刻まれし者に恋唄を > Eich > SS01

幕間1「ほしふるよるに」

 ずいぶんと、空の近い夜だった。コバルトブルーを一滴垂らした帳は春のそよ風に揺られてまたたき、粉々に砕けた黄玉が”さあひろいあつめておくれ”ときらめいていた。手を伸ばせば届いてしまいそうな、夜空、星々。けれどもそれは叶わぬことだと、差し出し握りこんだ掌が告げていた。馬車の荷台の幕間から見える静かな景色からは、アタシたちが今置かれているたいへんな騒ぎなど窺い知れないだろう。それとも、この状況こそが性質の悪い夢か何かなのだろうか。馬車の軋みとかすかな寝息しか、その問いに答えるものがなかった。
 隣ですやすやと眠りについている妹が目を覚ましてしまわないよう、ゆっくりと身を起こし、半開きになった幌を閉じようと手をかけた。ふとあたりを見渡せば、暗闇に沈み込む草原。どこからが森なのか判別できない裾野を経て、霊峰プラウエンワルトが遥かに霞む。これだけの距離があっても高らかに聳える稜線を隔てれば、星空が、ただ深々と、アタシを照らしていた。月はまだ出ていないのか、それとももう沈んでしまったのか。思えば夜に空を眺めることすら久しぶりのような気がする。それほどまでに、アタシの故郷ミンネゼンガーをめぐる騒乱は急激に、まるで容赦なく、アタシたちの生活を踏み荒らしたのだ。
 現在、この国はとても危機的な状況にある。北のプラウエンワルト大連峰に沿うようにして引かれた国境線が、さらに北の寒冷な山地を根城とする闇の眷属“北狄”によって脅かされようとしているのだ。事実、北狄のオークたちの襲撃により、霊峰を望む町、生まれ故郷のリーグニッツは攻めたてられ、蹂躙されてしまった。アタシたちはそこから何とか住民たちとともに逃げ延び、公都ヤークトスプロンまでたどり着いたのだが、その公都ですらこれから繰り広げられるであろう無情な戦乱に耐え切れまいと、こうして撤退を余儀なくされているのである。今向かうはミンネゼンガーよりザール川を隔てた隣国、同じく北狄の猛襲にさらされ、反撃の狼煙をあげる武雄、ブレダ王国である。ブレダとは逆に位置するシュパイヤーマルク辺境国へ公国民を逃がし、ブレダの名だたる武将らとともに北狄と相対す、というのが、公国伯爵位フラウエンロープ家当主、ひいてはミンネゼンガー公国全体を統べる方針となっている。
 判断としては妥当、そして何より迅速だった。即応的な共闘から政治的駆け引きへつなげる手腕もしたたかだ。窮地へ追い込まれた時こそ、英雄と呼ぶべき卓越した指導者が民を導くのはいつの世も変わらないのかもしれない。偶然とはいえ、そうした歴史の立会人としてアタシがいる場所の眺めは、さして悪いものでもなかった。
 ただ、と私は息をつく。その英雄候補の友人から発せられた言葉が、アタシを眠れぬ夜へと誘っていく。北狄、ブレダ、北の大地、逃げ惑う人々、“バーヴェ”……。
「……トィーナ」
 そう、あの日も、こんな星の辰る夜に。


「……ぇ。ねぇ、起きてよ、起きてったら!」
 ふっ、と視界が揺らぐ。あまりの強い刺激に、開きかけた目を思わず閉じてしまう。靄のかかった視界には、きらきらとした薄緑色の揺らめきが、ひらりひらりとやさしく微笑んでいた。
 全身を支配するけだるさに、朦朧とする意識の重みに、自分がまどろみへと捕らわれていたことをいやが追おうにも感じさせられた。まだ視界はぼやけているし、甲高い声色が刺さるように響く。声? あたりに誰かいるの? そう思ったとき、靄がすっと引くように、くみ上げたピースが形を成すように……きっと私は目を覚ましたのだ。
「もう、アイヒったら! いくらここが見晴らし最高で木陰も完璧なお昼寝処だからって、途中で寝ちゃうことないじゃない! 人がせっかくご主人様のおかしなご趣味についてお話ししてたっていうのに!」
 見渡せば、小高い丘の上。北の大地に遅めの春がやってきていくばくか、萌黄から群青への濃淡が鮮やかな山稜と、紺碧に塗りたくられた空に浮かぶ綿菓子みたいな雲の小島。真上には大きめの葉を青々と茂らせた広葉樹が、私たちに心地の良い日傘を提供してくれていた。
「あははっ! なにその顔、おっかしぃんだぁ!」
 盛大にあくびをしたところを、彼女はそんな風に称した。光沢のある黒髪を肩口まで伸ばし、血色のよい肌はほのかに日焼けしている。ごわごわとした麻のドレスを翻さんばかりの勢いで、盛大におなかを抱えて笑い転げているさまは、おかしくもあるがどこか心安らぐ光景だ。そんな気持ちを悟られまいと、私は少し口を尖らせながら、なるべく不機嫌そうな声で、唯一の友人である彼女へ言葉を返した。
「……なによ。泣き虫トィーナのくせに」

 トィーナ、それが彼女の名だった。すぐに泣く子で、ご主人様に怒られたといってはよく私に泣きついてきた。玄関先で一人うずくまって声を殺して泣いているもの見たことがある。人前で泣くことすら許される身分でないのだから、彼女が私の前で泣き虫なのは当然といえば当然だった。
 私たちは奴隷として、生まれ故郷を遠く離れ、オークの主に仕えながら慎ましく生活していた。不自由だけれど不幸ではない、そう思わせてくれたのは、私が一人ではなかったから。トィーナと私はともに笑い、時にはともに涙しながら、一緒に生きていこうと誓った。……はずだった。

 燃え盛る火炎。橙色の波紋が幾重にも重なり、町を飲み込んでいる。ごうごう、と音を立てながら、私たちの生活を根こそぎ焼き尽くすように、火は広がりつつけた。ここに至っては、もはや身分は関係なかった。誰もが等しく逃げ惑い、そしてオークだけが、煤でまみれた銀の騎士たちによって惨殺された。私たちを支配していた力と、それを上回る圧倒的な暴力。力の強いものが、すべてを意のままに捻じ曲げる。木造の建屋を消し炭にする焼尽の猛火が、主たちから流れる朱き鮮血が、そう告げていた。
 私は、怖かった。火事がではない。血濡れの剣がでもない。人の憎悪が、憤怒が、悲哀が、激情が、ここまでの狂気を引き起こさせるというその事実が、何よりも怖かった。だって、その感情は、私の中にもあるものだから。
 気が付くと、トィーナの姿が見えない。考えるよりも先に、私はある場所をめがけて走り始めていた。

 町の裏山の中腹、切り立った崖の上で視界の開けた場所。私たちの町が一望できる絶景も、今や夜闇の濃紺と炎のコントラストで彩られているだろう。私たちは何かあるとすぐここへ集まり、ご主人様のぐちであったり、生まれ故郷の話であったり、そしてこれからのことであったりを話し合っていた。ここだけは、だれにも邪魔されない場所であったから。
 息を切らせながら山を登り、確信をもってその場所へ向かう。トィーナ、トィーナ! そう心で何度も叫びながら、棒になった足を叩いて必死に走る。なぜだかわからないけれど、一刻も早くつかなくてはいけないような、そんな思いに駆られていた。
「トィーナ!」
 人影を見つけ、声をかける。後ろ姿ですぐわかった。よかった、ここにいた! さぁ早く、一緒に逃げよう! ここにいたら危険だよ! そう声をかけることは、ついぞできなかった。篝火を背にゆっくりと振り返った彼女は、表情こそ見えなかったが、どこかいつもと違う雰囲気をその身に纏っていたから。何かに憑りつかれたような、そんなオーラに気圧されていると、彼女は口を開いた。
 「みて、この炎。全部燃えていく。全部なくなっちゃう。すごいよね。今まで変えられないと思っていたことも、こんな炎の前では全部消えちゃうんだ」
 どこか陶酔した様子の彼女に、私は胸がざわつくのを感じた。彼女が、彼女でなくなってしまうような、そんな……
「すべてを屈服させる、圧倒的なチカラ。誰よりも強く、だれよりも高く……」
「ちがう! ちがうよ! こんなのおかしいよ! どうしてここまでひどいことができるの? みんな、必死に生きているのに……。」
 いつしか、私は泣いていた。大声で泣きじゃくる私に、トィーナはそっと近づき、私に手をかけてくれた。これじゃあ、いつもと反対だ。いつもは私が慰めるほうなのに。
「アイヒはやさしいんだ。ねぇ、ひとつお願い聞いてくれる?」
 私は泣きはらした顔をあげて小首を傾げた。トィーナはいつもと同じほほえみでこう語った。
「あたしは、もう泣かないから。泣かないって決めたから。やらなきゃいけないことが見つかったの。そのためには、泣いちゃダメ。泣き虫トィーナはもういないの。だから--」
 満点の星空の下、彼女は一粒の涙をこぼした。
「あなたが、泣いて。ワタシのかわりに、ワタシの分まで。」
 それが、彼女の最後のほほえみだった。


 それからのことはあまり良く覚えてはいない。どこかの騎士に見つけられ、保護されたが、トィーナの姿は影も形もなかった。必死に探したが見つけられず、住む場所を失い自由を得たアタシは、彼女の噂を聞きつけるたびに各地を放浪するようになった。後で聞いた話だが、あの町を襲った騎士はブレダの王が率いる北狄討伐軍であったようだ。
 アタシのもとに残ったのは、一粒の涙だけ。なぜだか涙は形を変えて、アタシのかけがえのないパートナーとして、今もアタシの隣にいる。トィーナは今やバーヴェと名を変えて、オークを率いる女王として戦を続けている、というのが、アタシの知る彼女の動向だ。似合わな過ぎて正直笑ってしまう。いったい何が彼女を……
 「……姉さん? ずいぶん早起きなのね」
 ふと聞こえた妹の声で我に返り、振り返ると妹サンドラが立っていた。彼女の寝起きのようで、まだ瞼をこすっていたが、どうやら起こしてしまったようだ。
 「まあ、はやる気持ちもわかりますけど。もうすぐブレダ王国ですもの」
 そういわれて、はじめて気づく。馬車からを勢いよく身を乗り出せば、ブレダの城壁が、日の出の曙光に照らされて煌々と光り輝いていた。ずいぶんと長い間、物思いにふけってしまっていたようだ。
 「うん、ちょっとね。ブレダの王様って怖いんでしょ? キンチョーするなぁ」
 「大丈夫よ。姉さんなら」
 妹の励ましで、高ぶった気分もだいぶ落ち着いてきた。結果がどうあれ、眼前に広がる城塞都市で、物事は大きく動くだろう。
 「ブレダについたら、まずは買い物しなきゃね。姉さんずっと同じ服着ているんだもの」
 「えー、だって緊急事態だったし! サンドラこそそんないっぱい服もってきて! 逃げ切れたからよかったものの、逃げ遅れたら大変じゃない!」
 いつか、こんな小言を言い合える日が来るだろうか。未来のアルカナすら、その問いには答えない。
 今は、せいいっぱいの祈りを胸に。
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