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#right(){[[【W.I.Za.R.D.履歴へ】>W.I.Za.R.D.履歴]]} &sizex(6){&bgcolor(green){☆『666の悪魔?』}}  先週だったか、何気に見る機会があった朝の情報番組で、老人の反抗期なるものを取り上げていました。  突然に怒り出したり暴走する老人たち。  その根底にあるのは、自分が大切にされていない、と感じる寂しさだという解釈がなされていました。そして、その大きな理由となっているのが、急速に進む機械化やメディアの進歩に取り残されているからだという……  まあ、言われてみれば、確かに、そういう解釈も成り立つのですが。  しかし。  だったら、同じような問題が、もっともっと身近に起こっているような気がするのですが、そちらには、この解釈は適用されないのでしょうかね?  その問題とは、子供たちの心。学級崩壊とか不登校とかいじめとか。野球名門校でおこる、度重なるいじめによる活動自粛……こういった問題って、同じように、子供たちが「自分は大切にされていない」と感じているから収集がつかなくなっているとは解釈されないのでしょうか?  まあ、その解釈をとりいれた場合、ネックになるのは大人たちが、俺たちは子供を大切にしている、と反論してくるであろう、ということなのですが。  しかし、人間のすることですし、相手も人間なのですから、十分に愛情を与えているつもりでも、受ける側からしてみれば不十分ということは十二分にありえるわけで。  われわれが子供の頃には、漫画やテレビのドラマなどで、家庭を顧みない父親に反抗する子供、というテーマが度々登場していました。で、大概は、目に見える形ではなかったけど、父親は、こんなにもあなた方のことを愛しているんだよ、みたいなことが提示されて「ごめんね、パパ」みたいな結末になっていたわけですが。  私は、この結末に違和感を覚えていました。  私が思うに、やっぱり、思っているだけでは駄目なのではないでしょうか? どんな思いも、態度や言葉にして相手に伝えなければ、相手には伝わらない。伝わっていなければ、相手にしてみれば、存在していないと同じなのではないかと。  勿論、後から事情を知って、許しあうことは出来るのでしょうが。しかし、現在の状況を垣間見るに、結局「自分が愛されていない」と感じた人々による暴走それ自体が、すでに社会の許容範囲を超えてしまっているわけで。後で弁解して済む話ではなくなってはいませんか? 愛情は、今、きちんと相手に伝えなければならないものに、変わっているのではありませんか?  『愛しいと思う』すなわち愛したいと思っている、と、実際に『愛している』との間には、マリアナ海溝ほどの深い溝があると思うのですが……  ここで、キーワードとなるのが『666の悪魔』。  いや、都市伝説の一種なのですが、666の悪魔とはアナグラムで実はwww、つまりインターネットというシステムが、人々の心を破壊し、社会を混乱に陥れる存在である、という話があるのです。ある程度、マニアックな方なら聞いたことがあるとは思いますが。  実際、最初に話題にした老人の暴走も、コンピューターに関して「あなたにはわからないでしょ」みたいに言われたりすることが引き金であるとか、もっと直接的に、医者がコンピューターにデータを入力するために、モニターの方を見続けていることで爆発する、という事例が多く紹介されていました。しかし、医者は決して患者である老人を軽んじているわけではなく。一生懸命であるからこそ、モニターを注視してしまう結果になるわけで。私が指摘しているのは、そういうことです。  まあ、もっと直接的にLINEによるいじめも深刻化しているわけですが。  で、ここのサイト的な展開をすれば、我々は、すでに30年ほど前には、この問題の本質には直面していたわけなのです。勿論、ここではコンピューターというアイテムによるものではないですが。  『聖戦士ダンバイン』における、ショウ=ザマと母親の関係がそれです。  女性の社会進出に伴って、子供を顧みなくなるなる母親が増えてきた……勿論、働いている女性が皆、子供を軽視しているわけではないのでしょうが、単に隣にいるというだけでは、子供を一人ぼっちにしていない、とはならない、という問題提起がここでなされています。 30年前にはすでに問題が発生していたのに、現在になっても、この問題が真剣に議論される気配がない……この国は一体どうなっているのでしょうか?  ま、この頃からですよね。アニメという場を借りて社会に問題提起をする側に対して、『アニメ』はキモい、という差別的な風潮が広がりだしたのは……直接的な因果関係は解明されていませんけどね。  現代では、ここにスマホや携帯が介入してくるわけで。  重ねて警告します。ただ、隣にいても、子供の世話をしている、子供に愛情を注いでいることにはなりません。 きちんと子供の方に意識が向いていなければ、子供は一人ぼっちになってしまうのです。寂しいと感じて、結果、暴走行為に走ってしまったりするのです。  そして、更に悲しいことに、スマホや携帯に依存しているような母親は、ちょくちょく子供を煩わしいと感じている……残念ながら、それは「自分は大切にされていない」というイメージをはっきりと子供たちに与えてしまっているでしょう。  何かをしなければならないのでは?  そして、『何』をしなければならないのか、を真剣に考えなければならない時期に、我々は来ているのではないでしょうか? ☆感想は、こちらにどうぞ~^^ #comment(,nsize=20,vsize=3)
#right(){[[【W.I.Za.R.D.履歴へ】>W.I.Za.R.D.履歴]]} &sizex(6){&bgcolor(green){☆『666の悪魔?』}}  先週だったか、何気に見る機会があった朝の情報番組で、老人の反抗期なるものを取り上げていました。  突然に怒り出したり暴走する老人たち。  その根底にあるのは、自分が大切にされていない、と感じる寂しさだという解釈がなされていました。そして、その大きな理由となっているのが、急速に進む機械化やメディアの進歩に取り残されているからだという……  まあ、言われてみれば、確かに、そういう解釈も成り立つのですが。  しかし。  だったら、同じような問題が、もっともっと身近に起こっているような気がするのですが、そちらには、この解釈は適用されないのでしょうかね?  その問題とは、子供たちの心。学級崩壊とか不登校とかいじめとか。野球名門校でおこる、度重なるいじめによる活動自粛……こういった問題って、同じように、子供たちが「自分は大切にされていない」と感じているから収集がつかなくなっているとは解釈されないのでしょうか?  まあ、その解釈をとりいれた場合、ネックになるのは大人たちが、俺たちは子供を大切にしている、と反論してくるであろう、ということなのですが。  しかし、人間のすることですし、相手も人間なのですから、十分に愛情を与えているつもりでも、受ける側からしてみれば不十分ということは十二分にありえるわけで。  われわれが子供の頃には、漫画やテレビのドラマなどで、家庭を顧みない父親に反抗する子供、というテーマが度々登場していました。で、大概は、目に見える形ではなかったけど、父親は、こんなにもあなた方のことを愛しているんだよ、みたいなことが提示されて「ごめんね、パパ」みたいな結末になっていたわけですが。  私は、この結末に違和感を覚えていました。  私が思うに、やっぱり、思っているだけでは駄目なのではないでしょうか? どんな思いも、態度や言葉にして相手に伝えなければ、相手には伝わらない。伝わっていなければ、相手にしてみれば、存在していないと同じなのではないかと。  勿論、後から事情を知って、許しあうことは出来るのでしょうが。しかし、現在の状況を垣間見るに、結局「自分が愛されていない」と感じた人々による暴走それ自体が、すでに社会の許容範囲を超えてしまっているわけで。後で弁解して済む話ではなくなってはいませんか? 愛情は、今、きちんと相手に伝えなければならないものに、変わっているのではありませんか?  『愛しいと思う』すなわち愛したいと思っている、と、実際に『愛している』との間には、マリアナ海溝ほどの深い溝があると思うのですが……  ここで、キーワードとなるのが『666の悪魔』。  いや、都市伝説の一種なのですが、666の悪魔とはアナグラムで実はwww、つまりインターネットというシステムが、人々の心を破壊し、社会を混乱に陥れる存在である、という話があるのです。ある程度、マニアックな方なら聞いたことがあるとは思いますが。  実際、最初に話題にした老人の暴走も、コンピューターに関して「あなたにはわからないでしょ」みたいに言われたりすることが引き金であるとか、もっと直接的に、医者がコンピューターにデータを入力するために、モニターの方を見続けていることで爆発する、という事例が多く紹介されていました。しかし、医者は決して患者である老人を軽んじているわけではなく。一生懸命であるからこそ、モニターを注視してしまう結果になるわけで。私が指摘しているのは、そういうことです。  まあ、もっと直接的にLINEによるいじめも深刻化しているわけですが。  で、ここのサイト的な展開をすれば、我々は、すでに30年ほど前には、この問題の本質には直面していたわけなのです。勿論、ここではコンピューターというアイテムによるものではないですが。  『聖戦士ダンバイン』における、ショウ=ザマと母親の関係がそれです。  女性の社会進出に伴って、子供を顧みなくなるなる母親が増えてきた……勿論、働いている女性が皆、子供を軽視しているわけではないのでしょうが、単に隣にいるというだけでは、子供を一人ぼっちにしていない、とはならない、という問題提起がここでなされています。 30年前にはすでに問題が発生していたのに、現在になっても、この問題が真剣に議論される気配がない……この国は一体どうなっているのでしょうか?  ま、この頃からですよね。アニメという場を借りて社会に問題提起をする側に対して、『アニメ』はキモい、という差別的な風潮が広がりだしたのは……直接的な因果関係は解明されていませんけどね。  現代では、ここにスマホや携帯が介入してくるわけで。  携帯電話の普及と、いわゆる学級崩壊の深刻化って、同調してはいませんかね。気のせいですかね?  重ねて警告します。ただ、隣にいても、子供の世話をしている、子供に愛情を注いでいることにはなりません。 きちんと子供の方に意識が向いていなければ、子供は一人ぼっちになってしまうのです。寂しいと感じて、結果、暴走行為に走ってしまったりするのです。  そして、更に悲しいことに、スマホや携帯に依存しているような母親は、ちょくちょく子供を煩わしいと感じている……残念ながら、それは「自分は大切にされていない」というイメージをはっきりと子供たちに与えてしまっているでしょう。  何かをしなければならないのでは?  そして、『何』をしなければならないのか、を真剣に考えなければならない時期に、我々は来ているのではないでしょうか? ☆感想は、こちらにどうぞ~^^ #comment(,nsize=20,vsize=3)

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