【劇毒処刑人/淫魔の泉】


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天馬産業の第3工場は何を造っているのかは誰も知らなかった。従業員達は車の部品だと聞いていたが、本当に車の部品かははっきりしていなかった。自衛隊の秘密兵器の部品ではないか、という噂も流れていた。
また、企業の怠慢というやつで、この何を作っているかわからない工場からの廃液は地下パイプを通り、そのまま近くの川に一切の浄化作業も行われずに流れ込んでいるのは今も昔も変わっていなかったが、それを気に留める住人もいなかった。
また、この第3工場は昼夜を問わず近辺に轟音を撒き散らし続けているが、近隣住人は文句こそ言えど抗議活動はしなかった。
なぜなら彼らを活かしているのは天馬産業だからであり、もし天馬産業の逆鱗に触れたら何をされるかわからなかったからだ。
住人達の間では、第3工場の出す騒音に堪えきれずに爆弾を仕掛けた者がいて、その住人は翌日から姿が見えなくなっただの、どこかの工場のトイレで首吊り自殺した工員は前日に備品を盗んでいた、だの根も葉も無い噂が流れていた。
ただ、工場の近辺で数人が失踪している事は事実であった。


4月22日


19時になると、第8工場はすっかり静かになり、動きを止める。ここの従業員は子供がいる親が主で、腹を空かせた子供達の為に早く仕事を終える必要があった。
2年ほど前に共働きの親達がそのことで苦労しているのに気付いた天馬産業は、彼ら全員を第8工場に異動させ、彼らの勤務時間を減らしたのだ。元々第8工場は会社にとってさほど重要でない「靴べら」の生産を行っていたため大した損害は発生しないからだ。



ここで働いている美奈子はトイレのためにバスを乗り過ごしてしまい、工場の玄関を背にひとり寂しく次のバスを待っていた。
美奈子の住んでいる家は商業・居住区の中でも工場からかなり離れた場所にある。バスに乗らずに徒歩で帰るのは非常に時間がかかる。故に工場の前でバスを待った方が早く帰ることができた。
月は雲に隠れていた。工場の前は外灯の明かりがひとつ、ぼうっと辺りを照らしているだけだった。かなり心細かったが、6歳になる息子の事を想うとなんとか寂しさを紛らわすことができた。
美奈子が腕時計を見ると、19時20分だった。バスはあと7分で到着するはずだ。
腕時計から顔を上げると、外灯の下に太った男がいた。男は黒髪を肩まで伸ばし、Tシャツにジーパンを履いていた。少なくとも、ここの従業員ではないことは確かだった。美奈子と男の距離は約5メートルだった。
美奈子は不気味に思ったが、相手が何もしてこない限りこのままでいることにした。もし、体を触ってきたら護身用にポケットに忍ばせた折り畳みナイフで切りつけてやろうと思った。
男に気付かれないように、俯きながら視線を男に向ける。同時に右手をズボンのポケットに突っ込み、鍵を探すふりをしてナイフを確かめた。
その時、男は突然美奈子に向かって走り出した。全身に付いた肉が揺れている。ナイフを取り出そうとするが予想以上に男のスピードが早い。
右手がポケットに入ったまま男に押し倒され、扉に倒れ込んだ。扉はふたりの体に押される形で開いた。美奈子は男に向き合う形になった。頭を強く玄関のコンクリートに打ち付け、視界が歪んだ。朦朧とした意識でナイフを取り出そうとするが、両腕は男に押さえ付けられていた。
逆光になっているが、近くで見ると男の顔がいかに醜いかよくわかる。顔全体にゴマを散らしたような酷いニキビ面で、その中に軽く失敗した福笑いがあった。厚ぼったい唇は数字の3のように飛び出し、鼻は豚、左右の目の位置が明らかに上下でズレていた。
美奈子の顔に至近距離から臭い息がかかる。豚の鳴き声のような音が男の口から洩れていた。何日も掃除していないザリガニの水槽の臭いがした。美奈子は顔をしかめた。男の白く汚れた舌が伸び、美奈子の鼻を嘗めた。糊を思わせる粘性の涎が柔肌を覆い、舌が鼻から離れると共に糸を引いた。
美奈子の目から涙がこぼれ落ちた。男はそれを見て息を荒げた。
「ちょっと、ボクのネコちゃんは無事だろうね?」
声は美奈子の真後ろから聞こえた。真後ろに、扉の奥の闇に視線を向けた。
暗闇の中から巨大な逆さまの電球がじわじわ現れるところだった。電球は肌色だったが、掘られたようなヘソが見えたので、それがとてつもない巨漢だというのがわかった。外灯に照らされてその巨大な体が明らかになる。
美奈子は声も出なかった。男への怒りと犯される悲しみでいっぱいだった彼女の心は、驚愕と恐怖に塗り替えられた。
まずその大きさに驚いた。天井に頭が届くほど背が高く、3m近くあるように見えた。
美奈子の遥か上、天と地ほどの高さから、丸ぶち眼鏡を掛けた角刈りの丸っこい顔が彼女を見下ろしていた。
問題はその下だった。まばらにヒゲが生え、脂肪でたるんだ顎の下から肩までが壺のように滑らかで、いかに男が太っているかを主張していた。腹は電球のように凄まじい程に膨らんでおり、腰を完全に隠してしまっていた。腹から直接生えているように見える足は、ドラム缶をふたつ並べたようで、裸足だった。不思議なことに左腕には殆んど脂肪がついておらず、指先が床に届くほど長い。
だが、その容姿に加え、彼女が最も恐怖したことは、奇妙な形状をした右手だった。その体格に不釣り合いに細く長い右腕の先の右手はあるべきはずの5本の指はなく、たったひとつ、肌色の蛇の頭のような肉塊が生えていた。肉塊全体をてらてらした粘液が覆っていて、その口に見える部分からは白い牙が覗いていた。
「春樹、そこをどいて。」
明太子を思わせる唇が開いて、ねちっこい声を出した。隙間からは白く平たい歯が除いていた。
春樹と呼ばれた男はいそいそと美奈子の上から退いて、背後の闇に消えた。
美奈子は男から解放された安心感でこわばっていた体がほぐれたが、恐怖はまだ消えなかった。
美奈子は眼鏡の男とふたりきりになった。
眼鏡の男は黙って美奈子を見つめていた。ただ息が荒かった。
突然左腕が伸び、美奈子の肩を掴んだ。美奈子は暴れたが、思った以上に力は強く、指は離れない。獲物を逃すまいと更に指が肩に食い込んだ。腕は美奈子を掴んだまま上に伸び、彼女は無理矢理立たされる形となった。途中で髪が堅い肉に触れたのがわかった。
眼鏡の男は美奈子を立たせたところで一息ついた。温かく湿った息が髪をなびかせた。春樹の息と同じ臭いだった。
眼鏡の男は素早く肩の手を脇腹に移し、掴んだ。美奈子の内臓が音を立てた。次に大型トラックのタイヤのような膝を曲げ、勢いをつけて彼女を空中に持ち上げた。
反動で美奈子の頭が激しく揺さぶられ、耳鳴りがした。
眼鏡の男はおもむろに右手を使い、美奈子のズボンを下ろしに掛かった。大きな牙で器用にベルトを掴み、緩めもせずに一気に引きずり下ろす。パンツごと引きずり下ろされ、白い肌があらわになった。
長時間服で温まっていた肌が4月の外気に晒されたので、美奈子は身震いした。これから自分の身に起こるだろう事を想像すると自然と涙が溢れだし、深いため息が出た。
眼鏡の男は右手を美奈子の下に動かすと低く唸り、先程にも増してに息を荒くした。「我慢してね、ネコちゃん。すぐに楽になれるからね。」
美奈子は全身に力を込め、男の攻撃を防ごうとした。
だが、男が言い終わるのとどちらが早いか、右腕が美奈子の後ろの穴にぶちこまれた。先端でも大人の膝くらいの大きさを持つそれは、必死の防御もお構いなしに美奈子の尻の筋を引き裂きながら奥に進んだ。
美奈子は凄まじい痛みに絶叫した。まるでぱっくり開いた傷口に何か尖ったものが当たった時の痛みを数百倍にしたような激痛。
右腕はお構い無しに突き進み、大腸の奥で止まった。進路が曲がりくねっているので一気に、というわけには行かないようだった。男は右手の蛇を使い、肉を食いちぎった。分断された肉片は、呑み込まれることはなく、そこに放置された。排水孔に似たゴボゴボという音と共に、無理矢理腸を真っ直ぐな肉管にしながら、イチモツは奥へ奥へと進み、胃袋に到着した。胃酸は蛇を溶かそうとしたが、ブツの表面を覆っている粘膜を侵すことが出来ず、代わりに付着していた糞便を溶かすことにした。
一方、美奈子は喉までせり上がってきた蕎麦をどうにかしなければならなかった。昼食に食べたとろろ蕎麦が、半ば溶けかけた状態で胃酸と糞便にまみれて喉でのたうっていた。
男は更に突き入れる。美奈子の目がひっくり返った。顎が乾いた音と共に外れ、蕎麦が口から飛び出した。激痛とが美奈子の全身を覆い尽くすのと共に彼女の意識は途絶えた。
男は何かに満足すると蛇から死体を引っこ抜き、地面に投げ捨てた。死体は1回バウンドすると、地面に赤い染みを作り、へたれた。
男は暗がりから部下を呼び、死体の片付けと、地面の掃除を命じた。
再び、月が雲に隠れた。



地区をとり囲んでいる環状の森はかなり広く、複雑な地形をしているせいか死体やら自殺死体やら他殺死体が次々に発見されている。そんなもんだからこの森の名前は正確には「端の森」というんだが、この町の住人に「魔の森」と呼ばれている。
この森には地区外から東西南北から地区の中心に向かって高速みたいに幅が広い巨大な十字の道路が通っている。町の中心部から地区外の北の山の麓に向かうには車に1時間くらい乗らなければならない。
噂によると、北の山に向かう人の中は、端の森の途中で道路脇に乗り物を止め、ふらふらと森の奥に踏み行ってしまうやつがいるそうだ。しばしば、この道路の脇に車が乗り捨ててあるのが見えるのはそういうことらしい。道路脇の木々の影から手招きをされた、という噂話も町の住人の間でまことしやかに囁かれている。
町から北の山に向かう人は滅多にいない。だから道端の車が見つかった頃には、その車の持ち主は飢えや寒さやケガが原因で死んでいるか、既に首を吊って死んでいるか、犯罪者に殺されている。どのみち死んでいるってことだ。
この森からは死体が絶え間無く雑草みたいににょきにょきと生えてくるんじゃないかと思うペースで死体が見つかるので、俺は独自に「死体畑」と呼んでいる。
また、この森は深緑の吐き出す土臭さと大量の死体が放つガスとがブレンドされた、独特の息詰まるような空気を持っている。狂人などの一部の犯罪者どもはこの異様な空気に引き寄せられるので、周3回のペースで見回って処刑しなければならないかった。
この地道なパトロールはかなり効果を挙げていて、今までに死体を85体、死にたがりを92人、犯罪者を26人見つけた。死体は放置し、死にたがりは意識を飛ばし道路に放り捨て、犯罪者には有無を言わさず処刑を執行した。死体をそのままにするのは理由があって、非犯罪者の死体を回収するのは警察の仕事で、俺の役目じゃないからだ。問題は、ただでさえ怠け者の多い警察が、地区の端までパトロールするかどうかだった。


5月14日


今日は日曜日にもかかわらず8時に覚醒したので、「死体畑」の見回りをすることにした。ぼんやりしている頭を抱えてベッドから這い出し、毒針射出装置を手にしたところで、朝食を摂っていないことに気付いた。
冷凍庫にあった大根をかじって朝食をすますと、コスチュームを着込む。消防士なんかはコスチュームを着ると覚悟が決まるって言うが、俺はそんなことはなかった。
家の外の隠し通路を通って、死体畑に最も近いマンホールから顔を出す。ここまでで起きてから結構な時間が経っているはずだったが、悠久の時間を流れる俺の下水道は教えてくれなかった。ひどいことだ。
辺りに人がいないのを確認すると、目の前に広がる広大な死体畑と向き合い、アスファルトに降り立つ。ここは死体畑北部の真ん中を通る道路脇で、ただでさえ車通りが少ないのに加え、日曜日の朝だということで本当に誰もいない。正面の木々から視線を下ろすと、ひび割れて土が露出している箇所が見える。住宅街では道路の補修をしている業者らしき人々を見たことがあるが、死体畑ではそんな光景は一度も見たことがなかった。
早速死体畑の中に分け入ろうとしたが、一旦足を止めて、長靴の先をじっと観察する。アスファルトの隣の土に靴跡が見えた。ひょうたんを引き伸ばしたような楕円の中に等間隔に線が引かれてるのを考えると、足跡の主は女物ブーツのブーツを履いているようだ。
相手は女か、ニューハーフ。他に足跡が無いってことはコイツは精神異常者か、自殺志願者だろう。どのみちこの死体畑から引きずり出さなきゃならない。ひとりきりでここにいるのはアサルトライフルでもなけりゃ危険すぎた。
そう思った瞬間、超局所的にわか雨が俺に降り注いだ。やたらに勢いがあって、防護スーツ越しに雨の当たった箇所が痛んだ。そこでアサルトライフルから植木ばさみに変えると、突然雨が止んだ。
俺はずぶ濡れになっていたが別に気にすることじゃなかった。防護服がカッパの役目をはたしていたからだ。水気ではなく痛みが残った。痛いのには慣れていた。
俺はひとつ息を吐いて、俺は道路脇に広がる広大な森の中に駆け出した。ほんの一匹だったが、頭の中で蜂が暴れ始めた。
ぬかるんだ土に足を捕られ速度が鈍る。結構疲れているはずだが俺は足を動かし続ける。どうやら今日は運が悪いらしい。
足跡を追いかけると、開けた場所に出た。公園くらいの広さで、地面には湿った落ち葉と草が敷き詰められていた。真ん中に池があって、その近くに足跡の主がいた。濡れた土に刻印されていた足跡は、泥の後に変わっていた。木の陰に隠れて様子を伺った。離れててもわかった。そいつは人間だった。
こういう時は犯罪者かどうか見分けることが大事だ。うっかりすれば意味も無く非犯罪者の前に姿を晒してしまう事となる。私的に自警をする人間、ましてや俺のように犯罪者に処刑を加えるマトモな奴ら全てに言えることだが、警察の世話にならないことは非常に大事なことだ。世間では俺みたいなのは日陰者らしく、警察に捕まれば確実に死刑を喰らう。
普通、俺のようなコスチュームをした奴が突然非犯罪者の目の前に飛び出して来た場合、反応はだいたい3パターンに分かれる。驚くか、逃げ出すか、はたまたわけもわからずに突然襲いかかってくるか、だ。
ニュースにこそならないが、たまにポッと出のヒーロー気取りが大抵はこれが原因で警察にパクられているものだと俺は信じてる。彼らアマチュアは非犯罪者に口封じする暇も与えられずに通報されて警察を呼ばれて大事になってしまうだろう。そして警察に捕まって酷い拷問を受けた挙げ句、覗きの罪で投獄される。本名も公開され、守るべき市民からは嫌われ、そのうち狂って自殺する。
俺は発狂して自分のノコギリで挽くのは御免だから、そんな場面に遭遇した時には速やかに正しい対処をしなければならなかった。たしか駆け出しの頃に結構あったはずだ。1番目のパターンの時は、素早く近づいて胸ポケットから注射器を取り出し、注入してやる。どこでもいいが、出来るだけ首筋に射ったほうがいい。すると、非犯罪者は意識と一時的な記憶を失い、俺にその辺の道端まで引きずられる。2番目のパターンも同様だ。違う点といえば、俺が走る位だ。厄介なのが3番目のパターンだ。襲いかかってきたやつに注射器で薬を打ち込むのは難しい。殴りかかってきた非犯罪者の攻撃をなんとか避けて、腹に渾身の力を込めた右フックをぶちこんむ。するとどういう訳か気絶するので、1番目と2番目と同じく薬を打ち込んでやる。他に非犯罪者がいた時は、側でブルってる奴も同じ処置を施し、やっぱり道路脇に座らせておいてやる。まあ、どのみち薬を打って道路の近くに移動させるということだ。
犯罪者以外を傷つけるのは性に合わないが、身を守る為なら躊躇はしない。死ぬのだけは御免だ。まだまだ俺はやりたいことが山のようにあるから、自分を最優先で守らなくちゃいけない。
太い木の脇からよく目を凝らすと、その女は切り株に座って本を読んでいた。文庫本をきれいな手で包み、ただ静かにじっくり読んでいた。さすがに何を読んでいるかまではわからない。
もっと全体に視点を当てると、腰まで届く長い黒髪でメガネを掛けているのがわかった。春だっていうのに白いセーターに長い黒のスカート。靴を見たところ、俺の予想通りだ。女もののブーツ。
総評としては、きれいな女ってところだ。見た目からは切り株にスイカを乗せて左手首で叩き割るような女には見えない。実際、スイカなんかどこにもなかった。
確かに蜂の数は6匹に増えていたが、こいつが犯罪者だという判断を下すのはまだ早い。犯罪者でなく、精神異常者である、という可能性もある。経験上、精神異常者の中にはじっとしてられない奴とか、全く動かずにボーッとしてる奴とか、妙な癖を持った奴がいる。この女が精神異常者だった場合、この女は後者だ。
まあ、犯罪者だろうが非犯罪者だろうが、備えあれば憂いなし。とりあえず木に登ることにした。犯罪者とわかったが最後、頭上から襲い掛かってやるのがいいだろう。俺は両腕の毒針を出し、片方ずつ木に突き刺しながら上へ上へと登っていった。毒の残滓が残ってないか心配だったが、日々の手入れが行き届いているようで、この木が立ち腐るようなことは無かった。フードにポツポツ何かが垂れるのが気になっていた。一旦登るのを止め、フードに手をやると黒い汁が手袋に付いた。気にせず再び登ることにした。
四方に伸びる枝の中で最も太い枝を選び腰掛ける。尻のゴツゴツした感触が気持ち悪いが、仕方ない。
視界の左端に黒いモノが見えたので顔を向けると、首吊りがいた。そいつは今にも千切れそうな縄にぶら下がっいて、口から飛び出した舌の先に、得体の知れない甲虫が口吻を突き立て、汁を吸っている。かなり時間が経っているようで、全身が黒く腐っていた。崩れ、所定の場所から転げ落ちた鼻が意外にもそれほど汚れていない服に引っ掛かっていた。目玉は鳥に喰われたか両方とも無かった。
何故こんな高いところで死のうと思ったかは知らないが、そのおかげで眼下の女にアダ名を付けることができた。死体はメガ、つまり大きく腐っていた。それと女の容姿。メガネを掛けているので「メガ子」にした。
死体に感謝しつつ、メガ子を見下ろしてみる。遥か下、5メートル下方にメガ子の左耳が見える。
木に登る前からポーズは全く変わっていない。驚くべき集中力。鳥の鳴き声や木々の折れる音が聞こえるっていうのにだ。メガ子がページを捲る。捲る。捲る。なかなか早いスピード。でも、狂ってる奴が捲っているようには見えない。別に精神異常者じゃないらしいから、安心した。
突然、蜂が増え始めた。俺が安心したのが悪かったのか、本命が現れるのか。
腰掛けた足を引っ張りあげ、枝にしゃがむ。いつでも犯罪者に飛び掛かる準備は出来た。
ちょうどその時、メガ子が振り返った。俺が視線の先を追うと、メガ子の真後ろの木がふたつに折れる所だった。折れた木の向こうに何かあったが、それより木が倒れる先が気になっていた。
メガ子に木の影が重なる。避けないとまずいことになりそうだ。
俺の脳ミソの裏側にはひでえ情景が浮かんだ。メガ子の頭が木の下敷きになって、切り株に挟まれる。そして破裂し、豆腐が飛び散り視界が暗転。
トンでもないものを見せられたもんだ。現実に目をやると、なんとか助かったらしい。メガ子はギリギリで倒木を避け、切り株の横に座り込んでいた。髪は乱れ、眼鏡の向こうの目玉が潤んでいた。
それでもメガ子は、本を胸に抱いていた。どうしても傷付けたくないらしい。
俺は安心していた。女はビックリした途端に涙目になる奴が多いので、メガ子もそんな奴だと思ったが、左腕を怪我したのが原因らしい。枝で切ったのか、白いセーターに血が滲んでいた。
腹の中に眠っていた興奮が頭に昇って、口から漏れた。自然にフゥーッと息を吐いていた。俺の目玉が、すぐに木をへし折った主を見つけた。
奴はメガ子の数メートル先にいた。
俺はメガ子のカワイイ顔より、そいつの凄まじい姿に釘付けになった。
「うふふ、痛かったの?ごめんね。でもそれくらいボクは君に会いたかったんだ。ふふっ。」
ヘドが出るほど甘い台詞だったが、イケメン野郎なら幾らか様になったはずだ。それを吐いていたのは、多分人間じゃない。恐ろしい程のデブだった。
灰色のタンクトップと巨大な半ズボンだけを着たデブは、遠目には巨大な鶏の卵に見えそうな狂った体型で、腹から胸にかけてはゾウガメを抱えているんじゃないかと思うくらい大きく、膨らんでいた。臨月の妊婦なんて大きさじゃない。巨大な腹に半ば隠れている泥だらけの生足は、その腹を支えるためかワイン樽のように太い。あの足で木を蹴りつけ、へし折ったに違いない。下半身に栄養が全て行ってしまったのかと思えるほど頭は驚くほど小さく見えた。おまけに顔は幼稚園児がこねた粘土細工を更に10倍酷くした出来で、アメリカ人なら鏡を見た瞬間に拳銃自殺をしていまうような、酷い出来だった。腕は引っ張られたらしく足まで伸びている。先には不釣り合いにデカイ掌がくっついていた。
メガネを掛けた忌々しいデブはメガ子に大きく一歩、近づいた。ただ歩いただけなのに、木が揺れる。足が滑りそうになるのを、腕に力を込め防ぐ。一体メガネデブはどれほど重いのだろうか。さっきまで奴の接近で地震が起きなかったのは、泥が衝撃を吸収していたからか?
「あらあら、血が出てるねぇ~。ボクのお汁で血を止めようね。」
メガネデブの右腕が蠢くと、肌色の大蛇が鎌首をもたげた。
大蛇はまるで本物の蛇のようにうねると、メガ子の顔に向かって素早く突き出た。
大蛇はメガ子の鼻先で止まった。長さが足りないらしい。
俺はデブが次に何をするか見当がついた。それだけは避けなきゃいけない。奴の大蛇は震え始めていた。
枝の上に立つと、急いで左側の首吊りのロープに手を伸ばす。ロープを逆手で握り、こちらに引くと簡単に千切れた。水分を吸っているらしく、少し重い。木の束縛から逃れた首吊りはなんだか嬉しそうだった。
ハンマー投げのように真横に腕を振り、首吊りを放り投げた。目標はデブの頭だ。
ロープが揺れる。首吊りのローキックがデブの左のこめかみに直撃。ビンゴ。
首吊りは衝撃に耐えられず体が崩壊、腐肉汁が飛び散った。頭が青々とした草地に叩きつけられ、灰色の豆腐を撒き散らす。片腕は枯葉ごと地面に突き刺さり、指は天を差す。デブはうろたえ、大蛇の頭を標的から大きく逸らす。大蛇の口から放たれた茶色い粘液は池の向こう側の大木に命中。メガ子は後退り、這った後に死体のロープが飛んできた。俺はデブに命中するのを確認すると同時に、大きく跳ぶ。枝が揺れ、葉が舞い落ちる。
うまくデブに取り付いた俺は、同時にデブの左の二の腕に右ストレートとともに毒針を突き刺す。が、感触がおかしい。どうやら勢いが良すぎて骨を貫いて、向こう側に飛び出したらしい。毒液を注入しない代わりに右腕の毒針と肉の間の摩擦だけでぶら下がる。四肢は宙ぶらりんだ。
「ひぎぃぃぃぃ!」
トンでもない悲鳴を上げるデブ。無理もない。大人ひとり分の体重のかかった三本の金属管が骨をゴリゴリ押し削っているからだ。湾曲しているわけでもないのに毒針は外れない。曲がらない。
普通ならば、メガ子に「今のうちに逃げろ!」とかいうものだが、敢えて言わなかった。こんなデカブツを処刑するのは初めてだったし、被害者に直接処刑を見せたかったからだ。だから俺は、メガ子に体を向けると言った。
「今はそこで見ていろ。メガ子の代わりに俺が復讐をしてやるから、とにかくそこで待ってろ。俺はホーネット。」
「………」
口が聞けないのかもしれなかったが、代わりに小さく頷いた。意志の疎通は出来るみたいだ。とりあえず安心した。
それから、俺のおかげで絶叫しているデブにも言った。
「俺はホーネット。お前の名前はなんだ。」
答えないので両足を振り子のように前後に振って、振動を起こす。これで更に激痛を与えることが出来た。デブの腕が痙攣し、だんだん毒針が抜けてくる。
チャンスとばかりに俺は反動で前方に飛び降りる。毒針が二の腕から抜け、俺は地面に着地した。
メガ子に切り株に腰掛けるように言うと、デブに向き直る。デブの胸は激しく動いていた。左腕は血を垂れ流しながら痙攣していた。大蛇は縮こまって、ふたつの樽の間に収まっていた。
「さっさと言えよ。言わないなら俺がアダ名を決める。」
「……ナ、ナウ…」
「うん?」
正直驚いた。今までに骨をやられた犯罪者は、皆塩をかけられたナメクジのようにのたうち回ってヘドを吐いていた。どうみても口をきけるような状態じゃなかった。このデブは相当タフらしい。
更にデブは言った。
「ナ、ナウマンゾウ……」
俺は拍手した。ナウマンゾウは初めて、俺に自分から名前を言った犯罪者だった。
「わかった。ナウマンゾウ、お前の左腕が痛いのはお前自身のせいだ。ナウマンがメガ子に木をぶつけようとして、怪我をさせた。更に、メガ子にゲロをぶちまけようとした。こいつは女にとって右足を引きちぎられるのと同じくらい辛いことだ。わかったか、ナウマン?」
「ひぃー、ひぃー……」
答える代わりに喘いでいる。痛みが心地いいのか。
「わかったわかった。もっと気持ちよくしてやるよ。だが、快感の向こう側には痛みがあるらしいから、そこまでトばしてやるよ。気持ちいいんじゃ処刑にならないからな。あと、その不気味な呼吸を止めろ。鳥肌が立ちそうだ。」
俺は毒針を構えた。毒液を飛ばしてナウマンゾウの腹を虫食い状態にしてやろうとした時、顎にひどい打撃を受けた。
マスク型ヘルメットは並大抵のことでは割れたりはしないが、ある程度の衝撃は伝えてしまう。今の衝撃は、常人なら顎の骨を折っていたレベルの衝撃だったかもしれない。
俺は後方に吹っ飛ばされ、切り株で頭を打った。
いくらか視界がぐらついているが、気にせずにそのままの体勢でナウマンゾウを見る。ナウマンゾウの右腕から再び大蛇が元気に飛び出していた。やはり気持ちよかったか。それとも触手のように操れるのか。
「うふふ、痛いなぁ。ボクには君が何をいってるのか、さっぱりだよ。ボクはマゾじゃないし。人の楽しみを邪魔して、ただで済むと思ってるの?」
「どう済ませるつもりだ?俺で興奮を沈めるのか?」
「何言ってるの?君を殺すんだよ。」
ナウマンゾウの大蛇が横なぎに粘液を吐く。強靭かつ柔軟な右腕には容易い芸当だった。
俺は切り株に座っているメガ子の前に重なるように立ち、前方のゲロに毒液を放った。
毒液はゲロとぶつかり合い、相殺した。消化中のタンパク質が溶ける妙な臭いが立ち上った。後のゲロは地面に付着し、枯葉を張り付けた。
続いて両腕の毒針から放つ。ナウマンゾウも再び粘液で応戦した。
ナウマンゾウはどうやらいくらでも粘液を吐き出せるらしい。奴の胃袋は豆タンクサイズか?
このままではきりがない。接近戦に持ち込むべきか?
俺が大蛇の頭に毒針を突き刺そうと一歩踏み出すのと同時に、ナウマンゾウが走り出した。
まずい。俺はすでにもう片方の足で地を蹴っていた。急には止まれない。リーチはあちらが遥かに上だ。
しかもナウマンゾウは動けるデブというやつか、貯水槽のような体躯のくせに足を動かすのが早い。さすがゾウというだけある。それにしてもナウマンゾウってのはアダ名なのだろうか?奴の本名は何だ。イジメで付いたアダ名を気に入っ
「ぐぶっ。」
横っ腹を大蛇が薙ぎ、俺は地面に転がった。左足に痛みが走った。捻挫かもしれない。いまの捻挫は、ナウマンゾウについて考えすぎたのが悪い。今のは俺が悪い。
「死ぬぇ!」
ナウマンゾウは間髪入れずに俺を踏み潰そうと足を振り上げた。俺は右に転がって避けようとするが、捻挫のためか、どうも動きが悪い。
その結果、右足と揃って転がるはずの左足が思うように動かず、引きずられるかたちとなった。そして残念なことに俺の左足はナウマンゾウの足の裏に押し潰された。
腹の中で包丁が転げまわっているかのような激痛が、左足を襲った。
「がああぁぁぁぁ」
立て付けの悪いドアのような声が俺の喉から絞り出された。
何が起こったか知りたかったので、頭を上げて様子を見ると、思わず息が止まった。
左足は膝から下を文字通り踏み潰され、マンガみたいにペチャンコになっていた。ナウマンゾウの足がそれほど大きかったってことだ。ただマンガどおりにはいかずに、鋭く割れた骨が皮膚を突き破って濃厚な死体畑の臭気に触れていた。ナウマンゾウが足を上げると、奴の足の裏に俺の左足がくっいていた。雑巾から垂れ落ちる水のように赤い血がボタボタ垂れていた。ナウマンゾウはチラシをひっぺがすように足を数回振ると、べチャリと血飛沫を立てて落下した。
このままでは痛みで気が狂うと思ったが、だんだん痛みが引いてきた。脳内麻薬の分泌が始まったようだ。
しかしまあ、被害者のメガ子は切り株にちょこんと座って、涙目になりながらもこの一大ゴアショーを悲鳴も上げずに見物しているのが驚きだ。
相当ソッチの耐性があるようだ。強い女。
「おふふ、次は右足だぁ。」
ナウマンゾウが調子に乗ってきやがった。
左足のだいぶ痛みが引いた。あちらに大事な大事な右足を好きにさせるわけにはいかない。
ナウマンゾウがゆっくりと足を振り上げる。恐怖を味あわせるつもりだろう。ナウマンゾウは、俺が痛みで動けないものと思っているらしい。
これなら振り下ろすまでに数秒のタイムラグが生まれるはずだ。俺はそれを狙った。
右腕の毒針は出っぱなしのはずだ。素早く左手と右足を地面に立て、思い切り全身を跳ね上げる。同時に右腕も思い切り突き上げる。大蛇の位置は丁度いい。
ナウマンゾウが足を限界まで振り上げた時だった。
毒針はナウマンゾウの大蛇の顎に深々と突き刺さった。
「ぶきぃ!」
ナウマンゾウが悲鳴を上げ、口角から唾液を散らした。
俺は突き刺すだけでは処刑にならないことをわかっていた。
右手を強く握り、大量の毒液を流し込む。
そろそろかな、と考えた時、ナウマンゾウが大きく揺れた。奴のもう片方の足が地面からだんだん離れていくのが見えた。毒針が肉から自然に抜けた。ナウマンゾウは池に向かって倒れ始めていた。
まるで、俺の目には、映画の見せ場のようにナウマンゾウがスローモーションに見えていた。
毒針の穴から黒い血がぴゅっ、ぴゅっと吹き出している。それと同じテンポでナウマンゾウの大蛇が、内側で固い泡がたつようにボコボコと膨らむ。それの先端からは茶色から灰色に変わった粘液が噴水みたいに吹き出していた。それは俺の全身に血膿を浴びせた。そのころには、落ちる途中で半回転したナウマンゾウは大蛇を残して池に沈んでいた。池の緑色の水があっという間に黒い脂で埋まった。ナウマンゾウの大蛇は放射能で突然変異を起こしたウナギのように、池に垂直に立っていた。
そして、風景は元のスピードに戻った。ナウマンゾウの大蛇はパンパンに膨張していた。俺とメガ子はじっとことの成り行きを見守った。
静寂に包まれた森の中で、肉汁袋と化した右腕が、爆ぜた。



「おい、まだ痛むか?」
メガ子はまだ口を聞こうとしない。
俺と向かい合ったメガ子は、切り株に座り、俺を見下ろしていた。左足がまた痛み始めたので、立つことが出来なかったからだ。
俺がナウマンゾウの血肉にまみれたままでいるので、ドン引きしているのかもしれない。さすがにマナー違反か。
そんな俺とは対照的に、メガ子は何故か綺麗なままで、汚れているとすればケガした部分だけだった。
「まあいい。犯罪者は死んだ。メガ子は助かった。万々歳だ。今からメガ子の記憶を消す。」
「……どうして。」
初めての声は、なかなかいいもんだった。
「俺の事を覚えていられると厄介だからだ。しゃべれるなら、何で早くしゃべらなかった。」
胸ポケットから注射器を出そうと手を突っ込んだが、どういう訳か全て割れていた。舌打ちをする。
「クソッ………仕方ない、絶対に他人には言うんじゃない。わかったか。拷問に掛けられようが、墓場まで今日のことは隠し持ってろ。わかったか?」
メガ子は答えなかった。俺はそれをイエスと受け取った。
そして、これからどうやって家まで帰るかを考え始めた。
3分考えたが、どうにもいい案が浮かばない。仕方ないのでメガ子に意見を求めることにした。メガ子はずっと俺を見つめていた。
「なあ、俺はどうやって家に帰ればいいと思う?何かいい提案はあるか?」
メガ子は右手の人差し指を顎に添え、少し上を向き、困ったような表情になった。これがメガ子の考え方らしい。
それは十秒間続いた。
メガ子は立ち上がると、俺の左足の真横にしゃがんだ。引き抜くのかと思っていると、メガ子は左手に本を抱え、右手を俺の左足に当てた。
メガ子の右手が核爆発を起こしたのかと思った。それほど眩しかった。目を開けると、メガ子はそのままでいて、俺の左足も潰れたままだった。
「いまの光で俺の左足が直ったのか?よく見ろ、薄いままだ。失敗か?」
俺はメガ子の顔をじっと見た。
「……ほら、治ってきた。」
うん、と俺の左足に視線を戻すと、恐ろしいことが起こっていた。
潰れた左足が、だんだん膨れてきていた。よく見ると、地面に染み込んだ俺の血を骨で破れた長靴の穴から吸収していた。次に突き出た骨がズズッと中に引っ込んで、俺の左足は元通りに戻った。
信じられなかった。恐る恐る足首を曲げると、すんなり曲がった。
「おい、今は何だ。」
自分でも声が震えているのがわかった。
だが、メガ子は何にも言わなかった。ただ、俺に微笑みかけているだけだった。
俺は急にメガ子を恐ろしく感じた。俺は顔をメガ子から逸らし、俯いた。
メガ子に毒針を叩き込みたくならないうちに、、ひとつだけ、聞きたくなった。
「なあメガ子、お前の本当の名前は何だ。」
顔をメガ子に向けたはずだった。そこには誰もいなかった。
喉が乾き、目玉が揺れた。
池を見る。黒い脂が浮いている。左足を見る。防護スーツに穴が空いている。
おかしい。遂に狂ったか、ホーネット。
俺は2本の足で草地に立ち、さっきまでメガ子が座っていたはずの切り株を眺めた。
よく見ると、ほんの少しだけ血が着いていた。俺のじゃない。俺は狂っちゃいない。
俺は日が沈むまで、そこに立ち尽くしていた。


淫魔の泉 完