正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題

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日本国憲法に正統性があるのか無いのか?という問いに関して、そもそも「正統性」とは何か?に遡って検討してみたい。

<目次>


■1.「正統性」の用語定義


せいとうせい
【正統性】
legitimacy
<日本語版ブリタニカ>
(1) ある政治権力の支配が倫理的に正しいとされる根拠。
(2) 権力を持つ君主の由来の正しさ。
(3) ある権力者の支配が被支配者から承認される根拠ないしは服従動機。
政治学においては、歴史的概念として例えばウィーン会議がフランス革命前の支配者を正統とした事例を正統主義(※注釈:legitimism)原則という用語で記述することもあるが、主として(3)の意味で用いられる。
M.ウェーバーはこの意味での正統性を①合法的支配、②伝統的支配、③カリスマ的支配、の3つに分類して分析している。

※なお広辞苑には「正統性」の項目なし。「正当性」という項目があるが意味がズレるので省略する。
※次に和英辞典で「正統性」をチェックすると、①orthodoxy と ②legitimacy の2つの単語が記載されている。

正統性
<研究社和英辞典>
orthodoxy; legitimacy,
orthodoxy
<リーダーズ英和辞典>
正説たること, 正統性; 正統信仰[主義], 正統的な慣行; [O-]東方正教, 正統派ユダヤ教
legitimacy
<リーダーズ英和辞典>
合法性, 適法性, 正当性, 嫡出(性), 正統性

※上記のとおり、「正統性」には実は、2つの概念があり、おのおの


orthodoxy は、 教説的・教義的な意味での正統性 (→丸山眞男のいう「O正統」)
legitimacy は、 (本来的には)血統的な意味での正統性 (→丸山眞男のいう「L正統」)

を表す。
さらに厳密に言うと、共和制からアウグストゥスの即位を経て五賢帝期にいたる古代ローマや、18世紀後期以降に市民革命を経験した西欧諸国では、②の血統的な意味でのL正統が失われてしまったために、それに代替するものとして、民衆の喝采(applause)を得た者を正統とみなす、という慣行が生じており、これが現代の「デモクラシー」に繋がっているので、②をさらに


②-(1) legitimacy by blood (血統によるL正統 → 略して、L正統B)
②-(2) legitimacy by applause (喝采によるL正統 → 略して、L正統A)

と2分割する必要がある。(つまり「正統性」概念を①orthodoxy(O正統、すなわち正説たること)と併せて3分類して考察する必要が、まずある)

例えば、旧ソ連邦や、イラン・イスラム共和国は、マルクス・レーニン主義あるいはシーア派イスラム教学といった①orthodoxy概念(O正統)によって基本的に統治された国家、ということになる。
これに対して、古代ローマを模範として建国されたアメリカ(※『The Federalist』参照)などは、②-(2) legitimacy by applause(L正統A)によって基本的に統治されている国家とみなせる。

日本や英国の場合は、現代では、②-(1)と(2)が絶妙のバランスで混合した形で、国家が成り立っている、と一般にみなしてよいと考える。(天皇を戴くデモクラシー国家という意味で)


■2.「国体の支配」とは何か


さて、ここで「国体の支配」というものがあると想定した場合、それは上記の3分類のうち、どのタイプの正統性に該当することになるのだろうか?

「国体論」ないし「国体観念」とは、一つの教学・教説に相当するものであるから、①orthodoxy概念(O正統)と考えるほかない。

すなわち「国体の支配」を主張する者は、日本は、「国体」という①orthodoxy概念(O正統)によって統治されている国家と考えている、という結論になる。

そうなると、次は、我が国の「国体」に、旧ソ連のマルクス・レーニン主義や、イスラム教のコーラン・シャリーアに該当する確たる教義・教説が存在するのか?ということが問題になってくる。
結論から言えば、我が国の「国体」に関しては、戦前の喧々諤々の論争の末に昭和12年(1937年)になってようやく文部省から『国体の本義』と題した公式見解が出版された程度であり、しかもその内容は、これまでの多種多様な国体解釈を皇室護持の一点を守れば基本的に容認する、という価値多元的なものでしかなかった。
つまり、「国体」には固定的な教義・教説が確立されておらず、その解釈は国民各自に基本的に委ねられている、すなわち、「国体の支配」を唱える者が思い描く「国体」の内容そのものは実は、基本的には個人の独自な価値観に過ぎないのである。

但し、それでは、ある事柄が国体に合致しているか否かを決定せざるを得ない決定的な瞬間に対処できないので、そのような場合には、「国体の判定権者」による決定が必要となる。
それを保持しているのが、天皇であるのは言うまでもない。(2.26事件やポツダム宣言受諾を想起せよ)


■3.結論


日本は「国体の支配」すなわち、「国体」という①orthodoxy概念(O正統)に基づいて統治されている国家である、と考えるとしても、そのO正統自体は、その内容が不分明で自律不可能であるがゆえに、②-(1) 「皇統」というlegitimacy(L正統B)による「正統化」を絶対的に必要とする、という関係になっている、と考えるのが妥当である。

つまり、我が国においては、例え「国体の支配」を認めるとしても、L正統Bが、絶対的にO正統に優位する。

憲法問題に関しても、このような観点をきちんと押さえた上で色々と検討すると、より妥当な結論が得られるのではないかと考える。
我々が何よりも戒めるべきは、自分独自の「国体論」を振り回して、自分が①orthodoxy(O正統)の判定権者であるかのような錯覚を持たないことだろう。
それは単なる個人の「価値観」に過ぎないのだ。


■4.ハートの「究極の認定(承認)のルール」との整合性


以上の理解は、20世紀後半以降の法概念論の世界的パラダイムとなっているハートの「究極の認定(承認)のルール」 論(法=社会的ルール説)とも整合的である。

すなわち、
イギリスにおける「究極の認定(承認)のルール」 (たとえ形式的なものであっても)「議会における女王(国王)の制定するものが法であるというルール」であるように、
日本における「究極の認定(承認)のルール」 (やはり形式的なものであっても)「天皇の裁可(ないし御名御璽による認証)を受けたものが法として発効するというルール」ないしは「天皇の認定(任命)した権力者が正式に政治を行い法を制定するというルール」であって、
こうしたルールはまさに日本人の長年に亘る事実的慣行として受容され遂行され続けている。

⇒ つまり、イギリスや日本では、L正統Bが法規範に究極の根拠を与えている。


■5.ご意見、情報提供


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最終更新:2020年04月06日 15:02