

現代国家は、権力組織としての顔と、実質的平等・実体的正義の実現や、さらには結果の平等までをも意識して国民の生存を配慮することなどといった高次の目的にも仕える二つの顔をもつ(現代国家の特徴については、[11]でふれた)。
こうした変化は、自由権のうちでも経済的自由権を変質させて相対化し、人権論のなかでは、象徴的(スローガン風)に、「自由権から社会権へ」といわれ、国家論のなかでは、「夜警国家から社会(福祉)国家へ」といわれる中にみられる。
なかでも、その国家における行政の特徴は、生存配慮のために為される社会保障行政に表れる。

[86] (四)福祉国家は「隷従への道」?


片や権力を独占し、片や各人に幸福を約束するという二つの顔をもつ国家の統治は、余剰権力を発生させ、パターナリズムのもとで、各人の自由領域に干渉し、ほとんど全ての領域を政治領域としそうな勢いを示している。
それは、あるいは我々が既にハイエクの最も警戒する「隷従への道」を歩んでいることを示唆しているのかも知れない。
なぜなら、不平等を是正して幸福を各人にもたらすために提唱される「分配的正義」(社会保障に代表される所得再分配)は、国家が人々の置かれる位置まで決定し監視せざるを得なくさせるからである。
そのための国家権限は、我々が自由な営為のなかで獲得した地位をパターン付き社会に適合させるべく、我々の為すべきことまで決定する権限ともなろう。

こうした危機を目前にして、ハイエクは、「法の支配は、配分的正義を排除する」といい、Th. ローウィは、明確な基準を欠く所得再分配(福祉行政)は、官僚と一定集団とが癒着する利益集団自由主義を生むといい、M. フリードマンは、財産権の侵害であるといい、R. ノージックは「道徳的に正当化され得ない国家となる」という。
この病理に対処するために、全ての行政活動に法律の留保を求める「全部留保説」が唱えられるものの、それは、かえって社会領域の政治化を呼ぶばかりでなく、無数の委任立法に拠らざるを得ないこととなろう。

配分的正義を実現するために説かれてきた「現代立憲主義」国家像は、かくて、脆弱な姿を露呈することになる(その最も強力な擁護論は、すぐ後にふれるJ. ロールズの政治哲学であるが、それとても弱点がない訳ではない)。

[87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである


「自由」とは、強制の加えられることのない状況下で、各人が各人の望むところを各自の知識に従って追求するチャンスを与えられていることである。
知識の程度と範囲は人によって異なり、その活用の程度もまた各人の機会が異なるために、違ってこざるを得ない。
その結果、各自の生み出すもの、獲得するものに相違が出てくるのも当然である(「生産」と「分配」は対応する)。

「自由」は、「機会の平等」とは両立するものの、生産と分配との区別を前提とする「結果の平等」とは両立しない。
となれば、「自由」を尊重することは、結果の平等を志向する福祉国家理念とは、基本的に、相容れないばかりであんく、結果を予め計画して、それへの邁進を目指す共産主義とも対立する(この点については『憲法理論Ⅱ』 [135]~[137]、『憲法理論Ⅲ』 [415]~[416] をみよ)。
自由主義のもとでは、成果を発生させる過程での各人の努力は、国家によって評価されてはならないのである。

[88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか


代表機関としての議会に信頼を寄せた近代立憲主義に対して、「現代立憲主義」は、不断に活動する執政府に頼らざるを得なくなる。
執政府は、法令の執行に携わるだけでなく、委任立法に従事し、さらには、国家の基本政策の形成・実行・検証のみならず、社会領域における自動調整システムの機能不全に対処すべく、計画・統制へと乗り出してくる。
それは、それだけの自由裁量的権限と機構とを備える「行政国家」への変質を意味する(古典的な意味での「行政国家」とは、執政権行使が司法裁判所の統制から除外される国家を指した)。

ところが、「自らが公共善とみなすものに専ら関わる効率的な専門行政官が、自由に対する最大の脅威となる」(ハイエク)。
その脅威を最小化するために、執政府活動に対する司法的統制が期待されてくる。
「司法国家」への変質の要請である。
その際、執政府の活動も通常裁判所の判断に服するという「法の支配」理念が再び強調されることになる。
また、議会が、法律で独立行政委員会を設置するのも、執政府を統制するための対応である(後述の[405]参照)。

しかしながら、肥大する執政府を前にして、議会や司法がその統制に成功しているとは思われない。
特に補助金の交付にみられる資金助成行政は、特定目的をもって、特定人(法人を含む)を対象として為される私的・個別的契約であると理論構成されるために、一般的抽象的ルールのもとに執政府を置こうとする近代立憲主義または法の支配の思想から大きく逸脱する。
近時、ノージックのように、福祉国家観に正面から反対する自由尊重主義者が夜警国家への回帰を提唱しているのは、この点を真剣に懸念しているからである。

[89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある


ノージックは、各人が「獲得、移転または匡正」という経緯を通して得た物(自らが作り出した物、他人から譲渡されて得た物、そして他人からの賠償によって得た物)は各人の物であって、各人はそれに対して正当な権原(entitlement=自然権としての資格)を有し、何人もそれを侵さないことが正義である、という(権原の正義論または経緯の正義論。巻末の人名解説をみよ)。
この正義論は、正義や人権を達成されるべき国家目標とみないで、国家権力を制約する原理(横から制約する原理)と考えている点に特徴がある。
権原の正義論は、彼のいう最小限国家、つまり警察国家だけを正当とし、彼のいう拡張国家、つまり福祉国家を道徳的に正当とはしない。
なぜなら、拡張国家は、所得再配分によって個人の「権原」を侵害するからである。

以上のようなノージックの理論は、すこぶる評判が悪い。
例えば、「大きな権原」(持てる者)と「小さな権原」(持たざる者)との差は、権力関係を反映したものとなって、自発的な獲得・移転等といわれるものを歪めるのではないか、さらには、貧富の差をさらに拡大し、いわゆる「社会的正義」に反しないか、と強い批判に晒されている。
彼の理論からすれば、自由尊重主義は、必然的に、自由経済体制(資本主義)擁護のための理論となることになろうが、巨大法人(組織)によって支配されたように見える市場システムの評価の仕方によって、その理論の是非が決定されよう(「市場/組織」の二分法がどこまで通用するか疑問である)。
その是非はともかく、ノージック理論は現代国家の実態に対して痛烈な批判となっている。

[90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている


ロールズの国家観は、最近の政治哲学のうちでも、最も強い影響力を各方面に与えてきている(巻末の人名解説をみよ)。
彼の理論は、ノージックとは正反対に、自由と平等(なかでも「結果の平等」)との調整が可能であることを説きながら、国家による所得再分配を、「公正としての正義」の名のもとで、次のような思考順序で正当とする理論である。

合理的に思考し、行動できる人々であれば、個々人でいるよりも社会を形成して協働による利益を増加させるほうが善いと考えるであろう。
しかし、誰もがフリー・ライダー(ただ乗りする人)に成りたいと考えるに違いない。すなわち、彼らの中で利害が対立するのは、社会的協働に必要な費用の分配と、社会的協働の成果である利益をどのように分配したら良いか、という点である。
そこで、各自の置かれた状況についても、選択の結果についても、誰も何も知らない「無知のヴェール」のもとに万人が置かれたと仮定しよう。そのもとでは、万人は最悪の選択が最善となる(予想される損失を最小化する maximin rule のもとで)、次の原理を選ぶであろう。

正義の第一原理》=各人は、万人のための同様の自由の体系と両立する限りで、平等な基本的自由の最も広範な全体系に対する平等な権利を有すべきである、とする原理(最大の平等な自由の原理)。
正義の第ニ原理》=社会的および経済的不平等は、次の二条件を満たした場合にのみ許されるとする原理。
第一に、不平等は地位や役職に付随したものでなければならないこと(機会の平等)、
第二に、不平等は社会構成員のうち最も恵まれない人にとって最大の利益となるべきであること(格差原理)。

以上の原理には、第一に自由を、第二に機会の平等を、第三に格差原理を、という優先順位が想定されている。

[91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない


このロールズの見解に対しては、「無知のヴェール」のもとで人々が二つの正義原理を選択するという保証があるか、余りに理念的な人間像を前提としていないか(「記憶喪失の哲学」と批判される理由はそこにある)、といった疑問が残る。
彼の哲学は、非経験的な知によって人間の本性を把握しようとする超越論的哲学から離れようとしながらも、その枠内にとどまっている。
政治哲学の出発点は、現実的なありのままの人間でなければならないはずである。

ありのままの人間から法や国家をみるという視点は、スコットランドの啓蒙知の伝統にみられる。
その知によれば、共に自由に生きたいという一般の人々の願望を実現するために、一般的・抽象的ルールを提供し維持することこそ、国家の存在理由なのである([28]参照)。

確かに、現代立憲国家は、近代立憲国家における「社会」がもたらしたといわれる様々な弊害を、人為的で個別的なルールによって除去し、「社会的正義」を実現しようとして登場した。
しかしながら、社会は、一般的・抽象的ルールのもとで各人が自由に行為するよう保障した結果として自生的に登場する秩序である、と考えるのが正しい。
その秩序に対して「社会が責任を持たなければならない」と主張することはナンセンスである。
「正義」なる観念は人間の行為についてのみ問われなければならない。
社会は、個々人の自由な営為の結果として生まれ出た秩序であって《主体ではない》のである。

「社会的正義」の名のもとで、巨大な官僚の監視機構を背景にして、強制的に所得再分配をしようとする国家こそ、社会的正義を破壊しているのである。
これこそが、現代立憲主義国家の病理である。
その病理は、国家が個人の私的領域に介入する「国家の社会化」に現れるだけでなく、利益の分配を巡って利益集団が政治過程へと深く侵入する「社会の国家化」によって、さらに深刻化する。
近代立憲主義を人間の意図(設計主義)によって修正し、「社会的正義」を追求し実現しようとする「現代立憲主義」には大きな期待はかけられない。

[92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む


現代国家の病理はそれだけではない。
大量殺人兵器の登場、秘密事項で武装された軍隊の存在は、国内国外の平和をいかに実現するか、「開かれた政府」をいかにして貫徹するか、という問題を「現代立憲主義」に突きつけて久しい。
これに対応すべく諸国家は、侵略戦争の放棄を憲法典上で謳い、民主的統治の理念に立って情報公開制度を実現しつつある。

なかでも、「現代立憲主義」は、20世紀になって、政治と軍隊との関係(civil-military relations=軍政関係または民軍関係)について、具体的な解決策を迫られる。
というのは、政治が、軍隊という機能集団を管理する専門技術・知識・装置を修得すべしとされて以来、法制度上、専門職業的将校団を看過するとなれば、軍隊こそ典型的な暴力機構であるだけに、国民の自由やときには民主制にとって最大の危機と成り得るからである。

専門職業的将校団を、法的に有効に統制しようとする試みが、文民の優勢の体制(civilian control=一般には「文民統制」と訳出されている)である。
もっとも、文民統制なる用語も極めて多義的である。
それは広義には、非軍人を意味する文民の政治的指導によって軍隊を効果的に管理することをいう。
その広義の文民統制のもとでは、将校団は軍事面だけの専門的知識を文民たる政治家に助言するにとどまるよう、政治的中立の枠内に閉じ込められる(「政治家が戦争目的を決定し、軍隊は戦争に勝利することを目的とする」といわれる)。

狭義の文民統制とは、軍隊の最高司令官が非軍人であることを指す(これに対して、日本国憲法にいう「文民統制」は、特異な内容と狙いを持つ。通常いわれる「文民統制」は、広義であれ、狭義であれ、軍隊または将校団の存在を所与のものとして、それをいかに有効に管理するかのやり方を示した。ところが、正規軍を持たないはずの日本国憲法にあっては、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と定められているため、その趣旨を巡って論争されることになる。この点は周知のように、文民とは、職業軍人の経歴を持たない者をいうとする説、職業軍人の経歴を有し、しかも強い軍国主義思想の持ち主である者以外をいうとする説の二説が対立していた。ところが、自衛隊が設置されて以降、文民とは現役軍人以外の者をいうとする説が登場するに至る)。

こうした努力にも係わらず、主権国家の独立性や平和の確保が最終的には武力によってもたらされる、という冷厳な国際政治の現実は、これまでと同様、不動のようにみえる。
この現実を前に、現代立憲主義が、「平和国家」や「開かれた政府」に向かいつつあるか否か、定かではない。
軍事秘密によって武装されて肥大する軍隊をみれば、夜警国家が最小国家である、とは必ずしも言い得ないのである。

現代国家の病理は国家機構の肥大に象徴的に現れるが、その病巣は政策遂行のために使用される手段にある。
それが、無数の、個別立法ともいうべき、無数の人為法の制定である。

現代立憲主義は、「社会的正義」を即効的にもたらそうと、ときに、所得の再分配のための立法、ときに、需給調整のための立法、ときに、「社会的弱者保護」のための立法等々、望ましい社会秩序実現のための法制定を「公益」の美名のもとで要請してきた。
そればかりでなく、無数の個別立法をきめ細かくし執行するための行政機関の肥大をもたらしてきた。

実は、「社会的正義」、「公益」なる抽象的概念に客観的判定基準はない。
また、現実の政治過程での最終決定因は、正義という理念ではなく、利得である。
そのために、利益集団が民主主義過程に食い込み、一般性・抽象性・平等普遍性という法の属性から自分だけ免除するよう求めてくるのである。
それは、自由経済体制がもたらす「市場の失敗」よりも、是正困難な「政策立案過程での失敗、立法の失敗、執行の失敗」をもたらさずには置かないのである。

【表7】「現代立憲主義」の課題
実体的正義または「社会的正義」を実現すること
肥大化してきた執政府活動を司法的に統制したり、「開かれた政府」を実現すること
軍隊に対する文民優位の体制を確立すること。

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※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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第六章 憲法の最高法規性と国法形式

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第六章 憲法の最高法規性と国法形式 p.84以下

<目次>

■第一節 最高法規の意義とその淵源


[93] (一)法の階梯的組織の最上階に位置するものを最高法規という


憲法典が授権規範でもあり、制限規範でもあると考えることは、法規範の構造を階梯的に捉えることでもある、と先に述べた([70]参照)。
その法構造における階層の頂点に位置する法規範を「最高法規」という。
その最高法規は、その体系において、他の法規範の地位を確認するばかりでなく、その妥当性を判断するうえでの規準でもある。

[94] (ニ)最高規範性の淵源を解明することに成功した見解はいまだない


では、その憲法典の最高の規準としての性格づけはどこから来るか。
先に([60]参照)、憲法典は下位の法令に対して妥当性を付与する授権規範であるものの、それ自体の妥当性を根拠づけることは容易ではない、と指摘した。
最高法規としての憲法は、その体系内にある他の法規範を権威づけはするものの、定義上、最高法規より優位する法規範をその中に持たないだけに、それ自体の権威を根拠づけはしない。
その根拠づけに成功した理論は、今日までのところないと言ってよいが、次のような説がみられる。

まず、A説は、制憲権者の意思によって設定され、それによって授権されたことを根拠として挙げる。
ところが、この説について、制憲権を設定する規範は何か、再び問われることになる。
この点は、制憲権の淵源を、意思に求めるか、それとも規範に求めるかにつき、理論史上、様々な議論がみられ、未だ決着をみていない(この点については、制憲権の法的性質を論ずる [124]~[128] で再述する)。

B説は、ケルゼン流に、法としての妥当性を仮定する根本規範によって憲法典が授権されたことを根拠として挙げる。
「一定の憲法が妥当性をもち、その憲法の創設が合法的行為であるという価値判断は、その憲法が、この一般的根本規範に合致していることを意味する」とケルゼンはいう。
あるルールの体系内で、それに内属するルールの最終的な規範性を論拠づけることはできない。
あるルールは、別の体系に属する別のルールに適合して創設されるからこそ、当初のルール体系に属するのである。
この点に気づいたケルゼンは天才であった(巻末の人名解説をみよ)。

ケルゼンの「法の動態概念(【N. B. 11】参照)」からすれば、次の頁図1のようなピラミッド構造が描かれよう。
その際、法の妥当性の根拠を規範にのみ求めようとする(規範は規範からのみ生ずる)以上、その根拠となる規範(根本規範)は、そのうえに上位の規範をもたない規範、仮定する以外にない規範の形式、となる。
しかしながら、その根本規範はケルゼンの思考の中に存在するのみである。

【N. B. 11】ケルゼンの法に対する二つの見方について。
ケルゼンは、法の動態概念のほか、法の静態概念についても考察している。
彼にとって静態概念からみた「真正の法規範」は、「制裁を規定する規範」である。
真正の法規範概念からすれば、憲法の諸規範は、独立した完全な規範ではない、とされるとしている点については先にふれた([62]参照)。
根本規範概念は、法がいかなる過程を経て作られるか、に着目したものであって、この静態的法規範とは、全く別物である。

この理論によれば、憲法は、その法的《効力》を根本規範から受け取り、その《内容》を制憲権意思から受け取るのである。

この説に対しては、
この法段階説は、法を規範に還元する過度の単純化ではないか、
法体系が、ピラミッド構造をもつ論理的必然性はなく、法の上層にいけばいくほど、規範は分岐し、断層を示しているのではないか、
仮設として設定される形式的な「根本規範」は憲法にいかなる内容を吹き込むのか、
といった疑問を感じざるを得ない。

C説は、ハート流の考え方である。
これは、憲法典は「確認のルール」の一つであり、ある法体系における右ルールの最高規範性は、その体系内では、いかなる権威によっても定立されることはない、とみる。
となると、妥当性を最終的に与えるのは、人々がかく実践している(ルールに基づいて活動している)、という事態の確認しか残されていない。
その確認のためのルールを「究極の確認のルール」という([47]参照)。

ところが、この説に対しては、実践または慣習という事態から、なぜ究極の確認のルールが生まれるか、とか、「事実から規範は生じない」とする批判が必ず提起される。
しかし、この批判は決定的ではあり得ない(この点については、[41]を見よ)。
右見解は、視点の置き方(内的視点に立つか、外的視点に立つか)によって、「究極の確認のルール」が事実でもあり規範でもあるとみながら、「事実/規範」の峻別を克服する試みなのである(図2参照)。

[95] (三)本書は憲法典の最高規範性を「究極の確認のルール」にとっての手段たる点に求める


このように、憲法典自身の妥当性問題を一挙に解明する理論は今日のところ存在しないといってよい。
今日存在する諸理論のうち、最も説得的であるのは、経験論的な次のような思考であろう。

憲法典が、他の法に対するよりも大きな尊敬を払われて然るべき「最高」の法と位置づけられている論拠は、歴史的・経験的に説明できるだけであって、同一体系内に属する他のルールよりも高次の実体的価値を内在していることによる訳ではない(ルールをルール足らしめている高次のルールを同一体系内で求めようとすることは、無限に遡源する無益な行動となる)。
憲法典は、何が法と正義であるかを自らの中で定義する訳ではなく、最小限の正義と法を守るための手段を創り出す手段にとどまる。すなわち、憲法典は、持続的行為の自由な遂行の中で人々が受容しているという事態の中に出現した別のルールを可視化するための人為的ルールである。その別のルールが「究極の確認のルール」である。
以上の①、②から、憲法典の最高法規性は、それ独自の高次の積極的な価値を内容に組み込んでいることに淵源を持つのではなく、「究極の確認のルール」にとっての手段的な価値の故にもたらされる。
憲法典は、統治権力担当者が恣意に基づく統治に従事することのないように、いわば権力を両サイドから統制する手段である。憲法典は、統治権力担当者の為す不正義を排除するためには、どのような統治構造であればよいか、どこまで統治機関が行為できるか等を指示する設計図である(「憲法典は統治制度の目的意識的な整序規定」とみたり(小嶋和司)、「憲法は組織のルールであって正義に適うルールではない」とする見解(ハイエク)は、こうした観点に立って始めてよく理解できる)。

図1 ケルゼンの法の動態分析(省略)

図2 ハートの法の見方(省略)


■第二節 国法の諸形式


[96] (一)法は成文法源と不文法源とから成る


法源とは、通常、法の存在形式、すなわち、公権的解釈・適用に当って依拠できるルールをいう(法哲学上では、法源をもって、法が妥当するための根拠を指すこともある)。
近代国家においては、法は、一般性・抽象性・平等普遍性をもつばかりでなく、公知のものとされて事前に予知可能でなければならない。
これが「法の支配」の要請とされて、法は成文化されてきた。
しかしながら、ルールは全て言葉で語り尽くされるものではない。
国法の法源としては、成文法源のほかに不文法源が存在せざるを得ない。

[97] (ニ)不文法源としては、通常、慣習法、判例、条理が挙げられる


(ア) 慣習と慣習法


慣習とは、人々が長期間反復継続する実践の中から、行為の評価基準として人々の間で受容されたものをいう(もっとも、反復継続という事実の集積から、評価基準がどうやって生まれるか、謎である。本書は [41] においてその解を示した)。
すべての慣習が法ではなく、それが社会の規範意識または法的確信によって支持されたものが慣習法となる、と通常いわれる(因みに、本書は、この通常の説明に満足しない。慣習が法となるのは、二次ルールを通して「この社会では、これこれがルールとなっている」と確認されるからである)。
我が国では、慣習が法律と同一の効力をもつには、公序良俗に反しないこと、法令によって承認されること、または、法令に規定なき事項に関すること、が要件とされる(法令二条)。
憲法習律や慣習憲法が、法源であるか否かについては、論争の的となる。
これについては、憲法の変遷論([149]~[154])においてふれる。

(イ) 判例


判例とは、広義には、繰り返される同旨の裁判例をいい、狭義には、司法的判断の基礎となっている重要な法的推論部分をいう。
先例拘束力が付与されて法源となり得るのは、ratio deciendi(レイシオ・デシダンダイ)とも呼ばれる狭義の意味でのそれである(ratio decidendi を除く部分は obiter dictum [傍論] と呼ばれ、先例拘束性をもたない)。
それは、具体的事件解決に当って文脈ごとに示されるにとどまる。
しかしながら、それは、個別の文脈を超えた、法が通常有すべき一般的妥当性の宣言でもある。
具体的紛争解決で示された裁判所の判断は、あるルールの体系内で普遍化可能であるよう論拠づけられねばならない([421]をみよ)。
司法的判断の重要な法的推論部分は、一般性・抽象性・平等普遍性という法の属性を有するが故に、法源性が肯定されるべきである。
また、法は等しき状況にある人には等しく適用されるべきこと、法は明文化され尽くされることはなく、開かれた構造をもっており、その部分は裁判所の裁量に委ねられざるを得ないとはいえ、その裁量部分といえども、裁判所は常に合理的根拠を示して、恣意に流れないよう留意していること等を考慮した場合、判例の法源性は肯定されるべきである。

ところが、我が国の通説・実務は、先例拘束性を否定する。
その理由は、我が国が制定法主義を採用していることを主な理由として、「事実上の先例拘束性」しかない、という。
しかし、「事実上の拘束力をもつ」という意味は、茫漠としたものがある。
拘束力を承認することは、単なる事実問題ではなく、規範的要素を含意しているはずである。

(ウ) 条理


条理とは、事物の本質をいうとされる。
それが、ときに、広義には自然法を、実定法上では、公共の福祉、公序良俗、信義誠実という不確定概念で表されることがある。
条理は、法解釈技術としては、法の欠缺の際の解釈基準であって、法源の一つであるといわれる。

正義全体を言葉で表せないのと同様に、条理の意義を積極的に浮かび上がらせることは不可能である。
それは、文脈ごとに不条理なものを排除しながら、少しずつ可視化されて明示されるだけである。
条理は、個別的に可視化されたものの中に姿を現すにとどまる。
裁判所によって可視化された部分は法源となるといってよいが、他の不可視の部分は、法源とは言い難く、いわば一次ルールにとどまるといわざるを得ない。

[98] (三)成文法源とは憲法典その他の実定法をいう


(a) 憲法典および憲法改正された条規


憲法改正規定は、「変更のルール」を憲法典内に組み入れ、改正権限を有する者が定められた手続に従って改正すれば、新たな条規は憲法典の一部として妥当する旨を明らかにしたものである。
だからこそ、改正規定を通して変更された条規は、憲法典の一部として組み込まれるのである。
改正部分の置かれる位置については、憲法典本体の後ろに付加して、改正前の条文をそのままにしておくアメリカ方式と、改正部分を本体に組み入れて被改正部分に取って代える方式とがある。
我が国の場合、いずれでなければならないか、憲法典が明確に指示していない。
おそらく、我が国のこれまでの立法技術からすれば、後者が選択されるであろう。

(b) 法律


法律とは、立法機関によって制定される法の形式をいう。
国民の権利義務に関する創設的規制は、法律の排他的所管とされる(これが、いわゆる「法規概念」である。これについては、第二部第六章第三節の [300] 以下において憲法41条を論ずる際にふれる)。
また、国家の基本的な統治組織、選挙制度も、憲法典の規定によって、法律事項とされることが多い。
立憲主義的憲法典は、統治の基本構造を憲法典で定めながら、その細目を憲法典の委任によって、法律事項とするのが通例だからである。

(c) 予算


これについては、国会の財政決定権の箇所(第二部第六章第八節の [340] 以下)で説明する。

(d) 政令


政令とは、内閣が制定する法の形式をいう。
その所管は、日本国憲法73条に示されている。

(e) 総理府令・省令


総理府令・省令とは、行政機関が制定する法の形式をいう。
総理府令とは、総理府の長としての内閣総理大臣が制定するものを、省令とは、省の長としての主任の国務大臣が、制定するものをいう。
これらの所管は、法律または政令の実施であり、その効力は、法律および政令に劣る。

(f) 規則


これについては、議院規則制定権の箇所([365]以下)、最高裁判所規則制定権の箇所([493]以下)でふれる。

(g) 条例


条例とは、地方公共団体に憲法上認められている自治権に基づいて制定される自主立法をいう。
先の (a) ないし (f) が国の法形式であるのに対し、条例は、地方公共団体の法であるものの、憲法典によって国家内の法として承認されているからこそ、国法の一類型として言及される。
条例の所管および効力等については、地方自治の章でふれる。

■第三節 国際法と憲法


[99] (一)国際法は条約と国際慣習法から成る


従来、国際法とは、国家間の合意に基づいて、国家間の関係を規律する法をいうとされた。
しかしながら、今日では。国家以外の存在(国際連合、国際機構等国際法主体)をも含めた法関係をも含めて用いられている。
その国際法は条約と国際慣習法からなる。

条約とは、国際法上の主体間の合意によって成立し、国際的権利義務関係を形成変更せしめる一切の成文法をいう。
その名称は「条約」、「憲章」、「協定」その他いかなるものであってもよい。

日本国憲法98条2項は、不文の国際法たる国際慣習法について「確立された国際法規」と表現している(ドイツ基本法25条にいう「国際法の一般的諸原則は連邦法の構成部分である」という場合の「国際法の一般的諸原則」も国際慣習法を指す)。
一般に国際慣習法とは、国際的な慣習のうち法的確信に至ったものをいうとされる。
「確立」されているためには、明示的な合意を要するわけではないが、第一に、当該国家が明示的に異議を唱えていないこと、第二に、慣習の成立する地域内に属していることが必要である。

[100] (二)国際法と憲法との関係については一元論と二元論との対立がみられる


最終的審判・執行機関を欠いている国際法は、厳密には、法ではないという見解もみられるものの、今日の圧倒的多数の論者は、これを法の一形式と捉えている。
国際法が法であるとした場合、それと国内法との関係をどうみるかに関して、ケルゼン=トリーペル論争以来、一元論と二元論との二説が対立してきた。

まずA説(ケルゼンに代表される一元論)は、国際法と国内法とが、共通の法的妥当根拠のうえに一つの体系を形成している、とする。
確かに、国際法は国家に適用されるようにみえるものの、それは国家を擬人的にみる誤りのせいであって、実は、両者ともに、個人に適用される、と同見解はみるのである。
ただ、国際法が個人に適用されるためには、憲法を中心とした国内法による補完を必要とするに過ぎない。
その補完のやり方が国によって違うため、適用の範囲等に違いをもたらすものの、その違いといえども、一つの体系を形成している一つの上位法(根本規範)によって生み出されたものである、とこの一元論はみる。

これに対してB説(二元論)は、両者が法体系を異にしているとする。
国際法は国家の行為を規制し、国内法は個人の行為を規制するものであり、しかも、それぞれの妥当性根拠を異にする別個独立のもの、と考えるからである。
この説によれば、国際法が国内法として妥当するためには、補完(「変型」)を当然に必要とすることになる。

こうした二説の対立が長く論議されてきたが、今日では、一元論、二元論という用法は論者によって様々で一定せず、その用語によらないほうがよい、とする見解もみられる。
憲法学が一元論・二元論という場合、それは、《憲法体制が条約を国内法に取り入れるに当って、如何なる手続を必要としているか》、を問うための用語である。
この意味での一元論・二元論のいずれの立場を採っているかは、各国の憲法体制(国内法)によって決せられる。

[101] (三)条約の国際法上の効力は国内法の射程外にある


国際法と国内法は、相互に独立する法体系である。
そのために、例えば、国家が国際法上の義務を履行しない場合であっても、国際法上は、当該国家に対する国家責任の追及(原状回復、金銭賠償、陳謝等)という形となり、国内法上は、その責任を当該国家の憲法体系に従って調整するという形となる。
この意味で、条約の国際法上の効力は、国際法によって決せられるのである。
従って、憲法典の規定と抵触するとしても、原則的には、その国際法上の効力に異同はない(有効である)。
そのことを、1969年の「条約法に関するウィーン条約」は、次のように規定している。
「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない」(27条)、
「いずれの国も、条約に拘束されることについての同意が条約を締結する権能に関する国内法の規定に違反して表明されたという事実を、当該同意を無効とする根拠として援用することができない」(46条)。

我が国は、同条約を昭和56年に批准した。
条約締結手続違反の場合の効力については、国会の条約承認権の箇所(第二部第六章第五節の [323] 以下)でふれるが、同条約は、あくまで「無効とする根拠として国内法を援用できない」との表現にとどめている点には留意を要する。

[102] (四)一元論的・二元論的のいずれにでるかは憲法体系によって決定される


従来の一元論・二元論の対立は、法に関する妥当根拠をどうみるかという基本的思考の差を反映するものであって、憲法学上論争されてきた条約優位かそれとも憲法優位かという視点(現実の適用における優位性問題)とは、無関係と考えたい(憲法優位か否かの論争については、[106] で論ずる)。
憲法優位か否かの論争は、両者の妥当根拠にかかわるものではなく、実定的な法が国内において現実に適用される際の効力関係をめぐるものだからである(これまで我が国の学説は、二元論を採用すれば、条約と憲法の抵触問題を云々する必要がなく、一元論に立って初めて「国際法優位/国内法優位」が問われることになる、としてきた。例えば、佐藤・30頁参照。ところが、憲法学の領域でいう「一元論的/二元論的」というのは、先に触れたように、実定憲法体系が条約を国内法に取り入れるに当って、如何なる手続を必要としているか、という違いを指す。この意味での一元的・二元的のどちらの立場を採るかは、各国の国内法体系(憲法規範と憲法慣習)によって決められるのである)。

[103] (五)条約が国内法上の効力をもつためには変型を要するか


先に述べたように、条約の国際法上の効力は国際法によって決せられる。
これに対して、条約が国内に取り入れられ国内法上効力をもつためには、国家による「変型または補完」(transformation)を必要とするか、それとも、条約という形のままで国内に取り入れられて(incorporateされて)国内法上効力をもつのか(当然のことながら、国内法的措置を必要とする条約は論外である)。

その解答は、先に示したように、憲法体系が条約の国内法上の効力につき、どう定めているかに懸かっている。
比較法的にみると、条約を国内に取り入れるタイプには三つある。
【表8】条約の国内への取り入れの三つのタイプ
イギリス型  = 条約を実施する法律を制定する型
ドイツ型    = 「条約法律」を制定する型
アメリカ型  = 一般的受容型

第一は、条約は国内法的効力を有さず、国内に取り入れるためには、変型を必要とするとするタイプ(イギリス型)である。
これによれば、条約を国内法に取り込むには、条約を実施する法律の制定が必要とされる。
この変型は、国王大権としての条約締結権と、議会権限としての国内法制定権とを調整するという意味をもつ。
第二は、条約は、条約法律(Vertragsgesetz)という形式に変型されて、国内法上効力を有するとされるタイプ(ドイツ型)である。
このタイプのもとでは、条約の国内法的効力の淵源は、条約法律に求められる。
第三は、条約が、憲法体系によって一般的に国内に組み入れられて国内法上効力を有するとされるタイプ(アメリカ型)である。

なお、国家によるいずれの受容をも必要としない条約を、「自動執行的条約」(self-executory treaty)と呼ぶ。
その例として、私人の権利義務に関して詳細な内容をもつ著作権保護条約が挙げられるが、自動執行的か否かの厳密な客観的判断基準があるわけではない。

[104] (六)日本国憲法は一般的受容型に属するものと解される


さて、我が憲法体系は、右のタイプのうちいずれを採用しているか。
我が憲法典は、この点、明示的規定を欠いており、従って、その解決は解釈に委ねられることになる。
学説および実務は、我が憲法体系がアメリカ型を採用しているとするA説(一般的受容説または一元論的立場)に拠っているものの、その理由は一様ではない。

A説のうち、A1説は、日本国憲法全体が国際協調主義の精神を一貫させ、「「最高法規」の章にある98条2項において条約の誠実な遵守を謳っていることを根拠として、一般的受容を肯定する。
しかしながら、「最高法規」とは、国限りで制定施行される自国の法のうち、最高の効力をもつ、との意味にとどまる。
また、98条2項自体、余りに概括的であって、他国にみられるような国内法上の効力に明示的に言及する規定とは本質的に異なる(例えば、ドイツ基本法25条は「国際法の一般原則は、連邦法の構成部分である。それは、法律に優先し、連邦領域の住民に対して直接、権利および義務を生じさせる」と規定している)。
以上より、A1説は妥当ではない。

同じく一般的受容を説くA2説は、大日本帝国憲法下の慣習憲法として、公布された条約が国内法上の効力ありとされてきたことを重視する。
そのうえで、現行憲法典が国際法の誠実遵守義務を謳い、7条1号において条約の公布を定めている以上、旧憲法と同様、条約を一般的に国内法に受容する趣旨に出たものと解する。
基本的には、このA2説が妥当である(なお、A2説に立つ佐藤・31頁は、明治憲法下の慣行のほか、現憲法に至って国会による民主的コントロールが可能となったこと、98条2項が国際法の誠実遵守義務を謳っていること、をその論拠として挙げている。このうち、「国会による民主的コントロール」論は、実は、次の二元論的立場の論拠ともなること、その正確な法的意義も定かではないことを考えた場合([318]参照)、論拠として脆弱である)。

これに対して、条約が国内に取り込まれるためには、国内法上の効力を付与するための「変型」を経なければならない、とするB説(イギリス型または二元論的立場)もあり得る。
この場合、「変型」を要するとの根拠は、国会の条約承認手続規定(73条2号)に求められることになる。
しかし、条約承認権規定は、後にふれるように、内閣の条約締結権限に対する国会の「阻止する権限」を意味するのであって、これらを「変型」を要するとの根拠とするには無理がある(承認権が「阻止する権限」であることについては、[325] 参照)。

[105] (七)条約の国内法上の効力の程度も国内法によって決せられる


条約が国内法に取り入れられた場合、その国内法上の効力は、憲法や法律に優位するか。
この点は、各国の憲法体系を中心とする国内法によって決せられており、それを比較法的にみると、次のように類型化できる。

【表9】憲法と、国内に取り入れられた条約との効力についての捉え方
「憲法優位説」
「条約優位説」
折衷説
(1) 一定事項につき「条約優位説」、その他について憲法典は明示していない
(2) 一定事項につき「条約優位説」、その他については「憲法優位説」
(3) 憲法の根本規範部分は条約に優位、憲法律的部分は条約と同位または下位

第一は、法律と同等の効力を認める国(アメリカ、ベルギー。イギリスでは、条約を法律によって変型して国内効力を持たせるのであるから、その法律は他の法律と同等の効力を持つ。また、ドイツでは条約法律によって国内的に受容されるのであるから、条約法律は他の法律と同等となる)。
第二は、法律に優位する効力を認める国(フランス、スペイン)。
第三は、憲法と同等の効力を認める国(オーストリア)。
第四は、憲法に優位する効力を認める国(オランダ)。

では、我が国はどのタイプであるか。
我が国では、一般に、法律と条約の効力関係については、憲法98条2項の条約遵守義務や、条約締結に国会の承認を要するとされていることを理由に、法律に優先するといわれるが、それらは決定的でない。
この点は、国家間の法的秩序の安定性を維持するためには、法律を超える効力が望まれることにその理由を求めるべきであろう。

なお、一般的に受容された国際法が国内法としてそのまま適用・執行されるか否かは、一律に論ずることは出来ないが、国家に対して、一義的に「△△したはならない」と義務づける国際法は、国内法として直接に適用されることがある。

[106] (八)日本国憲法は条約の国内法上の効力を憲法に劣ると位置づけているものと解される


条約と憲法との国内法的効力につき、いずれが優位すると理解すべきか。
この効力問題は、国内法において最高法規たる憲法によって決定される(換言すれば、いわゆる「一元説/二元説」の対立が効力問題を決定するわけではない)。

では、日本国憲法のスタンス如何。
日本国憲法には、条約の効力に関して述べる規定はなく、解釈に委ねられている。

この点は、我が国で憲法優位説(A説)か、条約優位説(B説)か、という形で長く争われてきた(この呼称は誤導的である。ここでの論争は、条約と憲法典との一般的な効力関係を問うものではなく、国内法に取り込まれた条約が現実の適用において憲法典正文を破るか否かにある。この点に配慮して、小嶋和司は「条約適用承認説/条約適用否認説」に二分している)。

通説たるA説(清宮Ⅰ・450頁に代表される「憲法優位説」)の論拠はほぼ次の通りである(括弧内は、その論拠に対する疑問点を示す)。
98条1項にいわれているように、憲法典が「国の最高法規」である以上、憲法典に抵触する条約の国内法的効力は、憲法典に劣る(しかしながら、「国の最高法規」でいう「国の」とは「一国限りでつくられた法の内」という趣旨であり、だからこそ、98条1項は条約に言及していないのである)。
条約の締結・承認手続は憲法改正手続より簡単である。
憲法改正手続を加重している日本国憲法において、条約によって憲法秩序に変更が加えられ得ると理解することは不合理である(しかし、これは、憲法優位の法状態が簡単に変更されてはならないという結論をもって理由づけとする論に過ぎない)。
条約が憲法典上の条約締結権能および国会の承認によって成立に至るものである以上、条約に憲法優位の効力を認めることは、法論理的に不可能である(ところが、条約締結権が「憲法典上の権限」であっても、「憲法典内で為されるべきであって、憲法典に違反し得ない」との命題は、論理必然というわけではなく、憲法典違反条約であっても憲法秩序として組み込むと謳う外国の憲法典の例もある。この点は、日本国憲法が、憲法典違反的条約の締結を許容する規定を欠くことによって、裏から、「条約締結は憲法典内で為されるべし」と語っているものと解される。さお、国会の条約承認権規定は、手続規定(締結への消極的な参与)であって効力のあり方を決定しない。もっとも、承認権を手続規定であるとしてよいかどうかについては、論争のあるところである。この点は、条約承認権の箇所でふれる)。

これに対してB説(宮沢コメ・818頁に代表される「条約優位説」)は、国際協調主義を謳う98条2項の精神からして、また、条約締結が国内法の次元を超える法創設行為であることからして、国内法たる憲法典によって制限を加えることは出来ない、とする。
ところが、この説には、条約の国際法上の効力と国内法上の効力との混同がみられるばかりでなく、国際協調主義という抽象的な大原則から結論を出そうとする性急さがみられ、精密な議論とは言い難い。

以上のような学説に対して、折衷説的な立場であるC説もみられる。
もっとも、C説も一様ではなく、次のような分岐がみられる。
C1説 「確立された国際法規」や、それを成文化した条約や、一国の意思では定め得ない事項に関する条約(例えば降伏や領土の変更)は、憲法より優位し、それ以外の条約の国内法的効力について憲法典は何ら明示していない、と解する立場(小嶋・144頁)。
C2説 憲法より優位する領域についてはC1説と同じであるが、その他については、「憲法優位説」と同様の論拠にでる立場(佐藤・32頁)。
C3説 憲法のうちの根本的規範部分は条約に優位し、根本規範意外の部分(憲法律的部分)は、憲法の国際協調主義に照らして、条約と同位または下位にある、とみる立場(小林(下)・836~8頁)。

本書は、基本的には、C2説が妥当であると考える。
なお、「確立された国際法規」とは、ジェノサイドの禁止や奴隷貿易の禁止のように、普遍的に通用するに至った国際慣習法をいう。

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※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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第七章 国民主権と憲法制定権力

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第七章 国民主権と憲法制定権力 p.99以下

<目次>

■第一節 国民主権にいう「国民」の意味


[107] (一)視点によって「国民」もさまざまな意味をもつ


国民には、国家権力の主体としてのそれ(主体としての国民)と、国家行為の対象としてのそれ(客体としての国民)とがある、と先に指摘した([14]参照)。
その区分が、能動的な国家構成員であるところの市民(シトワイアン、シティズン)と、支配に服する臣民(シュジェ、サブジェクト)とに対応する。
そのほかの分類法としては、(ア)憲法典の基本権主体としての国民、(イ)国家機関としての国民(選挙その他憲法典上の規定によって機関権限が認められた場合のそれ)、がある。
本章では、国家権力のあり方を最終的に決定する主体としての国民の意義を問う。

[108] (ニ)「国民」は実在する統一体であるかどうか論争され続けている


「国民」の意義は、全体としての国民を、実在する一つの統一体としてみるか、それとも、観念的な統一体とみるかによって、変わる。
この点はフランス憲法学上これまで盛んに論議されてきた。
そこでの論争はこうである。
A説は、個々のシトワイアンが国家内で集結すれば、個々の構成員に分解できない一つの意思のもとで一つの集合体を実在させるに至る、とみる(この把握の仕方は、いうまでもなく、方法論的集団主義のそれである)。
その実在する集合体を「人民(プープル)」といい、その意思を「一般意思」または「共同意思」という。)
人民は、実在する統一体であるから、意思・活動能力をもち、統治のあり方を決定する意思の主体となる、とみられる。
実在する人民が、国家の最終的な統治のあり方を決定する場合をもって「人民(プープル)主権」という。
これに対してB説は、全体としての国民は、観念的にのみ存在するのであって、君主のような社会的実在ではないとみる。
それを「国民(ナシオン)」という。
抽象的観念的存在である国民は、意思・活動能力ももたず、具体的政治的権限を行使する主体とはなりえない、とみられる。
観念的存在たる国民が、国家の最終的な統治のあり方を決定するものと想定される場合をもって、「国民(ナシオン)主権」という。
ナシオン主権理論は、ドイツで説かれた国家法人説のフランス版である。
フランスにおいても「国家は一国民の法的人格である」(エスマン)と説かれたように、国民を抽象的に捉えれば、全国民は観念のなかで人格化されて、その人格がもう一つの人格たる国家と同一視されるに至るのである。

[109] (三)二つの主権論はフランス独特の論争である


こうした論争は、フランス憲法史に顕著な形で現れた。
まず、フランス革命の人権宣言3条は、「あらゆる主権の淵源は人民(プープル)に存する。いかなる団体も個人も人民により明示的に発しない権力を行使するを得ず」と謳って、人民が政治的最高決定権、つまり、憲法制定権力をもつことを明らかにした。
ところが、1791年憲法では、革命の進行を抑制しようとする市民層(ブルジョアジイ)の思想を反映して、3篇2条において「主権は国民(ナシオン)に属する。人民のいかなる部分もいかなる個人も主権の行使を簒奪することはできない」と謳われた(樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』第Ⅱ部参照)。
こうした論争は、フランス特有の社会的勢力間の権力闘争を巡る歴史的背景と抽象理論を好むフランス人特有の思考法をもっているのであって、我が国に直輸入される必要はない。


■第ニ節 わが国における国民主権論争


[110] (一)国家法人説のもとで主権的機関は選挙人団とされる


国家法人説が支配的であった日本国憲法制定当時には、国家の諸機関のうち、優越的な政治的決定権を有している機関が主権者であると考えられていた。
この把握の仕方は、最高機関意思説と呼ばれる([15]参照)。
この立場からすれば、主権者とは、「機関としての国民(選挙人団)」となる。

しかし、この説には、次のような難点が残されている。
国民が選挙人団という国家機関とされるのは、憲法典または有権者の範囲を決定している公選法の定めの帰結であって、憲法典や法律から憲法(国制)を理解するという本末転倒の論理であること、
わが国の場合、憲法41条が「国会は、国権の最高機関」としていることと抵触する可能性のあること、
主権概念を具体的な諸政治機関の内部に求めていること(主権とは、国家支配の源泉という意味であったはずである)、
国家を法人と捉えるのは、国家への権利義務の帰属を法技術的に説明するための道具であって、それ以外の局面で、国家を法人と捉える必要はないこと、
国民の中に、主権者と、そうでない者とが存在する、と考えることは、国民国家として成立した近代国家における国民概念と整合的でないこと。

[111] (ニ)ノモス主権説はそれ特有の主権概念を前提としていた


国家法人説的思考から脱却しようとした憲法制定時直後の学説においては、ノモス主権か国民主権かという論争がみられた(尾高-宮沢論争)。
前者(※注釈:A説)は、政治を最終的に決定し指導するものが、事実や実力ではなく、正義に適うルール、つまり、古代ギリシャ人たちがノモスと呼んだもの(ローマ人のいうイウス ius)でなければならないという観点から、日本国憲法のもとにおいても、主権はノモスにあるとみる説である。
これに対して、後者(※注釈:B説)は、主権論の論点は政治の最終的決定権が誰に帰属するかを問うものである以上、如何なる自然人(またはその集団)が主権の主体となるかを明らかにするものでなければならず、実体のないノモスにその淵源を求めてはならない、と説いた。
この論争は、あるべき妥当性を政治の究極に探求する法哲学と、政治的決定権の具体的な帰属先を探求する憲法学とのアプローチの差を反映していた。
憲法学的にみると、後者の優勢のうちに論争は終結せざるを得なかった。
ノモスが sovereign とする思考は、本来、法の支配にいう「法」の内容に求めるべきものであって、国民主権論の土俵で論ずることに無理があったのである。
J. S. ミルが指摘したように、権力を行使する「民衆」は、権力を行使される「民衆」と必ずしも同一ではない以上、B説(※注釈:宮沢の国民主権説)が正当である。

[112] (三)国民主権のイデオロギー性が次第に気づかれてくる


1960年代になると、論者は、国民主権論が現実の統治権力を制限するよりも正当化する理論に堕してはいないか、との疑念を抱き始めた。
なぜなら、現実には、代表制のもとで、代表が国民から法上独立して統治をしているにも拘らず、徒(いたずら)に国民主権を強調することは、代表の統治権力を国民の名で正当化することになるからである(代表制については、後の[155]~[164]でふれる)。
そこで、当時の論者は、主権を実質化するためには、如何なる代表制であればよいか、自問することになる。
そのために主張されてくるのが、すぐ後にふれる半代表制の理論である(なお、本書の半代表に対する否定的見方については、[166]をみよ)。

[113] (四)ナシオン主権・プープル主権をめぐって主権論争はピークに達した


1970年代になると、フランス憲法学の成果を引証しながら、論者は、我が憲法典の採用する主権原理が、ナシオン主権、プープル主権のいずれに定礎しているかにつき論争を始めた(杉原-樋口論争)。
こうした論者は、プープル主権、ナシオン主権でいう「プープル」「ナシオン」の意義については見方を共通にしつつも、それが如何なる統治構造や代表制を伴うか、という点で見解を異にした(もっとも、有権者団をプープル、国民全体をナシオンとみる立場もある)。

[114] (五)主権の見方によって代表制のあり方も変化する


ナシオン主権のもとでは、フランスの1791年憲法が謳ったように、「権力の唯一の淵源である国民は、委任によってのみその権力を行使しうる」とされ、間接民主制のもとでの代表制が採用される。
この代表制を「純(粋)代表」という(詳しくは、後の[159]参照)(この91年憲法は、王の身体から国家を分離することを目的として制定された。そこに持ち出されたのが、国家の真の構成要素である「国民」であった。国家は「国民」に要約される法人とみられ、ここに国家と国民とが同一化されたのである。ナシオン主権論は、先の[108]でふれるように、フランス流の国家法人説と理解してよい)。
これに対して、プープル主権のもとでは、統一体としての意思をもつ実在としての人民が、政治的決定に自ら参与することが統治構造上の原則となる。
すなわち、直接民主制が憲法典上の原則とされなければならない。
もっとも、プープル主権のもとであっても、統治の分業が不可避である場合、代表の存在は不可欠となる。
直接民主制と妥協しうる代表のあり方としては、半代表制、つまり、代表者意思と人民意思との事実上の同一性を確保する代表制が考えられる。
プープル主権原理が、果たして、半代表制を許容するものか否かにつき、我が国のフランス憲法研究者の中でも見解の一致をみない。

[115] (六)主権の見方は日本国憲法の解釈にも影響するといわれる


また、右の論争は、基本的には、日本国憲法がプープル主権原理に基づいているとの共通点をみせながらも、如何なる代表観に立っているかにつき、次のような差異をみせる。
A説は、現行憲法典がナシオンからプープル主権への移行期にあって、両者の原理を合わせもっているものの、後者への方向をより強く示しているものとの前提に立って、プープル主権のもとで採用される命令的委任(後述の[159]参照)やリコール制の導入を図ることも現行制度上可能である、とする(杉原泰雄『国民主権と国民代表制』374~9頁)。
A説はその論拠として、第一に、歴史法則がナシオンからプープルへの展開を示していること、第二に、主権論の民主化がなければ多数者の人権保障もありえないこと、を挙げる。
ところが、人間社会に歴史法則などありようもなく(個々の人間の行為の集積に法則性などなく)、また、主権の民主化が基本権保障にとっての条件であるとすることも、誤った想定である(民主主義は自由の条件ではない)。
B説は、プープルが主権を有するとの命題を立てたとしても、それが統治のあり方を決定するものではない、と考える(樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』290頁以下)。
統治者(または統治)と、被統治者(またはその基本権)との間には、埋め尽くし難いギャップが存在するのであって、主権の民主化または主権の権力性を強調するよりも、一方で、主権を実定憲法典の正当性原理として理解するにとどめ、他方で、人権論をもって統治権力に対抗していく方向を重視すべきであると、このB説は説くのである。

[116] (七)主権論争は「主権」の法的性質の理解の違いを反映している


さらに、この見解の対立は、主権をどう定義するかとも関連している。

A説は、主権とは国家における包括的統一的支配権(国権)をいい、主権論とは、それが誰に帰属するかという帰属原理を問うものでなければならない、という(国権帰属説)。
確かに、この説がいうように、帰属原理如何を問うことが正しい思考であるとしても、それが発動の方向を明確に指示しているわけではなく、人民意思の発動を限界づけるものを問わないまま主権を「包括的統一的支配権」ないし「国権」と構成しても、主権の本質を明確にしたことにはならない(もともと「国権」とは、国家法人説における国家という団体の権利を指していた)。
これに対してB説は、主権とは憲法制定権力、つまり、「国家の最終的な政治的あり方を決定する力または権威」をいうとする(制憲権説)。
それは、誰が、どのように憲法制定権力を発動するかを問うのである(その理論は次節でふれる)。

[117] (八)フランス流主権論争は個別的結論を決定しない


いずれにせよ、ナシオン主権か、プープル主権かという論争は、「国民」概念の多義性を我々に気づかせるものの、特殊フランス的論争であって、我が国の憲法(国制)解釈に直接の関連をもたない([108]参照)。

憲法解釈に関連性はないものの、一つだけ確実にいえることは、プープル主権論こそ自由な国家にとって最も危険な理論であることである。
その危険性は、主権の万能性と、服従契約としての社会契約を説くルソーの次の理論に現れている(巻末の人名解説をみよ)。
「主権者が自分で侵すことのできぬような法律を自らに課すことは、政治体の本性に反するものである・・・・・・。いかなる種類の根本法[憲法]も、社会契約でさえも、全人民という団体に義務を負わすことはなく、また負わすことはできないことは明らかである。」
「社会契約を空虚な法規としないために、この契約は、何人にせよ一般意思への服従を拒む者は、団体全体によってそれに服従するように強制されているという約束を、暗黙のうちに含んでいる。そして、その約束だけが他の約束に効力を与え得るものである。このことは、市民が自由であるように強制される、ということ以外の如何なることをも意味しない」
(ルソー『社会契約論』第一編第七章)。

歴史上、この理論は、デュギーや O. ギールケが正当にも指摘した如く、最も血腥い暴政者によって援用され、立憲主義によっていささかも重要な役割を演じなかった。
だからこそ、近代立憲主義は、プープル主権からの「補助的予防装置」(J. マディスン)を講ずる必要性を絶えず説いてきたのである。


■第三節 憲法制定権力の意義


[118] (一)憲法制定権力は意思主義的発想を基礎とする


憲法制定権力(制憲権)とは、憲法(国制)そのものを基礎づけ、憲法典上の諸機関に権限を付与する権力または権威をいう、とされる。
その権力または権威の淵源は、通常、人(特に、国民)の意思に求められている芦部『憲法制定権力』3頁は、制憲権を「国家の政治的実存の様式及び形態に関する具体的な全体的決断をなす政治的意思」としている)。

国民の意思に淵源をもつとする制憲権理論を、社会契約と誤って結びつけながら、最初に実定憲法で高々と謳ったのは、マサチューセッツの憲法であった。
その前文に曰く、
「政治的統一は、個人の自由意思による結合によって成立し、それは社会契約の結果であり、この契約により一定の法律に従い一般的利益に合致して統治が為される目的のもとに、人民の全体が各市民と、各市民が市民全体と契約を結ぶのである。」
ところが、その起草者J. アダムスの考えたほどには制憲権理論は単純ではなかった。

[119] (ニ)政治的意思としての制憲権の発動は国制の正当性まで根拠づけない


制憲権を議論するに当たっての論点は、次の如くである。

制憲権の本質は、「権力」すなわち「実力」であるか。
権力または実力の淵源が、統一目的のもとに結集する人々の「政治的意思」にあると考えてよいか。
制憲権によって創り出された憲法(国制)は、事実状態または権力関係であるか、それとも、規範的秩序であるか(この点については第二章の[32]~[33]をみよ。
少なくとも、憲法制定権力にいう憲法とは、我々が日常的に使う「憲法典」を意味しない。制憲権とは、「国制を決定する権力」を指す)。
制憲権は改正権と同質であるか。
制憲権の主体は、国民であるか、それとも、それ以外でありうるか。国民であるとした場合、その捉え方如何。

意思から権力や正当性が生まれるとする思考は、先に指摘したように([34]参照)、法実証主義のそれである。
ところが、「政治的意思」から権力が生まれ、同時にそれが正当であることを論証することは困難である。
国民の政治的意思といったところで、現実の統治は、少数者による統治である。
国民の政治的意思から国制が基礎づけられるというのは、社会契約論と同様に、合理的な国家はどうあるべきか、という仮設にとどまる。
また、「政治的意思」という「政治」の意義は、政治学においても論争を呼ぶ概念である。

かように、制憲権の本質等を理解するに当たって、我々は様々な難問に遭遇する。
制憲権論の基本的狙いは、那辺(※注釈:なへん、どのあたり)にあったのか。
同理論が体系化されるまでの展開を以下で概観した後、制憲権の本質をみることにしよう。


■第四節 制憲権の理論化とその展開


[120] (一)シェイエスは第三階級の圧倒的有利を説きたかった


制憲権を最初に体系的に論じたのは、A. シェイエス(1748~1836)である。
彼は、政治社会における個々の市民(シトワイアン)が共通の目的をもって憲法契約に参加するば、プープルという一つの集合体とその共同意思を成立させるとみたうえで、この共同意思のもつ力が主権である、と考えた(シェイエス『第三階級とは何か』)。
この契約によって生じた統一体としてのプープルは、共同意思を発動して憲法(国制)を創設するに当たって(すなわち、制憲権を発動するに当たって)、代表者の意思を常に統制すべく、その共同意思を憲法典という法規範の中に集約して、委任の条件と範囲を代表者に対して示すのである。
制憲権そのものは、超実定憲法上の意思力であり、憲法典は、制憲者意思によって作り出された人為的ルール(設計的意思の所産)なのである。

シェイエスの制憲権理論は、政治的統一体創設のための社会契約と、政治的統一体の憲法契約とを時間的にも、理論的にも区別した点で出色であった(シェイエス著、大岩誠訳『第三階級とは何か』82頁参照)。
彼の理論の目的は、第一に、「国民の共同意思の力=制憲権=主権」という定式を確立することによって、当時圧倒的多数を占めていた第三階級に主権が帰属すべきこと、第二に、憲法によって作り出された権力(特に立法権)は、決して委任の条件と範囲を変えることはできないこと(制憲権と立法権の守備範囲の差)を明らかにすることにあった。
ただし、制憲権と改正権の区別は明確に意識されていない。

[121] (ニ)シェイエスは事実上の力としての制憲権を考えていた


シェイエスにおいては、制憲権は、人権保障の領域にあっては、「人権宣言」によって統制されるものの、統治機構の領域では、実体的にも手続的にも法的制約に服さず(この側面は、「実定法超越的」と表現される)、至上最高のものであり、いつでも発動して実定憲法をいかようにも変えることができるもの(その側面は、「実定憲法破壊的」と表現される)、と考えられている(彼は『第三階級とは何か』84頁において、こういう。「国民は全てに優先して存在し、あらゆるものの源泉である。その意思は常に合法であり、その意思こそ法そのものである。それに先立ち、その上にあるものとしては、唯ひとつ、自然法があるに過ぎぬ」)。
彼の理論は、絶対的多数者たる第三階級の意思を一般意思(共同意思)とする、革命のための政治的目論見をもっていた。

その狙いは市民革命によって達成されたものの、共同の敵を失った後にあっては、人民の意思が統一的な公的利益に収斂するとの命題に対して理論上も実践上も疑念が持たれるに至る。
その疑念があるとはいえ、彼の思想は、「誰もが一人として数えられる」という市民的平等のみならず、政治的自由を近代国家のルールとしてもたらし、普通選挙制の到来を準備したのである。

[122] (三)シェイエス以降、制憲権と改正権との本質的差異が強調されてくる


彼の理論が現実政治のなかで実現された後は、右の疑念を反映して、制憲権から超実定憲法的性格を如何に払拭するか、という課題が中心的論争対象となる。
それを解決すべく、制憲権は実定憲法典制定と同時にその権力的性格を自ら凍結し、実定憲法典の正当性を支える原理に変質した、とする理論が登場する。
この段階で制憲権論は、立法権と制憲権の区別を論拠づけるものから、改正権との区別を根拠づけるものへと焦点を移していくことになる。
すなわち、改正権は「憲法によって作り出された権限」であって、「憲法を創り出す権力」とは異なる、と意識されるに至ったのである。
実際、フランス1791年憲法は、制憲権を実定憲法典の正当性原理として凍結させたばかりでなく、改正権から峻別し、さらには、改正権の発動についても厳格な手続を踏むこと、および、改正内容にも限界があることを明示した。

[123] (四)シュミットはさらに精密な制憲権論を作り上げた


目をドイツに転じてみよう。
C. シュミット以前のドイツの理論状況は、国家法人説、概念法学が主流であったため、自然人の意思が権力を生み出すとか、国制のなかに権力的階梯構造が存在する、とかいった理論の成立する余地を残さなかった。
この伝統に決別を告げたのがシュミットであった(巻末の人名解説をみよ)。
彼は、制憲権とは、国家全体のあり方を決定する実力(または権威)をもった政治的意思であるとして、次のような理論を構築した。

まず、この意思の所産を Verfassung (憲法)と呼び、それと個別条規の統一体たる「憲法律」(Verfassungsgesetz)とを区別し、さらに憲法律と、それによって付与された権能とを区別する。
つまり、彼の理論は、「政治的意思たる制憲権→憲法→憲法律→憲法律によって付与された権能(その一つが改正権)」という公式のもとで、政治的意思が階梯的な規範を作り上げていくことを説いたのである。


■第五節 制憲権の法的性質


【表10】 我が国の制憲権論
実力説(※注釈:A説) 制憲権は、意思(なかでも国民の意思)の発動であり、事実上の力である。(※注釈:佐藤幸治
権限説(※注釈:B説) 制憲権は、一定の規範の授権によって発動される権限である。(※注釈:清宮四郎、芦部信喜
監督権限説(※注釈:C説) 制憲権は、代表を監督するために発動される権限である。
正当性原理説(※注釈:権威説、D説) 制憲権は、実定憲法制定とともに、憲法典を支える正当性の源となる。
有害無益説(※注釈:E説) 制憲権を実力と捉えれば実定憲法にとって有害であり、正当性原理であるとすれば無益である。

[124] (一)制憲権は実力であるか


我が国の制憲権への見方も、歴史的にみられた諸説を反映して、さまざまである。

まずA説は、制憲権をもって、法外的な政治的事実の問題とみる(実力説)。
もっとも、その中でも、A'説は、制憲権そのものは政治的事実または意思による決断であっても、その政治的決断に当たって、国民が憲法典を創り上げる際に何を選択する(した)か、という視点を重視する。
同論者は、我が国の制憲権者たる国民が、「よき社会」の形成発展のために自然権保障型を中心部分とする立憲主義的憲法典を選択し、「自己拘束」した、と考えるのである(佐藤・99頁)。

右のA説に対しては、近代立憲主義思想は、制憲権を実力とみないで、ある種の規範によって統制された(またはされるべき)もの、との前提に立って、その規範内容を模索してきたのではなかったか、換言すれば、意思の降り立つ先を事前に示すもの、または、意思自体を拘束するものは何であるかを看過したままでよいか、との疑問が残される。
同様に、A'説についても、政治的決断を事前に限定する何らかの力を問わないままでよいか、との疑問が残される。
「国民の自己拘束」に言及するだけの理論では不十分である。
歴史上の思想家たちは、国民の意思を制約する精神的能力として、例えば、①実践理性(I. カント)、②判断力(A. アレント)、③合理的コミュニケーション能力(J. ハーバーマス)を構想してきたのではなかったか。

[125] (二)制憲権は規範的力であるか


B説は、制憲権が根本規範による授権によって根拠づけられた法的な力であるとする(権限説)。
もっとも、その根本規範の捉え方に関して、ケルゼンの如く、仮設的・形式的に実定法の前提として措定するB1説、実定的に定立された実体的法規範と捉えるB2説がある(清宮Ⅰ・33頁)。
ところが、B1説、B2説ともに、根本規範の実体につき、客観性を欠くうらみがある。
なかでも、実定法体系を規範化するルールを、同一の実定法体系に求めるB2説は、根本的な誤りを犯している([94]参照)。

また、制憲権が、個人の尊厳または人格価値不可侵の原則によって規範的拘束を受けているとするB3説もある(芦部・前掲書)。
この説は、制憲権が自然法によって授権されるという「権限説」と、正当性の根拠ともみる(すぐ後の[127]でふれる)「正当性原理説」との折衷説のようである。
権力的モメント(※注釈:moment 契機、物事の変化や発展を引き起こす動的要因となるもの)を示す場合の制憲権の主体は選挙人団正当性のモメントを示す場合の制憲権の主体は全国民である、と、その担い手によって制憲権の属性に変化をもたせるのが、このB3説の特徴である。

このB3説に関しても、
第一に、 選挙人団は、国家創設後に国法上に登場する概念であって、国制創設の前段階で議論する制憲権の主体とはなり得ないはずではないか、という疑問が残される。
選挙人団概念を制憲権論に持ち込むことは、最高国家機関をもって主権者とする説と、国民主権の議論とを混同させるであろう。
第二に、 個人の尊厳または人格不可侵の原則の内容が、制憲権を枠づけるほどの具体的内容をもっているかどうか、疑問とせざるを得ない。さらに、
第三に、 これらの原則が制憲権を拘束するとの命題は結論の提示であって、なぜに、これらの拘束力が付与されるのか(人間の実践理性の故か、自然法の要請なのか)、当該法体系の外にある論拠が示されない限り、それは空論である([94]参照)。

[126] (三)制憲権は受動的な監視権限であるか


C説は、制憲権をもって、代表に対して同意を与えまたは与えないことを通して受動的に権力を監督する、現に存在している国民全体の一般意思をいう、とする(監督権力説)。

しかしながら、制憲権は、受動的性格をもつものではなく、代表の権力統制を超えて、権力または権威を積極的に創出するものではなかったか。
代表権力に対する監督は、選挙権や責任政治のレヴェルで志向されるべき問題領域である。
さらには、今日のような多元的社会にあって、一般意思に言及すること自体、もはや不可能といわざるを得ない(ここにいう「多元的」とは、個々人が階層的に秩序づけられておらず、各人の目的が多種多様であることをいう)。

[127] (四)制憲権は実定憲法の正当性原理であるか


D説は、制憲権をもって、実定憲法典の正当性を支える最終的権威であると捉える(正当性原理説または権威説)。
この説によれば、本質的には権力(意思力)であり、超実定的な性質をもった制憲権が、実定憲法制定と同時に実定憲法の中に凍結され、正当性の原理となるのである(この説にいう「正当性」の意義、根拠は明確ではないが、おそらく、「正当性」とは、始源的権力保持者が憲法制定に同意したがゆえに拘束力をもつ、ということなのであろう。ここにも合理的意思の神話がみられる)。
もっとも、この見解は、実定憲法を制定すべく発動された制憲権を、実定憲法から事後的に説明するものであって、時間的な観点が、前ニ説とは異なっており、これらの説を同一次元で論議し評価することは避けたほうがよい。

制憲権論は、時間的にも論理的にも実定憲法に先立つ段階を考察対象とする論議である。
権力創出の時点での制憲権の性質をどうみるかという論点と、創出後のそれをどうみるかという論点とを、混同してはならない。
右のD説のように、権力創出時点での制憲権を超実定的かつ実定憲法破壊的と考えることは、創出される権力の正当性やその限界、さらには権力の維持・行使の条件を厳しく問わないことになろう。

[128] (五)制憲権論は有害無益であるか


E説は、国民主権にいう主権を制憲権と捉えること自体が有害無益である、とする。
というのは、制憲権に超実定法的性格づけをするとすれば、実定憲法破壊的な危険性を認めることになり、他方、制憲権を単なる正当性の問題に押し込めるとなると、主権を理念的な空虚なものにしてしまうからである。
この点を考慮したうえでE説は、主権を国家における統一的包括的支配権(国権)をいうものと構成して、主権理論はそれが誰に帰属するかを問う議論でなければならない、と主張する。
そのうえで、統一的包括的支配権がプープルに帰属する、とE説は結論するのである。

ところが、この説については、
主権が統一的包括的支配権(国権)であるとしても、その実体は何なのか([116]参照)、
その帰属先を分析するだけでは、主権の本質とその限界につき正答を得るに至らないのではないか、
との疑問が残る。
このE説が、制憲権としての主権理論を有害無益であると断罪するのであれば、それをさらに、デュギーほどに徹底して、神秘的な、人民の一体意思を基礎とする国民主権の観念自体を有害無益であるとする道筋をも模索すべきではなかったか。
国民の構成員一人ひとりの選好を総計して生ずる集団的決定は、実は、個人を守らないばかりか、多数派自身をも守らないことが多いのである。
この点に気づいてか、デュギーはいう、「国民主権の神秘的性質は、事実に反して、神秘的性質なしに有り得たよりも遥かに長い間活動期間を国民主権の観念に与えた。しかし国民主権の観念が創造力を失う時が来た。・・・・・・国民主権の観念は最も確実なる事実と明らかに矛盾する」と(デュギー『公法変遷論』20頁)。

本書における制憲権の捉え方は、[132]でふれる。


■第六節 国民主権と憲法典との関係


[129] (一)制憲権の主体は歴史的に変転してきた


制憲権の主体は、必ずしも国民であるとは限らない。
歴史的には、その主体は君主であることが多かった。
しかし、これまでの憲法理論史をみると、特に啓蒙思想期以降、制憲権は社会契約によって成立した政治的統一体としての国民が発動する権力または権威であると論じられてきており、その主体を国民に求めるのが主流である。
国民が制憲権の主体となる場合をもって「国民主権」という。

国民を主体とする制憲権論、すなわち国民主権論は、統治権力の正当な源泉が国民の意思にあることを説くための理論である(権力創出のための理論)。
その理論は、さらに、社会契約理論と結びついて、国家が社会構成員の合意を通して統治権力を獲得することまで説いた統治権力獲得のための理論)。
すなわち、国民主権または制憲権の理論は、統治権力の創出および獲得の正当性までを問うものであった。

[130] (ニ)制憲権論は憲法典の構造まで指示しているか


現実の政治過程は、権力の創出、獲得、維持および行使というプロセスからなる。
今後の議論は、今日の統治が「基礎をもたないシステム」となりつつあることを考慮した場合([22]参照)、実定憲法典のもとで維持・行使される統治権の正当性を問うものでなければならない。
換言すれば、権力と権限の行使が、究極的には、人々の公共的な議論を通しての合意に基づく法規範や政治制度に定位しているか否か、不断に検証されなければならない。

権力の創出および獲得の正当性までを問うてきた制憲権論が、権力の維持・行使の正当性まで問いうるものか、疑問となる。
もしも制憲権論が、憲法典の構造の正当性まで指示するものであれば、この疑問も解決されるのであるが。
果たして制憲権論は、最終的な政治的決定権限が誰に帰属するかという論点ばかりでなく、実定憲法の正当性やそのもとでの統治権の行使の正当性を担保するだけの構成(組織)原理を指し示しているであろうか。

この点に関しX説は、日本国民が制憲権を発動するに当たって、立憲主義的内容を選択し、自己拘束して、(イ)統治制度の民主化、(ロ)公開討論の場の確保、という「実定憲法上の構成原理」を日本国憲法に組み込んだとの理解を示して、この疑問を解決しようとする(佐藤・100~101頁)。
その構成原理の具体的要素は、

民意をできる限り反映する「民主的」統治メカニズムを備えること、すなわち、選挙人となりうる人物が最大であること、
選挙人の意思が反映されるよう統治制度が整備されること、
選挙人の意思が自由に反映できるために、統治者批判が自由であること、

といった要素が挙げられる。
ところが、右の①~③は、「国民主権」によって必然的に要請されるものではない。
先にふれたように([56]参照)、①~③は、統治される国民が統治者に対して有効なコントロールを及ぼすための装置である(「統治される民主主義」)。
国民主権論を右要素と結び付けようとする試みは、実現されるべくもない「治者と被治者との自同性」を夢想する姿に近い。

X説と同様に、X'説は、国民主権とは、選挙人団としての国民がその権力を行使する際の様々なチャネルの整備をも含意している、と解する(芦部『憲法講義ノートⅠ』121頁)。
この見解は、制憲権が正当性原理にとどまらず、権力的色彩を持っていること、その権力主体が国民(選挙人団)であること、を前提にしている。
この立場を推し進めれば、憲法典は有権者意思を反映するような道筋、たとえば、民選議会、参政権、表現の自由等を備えておかなければならない、というX説と同一の見解に帰着することになる。

ところが、この説には、主権概念の混同がみられる。
すなわち、既に [15] においてふれたように、主権とは、あるときには、具体的に存在する国家機関のうちの優越的権限を有している機関をいう場合(「国家最高機関としての主権」)、またときには、最終的支配意思の源をいう場合(「憲法制定権力としての主権」)等があるが、右のX'説は、両者を制憲権概念のなかで説こうとしている点に無理がある。
憲法典上要請される構成原理または統治構造は、あくまで、出来上がった憲法典から理解すべきものである。
その理解に当たって、統治過程の民主化の要請と、国民主権論とを結びつけない道筋も真剣に検討されなければならない。

となると、Y説のように、国民主権の概念と民主的選挙制度等との直接的関連性なし、と考えるべきであろう。
この説によれば、「すべての権力は国民に由来するという [国民主権の] 公式は、代議士の選挙が定期的に繰り返されることに関してよりも、むしろ憲法を制定する集団として組織された国民が、代議制立法府の権力を定める排他的権利を持つことに関連して言われた」のである(ハイエク『自由の条件Ⅱ』66頁)。
この立場を徹底させれば、国民主権はあくまで憲法制定権力と同義であって、主権者が実定憲法の構成原理として何を選択するかは、事前に示されることは決してなく、主権者の選択に委ねられることになるばかりか、国民主権にいう国民が観念的統一体に過ぎないものである以上、主権は正当性原理に過ぎない、と捉えられることになろう。
正当性原理としての国民主権は、独裁制をも許容するものであって、具体的政治組織のあり方については何も指示せず、ただ、すべての国家機関が国民の権威づけのもとに権能を行使することを理念的に示すにとどまる、との理解も十分成立しうる(小嶋・105頁。もっとも、この論者といえども、空虚な主権論とならないために、全体の奉仕者としての公務員観(15条)が要求されると説く)。

[131] (三)制憲権が意思の発現であるとすれば、その本質は実力と理解せざるを得ない


制憲権が人民の意思から発せられる力であると想定するのであれば、その本質は事実上の力であると理解せざるを得ない。
それは、他の力からの授権を要しない実力である。
実力と考えざるを得ないからこそ、近代立憲主義は、それと対立し、それを制約する別の力を追い求めてきたのである。

その別の力とは、自由の概念であった。
もっとも、自由の概念も不動不変ではありえない。
後世は、後世にとっての自由が保障されなければならない。
そのために、憲法典は、後世に対して開かれた部分を用意するのが通例である。
その部分が憲法改正規定である。
改正規定によって後世に開かれた部分を残していることが、現行憲法典の拘束力保持理由の一つである。

従来の制憲権論は、制憲権を野放しにしないために、何らかの権威に由来するものと想定して、根本規範を設定したりして、その権威の淵源(正当性)を追い求めてきた権威と制憲権との垂直的布置の理論)。
今日までの諸理論は、その追究に成功していない。
この点は次のように考えるべきであろう。

意思の力を淵源とする制憲権は、権威に由来するものではなく、制憲権とは独立に存在する「法」によって横からの制約を受けている法と制憲権との水平的布置の理論。「法の支配」は、まさにこれを狙ったのである)。
この「法」は、各人の自由な領域を保護する普遍妥当な抽象的ルールである。
このルールを、ハイエクに倣って「自由の法」と呼んでもよい(巻末の人名解説をみよ)。
「自由の法」は、超越論的な思弁の中にあるのではなく、人間社会が事実上存在するその瞬間から生まれ、人間が経験によって学び得た準則である(自由の本質については『憲法理論Ⅱ』で論ずる)。
「自由の法」に代えて、「個人の尊厳」、「人格価値不可侵」といった茫漠とした用語に拠るとすれば、制憲権を制約する内実をその中に発見することは期待できないであろう。

[132] (四)制憲権は意思の力であるとする理論は、合理的人間像に基づく近代哲学の嫡流に属する


では、意思から力が発生するという保証はなく、政治的統一意思は今日のような多元的社会にありようもない、とする本書のような醒めた目からすれば、制憲権理論はどう再構成されればよいか。

制憲権の理論は、人民の意思が全ての権力の源であるとする社会契約理論と結びついたフィクションである。
社会契約の理論そのものが、《そうあって欲しいものを合理的に理論化しようとした擬制である》以上、その上に構築された制憲権理論も、擬制に過ぎない。
歴史上、その思想の力が、現実の政治世界に影響を与え、実力としての市民革命という形態をとることもあったし、摩擦なく円滑に実定憲法典の基本理念として採用されることもあった。
制憲権の本質は、実力でもなければ、権限でもない。
それは、合理的国家のあるべき姿を説くための仮設である。

その仮設は、ある国では、それを拒否し続けた専制君主を打倒する革命の理論として実際に採用された。
その現実は「制憲権=実力」と後世に映ることになった。
またある国では、社会契約理論をモデルとした実定憲法典を制定した。
そこでは、制憲権は、実定憲法典を支える「正当性原理」として後世に映ることになるのである。

もともと、制憲権論は、君主という一人の意思の絶対的力に代えて、人民の意思を統治の根底に置く革命の理論であった。
その理論は、君主を排除するところまでは指示するものの、統治の最終的なあるべき姿を指示することはできない。
統治の最終的あるべき姿は、人民の意思や制憲権の理論を統制するものに求めなければならない(もっとも、ある理論が政治的決定に最強の影響を与えることはある)。
だからこそ、我々は「法」、「自由」に言及してこれを統制しようとするのである。

このように考えれば、「国民が制憲権をもつ」とする命題こそ擬制中の擬制である。
一方で、制憲権の主体は観念上の抽象的存在たる「国民」であるとし、他方で、制憲権の本質は実力であると主張することは、自己矛盾である
というのは、制憲権が実力であれば、具体的に存在する自然人によって行使されるはずのものであって、抽象的存在たる国民が主体となることは不可能だからである(制憲権が抽象的存在たる国民に「帰属する」との表現を用いても解決とならない)。
有効な権力概念であろうとすれば、その保有者が一定の事柄を為し得るか否かを基礎づけなければならず、これに失敗する理論は空論である。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第一部 第8章 国民主権あるいは憲法制定権力
LEC・芦部信喜・佐藤幸治・阪本昌成・中川八洋の「国民主権論」比較 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価
関連用語集 【用語集】主権論・国民主権等
「法の支配」と国民主権 「法の支配(rule of law)」とは何か


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※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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第八章 憲法の保障と憲法の変動

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第八章 憲法の保障と憲法の変動 p.118以下

<目次>

■第一節 憲法の保障の意義


[133] (一)憲法典は、それ自体の妥当性を維持するための工夫を施さねばならない


憲法典は、その持つルールとしての力によって、すなわち、妥当性(法規範として正当であると受容されているために拘束力をもつこと)によって、統治権力を拘束することを目指す。
ところが、これまで繰り返してきたように、憲法典のルールとしての力は、憲法典に内在するものではない([94]参照)。
通常、憲法典自体の妥当性は、憲法典の外にある制憲権意思から与えられるもの、と理解されている。

そればかりでなく、憲法典自身は、制裁規定を備える真正の法規範とは言い難く、そのために、その実効性を確保する点でも心許ないところがある([62]参照)。
下位法が、憲法典から授権される妥当性と実効性(法規範として現実に適用され遵守されること)とを主張しうるのに対して、憲法典自体は、本来「直接有効な法」ではないのである。
憲法典は、そのルールとしての力を確保すべく、その内部に様々の工夫を凝らし、「直接有効な法」としての性格を自ら与えようと試みるのである。

制憲権の発動によって与えられたはずの実定憲法典の妥当性および実効性を確保するための様々な装置を「憲法の保障」という。

[134] (ニ)憲法保障の類型は平時における保障方法と非常時におけるそれとに分けられる


憲法の保障のうち、平時における方法としては、実体的保障と、手続的保障とがある。
実体的保障の方法としては、 憲法典の最高法規性を宣言し、さらに憲法典への忠誠の宣誓や憲法擁護義務を課すこと(宣言的方法)や、
権力分立、二院制、独立行政委員会制等による政治部門内部の抑制を通して、権力の集中を防ぎ、憲法秩序の破壊が生じないようにすること(制度的方法)が挙げられる。
手続的方法としては、 特別な憲法改正手続を要するとすること、
違憲審査制を導入すること、が挙げられる。

違憲審査制は、国家機関の行為の合憲性を当該機関以外に判断させることによって、憲法典を「直接有効な法」とするための方策である。
そのための機関と手続にも様々なものがあるが、「憲法の保障」にとって最も中心と目されるのは、裁判所による違憲審査制である。
裁判所による違憲審査制にも、憲法裁判所を設置するやり方(憲法裁判型)と、通常の裁判所によるやり方(司法審査型)とがあるが([438]参照)、いずれの場合であっても、裁判所には、憲法秩序の維持という観点が要請され、「違憲」と判断された国家の行為を取消可能とし得る(voidable)権限が与えられる(ここで「取消可能とし得る」との表現を用いたのは、「違憲」と判断された国家行為が「当初から無効」と理解すべきではないからである。この点については [409] でふれる)。

非常時における方法としては、①国家の側からの緊急権の発動と、②国民の側からの抵抗権の行使、とが考えられる。

[135] (三)国家緊急権は超憲法典的に存在せざるを得ない


国家緊急権とは、平時の憲法典上の手段では対処しきれない緊急事態(戦争・内乱・天災地変等)において、国家の存立と全体としての憲法秩序に対する重大かつ明白な侵犯状態に対して、現行の憲法秩序を維持・防衛・回復するために行使される国家統治権力をいう。
国家緊急権には、憲法典が緊迫した非常事態を予定し、一定の条件のもとで、その行使を認めるもの(実定憲法上の国家緊急権)と、憲法典の一切の枠や授権の範囲を超えて行使されるもの(超実定憲法的国家緊急権)、とがある。
緊急事態は、憲法典の予想を許さないだけに、ヴァイマル憲法での大統領の独裁権限にみられるように、前者の方法をとってみても、実効的に統制することは困難である。
憲法典上の明文による実効的な統制部分は、主に事前の手続的な側面であろう。

国家緊急憲は、多くの場合、軍事力が行使され、一次的に立憲主義が停止される(憲法典に基づく統治を守るために憲法典を踏み越える)だけに、明文規定を欠くとしても、不文のルールのもとで極めて例外的状況下でのみ許容されなければならない。
すなわち、その要件は、立憲主義にとっての緊急事態が発生していることは当然として、
(a) 一時の臨時的な措置であること、
(b) 代替手段に欠けること、
(c) 少なくとも、事後的な責任所在の明確化や責任追及のための制度が用意されること
等、である。

[136] (四)抵抗権は国法のなかに取り込むことのできない人権である


抵抗権とは、憲法典の基礎をなす憲法秩序を維持または回復するために、実定法上の義務履行を拒否する国民の基本権をいう。
実定法上の義務履行を拒否するという消極的なものである点で、積極的な武装行使を容認する革命権とは区別される。

国家が人民の社会契約によって作り上げられ、基本権保護に奉仕することにその存在根拠をもつと考えた場合、国家の不正に対して契約を解除する最終的手段としての抵抗権は、明文の有無に拘らず、超憲法典的に存在するといわざるを得ない。
国家による保護が終われば、一切の服従義務も終わり、個人はその自然状態での自由を取り戻すのである。
抵抗権が実定法上の義務を破る権利である以上、それは実定的権利では在り得ない。

なるほど、近代立憲主義以降の諸国家は、法治国家という理念に立って、「合法性」判定基準を「憲法典を頂点とする実定法」に求め、国家自らの合法性を根拠づけると同時に、基本権と権利を国家法において具体化し保障してきた。
ところが、「法」は「立法」と同義ではなく、また、「法」も「自由」も立法によって語り尽くされるものではない。

非常時における抵抗権は、国家法と同一平面にある権利ではなく、個人にとっての最後の保障手段であり、「譲り渡すことの出来ない、しかしまた、組織化することも出来ない」真正の基本権である(シュミット『憲法論』195頁。「自然権」といってもよく、constitution 上の権利といってもよい)。
配分原理からしても、抵抗権は本来無限定の「自由」に淵源をもち、国家によって承認される必要はなく、従ってまた、制度化される必要もないのである(ドイツ基本法20条4項は、他の方法がないときには、憲法的秩序を除去しようと企てる「何人」に対しても、全てのドイツ人が抵抗権を有する、と定めている。この規定は、抵抗権概念を拡大して制度化したものである)。

ただし、抵抗権は、国家が個々の憲法律上の規定に違反することを超えて、憲法秩序全体に対する重大かつ明白な侵犯行為を為す場合に、国民の合法的権利行使では国家の合法性が維持できない状況下で初めて、「極限の保障手段」として国民による発動が許される。

[137] (五)日本国憲法は憲法保障のための規定を数多くもっているものの、国家緊急権規定を欠いている


我が国の憲法典は、平時の実体的憲法保障として、①基本的人権保障を国政の目的と定めて(13条)、②その永久不可侵性の宣言(11、97条)、③国民によるその不断の保持義務(12条)、および、④天皇や公務員の憲法尊重擁護義務(99条)等の宣言的方法を組み入れているばかりでなく、⑤「権力分立」、⑥二院制等の制度的方法をも採用している。
平時の手続的保障として憲法典は、「最高法規」と題する一章を設けて、憲法典が最高法規であるが故に、①その改正のためには加重された手続を要すること(96条)、②憲法典の規範性を確保するために司法審査制を導入すること(81条)を明らかにしている。

大日本帝国憲法(以下「明治憲法」または「旧憲法」という)においては、①緊急勅令(8条)、②緊急財政処分(70条)、③戒厳(14条)、④非常大権(31条)等の規定が、国家緊急事態に備えるものであった。
これに対して、現行憲法典には、①臨時会(53条)および②参議院の緊急集会(54条2項)以外に緊急事態に備える規定は見当たらない。
ところが、これらの規定は平時の立憲体制を想定してのものであって、本来の意味での国家緊急権規定ではない。
日本国憲法は、それにつき明示的規定を欠いているために、本来の国家緊急権の有無につき学説の対立を呼ぶことになる。

まずA(否認)説は、 一切の戦争を放棄している9条が、国家緊急権行使の主要手段としての軍事力を否定した以上、国家緊急権の存在自体否定されているとみる。
次にB(欠缺(※注釈:法律用語で「適用すべき法の規定が欠けていること」)説は、 緊急集会しか認めていない日本国憲法には、国家緊急権に関する定めはなく、憲法の欠缺と解するほかないとする。
これに対してC(許容)説は、 国家緊急権が「必要は法を知らず」という不文の法理(英米でいうマーシャル・ルール)または constitution に内在する国家の権力である、と説く。

以上の諸説のうち、A説は、国家緊急権発動を戦力に限定したうえで、9条のみを根拠としてこれを否定している点で視野が狭すぎる。
憲法の欠缺と捉えるB説は、憲法と憲法典との区別を明確に意識しないままに、結論を避けている。
憲法典は、自己完結的な法典ではなく、国家の存立を前提とした二次ルールである以上、国家存立そのものに関するルールは、明文で語られないかたちで存在せざるを得ない。
C説が正しい。

[138] (六)日本国憲法は抵抗権についても明文規定を欠く


日本国憲法は、抵抗権についてふれるところがない。
我が国の論者は、抵抗権の存在につき肯定するものの、それが実定法上の権利であるのか、それとも、非実定法上の権利でなければならないのか、見解を異にしている。
A説は、抵抗権が憲法典上の自由権に包摂されているとする。
これに対してB説は、シュミット同様、抵抗権が実定法に取り入れられることは在り得ず、自然法上または constitution 上の権利(人権)として説明されるべきである、と説く。
抵抗権は、国家緊急権同様、二次ルールによって語り尽くされるものではない。
B説が妥当である。


■第二節 憲法の変動の意義とその種類


[139] (一)憲法典は憲法を語り尽くせない


「いかなる社会も恒常的な憲法をつくり得ない」(T. ジェファーソン)とか、「もっとも硬性度の強い憲法であっても新しい実質的な憲法原則の形成を阻止できなかった」(イェリネック)とかいわれる。
国制は、日々発展生成し、新たな統合をみせるために、それを憲法典で語り尽くすことは不可能である(もともと、あるルールが明文上のルールのなかに全面的に取り込まれることは在り得ない)。

憲法の変動」とは、憲法典の予期しない不規則な社会的・政治的プラクティス反復継続される定型的行態に、憲法典がどう対応するか、または対応させられるか、という問題をいう。
人為の業である憲法典が、実態としての国制を全て語り尽くすことはない。
だからこそ、憲法解釈の枠を超えた、または、憲法典上の正文(テクスト)に抵触するプラクティスの生起をある程度予期した対処方法を、憲法典は準備しておかなければならないのである。

[140] (二)憲法の変動は憲法典の変動と同義ではない


憲法の変動とは、憲法典上の条規の意味変化それ自体を指すのではなく、国制という意味での憲法上の社会的・政治的プラクティスの変化をいう。
憲法の変動の種類としては、憲法の改正、憲法の変遷のほか、次のものがある。

憲法の廃絶 憲法(憲法典上の条規ではない点に注意)のみならず、その根底にある憲法制定権力まで除去すること。
憲法の除去 根底にある憲法制定権力を維持しながら、既存の憲法を除去すること。
憲法の破毀 憲法典上の一つ、または、幾つかの規定の効力はそのまま変更されることがないにも拘らず、それと異なる命令によって諸規定が侵犯されること。
憲法の停止 一つ、または、幾つかの憲法典上の規定を一時的に効力停止すること。これは、一時的に憲法典上の規定を失効させる点で、憲法の破毀と異なる。

以下では、憲法の変動のうちの、⑤憲法の改正と、⑥憲法の変遷、について、検討する。


■第三節 憲法改正の意義


[141] (一)憲法改正とは憲法典上の条規を意思によって変更することをいう


憲法の改正とは、憲法(国制)上の社会的・政治的プラクティスの変化(憲法の変動)に対応させるべく、憲法典の定める正式の手続に従いながら、改正権者の明示的意思によって、憲法典(の一部)またはその条規に変更(削除、追加等)を加えることをいう。
その手続の類型には、
議会とは別の組織体によるもの(1791年のフランス憲法型)、
改正のために召集された両議院と国王との共同決定制とするもの(ベルギー憲法型)、
議会の特別多数決制によるもの(ワイマール憲法型。国民の請願による改正手続も残されている)、
国民による最終的決定を要するとするもの等、
様々である。

[142] (ニ)全面改正は改正ではないという議論は形式論である


憲法の改正とは、憲法(国制)の変更ではなく、憲法典の変更であるが、憲法典全体の変更(全部改正)も改正といえるのか、それとも、改正とは憲法典中の個別的条規につき、削除、修正、追加または増補するという部分的変更(部分改正)をいうのか、につき、見解は分かれている。
通常は、もとの憲法典の内容との「同一性」を判断基準にしながら、同一性を保持する変更だけを改正と呼ぶ。
つまり、「全部改正」は、新たな憲法典の制定であって、改正ではない、とするのである。
「同一性」を保持しているか否かの判断基準は、constitution に変更があるか否かに求められることになろう。

しかしながら、憲法典の基礎にある constitution の内容をいかに捉えるかによって、「同一性」の有無の判断も微妙とならざるを得ず、全面的改正か否かの判断も微妙となろう。
例えば、日本国憲法の場合、その constitution は、通説風にいえば、①基本的人権の尊重、②平和主義、そして、③国民主権、という三大原理または憲法典の根本規範部分を指すことになろうが、それが、正確な識別テストとなるわけではなく、それ以外の基本原則(④「権力分立」、⑤法の支配、⑥代表制等)といった要素を無視してよいか、大いに疑問である。
従って、「同一性」をキー・ワードとした右のような形式論から「全面改正は改正ではない」とする限界肯定説は、断念されるべきである。


■第四節 改正権の本質と憲法改正の限界


[143] (一)憲法改正の限界は制憲権や改正権の本質論と繋がっている


硬性憲法典の改正規定は、手続的な「憲法の保障」という意味を持つのであるから、憲法典の改正が同手続に従っての作用でなければならないことについては、異論はない。
これに対して、改正対象につき法理論上限界があるかどうかについては、学説の対立するところで、従来から「限界説」と「無限界説」との間で、種々論議されてきた。
その個別的論点としては、

憲法典全体に変更を加え得るか、
制憲権の帰属先に変更を加え得るか、
改正手続規定自体を、その手続で改正できるか、
改正対象としないとの規定を改正し得るか、

等が挙げられる。

学説を対立させる主要因は、制憲権の本質を何とみるか、その制憲権と改正権とが同質であるか、にあると言っても過言ではない。

[144] (ニ)改正権の性質は制憲権との繋がりを論じて明らかになる


改正権が、超法的な、事実の力としての制憲権と同質であるとすれば、それに限界はないことになろう。
これに対して、シュミットのように「制憲権→憲法→憲法律→憲法律上の権能」という階梯的公式を考えれば、改正権は「憲法律上の権能」にとどまる。
また、右の階梯的公式のもとで「憲法制定」と「憲法改正」(すなわち、個々の憲法律的規定の修正)という場合、前者の「憲法」とは全体決定としての憲法を指し、後者の「憲法」とは憲法律を指し、質的に異なるのである。
改正規定は、その母胎たる憲法の派生物にとどまり、従って、憲法律上の改正権でもって、全体としての憲法(国制)を変更できないとの結論に至る。

[145] (三)改正限界説は実体的にも手続的にも法的に制約された改正権を説く


我が国の通説は、改正権をもって「法制度化された制憲権」と捉え、事実上の万能の力ではないことを指摘しつつ、その限界を説く。
この限界肯定説は、改正権が憲法典に定められた手続に従わなければならない、という限界を前提としていることはいうまでもない。

しかし、同説は、改正権が「法制度化」され、事実上の力ではなくなったと説くものの、実体的権能(権力的モメント)まで凍結されているとみる訳でもない。
改正権に権力的モメントを残しながらその実体的な限界を説くとなれば、憲法典を拘束する法理を構想せざるを得ない。
その法理として、論者は、根本規範を仮定するか、個人の尊厳または自然法という普遍的価値を挙げながら、改正権はこれらによって拘束される「権限」であると説くか、または、憲法典自身が恒久・普遍的価値を明示的に改正対象から除外している点を指摘する。
つまり、限界説は、「改正権が、実体的には普遍的価値(または憲法典上の制約規定)によって拘束され、手続的には憲法典の改正手続規定に拘束された権限でる」と解するのである。

[146] (四)改正限界説は数多い疑問を残す


限界肯定説に対しては、
(ア) 既存の憲法典の神聖視から来てはいないか、
(イ) 一時代の産物である憲法典は後世代を拘束できるはずはなく、常に後世代の選択に開かれているべきではないか(諸外国の憲法典には、定期的に国民の審査に服するとする例がある)、
(ウ) 限界を説いたところで、それを超えた改正は、結局のところ、新憲法の制定(新たな制憲権の発動)と捉えざるを得ず、国制の合法的継続性まで否定できないのではないか、
(エ) 改正権を限界づけるとされている価値は、論者の思考の産物に過ぎないのではないか、
といった疑問が残されている。
こうした疑問がある以上、限界を否定する見解(無限界説)が説かれるのも当然である。

[147] (五)無限界説の論拠は一様ではない


無限界説も一様ではなく、

改正行為は、本質的に事実行為であって、法的限界を説くことが出来ない、とする立場、
改正行為は法的行為であるものの、人為法は如何なるものであれ、人間によって変更されざるを得ない、とする立場、
改正権は、憲法を創り出す力であると捉えて、制憲権と同質とみる立場、

等、様々である。

[148] (六)本書は改正権を権力と捉える


制憲権の主体とされる国民は、観念上の統一体である。
制憲権の性質は、憲法典を支える正当性のための仮設である(この点については、国民主権を論じた [132] でふれた)。

これに対して、改正権の主体としての国民は、実在する。
主権者としての国民が「権力」を持つとすれば、それは、実在する国民が主体となる改正権の発動の局面ではないか、と思われる。
すなわち、改正権規定は、手続的に統制されているとはいえ、実体的な権力的モメントを実在としての国民に付与するための「変更のルール」である、と解される。
とすれば、改正権は、憲法典のいわゆる全面的改正や制憲権所在等 [143] で指摘した諸事項にも及び得ることになる。

もっとも、権力としての改正権は、国民によって恒常的に発動されるとすれば危険であり得る。
そこで我が憲法典は、改正の発案権まで国民に与えないで、国会に与えて手続的に統制しているのである(96条1項)。

ところが、無限界説に立つ以上、憲法を改正するに当って、権力主体としての国民は、改正手続に関し、「国会による発案権を否認し、国民が発案する」という憲法改正案であれ、「国民投票を不要とする」という改正案であれ、いずれの案であってもこれを承認することが出来る。


■第五節 憲法の変遷


[149] (一)憲法の変遷の意義は論者によって一定しない


憲法の変遷とは、国家機関のプラクティス(反復継続される定型的行態)が不文の実質的憲法を生み出すことをいう。
もっとも、変遷の定義は、論者によって一定しない。
我が国では、変遷を狭義に捉えて、①国家機関がある条規につき違憲行為を反復継続するにつれて、同条規の実効性がまず失われ、それに従ってその妥当性も失われて、②新たな実効性がその条規の周辺に生まれ、それに伴って妥当性も生まれて、③最終的に、同条規の規範的意味変化がもたらされること、とみる。
つまり、憲法典正文の規範的意味変化とみるのである。

この論は、「ある国家機関の行為が違憲である」ことを前提にして、「違憲事実の集積が憲法典を破るか」と変遷論問題を設定する。
しかし、この設定の仕方は、
第一に、 論者の思考からみて違憲であるとの前提に立っている点で結論先取りの論であり、
第二に、 変遷の対象として憲法典正文の意味変化のみを念頭に置いている点で狭きに過ぎ、
第三に、 憲法典と憲法(国制)とを厳格に区別していないうらみがあり、
正確とは言い難い。

変遷論は、違憲とは限らない国家行為が憲法(国制)を生み出す、との命題を指す。
変遷論をめぐる論争は、法の特性や憲法(国制)に対する見方と繋がる難問である。

[150] (二)変遷論は実質的憲法の成立を説く理論である


変遷論は、イェリネックに始まる(巻末の人名解説をみよ)。
彼の言う憲法の変遷とは、憲法典正文の意味変化に限られない。
正文の有無に拘らず、憲法典に「並行する」実質(不文)憲法と、憲法典に「対立する」実質憲法の成立することを説いたのである。

つまり、彼のいう憲法変遷にいう「憲法」とは、憲法典のことではなく、国家秩序全体を指す場合の憲法(国制)である。
その意味での憲法の成立する領域としては、
(ア) その意味を補充・発展させるもの、
(イ) 憲法典の欠缺部分を埋めるもの、
(ウ) 憲法典の正文に違反するもの、
があり得ることになる。

また、その成立の契機としては、
憲法典正文についての公権的解釈の変更という事実、
特定事実の反復によって生ずる慣習、
国家機関による特定権能の相当期間の不行使という事実
等が考えられる。

[151] (三)変遷論の依拠する基本的発想には基本的な疑問がある


イェリネックの変遷の考え方の基礎には、いわゆる「事実の規範力説」がある。
それは、事実の反復によって人の心理内に規範的力が生じ、人々の社会的規範意識によって支えられて客観化されたものが妥当性を獲得して法となる、と思考する(法の主観説)。

法哲学上、慣習が社会の法的(または規範的)確信によって支持される程度に達すると慣習法となる、としばしば説かれるのも、イェリネックの思考の影響のためである([36]参照)。
しかし、この解明は、プラクティスが法となる条件として「法的(規範的)」確信を挙げる点でトートロジーであって、ナンセンスであるばかりでなく、客観的な法規範の淵源を「確信」なる主観的要素に求める点で解けない謎を残す。

そればかりか、その考え方は、事実から規範が生ずるとするだけに、事実と規範とを峻別する分析哲学の前では通用力を失わざるを得ない。
また、イェリネックは、憲法典を改正手続の加重された法形式とみる形式的な立場を採用したが故に、「後法は前法を破る」という法の一般原則に従って、実質的憲法の成立を肯定したのである。

なるほど、実質的憲法の成立は、硬性憲法のもとでさえ避けることは出来ず、あるいは、硬性だからこそみられるともいえよう。
全ての法治国は、「誰が番犬の番をするか」という問題をこれまで、結局解決できなかった。
しかしながら、憲法保障の具体的方策として、実体的な最高法規性を憲法典中に宣明し、なおかつ、違憲審査制まで導入することによって、憲法典を直接有効な法とせんとしてきたポスト近代立憲主義の狙いからすれば、国家機関のプラクティスから実効性と妥当性とが生ずるとする理論に、我々は懐疑的とならなければならない。

[152] (四)変遷論は憲法の「法源」論を検討して初めて理解できる


憲法の法源には、不文のものも当然に存在するとはいえ、そのことを承認することと、ある国家行為の反復・継続が憲法としての地位を獲得すると承認することとは別個の事柄である。
後者の命題を承認することは、「変更のルール」を通過しないものを「最高法規」の一部に組み入れることを承認することであるから、その条件を慎重に検討することが特に重要となる。

近代国家は、道徳を中心とする社会規範と、法規範とを識別する規準を用意してきた。
それが、H. ハートのいう「確認のルール」、「変更のルール」、や「裁定のルール」という二次ルールである(この立場は、慣習のうち、国家による承認を得たものが慣習法となる、という承認説に近い。巻末の人名解説をみよ)。

法が存在するというためには、行為従事者たちが受容し、遵守している一次ルールがあるばかりでなく、アンパイアとしての資格を持った人物(または機関)が権威をもって、「そこでは、これがルールとされている」と判定するための二次ルールがなければならない([47]参照)。
この法の見方からすれば、法的ルールが拘束力を有するのは、人々がルールを習慣的・定型的行態(プラクティス)として単に受容しているからではなく、「『変更のルール』(または裁定のルール)によって変更(裁定)されたルールは妥当し拘束力を持つべし」、と「変更のルール」たる憲法典(「裁定のルール」たる違憲審査制規定)により定められているから、なのである。
この立場からすれば、憲法の変遷が妥当性をもつためには「変更のルール」または「裁定のルール」を経由することが必要である。
成文・成典形式を採用する国制にあっては、改正規定が「変更のルール」であり、違憲審査制規定が憲法法源に関する「裁定のルール」である。
これらの規定に基づいて承認を受けていないルールは、法以前のルールにとどまり、厳格な意味での「法源」とはならない(「法源」なる用語を最もルースに解して、「社会的に受容されるルール」の意味で用いれば話は別である)。

[153] (五)変遷をめぐる我が国の学説は大きく三つに分かれる


我が国の学説は、憲法変遷を肯定するか否かについて、法規範の識別テストにつき峻厳な反省を加えないまま、次のような三つの対立を示してきた。

A説全面的肯定説)は、イェリネックさながらに、一定事実の反復継続がみられ、それが国民の法的(規範的)確信によって支えられれば、変遷を肯定して、その部分を憲法法源とみる。
ところが、この説に対しては、
明確な制憲権意思よりも非意図的な慣行を優先させてよいか(何のための成文・成典・硬性憲法だったのか)、
慣行が人々の確信を通して法となるという思考は正しいか、
何をもって「国民の確信」であるとするか、
事実と規範との関係につき峻厳な検討を加えていないのではないか
等、強い批判が寄せられている。

ついでB説限定的否認説または習律説)は、国家機関によって反復継続されるプラクティスが習律(convention)を作る、とする。
習律とは、憲法の働きに携わる人々が義務的なものとして受け入れたところの行為規範であるものの、国家によって強制または裁定される根拠とはならないものであって、法以前(pre-legal)のルールをいう。
この説によれば、習律は、憲法典の意味を補充・発展させる領域、または、憲法典の欠缺部分を埋める領域について成立するものの、憲法典の正文に違反するものについては成立しない。
なぜなら、法以前のルールが、明文の法的ルールを破るほどの妥当性をもつことは在り得ないからである。
確かに、このB説は、変遷の問題領域を的確に捉えているばかりでなく、憲法と憲法典との区別を意識しつつ憲法の法源として不文のものもあり得ることを指摘している点で、正当である。
ところが、なぜプラクティスが習律を生むか明らかにしていないで、画竜点晴を欠く。

さらにC説全面的否定説)は、変遷とは、国家機関による違憲のプラクティス領域に拘わる問題である、との限定的な変遷観を前提に、違憲事実が幾ら集積されても、それはあくまで違憲事実の積み重ねに過ぎず、その種のプラクティスが憲法典正文を破るということはあり得ない、とする。
この説の根底には、変遷を肯定するとなると恒常的に制憲権が発動される状態を容認することになって、硬性憲法典の論理からしても、その事態はありうべくもない、との見方が横たわっている。
このC説に関しては、既に [149] で指摘したように、
変遷の概念規定が狭義過ぎないか、
「違憲」事実の集積という場合、「違憲」であるとの前提は論者の思考の産物(結論の先取り)に過ぎないのではないか、
この説を徹底すれば、憲法の法源は憲法典正文のみということにならないか、
変遷は、事実の集積を問うものではなく、人々の行為(プラクティス)のもたらすものを問うのではないか、
といった疑問が残される。

[154] (六)本書は変遷を一次ルールの形成にとどまると捉える


学説の論争を前に我々はどう考えるべきか。
この点、憲法改正規定という「変更のルール」を経ていない国家行為は、いかに慣行上遵守され規則性をみせていても、厳格な意味での法的ルールではない、と考えるべきであろう。
また、司法審査権という「裁定のルール」を通過しないルールを厳格な意味での「法(【N. B. 12】参照)」と呼んだり、「法源」となると思考することにも疑問が残る。
変遷によって生ずるのは一次ルールのみである、と理解するのが正しい(一次ルールにとどまるからといって、それが、憲法政治に従事する人々に対して規範的な力を持たないという訳ではない。先にふれた習律説のいう習律とは、一次ルールを意味すると解し得る)。

一次ルールが、公権的解釈者たる司法府によって後に「これこれが一次ルールとなっている」と確認されれば、法源として取り込まれたことになる。
変遷の成立する契機として、「公権的解釈の変更という事実」が挙げられるのは、このことを表す。

【N. B. 12】法となるための属性について。
従来のイェリネックに代表される古典的な法理論は、法を実効性(efficacy)と妥当性(validity)という二つの要素からみようとした。
その際、実効性をもって、「規範に従って人々が行動すべきであるように、人々が現実に行動すること、または、法規範が現実に適用され遵守されること」をいい、妥当性をもって「規範として拘束力をもつこと」をいう、とされてきたようである。
ところが、その理論には次のような疑問が残る。
第一に、実効性について、「法規範が現実に適用されて遵守されること」の意味合いが不明である。
そもそも「遵守する」という、人のルールに従う行為を「現実(事実)」問題として説明できるか(「遵守する」という表現を選択する時点で、それは既に現実(事実)問題を超えている。ハートであれば、「現実に遵守される」とはいわないで、「遵守されているという事実があるか否か」を、外的視点から問うであろう)、もし、現実に遵守されているという命題設定が正しいとしたとしても、何ゆえに守られているのかを問うべきではないか。
第二に、法の主観説に立って、規範としての拘束力の淵源を問うに当って、主観から客観への架橋に成功していないのではないか、との疑問が残る。
さらには、第三に、これら二つの要素が如何なる関連性をもつのかを明らかにすることなく、ニ要素を列挙しているだけの如き印象を持たざるを得ない。

【表11】 憲法変遷に関する諸説
否定説    →  憲法実例は、事実の集積に過ぎない
習律説    →→  憲法実例は、習律でとまる
補充性肯定説 →→→  憲法実例は、慣習憲法となる
全面的肯定説 →→→→  憲法実例は、正文の拘束力を破る慣習憲法


■関連ページ

阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第10章 憲法(国制)の変遷


■ご意見、情報提供

※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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第九章 国民代表と選挙制度

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第九章 国民代表と選挙制度 p.133以下

<目次>

■第一節 代表をめぐる歴史 - 代表の種類


[155] (一)歴史上最初の代表は王であった


代表概念は実に多義的えある。
それは、ある権限それ自体、その権限を有する人・機関、または、それらの権能(役割)のいずれか、または、全てを表す。

今日いう「代表」とは、通常、選挙民によって選出された人をいい、そのための制度を「代表制」という。
そのことからすれば、「代表」なる概念は、選挙制、議会制といった制度の表現体である。
これを「狭義の代表」と称することにしよう。
この狭義の代表概念は、例えば、《アメリカの大統領は、全国民の利益を代表する》、とか、《君主は国家を代表する》とかいわれる場合の、機能からみた「代表」概念と同じではない。

狭義の代表は、議会において必ず民意(選挙人の利益、全国民の利益)を表出しなければならないわけではない。
代表の表出する利益は、一院制か二院制かによって異なり、二院制のなかでも、州の利益代表、職能の利益代表等々、様々である。

議会が登場する以前の代表は、王であった。
王は、その機能からみれば、国家・国民の一体性を象徴しているという意味での「象徴的代表」であったり、国家・国民のもつ特質を集約的に共有しているという意味での「縮図的代表」であったりした。

[156] (二)等族会議は王の諮問機関として登場した


中世中期以後、王への自主的援助金(これが後に税となる)に対する等族(司祭、村長、修道院長等)の同意を得る実際的必要性から、審議権限をもつ集会たる等族会議が登場する。
王は、財政的基礎を領主関係を超えた諸階層に求め始めたのである。
等族は、「国家」機関ではなく、「国家内国家」(公法上の団体)であって、それぞれの構成員を支配する権限を有する独立団体であった。

等族は、等族会議に代表を送り出すが、その代表は、①選挙区の特権身分の有する伝統的な固有の権利を君主から守るために、各身分から派遣され、②私法的な委任の原則による規律に服する存在であった。
それは、選出母体からの命令的・個別的委任を受ける「委任的代表」であった。
委任の条件と範囲を逸脱する代表の行為は無効とされるばかりでなく、代表の罷免事由とされた。
また、その役割は、君主の諮問機関であったために、討論・表決することではなく、君主と選出母体との間の導管役を果たすにとどまった。

右の代表の役割がいかに限定されていたとはいえ、その統治にもたらした変容は、重大な意味をもっていた。
すなわち代表の登場は、君主の権力は絶対的ではなく、等族の有する権力との二元構造のなかで制限されていることの象徴的意義を有していた。
絶対君主制に代わる制限君主制が説かれるに当って、歴史上のモデルとされたのが等族的な代表であった。

[157] (三)近代国家は王と等族との二元構造を克服することによって成立した


国家は、等族国家にみられた君主と等族との二元構造を克服することによって成立した。
ヨーロッパ大陸では、その克服は、政治的統一を一身で代表する君主の登場、すなわち、絶対君主制の確立によって達成された([2]参照)。
これに対して、市民革命期のイギリスにおいては、等族君主制から立憲君主制への円滑な移行によって、二元構造が克服されたのである。
立憲君主制は、パーラメントという統一的統治機構を有するイギリスにおいて、まず実現された。
その後、統一的国家の中に、最高・直接機関としての君主と、もう一つの直接機関としての議会(または議院)が存在するに至った段階で、近代国家は新たな二元構造上の政治的軋轢に遭遇することになる(この新たな二元構造を克服する試みが、議院内閣制であることは後の第11章の [208] でふれる)。
なお、「直接機関」とは、国家の組織法たる憲法に基づき国家機関となるものをいい、委任に基づいて機関たる地位を与えられる「間接機関」と対比される

イギリスでの議会は、法を語る大法院でもあり、間歇的に活動する諮問機関でもあったパーラメントから発展して成立する。
パーラメントは、等族会議とは違って公法上の団体ではなく、地域的閉鎖性を打破する国民代表機関(政治的統一を担う機関)としての性格を次第に獲得していった。
そして、パーラメントは、代表機関の同意こそ法の拘束力の基礎たるべしと主張しつつ、「すべての人に関係あることはすべての人により同意されるべきである」との標語のもとで、まず、「法を作ること」(law-making)に参与する。
それが、国民の同意の通路、国民の代表者としての議会(パーラメント)となる。
議会は、もともと法の確認と修正を行う機関であったが、「法を作ること」がすなわち「立法」であると法実証主義的公法学者によって同視されるに至って、「立法機関としての議会」が誕生するのである。

もともと議会の成立要因は、立法機関としての地位を獲得することだけにあったのではない。
議会は、課税という立法でもなく行政でもない君主の作用について同意することから発生・生育したことに表れているように(後述する [289] 参照)、執政府を監視監督しながらそれを抑制することを目指していた。
その本来の目的に従って議会は、立法権限から、さらに勢力を拡張して、執政府の責任追及権まで獲得していく。
この段階であっても、君主は立法の裁可権を保持するのであるが、ほぼ全面的に制限された君主となる。

[158] (四)ウィッグの代表観が選挙制代表となっていく


右のような移行は、代表制のあり方と密接に関連している。
等族会議から議会への移行は、トーリ的代表観に代わってウィッグ的代表観が定着してきたことを反映している。

トーリ的代表観とは、代表は地域的利害を君主に対して表明し交渉する存在であるべし、とする思考をいう。
等族会議への代表は、同質的な地域的利害を代弁する存在であった。
これに対して、ウィッグ的代表観とは、直接機関の構成員としての代表は、「一つの利益をもった一つの国民」の意思を表示すべきであって、選出母体から自由に見解を表明できる存在足るべし、とする思考をいう。
ウィッグ的代表観は、次のようなE. バーク演説(1774年)に典型的に表れている。
すなわち、「議会は全体の利益をもった一つの・・・・・・国民の審議のための集会である。・・・・・・代表者は、その偏見なき意見、その成熟した判断力・・・・・・を、いかなる人間、団体に対しても、犠牲に供してはならない。」

これは、議会が政治権力の中心となるために、代表の意思は、選挙区からの個別的な訓令がなくとも全国民の意思を表わすが故に正当であることを強調したものである。
この代表観によって初めて、議会は全国民の代表としての地位と、それに相応しい政治権力とを獲得したのである。
このウィッグ的な代表制は「選挙制代表」と呼ばれ、その代表は、委任的代表、象徴的代表、縮図的代表のいずれであってもならない、とされる。

もっとも、17世紀以降のイギリスにおける代表観は一様ではない。
先にふれたように、トーリ流に、地方の利害を代表し、不満の救済を王に求めるという伝統的代表観ばかりでなく、急進派レヴェラーズのように、委任的代表観に立って頻度の高い選挙を要求する流れもみられた。
こうした様々な代表観は、個人を単位として成立している近代社会にあって、部分(地域)的利害を全体(全国)的利害へと社会統合するための架橋として、複数の解答があることを示唆している。

[159] (五)フランスでは純粋代表、委任的代表、そして半代表として理論化された


こうした様々な代表観は、18世紀フランスに渡った。
そこでは、二つの代表概念が意図的に使い分けられた。

まず、1791年憲法はウィッグ的代表観に影響され、「各県から選出された代表者は個々の県の代表ではなく全国民の代表である」(第三編第一章第五節七条)と謳うことによって委任的代表制を否定した(命令的委任の禁止または自由委任)。
代表が選挙民から自由であるために、「代表として、職務執行に際しては、言動を理由として捜索され、起訴され、裁判されることはない」とする免責特権をも同憲法典は認めた(第三編第一章第五節七条)。
この代表は「純(粋)代表」と呼ばれる。
この代表制が、ナシオン主権理論のもとで主張された点については、既にふれた([114]参照)。

これに対して、ルソー理論の影響のもとでプープル主権理論にでた1793年憲法(ジャコバン憲法)は直接民主制の原則を標榜し、純(粋)代表観を否定して、命令的委任の制度を採用した(ルソーによれば「主権は代表され得ないし、同様に譲り渡し得ない」のであるから、議員は代表ではなく、受任者となる)。

19世紀中葉以降のフランスにおいて、また新たな代表観の登場をみる。
男子普通選挙制の実現(1848年)後に制定された第三共和国憲法(1875年)は、純粋代表に代わる別の代表を模索して、選挙民の意向を無視できなくするための工夫を凝らした。
具体的には、(ア)大統領による民選議院の解散制度を導入し、(イ)選挙民を直截に代表する議会の最高機関性を謳った、のである。
これによって選挙民は、代表の行為と表決を実効的に統制でき、ここに選挙人と代表との事実上の同一性が確保される、とする新たな代表観が誕生した。
この代表が「半代表」または社会学的代表と呼ばれることについては、既にふれた([113]参照)。

[160] (六)アメリカ合衆国憲法では二元的代表構造が採用された


アメリカ合衆国憲法典における代表観は、総じてウィッグよりも急進的である。
同憲法典は、主権が人民にあることを宣言し、代表制を直接民主制の次善の策またはその手段として捉えた。
そのために、連邦議会の下院議員に大きな独立性を与えることを避け、議員を二年ごとの頻繁な選挙に服せしめるのである。
さらに同憲法典は、一身で全国民を代表する大統領を置いた。
もっとも、その選出に当っては、人民の激情による選出を阻止するために、間接選挙という制度が採用された。
大陸諸国の相当数が、君主と議会という二つの代表機関を置けば、かっての二元構造の復活となることを危惧して、議院内閣制という新たな理論によってこれを克服しようとするのに対して(議院内閣制については第11章 [207] 以下でふれる)、アメリカは独自の代表観と権力分立構想のもとで、独自の道を歩むのである(アメリカ独特の権力分立については。[196] でふれる)。

■第ニ節 代表または代表制の意義


[161] (一)政治的代表は法的代表とは異なる


法的な意味での代表とは、Aの行為の法的効果がBに帰属する場合のAをいうが、憲法学でいわれる代表とは政治的意味でのそれ、つまり、ある政治体制のなかで統治の一体性を、公然と表象する地位または役割を有する人をいう。
それを「政治的代表」という。
政治的代表の概念は、私法上の代表概念とは全く異なる。

歴史を振り返れば、我々は、三つの代表概念が存在してきたことに気づく。
その第一は、 民会を中心として行われる直接民主政におけるポリス的代表観である。
そこでは、有責・有徳の人物(君主、貴族または多数の公民)から構成される政治的共同体において、各人が共通利益を代表しながら、積極的・自発的に政治参加することが理想とされた。
その第二は、 理性の力によって自由な判断(私利私欲を払拭した判断)を為す公民が自らの意思を現前させれば、一般意思が形成され、たとえ代表が存在するとしても、それが最終的決定権を持つことはない、とする18世紀のルソー的な代表観である。
その第三は、 一定の条件を満たせば選挙人としての資格をもって、その選挙人が代表を選出するという装置のなかで、代表は、公衆(public)の政治的選好を公然と(publicly)再現前(represent)すべきものである、という今日的な代表観である。

この最後の代表観は、選挙によって選出される議員から成る議会が、選挙民に代わって政治上の争点を解決する、とする制度を前提とする。
その制度は、強制的委任を排除しながらも、定期的な選挙に代表を服さしめる(一定の任期期間中だけ存在する)制度でもある。

[162] (ニ)国民主権のもとでの政治的代表は国民代表と呼ばれるに至る


政治的代表は、国民主権の実現と共に、一般意思または主権者意思を表明する機関または機関構成員を意味するようになる。
そして、そこでの代表制とは、多数の意思を反映するように機関が組織されていることをいう(宮沢『憲法』219~220頁)。
これを国民代表(制)という。
国民代表には、二つのタイプがあり、一つが直接民主制、他の一つが間接民主制である。

直接民主制とは、機関概念を用いて説明するとすれば、全体としての国民が一つの機関となると同時に、全員が機関構成員となる統治技術をいう。
この直接民主制は、国民の各自が代表者兼決定者となり、統治の自同性を最大化するための国民代表制である。
これに対して間接(代表)民主制とは、同じく機関概念を用いるとすれば、一次機関としての国民が二次機関としての議会(その構成員たる議員)を選出し、二次機関が政治的統一性を表象する統治技術をいう。

近代国家は、右の二つのうち、間接民主制を採用して議会を置き、その構成員たる議員の選出方法として、選挙によるとするのが通例である。
間接民主制が各国で採用された理由は、
第一に、 広大な領土と多大な人口を抱える近代国家においては直接民主制の実行は不可能または困難であること、
第二に、 加熱しがちの人民のパッションや、地域的利害のストレートな強要を抑制する必要のあること(近代立憲主義は、人民の積極的政治参加に警戒的であった点は、既に [78] [81] でふれた)、
第三に、 統治の自同性を確保実現することは、憲法の目指すところではなく、統治にとってリーダー(代表)は不可欠であること、
等に求められる。
右のうち、(ニ)(※注釈:第二の理由)が最も重要である。
直接民主制は多数者の選好をストレートに反映するのに対し、間接代表制は少数者をも代表し得るのである。

[163] (三)代表概念によって直接機関・立法機関としての議会が成立した


近代立憲主義にとって、代表という観念は極めて重要な発明であった。
というのは、この代表技術によって初めて、絶対君主のもとにあった単一の権力から分離独立した権力保持者としての議会が成立し得たからである。
換言すれば、代表技術の考案によって成立をみた議会こそ、絶対君主の専制からの訣別の第一歩であった。
議会は、君主の権力を剥奪または抑制するための組織として成立をみたのである。

議会の成立時においては、議会に対する信頼は絶大であった。
普通選挙のもとでの自由な投票は、議会が国民に対して最大の効用を実現するであろう、と期待された。
J. S. ミルでさえ、代議政治こそ最善の統治形態である、と述べたのは、そのためであった。

実際、19世紀は「議会制の時代」となった。
それを先導したのは、一つには、イギリス憲法史の所産である、代表制、両院制、大臣責任制、議院内閣制といった制度であり、一つには18世紀の哲学の所産である、国民主権、憲法制定権力、権力分立等の理論であった。

君主と議会との力関係は国によって異なるものの、立憲君主制以降は、両者が直接機関としての地位を占めるに至り、議会がまず立法権の本質部分を担うようになる([156]でふれたように等族会議の時代には、その会議体は直接機関ではなかった。また、立憲君主制の意義については、[197]参照)。
その時代には、イェリネックの如く、一次機関(国民)と二次機関(国民代表)とが「法的な統一体となる」と解することも、「議員の意思は国民全体の意思である」と解することも、本来擬制であるとはいえ、説得的であり得た。
なぜなら、国民が統一体として、統一的選挙によって代表を選べば、国民の統一的意思は議会に反映され、従って、我々は民主制を獲得したのだ、といい得るからであった(同時に、多くの人々は、民主制のなかに自由がある、と確信して、19世紀の「議会の時代」を賞賛した)。

ところがその後、君主権限が完全に名目化されたり、君主の存在自体が否定されたりして、議会は抵抗すべきターゲットを失った。
この時点以降、選挙制代表または純粋代表制のもとでの議会は、国民から法上独立した機関であって、議会と国民との間の法的同一性こそ擬制中の擬制であることが判明してくる。
例えば、「昔の政治の大迷信は国王の神権であった。今日の政治の大迷信は議会の神権である」(H. スペンサー)とか、「疑いもなく代議制は民主主義の歪曲である。純粋な民主制は、人民主権を議会という媒介者を通じてのみ発動せしめることを否定する直接民主制のはずである」(ケルゼン)とかの指摘は、「議会の時代」への反省を人々に迫った。

「個」と「全体」との対立は、いかなる代表技術をもってしても解決されることはない。
そこで、真の民主制としての「治者と被治者との自同性」を満たす直接民主制への回帰を訴える人々が出てくるのも当然である。
しかしながら、直接民主主義的統治理念も、ほかならぬ擬制であり、空虚な主張形式に過ぎない。
各人全員が代表者であり、かつ、決定者となる事態は在りようもなく、在ったとしても「感情という誘惑を伴う群衆の仕事であって何者もその衡平を保障しない」であろう(デュギー『公法変遷論』第一章)。

国家は、二つの相対立する形成原理に拠って立つ。
一つは、「同一性の原理」であり、他の一つが、「代表の原理」である。
同一性の原理に依拠する国制が直接民主制であるが、統治に一定の組織・機構と指導者が不可欠である以上、その国制といえども、自己統治を実現することはなく、ただ、民意と指導者の意思とのギャップを極小化することに期待されるだけである。
これに対して、代表の原理に徹する国制は、指導者たちによる統治を極大化するであろう。
それにも拘わらず、代表制や普通選挙制と、国民主権とを関連させながら、議会が主権者たる国民の意思を代表すると説くことは、有害無益である(主権者としての国民、すなわち、選挙人団としての国民が議会を創設することをもって、主権の行使であると説くことは出来ない。この点については、既に [56] [130] でふれたが、後の [173] でもふれる)。

この点と関連して、「議会制民主主義」という用語に過剰な内容を吹き込むことにも我々は慎重でなければならない。
その用語は、国民と代表との間の関係を表示するものではなく、議会内での討議、表決等の手続にみられる特徴をだけ指すものに限定されるべきである。

[164] (四)代表制は統治方法として最善ではない


民主制とは、被治者が治者(代表)に対して有効な統制を及ぼすための装置である([56]参照)。
その装置のうち間接民主制または純(粋)代表制は、統治技術としてベストではなく、様々な工夫によって補完されなければならない
まず
第一に、 民意の多元的な分布を可能な限り正確に反映する代表制とするために、選出(選挙)の在り方が検討されなければならない。
その工夫の一つが比例代表制である。
これは、複数政党の掲げる公約または綱領が選挙の争点となり、基本的には、選挙民が投じた票数に応じて議席が配分される選挙制である(比例代表制のタイプについては、[183]でふれる)。
政党は、代表制を補完する政治的装置として、自然発生的に生まれたのである。
第二に、 地域的利害は、住民の生活に最も密着した地方政府に直接表明されることが望ましく、そのためのチャネルの整備保障も望まれるところである。
地方自治制度は、地域的部分意思を住民自ら形成するための制度であるばかりでなく、全国的な多数者意思形成を準備させるための基盤でもある。
第三に、 一定種の公務員に関しては、任命による公務員であっても、国民による選定罷免権の対象とすることも一つの対応である(日本国憲法にみられる最高裁判所裁判官の国民審査はその一例である)。
第四に、 政治過程から隔絶されている少数集団(マイノリティ・グループ)は、その政治的意思を政治過程へ正確に反映できないこと(under-representation)に鑑みて、非政治的機関(典型的には司法府)による救済手段を彼らに柔軟に講ずることも必要であろう。
最後に、 代表制を半代表制に近づけることも一案ではあるが、社会学上の概念である半代表を、法上の概念として制度化することは困難であって、結局民意と代表者意思との可能な限りの一致は、現実の政治的展開によって解決されるほかない(半代表をいかに評価すべきかについては、すぐ後の [166] で述べる)。

■第三節 日本国憲法上の代表制


[165] (一)我が国の代表制は直接民主制を基礎としていない


日本国憲法が採用している国民代表制につき、徹底した直接民主制であると解する余地はなく、次のいずれかの選択肢が残される。
まず、
選挙人の意思から法上独立するなかで、独自に統一的意思形成をする代表制、すなわち「純代表制」である、とするA説、
選挙人の意思を反映しながら、代表と選出母体との利害の類似性を確保する代表制、すなわち「半代表制」である、とするB説、
日本国憲法が人民主権に立っているとの前提で、その採用する代表制は、命令的委任に服する代表制、すなわち「委任的代表」か、直接民主制の次善手段としての代表制である、とするC説。

我が憲法上の代表制は、「権力は国民の代表者がこれを行使する」と謳う前文、国会議員が「全国民の代表である」と定めて選出母体からの統制を受けないことを示唆する43条、それを具体化するために代表に免責特権を与えている51条等から考えて、A説(純代表制)またはB説(半代表制)の説くところであろう。
なお、本書は、「実在する民意または選挙民の意思」という表現を使用しない。
民意や選挙民の政治的選好は、モザイクのように、ただ浮遊するのみであって、統一的な実在物ではない。

[166] (ニ)我が国の代表制は半代表でもない


このうち、半代表とは、何度か繰り返したように、選挙人の意思と代表の意思との「事実上の同質性」を満たすものをいい、ときに社会学的代表ともいわれる。
なるほど、普通選挙制の実現、民選議院解散に伴う選挙の実施、党員政党の発達等によって、事実としては、代表への自由委任は貫徹し得なくなってきている。
とはいえ、法上の代表の性質如何を問う場合に、事実上の性質をもって論ずることでは、代表に対する法的拘束力を説き得ない。
また、純代表であっても、選挙民の意思に十分配慮すべきものとされていることからしても、A説が妥当である(今日いう純代表を擁護する有名な演説をしたE. バークでさえ、選挙民との密接な接触の必要性、彼らの利益の優先性を説いた点を忘却すべきではない。また、普通選挙制が国民主権の実現であるとか、民主制の実現であると、ナイーヴに同視してはならない。プルードンの指摘するように「普通選挙制とは、人民をしてその本質的統一の姿において語らしむるを得ない立法者が、市民をして一人一人自己の意見を発表せしむるもの」に過ぎない。この点については、[173]でふれる。
半代表制論には、地域的利益は同質であってその意思は代表され得るであろう、との想定がある。
ところが、地域的利益も実は多元的であって、代表され得ると思われる利益も、実は、個別的でしかないのである。
半代表論は、得票最大化動機や団体利益促進願望に支配される代表を産み、国会を地域の特殊・個別的利益の巣とするであろう(大統領公選制や首相公選制は、特殊利益代表と化した議会に対して、全体利益代表としての執政府の長を置いて、半代表機能を修正する試みである)。
さらには、参議院議員の任期が6年、衆議院議員のそれが4年と長期であることからして(45条、46条)、選挙民と代表との事実上の同質性は強調し得ない。

[no.抜け] (三)代表制は、多数の利益をも代表しない


法律を行うはずの「行政」担当者、なかでも、官僚が、法律案の策定のみならず、執政領域の政策立案、政策の見直し等々、統治の全過程に力を持ってきた。
それは、「自由市場のもたらしてきた不公正の是正」を理由として、国家が、ときには企業として、ときには保護者として、我々の「市民社会」にきめ細かく介入して、生産とその成果の分配を決定し始めた。
これは、「福祉国家・積極国家」の必然の帰結であった。
実際、無数ともいえる国家目的決定の選択肢と実現手段が、投票者には理解できないほど複雑になったために、その主導権は、議会でもなく、国民でもなく(ましてや国民の多数派でもなく)、官僚へと移ってきたのである。

かくして官僚は、リソースの配分と分配を決定する「権力」を保有することとなった。
この現代立憲国家においては、ヘーゲル『法権利の哲学』第311節が既に指摘していたように、個人は代表されることはなく、ただ、規模の大きい組織化可能な利害のみが代表されるに至った。
民主主義は、多数派を代表することさえしないのである。

なかでも、代表民主制は、「代表する者」と「代表される者」とを切断するばかりでなく、その二つの者の間隙に、「代表されない者」を出現させる。
代表制は、まさにその中に、「代表されない者」を生み出すという逆説をもつのである。

■第四節 選挙と選挙権


[167] (一)通説は選挙を選挙人団による選任行為であるとする


任命権者による選任を「任命」というのに対して、選挙人(有権者)によって代表を選任する行為を「選挙」という。
我が国の通説は、選挙に当って選挙人が選挙人団という一つの機関を構成すると捉える。
この観点からは、選挙における個々の選挙人の意思表示は、選挙とは異なるものと観念されて、「投票」と呼ばれる。

こうした思考は、国家法人説に立って、国家という法人の構成員たる選挙人が、選挙人団という法人の一機関を構成する、と捉えることによる。
この考え方でいけば、「選挙行為」とは、最高国家機関でもあり一次機関でもある選挙人団が二次機関を創設する行為(公的な行為、従って公務としての特質をもつ行為)であり、「選挙権」とは、個々の選挙人が選挙人団の構成員たる資格を求める権利(選挙人資格請求権)である、とされる。
この資格は、国家構成員であるが故に認められるのであるから、これを国籍保有者に限定するのが当然である(選挙人資格を認められた者の氏名等を登録した名簿を選挙人名簿という。同名簿の作成方法には、本人の登録に基づく自発的登録制と、公的機関が職権で登録する自動登録制とがある。我が国は後者に拠っており、公職選挙法第4章に詳細な定めがある)。

[168] (ニ)選挙に関する理論はイェリネックを元祖とする


「選挙人団」という観念を持ち出すと、その行為は個々の選挙人の権利とは別次元のものと考えざるを得なくなる。
ここから、「選挙人団の行為=公務としての選挙」と、「個々人の選挙権=資格請求権としての選挙権」との区別が帰結される。
これが、イェリネックにみられた、公務としての選挙行為と能動的権利としての選挙権という二元説である。

[169] (三)我が国の二元説はイェリネック理論とは異なる


もっとも、我が国で二元説といわれる場合には、イェリネックの見解とは異なった意味で用いられる。
それは、選挙権は、選挙人団という機関の公務であると共に、「参政の権利」として主観的権利でもある、という趣旨で通常用いられる(芦部信喜『憲法と議会政』281頁、佐藤・109頁)。
つまりこの二元説は、選挙行為を、機関としての国民から統一的にみれば選挙人団の機関行為であるとみる一方で、個々人のレヴェルに分解してみれば参政権の行使である、と説くのである。

この我が国の通説は、「機関としての選挙行為=公務としての選挙行為」という等式にさらに、「選挙人資格請求権+自己の意思表示としての選挙行為(参政権)=主観的利益としての選挙権」とする等式を加えることによって、選挙権の二元的正確を解明してみせるのである。
しかしながら、各人の選挙権と選挙人団の選挙行為という異なる次元のものを「二元的」と称すること自体、誤導的である。

もともと「参政権」という概念自体、イェリネックにはみられなかった極めて曖昧な概念である。
選挙権が主観的利益であることが解明されて初めて「それは参政権である」といい得るのであって、芒洋とした「参政権としての選挙権」という前提から選挙権の権利性を根拠づけることは結論先取りの循環論に過ぎない。
機関概念を前提とする限り、定義上、個々人の選挙権はあくまで「有権者の一員となる資格の請求権」であり、選挙行為は「機関としての国民の行為(公務の遂行)」である、と説くのが正しい。

[170] (四)近時、我が国では選挙権権利説も有力である


通説的位置を占める二元説に対抗するかたちで、最近では、選挙権を権利であるとする立場権利説)が提唱されてきている。
権利説の中にも、自然権説、憲法上の基本権説、等様々な立場があるが、中でもプープル主権論を基礎とする権利説が注目されている。

プープル主権論によれば、主権が現実的具体的存在としてのプープルに帰属する以上、プープルが最大限直接に国家権力を行使すべきものとされ、選挙とは、主権主体たるプープルが、主権の客体たる国家機関を創設したり改廃したりする「権利」である、と位置づけられる。
この場合の「権利」には、選挙人となる資格および選挙行為の双方が含まれるばかりでなく、同権利は「主権を直接に行使する権利」(奪うことの出来ない政治的権利)である、と特徴づけられる。

このプープル主権論を基礎とする権利説は、次のような多くの難点を残す。
第一に、選挙を主権の行使と捉えることは、正しくない。
選挙を主権的権利であると捉え得るか否かは、主権や民主主義をいかに捉えるかと関連している。
プープル主権論は、民主主義を「治者と被治者の自同性の実現」と捉えるために、主権の行使(治者の行為)と選挙権の行使(被治者の行為)との同質性を見て取るのである。
しかしながら、統治に同質性など在り得ない
多元的社会における民主主義は、国民の最大可能な部分が、治者を定期的に交替させる装置をもつ政治体制、または、決定者(代表)を決定する政治体制である([56]参照)。
今日においては、シュンペーターも指摘するごとく「人民の意思は政治過程の推進力ではなくて、むしろその産物である」といわざるを得ず、選挙民の意思を統一的に捉えて、それが政治的意思の最高の決定であり推進力である(主権の行使である)、とすることは擬制にすぎる。
「民主主義理論は、最小限度、一般市民が指導者に対して比較的高度のコントロールを発揮できる諸過程に関連をもっていると考えられている。このことこそ、・・・・・・[民主主義理論という言葉の]最低限度の定義なのである」(R. ダール『民主主義理論の基礎』11頁)。

選挙とは、右にいう「統治者に対する有効なコントロール」を行うためにシトワイアン(各市民)が参加するメカニズムであって、プープル(シトワイアンの総体)の行為ではない、と考えるべきである。
選挙は、自ら統治することを含意していない(間歇的な選挙は、不断の統治とは異なる)。
また、プープル主権論に基づく選挙権権利説に対する疑問の第二として、次の点が挙げられよう。
すなわち、いかに民主主義が徹底されようとも、選挙権の享有主体の具体化は法令に待たねばならず、シトワイアンであれば選挙権を「奪われることのない権利」として保障されるわけではない。
選挙権は、国民のうち、行為能力のある成人にのみ、平等原則に基づいて法認されるのが通例であり、何歳をもって成人とするか、居住要件や不適格要件をどうするか等は、立法府の裁量的判断によって決せられざるを得ない。

なお、選挙権を自然権の一種であると説いて、その権利性を主張する立場もみられるが、各種の技術的制約(例えば、年齢、定住性、登録等)に服さざるを得ない選挙権を自然権と理論構成することは、不可能である。

[171] (五)国政レヴェルでは外国人に選挙権を与えることは許されない


選挙権は、国籍保有者たる国家構成員にのみ付与される。
憲法15条1項が「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と定めているのは、国家は、対人高権によって画される政治的共同体であって、その政治的意思決定は、対人高権の指標でる国籍の保有者によって下されるべきことを明らかにしているものと解される。
また、国民主権または民主制の観念が、選挙人資格を最大限広げることを要請しているとしても、それは、国政が国籍保有者によって為されるものとする結論に変化はもたらさない。
イェリネックの指摘するように、「民主制的共和制の理念がどんなに進んでも、国家の全ての住民が政治的権利を持つべきだということにはならない。せいぜい、国家の全ての構成員が政治的権利を持つべきだというところで止まる」(イェリネック『一般国家学』582頁)。

最高裁判決は(最ニ小判平5.2.26、判時1452号37頁)、永住外国人が平成元年の参議院議員選挙での投票を行い得なかったことを理由として国家賠償を請求した事案において、マクリーン事件判決(最大判昭53.10.4、民集32巻7号1233頁)を援用しながら、「国会議員の選挙権を有する者を日本国民に限っている公職選挙法9条1項の規定が憲法15条、14条の規定に違反するものではない」と判断した。
同判決は、国家権力行使の源泉は「国民」とすることが国民主権原理の意であるとしながら、学界の通説である「権利性質説」に立って、外国人をその権利保障の範囲外としたのである。

国家権力行使の源泉が「国民」にあるとする伝統的な思考に従えば、被選挙権が外国人に保障されない、と解釈されざるを得ない。
ある下級審判決は(大阪地判平6.12.9、判時1539号107頁)、国会議員の被選挙権について、日本国籍を有さない者が参議院議員選挙への立候補を受理されなかったことを理由として国家賠償を請求した事案において、「右権利は、国民主権原理に基づくものであるから、同条[憲法15条]の『国民』とは日本国籍を有する者のことであることは明らかである」と述べた。

[172] (六)地方自治レヴェルにおける外国人の選挙権付与は微妙である


選挙は、国政だけにみられるわけではない。
地方政治のレヴェルにおいても各種の選挙が実施される。
そこでの選挙権は、その地方の住民であることに基づく資格であると考えれば、その要件として一定期間の定住性が課せられることに異論はない(定住性を満たさない外国人については、論外である)。
地方公共団体における選挙について、「定住性」以外を要件とすることにつき、日本国憲法の採用するスタンスについては、以下の三説があり得る。

まず、A説は、 憲法93条2項が「住民」による直接選挙を保障していることを根拠に、日本国憲法は、定住外国人への選挙権付与を要請している、とする(積極説)。
この説に立てば、国籍を要件としている現行の地方自治法11条は違憲とされる。
このA説には、地方自治の目的は、国家の意思から独立して、住民の身近に感じている地域的な行政需要に応ずることにある、との前提がある。
この前提に立てば、定住性や、共同体意識においても日本人と変わりない外国人に選挙権を付与して、その意思を地方行政へ反映するためのチャネルを解法するのは当然の対応ということになろう。
次にB説は、 憲法93条2項にいう「住民」には、外国人を含み得る余地ありと解して、憲法が外国人の選挙権を許容している、とする(許容説)。
この説をとれば、現行の地方自治法は違憲とまではされないものの、同法を改正して、定住外国人に選挙権を与えたとしても違憲ではないことになる。
これに対してC説は、 地方自治をもって住民の行政需要に応ずるためのものでなく、あくまで地方の「政治(統治)」を決定する統治制度であると捉えながら、地方自治であっても、それはあくまで国家における統治であって、その政治的統一性は国民のなかの一定の意思によって為されなければならない、とする。
となれば、93条2項にいう「住民」とは国民の中での部分意思を意味し、従って、憲法は、外国人の選挙権を否認していると帰結される(禁止説)。
この説に立てば、現行の地方自治法上の規定は合憲であり、外国人に選挙権を承認する法改正は禁止されることになる。

憲法93条2項の文理からすれば、A、B説の成立する余地がないではないが、地方自治の統治的性格からして、「住民」とは「国民の中の住民」を意味すると解するのが妥当である。
1990年、ドイツの憲法裁判所が、外国人に選挙権を与える州および特別市の法律について違憲判決を下したのも、統治なるものは、同質なる国民(Volk)の意思によて為されるべし、との古典的な思想を基本的には反映している(もっとも、右のドイツ憲法裁判所の違憲判決は、ドイツ基本法20条にいう「全ての国家権力は、国民(Volk)に由来する。国家権力は、選挙および投票において国民により、かつ、立法・執行権および裁判の個別の機関によって行使される。」との定めを文理解釈しながら導き出されたものであって、その意味では、やや技術的な姿勢にとどまるものの、基本的な国家観とも関連を有していると考えられる。なお、ドイツにおいては、1992年12月に基本法28条が一部改正され、「郡および市町村における選挙に際しては、欧州共同体を構成する国家の国籍を有している者も、欧州共同体の法の基準に従って、選挙権および被選挙権を有する」こととされた)。
本書は、C説を妥当と考える。

なお、国際人権規約(B規約)25条は、すべての「市民」が「普通かつ平等の選挙権」を有すると定めるが、「市民」とは、国籍保有者を意味するものと理解すべきである。

外国人の地方公共団体における選挙権について、最高裁は(最三小判平7.2.28、判時1523号49頁)、
公務員を選定罷免する権利を保障した憲法15条1項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、その権利の保障は、在留外国人には及ばないこと、
憲法93条2項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内の住所を有する日本国民を意味すること、
を明らかにした。
もっとも、同判決は、「我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、・・・・・・法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない」と指摘したこと(許容説にでたこと)に我々は留意しておかなければならない。

地方レヴェルでの被選挙権に関する最高裁の判断は、今のところ、示されていないとはいえ、右の最高裁判決が「日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に [永住外国人等の意思を] 反映させるべく」と表現していることからすれば、地方統治の意思を決定するポストに関わる被選挙権に対しては、消極的とならざるを得ないものと思われる。

[173] (七)本書は選挙権を「代表を選ぶ権利」と考える


【表12】選挙権に関する本書の見方
国家法人説に立たず、従って、有権者団という国家機関を考えない。
求心性に欠ける有権者が統一的意思をもつことはなく、従って、有権者が機関となることはない。
秘密投票まで承認する選挙方法は、公的責任ある統一的な政治的判断を産むことはない。
間歇的に行われる選挙は、主権の行使ではない。
        ↓
選挙とは、統治される民主主義のもとで個々の選挙人が、代表を選出する行為であり、選挙権は主観的公権である。

本書は、選挙とは選挙人団という機関行為(公務)ではなく、代表を選出するための個々人の行為であると解する(表12をみよ)。
選挙人団なる概念は、払拭されるべきドイツ国法学上の残滓である。
もし、選挙行為を公務であると考えれば、「個人の自由な処分に服するという意味での権利ではない」とする思考が正しく(シュミット『憲法論』295頁)、従って、ベルギー憲法48条にみられるように「投票義務」を帰結することとなる(「同国憲法48条1項は「選挙人団の構成は、法律により定められる。」と「選挙人団」という用語によりつつ、3項は「投票は義務であり、秘密である。」と定めている)。

確かに我が国の二元説は、この不当な帰結を回避するかの如くである。
ところが、その二元説が理論構築に成功しているわけではない。
特に今日の選挙が個別的地域を基礎にした選挙区制によって為される以上、選挙民は統一的国家意思の法上の単位ではない。
代表は、選挙民のバラバラの行為(通常は秘密投票)の後に、有効投票の多数が法上結合されて、法上の効果として、出来上がるのである。
利害を異にする有権者が機関を構成することはない(佐々木・318、224頁)。
また、選挙人の多数により示される意思をもって主権であるとする理論は、単純な擬制である(J. ベンサムは、19世紀初頭、「支配する少数者」を選定・解任する権利を多数者に認めることが「最大幸福」に繋がるとみた。これに対して、デュギーは、20世紀初頭にその著『公法変遷論』において既に「現代意識は、選挙団体の多数によりて示される主権の単純すぎる観念ではもはや満足しない」と指摘していた)。

選挙とは、代表(リーダー)からみれば選挙人の投票の獲得を目指して競争する過程であり、選挙人からみれば、それは、その競争過程の最終段階において、代表を選択する行為である、と考えたい。
つまり、選挙とは、機関としての行為でもなく、公務でもなく、主権の行使でもなく、代表を選出する主観的権利の行使である、と本書は考える。
各自の投票におくる意思表示が法上結合されて、そのうちの有効投票で最多数または一定数以上の投票を得た候補者が、法上の効果として、代表の資格を与えられるのである。
この権利は、国民が統治者に対する有効なコントロールを及ぼすための基本的で重要な権利である。
かく解すれば、「選挙権/選挙行為」、「選挙/投票」の区別は不要となる。

我が国の古い最高裁判例(最大判昭30.2.9、刑集9巻2号217頁)は「国民主権を宣言する憲法の下において、公職の選挙権が国民の最も重要な基本的権利の一つである」と述べた。
その後も、議員定数不均衡に関する一連の最高裁判決(最大判昭51.4.14、民集30巻3号23頁)も、選挙権をもって憲法上の最も重要な基本的権利であることを、繰り返し指摘している。
その最高裁の論理は、国民主権から選挙権の権利性を説く点で、プープル主権論にみられると同様の疑問を残すものの、通説にみられる二元説に立っていない点では、基本的方向として妥当である。

■第五節 選挙制度


[174] (一)「普通選挙制」と「制限選挙制」


年齢、居住要件以外を選挙権資格の認定に必要としないものを、「普通選挙制」という。
これに対して、独立した政治的判断は、教養と「財産」を有する有閑階層のみが出来ると考えられた場合には一定以上の納税額が、公事に参画するためには一定以上の教養・判断能力が必要であると考えられた場合には知能または教育レヴェルが、女性は家事に男性は公事にという女性への差別感が反映した場合には男性であることが、選挙権付与の要件とされる。
これらの要素のいずれかまたは全部を要件とする選挙制度を「制限選挙制」という。
我が憲法典は、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」(15条3項)としている。

数多くの国々で採られていた制限選挙制は、19世紀中葉から20世紀にかけて、次々と撤廃されていった。
普通選挙制の実施によって、政治の様相は一転する。
第一に、 大衆を指導・組織する政党政治が生まれた。
議院内閣制の成立も普通選挙制と無関係ではない。
第二に、 労働者階級を基盤とする社会主義政党が登場して、福祉国家への変容を促進した。
第三に、 純粋代表の思想はもはや実際上貫徹できず、半代表概念が説かれるに至る。

選挙が統治者に対する有効なコントロールのための最大の機会である以上、選挙人となる範囲を意味する「包括度」が可能な限り高くなければならない([57]参照)。
それは、普通選挙制度のもとでも、欠格事由が、やむを得ざるものであり、かつ、その範囲が最小限でなければならないことを意味する。

我が国の公職選挙法11条は、禁治産者、禁固以上の刑に処せられその執行を終わるまでの者等を欠格者として法定している。
旧憲法時代には欠格事由として、準禁治産者、破産者、貧困のため生活扶助を受ける者等が挙げられていたことと比べれば、その範囲は縮小されたといえよう。
選挙違反による処罰者に対し選挙権・被選挙権を停止している公選法252条につき、最高裁は「選挙の公正を害した者として、選挙に関与せしめるに不適当なものとみとめるべきであるから、これを一定期間、公職の選挙に関与することから排除するのは相当」である、と合憲判断を示した(前傾最大判昭30.2.9)。
しかし、選挙関係犯罪を「公民権停止」事由としていることには、公選法が本来合法的とも思われる戸別訪問等の選挙運動を犯罪として法定している点も合わせ考慮すれば、疑問が残らざるを得ない。

[175] (ニ)「平等選挙制」と「差等選挙制」


「何人も一人として数えられ、一人以上には数えられない」との形式的正義原理に基づいて投票数または投票価値を平等にする one person one vote, one vote one value に依拠する選挙制度を「平等選挙制」といい、これらに格差を設けるものを「差等選挙制」という。
差等選挙制度には、選挙人に一票もつ者と複数票もつ者との別を設ける「複数投票制」、選挙人を幾つかの等級に分けて、各等級ごとに一定の代表数を配分する「等級選挙制」とがある。

[176] (三)我が国の選挙制度は普通・平等・直接選挙制である


我が国では、大正14年に25歳以上のすべての男子に選挙権を認める普通選挙制が採用された。
昭和20年には、女子にも選挙権が与えられると共に、年齢資格が20歳以上に引き下げられ、完全な普通選挙制度となった。
日本国憲法15条3項は、明文で普通選挙制を保障している。
これに対して、同憲法典には平等選挙制に関する明文規定はないものの、14条の平等原則規定、国会議員選挙における選挙人資格の平等を定める44条但書からして、当然にこれを採用しているものと解される。
なかでも、44条但書は、投票数および投票価値に関して、選挙人の判断能力、財産、社会的身分等の差異を捨象した、徹底した形式的平等観を示したものである(この点については『憲法理論Ⅱ』 [230] でふれる)。
また、直接選挙制について我が憲法典は、地方公共団体の長および議会議員等の選挙について明文規定をもつにとどまるものの、これを当然視しているものと思われる。
公選法の定める選挙は、すべて直接選挙である。

■第六節 被選挙権と立候補の自由


[177] (一)民主主義はリーダー間の自由な競争を要請する


民主主義は、自由に闘わされる複数の選択肢のうち、最大多数の票によって支えられたものが勝利を得た選択であるとみなされ、それまでの選択肢に平和裡に取って代わることにその特質がある([56]参照)。
日本国憲法前文の第一文が「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、・・・・・・自由のもたらす恵沢を確保し、・・・・・・」と述べているには、この特質に基づく統治体制を予定してのことである。

民主主義は、選挙民となる人口が大であることのみならず、複数の政党または候補者が投票獲得を求めて自由に競争することをも、その必要条件としている。
この観点からすれば、被選挙人資格につき、特定政党の構成員であることや、特定団体の推薦を受けること等を法上の要件とすることは許されず(一党制を公認するとなると、党が国家となってしまう)、立候補は自由でなければならない。

[178] (ニ)被選挙権は資格か権利か


通説は、被選挙権とは、選挙人団によって選定されたとき、これを承諾し、公務員となりうる資格をいう、と解している(資格説)。
この説は、被選挙権とは公務就任権の帰属主体となりうる資格をいうのであって、権利そのものではなく、権利能力の如きものと捉えるようである。
これに対して、我が最高裁(最大判昭43.12.4、刑集22巻13号1425頁)は、「被選挙権は、15条1項の保障する重要な基本的人権の一つ」であるとして、選挙される資格につき、国家から妨害、干渉を受けない自由とみている(自由権説)。

なるほど、被選挙人資格の具体的あり方は、立法府の判断に委ねられざるを得ないものの、選挙人資格の決定に当って、性別、財産、教育等を関連性のなき不合理な要素とする思考は、被選挙資格の付与の際にも妥当する。
従って、これらの不合理な要素を理由に被選挙資格を制限されないことをもって、被選挙権という、と解してよい。
我が憲法典は、特に国会議員のそれについて、法律事項に委ねながら「但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」(44条)と規定しているのは、この趣旨にでたものと解される。
もっとも、包括度が最大である必要はない。
例えば、公務員(官僚と呼ばれる人々)であること、補助金受給者であること、といった事実を欠格事由とすることが真剣に検討されるべきである。
なぜなら、彼らは、それ以外の人々とは違って、政策の立案実行の段階で、既に数票を投じておきながら、選挙時点で、また、一票をもつことになるからである。

[179] (三)立候補は自由でなければならない


被選挙人資格を有する者が、自己の自由な意思に基づいて公選に係る公職に就任するために立候補することを、立候補の自由という。
政党を主導とする選挙制が採用される場合には、政党によって立候補の自由も規制されることがありうるが、それは、基本的には、党と立候補者の私人間の問題である(もっとも、政党の国法上の位置によっては、また、現実の政治に対する政党の統制力如何によっては、政党を国家機関またはそれに準じたものとして扱い、憲法典規定を直接適用することがあり得る)。

これに対して、政党の存在を憲法上公認している国家にみられるように、法上、政党を単位とする選挙制が採用されている場合には、
政党結成の自由が保障されていること、
立候補決定の党内手続が公開され、多数者意思を反映するよう整備されていること、
構成員が立候補するについては、その自由意思に委ねられること(構成員の自由)、
等の条件が必要である。

我が憲法典には、立候補の自由に関して明示的規定はない。
その根拠については、憲法13条の幸福追求権を挙げるもの、14条1項にいう政治的関係における平等原則を挙げるもの等、様々である。
公選法は、憲法典が同自由を保障していることを当然の前提として、公職の候補者になろうとする者に暴行または威力を加えること等を禁止している(225条)。

なお、政党だけを単位とする選挙制を採用することには、我が憲法典上、個人の立候補の自由との関係上、大きな疑義がる。
公選法(87条の2)が、参議院議員の比例代表選挙について、政党その他の政治団体が候補者名簿を選挙長に届け出ることにより、名簿記載者を候補者とすることが出来る、としているのは、そのためである。

■第七節 選挙区


[180] (一)分割された選挙人団の単位を選挙区という


全体の選挙人を数個の選挙人団に分割して、それぞれの選挙結果を独立に決定するための単位を選挙区という。
通常、選挙区は地域を標準として区分され、一名を選出するものを小選挙区制、二名以上を選出するものを大選挙区制という。

選挙区の設定は、古くは王の特権であった。
議会の勢力が強くなるにつれ、その特権は否定され、議会の制定法による原則が確立された。
これを「選挙区法律制度」という。

我が憲法典も、国会議員の選挙区につき、「法律でこれを定める」ことを明らかにしている(47条)。
それを受けて公選法は、衆議院については大選挙区制を採用している(3名ないし5名区が多く、我が国特有に「中選挙区制」と呼ばれている)。
参議院については比例代表選出と選挙区選出という方式に分かたれ、前者は全都道府県の区域という大選挙区制をとり(12条2項)、後者の選挙区は都道府県を単位とする大選挙区制をとっている。

[181] (ニ)選挙区制のもとで議員定数が配分される


選挙区制のもとでは、立候補から当選人の決定までの選挙手続は、一定地域を単位として行われる。
各選挙区から選出される議員数の配分方法としては、各区の人口に比例させるもの、一定地域(例えば各県につき一人)を基礎とするもの等、様々のものがある。

我が憲法典は、議席配分基準を明示することなく、法律事項としている(47条)。
公選法は配分基準を明示することなく、衆議院の小選挙区選出議員については別表第一で、同議員比例代表選出議員については別表第二で、参議院選挙区選出議員については別表第三で定めることとしている(13、14条)。
そのうち、別表第二の末尾には、「この表は、国勢調査(統計法・・・・・・第四条第二項の規定により十年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果によって、更生することを例とする。」と述べられており、人口を基礎にすることが示唆されている。
これに対して、参議院の選挙区選出議員に関しては、こうした指示は見当たらない。
それは一つには、都道府県を単位とする地域代表的性格をもっていることから来るものとみる余地もある(議院定数不均衡と日本国憲法14条との関係については、『憲法理論Ⅱ』でふれる)。

■第八節 選挙方法


[182] (一)「直接選挙制」、「間接選挙制」、「複選制」


選挙人が、議員や首長等公選に係る公務員を直接に指名することを「直接選挙」といい、選挙人が特定数の中間選挙人を選出し、その中間選挙人の選挙によって公職就任者が選出されるものを「間接選挙」という。
そして、実定法によってそれぞれの選挙方法を制度化したものを「直接選挙制」、「間接選挙制」と呼ぶ。
後者は、一般有権者の判断能力に対する不信感から採用されたが、その後の民主主義思想の浸透に伴って、今日では直接選挙制を採用する国家が多くなっている。

間接選挙制の典型例が、アメリカ合衆国の大統領選挙にみられる(もっとも、アメリカの大統領選挙においては electoral college と呼ばれる大統領選挙人が政党別に選出され、各人は予め支持すると公約した大統領候補者に投票しなければならないという習律が成立しているために、その実質は直接選挙となっている)。
これに対して、フランスの大統領選挙は、かつては議会が選出する方式によっていたが、1962年の憲法的法律制定以来、それに代えて直接選挙制によっている。
大統領権限の正当性を強化するためである。

また、「直接選挙制」と似て非なるものとして、被選議員によって構成される合議機関が別の議員を選出するという「複選制」というものもある。
この場合の議員は、複選のためだけの職務に限定されていない点で、中間選挙人の職務とは異なる。

[183] (ニ)「多数代表法」、「少数代表法」、「比例代表法」


代表の選出がその選挙区の多数派の意思によって決定される選挙方法を「多数代表法」という。
これは、代表機関は多数者意思を反映すべきものである、という思想に基づく。
大選挙区制のもとでの連記投票制や小選挙区制がこれに当たる。
ところが、これによれば多数派による代表機関の独占の可能性が生ずるため、少数派もまた代表を送り込める方策が模索される。
その方策を「少数代表法」といい、典型的には、大選挙区制のもとでの単記制がこれに当たる。
もっとも、この方法によれば必ず少数派が代表を送り出せるというわけではなく、立候補者の数や投票行動といった外的要因によって左右される。
そこで、これを修正し、多数派・少数派に各々その勢力に比例した代表数を確保しようとする「比例代表法」も考案されて、19世紀後半からヨーロッパ各国で実施されている。

比例代表法の基本的特徴は、
当選に必要な標準票数(当選基数)が一定されること(その方法も様々であって、採用頻度の高いものとしてドント式がある)、
当選基数を超える投票が他の候補者に移譲されること、
この二点にある。
比例代表法は、移譲の方式によって、単記移譲式比例代表法と、名簿式比例代方法とに大別だれる。

単記移譲式比例代表法
これは、大選挙区制のもとでの単記投票で、当選基数を超えた残余の得票が選挙人の指定する順序に従って移譲される方式をいう。
名簿式比例代方法
これは、政党の作成した候補者名簿に対して選挙人が投票し、投票の移譲は名簿上の候補内で為される方法をいう。この方法には大別して二つある。
一つは、政党の決定した候補者名簿の順位が絶対的に優先する厳正拘束名簿式と、他の一つは、同一名簿上での候補者順位について選挙人の選択の余地を認める単純高速名簿式である。

我が国の参議院議員の比例代表選挙で採用されている方式は、厳正拘束名簿式であり、当選者の決定はドント式によるものとされている(公選法95条の2)。

[184] (三)「秘密投票」、「公開投票」


投票内容が第三者には判明しないよう工夫された投票方法を、「秘密投票」という。
これに対して、挙手、起立、記名等の方法のように、第三者に投票内容が知れるものを、「公開投票」という。
政治は、責任ある公人によって為されるものであるという理念が強調されれば、公開投票制が好まれる。
しかし、その制度は、他者による拘束や圧力等の不利益を選挙人に与えることになる。
そこで今日では、各人の自由な意思に基づく投票を確保する秘密投票制が広く採用されている。

我が国の憲法典も、「すべての選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」(15条4項)と定める。
これを受けて公選法は、無記名投票(46条3項)、投票の秘密侵害罪(227条)につき定め、さらに、何人も投票した被選挙人の氏名または政党その他の政治団体の名称を陳述sる義務はない(52条)としている。


■ご意見、情報提供

※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
  • ものすごく分かりにくい -- よもぎ (2015-01-18 16:58:43)
  • ものすごく分かりやすい -- くさもち (2016-12-04 23:46:36)
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第十章 権限・機関の区別(「権力分立」)論

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第十章 権限・機関の区別(「権力分立」)論 p.160以下


<目次>

■第一節 「権力分立」の意義


[185] (一)「権力分立」は国家権力を分離・独立させるわけではない


国家権力を分割可能とする理論が、歴史上、二度登場する。
一度目は、立憲国家を根拠づけるため、二度目は、連邦国家を構成するため、である。
前者での分割は、「自由な政府は、信頼ではなく警戒心によって樹立される」(ジェファースン)とみて、権限の集中を排除する「権力分立」によって、国民の政治的自由を保護するための統治技術である。

その技術は、
国家機関を理論上区別し、
担当機関を区別し、
さらには人をも分離(兼業を禁止)し、
いったん区別した国家作用を複数の機関に分有させることによって、
相互の抑制を図り、
その結果として均衡を生み出そうとする狙いをもつ。

「権力の分立は、単に分離のためのものではない。もしそうだとすれば、ばらばらの国家の諸活動の脈絡のない並存が生ずるであろうから。むしろ、権力の区分は、権力の均衡、『平衡』を実現するためのものである」(シュミット『憲法理論』228頁)。

[186] (ニ)「権力分立」は国家権力の不可分性とは矛盾しない


「権力分立」理論を構成するに当って、克服すべき難題が残される。
方法論的集団主義([1]参照)のもとで、国家を統一体として法的に把握するその当然の帰結として、国家権力の統一性と不可分性の理論が生まれる。
この理論と、国家権力を分割可能とする理論が、すぐさま、対立したのである。

この対立を解決するために、まず、不可分の憲法制定権力が国民に存し、個々の権限は憲法典上のそれである、とする理論が考案されることになる。
すなわち、主権者たる国民が制憲権を発動して憲法を創設し、さらに憲法典を制定するに当たって、複数の代表的共同意思の担い手を憲法典上の単位として承認したのだ、と説く道筋である。

また、国家法人説は、次のような別の解決案を提示する。
すなわち、国家における主権を意味する国家権力は、本来、単一不可分であるのに対して、国家という法人のもつ権利を意味する統治権は、分割可能である、とするのである。
権利が分割可能であると同様に、統治権は、統治技術上、その発動目的または発動形式に応じた権限に区別でき、そして権限担当機関を区別しうる、というわけである。

そのほか、主権は一体的に国民または国家に帰属するものの、その行使態様は分割しうるとする説明法もみられるが、これは言葉上の単純な議論と評さざるを得ない。

[187] (三)「権力分立」論の目指すところは「権限の区別」の技術と表現されるべきである


右に述べた統治上の技術は、通常、「権力分立原理」と呼ばれる。
しかしながら、その用語は正確とは言い難い。
権力「分立」とは、「分立」(division)でも、「分離」(separation)でもない。
「分立」とは、正確には、立法権を第一院と第二院とに分割することにみられるような同一機関内での区別をいい、「分離」とは孤立化を意味する(シュミット『憲法理論』231頁)。

いわゆる「権力分立」とは、先に引用したシュミットの一文に示されているように、国家の統治権を分離してそれを孤立化するものではなく、むしろ、統治形式別に編成された組織(機関)が、相互にどう作用すべきか(ときには、どう統合されるべきか)にかかわる理論である。
複数機関が一つの権限を相互に分有しているからこそ分立論の目指す「機関間コントロール」が可能となるのである。
「権力分立」をもって、「三権分立」と同義と捉えて、対等な三権が並列的に独立して存在する機構とイメージすることは、避けられねばならない。
そればかりでなく、例えば、中央集権に対する地方自治、連邦に対する州、二院制議会における上院に対する下院といった「機関内コントロール」の構造も、「権力分立」論の射程内にあるからである。

「権力分立」が「三権分立」と単純に同視されるに至ったのは、アメリカ合衆国憲法制定以降である。
合衆国憲法策案者たちは、司法権に独自の地位を与えようとして、「三権の分立」を強調したのであった([194]参照)。

以上の諸点に配慮すれば、「権力分立」は、「権限」の「区別」と表現されるべきである。

[188] (四)「権力分立」論をドグマとしてはならない


「権力分立」をあまりに教説(ドグマ)化することは、柔軟な思考を妨げる。
国家には必ずしも「三権」が存在すべきものでもなく、その担当者も三つに分割されるべき必然性は、どこにもない。
レーヴェンシュタインの指摘するがごとく、「権力分立」は、政治的自由の保障をその目的(テロス(※注釈:telos 目的因、究極の目的))とするけれども、異なった諸機関によって権能が行使されるほうが分業技術上好都合であることにも、その存在理由をもっている。

論者によっては、「権力分立」を民主制と結びつけるものもあるが、それは正しくない。
なぜなら、第一に、徹底した民主制である直接民主制のもとでは、同理論の働くべき余地はないのであり、第二に、それは確かに、統治機構の民主化を目指した国民代表なる概念の登場と密接に関連しているとはいえ、同理論は、国民代表機関の法的最高機関性を否定する狙いを持っていたからである。
従って、ケルゼンのいうように、「権力分立の原則を民主的なものと唱えるのは、理論上の浅慮か政治的意図かの何れかによる」(ケルゼン『デモクラシー論』21頁)というのが正しい。
権力分立技術は、民主主義の産物ではなく、自由主義の産物である(但し、二院制が採用されている「権力分立」機構のうちの民選議院それ自体の地位と権能については、民主主義との関連を否定できない)。

[189] (五)「自由」は消極的で「負の力」にとどまるが故に統治構造上「権力分立」が組み込まれる


「権力分立」は政治的自由の保護をその目的とするとはいえ、「自由は何物をも作り出さない」(シュミット『憲法論』234頁)、換言すれば、自由は、個人にとっては「正の力」であっても、国家に対しては「負の力」にとどまり、統治のあり方について特に積極的・明示的には何も指示していない。
だからこそ近代立憲主義憲法典は、その経験上自由にとって相応しい分業的統治の形体として「権力分立」を明示的に組み込んできたのである([50]~[51]参照)。
もっとも、「権力分立」にも、実定憲法上さまざまなヴァリエーションがあり、それは、政治的自由の保障という基本理念が変わらぬところまで妥協する柔軟な統治技術である。
この点については、すぐ後の第三節([195]~[197])でふれる。


■第ニ節 「権力分立」論の体系化


[190] (一)「権力分立」の理論化は国家作用の類型化からは始まる


「権力分立」を理論化するに当たっては、二つの方向がある。
一つは、国家機関から国家作用を類型化する方向であり、他の一つは、国家作用を理論的に類型化することから始める方向である。
前者は、既存の国家機関の有する権限を、国家作用として羅列する傾向をみせる。
これに対して、国家作用の理論的類型化から始めて、担当機関の区別という「権力分立」を説いたのが、J. ロック(1632~1704年)の『市民政府論』(『統治論』とも訳出される)第二編、そして、C. モンテスキュー(1689~1759年)の『法の精神』の第11編第六章である(巻末の人名解説をみよ)。

[191] (二)ロックは立憲君主制を擁護するための理論を考えた


ロックは、政治社会には、①立法、②執行、③防衛、という三つの作用が存在すること、そして、この三つの作用は各人の「生命、自由および財産」(property)の保障装置として政治機構化されて、それぞれ①立法権、②執行権、③連合権、となること、を説いた(作用上の三権の理論的区別)。
第一の立法作用は、 一般性・抽象性、公知性・予測可能性という条件を満たす法定立行為であり、
第二の執行作用は、 一般的・抽象的法を特定事案へ適用する行為であり、立法を理論的前提として存在する機能である。
第三の連合権は、 国家であれば当然にもつ対外的自己防衛作用である。
さらに、イギリス法特有の概念である国王の大権作用(prerogatives)が、突然として、そこに付加される。
彼の理論によれば、結局、四つの作用が存在することになる。

それらの作用中、ロックは、立法の一般性、公知性等の属性を重視し、執行作用を立法作用に従属させた。
なぜなら、一般的抽象的規範を定立するという立法機能は、理論上、執行の機能に先行するという意味で優越するばかりでなく、人民から直接立法府に信託されたものであるから、その由来からしても、執行権に優越していなければならないからである(「信託の理論」)。

[192] (三)ロックは四作用の担当機関を二つに統合する


次に、担当機関の区別となると、ロックは理論的というより実務的な観点から、非常設の議会と、不断に活動するための常設の執行機関との分業を説く。
執行権と連合権については、同一の命令のもとに統一性を保持する必要性から、その担当者は単一機関、すなわち、国王であるとされる。
国王は、そればかりでなく、議会による抑制から差し引いた後に残される大権をも有する。
大権は、正当なる君主が、人民の福祉を守るために用いる、非常時の自由裁量として残されるべきもの、と位置づけられている。

かくして、国家の四作用は、ニ機関に統合されるのである(表13をみよ)。
ロックの目的は、専制君主制に代わる立憲君主制を擁護することにあったのであり、この観点から、国民(その代表機関としての議会)の有すべき作用と、国王の有すべき作用との区別に言及しながら、二機関の均衡を説いたのである。
ニ機関の均衡論は、立法権をめぐって典型的にみられる。
つまり、ロックは、君主が立法府の構成者たる資格において(これを「議会における国王」“King in Parliament”という)、立法権の主体となると説いて、議会と君主の力を均衡させようとしたのである(そのうえで、彼は議院と君主によって構成される議会をもって最高機関と位置づけた)。

【表13】 J. ロックの権力分立論
作用(客体の区別)   担当機関(主体の区別)
立法権          国民の代表 + 国王
執行権          国王
同盟権          国王
国王大権         国王

[193] (四)モンテスキュー理論は国家作用の類型別の担当機関を考えた


法を制定し執行してきた君主に対抗する勢力として、市民によって選出される代表からなる議会が登場した。
議会は、万人に影響する事柄に関して法を制定する権限を、君主から奪い始めた。
この歴史的展開のもとで、モンテスキューは、議会による法の制定と、君主や裁判所による法の執行が、正義に適うといいうるための国家統合のあり方を考えた。
彼の理論は、現実に見て取れる統治権の種別(軍事権、治水権、課税権、裁判権等々)を束ねたものでもなければ、統治に必要な「審議→執行→裁判」という三段階を理論化したものでもなかった。
その理論のユニークな点は、誰が、どのように法を制定してそれを執行すれば、それらの国家作用は正しいといえるか、という問に対して、次のように答えた点にある。

(1) 「正しき法→正しき法の制定→その法の正しき執行」という条件を満たすには、「一般的・抽象的法規範を制定する立法権→それを執行する行政権と裁判権」というように、国家作用を重層的に類型化すること。
(2) 誰も、すべての国家作用を独占すべきでないことは勿論、一つの作用をも独占してはならないこと(権限の分有)。
(3) 誰も、複数の機関を担当してはならないこと(兼職の禁止)。

右のような観点に立って、モンテスキューは、すべての国家には立法権、執行権(万民法に関する事項の執行権)および裁判権(市民法に関する事項の執行権)が存在する点を指摘して、国家作用を三つに分割する。
しかる後に、当時存在していた三つの社会的勢力、つまり、貴族、市民および君主に、それぞれの国家作用を分配することによって、相互間の抑制機能を発揮させ、権力の集中を阻止しつつ、均衡ある統治(混合政体または中庸政治)を実現することを彼は構想した。
彼にとっては、権力が権力を抑制することによって権力の均衡の達成される国家が理想国であった。

権力が権力を抑制できるためには、諸権力の分離ではなく、相互的な阻止と結合の体系がその構造の前提とされている。
そのことは、立法に当たっての立法府と執政府との関係に顕著に表れる。
執政府は、立法にあたって「阻止する権限」を行使することによって立法に参与する。
執政府は、同権限によってのみ、立法権に参与すべきであって、議会での討論に参加すべきでなく、また提案すべきでもない。
反面、立法府は、その制定した法律がいかに執行されたかにつき監督権限をもつことによって、執政権に参与するのである。
立法府は、執政府権限への「阻止する権限」を持ってはならない。
なんとなれば、執政府は立法のもとに置かれていることから、本性上、立法権に拘束されており、これ以上制限される必要はないからである。

このように、「権力分立」論は、ある一つの作用を複数の機関が分有することを理論的前提としているのであって、厳格な権限の分離を説いているのではない(表14をみよ)。
これを「相互作用理論」と呼ぶことにしよう。
機関間の相互作用を説く彼の理論は、(a)複数の機関が一つの作用を分有することを前提とした、(b)既存の社会的勢力間の混合政体論、であった。
そのために、(a)の点について、後世の法理論家は、実質的作用と形式的作用との理論的識別に悩まされていき、(b)の点については、B. コンスタン等のごとき、中途半端な分立論であるとの消極的な評価を下したのである。

【表14】 モンテスキューの分立論の概要
国家作用の別   関係する国家機関
立法権      ①君主が議会を召集すれば、議会は活動能力を与えられて、法律制定の審議に入り得る。
②1院が審議した後、2院が審議して、これに同意することによって、議会は「制定する権限」をもつ。
③君主が、立法を「阻止する権限」をもつ。
執政権      ①君主が議会制定法を執行する。
②議会が、君主による執行を監督する。
裁判権       人民の代表者が、非常時の機関を構成して、議会制定法に従って、裁判する。

[194] (五)モンテスキューは裁判権を権限相互の抑制関係から除外している


モンテスキューは、立法権、執行権そして裁判権という三権限を挙げておきながら、裁判権については常設的な組織体に担当させない点を強調するにとどまり、第三権としての地位を与えていない。
彼にとっての権力の抑制とは、①執行権の担当者たる君主、②立法府の一院を構成する貴族団、そして、③同じく立法府の他の一院を構成する市民(ブルジョアジー)、という三つの社会的勢力間の抑制であった。

裁判権は、その結果たる均衡とを壊すものであってはならない、という意味で、権力としても「無」でなければならない、と論じられた。
裁判権が「無」であるためには、それは常設的組織によって担われるべきでなく、しかもその「判決はまさに法の明文に他ならぬというほどに固定的であるべきである」、「裁判官は法の言葉を述べる口」でなければならない、と強調された。
もともとモンテスキューは、裁判権を他の二権と同列に扱ってはいなかった。

彼の構想は、
(ア) 立法権と執行権との本質的な違いを論ずることによって、両者を区別すべきことを説く部分と、
(イ) 裁判権を他の二権から区別することを説く部分と、
から成っていた。
このうち、(ア)については、「権力が権力を抑制する」ための様々な相互手段のあることが詳論され、(イ)については、抑制の関係から除外され、立法府の示したことを語る口である点だけが強調された。
裁判権の位置づけは、分立論からではなく、もともと「法の支配」から来ていた([68]参照)。
司法権の独立は、ある権限の主従関係(従たる機関の重要でない関与)を説く分立論とは別の構想に基づいていたのである。

こにように、モンテスキュー理論においては、三権が同一軸に従って並列的に置かれているわけでもなければ、三権の「抑制と均衡」関係が構想されていたわけでもないのである([198]参照)。
彼の理論にとっては、抑制が第一次的であって、均衡はその副産物であった。
だからこそ、裁判権は「無」の地位に置かれるだけで済んだ。

ところが、早くもフランス革命期に、立法権は議会に集中されるべきであるとするルソー理論の影響を受けたために、「権力分立」論とは、完全に分離された三権を三機関が別々に担当することである、と理解され始めた。
この理解を「完全分離イメージ」と呼ぶことにしよう。
完全分離イメージに影響されて後世は、「立法」、「行政」、「司法」という三権の均衡こそ分立論の眼目であると受け取った。
例えば、《執政府は、議会召集権、法律発案権、法律の共同可決権、拒否権、認証・公布権、議会解散権のいずれも持ってはならず、兼業禁止を厳格に実行しなければならない》とか、《議会は、執政府の選出権、執政府に対する弾劾権、不信任決議権のいずれも持ってはならず、執政府をその信任に依存させてはならない》と説かれたのも、完全分離イメージの影響であった。
アメリカの判例が、《裁判所は司法審査権の担い手でもある》とする解釈を打ち立てたことも、完全分離的理解に拍車をかけた。
というのも、モンテスキュー理論においては「無」であった司法府が司法審査の機関として顕在化された段階で、「三権の均衡」の図式が完成されたようにみえたからである。
ところが、アメリカの建国の父たちが採用したのは、完全分離イメージではなく、相互作用理論のほうであった([196]をみよ)。


■第三節 理論上のシェーマから実定憲法での受容へ


[195] (一)「権力分立」は純粋なかたちで実定憲法典に実現されたことはない


「権力分立」論は、国民代表という観念、そしてその権力組織たる議会の存在なくしては、登場し得なかった。
とはいえ、ロックやモンテスキューにみられた古典的「権力分立」論は、一面では、権力組織としての議会に対して「正当なる君主の大権」を擁護する理論、または「混合政体」内部における立憲君主の地位を擁護するための理論であった。
もともと、その理論によって、君主と議会との間の生きた政治的権力関係を正確な均衡状態に置くことは期待できなかったのである。

この混合政体論は、イギリスのW. ブラックストーンにもみられた。
曰く、「立法においては、庶民は貴族に対する抑制者であり、貴族は庶民に対する抑制者である。両者はそれぞれ、他方が決めたことを拒否する権利を持つ。これに対して国王は、この両者に対する抑制者である。この抑制によって執行権は侵害から守られる」。

こうした混合政体論は、二元的対立構造をなお強く示していた大陸諸国、なかでもドイツにおいて、君主と貴族との二元的抑制関係の部分を強調する、立憲君主制擁護のための理論へと変質させられていった(この点については、[197]でふれる)。
それにも拘わらず「権力分立」論は、その後も、公理の如く扱われ、今日でさえ、過大に評価されている。
現実には、その理論は、実定憲法に導入されるに当たって、各国の政治力学や法文化の前に大きく変容せしめられており、不動の中核部分すら欠いているかのようである
もともと「権力分立」論は、君主の位置を中心にして抑制の図式を描いた超実定憲法的な制限政体論なのであるから、現実の執政府と議会との力関係が実定憲法上の「権力分立」構造を決定した。

[196] (ニ)アメリカは厳格分離イメージに比較的忠実であったといわれるが、独特の分立理論によっている


アメリカの13州は、制憲権理論または国民主権理論を基礎としつつ、「権力分立」論をも憲法典に採用した。
それに続くアメリカ合衆国憲法(1788年)は、先にふれたように、厳格な三権の分立形態を受容した、と一般的にいわれる。
確かに、君主に似て非なる大統領が議会の信任に依存しない点、議員の兼職が禁止されている点、執政府(Executive Branch(【N. B. 13】参照))が法案提出権や議会の解散権を持たない、とされている点では、執政府と議会とを最大限分離する方向にあるようにみえる。

【N. B. 13】「執政府」なる用語について。
本書は、Executive にあたるものを「執政」と表現する。
なざなら、通常それは「執行」といわれるところであるが、いずれ [400]、[402] でふれるように、Executive とは、本来「法令から自由な活動領域」を意味し、議会制定法を執行していくことではないからである。
なお、Executive の類似語として、Administration がある。
Administration とは、執政府の指揮監督のもとで、公務の遂行に当たる人々の全体またはそのための組織をいう。
通常は、Executive、Administrative ともに、「行政」と表現されるが、それは誤導的である。
本書では、前者を「執政」、後者を「行政」と使い分ける([402] もみよ)。

ところが、連邦議会のもつ宣戦権、上院のもつ承認権(条約承認、公務員任命の承認)、弾劾裁判権にみられるように、議会または院は三作用全てを自らに集中しているのであって、厳格な権限の区別に立っているわけではない。
さらには、大統領の停止的拒否権(Veto Power)、審議勧告権、非常事態における議会召集権は、厳格分離イメージから程遠い。
かつまた、アメリカ建国の父たちの構想した司法審査制は、古典的「権力分立」論を大きく変容させた([194]参照)。

[197] (三)「権力分立」は立憲君主制下で新たな局面を迎えた


「権力分立」理論は、執政府と立法府との抑制関係のあり方を最大の関心事としてきた。
その具体的内容は、その国ごとの、執政府と議会の正当性を支える理論と実践によって当然に異なってくる。
なかでも、執政府の長として、君主以外に、大統領や宰相が登場してくると、「権力分立」の実相は大きく変容してくる。

例えば、イギリスのように君主の基盤が弱く、議会の正当性が強い国では、議会優位の君主制(議会主義的君主制)となった。
これに対して、君主の基盤の強い国々では、「権力分立」論は、近代立憲主義思想の普及と共に、「自己拘束する立憲君主制(【N. B. 14】参照)」を支える理論として援用されてくるのである。

【N. B. 14】「立憲君主制」の意義について。
立憲君主制の指標は、
議会が法律を制定すること(ただし、その場合であっても、君主が何らかの形で立法過程に参与する。例えば、君主の力が強い国家にあっては、君主の裁可権が立法の成立要因とされる)、
議会が政治活動を監督すること、
大臣が君主の行為に副署して、責任所在を明確にすること(大臣助言制が採用されていること)、
裁判所が独立していること、
君主と議会(または議院)の双方が直接的国家機関として存在すること、
に求められる。
なお、君主権限の強い国家においては、君主を輔弼するための大臣たちの緩やかな組織体が登場することがある。
この組織体は、一体的な輔弼機関としての「内閣」とも異なる存在であって、両者を区別するために、前者については「政府」なる呼称が用いられる。

「自己拘束する立憲君主制」の理論のもとで、「権力分立」は、新しい局面をもつに至る。
その局面は、執政権と立法権の厳格な分離・抑制の体制に代わる、君主のもとでの「諸権力の協同体制」と称せられる。
協同体制の指標としては、
(a) 君主が国家権力の源泉であることを大前提として、
(b) 君主に対する政府(大臣)の助言制度が採られていること、
(c) 君主と議会が立法権を共同行使すること(立法に関して、君主の裁可が必要とされること)、といった権限行使方法が中心となるばかりでなく、
(d) 君主が議会会期の開閉の決定権限をもっていること、
(e) 君主が民選議院の解散権を有していること、
(f) 大臣と議員との兼職が容認されること、
(g) 大臣が議会への出席発言権をもつこと等、機関間の相互作用も挙げられている(詳しくは、第11章の「議院内閣制」、なかでも [214]、[217]参照)。

このように、協同体制が強調される分立論のもとでは、一方では、唯一の国民代表機関である立法機関を最高機関足り得なくし、他方では、君主を憲法的拘束のもとに置くことが試みられるのである。


■第四節 「権力分立」論の語らないもの


[198] (一)モンテスキューは三権を「法」のもとに置こうと考えていた


先にふれたように([192] および [195] 参照)、古典的「分立」論は、一面では、当時新しく発生しつつあった議会を、君主制という既存の海図に上手く位置づけようとする試みであった。
ところが、そればかりではない。
「分立」論は、制限政体にとって本質的な「法」のもとに、「政法」(今日いう「公法」)を制定する議会を置き、さらにそのもとに、政法を自動機械さながらに執行する執政府・司法府を置くという、垂直的に発動される国家作用の序列を説いたのである。
そして、「これら三つの権能は静止または不動の均衡状態を形成しなければならない」とするフォーマルな視点に立って、各機関間の抑制が説かれた。
国民の国制上の地位は扱われなかった。

[199] (ニ)「法」づくりと「立法」は同義ではなかった


国家作用のうち、中心的位置を占めてきたのが執政権である。
このことは、歴史を通して真実である。
立憲主義は、恒常的に発動されて流動的となりがちな、国家作用の中心たる執政権をいかに統制するべきか、苦慮してきた。
「権力分立」論は、それへの解答の一つであった。

モンテスキューの「権力分立」論は、立法・執政を統制する「法」を置いて、「法→立法→執政・裁判」という垂直的統治構造による執政権の制限を説いたのである。
彼は、「各国民の政法・市民法は・・・・・・人間理性 [という法] が適用される個々の場合であるべきである」と述べており、「法」(law)と「制定法(legislation)とを同視していたわけではなかった。

ところが、その後の思想家たち、なかでも法実証主義的公法学者たちは、その「法」を立法府の制定する「立法、制定法」と等置してしまった。
そのために、通俗的理解による「権力分立」論は、「モンテスキューが立法(制定法)のもとに行政作用と裁判作用を置いて、国家統治権を民主主義化することを構想したもの」と早計にも即断してしまった。
だからこそ、「議会による決定→内閣(政府)による執行」という図式が強調され、《権力分立は自由主義的でもあり、民主主義的でもある》という誤った理解が普及してきたのである。

[200] (三)執政権は行政権と同義ではなかった


立法活動は、間歇的にのみ姿を現すのに対して、執政は恒常的に行われなければならない。
直接機関を基軸にして形式的に国家作用を範疇化する思考で以ってしては、動態的な執政作用を把握しきれない。
執政の客体たる実質的意味での執政(動態的側面)と、執政主体(静態的側面)との間には、齟齬が生ずるのも当然である。

その齟齬部分は、いわゆる「行政控除説」によって埋められたかのようにみえた(しかしながら、控除説は分立論の皮相的理解の産物であった。行政の意義については、[402]参照)。
法治主義思想は、その控除部分を法律のもとに置くべく努力するものの、それが成功したわけではない。

実は、モンテスキュー以降の分立論が、執政権を「法律のもとに置かれる『行政権』」に等置してしまった段階で、国家作用に関する正確な把握は困難となったのである。
特に、モンテスキュー理論は、大臣やその会議体である政府という存在を知らなかった。
分立論は、君主と大臣とが一体足るべきものとの前提に立っていた。
ところが、立憲君主制は、大臣を憲法典上の別個の機関として置かなければならない「機関内コントロール」体制である(これに対して、君主制は大臣を置いてもよい体制であった)。
この時点で既に、大臣の活動と君主権限とを「行政権」という一つの概念で説明することは出来なくなっていたのである。

これに対して、イギリスの法的伝統は、行政権には還元できない「国王の大権」を知っていた([192]参照)。
その伝統を一部受け継ぐアメリカも、大統領の執政権限(Executive Power)と、行政機関の為す行政(administration)との区別を知っていた([196]参照)。
我が国の明治憲法典下の天皇の宮務大権や統帥権等も「権力分立」概念では説明できなかった。
複雑な国家作用を三権の類型で論じ尽くすことが、もともと不可能だったのである(イェリネック『一般国家学』496~98頁参照。また、[336]もみよ)。
ところが、憲法学は、「執政/行政」の別を軽視して、両者を一体として捉えるか、さもなくば、後者の行政に関する統一的理論体系の樹立を放擲して、それを行政学に全面的に委ねてしまった([492]もみよ)。

また、19世紀の諸外国の憲法典にみられた会計検査院の存在は、議会からも執政府からも独立した特異な機関であった。
さらには、アメリカに登場した独立行政委員会や、スカンジナビア諸国に登場したオムブズマン(行政監察官)とその変種も、「権力分立」論のなかで余すところなく説明できるわけではない。

[201] (四)裁判は「立法」を語る口ではなかった


また、「権力分立」論は、裁判の扱いにも疑問を残している。
モンテスキューは、裁判が「法」を語る口であることを望んだ。
ところが、その「法」は、先にふれたように([199]参照)、後世の法実証主義者によって、立法であると誤解された。
ここから、行政と裁判とは、共に立法府の指示を具体的ケースに適用することであり、本質的な違いはない、とする理解を生んだのである。
この理解のもとで後世は、行政と裁判とを区別することは凡そ不可能であり、歴史的に解明し得るのみと説明することを余儀なくされる(「裁判」と「司法」との違い、「司法」の本質については、第二部第10章第一節の [420] でふれる。ここでは、取り敢えず原則として「裁判」なる用語で議論を展開する)。

[202] (五)「権力分立」論はインフォーマルな政治過程を説明しきれない


さらに、現代国家においては、フォーマルな「分立」論では処理しきれない現象が次々に現れてくる。
その現象の一つが現代国家にみられる「政党国家」(権力奪取を恒常的に目指しながら活動する政党の噴出)現象であり、他の一つが国家による「社会的領域」への介入を顕在化させている「積極国家」現象である。

この現代国家における権力抑制構造は、「立法府 対 執政府」といった公式に制度化された権力組織相互間の抑制にあるというよりも、「議会内部の与党 対 野党」の抑制、そして「(政党によって組織化された)国民 対 政治部門」の抑制、という非公式で流動的な形をとる。
そして、その主たる抑制対象も、フォーマルな統治過程(例えば、法律案の成立の阻止)であるよりも、官僚による政策立案過程に向けられなければならない。
官僚による政策立案領域は、今日では、法律案の作成といった立法の準備にとどまらず、経済政策、文化政策、外交・防衛政策等、国家や国民生活にとって極めて重要な分野にまで及び、しかも、それらは「法令から自由な活動領域」として実行されているのが実状である。
この領域をいかに有効にコントロールするかという側面こそ、現代立憲主義の直面する課題である。

「法令から自由な活動領域」の典型例が戦争の遂行である。
確かに、軍隊の組織や経費負担等を定め、戦争権限を手続的に拘束する例は多くの国の憲法典にみられるものの、展開予想の不可能な戦争遂行に当たって具体的個別的な確固たる規準が与えられることはない(戦争権限は、先にふれた執政行為または統治行為の領域に属する)。
古典的な「権力分立」論は、この古くて新しい現象に対して、ほとんど何の回答も与えていないようにみえる。

「立法府 対 執政府」の抑制機能が減退をみせてくると、裁判所による政治部門の抑制機能が分立論のなかで脚光を浴びてくる。
第一次世界大戦以降、各国が違憲審査制の導入に踏み切ったのは、「分立論」のなかに「法の支配」を復活させんがためであった。
その理念を統治構造に反映させるに当たって最も適格な組織体は、司法府であると目された([438]参照)。

[203] (六)「権力分立論」小括


「権力分立」の思想は、統治を完全に民主化しないための技術であって、自由主義の産物である。
それは、「専制政治」から自由を擁護するためのイデオロギーであって、「貴族制」を否定するものではなく、それどころか、立憲君主制や混合政体を支援するための理論であった。

こうした陰の部分を多く持つにも拘わらず、同理論が、多くの国の憲法典に受容されたのは、レーヴェンシュタインの指摘しているように、「個人的自由を『権力』の分立と同一視した」ためもあろうが(レーヴェンシュタイン『新訂 現代憲法論』50頁)、そればかりでなく、統治権すべてを法のもとに置いて統治の安定化を狙ったためである。

こうした本来の狙いを考慮すれば、我が国の古典的理解のように(清宮『権力分立制の研究』)、同技術をもって自由主義的でもあり民主主義的でもあるとすることは誤りだということが分かる。
このことを誤りだといわないためには、《古典的な権力分立論は、国民主権原理が採用された段階で、大きな変更を受けた》という説明を介在させることを要する。
つまり、古典的な権力分立論は、主権者・国民という要素を知らなかったのに対して、19世紀以降の国制には有権者団という国家機関が不可欠の要素となった、という視野をもつことである。
この視野をもったとき、議院内閣制における議会と執政府との均衡は、最終的には国民の選挙によってもたらされるに至る、という展開が理解できるようになる([215] 参照)。

分立理論は、これまでの実定憲法典中に実現されたことはなく、その統治技術は、自由の保障という基本理念が変わらぬぎりぎりのところまで妥協するほどに柔軟である。
また、分立論は、制度化された権限間での抑止のメカニズムを説くために、現代国家の動態的でインフォーマルな憲法現象を十分に捕捉し切れない。

とはいえ、近代立憲主義憲法典が、「分立」論に依拠して、次のような二重の制御メカニズムを用意している点は忘れてはならない。
第一は、 統治権限の分割である。
これは、ある一つの憲法典上の行為が幾つかの権力保持者の協同によって成立したときのみ有効となる、とされる場合をいう。BR()例えば、立法機能の両院への分割、憲法改正の議会による発案と国民投票への分割等がこれに当たる。
第二は、 統治権限の阻止である。
これは、ある権限保持者の行為に対して、他の権限保持者がこれを受動的に阻止する場合をいう。
例えば、アメリカの大統領の立法への拒否権、議会による内閣不信任決議に対する内閣の議会解散権、違憲審査制等がこれである。

権力分立論における右のメカニズムを理解できれば、我々は、次のような了解に達するであろう。
権力分立論は、一機関に一権限を分配する理論ではない(完全分離イメージは正しくない)。
権力分立論は、国家作用を三つに限定するための理論ではない。主体別に作用を配列すれば、三つ以外の作用が出てくるのは当然である。
権力分立論は、統治過程を静態的に捉えている、という評価は正しくない。分立論は、統治過程を連続したものと捉えながら、諸機関の相互作用のあり方を動態的に分析した結果である。

なお、「権力分立」論の狙いが、三権の分離ではなく、統治権限の分割にあるとする以上、それは、議会内部での分割(二院制)、地方分権(地方自治)、さらには連邦制をも射程内に取り込むことになる。
もっとも、二院制は、モンテスキューの説いたところであるが、後世代はこれを「権力分立」の必須要素とは考えなかった。


■第五節 日本国憲法と「権力分立」


[204] (一)「権力分立」の純粋理論に従った条文スタイルはこうなる


「権力分立」は、「立法」、「執政」、「裁判」の三権に平等の地位と権限を付与するものではなく、また、それぞれが分離独立することを意味するものでもない。
確かに、厳格分離イメージによれば、

「立法権は、機関1に与えられる(に属する)。」
「執政権は、機関2に与えられる(に属する)。」
「裁判権は、機関3に与えられる(に属する)。」

という権限配分規定形式によることになろう(アメリカ合衆国憲法典の条文は忠実にこれに従っている)。

ところが、実定憲法典に「権力分立」理論が組み入れられる際に、その当時の政治的権力関係を反映して、その実現態は一様でなくなることについては既にふれた([195]参照)。
特に、君主主権を放棄しようとしない国々においては、君主が統治権を掌握するものとの前提に立って、

「立法権は、君主および機関Aが共同して行使する。」
「裁判権は、機関Bが行使する。」

という「権限行使方法」が憲法典に規定され、「分立」論の名のもとで「統治権限の分割」が前面に押し出されてくる。

[205] (ニ)明治憲法は純粋の「権力分立」制を採用しなかった


明治憲法は、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(4条)と定めた。
これは、統治権を三分し君主がその一部を担当するという「分立論」を拒否する趣旨である。
明治憲法体制においては、国家作用は、まず宮務と国務(広義)とに分けられ、広義の国務はさらに、統帥事務と狭義の国務とに分けられた。
狭義の国務は、さらに、立法、行政(このなかでも、会計検査院と賞勲局には独立性があった)、司法へと分けられた。
そのうえで、三権の行使方法は次のように規定された。

「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」 (5条)
「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」 (55条1項)
「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」 (57条1項)

これは、立憲君主制の明示にとどまり、「権力分立」さながらではない。
明治憲法典が「外見的」権力分立を採用したと、ときに称せられるのは、天皇の統一的統治権を不動のものとしながらも、立法、司法の権限行使方法に言及している点に、統治権の区別であるかのような外観が与えられるからである(美濃部達吉『憲法撮要』67~70頁は、立憲政体を、①スイス流の直接民主主義、②アメリカ流の三権分立主義、③イギリス流の議院内閣主義、④ドイツ流の官僚内閣主義、に分類して、明治憲法下の政体は①、②ではなく、日本独自のものであると指摘した。また、③、④は憲法典上の分類ではなく、慣行上出現した政体の分類に過ぎない、とされている)。
明治憲法典は、天皇の自己拘束の理論のもとで、立憲君主制を採用し、君主権限行使を無制限とはしないために、その行使方法と程度とを規定したのである。

[206] (三)現行憲法は独特の「権力分立」制を採用した


我が国の憲法典は、「権力分立」理論に影響されて、立法・行政・司法という国家作用の区分のもとで、立法のもとに行政と裁判とを置いた。
さらに、担当機関も分離して、国会・内閣・裁判所を置いて、それぞれの機関に三作用を分属させた。
ここまでは、厳格な「権力分立」の基本構想さながらである。
そのことは、現行憲法典の次のような条文スタイルに反映されている。

「国会は、・・・・・・唯一の立法機関である。」 (41条)
「行政権は、内閣に属する。」 (65条)
「すべての司法権は、最高裁判所・・・・・・に属する。」 (76条)

ところが、三機関の相互関係となると、我が国独自のものとなる。
まず、立法府と執政府との関係については、日本国憲法は、その二元的対立を避けるために大統領制によらなかった。
両者の関係につき41条が「国会は、国権の最高機関であって、」としている部分は、国会に権限を集中する独特の統治構造であると理解する余地を残す(この点については、[222]参照)。
これに対して、内閣の国会に対する連帯責任に言及する66条2項等は、国家と内閣との協同体制たる議院内閣制を含意するようでもある(議院内閣制については、次章でふれる)。
さらに、司法審査制に関する81条は、アメリカ的な「三権の均衡重視」を示唆するかのようである(司法審査制については、第二部第10章第三節の [437] 以下でふれる)。


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※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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第十一章 議院内閣制

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第十一章 議院内閣制 p.179以下

<目次>

■第一節 議院内閣制の意義


[207] (一)議院内閣制とは議会と執政府との間に政治的一致原則を実現させる制度をいう


議院内閣制 parliamentary governmentとは、憲法典が、議会と執政府とを法的に独立した機関と位置づけながらも、両者間の政治的一致の原則を制度化している統治構造をいう。
真の議院内閣制は、裁判方式による法的責任追及のための大臣訴追や弾劾制が後退し、それに代わって、執政府と議会の政治的一致の原則が認められて、はじめて始まったのである(シュミット『憲法理論』399頁)。
14世紀のイギリスにおいては、下院が大臣の法的違背を弾劾するために訴追し、上院がこれを判するという大臣訴追制が確立したが、議会が大臣と内閣の政治責任を追及する慣行が成立するに従って大臣訴追制は姿を消し、議院内閣制によって、二機関の政治方針を一致させるようになったのである。
もっとも、政治的「一致」といっても、その程度は現実には様々であり、政治的方針を共通にすることに表れることもあれば、一方の他方に対する従属として表れることもある。

[208] (ニ)議院内閣制は君主と議会という二元的対立を緩和する制度として登場する


政治的一致の原則は、君主と議会との二元的対立を克服して、政治的統一を確保しようとする試みのなかで、超然(官僚)内閣制に代わるものとして成立した。
超然内閣制とは、内閣が専ら君主の信任に基礎を置くものをいう。
議院内閣制は、これに代わって、前章でふれた議会と内閣との協同体制の合理化・具体化である。
その体制は、立憲君主と議会の狭間にあって、両者の政治的バランスを巧妙にとろうとする内閣が重要な地位を占めるに至った段階で登場する。

議院内閣制は、政治的な合目的性を理由としてイギリスにおいて登場し、次いで、イギリスの慣行を基礎にした理論体系としてフランスの公法学者、B. コンスタン(1767~1830年)によって樹立された。
コンスタンは、
立法権は議会に属すること、
君主は拒否権によってのみ立法権に参与すること、
執行権は諸大臣に属すること、
君主は議会の指名した大臣の任命、恩赦、議院解散権、等を通して他の機関の調整役(調整権限の保持者)となること
等を説いた。

ところが、ルイ18世の統治下フランスの1814年の憲法典は、右理論を否定して、国王こそが全ての国家権力の源泉であるとする命題に立って、明治憲法類似の外見的権力分立構造を採用するにとどまった(同憲法典上の立憲君主制は、はやくも1830年に国民主権原理に取って代わられた)。
その後、19世紀初頭から中葉にかけて、議院内閣制は、イギリスの慣行から離れた抽象理論として完成される。
イギリスの慣行とフランスの抽象理論の二つは、立憲君主制にみられる統治構造に「権力分立」の観点から修正を加えようとした点で共通点を有するものの、それぞれの国の歴史や権力関係を反映して、執政府と議会との優劣関係に関する見方を同じくするわけではない。
ここに、議院内閣制にも二つのタイプが存在することになる。

もっとも、いずれの制度であれ、議院内閣制なるものが憲法典上に明示されることはほとんどないのである。
同制度の体系は、イギリスにおいては政治的プラクティスの中にだけ存在し、フランスにおいては抽象理論の中にだけ存在してきた。

議院内閣制の確固とした理論は、偶然の集積であるイギリスの発展からは引き出せないのであって、イギリスを理論モデルとして参考にすることには、我々は慎重でなければならない。
これに対して、フランスにおける抽象理論は、それまでは政治過程の展開に委ねられていた議会と執政府との政治的一致の原則を、法的に統制して、「政治過程から法的過程へ」と権力を合理化・制度化するための試みである(これを「合理化された議院内閣制」という)。

イギリスにおける議院内閣制は、君主を補佐する官僚団に対する議会の優位、ことに民意を代表する庶民院の優位を確立する歴史の展開であった。
そこでは、「政治/行政」の概念上の区別が強調された。
そこでいう「政治」とは、議員、大臣、内閣といった国家機関の活動を指し、行政とは、内閣に直属する軍事官僚制と行政官僚制の活動を指す。
この「政治/行政」の区別は、国民から選出された勢力(議会、内閣)の為す「政治」は、非選出勢力の為す「行政」よりも優位することを論拠づける目論見をもっていた。
すなわち、「政治/行政」のモデルは、【国民→議会→内閣・大臣】→【官僚】→【国民】という統治の流れを想定しながら、政治家による官僚の統制を正当化する理論であった。
これに対して、権力分立のドグマが支配する大陸においては、「立法/司法/行政」という概念上の類別が強調された。
このモデルにおいては、大統領、首相、大臣、これを補佐する官僚団の活動が「行政」であると観念しながら、【国民・議会】→【内閣・大臣・官僚】→【国民】の流れの中で、国民・議会による「行政」の法的統制の必要が語られてきた。


■第ニ節 議院内閣制の起源とその特質


[209] (一)議会勢力の強い国では議会主義となる


議院内閣制は、議会と執政府とが、法上、別個独立の機関とされる「権力分立」的統治構造の一形態である。
「権力分立」にも、「議会優位型(国民公会型)」、「厳格分離型(アメリカの大統領制型)」、「協同体制型」等さまざまあり、議院内閣制はこれらの中の一つである。
広く世界の統治体制を類型的に概観するに当たっては、フランスの公法学者R. レズロープの論文(1918年)で説かれた次のような類型が参考となる。

アメリカ大統領制
執政府を独任制機関としながら、議会と執政府のそれぞれの選任方法についても、権能行使についても、できる限り分離しようとするタイプ。
旧ドイツの立憲君主制
執政府として独任制機関たる君主と合議制機関である政府とを置き、政府と議会の構成員の選任方法を別々としながらも、君主のもとでの政府と議会との協同体制を原則としつつ、執政府の独立、優位確保に仕える限りでの分離を維持しようとする体制。
イギリスの議会統治制
右の②と同様に、執政府が二つの機関から成るものの、名目化された権限のみをもつ君主のもとでの協同原則に、さらに、執政府(内閣)在職についての議院の信任を付け加えるタイプ。
スイスの議会統治制
議会が執政府構成員を選任してその組織を決定するのに対して、執政府は、議院解散権をもたず、議会の決定を遂行するのみで、議会の優越、執政の従属という原理のもとで維持される体制([213]もみよ)。

歴史上最初に登場した変型は、ルソー流の人民主権論を背景にした「国民公会(コンヴァンシヨン)制」または「議会主義」と呼ばれる「議会優位型」であった(レズロープの類型からすれば、右の④)。
「国民公会制」または「議会主義」とは、一般意思を反映する一院からなる議会が、立法権限を独占するだけでなく、国家の最高の意思機関となって、執政府を従属させるタイプをいう。
これにあっては、議会が執政府の長の任免権をもつばかりでなく、執政府に対して議会の決定した施策を実現するよう指揮命令する。
当然のことながら、執政府の長は、議会の解散権をもつことはない。

ところが、この「議会主義」思想は、「権力分立」論の様相をとっているものの、統治の直接的正当性を人民の統一的意思に求めながら、実は、「分立」を否定する理論であった。
さらに、そのもとでは、最高機関である議会の制定する立法こそ最高と扱われることになり、憲法典と法律との区別すら否定されてくる(「イギリスの議会は、男を女に、女を男にする以外、何事でも為し得る」という法諺に表れている如くに)。

[210] (ニ)君主の力が強い国で議院内閣制が採用された


これに対して、フランスにおける議院内閣制思想は、君主の地位を温存しようとする勢力からの巻き返しとして提唱されてくる。
彼らは、全ての国家権力の源泉である君主のもとで議会と政府(または諸大臣)とが協同して統治に当たる立憲君主制に「権力分立」構想を加味することによって、政府を正式機関として制度化し、これに執行権の中心部分を集中させようとした。
ここに「分立論」上の正式機関として「内閣」が誕生した。
この新たな誕生物は、議会と対等な地位を占めると主張することによって、議会の優位性を否定した。
彼らは、片や旧来の立憲君主制を克服し、片や押し寄せる急進的勢力を抑え込むために、中庸の政治機構を構想したのである。

その理論によれば、

君主は国家を代表し、議会から独立し、無答責であること、
現実の執政権行使に当たって君主は、一切の行為を内閣の同意に依存し、内閣が議会に対して責任を負うこと、
そのために、執政権は君主と内閣という二元的組織となること(モンテスキューが内閣・大臣の独自的存在について語らなかったことは、[200]で既にふれた)、
議会と内閣とは対等独立の地位にあり、一方が他方に従属するものであってはならず、常に、相互了解を得ながら、君主のもとで協同して統治に当たるべきであること、
相互了解・協同関係が維持できないときは、議会は内閣の不信任を表明し、内閣はこれに対する対等な抑制手段として解散権を行使できること、

といった要素が強調される。

[211] (三)オルレアン型議院内閣制は執政府の二元的組織と責任とがその特徴となる


これから分かるように、フランス流議院内閣制の特徴は、
(ア) 執政府の二元的組織、
(イ) 内閣の責任の二元性(君主 [後には大統領] への責任と、議会への責任)、
(ウ) 内閣と議会との均衡関係、
という点にある。

もっとも、右の特性のうち、執政府の二元的組織は、19世紀初頭のオルレアン王朝期に採用されたものであって、その後は、君主権限の名目化の進展に応じて、重視されなくなる。
執政権限が実質的に内閣の手に移った後は、内閣と議会との対等な関係を表象する解散権の存在こそ、ある統治構造が国民公会に近いか、それとも、議院内閣制に近いか、を識別するテストとなる(この点について [218] で再びふれる)。

内閣の議会解散権は、もともとは立憲君主制の残存物である。
内閣は、議会との均衡関係が崩れたと思われるとき、助言制度(副署権)を通して君主の有する解散権に訴えて、君主を基軸にして均衡関係を復元しようとしたのである。
議院内閣制がその起源を立憲君主制にもつといわれる理由は、この点にある。

[212] (四)議院内閣制は民主主義と直接関連するわけではない


ケルゼンは、議院内閣制とは、執政府を議会の委員会とするものであり、これは人民主権(「主権者たる人民→議会→執政府」という垂直構造)の論理必然的帰結点であって、「権力分立」の亜種でもない、とみている。
しかしながら、この見解は、議院内閣制が民主主義に立脚するとの誤った前提に出たために、同制度を「権力分立」から離してしまったのである。
これでは、議会主義(国民公会制)と議院内閣制との区別が出来なくなる。

確かに、議会と執政府との間に政治的一致の原則が制度的に認められているものを議院内閣制という点、に着目すれば、統治権限の民主的な集中制のように思われる。
なるほど、18世紀イギリスにおいて議会勢力が立法と行政の二つの権力を掌握して、《議会が内閣をその委員会にした段階で、議院内閣制は確立した》、といわれるように(W. バジョット『イギリス憲政論』は、「議院内閣制は、立法部によって選出される委員会の政治である」と述べた)、議院内閣制は、権力分立とは相容れない、権力の集中化であるように考えられる。
ところが、それは、「民主」勢力の優位を貫徹して君主権力を解体するために、立法と行政のニ権力の融合を過度に強調したためであった([208]もみよ)。
同制度は、内閣(または大臣)の議会解散権(【N. B. 15】参照)を梃子にして、連帯と反発のシステムによって政治的一致原則を実現する点をその要諦とする以上、集中型とは解し得ず、柔軟な「権力分立」の体制と位置づけるのが正当である。

【N. B. 15】議会解散権の類型について。
解散権の類型としては、その主体別に、①君主の解散権、②大統領の解散権、③大臣または内閣の解散権、④議会の自己解散権、⑤人民の請求に基づく解散権、等がある。
①の君主の解散権は、 代表機関としての議会に対して、君主の優位を確保を確保する目的をもつ。
このタイプの解散権は、議会を攻撃する武器となる。
②の大統領の解散権は、 議会との均衡を図るための手段であり、選挙民に、議会か執政府のいずれかの立場を支持する機会を与えて、両者間の政治的対立を解決させる目的をもつ。
③の大臣の解散権は、 議会多数派と大臣との間の衝突を、選挙民によって最終解決させる目的をもつ。


■第三節 議院内閣制の展開


[213] (一)立憲君主制は次第に名目化されるか消え去っていく


歴史的には、先に見たように、議院内閣制は、「権力分立」の影響力に抗し切れない立憲君主制が、君主の正当なる地位を維持し続けるための最後の依りどころであった。
その後、普通選挙制が実現され、大衆を組織する政党が政治過程の実権を握るにつれて、民意を直接反映しない立憲君主は直接機関としての地位を失って、姿を消すか、または、名目的形式的な元首となる。
なかでも、議会が民意を統一的に表示すると期待された国家においては、議会多数派の指導者が政治的指導と統率を掌握する「議会主義」となる。
これに対して、統一的民意は議会ではなく、一人の自然人によって統一的に代表されるべきであるとする思想が支配的な国にあっては、「大統領制」になる。

大統領は、立憲君主の理論的代替物であった。
すなわち、大統領は、君主の存在に似せて作られたが、選挙によって選出される点で決定的に君主とは異なる存在とされた。
大統領は、選挙人の意思を一人で統一的に代表する存在として、もう一つの代表機関である議会の優越的地位を抑制するよう期待される。
この二つの直接機関を独立させて、相互の抑制に期待するのが大統領制である。

[214] (ニ)議会と執政府との政治的一致原則を実現するために諸方策が考案された


ところが、大陸の思想家たちにとって、大統領制は、等族国家のもとでみられたと同じような、君主とと等族との対立(二元構造の矛盾)の轍を踏むことにならないか危惧された(この点については、[208]でふれた)。
彼らは、二元構造の矛盾を回避すべく、議会と執政府との間に政治的一致をもたらす統治構造を構想した。
支持的一致を確保する手段として考案されたものが、

内閣の存立を議会(特に、民選議院)の信任に依拠させること、
議会に対する内閣または宰相の責任を憲法典上明記すること、
大臣に対する質問権、大臣の議会出席要求権を議会がもつこと、等である。さらに、
これらの手段で政治的一致に達しなかった場合の最終的手段が、解散に伴う選挙において選挙民に訴えて、再び政治的一致を復元すること、である。

すなわち、普通選挙制が実現された時点以降、二つの代表機関は、選挙人という第三の勢力に訴えて、それぞれの正当性を主張するのである。
このことから、「19世紀には、確かに主権的な議会が支配的なものと見られるが、政治的指導は内閣に、政治的決定は選挙人にある」(シュミット『憲法理論』403頁)といわれるに至る。
もっとも、そこにいわれる「選挙民による政治的決定」とは、「政党というリーダーの決定」というほどの限定的な意味として捉えるべきであろう。

[215] (三)選挙民が執政府と議会との最終的均衡を復元する


議院内閣制に関する抽象的理論を比較的忠実に憲法典に取り入れたのが、ヴァイマル憲法(1919年)であった(もっとも、制定過程においては、議院内閣制としての性格づけは意識的に避けられた)。
同憲法典は、君主に代わるものとして、選挙人によって直接選出される大統領を置くと同時に、大統領が議会から超然として君臨することのないよう、大統領と議会との結合を図るための合議機関たる「政府」(宰相および大臣からなる組織体)をも置いて、二元的執政府とした。
二元的執政府は、責任の所在がそれだけ分散され、議会による責任追及が複雑となるという点で、等族国家での二元構造よりも責任政治にとって危険であるため、同憲法典は、宰相または大臣による副署によって大統領を拘束し、さらに、宰相が政治の基本方針を決定すると定めて、執政府の統一性を確保した。

宰相と大臣によって構成される政府は、一方で、大統領による任免に服し、他方で、議会による信任に依存する、という二元的な責任を負った。
政府は、議会に対しては大統領を、大統領に対しては議会を、それぞれ代弁する媒介役であった。
ヴァイマル憲法のもとで、二つの代表者、つまり議会と執政府(大統領と政府)との最終的均衡をもたらすのは、選挙民であった(表15を見よ)。
そのための権能として、選挙民には、

大統領による議会解散後の選挙、そして、
法律の公布に先立って大統領が命令する人民投票、および、
議会の提案する大統領解職のための人民投票、

が保障された。
この中でも、大統領の有する議会解散権こそ、均衡回復の梃子であると解釈され、実際そう運用された。
ヴェイマル憲法54条の定めによれば、宰相および大臣は、

(a) その職務執行について議会の信任を必要とするばかりでなく、
(b) 議会の明示的な決議により信任を失った場合には辞職しなければならない、

とされていた。
議会が執政府の責任追及手段として実際に活用したのは、曖昧な(a)ではなく、明示的な(b)であった。
この手段に対抗して宰相・大臣は副署権限を通して、大統領のもつ解散権に訴えるのである(表16を見よ)。

【表15】 議会と執政府との均衡の図式
 議会           執政府
活動能力獲得        ←  大統領の間接的召集権
     ∟          →       法律案の発案権
法律の制定権         ←           」
     ∟             →       法律の人民投票請求権
執政府不信任決議権                    」
     ∟                    →      大統領による議会解散権
人民投票による大統領解職請求権  ←           」
  ※人民が選挙または人民投票によって均衡を最終的に復元する。

【表16】 執政府内での均衡の図式
 大統領        政府
議会信任に依存しない独任機関      議会の信任に依存する合議制機関
憲法典に列挙された権限の主体             その他の一切の執政府権限の主体
(国家機関相互の調整権限主体)             (執政権の実質的主体)
その権限行使
     ∟                   →        副署権
宰相・大臣の任免権                    」
(君主権限の名残)


■第四節 議院内閣制の標識


[216] (一)議院内閣制の特性を何に求めるかについて見解は対立する


既にふれたように([208]参照)、議院内閣制は、抽象理論のなかだけに存在し、実定憲法典に明示されることはなかった。
実定憲法典上に組み込まれる統治構造は、ときには議会主義的、ときには君主制的と、さまざまの統治体制の複合体であることが圧倒的に多い。
従って、ある実定憲法典上の議会と執政府との関係につき、議会主義が採用されているという理解も、議院内閣制が採用されているという理解も、視座の取り方によっては、同時に成立する。
そればかりでなく、議院内閣制にも、イギリスの実践型とフランスの理論型との二つの流れがあるために、議院内閣制の特質をどこに求めるべきかについて、見解は分かれざるを得ない。

[217] (ニ)議院内閣制には共通の標識がある


議院内閣制は、どのような変種であれ、次の要素を共有するのが通例である。
政府または内閣の構成員が、原則として、同時に議会の構成員であること。
この要素は、モンテスキュー流の厳格な「分立」論においては否定されていた。
にも拘わらず、これが共通の要素とされるのは、議会に出席し発現できる地位を大臣に与えて、議会が大臣の政治的責任を追及し易くするためである。
政府または内閣が、多数党または多数派を構成する連立諸政党の領袖たちによって組織されること。
これは、議会が執政府の政治責任を追及し易くするために考案されたプラクティスである。
政府または内閣が、宰相または内閣総理大臣を頂点とするピラミッド構造をもつよう制度化されていること。
この要素は、①および②と関係しており、議会での指導者が、同時に執政府の頂点に立って、政治的責任の所在の統一性を体現することを意味している。
政府または内閣が、議会の過半数の信任を得ている限りにおいて、その職にとどまること。
政府または内閣が、議会と協同して統治に当たること。
政府または内閣と議会に、それぞれ自由に行使しうる相互的で対等なコントロールの権能と手段が与えられており、しかもそれらが実際に利用されること。

[218] (三)責任本質説と均衡本質説との対立は相互排他的ではないものの、後者が明確である


右の①~⑥の要素は、政治的一致の原則を実現するためにも、二つの流れがあることを示唆している。
その二つの流れは、議院内閣制の本質をめぐる論争である、責任本質説と均衡本質説に対応している。
責任本質説とは、執政府の議会に対する「責任」または「信任」を標識とする立場である。
この立場は、議院内閣制の範型として、右の要素のうち①ないし④を重視するのである。
これに対して、均衡本質説とは、右の⑥にいう議会と執政府が有する武器の対等、すなわち、議会による内閣(または大臣)不信任決議と、執政府による議会解散権という機関間コントロールを重視する立場である。
両説は、実は相互排他的ではない。
責任本質説、均衡本質説ともに、議会と執政府との間の政治的一致原則を所与のものとして(すなわち、右要素のうちの⑤を前提として)、その一致を確保する手段として「責任か、均衡か」を問うのである。
責任本質説は、執政府が恒常的に議会の信任を受けておく点に着目するのに対して、均衡本質説は、議会が執政府不信任の意思をある時点で特定・明示的に表示した際に、執政府が採り得る手段に着目する。

均衡本質説といえども、執政府の議会に対する責任問題を看過しているわけではなく、「責任」という概念の曖昧さを回避したいのである。
というのは、同説によれば、議会の明示的な不信任決議が提出されない以上、執政府は継続して黙示的に信任されているのであって、「責任」は議院内閣制にとって決定的な標識にはならないからである。
「責任」概念が有意となるのは、議会において多数派が偶然に存在するときだけである(既にふれたように、ヴァイマル憲法54条は、「宰相および大臣は・・・・・・議会の信任を要する」とする前段と、「明示の議決により議会の信任を失った宰相および大臣は辞職しなければならない」とする後段から成っていたが、多数を制する政党が存在しなかったために、実際に有意な条項として援用されたのは、後段であった)。

さらに、執政府の責任の取り方にも、連帯責任、宰相の単独責任、閣僚の個別的責任という三つの方式があるうえ、議会による執政府の責任追及の仕方にも、執政府提案の法律案や予算法案の否決から、不信任決議まで多種多様であり、それは政治的に決定されざるを得ないのである。
となると、「合理化された議院内閣制」の標識は、政治過程において偶然的に決定される「責任」に求めるのではなく、議会と執政府との間の政治的一致をもたらすため均衡の制度化(公式の権限)に求めるのが正しい。
均衡とは、両者対等の協力関係を意味し、その関係が維持されなくなったとき、選挙民が最終的審判者として、政治的一致の原則を回復するのである。
そのために、執政府には議会解散権が、議会には執政府不信任決議権が、与えられる。
「議会解散権と不信任投票権は、あたかもピストンとシリンダーのように対をなすものである。両者の力強い相互作用こそ、議会制機構の車輪を回転せしめるものに他ならない」(レーヴェンシュタイン)とか、「解散権を欠いては、議院内閣制は国民公会制に変質し、議会の優位性に至る」(ビュルドー)とか指摘する立場は、均衡こそ議院内閣制の本質であるとみているのである。

[219] (四)執政府の二元的構造は議院内閣制にとって決定的要素ではない


もっとも、均衡を重視する場合であっても、議会と君主(元首)との間の均衡にウエイトを置く18世紀の図式によるか、それとも、議会と内閣(政府)との間のそれにウエイトを置く19世紀の図式によるか、二つの見方が存在する。
前者の図式によれば、
執政府が、元首と、それによって組織される内閣という二元的構造を示していること、
内閣が、元首と議会の双方の信任に依拠していること、
内閣の議会解散権は、元首の有する解散権に訴えて発動されること、
が重視される。

ところが、①の執政府の二元的構造は、君主の名残をとどめる元首が「機構運営の動力」としての地位から次第に名目化されるにつれて、決定的な標識とはならなくなる。
そして、内閣が「機構運営の動力」となるにつれて、元首との関連でいわれた②、③の要素も、議院内閣制の標識としての重要性を失うことになる。
となると、元首の存在が名目化された時点、または、元首が存在しなくなった時点で、議院内閣制の標識は、一次的には、内閣 対 議会の関係の中に求めざるを得なくなるのであsる。

[220] (五)議院内閣制は三極構造のなかで再構成されなければならない


先にふれたように、「責任」または「信任」概念の多義性を考慮した場合、責任本質説は妥当ではない。
特に同説は、「執政府の議会への責任」を強調するあまり、選挙民の最終的選択を軽視しがちとなる点でも、難点を残す(「責任」が政治責任をも含む広範なものであるとすれば、そこには何ら法学的識別標識はなく、責任追及の具体的手段を選挙民がもつことはない)。
国家の二元的構造を克服せんとした抽象理論に起源をもつ議院内閣制は、二元的構造の一つである君主の存在が名目的または無となった時点で、「内閣-(選挙民)-議会」という三極構造のなかで、再構成を迫られることになる。
すなわち、かつての議院内閣制は、「君主 対 議会」という対立を抑制・回避しながら「君主-内閣-議会」という連結関係をもたせることによって統治の安定を確保するための工夫であったのに対して、今日における議員内閣制は、選挙民を介在させることによって内閣と議会との間に連結関係をもたせる工夫である(我が国の論者の中には、[212]でみたケルゼンの理解に影響されて、「選挙民→議会→内閣」という直線的連結を重視して、この連結は民主主義の実現に適する、と説くものもみられる。しかしながら、議会、内閣ともに、法的には二つの分離・独立した機関であることに鑑みれば、「直線的連結」は比喩以上の意味を持たない。また、議院内閣制が「民主的」統治構造の一種であるとする右見解は早計である。「執政府までの民主化」は、国民公会制の狙うところであって、議院内閣制の企図するところではない)。


■第五節 日本国憲法と議院内閣制


[221] (一)明治憲法下では官僚(超然)内閣制が採用されていた


明治憲法のもとでは、天皇の輔弼機関として国務大臣が置かれた(55条1項)。
それは、立憲君主制の常道であった。
輔弼(advice)とは、意見・案を上奏して大権の執行につき過誤なきことを期することをいう。
国務大臣は、国務に関する大権を輔弼するに当たって、文書による詔勅に副署することを要した(同条2項。大臣の輔弼を要する範囲は、天皇の国務上の大権に限定され、統帥大権および栄典大権には及び得ないと解されていた)。
これは、諸外国の立憲君主制のもとで採用された大臣助言制である。
大臣助言制のもとでは、各大臣が君主に対して責任を負うものとされた。
君主の単独支配は、君主の恣意的な意思を法的に統制して初めて正当化される。
なぜなら、君主の裁可が補佐機関の助言に従って為されたことを要件として初めて「王は悪を為し得ず」といえるからである。
この要件が、立憲君主制を支えるための「大臣助言(責任)制」となり、さらには、議会に対して政治責任を負う合議制機関としての「内閣」となっていったのである。

明治憲法典の制定に先立って、内閣制度が勅令たる内閣官制(明治18年)によって実現されていた。
内閣は、内閣総理大臣と国務大臣によって組織され、内閣総理大臣の「統督」のもとに統一体をなす合議機関であった(旧憲法下での内閣の地位については、[396]でふれる)。
内閣の組織を命ずる権限は、天皇の大権に属した。
内閣官制制定の趣旨は、内閣はもっぱら君主の信任に依存すべきであるとする、超然内閣制を採用することにあると理解されていた(枢密院議長としての伊藤博文演説)。
そのため、明治憲法典が議院内閣制を採用していると解される余地はなかった。
それどころか、当時のいわゆる立憲主義的立場に立つ憲法学者であってさえ、議院内閣制を「事実上の慣習たるにとどまり、憲法上の制度として定められるものにあらず」と理解していた。
ただ、明治31年、憲政党が組織され、大隈重信を総理大臣とする憲政党内閣が成立して以降、当初の超然内閣制は廃棄され、衆議院の信任にかからしめる議院内閣制の「慣習」が成立したと説かれるに至った(美濃部達吉『憲法撮要』299~301頁)。

[222] (ニ)現行憲法典は議院内閣制を採用していないとする学説もある


我が国の憲法典は、議院内閣制を採用しているか否か、採用しているとすれば如何なるタイプのそれであるか。
A説は、
二元的執政府となっていないこと、
解散権のモーターたる君主または元首に相当する者が存在しないこと(天皇は、これらのいずれでもない。この点については、第二部第三章第一節の [253] [254] でふれる)、
「衆議院議員選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職しなければならない。」(70条)とされているように、議会に対する内閣の従属度が高いこと、
を理由に、日本国憲法上の統治構造は典型的な議院内閣制ではない、という。
もっとも、内閣が衆院解散権を有している以上、国民公会制でもない。
そこでこのA説は、「国民公会制を顕著に浸透させた議院内閣制」であると、結論するのである(小嶋・460頁)。

ところが、先にふれたように、二元的執政府や解散権を有する君主の存在は、議院内閣制が選挙民というモーターによって回転させられるようになった時点で、その意義を失ったのである。
また、この説の③にいう内閣の議会への従属性も、必ずしも議会の優位を意味するものではなく、新たな民意に依拠する内閣の選出を狙ったものである(また、解散権発動が7条に基づく場合には、内閣総辞職という効果を伴うというバランスも考慮されている)。

[223] (三)通説は現行憲法典が議院内閣制を採用していると解するものの、その理由を異にする


通説たるB説は、我が憲法典が議院内閣制を採用したものであるとする。
もっとも通説の論拠も一様ではない。

まずB1説(責任本質説)は、議院内閣制を「内閣の存立が議会の意思に従う統治構造」または「執政府が立法府、主として下院に対して政治的責任を負う統治体制」と定義しながら、我が憲法典は「責任」を標識とする議院内閣制を採用していると解する。
その論拠としては、
内閣は行政権の行使につき国会に対して連帯して責任を負うこと(66条3項)、
内閣総理大臣は国会議員の中から、衆議院の優越のもとに指名されること(67条1項)、
国務大臣の過半数が国会議員でなければならないこと(68条1項但書)、
内閣総理大臣その他の国務大臣は、議院に出席うる権利または義務をもつこと(63条)、
内閣は、衆議院において不信任の決議案を可決されまたは信任決議案が否決されたときは、衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならないこと(69条)、
等を挙げる。
すなわち、このB1説は、右の①ないし④が内閣の責任を明定するためのものであり、議院による責任追及の最終的手段が⑤の不信任決議の可決または信任決議の否認である、と理解するのである。

[224] (四)「責任」は議院内閣制の合理化・制度化の表示にすぎない


ところが、内閣の構成員が同時に議会の構成員であることを原則とするという、両者間の人的結合を強調すればするほど、内閣は国会に従属する「委員会」に等しいものとなってしまい、両者が法的には別個の機関である点は軽視されがちとなる。
両者は法的にはあくまで対等の独立した機関であって、だからこそ、それぞれに内部規律権と他機関に対する抑制の権能が保障されているのである。
この点こそ、「権力分立」内での議院内閣制の理解の鍵である。

さらに、先にふれた「責任」の意義・発動態様の曖昧さを考慮すれば、右のB1説は妥当ではないとの帰結をみざるを得ない。
議院内閣制の本質は、議会と執政府との均衡に求めるのが正しい。

日本国憲法が、あたかも「責任」を中心としているかのようなスタイルを採ったのは、議院内閣制を合理化・制度化するに当たって、国会と内閣との間の政治的一致を、政治過程(政治的慣行)に委ねないで、法的過程のなかで正式に確保せんとしたためである。
しかしながら、それでも「責任」は法的に捉えきれるものではない([218]参照)。

[225] (五)相互に独立した機関間の均衡を図るための権限が重要な標識となる


均衡本質説たるB2説に立った場合、議院内閣制にとっての本質的要素である解散権が、憲法典上どこに根拠をもち、如何なる要件のもとで発動されるか検討されなければならない。
この点は、いわゆる69条説、非69条説、という形で長く論争されてきた。

69条が不信任決議または信任決議の否認の効果(衆議院の解散か、内閣の総辞職か)を専ら定めたものであると解すれば、実体的解散権の所在は、69条以外に求められることになる(非69条説)。
これに対して、69条は、内閣総辞職を求める衆議院の意思が、同時に、解散原因ともなることを定めていると理解すれば、実体的解散権の所在を直截に69条に求めてよい(69条説。ヴァイマル憲法典にみられたように、大臣の不信任決議が辞職という効果を持ち得ると定める条文と、大統領の議会解散権を定める条文とが別々であれば、大臣の副署権限を介して大統領の実体的解散権に訴えるという迂回した理論構成をとらざるを得ない。内閣の天皇に対する「助言と承認」のなかに、内閣の解散権限を読み込む7条説は、これと同様の手順をとるが、我が憲法典は、内閣不信任決議と衆議院の解散権とを、69条の一条においてワンセットとしたものと解され、7条を迂回する必要はない。69条説が正しい。解散権と7条との関係については、第二部第三章第四節の [262] でふれる)。

69条は、
衆議院による不信任決議の可決等が内閣と国会との協同関係の喪失を明示的に表示するものであること、
それに直面した内閣は、総辞職か、それとも選挙民による再統合に訴えるための解散権を発動するか、という二者択一を迫られること
を定めたものである。

[226] (六)日本国憲法は、ニ機関を厳格には均衡させていない


何度も指摘したように、議院内閣制は、憲法典中に明記されることはなく、歴史的にはまず、議会と執政府との間に政治的一致原則をもたらす慣行として発生し(多くの国では憲法習律にすらならなかった)、その後に、一致原則をもたらすための制度化が図られたことによって顕在化した。
その制度化のための工夫のうち最も重要なのが、右にみてきたような解散権の所在と行使の要件であった。
議会による執政府不信任決議と、執政府による民選議院の解散とがセットとなっていることを以って、「均衡」と呼ぶのであって、その他の権限において両者が厳格に対等の関係にないとしても、議院内閣制であると判断して差し支えない。

日本国憲法の場合、41条が「国権の最高機関」であると述べていることに法的意味があるとしたとしても、議院内閣制と矛盾しない。
また、70条によって、内閣は、特別会召集時に、たとえ総選挙において選挙民の支持を得たことが明らかであっても、総辞職しなければならないとされていることは、国会の優位を示唆しはするものの、議院内閣制と矛盾しない。


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※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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第十ニ章 政党論

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第十ニ章 政党論 p.197以下

<目次>

■第一節 政党の発生


[227] (一)政党は自然発生的に成長して議院内閣制の成立条件となった


議院内閣制の成立する条件は、政党、なかでも二大政党制の確立にあった。
二大政党のなかの多数派の首領が内閣を組織することから、議会と内閣との間の政治的一致の原則が成立し得るのである。
「議院内閣制は政党政治の行われる装置」として国制上の慣行として生成発展してきたのである。

政党は、リーダーシップある指導者によって統率される組織体である(政党の意義は、次節の [230] でふれる)。
政党は指導者に従い、指導者は党員の中から同質的な内閣を組織することが出来る。
内閣全体の一体性・連帯性はここから生ずる。

政党の発生は、議会観の変容とも並行する。
古典的な議会観によれば、議会とは国民の一般意思を表す組織体であった。
その見方は、代表もその選出母体も「教養と財産」をもつ同質の人々であった時代においては成立し得た。
ところが、普通選挙制の実施後の現実の国民は、凝集した一体ではなく、政治的には勿論、経済的、宗教的、文化的な利害対立によって分裂した諸集団の束という他ない。
この時点から、議会は、統一的な国民意思の表示の場ではなく、社会における利害対立を公式のルールに従いながら調整する場であると観念されてくる。

議会が、現実的利害対立の調整の場であるとすれば、その利害を明確に表示し、集約化する媒体が登場すること必然となる。
この利害の表出・集約機能を果たす最も重要な存在が、政党である。
政党の存在とその機能は、理論によって設計されたのではなく、現実の世界で発生した一連の出来事によって決定されてきたのである(G. サルトーリ)。

[228] (ニ)政党は普通選挙制の実現に伴って成立した


政党が歴史上どの時点で成立をみたかにつき定見はない。
イギリスにみられたウィッグとトーリは、同質の支配的階層における二つの名望家集団であった。
その後、それらは保守党、自由党となるものの、それらも同質性を示す集団であった。

政党が発生する要因は、先にふれたように、国民の中での社会経済的対立、宗教的対立、人種的対立等の利害対立である。
その利害対立は、普通選挙制の実施によって噴出した。
国民の内部での利害対立を政治過程に表出するための基本的条件が整った後に、政党は登場した。
その基本的条件とは、言論・集会・出版の自由が保障されて権力回路が開かれていることであり、代表制や議会政治のルールが確立することであった。

政党が、地区委員会の設置によって、その最初の固定的な組織形態を整えて、多元的な社会的利害対立を吸収し始めたのは、18世紀末頃になってのことであった。
それまでの政党は、フランスのようにルソーの影響を受けた国では「一般意思を偽造せんとする異物」であると拒絶されがちであったのは当然としても、アメリカにおいてさえ「有害な徒党」(J. マディスン)とみられた。

[229] (三)政党は当初敵視されたが次第に法認されてくる


政党の存在が憲法典を頂点とする実定法によって認知されるまでには、有名なH. トリーペル(1868~1946)の政党の四段階説(反対→無視→法制化→憲法編入)にみられるように、紆余曲折がみられる。

政党の存在がまず国法によって忌避された理由は、自由で平等なる議員からなる古典的議会観と相容れなかったことによる。
政党の登場した当時の国家が、中間団体に対して一般的に強い警戒感を抱いていたことはいうまでもない。
だからこそ、19世紀までの憲法典上の規定は、命令的委任の禁止、免責特権条項を組み入れ、議院規則は、議席の抽選による配分等、政党組織発生を阻止する様々な方策を施したのである。
当時までの国家理論によれば、統治権なるものは憲法典上の機関に排他的に委ねられるべきものであった(「反対の時代」)。

その後、19世紀の諸憲法典は、結社の自由が政治的結合の権利を含むとの理解のもとで、政党の誕生を手助けはしたものの、憲法上の扱いはそこで停止したままであった(「無視の時代」。イェリネックも「政党そのものは、それでも、国家秩序の中に何らの地位を有していない」と述べた)。

さらにその後、生育の基本条件も整った段階で、政党は、正式に法令によってその存在につき承認を受けつつも、規制の対象となっていく(「法制化の時代」)。
この段階への端緒は19世紀終盤のアメリカにみられた予備選挙手続における政党の法的規制・承認にあるが、最大の転機は、ヴァイマル憲法(1919年)22条の採用した比例代表制に求められる。
同条を受けた選挙法は、各政党が候補者名簿を作成し、選挙人は自己の支持する政党の候補者名簿に票を投ずることを法認したのである。

ところが、こうした法律上の承認にも拘わらず、ヴァイマル憲法自身は、命令的委任の禁止(21条)、議員の免責特権(36条)規定を有しており、政党に対して防御的態度を維持した(また、130条において、官吏は全体の奉仕者であって一政党の奉仕者であってはならない、とされているのも、政党に対する警戒心の表れであった)。
従って、この時期にあっても、「政党は憲法外の現象」との評価が一般的であった。
依然として、憲法典自身、議会は自由・平等な独立して表決する議員によって構成されるものだ、という理念にお依拠していたのである。

19世紀から20世紀にかけて、政党政治と民主主義とが矛盾なく結合していたのは、イギリスとアメリカだけであった。
それ以外の西欧世界の諸憲法典が、政党をタブー視することなく正式に政党の存在に言及するようになるのは、第二次大戦の終了とその後の先進自由主義国の政治的安定を待たねばならなかった。


■第ニ節 政党の意義と機能


[230] (一)政党は政治権力を獲得するための任意結社である


政党の定義は未だ確立されていない。
通常、政党の特質は、圧力団体や市民運動との対比のなかで求められる。
その特質が、これらの団体とは違って、政治権力を獲得しようとする点にあるとみれば、政党とは政治権力を獲得しようとする人的組織体である、と定義づけることも出来る。
ところが、この定義も、「政治権力」の意義自体、論争を呼ぶところだけに、掴みどころのないものとなってしまう。

右の定義を基礎としながら、政党が国政の選挙過程を通して「政治権力」を獲得せんとしている点に着目すれば、「政党とは、立法府議員選挙に候補者を送り出す全ての組織」をいうと定義されることになる。
「政党とは、・・・・・・選挙を通じて候補者を公職に就けさせることが出来る全ての政治集団である」とする有名なG. サルトーリの定義もその一例である(サルトーリ『現代政党学Ⅰ』111頁)。
もっとも、この定義は、政党活動を選挙過程とだけ関連づけているために、第一に、議席獲得を目的としない政治団体を政党から排除してしまうばかりでなく、第二に、政党間の相互作用を看過しがちとなる点で、視野が狭すぎる。

政党が、歴史的には、任意の結社(一定目的をもった、永続的で同質の人的結合体)として承認され、成長してきたことに鑑みれば、結社としての属性は勿論、その目的や組織原理の固有性に着目した定義を模索しなければならない。
政党は、公式には選挙戦での勝利に焦点を当て、政権獲得を最終目的とするために(統治過程を統制する結合体)、その基本方針や公約は、多数者の支持を受けるだけの公共的・包括的なものとならざるを得ない(公共的包括的結合体)。
また、選挙人の有する具体的・日常的利害を集約するための指針となる党綱領を整備し、恒常的な地方組織と、地方組織を指導する統一的全国組織というピラミッド型の階層を形成するのが通例である(合理的組織原理に基づく結合体)。

右のような政党の特性に鑑みた場合、政党を以って、「政治権力への参加、獲得を目的とし、この目的を達成するために永続的組織を利用する、共通のイデオロギー的見解を有する人々の結合体」をいうとするレーヴェンシュタインの定義が、現時点では、最も説得力を持とう(『現代政治論』94頁。シュンペーターの定義もほぼ同旨)。

右にいわれる「政治権力への参加、獲得」とは、選挙過程と政党間の相互作用のなかで、最終的には、立法審議の指導権を掌握するばかりでなく、執政府を形成することを指すものと解される(執政府を形成することに成功すれば、法案作成段階の指導権まで掌握できる)。

[231] (二)政党の機能は利益掌握から政権獲得まで多種多様である


現代政治における政党の機能は、次のように要約できる(岡沢憲芙『政党』参照)。

様々な個人や集団の表出する利害・要求を、処理可能な数セットの選択肢にまとめる利益集約機能、
政治に関する情報を選挙民に提供し、公論の形成を助ける情宣機能、
政治的リーダー(議員、首相等)を選抜して、統治機構上の地位に就任させる選出機能、
内閣や大統領府を組織したり、議会や委員会での審議のイニシアティヴを握る等するための、政治的意思決定マシーン機構化機能。

今日、政党の存在について「民主制は、日々のパンと同じように、政党を必要とする」とか「政党は現代政治の動脈である」とか評されるのは、こうした機能に鑑みてのことである。
なかでも、政党が議会を通じて執政府を形成し、運営するに至った段階の政治を、「政党政治」という。
また、政党政治において、政党相互作用が展開される枠組みを「政党システム」と呼ぶ。
政党システムは、行動単位数に焦点を当てて、一党制、二党制、多党制に従来は分類されてきた。
今日では、この分類は単純すぎるとの反省のもとで、一党制、一党優位政党制、二大政党制、穏健な多党制、分局的多党制等を挙げるのが通例である。

[232] (三)政党政治の時代になると政党は憲法編入の時代を迎える


政党は、一定の共通目的を基礎とし、自主規範(指導→服従等の内部統制のルール)を持つ永続的な任意の人的組織体であるという意味で、通常の私的結社としての属性をもっている。
先に示した政党の利益集約機能や情宣機能は、私的結社としての活動に着目した場合の機能である。

ところが、政党はそればかりでなく、政党政治の時代に突入した段階で、あたかも国家機関の創設機関の如くとなる。
先に指摘した政党の選出機能(政権担当者としての政党)および政治的意思決定のマシーン機構化機能(政局運営者としての政党)は、国家機関創設機関さながらの機能である。

政党は、このようにヤヌス的属性をもつ。
「政党は、一方の端を社会に、他方の端を国家に架けている橋である。別の表現を用いると、社会における思考や討論の流れを政治機構の水車にまで導入し、それを回転させる導管、水門である」(E. バーカー)。
今日の政党は、社会と国家とを架橋すべく、支持団体の利益を集約し、議会という統合機構のなかで、他の支持集団を基礎とする政党と競争しながら、国家機構に手を延ばすのである。
このことからすれば、政党をフォーマルに公的機関と位置づけることも、不合理な思考ではない。

第二次世界大戦後の諸外国の憲法典のうちの幾つかは、一国の政治が政党の動向によっても決定されるとの認識に立って、政党のあり方につき言及してくる。
例えば、ドイツ連邦共和国基本法は、結社条項(9条)とは別に、政党条項をもち、その21条に曰く、
「政党は、国民の政治的意思の形成に協力する。その設立は自由とする。政党の内部秩序は、民主的諸規則に合致しなければならない。政党は、その資金の出所および使途並びにその資産について、公開の説明をしなければならない。その目的または党員の行動Nに徴して、自由で民主的な基本秩序を妨害しもしくは廃止し、またはドイツ連邦共和国の存立を危うくするような政党は違憲とする。違憲の問題については、連邦憲法裁判所が決定する。」
この規定は、私的結社とは異なる憲法上の地位を政党に与えている点で、トリーペルのいう「政党の憲法編入」という第四段階を示唆するかのようである。
特に、「内部秩序」、すなわち、党の意思形成、候補者の選定、綱領・党則の決定、役員の選出等につき、民主的諸原則に合致するよう求めている一項は、他の国にみられる政党の役割についての宣言的な規定スタイルとは性質を異にしている。

それでもなおドイツ基本法は、自由で独立の議員の地位を保持するための命令的委任禁止条項(38条1項)をもつ。
政党条項と、命令的委任禁止規定とを、どう調和すればよいかにつき、ドイツの学者の間でも見解は一様ではない。
ある見解によれば、政党条項の目的は命令的委任の禁止の思想に終止符を打つことにあるといわれ、反対の見解によれば、政党条項にそこまでの意義は与えられない、とされる。
こうした見解の対立は、ドイツ基本法が政党の憲法編入への過渡期にあることの表れであろう。

[233] (四)政党国家は病理的現象をももたらす


政党は、国民と議会を、さらに、議会と執政府とを結ぶ不可欠のリンクであり、代議政治の生命線である。
ケルゼンが「デモクラシーは、必然不可避的に政党国家である」といい、レーヴェンシュタインが「政党は直接民主制の代替となり、政党の意思こそ一般意思となる。従って、国民主権とは政党主権である」とやや誇張気味に述べたのは、健全な政党の姿に期待してのことであった。
ところが、政党は、選挙の際、整然とした行動要領を提示しないばかりか、その政策表明(公約)は、選挙民の投票行動を決定する力に欠け、また、選挙に勝った政党の行動指針ともならないのが現状である。
政党は、世論の最大公約数のターゲットを当てるために、政治的争点を相対化し、曖昧にしがちである。
政治学者たちが、政党の腐蝕衰退現象について語り始めたのは、こうした現象を正面から見据えたためである。

特に政党と国民との関係をみれば、政党は、最も有効に票を獲得しようとして利益誘導的政治活動へ流れ、組織票をもつ特定の集団利益の代弁者と成り下がっている(本書が「半代表」の理論に警戒的であるのは、こうした現実政治に配慮しているためである)。
さらに政党と官僚組織との関係をみれば、政党は、議会内での発案・政策作成過程において、専門知識を有する官僚組織の協力を得なければならないために、「全体の奉仕者」であるはずの公務員を「政党の利益の奉仕者」へと変質させてくる。
こうした政党の腐蝕衰退現象は、政党に代わる代議政治の生命線がないだけに、憲法政治にとって重大問題である。
後述するように、政党の組織のあり方、内部での意思決定過程、政党財政等につき、憲法典上さまざまな要請がると解されるのも([236]参照)、政党の憲法政治への影響をもはや無視出来ないからこそである。


■第三節 政党の憲法上の性質


[234] (一)ヤヌスの顔をもつ政党の性質を簡単に解明することは出来ない


基本的には、政党は社会に根源をもつ私的な任意結社であるものの、今日では、国家機関の創設機関さながらである。
こうしたヤヌスの顔をもつといわれる政党が、憲法上いかなる性質をもつ団体であるか、という理解の仕方も、政党の果たす公私に亘る多様な機能に応じて多様とならざるを得ない。
政党条項をもっているドイツ基本法のもとで、政党の憲法典上の性質(【N. B. 16】参照)につき、学説は、①国家機関説、②社会団体説、③媒介説(折衷説)、と、鋭く対立している。

【N. B. 16】ドイツにおける政党の性質をめぐる論争について。
ドイツ基本法上、政党がいかなる性質をもつかという論争は、違憲政党の禁止条項の理解の仕方と関連している。
まず国家機関説は、 政党の政権担当機能を重視して、政党を一つの国家機関、すなわち、国法上の創設機関であると解する。
この立場によれば、憲法典上の公的機関としての政党は、その根拠たる憲法秩序に適合することが要請される。
現行のドイツ基本法が、自由と民主主義の名のもとで自由民主主義を否定する政党は存在してはならないとする「戦う民主主義」を標榜して違憲政党の禁止を定めているには、政党の公的機関としての性質に鑑みてのことである、と同説は理解する。
社会団体説は、 政党がその根を社会に置いていること、また、利益集約機能や情宣機能を果たすことを重視して、一つの任意の非営利団体であると理解する。
この説は、政党に保障されるべき設立の自由、活動の自由、内部統制の自由、解散の自由等を解明することに成功する。
媒介説または折衷説は、 政党の地位が「公/私」いずれかであるという硬直した態度を避け、画一的に法処理できぬ独自の法領域の法理に従うものと理解しようとする。
この説は、
(ⅰ)政治的権力は、憲法典上の機関のみによって行使されるわけではないこと、
(ⅱ)党員資格や内部事項の運営につき、政党は相変わらず立法(法律)によって侵害されてはならないと解されてきてはいるものの、司法的に統制されるのであって(ドイツの場合には政党の解散措置は司法手続によってとられる。連邦憲法裁判所のその権限については、連邦憲法裁判所法の13条に、手続に関しては、同法の43条以下に定められている)、絶対無制約・自由放任ではなくなってきていること、
(ⅲ)選挙法制によって政党が規律されたことは、その規律がいかに技術的であっても、選挙過程が統治過程の一要素である以上、政党を純粋に私的任意結社として位置づけることはもはや不可能であること
等をその前提としている。
その上で、この説は、政党が国家と社会との間にあり、その本質は国家と社会とを媒介する点にある、とする。
ドイツ基本法の標榜する「違憲政党の禁止」は、政党の媒介的機能に鑑みて、政党が法治国家の一部となることを求めているもの、と解されることになる。

[235] (ニ)政党の現実政治における機能と、その憲法典上の地位とを混同してはならない


政党の憲法上の性質に関する論争は、解決困難といわざるを得ない。
見解の分かれ目は、政党の現実に果たしている憲政上の機能(制度化されざる動態)を重視するか、それとも、憲法典という公式のルールに組み込まれた地位(制度化された静態)を重視するか、にある。
政党が全面的に憲法編入されていない現段階で、その憲法上の性質を語ろうとする以上、今日の現実政治における政党の「機能」からまずは接近する以外ない。
とすれば、政党を私的な社旗亜団体の一つとみることは、政党の現実の機能をあまりに軽視することとなる。
なかでも、議院内閣制が憲法構造上採用されている場合、政党の政権担当機能は軽視されてはならない。
もし政権担当機能を軽視すれば、政党とそれ以外の政治結社との識別は困難となろう。

かといって、政党を国家機関の一つとして捉えることも出来ない。
国家機関とは、公式のルールによって一定権限が与えられている人または集団をいうのであって、機能面からみて「実質的には、これこれの権限を行使しており、従って、国家機関たる地位にあるといってよい」と帰結することは安易過ぎる。

政党は社会にその基盤を持っているだけに、社会構成員からの支持不支持によって常に消長を繰り返す存在であるから、正式機関と違って、その存在につき公式に憲法典で言及しようとしても、完全に捉え切れるとは限らない。
「今日の政党活動の難点と弊害を - 選挙および投票技術の機能のほかに - 政党を法的な組織として認めそれを公の機関とすることによって除去しようとしても何ら得る所はないであろう。・・・・・・なざなら政党の本質はあらゆる官僚的組織とは次元を異にして存在し続けるものであるからである」(シュミット『憲法論』286頁)。

[236] (三)政党はその公的機能に応じた法的規制に服すべきである


政党の特性は、政党の現実政治に果たす機能に鑑み、国家機関でもなく、社会団体でもない独自性にあるといわざるを得ない。
「政党政治」の主役たる政党を、法人格なき私的結社として位置づける時代は去った。
政党は、国民全体に対する「反応良き政治」(responsible politics)を目指しつつ、自由で民主的な党内運営や、収入・支出の公開を法律上規律された特殊な法人と位置づけられなければならない。

立憲主義下の統治が、開かれた権力回路のなかでの多数者意思によるそれでなければなrない以上、権力奪取を目指す政党の内部的運営は、オープン、フェア、そして合理的でなければならない。
そうでない政党は、自らの存在理由を自ら否定することに等しい。
政党が自由民主主義的憲法構造のもとで生まれ、成長してきたものである以上、
(a) 複数の政党が存在するなかで、自由に競争すること、
(b) その党内での自由と民主主義が確保されること、
(c) その収入・支出につき公開とすること
等に関して法律(例えば、政党法)による統制に服すことは、現代立憲主義憲法典の当然に許容していることと解される。

政党の果たす公的機能に相応しい地位を与えて、これを保護する一方で、政党がその地位内にとどまるよう規制する最善の方策を考案すること、これが現代立憲主義の根本問題である。


■第四節 日本国憲法と政党


[237] (一)政党の根拠規定を求めるとすれば21条である


我が国の憲法典は、政党条項を持たず、政党の憲法編入の時代まで相当の距離を残している。
そのことは、我が国の憲法典が命令的委任の禁止(43条1項)、議員の免責特権の保障(51条)、そして公務員の政治的中立性(党派的中立性)に関する規定(15条)、等をもって、政党に対して防御的姿勢をみせていることに表れている。

政党に関する直接の根拠規定を求めるとすれば、憲法21条の結社の自由である。
だからこそ、政党は、設立の自由、内部組織・運営・活動の自由、解散の自由を有する。
憲法21条が政党の根拠規定であると考える以上、我が憲法典の政党に対する姿勢は、ドイツ流に違憲政党を禁止する「戦う民主主義」とは、根本的に異なって、私的結社性を強く保障しており、たとえ「自由」や「民主主義」を否定することを綱領として掲げる政党であっても、その設立の自由を享有するものと解するほかない。

もっとも、結社の自由の享有の程度は、政党の独自性に応じて、他の私的結社のそれとは異ならざるを得ない。
政党の独自性は、現代憲法の採用している議院内閣制下での政権獲得・維持または抑制機能に表れる(議院内閣制とは、執政府と立法府との間に政治的一致原則を満たすための統治類型であり、その政治的一致に当たっての原動力になるのが、議会において多数者を組織している政党であること、実際、議院内閣制の成立は、政党制、特に二大政党制の確立と歴史上符合していること等については、[227]でふれた)。
周知のように、八幡製鉄政治献金事件における最高裁判決(最大判昭45.6.24、民集24巻6号625頁)は、政党が議会制民主主義を支える不可欠の存在であると捉え、憲法は「政党の存在を当然に予定している」と述べた。
この理解に関しては、議会制民主主義というやや漠然とした概念に依拠しながら(おそらく、「政党が国民の政治的意思形成に協力すること」を「議会制民主主義を支える存在」と評したのであろう)、政党の存在を説いているところに疑問が残らざるを得ない。
政党の根拠規定はあくまで21条であって、政党の自由を制約する理由として議院内閣制のもとでの公的機能を挙げるべきであったろう。
我が国の通説は、「政党法」に訓示的規定を組み入れることは出来るが、強制力を以って統制できない、という(佐藤・131頁)。

[238] (ニ)政党は各種法令によって間接的に承認を受けている


日本国憲法には政党条項がみられないとはいえ、政党の現実政治に果たしている機能からして、政党を無視するわけにはいかず、現行法は政党につき、様々な形で言及している。
トリーペルの四段階でいえば、我が国は「法制化」の段階にある。

もっとも、日本国憲法上、政党だけを単位とする選挙制を採用することや、政治活動を政党のみ保障することは表現の自由や法の下の平等に反するために、現行法は「政党」という用語を避けて「政治団体」とか「会派」という用語によっている。
例えば、国会法46条は、技術的・議事法的観点から、「常任委員及び特別委員は、各会派の所属議員数の比率により、これを各会派に割り当て選任する」と定めている(なお、議員の議席は明治憲法下の帝国議会においては、当初都道府県別に定められていたが、第21議会以降、衆議院に関しては議長が党派別に決定するという慣行が成立した。現行の衆議院規則14条、参議院規則14条によれば、毎会期の始めの議長が議席を定めることになっているが、慣行に従って、党派別に指定されている)。

政党の存在を間接的に法認している例が、選挙法関連法である(選挙組織体としての政党の法認)。
例えば、公選法86条は、候補者となるべき者は氏名、本籍、住所等と並んで「所属する政党その他の政治団体の名称」を届け出なければならない、と定めている。

なかでも、昭和57年に導入された参議院議員比例代表選出制および、平成6年に導入された衆議院の比例代表制は、我が国の政党政治の進展に応ずるものであり、あるいは「憲法編入の時代」を告げるものと評し得るかも知れない(もっとも、比例代表選出制は、第二院のうちの252名中100人についてであること、「憲法編入」といっても、憲法典上の政党条項による編入ではなく、公選法が実質的意味での憲法に該当するとの理解に立った上であること等の留保が必要であろう)。
公選法に拠れば、候補者名簿は一定条件を満たす「政党その他の政治団体」が届け出るものとされ(86条の2)、投票は「政党その他の政治団体」に対して行われ(46条2項)、当選人の数も「政党その他の政治団体」の得票数を基礎にして決定される(95条の2)。

[239] (三)政党を規制する現行法は政治資金規正法である


政党の組織運営については、党内民主主義の確立が憲法典上政党に義務づけられていると解されるとはいえ、アメリカ諸州にみられるような予備選挙の法的規制や、ドイツにみられるような政党法による規制は、我が国では為されていない。
党の組織運営については、基本的に結社の内部統制の自由に委ねられている。
なぜなら、政党が結社の自由を享有する以上、政党は、その目的達成に必要な限りで、内部的統制権を保障されているからである。
内部統制権の限界は、司法府の判断に委ねられる。
その司法審査に当たって裁判所は、党内民主主義の遵守という手続的側面につき重点を置くことになる(政党内部の紛争に対する司法審査のあり方については、『憲法理論Ⅱ』の結社の自由の箇所でふれる)。

現在のところ、政党を規制する法令として挙げられるものは、政治資金規正法のみである。
同法は、「議会制民主政治のもとにおける政党その他の政治団体の機能の重要性」に鑑み、政治団体の政治活動を国民の不断の監視と批判のもとに置くべく、政治団体の届出、政治資金の収支の公開および授受の規正その他の措置を講ずることを目的としている。
具体的には、
政治団体の名称、主たる事務所の所在地、主としてその活動を行う地域等を、都道府県選挙管理委員会または自治大臣へ届け出ること(6条)、
政治団体の会計責任者は、会計帳簿を備え、全ての収支につき記帳しなければならないこと(9条)、
政治団体の会計責任者は、年間収支に関する報告書を毎年選挙管理委員会または自治大臣に提出すること(12条)、
選挙管理委員会または自治大臣は、同報告書の要旨を公表すること(20条)、
政治活動に対する寄付につき、量的制限(22条)および質的制限(22条の3)のあること、
等を定めている。

国家意思の形成に政党が現実問題として重大な影響を与えているとはいえ、現行法は、政党を国家機関として扱っているわけではない。
政党は正式の国家機関である国会と内閣に対して、その意思を投射するものの、憲法典を頂点とする現行法制は、国家意思の決定は国家機関によって為されるべし、という古典的スタンスに出ているのである。

[240] (四)政党は代表制のあり方をも変えるか


アメリカの政党は、(a)地方に権力が分散化されていること、(b)そのために党中央の規律は弱いこと、(c)活動が間歇的であること、といった特徴をみせている。
議員の交差投票が許されていることは、このことを物語る。
これに対して、我が国の政党は、(ア)党本部に権力が集中していること(党員の中でも院内グループが権力を有していること)、(イ)党の規律が強力であること、(ウ)中央執行部が不断の活動を示していること、にその特徴がみられる。
我が国の場合、イデオロギー上の対立をみせてきた複数政党制のもとで、勢力拡大を目指し、組織内部の構造矛盾を顕在化させないためにも、党規律は自ずと強化されざるを得ないのである。
我が国においては、交差投票が稀有であるのは、特に院内グループが党規律または中央執行部の指令に恒常的に強く拘束されているためである。

こうした傾向は、我が国独自であるわけではなく、諸外国においても、「議員は政党によって拘束された、政党のための受託者」となっているといわれている。
その現象を、政党Aによって組織された選挙人からみると、強力な党規律を通して、間接的に議員aを有効に統制していることになる。

特に、拘束名簿式比例代表選挙制が採用され、選挙民は政党(または会派)に投票する以上、ケルゼンのいうように、「議員がその地位を得た基礎である政党から脱退、もしくは除名されると直ちにその議席を失うこと・・・・・・は、厳格名簿方式のもとで選挙が行われるところでは、しごく当然のことである」(『デモクラシー論』65頁)といえないであろうか。

拘束名簿式のもとで政党の意思に拘束される代表は、自由委任の理念から離れる代表となる。
我が国の通説が、日本国憲法43条の規定を半代表であると理解する理由は、この点とも関連している。
しかしながら、代表は、彼(彼女)が享受する自由を通して政党に属することを選択しているのであるから、所属政党に「拘束」されているわけではない。

日本国憲法の場合、43、51条からして、我が国の代表が純代表であると解すほかないことについては、既にふれた([166]をみよ)。
選挙民が、党の規律を通して間接的に代表を有効に統制できるとしても、それはあくまで政治的な意義をもつにとどまり、憲法典上の代表の法的地位に変更を迫るものではない。
従って、ある政党から立候補して当選した人物が、党籍をリ離脱した場合、または党より除名されたとしても、議員資格を喪失するわけではない(但し、拘束名簿式の比例代表選出制のもとで、政党等の名簿登載者で当選した者が政党を脱退するか政党を除名された場合には、先のケルゼンの指摘の如く、疑問が残らないわけではない。この点、公選法は、「政党本位の選挙」を当選人の決定までの段階にとどめているようである。同法98条2項は、当選人の繰上補充の決定に当たって、名簿登載者で除名、離党その他の事由で政党所属員でなくなった旨の届出があった場合には、これを当選人と定めることが出来ない、としている)。

我が憲法典が、政党条項を持たず、議員に対して「全国民の代表」としての地位と免責特権を与えているのは、その当否は別として、政党国家現象を予想し切れないまま古典的議会観に拠っていることの証左である。

[241] (五)政党に対する公的助成は、政党の機能を変化させるか


国家は政党の財政について、伝統的に、「規制もしなければ援助もしない」とする態度を貫いてきた。
ところが、政党の「公的機能」の増進、腐敗防止、政党間競争の機会均等の保証等を理由として、政党に対して補助金を支給する国家が増加してきている。
我が国でも、平成6年「政党助成法」が制定され、政党交付金が支給されることとなった。
これは、決して政党が受給権を有するという法的構成ではなく、一定条件のもとでの補助は憲法上許されている、という前提の立ってのことである。

検討されるべきは、右にいう「一定条件」が如何なるものであれば、憲法上許容されるか、である。
政党への金銭的援助(政党援助型)は、政党の設立や運営を禁止・強制するもの(禁止型)とは異なって、主には、政党の自由(結社の自由)侵害とは言い難く、平等原則違反か否かが問われることとなろう。
その際、党内民主主義の確立されていない政党には補助しない、とか、民主主義の破壊を綱領とする政党には補助しない、とすることは、政党の設立自由に条件を課していない我が憲法典においては、合理的な区別ではなく、平等原則違反となろう。
これに対して、国会において5人以上の議員を有すること、または、直近の国政選挙において2%以上の得票率を獲得したことを条件とすることは(政党助成2条)、他の政治団体や政権獲得を目的としない政党に対して過剰な負担を負わせる、不合理な処遇といわざるを得ない(ドイツでは、議会に議席を持たなくても、0.5%以上の得票を獲得した政党が助成の対象とされている)。

国家による政党の財政的な援助は、政党を国家依存的な存在に変えないか、危惧される。
政党が自由な結社として誕生し成長してきたことを考えれば、その財源は、もともと、党費や寄付に求めなければならない。
さらには、国家助成は、既存の政党間の競争だけを促進して、新たな政党の誕生を妨げるマイナス効果を持つかも知れない。


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※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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■第二部 実定憲法理論


第一章 現行憲法制定の法理

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第二部 実定憲法理論    第一章 現行憲法制定の法理 p.215以下

<目次>

■第一節 明治憲法の特徴


[241] (一)近代国家建設のために憲法典制定が求められた


明治政府にとっては、近代国家の支柱である官僚群と軍隊を擁する中央集権国家の建設が第一課題であった。
近代国家建設のためには、なによりも国制の整備が求められた。
そのために伊藤博文等の憲法調査団が、明治15年、ヨーロッパに派遣された。

伊藤等は、主としてドイツ、オーストリアの憲法を学んで帰国し、まず、貴族院への布石として華族令を、太政官制を改め内閣制度樹立のために内閣官制を制定し(明治18年)、その後明治19年から憲法典の起草に着手した。
憲法典を起草するに当たっては、
欽定憲法とすること、
漸進的性格とすること、
議会の権限を希釈すること
等が前提とされていた。

[242] (ニ)明治憲法は「国体」を宣言することを至上の狙いとした


明治憲法制定の目的は、制定以前から、「国体」を宣言することにあった。
「国体」とは、発布勅語にいう「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ」た主権(統治権および制憲権)が天皇に帰属することのみならず、天皇家や天皇の身体について国民またはその代表者が容喙すべきでないことを意味した。
そこでまず明治憲法は、その告文で、「皇室典範及憲法ヲ制定」する目的は「皇祖皇宗ノ後裔ニ胎シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スル」ことにある点が明らかにされた。
つづいて、
(ア) 発布勅語において、「朕カ祖宗ニ承クルノ大権」という天照大神にまで遡る神勅による制憲権を謳ったうえで、
(イ) 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)と定めることによって、神権主義的天皇制を採用することを明示し、また、
(ウ) 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)と定めることによって天皇の政治的・刑事的無答責のみならず、不敬の禁止、廃立の禁止を含意させていた。さらに、
(エ) 「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」することを謳った4条は、天皇が対外的に元首であるばかりか、対内的に統治権の主体であることを鮮明にした。そればかりでなく、
(オ) 告文が「皇室典範及憲法ヲ制定ス」と述べたように、明治憲法と並んで、皇室典範が国制のルールの一部として予定されていた。
これは、「憲法」に属する法形式を「政務法」とし、皇室典範に属する法形式を「宮務法」とする二元的国制体系を意味するものである。

[243] (三)明治憲法は「自己拘束する」立憲君主制によった


明治憲法は、そればかりでなく、立憲君主制を導入しようとした。
その点は、大臣助言制を採用して責任政治体制を敷いた点に表れていた。
しかし、統治権の神授者としての天皇が存在する限り、法文書によって神権を統制し得るものではなかった。
そのことをもって後世は、明治憲法典が「外見的」立憲主義にとどまったと評価することになる。

なるほど憲法発布勅語は「朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムルヘキコトヲ宣言ス」と謳って、「自己拘束の理論」によったものの、その理論でもってしては、本来万能の統治権を有する一自然人の意思を有効に統制することは不可能であった。

[244] (四)明治憲法は議会権限を意図的に弱めた


国体の宣言を第一義とする明治憲法のもとにおいては、天皇権限が議会によって不当に制限されないよう当初より意図されていた。

なるほど明治憲法は、諸外国の近代立憲主義に倣って、一見、権力分立技術と基本権保障を組み入れたかのようにみえる。
そのことは、法律の制定に議会の協賛を要すること(37条)、司法権を行政権から分離したこと、に表れた(57条1項)。
しかしながら、それは、立憲君主制の支える規定にとどまった([197]参照)。
さらには、同憲法典のもとでは、「法律の留保」が当然視されていた。
「法律の留保」とは、憲法典の保障する基本権を制約するには議会制定法によることを要し(執政府の命令によってはならず)、その現実の保障範囲は同制定法が決することをいう。
それは、ドイツ流の形式的意味での法治主義を導入したものである。

そのうえ、統治権の総攬者としての天皇には、大権事項として、緊急命令、独立命令という命令制定権が与えられた。
緊急命令とは、議会閉会中緊急の必要があるとき、議会の協賛を経ないで、制定される法形式をいう(8条)。
独立命令とは、公共の安寧秩序を保持するために(この命令は「警察命令」と呼ばれた)、または、国民の幸福を増進するために(これは「保育命令」と呼ばれた)、法律とは無関係に制定される法形式を指す(9条)。
ただし、この独立命令をもって法律を変更することは許されなかった(9条但書)。
これらの権限は、立憲君主制では説明し切れない、日本の「国体」観に基づく君主制に固有のものであった。

なかでも、11条の統帥権は、その内容が明示されなかったこともあって、憲法による統制が及ばないように運用された。
「統帥権の独立」という言い方がこれである。
統帥権は、議会からも政府からも統制されることなく、軍部の意向を実現する「悪魔の森」となった。


■第ニ節 明治憲法から昭和憲法へ


[245] (一)ポツダム宣言の受諾は「国体」の変更を余儀なくした


昭和20年7月26日に連合国の発したポツダム宣言は、「全日本国軍隊ノ無条件降伏」を要求し、国家と政府の継続性を承認したうえで「平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」が「日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ従ヒ」樹立されること(12項)、その実現まで占領軍が支配力をもち、日本国の独立性は否定されること、等を明らかにしていた。
日本政府は、同宣言が国体の変更まで要求していないことを確認しようとしたものの、連合国側の拒否を受け、昭和20年8月14日、これを受諾した。
これによって日本の占領が開始されたが、その占領の方式は、間接占領であったために、占領軍の指令と、その黙認または許可のもとでの日本政府の法という二元的な体系とならざるを得なかった。
二元的法体系のもとで、日本国があたかも無条件降伏をしたかのように、占領軍の指令が日本国憲法体系に優位する形で運用されてしまった。

[246] (ニ)明治憲法の全面変更が憲法「改正」として議会に附議された


当時の内閣をはじめとする統治者たちは、憲法改正は不要であると考えていた。
しかし、ポツダム宣言にいう「日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ従ヒ」とは、政治組織の決定権が国民にあることを示している以上、憲法改正の要あり、と連合軍最高司令官マッカーサーからしじされ、幣原内閣は憲法問題調査委員会を設置して改正作業に入った。
ところが、国体に変更を加えないとする同委員会での松本私案が、総司令部に知れるところとなった。
総司令部は、同私案を拒否し、
元首たる地位に置かれる天皇の権限は、憲法に基づいて行使されること、
国家の主権的権利としての戦争を、紛争解決のためであれ自衛のためであれ、放棄すること、
日本の封建制を廃止し、予算のタイプを英国の制度に倣うこと、
を示した、マッカーサー三原則に基づく草案作成を司令部民政局に命令した。
そこにおいて作成されたマッカーサー草案が昭和21年2月に政府に提示され、政府はこれに基づいて憲法改正草案要綱を作成した(昭和21年3月)。

同要綱に若干の修正を加えた帝国憲法改正案が枢密顧問の諮詢を経て、明治憲法73条所定の改正手続によるものとして、勅書(「朕・・・・・・国民の自由に表明した意思による憲法の全面改正を意図し、・・・・・・」)を以って第90帝国議会に附議された(昭和21年6月)。
衆議院がこれに若干の修正を加えて可決し、貴族院も若干の修正の後可決し、枢密顧問の諮詢、さらに天皇の裁可を経て、公式令3条により日本国憲法として昭和21年11月3日に公布され、22年5月3日から施行された。

[247] (三)日本国憲法の制定が明治憲法の「改正」として正当化されうるか


右にみたように、日本国憲法は、明治憲法73条の改正手続に依拠して、制憲権の所在を天皇から国民へと転換せしめた。
それは、憲法典上の権能によって制憲権の所在に変更を加えるものであるだけに、法理上、あり得ない事態ではなかったか、との疑問に遭遇する([145]参照)。
この点について、学説は、次のような対立する解決法をみせた。

まず、A説は、改正権は制憲権に変更を加えられないという改正限界論に立って、明治憲法の改正手続で国制の根本を変更することは、法理上不能である(欽定憲法の「改正」によって民定憲法が生まれ出る、とすることは理論上不可能である)、とする。
従って、国制の根本の変更に至った理由は、別の特段の理由に求められねばならない。
そこでA説は、ポツダム宣言が「日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ」より日本国の統治形態を決すべしとしていた条件を受諾した時点で(昭和20年8月11日)、我が国は、国民主権へと主権原理を転換していたのであって、この事態は革命として理解されなければならない、と説く(宮沢俊義『憲法』47~8頁にみられる、いわゆる八月革命説)。
これに対してB説は、憲法改正に限界がないこと、ポツダム宣言とそれに基づく降伏文書のごとき国際法上の法文書は、A説の説くような国内法的意味を持たないこと、を挙げながら、明治憲法改正による新たな欽定憲法が制定されたものと説明する(佐々木・113頁)。
以上のA説、B説は、理論構成を異にするとはいえ、現憲法典が有効に成立したと解する点では、結論を同じくしている。
これに対して、外国から強制された「改正」であること、改正権を踰越していること等からして無効であるとするC1説(無効説)、占領下ではやむを得ないとしても、占領終了後は失効すべきものであるとするC2説(失効説)もみられる。

[248] (四)本書は憲法改正として法的連続性を承認する


制憲権の帰属は、国際法によって決定されるものではないことを考えた場合、A説に説得力のないこと、明白である(そればかりでなく、ポ宣言の「日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ従ヒ」とは、現実の政治過程が国民の自由意思によって決定されることを含意しているに過ぎない。小嶋和司はこれを「事実の確認としての国民主権」と呼んだ。本書は、民主主義の実現というほどの意であると理解する)。
憲法改正権に実体的な限界なしとする本書の立場からすれば、B説に帰着する。
ただし、B説にいう欽定憲法であるとの理解には与しない。
日本国憲法前文が「日本国民は、・・・・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と述べている以上、それは民定憲法である。
制憲権が現実の政治過程では少数の統治者によって行使されたとしても、抽象的観念的存在たる国民の名で制定されれば、それを民定憲法と呼んで差し支えない。

改正権に限界ありとする立場からすれば、現行憲法の「改正」は、実は、新たな憲法典の制定ということになり、明治憲法の改正手続に従ったのは、政治的混乱を回避する便宜的策である、と説明されることになろう。
しかし、現行憲法典の成立の法理を便宜に求めること自体、余りに便宜的といわざるを得ない。
また、新旧の法的連続性を否定するはずの革命説によりながら、《新憲法に抵触しない限度で旧憲法の条項も有効である》といえるだろうか。


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第ニ章 憲法前文

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第二部 実定憲法理論    第ニ章 憲法前文 p.221以下

<目次>

■第一節 前文の構造と基本理念


[249] (一)前文に示されている原則は、いわゆる「三原則」だけではない


法令の条項の前に置かれる文章を前文という。
日本国憲法の前文は、憲法典制定の経緯のみならず、一定の基本的理念を明らかにしている。

従来、日本国憲法の基本原則については、国民主権(または民主主義)、基本的人権の尊重、平和主義の三つを挙げるもの(佐藤功・62頁、清宮・33頁)、個人の尊厳、国民主権、社会国家および平和国家の四つを挙げるものもあるが(宮沢『憲法』68頁)、次のような前文一段からすれば、それらに限定されるわけではない(清宮『憲法Ⅰ[第三版]』55~67頁は、日本国憲法の根本規範として、同様の三原則を挙げるが、人権尊重を、自由主義、平等主義、福祉主義に関連させながら、それぞれ、自由権、平等権、社会権へと具体化されることを説く点に、特異さをみせる)。

前文一段に曰く、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
この一文は、
我が国の統治が代表によって為されること、
日本国民が「自由」と「平和」とを時空を超えて尊重することを内容とする憲法典を、
制憲権主体としての国民が選びとったこと、
を、明らかにしている。

[250] (ニ)前文は「自由」の保護を第一義として立体的構造をもつ


以上の、代表制、自由主義、国際協調・平和主義、および国民主権、という日本国憲法の基本原則は、並列的関係にあるのではなく、既にふれたような憲法典の存在理由からして([48] [49] をみよ)、「自由」の保護を第一としていると解すべきである。
憲法典一般および日本国憲法が、人権保障に関し、いかなる歴史的変転を経て、どのような自由を保障しているか、については、『憲法理論Ⅱ』で論ずる。

日本国憲法は、自由を第一義として、
直接民主制のもとでの人民意思の恒常的・直接的な発動が自由にとって苛酷であることに鑑みて代表制を採用し、
戦争や武力行使が自由破滅的となってきた人類史を省みて、戦争の惨禍が起こされることのないよう、他国家との協力のもとに平和を積極的に希求し、
国民全体が、右の原則を盛り込んだ憲法典を制定し、統治をこのルールのもとに置こうとしたのである。

なお、昭和21年6月25日の衆議院本会議において、吉田茂首相は、「憲法改正草案」の提案理由の説明のなかで、国民主権、基本的人権の尊重、民主的責任政治、戦争放棄・平和主義、法の支配、という五大原則を挙げた。


■第ニ節 前文の法源性と「平和的生存権」の性質


[251] (一)前文は弱い意味での憲法法源にとどまる


前文は、単なる公布の事実を告げている明治憲法の上諭や日本国憲法の冒頭にみられる公布文とは違って、日本国憲法の一部であり、憲法の法源としての意義を有していることについては、学説上異論はない。
学説は、前文が法源であるとして、裁判所が具体的事件において適用するという意味でのそれ(強い意味での法源)であるのか、それとも、具体的事件に適用されるのは本文の個別的条規であって、前文はその解釈のさい尊重される程度(弱い意味での法源)にとどまるのか、この点をめぐって対立している。
前文が、一般的・包括的な文書によって、日本国憲法全体の基本理念を謳っている以上、基本的には、具体的紛争解決の際の解釈の際に尊重される程度となるにとどまり、合憲か違憲かの決定的な規準とはなり得ない、と理解すべきである。

[252] (ニ)「平和的生存権」はグローバルな理念を掲げたものである


前文は、「平和のうちに生存する権利」に言及する。
それは、日本国憲法の最大の目的である「自由」の保護が、統治機構上の平和主義と結びつくことによって、基本的理念であることを超えた基本権としての「平和的生存権」を新たに生み出したことを、含意しているのかも知れない。
古くは、前文の右の関連箇所は、9条の基本的理念を表したものと理解され、基本権を通しての平和の実現という構想と関連づけられなかった。
その後、自衛隊の基地建設を目的とする保安林指定解除の合憲性が争われた長沼事件を契機にして、学説のなかには、9条の平和主義の意義を人権思想によって肉付けして、「平和的生存権」は独自の意義をもつ、と主張する者も出てきた。
ところが、その権利の内実となると、学説は一定せず、平和確保のための積極的措置を統治機関が取るよう積極的に義務付け、その実現に向けて国民が積極的に参加する権利であるとするもの、軍事基地・施設等を設置する国家行為を阻止・排除する権利であるとするもの等様々である。
そればかりでなく、同権利の憲法上の根拠として、前文の当該部分で十分とするもの、9条を具体的根拠とするもの、13条の幸福追求権を根拠とするもの等区々(まちまち)である。

長沼事件第一審判決(札幌地判昭48.9.7、判時712号24頁)は、前文が「明確な法規範」であると指摘しながら、前文の当該部分をもって「全世界の国民に共通する基本的人権そのものであることを宣言するもの」であって、同権利は「憲法第三章の各条項によって、個別的に基本的人権の形で具体化され、規定されている」と述べた。
すなわち、右第一審判決は、「平和的生存権」をもって、日本国憲法の平和主義の反射的利益にとどまるのではなく、国民一人ひとりが平和のうちに生存し、かつ、幸福追求できる権利である、と捉えたのである。
これに対して、その控訴審判決(札幌高判、昭51.8.5、行集27巻1175頁)は、前文が法的拘束力を持つとはいえ、当該部分は理念としての平和の内容を具体的かつ特定的に規定しているわけではないことを根拠として、「平和のうちに生存する権利」が基本権ではなく、裁判規範としての内容を持つものではない、と判断した。

百里基地訴訟において、裁判所は、第一審から上告審まで(水戸地判昭52.2.17、判時842号22頁、東京高判昭56.7.7、判時1004号3頁、最判平1.6.20、民集43巻385頁)、一貫して、「平和的生存権」の裁判規範性を否定している。

「平和的生存権」の享有主体は、「全世界の国民」となっていること、戦争の不存在という意味での「平和」を維持する手段も、完全非武装から最新鋭の軍隊の存在を前提とするもの等、様々であって、右条項の内包と外延があくまで抽象的であることを考慮すれば、その裁判規範性の承認には消極的とならざるを得ない。
「われらは、全世界の国民が、・・・・・・平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と高々と謳いあげたのは、グローバルな理念を世界に向けて発信するためであった(田岡良一『国際法Ⅲ[新版]』145頁は、平和主義という場合にも、二つの異なる動機に立脚するという。一つは、戦争によってもたらされる個人的損失・犠牲を忌避する感情を基礎とするもの、他の一つは、相手国民や人類にもたらす犠牲を忌避する感情を基礎とするもの、である。前文にいう「平和的生存権」は、後者を基礎としたものと考えられ、日本国民またはその一部の犠牲だけを考慮したものであってはならない)。


■ご意見、情報提供

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第三章 君主・元首・天皇

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第二部 実定憲法理論    第三章 君主・元首・天皇 p.225以下

☆★重要な注意事項★☆当サイトは、阪本氏の皇室に関する見解を支持しているわけではありません。
※阪本氏は、政治思想としては「リベラル右派(真正リベラル=古典的自由主義=新保守・経済保守)」に分類され、ハイエク+ハートに基礎を置くその憲法理論は、通説的な左翼憲法学を論破する上で非常に有益であるため、当サイトで詳しく紹介していますが、残念ながら皇室観に関しては「伝統保守(旧保守=真正保守)」の見識とは相当のズレがあります。⇒(参考ページ) 政治の基礎知識 右派・右翼とは何か

<目次>

■第一節 君主・元首の意義


[253] (一)君主概念は二つある


古くは、君主とは、統治権を意味する主権を一人で保持する自然人を指した。
これを「古典的君主概念」という。
その後、立憲主義の展開とともに君主の統治権が制限されてくると、新しい君主概念が登場する。
それによれば、君主とは、次の全部または何れかの特性をもつ自然人をいう、とされる。

(ア) 独任制機関であること、
(イ) その地位取得原因が多くの場合世襲にあって、またその地位が終身認められること、
(ウ) 無答責であること、
(エ) 象徴性としての地位または役割をもつこと、
(オ) 国を代表する対外交渉権能をもつこと、
(カ) 統治権の重要部分を行使すること。

このうち、通常、君主であるための標識としては、(ア)、(オ)および(カ)が挙げられる。
この観点からすれば、現行憲法典の4条にいうように、「国政に関する権能を有しない」以上、天皇は君主ではないことになる。
なお、政府の解釈に拠れば、天皇が世襲の地位を占め、国民による尊崇の対象とされていることを根拠として、天皇は君主である、と解釈されている(昭46.6.28の政府公式見解)。

[254] (ニ)元首は厳密には法的な意味をもたない


元首という言葉は、国家有機体説のもとで擬人的な比喩として用いられてきた関係上、厳格な法的意味をもたず、様々に用いられる。
例えば、
古典的君主を指すとき、
執政府の首長、なかでも、名目化された執政権担当者を指すとき、
明治憲法4条のような統治権の総攬者を指すとき、
対外的に国家を代表する機関を指すとき、
の如くである。

現行憲法典上の天皇は、④の意味において、元首であると解することも不可能ではない。
ところが、日本国憲法が外交処理権限を内閣に付与していることを考えれば(73条3号)、天皇は、法上、国家・国民を対外的に代表する機関という意味で対外的代表権限を、名目的であれ、もつことはあり得ず、形式的・儀礼的な国家の「象徴的代表」にとどまる([155]参照)。
大使・公使の信任状の認証、その接受などを天皇の国事行為としているのは(7条)、このことを示す(国際法上は、信任状の名宛人は元首とされるが、諸外国が天皇をその名宛人としているところをみると、運用上は、天皇が元首として扱われていることになろう)。


■第ニ節 天皇をめぐる断絶性と連続性


[255] (一)天皇の地位に断続性が認められるか


先にふれたように、ポツダム宣言の受諾は、「国体」の変更を余儀なくした([245]参照)。
占領下においては、
皇室財産の取引の司令部による許可制(「皇室ノ財産ニ関スル覚書」昭和20年11月18日)、
天皇の神格性の否定(「天皇の人間宣言」昭和21年1月1日)、
教育勅語の排除(昭和23年6月19日)、
等、神権天皇制を否定する一連の措置がとられた。

さらに、天皇制は日本国憲法の成立によって根本的に変革された。
憲法1条に示されているように、天皇は日本国および日本国民統合の象徴であり、その地位は主権の存する国民の総意に基くものとされた。
そればかりでなく、「天皇は、この憲法の定める国事行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」(4条)と定められて、その権能は法上意味を持たない、「社交的君主 social monarch」として「形式的儀礼的」なそれに限定された。
その他、日本国憲法は「すべて皇室財産は国に属する」(88条前段)として、かつての財閥に匹敵した天皇家の私的財産を、原則として、国有化して、その経済的基盤をも変革した。

この点からみると、自己拘束する立憲君主制のもとで統治権の総攬者であったかつての天皇の地位と比べた場合、日本国憲法上の天皇の地位は、過去との決定的な断絶をみせたといってよい。
もっとも、天皇という、国民とは異質の世襲制を基礎とする政治体制を「天皇制」と呼ぶとすれば、新・旧憲法ともに「天皇制」を採用しているといえよう。
さらに、少なくとも象徴的代表としての天皇の役割に関する限り、明治憲法からの連続性を肯定することも不可能ではない。

新・旧憲法上の地位に連続性がみられるか否かにつき、学説は、大きく三つに分れる。
まず、A説は、 断絶性を率直に承認して、主権者たる国民が、1条によって、従来の「天皇」とは全く別の象徴としての役割を創設し、その役割に相応しい地位へと従来の天皇制を変革したものと理解する(断絶説)。
次にB説は、 天皇の地位が世襲である以上、象徴天皇制は「君主制の民主主義的改装」に他ならず、そこに断絶性はないとする(連続説)。
さらにC説は、 天皇の権限については断絶性を承認しながらも、地位については従前と同じく「国民最高の敬栄の地位にある」と理解する(一部連続説または「国体」の新解釈論)。
このC説は、象徴規定が天皇の栄誉権(国民の側からすれば尊崇義務)を意味しており、国家の尊厳を代表するものとして外国の君主と対等の地位にあることを示す、と説くのである。

[256] (ニ)本書ははっきりと断絶性をみてとる


明治憲法下の天皇制は、天皇の統治権の正当性の淵源を神勅に求める、日本版王権神授説に立っていた。
これに対して、現行憲法は、天皇の地位を国民の総意にかからしめ(1条)、天皇が国家機関としての地位を占める場合、「国政に関する権能」(power related to government)の一切を奪いながら(4条)、天皇制という制度の役割を「象徴」と宣言したのであって、そこに断絶性をみてとるのが妥当である。
B説やC説は、地位(身分)と権限とを別物とみながら天皇制を理解しているが、本来、地位(身分)は、政治的権限から画すべきものである。
日本国憲法が天皇制をもって象徴としての役割を果たすに相応しいように、国家機関としての天皇を「国政に関する権能」なき地位へと押し込めたことは、旧憲法典上の天皇制を採用しないためである。
象徴としての役割において天皇に共通性がみられることをもって、連続性を肯定してはならない。


■第三節 象徴の意義


[257] (一)「象徴」規定は国体否定以上の意義を有しているか


日本国憲法の1条は「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定める。
これは、天皇を「象徴」と明示することによって、国家と国民の一体性という無形の抽象的存在を、天皇という具体的な身体に可視化するという、社会心理的効果を狙ったものである、と一般にいわれる。
この法的意義は、消極的に、統治権の総攬者としての神権的天皇を擁する国体を否認することにある。
このことは、天皇は国政に関する権能を有しないとする、4条に具体的に表れている。

では、象徴規定は積極的には、法上、何を意味するか。
まずA説は、 同条にいう「象徴」とは、「ある不可視なものを可視化する」代表としての役割(人や国の一体性を体現しているという意味での「象徴的代表」としての機能)をいう、とする。
そのうえで同説は、1条の趣旨は、国家機関としての法的地位にある天皇が、明治憲法下での統治権の総攬者としての権能をすべて控除されて、残余の象徴としての役割だけを担うことを確認的に宣言したことにある、と理解する(宣言的規定説)。
この説は、現行憲法での天皇は、その権限の面では、明治憲法と断絶しているものの、象徴という機能の面においては、連続性をなお有している、とみるのである。
この立場は、先の一部連続説に近い見解に立って、象徴としての機能を果たすに相応しい法的処遇を天皇に与えることは許容される、とする。
その処遇例として、日本国憲法2条が天皇の地位を世襲とするとしていること、諸法令が天皇誕生日を国民の祝日としたり、天皇に特別の敬称を認めたりしていることが挙げられる。

このA説の欠陥としては、次の点を指摘することが出来る。
明治憲法下で天皇が果たしてきた象徴としての役割は、統治権の総攬者としての地位・権限に裏打ちされたものであって、統治権の総攬者としての地位・権限を失った後には、同じ「象徴」という役割もその実体を異にするはずである。
「象徴」という一点に連続性をみてとることは出来ない。
A説と類似の立場として、A’説は、 先の一部連続説に立って、象徴としての天皇に、象徴に相応しい法的処遇が与えられるべきである、とする。
天皇誕生日、陛下という敬称等は、この説によれば、1条の要請するところである、と解される。
これに対してB説は、 先にみた断絶説を前提にして、1条にいう「象徴」とは、明治憲法下における天皇のカリスマ的象徴性または統治権の総攬者によって裏打ちされたものとは異質であって、同条によって創設されたものとみる(創設規定説)。
この説によれば、新たに設けられた「象徴」は、権限配分と無関係であって、法的意義をもつものではなく、従って、その意義を1条のなかに求め得ず、第一章の各条規から演繹する以外ない。
「象徴」規定から、例えば国会開会式における「おことば」を述べる行為を、国事行為でもない私的行為でもない「象徴としての行為」として説明することは出来ない、ともいわれる。

[258] (ニ)本書は「象徴」の積極的な法的意義を認めない


「象徴」とは、それ自体、法的な意義をもつものではない。
B説が妥当である。
もっとも、本書は、象徴であるといわれる「天皇」とは、自然人を指すのではなく、天皇制という制度をいう、と理解する(坂本多加雄『象徴天皇制と日本の来歴』153、159頁参照)。
ある人物が天皇制を背景にして行為すれば、国民の側に生ずるであろう心理状態に期待して、1条は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と表現し、我々はそれを「象徴天皇制」と称するのである。
象徴天皇制は、人々のこのような社会心理的な働きを期待する制度である。
換言すれば、1条前半部分にみられる象徴規定は法的には積極的な意味をもたず、自然人としての天皇の地位・権限、その為し得る行為の範囲を未決定のまま残しているのである。
自然人としての天皇が、憲法上、いかなる職を占めるかは、1条の後半部、「この地位」に表明されている。
「この地位」とは、国制上の職、すなわち、「国家機関としての地位」を指す。

以上のことから、本書は、1条を次のように読み直すのが妥当であると考える。
「天皇【制】は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位【自然人としての天皇が占める国家機関としての職】は、主権の存する日本国民の総意に基く」。
憲法典は、天皇という自然人が何を為してよいか、前もって標準化された行為形式を示さなければならない。
それが、「国政に関する行為/国事に関する行為」の別として、3条以下に示されている。
従って、1条は、こう読める。

天皇制は、自然人たる天皇の活動を通して、日本国および日本国民統合を現前させるための象徴である。
自然人たる天皇は、国家機関としての地位を占めるが、その地位は国民主権と矛盾することがあってはならない。
自然人たる天皇は、国家機関として如何なる行為に従事できるかにつき、本状は定め尽くすことをせず、3条以下の規定に委ねる。

現行法は、天皇制を支える人に対して、特別の身分と権能を有する地位を与えている。
皇室典範は、身分法上の特例として、天皇および皇嗣の成人年齢を18年とすること、天皇および皇族男子の婚姻につき皇室会議の議を経ること等定めている。
また、刑事法上の特例として、摂政および天皇権能代行者は在任中起訴されないとされていることの関係上(皇室典範21条、国事行為の臨時代行に関する法律6条)、天皇は、刑事法上、訴追されることはないものと解される(なお、天皇の民事責任についての学説は、民事裁判権に服さないとするA説、民事裁判に服するものの免責されるとするB説とに分れている。最高裁(最ニ小判平1.11.20、民集43巻10号1160頁)は、快癒を願う記帳所を公金で設置したことによって、天皇が不当利得したものであるから、返還するよう求めた訴訟において、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることに鑑み、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当」と判断した)。


■第四節 天皇の国事行為と内閣の助言と承認


[259] (一)内閣の助言と承認は、大臣助言制とは異なる


憲法3条は、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」と定める。
明治憲法下における輔弼制は、立憲君主制のもとでの大臣助言制に倣ったものであった。
大臣助言制とは、君主がその権限を行使するためには、国務大臣の助言を必要とする制度をいう。
明治憲法下での大臣輔弼制の輔弼の法的拘束力については、これを肯定する説と、「国務大臣の進言を嘉納せらるゝや否やは聖断に存する」とする説とがあり(美濃部達吉『逐條憲法精義』513頁)、後者が通説であった。

現行の内閣による助言と承認につき、学説の中には、助言と承認が大臣輔弼制と同質であるとするものや、同制度の延長上にあるとするもの、もみられる。
しかしながら、その主体が合議体としての内閣であること、天皇に対して絶対的拘束力をもつこと、全ての「国事行為」につき必要とされていることから分かるように、主体、法的性質、対象の範囲、において、大臣輔弼制とは決定的に異なっているのである(その法的性質については、すぐ後の [261] でふれる)。
従って、助言と承認についての責任の名宛人は、天皇ではありえず、国会であり、天皇の無答責性は、助言制から来るのではなく、「天皇は、・・・・・・国政に関する権能を有しない。」と定める4条からの帰結である。

[260] (ニ)「国事に関する行為」と「国政に関する権能」とは同義ではない


では、内閣の助言と承認を要する「国事行為」とは何か。
憲法4条は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」と定め、さらに、7条は、天皇の国事行為(acts in matters of state)として、その1号ないし10号で、憲法改正、法律、政令および条約を公布すること、国会を召集すること、衆議院を解散すること等を列挙している。

(※注釈:A説) 天皇の国事行為の法的性質に関して、学説の中には、「国政」と「国事」とを本来同義とみたうえで、国事行為に政治的決定権が含まれると解するA説がみられる。
この見解は、天皇が一定範囲の統治権を有していることを前提に、内閣の助言と承認の制度を大臣助言制類似のものであるとみる。
このA説は、天皇は「この憲法の定める国政権限を、内閣の助言と承認に基づいて行い、その他の国政権限を有しない」と、関連条文を読み直すのである。
しかしながら、4条1項の文理をそのように解釈することは、強引すぎるばかりでなく、我が憲法典が、立憲君主制と、そのもとでの助言制を採用している、とする前提に右説の決定的な誤りがある。
(※注釈:B説) 学説の多数は、国事行為には政治的決定権は含まれず、儀礼的・形式的な行為を国事行為という、とするB説を採る。
その中にも、
(※注釈:B1説) 4条が「国事に関する行為」のみを認め、「国政に関する権能」を認めないとする以上、「国事行為」は、本来的に形式的・儀礼的であるとするB1説と、
(※注釈:B1説) 行為自体は形式的・儀礼的とはいえないものの、他の国家機関によって実質的に決定されるために結果的には形式的・儀式的となるとするB2説とがある。
こうしたB1、B2の見解の対立は、内閣の助言と承認のなかに実質的決定権が含まれるか否か、という論点と繋がっている。

[261] (三)内閣の助言と承認は、我が国独自の制度である


内閣の助言と承認の趣旨については、大別して二つの見解がある。
一つは、天皇の為す行為を内閣の意思によって決定することを通して、天皇権限を名目化する点に、その趣旨をみる甲説である(この説によれば、助言と承認は内閣の意思によって実質的に決定する場合にのみ必要となり、他の機関によって実質的に決定された事柄については、不要となる)。
この説は、助言と承認を「大臣助言制」類似の制度またはその延長上にあるとみているのである。
これに対して乙説は、助言と承認は我が国独自の象徴天皇制に特有の制度であって、それは、象徴制を防御せんとするところにその意義を有するとみる。
すなわち、内閣は、助言と承認の制度を通して、天皇が国政に関する権能を行使しないよう、また、統治へ影響を与えず、さらには、統治から影響を与えられないよう注意しながら、象徴制を防御するのである。

以上のうち、現行の助言と承認の制度が大臣助言制ではないこと、天皇が国政に関する権能を一切もたないことからすれば、名目化されるべき実体権能自体、当初より、存在しないのであり、乙説が妥当である。
大臣助言制は、君主を無答責とするための装置である。
我が国の「助言と承認」は、これではない。
また、君主権限の名目化は、立憲君主制の崩壊、議会勢力の台頭の所産であり、助言制の直接の狙いではない。
この理解に立った場合、内閣による助言と承認は、次のような意義をもつ。

第一に、 7条に列挙されている国事行為のなかには、認証や儀式のように本来的に儀礼的な行為がある。
この場合の内閣の助言と承認は、儀礼的な行為を適切に行うための確認の意味をもつ。
第二に、 内閣総理大臣や最高裁判所長官の任命のように、実質的決定権の配分が憲法典上明記されているものがある。
これに関する内閣の助言と承認は、他の機関によって全面的に決定されたことを内閣が確認する意味をもつ。
第三に、 国事行為のなかには、国会の召集、衆議院の解散のように、実質的権限の所在が明確でない場合がある。
これらに関する実質的決定権は、憲法典上の他の条規または憲法典の構造から導き出す以外にない。
内閣の助言と承認は、第二の場合と同じ意味をもつ。
これに対して、先の甲説によれば、この場合の実質的決定権は、内閣の助言と承認のなかに読みとられ、天皇による国会召集行為等は、内閣の決定を外部に表示する行為(宣示行為)ということになる。

[262] (四)国会の召集権限と衆議院の解散権限の所在はどこに求められるか


乙説に従った場合、国会の召集権および衆議院の解散権の所在は、どこに求められることになるか。

①まず、召集権限について。


国会の召集とは、期日および場所を定めて議員を集会させ、国会の活動能力を発動させることをいう。
議会の召集に関しては、
(ア) 執政府の権能とする他律的召集型(イギリス、明治憲法型)、
(イ) 議会が自ら行うとする自律召集を原則とするものの、一定数の議員または大統領による請求のあるときに議長が召集するもの(ヴァイマル憲法型)、
(ウ) 執政府による他律的召集を原則としつつ、一定数の議員から召集請求できるとするもの(フランス第三共和国憲法型)、
(エ) 通常は、召集行為なく、憲法典の定める期日に開会され、緊急時に例外的に執政府が召集するタイプ(アメリカ合衆国憲法型)、
に大別できる。

我が憲法典は、臨時会につき、「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」と定めて(53条)、臨時会の召集権限が内閣にあることを原則としつつ、一定数議員から召集請求できる旨を明示している。
この趣旨は、常会および特別会についても、類推され、従って、我が憲法典は右の(ウ)の型に属するとの結論に至る(参議院の緊急集会の召集権が内閣にあること(54条2項)も根拠となろう)。
天皇の国事行為の一つとして挙げられる「国会を召集すること」の実質的決定権は、内閣に存し、天皇はその決定を内閣の助言と承認に基づいて外部に表示するのである。

では、なぜ日本国憲法は他律的召集原則を採用したのか。
日本国憲法にみられるような他律的召集原則は、権力分立思想に忠実な構想であった。
厳格な分離を説いたといわれるモンテスキューは、議会は自ら召集する権限をもってはならず、開会の時期および会期は執政府が状況に応じて決定すべきものと説いた。
これは、一般的抽象的で永続的な立法制定権限を有する議会が、他の機関に対して超然とした存在とならないようにする工夫として説かれたのである([193]、[197] 参照)。

②次に解散権限の所在について


解散とは、議員の任期満了前に、議員全体についてその資格を喪失させる行為をいう。
7条3号は「衆議院を解散すること」を天皇の国事行為としている。
その決定権の主体と根拠については、次のような学説の対立がみられる。

A説は、 天皇が解散決定権を本来有していると解したうえで、この天皇権限が内閣の助言と承認によって名目化される、とみる。
この説は、もともと天皇制に対する独特の見方(天皇は君主でもあり、元首でもあるとする)を前提としているのであるが、既にふれたように([260]参照)、その前提そのものに無理がある。
B説は、 69条所定の場合に限って内閣が解散権を有するとする。
議院内閣制の章でみたように([225]参照)、均衡(議会の明示的な不信任の意思表示に対抗するための内閣の解散権)を本質とする議院内閣制を我が憲法典が採用していると解される以上、このB説が妥当である(69条説)。
もっとも、我が国の69条による解散は、過去4回あるのみで、他は全て7条3号によって為されてきた経緯からすると、今日、69条説に執着することに対して疑問が残るのも当然であろう。
この疑問を回避するためには、7条による解散という習律が成立しているものと理解せざるを得ない。
なお、最高裁は、苫米地事件判決(最判昭35.6.8、民集14巻1206頁)において、衆議院の解散が「極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為」であることを理由に、司法審査の対象とはならないとした([460]参照)。
C説は、 日本国憲法が議院内閣制を採用していることを根拠として、内閣に解散決定権がるとする(制度説)。
この説は、議院内閣制の識別指標である解散権の所在を議院内閣制の根拠とする循環論であって、妥当ではない(学説の中には、日本国憲法の権力分立構造に内閣の解散を根拠づけるものもみられるが(佐藤・171頁)、不当である。なぜなら、解散権の所在が権力分立の構造を決定するのであるから)。
D説は、 内閣の助言と承認の中に解散権を読み込む(7条説)。
この説は、君主または大統領が、形式的であれ、有している解散権に内閣の副書権を通して訴える、という大臣助言制類似の制度を7条が採用していると理解して初めて一貫したものとなるが(ヴァイマル憲法がこれである点については既に [215] でふれた)、7条はそれではないのである。
この説が解散の根拠規定を69条に限定しない理由は、民主的契機となるルートとして解散の余地を残したい点にある。
ところが、解散権限は、自由の保護を第一義とする権力分立上の制度であって、解散を民主主義と安易に結び付けることは、正しくない。
解散権を民主主義と結びつける7条説は、内閣を梃子とした統治を許すことになって、議会を梃子とする統治を指す Parliamentary Government と相容れない。

69条非限定説に拠った場合、解散権発動の制約は、どう考えられるのか。
この点に関し同説は、
①選挙後、重大な争点が浮かび上がって、国民の意思を問う必要が生じた場合、
②国会の統一的な意思形成が困難となって、内閣として責任ある政策形成が行い得ない事態となったとき、
を挙げるが(佐藤・169~70頁)、客観的でない(客観的で正当な制約論拠としては、《同一理由による解散は一回に限る》(ヴァイマル憲法25条)ことくらいであろう)。
E説は、 内閣の解散権が65条の「行政権」規定に含まれるとみる。
なるほど、解散権の所在につき明文規定がないと考えられる場合、行政控除説に従って、立法でも司法でもない解散権作用を行政権であるとする思考は不可能ではない。
しかしながら、他の機関の存在や活動を左右する重大権限の発動手続は、国会の召集手続が52条ないし54条で言及されている如く、憲法典上、個別に言及されているのであって、機関間コントロールに言及しないまま65条に逃げ込むことは安易過ぎる。


■第五節 天皇の行為の類型


[263] (一)機関としての国事行為以外の行為類型があり得るか


「天皇」という言葉は、国家機関としての地位を指す場合と、その地位を占める自然人を指す場合とがある。
日本国憲法が、「天皇の国事に関する行為」(3条)、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」(4条)、「天皇は、・・・・・・左の国事に関する行為を行ふ。」(7条)、という場合の「天皇」とは、国務機関としての天皇をいう。
その地位を占める人という意味での「天皇」が私人として為す行為は、右法条の関知するところではない。

学説は、日本国憲法第一章における天皇の行為類型として、「国家機関としての行為=国事行為」とは別に、私人としての行為が当然あり得るとみて、「私的行為」なる行為類型に言及してきた。
ところが、天皇の私的行為は、日本国憲法第三章で議論する天皇の基本権享有主体性の問題領域であると考えるべきである(『憲法理論Ⅱ』 [151] 参照)。
日本国憲法第一章においては、日本国憲法4条が「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」と定めている関係上、天皇は、国家機関として国事行為のみに従事できるのか、それとも、私人でもなく国家機関でもない、象徴や公人として国事行為以外の国家関係的行為にも従事できるのか、という問題設定でなければならない。

この点、A説(国事行為限定説)は、「象徴」なる用語を法的地位と関連させず、象徴であることから一定の行為能力が導出できるわけではない、とみる。
すなわち、この説は、象徴とは役割であって、その役割を果たしているか否かは社会心理的な事実問題である、と考えるのである。
この説によれば、天皇の為す外国への親善訪問、元首との慶弔電、国会開会での「おことば」は、象徴としての行為(権限)として正当化されることはない。
これらが国事行為として列挙されていない以上、天皇はこれらを為し得ないのである。
この国事行為限定説に対しては、「実際的でない」(佐藤・240頁)とか、「非常識である」(小嶋和司「天皇の公的行為と私的行為」憲法の争点44頁)とかの批判が寄せられている。
この批判に配慮して、国事行為限定説のなかにも、「儀式を行ふこと」が儀式への参加を含むと解して、これらの行為の合憲性を説いたり、「おことば」につき、憲法習律として成立を説いたりする立場もある。
B説は、国事行為とは別に、天皇はその特有の地位に相応しい、一定の行為を為し得ると説く(国事行為非限定説)。
この中にも、その根拠づけに応じて、象徴行為説、公人行為説、および準国事行為説とがある。
象徴行為説は、象徴としての天皇を法的地位とみて、天皇がその地位に置かれている以上、国家機関行為とは別箇の範疇として「象徴としての公的行為」がある、と説く。
公人行為説は、国家機関の地位にある自然人には、機関行為ばかりでなく、地位と関連した公的行為が認められることを説く(最高裁判所長官が国会の開会式に出席するが如し)。
準国事行為説は、国事行為として列挙されている事柄の性質との均衡上、国事行為に準ずると認められるものを公的行為とみる。
例えば、外国訪問や外国元首の接受は「外国の大公使の接受」が国事行為とされていること、国会での「おことば」は「国会の召集」が同じく国事行為とされていることとの均衡上、公的行為として認められる、とする。

これらの非限定説は、いずれも、機関としての行為以外の範疇を置いて、それを、内閣の助言と承認のもとに置こうとする点では共通している。
この別の範疇を承認した場合には、内閣の助言と承認のもとで、「皇室関係の国務事務」(宮内庁法1条)として宮内庁の所掌するところとなり、また、その行為に金銭の支出が伴えば、宮廷費(公金)として支弁され、「宮内庁でこれを経理する」(皇室経済5条)こととなる。
非限定説は、機関行為以外の天皇の行為を内閣の責任(助言と承認)のもとに置くとはいえ、別個の範疇設定によって、限定的であるはずの国事行為の制約を解除することにならないか、疑問とならざるを得ない。

[264] (ニ)象徴としての天皇は「公的」行為を為し得るか


学説を対立させる根本問題は、「天皇は、・・・・・・象徴であって、この地位は・・・・・・」と謳う1条の前段と後段との関連をいかに捉えるか、にある。
右にみてきた国事行為限定説も、非限定説も、「この地位」とは、国家機関としての地位を指すとの前提に立って、それ以外に、「象徴としての地位」や「公人としての地位」があり得るか、論争してきたようにみえる。
この暗黙の前提を覆すかのように、ある学説は、「この地位」とは天皇が象徴としての役割をもつことを指す、と理解する。
そのうえで、この説は、天皇は象徴としての地位と国家機関としての地位とを占める、という意味において「公人」であり、列挙された国事行為以外の行為を公人として為し得る、と説く点で特異である(佐藤・240~41頁)。
この理解は、象徴行為説、公人行為説が、ともに、象徴、公人の意義を明確にしないまま、それに相応しい行為を容認してきたことの反省のうえに成り立っている。

これに対して、本書は、先の [258] でふれたように、天皇が象徴である、とか、象徴としての地位にある、とか考えない。
本書は、天皇制という制度が象徴であり、その制度を背景にしてある自然人が行為すれば、それを感得する国民の内心に一定の反応が生ずることに期待されている、とみる。
憲法典は、その自然人の為し得る行為を前もって標準化しているはずであり、それが、国家機関の地位としての行為であって、3条以下に列挙されている国事行為である。

[265] (三)本書は国事行為限界説を妥当と考える


確かに、非限定説はいずれも、機関としての国事行為以外に、天皇が政治的影響を与え得ること(天皇による政治への影響)を承認しつつ、これの歯止めとして、内閣の助言と承認を説く。
ところが、内閣による天皇のコントロールの必要性の有無を、天皇からの政治的影響の有無で判断するとなると、憲法典上の明文規定の有無に拘わらず、天皇の全ての行為につき助言と承認が必要とされるに至るであろう。
これでは内閣が天皇を政治的に利用(内閣による天皇の政治的利用)する道を開いてしまう。
内閣の関与をもって事足れリとすることは出来ない。

そればかりでなく、非限定説の意図とは反対に、同説は「公人」としての行為とか「象徴」としての行為とか、曖昧きわまりない概念によって機関行為ならざる範疇を容認するだけに、事実行為までをも国事行為として限定しようとした憲法の趣旨にもとる。
「公人」なる曖昧な概念に依拠してはならない。
「公人」であるか否かは、当該人物が国法上有している行為権限を中心にして画されるべきものである。
「公人としての行為」という概念の設定は、行為権限を問わないまま、「公人」という結論から行為を引き出すという結論先取りの理論である。

結論として、天皇の行為は、最も簡明な国事行為限定説によって説明されるべきである。
もし外国の国家儀式への参列、国会開会での「おことば」の朗読等を違憲とすることが非常識であるとすれば、これらが儀礼的形式的である限り、「儀式を行ふこと」に該当する、と解すればよい。

なお、本書は、日本国憲法第一章のもとで天皇の「私人としての行為」を論ずる必要なしとの前提をとった。
そのため、本書は、これまでの学説の分類にみられるような、「①国家機関としての行為/②私人としての行為」に分けるニ分類説、「①国家機関としての行為/②私人としての行為/③その他(象徴行為、公的行為等)」に分ける三分類説のように類別化することを、意図的に避けている。


■ご意見、情報提供

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第四章 戦争の放棄

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第二部 実定憲法理論    第四章 戦争の放棄 p.241以下

<目次>

■第一節 戦争の違法化への努力


[266] (一)国際法は戦争を違法化してきた


国際紛争を解決する強制的手段は、非軍事的措置(例えば、相手国の大公使の国外退去のごとく、自国の領土内でとり得る措置)と、軍事(武力)的措置とに分けられる。
軍事的措置のうち、最も徹底したそれが戦争である。

戦争とは、国際戦時法の範囲内で、国家または国際団体のあらゆる強制的加害手段、なかでも正規兵力を用いて、相手国の抵抗力を制圧できる法状態をいう。
歴史上、近世自然法学者たちは、戦争が、相手国のみならず自国に対しても、残虐な殺戮と大量の破壊をもたらすことを重視して、これを野放しにしないために、正当原因に基づく戦争、すなわち正戦だけが法的に許されると説いた(正戦論)。
ところが、超国家的な判定者のいない国際社会において交戦当事国が正当原因を主張した場合、正戦か不正な戦争かの実際上の判断は不可能であった。
そこで、18世紀以降の国際法の世界で、正戦か否かを問わない無差別戦争観が支配的となってくる。
それは、戦争の合法性を、主権者によって開始され宣言されたかという手続に基づいて判断する考え方である。
この考え方が第一次世界大戦に至るまで国際法学の主流を占めた。

第一次世界大戦は、人類に未曾有の惨禍をもたらした。
1920年に国際平和維持を目的として設立された国際連盟は、連盟規約の前文で、加盟国による戦争に法的歯止めをかけるべく、紛争当事国がその解決手段として「戦争ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾」することを概括的に謳った。
これは、従来法的野放し状態にあった戦争に対して、限定的ではあるが法的規制を課し、戦争を違法化する第一歩であった。
もっとも、連盟規約は戦争の一般的禁止にまで踏み込まず、戦争という危機が生じた場合に、当事国に対して仲裁裁判に付すことを選択的とし、これに付さなかったときには、連盟理事会の審査に付すよう義務づけたにとどまった。
戦争を一般的に禁止し違法化する国際社会の目標の実現は、その後の努力をまたねばならなかった。
1928年の不戦条約(正式には「戦争放棄ニ関スル条約」)は、条約締結国があらゆる紛争の平和的解決を約束するとともに、「国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ、且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スル」(1条)ことを謳った。
さらにそのうえで、紛争解決にあたって平和的手段に訴えるべきことを定めて(2条)、紛争解決手段としての戦争を全て違法としたのであった。
但し、同条約は、不戦条約に違反して武力を行使した国に対して行う戦争や、自衛のための戦争まで禁止してはいない。

[267] (ニ)国連憲章は武力行使まで違法化した


こうした国際的努力をもってしても、第二次世界大戦の勃発は阻止し得なかった。
国際連盟の経験と反省を基礎に設立された国際連合は、不戦条約の内容をさらに前進させて、ひろく武力行使の違法化に乗り出した(国連憲章2条4項は、「戦争」という表現を避けて、すべての加盟国に対して、ひろく「武力による威嚇又は武力の行使」を慎むよう義務づけている)。
国連憲章は、国連による強制措置、「自衛権」の発動等一定の場合における例外を除いては、国際紛争解決の手段としての武力行使を一般的に禁止して、戦争の違法化からさらに武力行使の違法化原則を確立した。

[268] (三)国際法は「自衛権」行使にも制限を加えてきている


国連憲章51条は「個別的又は集団的自衛の固有の権利を侵害するものではない」ことを確認して、自衛権については、その行使を禁止対象外としている。
国際法上、個別的「自衛権」は、不法な攻撃を除去するために、緊急やむを得ない場合に必要な範囲にとどまる限りで行使される国家の固有の権利(自己保存権としての緊急権)であるとされ、同条の明文規定をまたなくても当然に国家であれば揺有するところである、と通常いわれる(本書は、この「自衛権」の捉え方に賛同しない。この点については、[270]参照)。

「自衛権」の発動要件として、不法な危害の急迫性と、排除の必要限度性が挙げられるものの、その該当性は当該国家の自主的判断に委ねられるほかないために、その濫用を防止する必要は大きい。
憲章51条は「自衛権」の発動を「武力行使が発生した場合」であって、しかも、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という制約を設けたのはこのためである。

[269] (四)国家の戦争権限を制限することは現代立憲主義の重大課題である


戦争は、相手国にとっても、自国にとっても、多大な損失・犠牲をもたらす。
特に、既にふれたように([92]参照)、現代立憲主義は、大量殺人兵器を抱える国家において、軍隊を憲法上いかに統制するか、また、外国との間でいかにして平和を維持していかに実現するか、難題を抱え込む。
諸国家のなかの憲法典が、侵略戦争の放棄を謳ったり、戦争遂行用の武器の製造販売等を政府の許可制のもとに置いたり(ドイツ基本法26条)、防衛上の緊急事態を定義してその確定権限の所在と手続を法定したりしているのは(同115条a)、この課題に対する対処を示している。


■第ニ節 日本国憲法九条の狙い


[270] (一)「自衛権」は国家の「基本権」ではない


国内法たる憲法典は、国家の戦争権限を手続的に統制することからさらに進んで、「自衛権」を放棄することを定め得るか。
これへの解答は、
「自衛権」が国家に固有で不可譲の「基本権」、または、自然法上の「基本権」であるか、
自衛の行使態様は武力によるものに限られるか、
という論点と関連している。
国際法上、「自衛権」は自然法上の自己保存権であるとか、国家の固有の基本権であるとかいわれてきたのは、「自衛権」が不可譲であることを含意してのことであろう。

「自衛権」は自然権であるか。
この点を肯定するとすれば、理性によって発見された一般法則を意味してきた自然法概念を基礎にしながら、「国家は自己保存に必要なあらゆるものに対して権利を持つ」と説くこととなって、それはまさに理性なき法秩序を理性によって根拠づけようとする自家撞着である。
次に、「自衛権」は国家固有の不可譲の「権利」であるか。
実は、自衛行為が権利として理論構成されたのは、次のような事情からであった。
不戦条約は、国策の手段として戦争を使用しないという国家の不作為義務を定めるに当たって、その留保を「権利」という積極的用語によることによって、主要国の参加を容易にしようとした。
こうした政策的配慮が背後にあったからこそ、「権利」としての「自衛権」が説かれたのである。

「自衛権」概念が、右のような背景で説かれたことに留意すれば、「主権国家たる以上、日本も国家固有の権利としての自衛権を、憲法典の規定の如何に拘わらず、当然に有しており、憲法典によって放棄したり、否定できる筋合いのものではない」とする論理は、当然のごとくには成立しない。
しかも、右論理は、「主権国家→固有の自衛権保持→武力の行使可能→そのための武力装置の維持当然」という一連の思考に流れ易いのである。
「主権国家たる以上」でいわれる「主権」は、当初は、対外的独立性という国家の属性を指す意味でオーソドックスに用いられている。
それが何時の間にか「対外的独立性という属性→その手段としての固有の自衛権→自衛権行使のための正規軍」という、手段までを指す主権概念となってしまう。
国家の属性と手段とを架橋する語が「固有の自衛権」である。
「国家を形成するためには、共有の軍隊と国家権力が必要である」(ヘーゲル)といわれる如く。

国家の国家たる要素は、対外的独立性という意味での主権(対内的には統治権)、領土そして国民である、とこれまで公法学は想定してきた。
国家に「固有の自衛権」は、あたかも右の国家の要素に内在するかのように説くためのマジック・ワードなのである。

武力行使が違法化されてきた歴史の流れを考慮した場合、自衛とは、武力不行使という原則に反して、他国の主権を侵害した場合であっても、違法性の阻却される国家行為である、と定義するのが、法的には正確である。

[271] (ニ)正規軍の保持は正当防衛等の概念では正当化できない


また、「自衛権」を刑事法でいう正当防衛とか緊急避難といった概念とのアナロジーで軽々に正当化してはならない。
確かに、戦争は国家によって取られる緊急行為であって、国際法上、この行為は武力不行使原則の適用除外(例外)として位置づけられている。
これに対して、憲法体系という国内法で統制しようとする領域は、武力行使のための恒常的実力組織(正規軍)を建設するか否か、建設するとすればその程度如何といった、緊急事態の準備段階にある。
この準備段階を正当防衛等の概念で正当化してはならず、その段階の選択は、国内法たる憲法典によって統制すること可能である。

[272] (三)日本国憲法九条は武力不行使原則を徹底させた


伝統的には、「自衛権」とは、相手国の武力行使に対して武力でもってこれを排除する行為を指した(これを「伝統的意味での自衛権」と呼ぼう)。
国連憲章51条等、国際法上にいう「自衛権」もこれを念頭に置いて、国際機構によるその制約を模索してきたのである。

ところが、自衛行為は、武力によるものに限定されるわけではない。
自衛行為として、電波妨害、侵入国に対する租税支払拒否等の不服従もあり得る。
これを「広義の自衛行為」と呼ぼう。

国家は、自衛行為の態様と、そのための装置を憲法典によって選択することが出来る。
その際の選択肢には、武力不行使原則を徹底することを選びとって、伝統的意味での自衛権を放棄し、広義の自衛行為だけを許容したものと解される(国際政治上の事実からしてその選択が賢明であったか否かの議論は、また、別である)。

学説のなかには、この徹底化を、政治的目標であって、法的意味なしと理解するものもみられるが、これだけの重大な決断を憲法典に組み入れながら、法的意味なしとする理解は不可解である。
もともと国際社会においても、武力不行使原則は、法的意味を持たされてきたのである。

[273] (四)我が国の通説・判例は「自衛権」存在を肯定するものの、その意味のとり方を異にしている


9条と「自衛権」との関係につき、学説は、次のように大きく分れている。
自衛権が「広義の自衛行為」を含まないとの前提に立って、9条が伝統的意味の自衛権そのものを否定した結果、全ての武力の維持と行使が放棄されている、とするA(全武力放棄)説
伝統的意味の自衛権は否定されるものの、広義の自衛行為(ある論者の表現によれば「武力によらない自衛権」)だけは容認されている、とするB(伝統的自衛権放棄)説
国家には固有の伝統的意味の自衛権が認められている以上、「戦力に至らない武力」の維持と行使は許されている、とするC(非戦力的武力合憲)説
9条は自衛戦争まで放棄しておらず、自衛の手段としての「自衛用の戦力」保持も禁止していない、とするD(自衛戦力合憲)説

右の学説のうち、近時有力になっているのが、C説である。
この説は、「国際紛争を解決する手段としては」の限定は、「戦争」、「武力による威嚇」、「武力の行使」のうち、後二者にかかるものと読む。
換言すれば、「戦争」は全面的に禁止されているのに対して、後二者は限定的に放棄されている、と理解するのである。
この理解からすれば、自衛権行使の範囲内で武力を行使すること、そのための装置を維持しておくことは、9条によって禁止されていないことになる(佐藤・650~1頁)。

しかしながら、「戦争」の原則禁止から「武力による威嚇」の禁止にまで拡大してきた国際法上の展開に鑑みた場合、「戦争/武力行使」、「軍隊/非戦力的武力」という区別自体成立し難く、この見解の説得力は大いに疑問である。

[274] (五)判例は国家の自衛権を基本権と捉える傾向にある


判例の主流は、学説でいうD説に与してきている。
まず、砂川事件上告審判決(最大判昭34.12.16、刑集13巻3225頁)は、「わが国が主権国としてもつ固有の自衛権」というお馴染みの表現に拠りつつ、9条がこの自衛権を否定していないこと、無防備・無抵抗を定めたものではないこと、を指摘した。
百里基地訴訟第一審判決(水戸地判昭52.2.17、判時842号22頁)も、伝統的意味での自衛権を国家の基本権と捉えたうえで、9条は、自衛権行使のための有効な防衛措置を予め組織することを禁止していない、とした。

これに対して長沼事件訴訟第一審判決(札幌地判昭48.9.7、判時712号24頁)は、「わが国が、独立の主権国として、その固有の自衛権までも放棄したと解すべきであに」としながらも、だからといって伝統的意味での自衛権行使が容認されているわけではなく、「民衆が武器をもって抵抗する群民蜂起の方法」等の、軍事力によらない方法によるべきことを説いた。
しかし、民衆による抵抗は国家による行為ではなく、これを自衛行為と位置づけることは正しくない。

なお、内閣は、
(a) 9条1項によって放棄されているのは「国際紛争を解決する手段」としての戦争にとどまり、自衛のための実力行使は放棄されていない、
(b) 9条2項にいう「前項の目的」とは、国際紛争解決手段としての戦争を放棄することを指し、その目的達成のための「戦力」保持は禁止される、
(c) 「戦力」とは、自衛のための必要最小限度の一線を超える実力をいう、
(d) 現在の自衛隊は自衛のための必要最小限度の実力に該当し、違憲ではない、
と解釈している。


■ご意見、情報提供

※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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■巻末資料


人名解説

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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)   巻末   人名解説

<目次>

◆イェリネック


G. イェリネック(1851~1911):ドイツの公法学、行政法学者、国家学の集大成者。
彼は、当時の狭隘な法実証主義に反対して、法学を哲学・社会学と結合せんと目指した。
なかでも、社会学的に考察した国家を、法学的に再構成しようとした大著『一般国家学』(芦部信喜監訳、学陽書房)が、その成果である。
同著作において、彼は、社会学的国家概念と、法学的国家概念とに分けながら、国家を把握せんとした。
彼の有名な国家法人説は、この視点からの産物である。
また、その公権体系論は、人が人であること、また、人が法人において一定の地位を占めること、に応じて各種の公権を類型化したものであるが、これは、人権概念を否定する当時のドイツ国法学に対抗する理論であった。

彼は、事実学と規範学とを区別する新カント派の哲学を基礎としながらも、存在(事実)と当為(規範)とを結びつけるものを「事実的なるものの規範力」に求めた。
これが、事実の観察から規範を説く、彼の有名な「方法二元論」である。
彼の二元論は、事実と規範とを結びつける要因である社会心理的事実、すなわち、人々が事実を規範として受容すること、において一元化された理論ともなっているのである。
しかしながら、その一元化は不徹底であった。

彼の理論は、美濃部達吉に強い影響を与えた。
美濃部が、天皇機関説を提唱したのも、国家という法人における天皇の地位を解明しようとしたからである。

◆ケルゼン


H. ケルゼン(1881~1973):事実と規範とを峻別する新カント学派の哲学に依拠し、法実証主義を徹底させたオーストリーの法哲学者。「純粋法学」の創始者。その代表作に『一般国家学』(清宮四郎訳、有斐閣)がある。
彼の思索の出発点は、イェリネック批判にある。
すなわち、イェリネックのように、国家は自然の領域に存在するものとの前提にたって、それを社会学的分析対象とする視点が誤っている、とケルゼンはみたのである。
そのうえで彼は、国家は法学の対象であって、法学的にのみ把握可能であると考え、《国家とは法秩序そのものである》、と説いた。
また、新カント学派の視点を徹底させて、《規範は規範からのみ生ずる》とも主張した。

彼は、法とは権利・義務等の帰属関係を表示する特殊な規範であると捉えて、帰属関係の始源に「根本規範」を仮設した。
ケルゼンの純粋法学は、H. ヘラーによって、「国家なき国法学」と批判され、また、自然法学者によって、所与の実定法を鵜呑みにする「規範支配」の信仰を生み出した、と批判され、さらにC. シュミットによって、「規範を生み出すものを忘却している」とも批判された。
ケルゼンの理論は、宮沢俊義、清宮四郎等、戦後の我が国の指導的憲法学者に強い影響を与えたが、宮沢・清宮は、ケルゼンほど、法実証主義に徹底的にコミットした訳ではない。

◆シュミット


C. シュミット(1888~1985):ドイツの政治的憲法学者。彼は、新カント学派の方法論とは別の法哲学に依拠して、国家と法の根源を考えた。
その着想は、政治的極限状態における法と国家の役割を考えることにあった。
彼は、例外的極限状況において決断することこそ、主権者の役割であるとみなした。
すなわち、彼によれば、法秩序の究極的根拠は、主権者の決断にあるのである。
これが、彼の有名な決断主義であり、《意思の力が法を作る》とする、バリバリの法実証主義の思考である。
この思考による限り、合法性を正当性に還元すべきではなく、主権者が意欲すれば足るのである。
これが、彼の代表作『憲法理論』(尾吹善人訳、木鐸社)にみられる憲法制定権力論である。

彼は、この決断主義によって、存在と当為との溝を埋めることに成功した、と信じていたが、晩年には、決断主義が存在と当為の対立を止揚しなかった、と自己批判するに至る。
また彼は、自由主義が個人の価値を基礎とするのに対して、民主主義は全体の価値を探求するという点で、両者は両立し難い思想体系であることを説いた。
彼は、また、議会が政治的利害の妥協の場と成り下がっていることを痛烈に批判したことでも有名である(間接民主制批判)。
彼にとっては、国家と個人の間に何らの異物の存在しない、透明な統治体制こそ、理想的であった。
シュミットは、基本権の主体を個人に限定したかったために、個人以外の利益が憲法上保障されている場合、それを「制度的保障」と称したのである。

◆ホッブズ


T. ホッブズ(1588~1679):1640~60年のイギリス革命期の真っ直中に育った政治思想家。
彼は幾何学を好み、幾何学に基づいた政治学の体系を樹立したいと考えた。
その成果の一つが、1651年に出版された『リヴァイアサン』(水田洋訳、岩波文庫)である。
その著作での彼の理論は、心身の能力の平等な諸個人が自己保存権を自然権として有することから出発した。
これが、「万人の万人に対する戦い」という自然状態である。
国家は、諸個人がこの自然状態から抜け出るために考案された(社会契約という形式をとる合意によって成立する)人為的構成体である。

ホッブズは、「如何にデモクラシーは愚かであるか、それに対して、一人の人間は如何に賢明であり得るか」と確信していた。
ために、彼は、平和維持のための装置である国家において、絶対主権をもった君主が君臨する必要を説いたのであった。
もっとも、彼は、そのことから連想されるほど、保守反動の輩ではない。
一言でいえば、彼は、ラディカリストであった。
私の『憲法理論Ⅰ』は、保守反動とのラヴェルを貼られるかも知れないが、私自身は、ラディカル・リベラリストを標榜しており、その立場からすれば、ホッブズに限りない共鳴を覚えている。
以来、近代啓蒙思想家たちは、ホッブズ理論を乗り越えようとして、懸命な思索を繰り返したのである。

◆ロック


J. ロック(1632~1704):イギリスの哲学者、政治思想家。
ロックは、その代表的著作『市民政府論』(鵜飼信成訳、岩波文庫)において、ホッブズ理論を乗り越えようとした。
ロックにとって、ホッブズ理論の欠点は、絶対的主権によって諸個人の共生が初めて保存される、という点にあった。
ホッブズ理論は、人々が共に生活するに当たって、社会において労働し生産するという相互行為を見逃しているのではないか、これが、ロックの診断であった。
だからこそ、彼は、自然状態において人々が労働し、生産するためにも、「生命、自由、財産」が自然権として保障されなければならない、と強調したのである。

ロックの社会契約論は、二段階理論となっていることに、我々は注意しなければならない。
第一段階は、諸個人が契約を締結することによって「市民社会」を樹立する段階である。
第二段階は、市民社会における市民が契約によって政治権力を生み出す段階である。
「政治権力」は、統治のための「道具」として、市民が合意によって作り上げたものであるからこそ、必要とあれば、市民たちは、王の首を別の王の首に、政府を別の政府に、置き換えることが可能なのである。
その考え方が、アメリカ独立宣言に取り入れられたという事実は、余りにも有名である。
私自身は、ロックはイギリス経験論者であるというより、大陸流の超越論者に近い、と位置づけている。

◆ルソー


J. ルソー(1712~1778):フランスの文学者・政治思想家。その代表作が、『社会契約論』(桑原武夫他訳、岩波文庫)
ルソー理論も、ロック等と同様に、社会契約論を説いた、と一般にいわれるが、ルソー以前の理論が、自然状態→社会状態→国家状態という二つの移行を、二段階の社会契約によって説明したのに対して(右のロックの解説をみよ)、ルソーは、社会状態から国家状態への移行を一段階の社会契約で解明しようとした。
『社会契約論』における彼の狙いは、はっきりしている。
各人が他の全ての人々と結びつきながらも、しかも、自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由である国制の形式を解明すること、これである。
これこそが彼にとっての根本的な問題であり、社会契約がそれへの解答であった。
ところが、社会契約によって成立した国制において、誰が実際に支配すべきか、という論点でのルソーの解答は、実にナイーヴであった。
彼は、「人民」が支配すべきである、と答えた。
彼の理論において、人民は「一般意思」を具体化する単一の人格である、と単純に片付けられた。
その理論は、共産主義や社会主義を信奉する人々によって何度も援用された。
F. ハイエクや K. ポパーのような自由主義者にとって、ルソーのごとき人民主権論は、人類の歴史上、多くの不幸で破壊的な政治的効果をもたらす元凶以外の何物でもなかった。
社会科学者としてのルソーの全ての著作、『エミール』、『不平等起源論』は、私の見解とは全く相容れない。
文学者としてのルソーの作品と理解するのであれば、話は別であるが。

◆ダイシー


A. ダイシー(1835~1922):イギリスはヴィクトリア王朝期のコモン・ロー研究者。その代表的著作が『憲法序説』(伊藤正巳=田島裕訳、学陽書房)。
ダイシーは、その著書において、国会主権、法の支配、憲法習律について、理論を展開した。
その中でも、「法の支配」を論じた部分が、最も有名である(本文の[71]をみよ)。
彼の『憲法序説』は、モンテスキューの著作と同様に、あたかも聖書であるかのように、扱われた時期もあった。
ところが、彼の理論体系は、「積極国家」を擁護する多くの論者から厳しい批判を受けることとなった。
批判者によれば、ダイシー理論は確固とした体系をもっているものではなく、同書の出版時点の時代、つまり、19世紀的な消極国家に妥当した理論に過ぎない、というのである。
特に、「イギリスにはフランスのような行政法は存在しない」という彼の理論につき、批判者は、①ダイシーのフランス行政法の理解が不正確であること、②イギリスにも行政法特有の理論が認められていること、を衝いた。
確かに、本文の[72]でふれたように、ダイシーの理論は、様々な難点をもっていた。
我々の「あと知恵」に照らして批判することが許されれば、その最大の難点は、国会主権と法の支配との対抗関係を軽視した点にあった、といわざるを得ない。
国会主権とは、国会の制定する法律が基本権の内容と限界を画定できる、と承認することである。
とすれば、それは、まさに、法実証主義的な思考とならないか、と疑問視されざるを得ない。
実のところ、ダイシーは、分析法学者として著名なJ. オースティンの影響を受けていた学者であった。
彼の理論は、基本権(人権)を本来絶対的なものとみるホイッグ的自由主義とは、もともと異なっていたのである。

◆ハイエク


F. ハイエク(1899~1992):オーストリー生まれの万能の社会理論家。現代のA. スミスともいわれる人物。
ケインズ理論に反対し、「福祉国家は隷従への道」と説く。
また彼は、理性によって社会を意図的に改革する「設計主義・合理主義」に反対し、自由な人々の営為の積み重ねによって生まれ出る「自生的秩序」の価値を説いた。
市場の秩序は、まさに、個々人の行動の結果ではあるが、誰によっても事前に設計されたものではない、自生的なものである、というのである。
彼の思想体系は、『ハイエク全集』(春秋社)に集約されている。
その中でも、『自由の条件Ⅰ~Ⅲ』が有名。
もっとも、彼の思考のエッセンスを知ろうとすれば、『法・立法・自由Ⅰ』が最善である。
ハイエクは、最低限の社会保障、徴兵制を容認する点で、ノージックほどの自由至上主義者ではなく、「古典的自由主義者」とでも評しておくべきか。
彼のいう、「法/立法」、「自由主義/民主主義」、「デカルト的合理主義=大陸的啓蒙思想/反合理主義=スコットランド啓蒙思想」といった区別は、合理主義的な法学教育を受けてきた我が国の研究者・学生にとって、超刺激的である。
ハイエク理論が阪本『憲法理論Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』の基礎となっている。

◆ハート


H. ハート(1907~1992):英米における法哲学の最高峰といってよいイギリスの法哲学者。その代表作は『法の概念』(矢崎光圀訳、みすず書房)である。
通常、ハートは「法実証主義」者である、といわれる。
しかしながら、その評価は、法実証主義の理解にもよるが、正確ではない(「法実証主義」の意味については、本文の[34]をみよ)。
ハートの法理論は、実証主義哲学を基礎としているというより、日常言語学派の哲学を基礎としたものと理解するほうがよい。
哲学は、様々な課題を対象とするが、ある時期、哲学は、哲学自身を語るための「ことば」について、その日常的な用法に目を向けて分析してみることの重要さに気づいた。
この思考が一つの学派を成し、「言語行為論」と呼ばれる学問体系になっている。
例えば、「私は、君に会うために、明日10時にここに来よう」と、私が貴方に言ったとき、その私の発言は、客観的事実を報告しているわけでもなければ、内心での主観(意思)を外部に表明しているだけでもない。
私は、そう言いながら、約束するという行為を為しているのである。
ハートの法理論は、ルールが言葉の使用の中に自生的に、すなわち、計画的に作られるわけではなく、意図しないで反復継続される行為の中にいつの間にか、生まれ出る、という視点の上に樹立されている。
この自生的なルールを、彼は「一次ルール」と呼んだ。

小さな社会においては、人々は、一次ルールに従って生活することができたのであるが、大きな社会においてはそうはいかない。
大きな社会では、《一次ルールが、この社会のルールとなっている》、と確認するためのルールが必要となる。
ここに登場してきたものが「二次ルール」である。
ある社会に一次ルールと二次ルールとが存在するとき、《そこには法体系が存在する》、とハートは言うのである。

ロックにせよ、ケルゼンにせよ、ハートにせよ、世に知られた法理論家は、例外なく、言語の哲学に関する定見を持っていた。
彼らの立場が、それぞれ異なるのは、その依拠する言語哲学の違いを反映しているのである。
読者の皆さん、言語哲学を軽んずるなかれ。

◆ノージック


R. ノージック(1938~):ハーヴァード大の哲学教授。他者に対する強制だけを排除するための強制力を独占する最小国家が、最もユートピアに近いと考える、「リバタリアン(=自由至上主義者)」の旗手。
その代表作として、福祉国家、国家による平等の実現に反対する『アナーキー・国家・ユートピア』(島津格訳、木鐸社)がある。
同書は、巧みな比喩、読者を引き込むような例を頻繁に用いながら、多くの識者が慣れ親しんできた、ステレオタイプ思考に激しく揺さぶりをかけ、全米図書賞の栄に輝いた。
先にふれたハイエクと同様、方法論的個人主義に徹する。

方法論的個人主義に徹する論者は、共通して、公共的利益、社会的利益という芒洋とした概念を徹底して疑う。
また、階級とか国民を、実体化しないのである。

もっとも、最近、彼は宗旨替えしたのか、最小国家論から撤退して、共同体主義に近づいているといわれる。
共同体主義とは、コミュニティにおいて人々が共通善に向けて献身することの中に正義は現れる、とする見解をいう。

◆ロールズ


J. ロールズ(1921~):ハーヴァード大の哲学教授。立憲国家のみならず、福祉国家の理論的正当化を、その著作『正義論』(矢島欽次監訳、紀伊国屋書店)によって、初めて完成させた哲学者。現代のカントとでもいうべき人物。
彼の『正義論』は20世紀最高の哲学書である、との評価すらみられる。
その著作は、素朴な社会契約論の弱点を回避すべく、仮想的に「始原状態」という、損得の予想のつかない状態を想定したうえで、全員が納得できる命題に到達することを説く。
全員が同意する命題こそ正義である、とする「同意(契約)理論」の旗手。
彼のいう、二つの正義原理については、本文の[90]をみよ。

彼の正義論は、英米で圧倒的な影響をもってきた功利主義の正義-その最も単純なものが、「最大多数の最大幸福」を実現することこそ、正義である、とする立場-に対抗して、それぞれの個々人が享受すべき自由は、「最大多数の最大幸福」を破って、保障されなければならない、ということを説く壮大な理論体系である。
もっとも、私自身は、ロールズ理論には、数多くの疑問を抱いている。
彼は、精神的自由や政治的自由の保障と、経済的不平等の是正(経済的弱者のための所得再分配)とが、厳しい緊張関係にあるとはみていないようである。
私のロールズ批判については、『憲法理論Ⅱ』 [32]、『憲法理論Ⅲ』 [468] をみていただきたい。

◆モンテスキュー


Ch. モンテスキュー(1689~1755):フランスの政治思想家。
彼は、人間とその社会が、歴史現象と常に緊張関係にある、とみた。
彼の代表作、『法の精神』(野田良之他訳、岩波書店)が、法を宗教、経済、人口、風土、習俗等との相互連関のなかで捉えようとしたのは、そのためであった。
従って、『法の精神』は、正統派の啓蒙思想の書というよりも、歴史哲学の書、つまりは、歴史法則を求めるための書であるといったほうがいいかも知れない。
彼の最大関心事は、ある社会における矛盾・対立のなかから、いかにして均衡が生み出されるか、という社会法則を見出すことにあった。
だからこそ、その著作が、『lois(自然法則、法)の精神』と題されたのである。
彼の発想は、今日いわれる「弁証法」的な思考といってもよいだろう。

『法の精神』は、不思議なことに、ホッブズ、ロックとは違って、社会の状態や国家の成立に何の関心も示していない。
モンテスキューにとっての主題は、成立後の国家における法、正義、権利、政体、を論ずることにあった。
同著作の最も著名な箇所が、第一部第11篇第六章の「イギリスの国制について」である。
彼は、この章において、政治的自由の保障にとって理想的な国制は「混合政体」である、と説きたかったのである。
モンテスキューをもって、民主的理論の提唱者である、と考えるとすれば、それは浅慮である。


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※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。
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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)


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最終更新:2019年12月29日 01:24
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