第28回市民のための自由なラジオLIGHT UP

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第28回市民のための自由なラジオLIGHT UP、今週は女優の木内みどりさんの司会で放送されました。木内みどりの指さし確認、です。  木内さんの近況、河合弘之弁護士のゲストの回で、中国残留孤児の皆さんの水餃子の件を紹介されたら、売れており、水餃子は通常夏は売れないのに、全国から注文でうれしい悲鳴ということであり、ラジオを聞いて注文された人が多かったのです。  今週のゲストは四國光さん、多くの方はご存じないと思いますが、画家の四國五郎さんの息子さんで、広島を描かれた父のことについて語られます。  前半のお話、木内さんは友人の方から、これ読んでと一冊の絵本を渡されて、大変な感銘を受けて、四國五郎さんに関心を持って、そして息子さんの光さんに会われて、五郎さんについて調べられて、素晴らしいが画であり、生前にたくさんの絵を描いて、売らずであり、戦争に行かれて、シベリア抑留3年、家に帰ったら、弟が広島の原爆で2か月後に亡くなり、少年期から画家になろうと、絵を描いて戦争はだめだ、平和のためにと絵を描かれて、その五郎さんについて、光さんのお話であり、父親にばかり聞かれる人生は、生きているうちは画家より父親で、亡くなって父の書いたものを読んで、戦争はダメ、平和の尊さを訴えた父に感銘を受けて、シベリアから帰ってから、亡くなるまで一貫しており、死後たくさんの絵が出てきて、子供の頃に書いた絵、東海道五十三次を中学時代に模写されて、貧しいので絵の専門の教育は受けられず、絵を模写して学び、自由な時間の大半は絵に費やして、弟さんも画家を目指して、しかし戦争に取られて、その時期に福島菊次郎さんとすれちがい、五郎さんと同じ師団に福島さんおられて、互いに知っていたかは不明だが、それでも奇遇であり、父の書き残したものによると、戦争に行く前に3冊のスケッチブックを持っていき、軍隊の中でも隠れて絵を描いており、福島さんはそれをご覧になった可能性はあり、木内さんも菊次郎さんの亡くなる前に会われて、これも奇遇で、そして敗戦後五郎さんはシベリアに抑留、60万人、そこでも絵をマイナス50度!の中で、強制労働、飢え、日本人の上官によるリンチ!軍隊の制度は敗戦後も収容所に持ち込まれて、父は最下級の兵士で、殴られて、顔の形が変わるくらいであり、アウシュヴィッツの夜と霧のことにもあり、描くことで命をつなぎ、生きる目的を作り小さい、クレジットカードくらいの紙のノートを作り、そこに細かい字で単語のみ書いて、それを靴の中に入れて、何とか持ち帰り、飯盒に仲間たちの名前を書いて、黒いペンキで隠して、これは禁じられて、分かったら命はなく、収容所のことをばらすのはスパイで、見つかったらまたシベリア送りであり、覚悟のうえでやり、シベリアでも血を吐いて臨死状態、しかし生き残ったからには伝えるべきで、そこまでシベリアから持ち帰った人は少なく、シベリア抑留者は多く、当時のことをロシアの協力も得て調べており、そこに五郎さんの豆本も役に立ち、五郎さんは絵と文章で再現して、それは1000ページくらいのものであり、それを父は見つつ、戦後絵を描いて、父の特殊な能力か、絵で記憶したものを再現することに、特殊な能力を持っていたのです。そして、抑留から帰ったら、弟が亡くなっていたのです。 LIGHT UPジャーナル、今週は、今西さんが元京都大学原子炉実験所の小出先生に、福島作業員の白血病による労災について聞かれたものが取り上げられました。今西さんが小出先生を松本で取材された際に、松本市長での収録であり、小出先生、今西さんに松本まで来られてありがとうございますと言われて、今西さん、松本は大阪より涼しいと言われて、小出先生快適であり、松本市民の9割がこの町はいい町だというほどと言われていたのが納得できると指摘されて、厚労省が8/19に福島の作業員の白血病を原発作業が原因と、労災認定し、労災認定はこれで2例目で、「労災認定は少なすぎる」、もっとたくさんの人たちが病気になり、白血病他で苦しまれて、しかしそれを労災として認定しない悪例だと指摘されました。  この作業員は2011/4~2015/1まで3年9か月、機械の修理に従事されて、積算被ばく線量は54.4ミリシーベルトの被曝であり、一般の方は年間1ミリシーベルト以上被曝してはならず、つまり一般人の50年分の被曝をこの方はされて、放射線業務の従事者は20ミリ、この方は3年9か月働いかれて、マックス70ミリだから、限度ギリギリの被曝をさせられて、被曝は人により影響は異なり、個人差はあり、それで上限ギリギリでも安全は保障されず、年間20ミリシーベルトの基準は、労災があり、被曝作業での労災で、20ミリまで我慢しろと、限度近くまで被曝させられることは作業の中であり、福島では他にもけがをした人はあると今西さん指摘されて、一番つらいことになるのは最前線にいる労働者であると言われて、他方東電は誰も全く責任を取らず、暑い中涼しい中で仕事をしており不合理と言われて、小出先生、今は自民党政権、経済最優先と安倍総理は言っても、正規雇用は減って非正規雇用が増えており、福島の現場はドアホノミクスの縮図、現場で働くのは非正規、東電の社員が被曝限度になっても首にはならず、むしろ他の仕事について給料ももらえるが、しかし福島の作業員は被曝限度になったら首になる=給与がなくなる=路頭に迷う、そういう労働者が放射能と闘っており、雇用主も、労働者を失うと困るので、被曝量を少なくさせるようにして、ごまかし方を教える始末であり、そして労働者が被曝線量を低く自分から見せているのが悲しい(つまり、労働者が自分の首を絞めない限り生きていけない)と、小出先生、締めくくられました。  木内さん、沖縄、高江でオスプレイの基地に抵抗する市民を政府は警備員を山のように入れて弾圧して、新聞の記者章を持つ沖縄タイムスや琉球新報の記者さんも拘束されており、これをNHKはもちろん、多くのマスメディアが伝えず、こういうことを報じる自由なラジオへの寄付の依頼がありました。  ここで音楽、四國光さんのことを考えて、山本ディレクターのリクエスト、ビートルズのイマジン、この番組にも出られた大島花子さんの歌によるものです。これはyou tubeにありました。 https://www.youtube.com/watch?v=3AmIaj1lQTw  後半のお話、前半のことで四國五郎さんのこと、永田浩三さんが五郎さんのことを書かれた本を出されて、そして光さんに、五郎さんが帰ってきて、母と再開して、しかし最愛の弟が被曝して亡くなったことを知り、本来東京に出て絵描きになるのを夢見ていたのに、弟の死を知り、二人で画家になることを夢見ていたが、東京に行かず、広島のために描くことにして、絵を描く=戦争はダメだとして、そこから1ミリもぶれず、本当に絵を売らず、広島の画廊の方のお話でも、五郎さんは絵を売らず、画廊としては売りたかったのに、欲しい人には描いたタダであげて、五郎さんの絵は売り物ではなく、平和のためのメッセージであり、売ってしまうものではないという意識が強く、最後の画集があり、広島の仲間たちが作り、それに800枚の絵を収録し、広島市が絵をデジタル化して、ポジの使用権は広島市、平和都市に寄贈して、広島には世界から様々な情報が集まり、そこに父の絵を活用してもらったらとして、使用権は広島市に渡して、木内さんも素晴らしいと言われて、しかし五郎さんは子供二人を抱えて、どうやって生きていたか、シベリア帰りは就職差別があり苦労されて、しかし運よく広島市に臨時採用されて、原爆で多くの職員が亡くったためで、本人は絵、詩が本職でも、市役所の職員として生計を立てて、そして絵はお金を取らず、五郎さん忙しいと言いつつ、自分の絵を描く時間は少なく、一時期は広島市の職員さんの名刺に五郎さんの絵、広島の母子手帳の絵も五郎さんのものであり、自分が描くだけではなく、被爆体験のある方に助力して、NHKの番組で、こういう体験を描いてほしいと呼び掛けて、それで4000~5000枚の被爆者の方の絵が集まり、今は資料館にあり、記憶を頼りに描いて、絵に力があり、原爆は人類が体験したことはなく、本当は体験してはいけない地獄であり、人類で唯一無二の被爆体験は表現するのは苦しく、被爆者と公表したら差別されて、光さんの母親もそうであり、しかし表現することで癒されることもあり、皆さんに描いてもらい、五郎さんも集まるかと思っていたら、堰を切ったように集まり、絵と、戦争を体験された方は、今は90歳前後であり、その中で、光さんの思いがあり、父の業績をどう世界に伝えるのか、光さんの仕事により、五郎さんの世界での評価は変わり、光さん、大きなミッションであり、被爆者、原爆の絵、写真、文学は生きた教科書であり、それを知ることこそ、戦争を防ぐ抑止力になり、次の世代に受け継いで、人類として体験すべきでない核を拒否する力にするために、父の残したものを役立てたい、それが父の遺志であると言われて、五郎さんは子供たちを愛しており、子供の頃はやさしく、放任主義、勉強しろどころか、それより遊べであり、よく言われたのは、戦争を起こす人間に対して本当に怒れであり、自分の価値観の根幹を子供に伝えたく、光さん、外でけんかして、つまらないことで怒るな、本当に悪い奴は戦争を起こすものだと言われて、もう一つは消費するだけでなく、自分で作る人間になれと言われて、しかし光さんはそれを裏切ってしまい、光さんは最近退職、務めておられたのが何と電通であり、しかし光さんには大きな使命があり、亡くなった父が残したものは、当初父の遺品としてから、歴史に残すべき公共物として残すべきということで、五郎さんの描いた御幸橋は大きく変わり、次の世代に継承するために、何をすべきか、本なのか、何かで恒久的に残すシステムを作りたいと言われて、木内さん、光さんの書かれたもの、父の他人への礼儀正しさは見事であり、父は犬や猫も好きで、人間のように丁寧な言葉で接したと言われるもの、これは不思議であり、歳を取ってからも若い人にもていねいな言葉で接して、犬、猫も人のように接し、猫を連れて帰るなどあり、絵や文章では平和のために人生をささげた人ではあるが、実際の五郎さんは家でもひょうきんであり、木内さん、絵で伝えるものは絵で、言葉で伝えるものは言葉で、と、折り鶴の歌、五郎さんの自筆で、岸田今日子さんが朗読されたものがあり、広島の平和大会で岸田さんに読んでもらうためのものであり、この詩が素晴らしいと木内さん言われて、折り鶴を折った娘が放射能で亡くなったものであり、岸田さんもその後亡くなったものの、この詩を、木内さん読みたいと言われて、四國五郎さんのことを言いつくすには番組が30回いり、これを読んで四國五郎さんに興味を持たれた方は、フォローしてほしく、事実、記録の宝庫で、コマーシャリズムには乗りにくいので、皆さん追ってほしいと言われて、光さんの小冊子、四國五郎の伝えたかったことを木内さん紹介されました、木内さん、四國五郎さんの絵は大切にしていきたいと締めくくられました、以上、四國光さんのお話でした。  今回の内容、木内さん、これからも市民の小さな声に耳を傾けて、マスメディアを伝えないことを伝えたいと締めくくられました、以上、今週の自由なラジオでした。

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