「ええい、お前という、奴はっ!」  違う。こんな事の為に、文に式を憑けた訳じゃない。  思いと裏腹に、藍の手に持った鞭は、勝手に動いて文を打つ。 「お許し下さい、許して、藍様!」  文がひんひん喉を鳴らしても、藍が憐憫の情を掻き立てられる事はもはや無かった。  ちょっと懲らしめて、すぐに開放してやろうと、最初は考えていた。  しかし、自分の意思に反して、藍は文に血の通わぬ命令を発した。  口の端は、感情に関係なく、文が醜態を晒すたびに釣り上がった。  その挑発的に剥き出した腿がいけないのだ。  ミミズ腫れまみれにしたくなるではないか。 「藍さま、やめてあげて!」 「邪魔するなっ!」  割って入ろうとした橙が、藍の腕に弾かれて、こてんと畳に倒れた。 「あ?」  藍は仰向けで眼を固く閉じる橙を見て。  次に己の腕を見て。  頭の芯が急速に冷める。 「ち、橙……」  おずおずと橙に歩み寄り、屈み込んだ。  大丈夫だ、と藍は胸に手を当てた。藍も主である紫に暴力を振るわれる事はある。 しょっちゅうだ。しかしそれでも、藍は紫を慕っている。  たった一回、突き飛ばしたくらいで。  さあ、瞼を開いて、いつものあどけない笑顔で微笑んでおくれ。  橙が目を開けた。  藍は身を乗り出して、顔を覗き込む。  そこに見て取れた感情はただ。  嫌悪。  パン  また手が勝手に動いた。  橙の頬を、平手で打った。  何の感情も伴わない。  究極的に、冷たい一撃。 「……っ!」  橙はにわかに、猫特有のすばしっこい動きで、藍の下から這い出した。  そのまま一目散に外へ飛び立つ。  文もそれに続いた。ちらと一度だけ藍の方を振り返ったが、その表情は読めなかった。  ぽつんと一人、取り残されて。  ドン、ドンと、マヨイガの屋敷全体が震動する。  八雲紫は、慌てて飛び起きた。 「橙、橙、うわあああああっ!」 「藍、やめなさい、何してるの!」  藍は自分の頭を、何度も柱に打ち付けていた。  柱と額が真っ赤に染まっている。  現在と過去の境界をいじり、過去の映像を見て、紫は一部始終を諒解する。 「藍、心にも無い事をしちゃうのは、きっと疲れているせいよ。悩みとか有るなら聞い てあげるから、ね?」  優しく肩に手を回す。  藍は額を打つのを止め、 「……だろ」  かすれた声を出した。 「なに、聞こえなかった。もう一回お願い」  藍を知らぬ間に追い詰めたのは。  それは。 「あんたのせいだろ!」  金毛白面九尾の威。  怖い物など何もないはずの紫が、確かに一歩後ろにたじろいだ。 「な、なに、私のお仕置きがいけないっていうの? あれは貴女が式たる為に必要な……」  言葉の途中で。 「痛ッ!」  紫は両のこめかみを押さえた。  眼球の後ろあたりに、静電気のような痛みが走ったのだ。  紫と、藍に憑いた式を繋ぐ回線が焼き切れたようだ。  藍の式が落ちる。  目を開けると。 「ばけもの……」  としか表現できないような異容がそこに在った。  部屋は半壊し、顔は屋根の上に、九本の尾は庭にはみ出している。30メートルを超す 巨体である。  一応獣の姿を模しているが、本質は不定形のようだ。  しゅうしゅうと炎の息を吐きながら、紫に相対する。  藍は紫の前に現れた時には人化していたから、これは紫も初めて見る姿であった。 「くうッ!」  数合の切り結びで、紫は自らの不利を悟った。  さすが全妖怪中でも最強、別格の神格を持つと云われる妖弧である。その単純な力の 容量は、紫すらも凌駕している。  もちろん紫の真骨頂は、反則的な能力を活用した種々の絡め手である。力の差は意味 を為さない。通常ならば。  しかし、目的が相手を鎮圧する事となると、取り得る手がほとんど無いのだ。  眠らせたり麻痺させたりはとうに試した。精神干渉は効かないどころか、精神のリン クを逆に辿られて、紫自身が危険に晒される可能性もある。残る手段はダメージを与え て大人しくさせる事だが、生半可な傷は全て再生されてしまう。  妖弧が放つプラズマ化した火球が、紫の眼の前の空間に阻まれ撥けた。  四重結界。  紫の十八番のこの技には幾つかのバリエーションがあるが、今回は掌の前にコンパク トに展開するタイプの物だ。  その結界は火球を防いだ後も消えず、そのままで若干の変容を見せた。  折り畳まれ、面積が小さくなり、代わりに積層が増える。 「八重、拾六重……」  なおも圧縮は続き、やがて掌の中に収まるサイズになる。 「二百五拾六重、五百拾二重、千二拾四重、ここまでね」  もはや平面の形をしていない霊力の塊がそこに在った。  それは、凶器である。さしもの妖弧も、まともに食らえば即死は免れない。  しかし、狙いが外れれば生き残る可能性はある。  他に紫が思いついた方法はいずれも妖弧を根源から消去してしまうような物だったの で、これは苦肉の策であるが、最善の策のはずである。  ただし代償として、互いに反発力を持つ結界をこれだけの多層構造で維持する為に、 今の紫は他に一切の能力を使えない。  あまり複雑な事は出来ない。戦法は単純、真正面から叩き付けるだけだ。  分の悪い賭けではない。  取りあえず殺すつもりでやれば、向こうが何らかの回避行動を取って丁度良い当たり 具合になるだろう。  当てられず反撃を貰っても、その時点で結界を破棄すれば、紫の再生能力が復活して 仕切り直しだ。  三発立て続けに放たれた火球を二つは回避、三発目は避けずに突っ込んで超多重結 界で打ち払う。  遮る物は何もなし。地を蹴って跳ぶ。  対して妖弧が回避なら決着、反撃なら仕切り直し。  ノーリスクハイリターンの賭けは、紫の得意分野だ。  賽の目はどう出るか。  妖狐の顔を、真っ直ぐに見据える。  その目線を受けて。  藍は避けない。  反撃しない。 「紫……様……? 私は、何を……」  ただ、その口から言葉のみが漏れた。  この博打には。  一つだけ、落し穴があった。  紫の思考が凍りついたまま、右手は藍の頭を無慈悲に砕いた。 「治療を、お願い」 「八雲紫ね。困るわ、入って来る時は……」  書き物机に向かったまま背中で応対しようとした八意永琳だが、その言葉は途中で切 れた。血の匂いが鼻についたのだろう。  振り返った永琳の目に飛び込んで来た藍の頭部は、酷い有り様だった。頭蓋骨は破損 し、傷口から破片が覗いている。傷は顔の側面を通って顎を砕き、頚動脈に達する。そ の為、傷口の下端からは心臓の鼓動に合わせて血液が噴き出している。  紫が能力を使って為したように、永琳は紫の表情を見ただけで、大体の状況、少な くとも加害者が誰であるか、は察したようだった。  乱暴に、紫の腕に抱かれた藍の身体を、その下から腕を入れて貰い受ける。  その際に永琳の肘が紫の鳩尾に入り、紫はよろめいた。  全く、頭の良い奴は。こんな状況にも関わらず、紫は心の中で毒づいた。 「ウドンゲ、ウドンゲ! 至急、外科で支度して!」  藍は一室に担ぎ込まれた。永遠亭のうちその一角だけ、廊下は外のリノリウムに近い 材質になっていて、蛍光灯に似た物が蒼白い光を放っている。  流石だと紫は感心し、長椅子に腰掛けた。  医療施設の機能性を突き詰めれば、結局このような殺風景なデザインに行き着くのだ 。外ではもう少し明るい感じにしよう等という動きもあるようだが、このデザインには 衛生管理のみならず、扉の前で待つ者の緊張感を持続させるという重要な役割があるの だ。  その廊下を猛スピードで駆け抜け、治療室の扉にすがりつく影が一つ。 「藍様、藍様あっ!」  狂ったように扉を叩いた。  橙か、と思ったが違う。藍が新たに式にした射命丸文だ。 「五月蝿いッ!」  急に扉が開け放たれ、文は反対側の壁に背中をしたたか打ち付けた。  顔を出したのは兎、鈴仙・優曇華院・イナバだ。  その頬には真新しい痣が出来ている。  大方、気が立った師の前で、どん臭い行動でも取ったのだろう。 「気が散って仕方がないんです! どうせ貴方達には何にも出来ないんだから、そこで黙 って座っててくださいよ!」  八つ当たりに近い剣幕だが、文は何ら反応を返さなかった。  スカートが大きく捲れ上がって、だらしなく投げ出された足が剥き出しになっている が、文はそれを直すでもなく「藍様、藍様」とすすり泣くのみ。  鈴仙も毒を抜かれ、汚物でも見るような目を一つくれると、そのまま扉の向こうに姿 を消してしまった。  全く、下手な式を打ったものだ。  どうせ短時間で開放するのだからと、構成を厳密にしなかったのだろう。  主である藍の暴走とともに式も制御を失い、射命丸文としての自我を、文字通りの根 こそぎに喰らい潰してしまったのだ。  式神、式使い、おぞましい。  自らのアイデンティティともいえるものに、紫は強烈な嫌悪を覚えた。  もう、止めてしまおう、式使いなんて。  藍が元気になって、全てが終わったら。  藍も、橙も、式を落として、ただの家族として、ともに食卓を囲んで。  つか、つか、と。  廊下を歩いて来る音がする。 「ああ、橙……」  初めて、紫の目に涙が溢れた。  橙に駆け寄り、すがりつくように抱きしめた。  なんだ。何も変わらないじゃないか。  天狗には悪い事をしたが、今回の一件で八雲一家が失ったものは何もないのだ。  橙の表情は分からない。  ずぶり、と、紫は胸のあたりに妙な違和感を覚えた。  身体を切断しても死なない紫には痛覚がなく、何が起こったのか分からなかった。  しかし、妖怪は心の傷で死ぬ。  その理屈で言えば、今の紫はまさしく瀕死状態だった。 「うぷっ」  不意に、紫の食道を不快感が上ってきた。  紫はそれをそのまま橙の頭に吐き出してしまった。  血の塊だった。  当然橙の顔は真紅に染まるが、それでもその表情は読めない。  ただ、鋭い爪が付いているはずのその手が、紫の胸の中に埋まって、その中身をぐち ゃぐちゃと掻き回している。  折れている。  紫の心は、もうとっくに折れている。  幸せな家族の映像、紫の頭に浮かんだそれは、弱り切った心が見せた幻影だった。  戻ってくる事など、あるはずも無いのだ。  扉が開いた。  霞みゆく紫の目が、出てきた者たちの姿をかろうじて捉える。 ――胸糞悪い宇宙人、兎。 ――何、雁首揃えて下向いてるのよ。 ――早く、私の藍を出しなさいよ。 ――でないと、見れないじゃない。 ――今見れないと、もうおしまいになっちゃうじゃない。 ――お願いよ。 ――最後に、もう一目だけ、 ――お願いだから!