『魔法の蝕み』  私は霧雨魔理沙。ごく普通の魔法使い。弾幕は火力、がモットーだ。  本日のお昼ご飯は麦飯に味噌汁、昨日釣った魚の燻製。おかずは塩加減を良くできたのでご飯によく合い、美味しかった。  外の天気は快晴。気持ちの良い春晴れ。本を干すのにももってこいである。  今日は出かけよう。霊夢の家へ遊びに。新しいスペルカードを見せてやるんだ。  まだ名前は付けてないが、きっと霊夢は驚くはずだ。これで負け続けを帳消しにしてやる。  手早く服装を整えると、家を飛び出した。  暖かいと精一杯働くものが出てくるが、がんばりすぎて邪魔な春告精も出てくるというもの。  邪魔なのでぶっ飛んでもらった。霊夢とやりあう前の、いい運動になった。  今日は魔法の調子がすこぶる良い。何か特別な魔法を自分にかけたつもりは無いが、体中に魔力が溢れる。  博麗神社に着くと、いつものように霊夢は縁側に腰掛けてお茶を啜っていた。相変わらず、仕事をしない奴だ。 「よっ、霊夢」 「あら、魔理沙。お茶が欲しいのなら自分で淹れなさいよ」 「言われなくても勝手に淹れるぜ」  そしていつものように緑茶を飲ませてもらう。お茶請けは無かったが、お茶は上手い。 「一人でお茶するなんて寂しいじゃないか。待ってくれても良かったんじゃないか?」 「いつ来るかわからないんだから、待ってる間に漬物が出来上がっちゃうわ」 「それもそうだぜ」 「でしょ」  二人して、お茶を啜る。境内の春景色を眺めているといえば風流だが、何もせずお茶を飲んでいるだけでは怠け者といわれてもしょうがないかもしれない。  霊夢はというと頭の中も春なのか、うとうとしかかっている。暢気な奴だ。 「霊夢、目覚め替わりにちょっと遊ぼうぜ」 「あー、ごめん今日はパス。あまり体の調子が良くないの」 「そ、そうか。それは仕方ないな。じゃあいいぜ」 「ん。随分素直ね」 「そうか? 無理に引っ張りまわして体壊されたら遊べなくなるからな」 「また今度ね。さてと、ちょっとお布団で横になるわ」 「そんなに体調崩してたのか。来て悪かったな」 「別に、いいわよ。暇だったから、ちょっと嬉しかったわ」  霊夢は湯のみをお盆に置くと、畳の間に用意した布団で寝転がりはじめる。 「来てくれたところ悪いけど、適当に遊んでてちょうだい」 「おう、適当にお茶を飲んだら今日は帰るぜ。大事にな」 「……ありがとう」  霊夢はそう呟くと眠ってしまったのか、それ以上喋らなくなった。  お茶を飲み干す。静寂。暇になった。何となく、霊夢の寝顔を覗いた。  少女が無防備に寝転がっているというのは、何かしら後ろめたい気持ちを連想させる。 「……魔理沙、何のつもり?」 「起きてたのか」 「寝てたら何かしてた?」 「とんでもない。寝顔を見てみたくなっただけだぜ」 「そ。おやすみ……」  寝返りを打ってうずくまる霊夢。恥ずかしかったようである。可愛い奴だ。  さて、どうしたものか。お天道様はまだ頭の上である。ここを出て、アリスの家にでも遊びに行こうか。  夢の中へ行った霊夢を振り返る。そのとき。腹の底にずしりと重たいものが乗っかった。  全身の神経が麻痺したように、痺れて動けなくなる。そして、頭の中に囁く声が聞こえた。 『人間って、どんな味なんだろうな』  それは、限りなく自分の声に近いものだった。  体は言うことを利かない。いや、むしろ誰かに自分を乗っ取られているみたいだった。  その証拠に、体は勝手に動く。霊夢に近づき、八卦炉を構えている自分。  何をするつもりだ。霊夢に何をするんだ。やめろやめろやめろ霊夢にそんなことしたくない。  声は出てくれない。喋る自由さえも奪われているのか。  少しずつ八卦炉が熱を持ち始める。逃げろ霊夢、気付いてくれ。  思い切って心の中で叫んだ。全身の枷が外れたのか、自由が戻る。私はその場に崩れた。  頭の中で響いた言葉を反芻する。何が人間の味だ。知ったことか。  今強がっても、ついさっきまでは恐怖に怯えてて、自分を止めるのに精一杯だったことを思い出して恥ずかしくなる。  顔中脂汗が滴り、酷く喉が渇いていた。だが、疲れは感じなかった。むしろ、体を動かしたくて燻っている感じ。 「……まり、さ? どうしたの?」  隣の霊夢を起こしてしまったのか。目をこすりながら、そう訊かれた。 「い、いいや。気付かなかったのならいい。もう帰るぜ」  逃げるように、その場から飛んで行った。  さっきのは何だったんだ。人を遠隔操作する魔法にでもかかったのか?  そう思って、アリスを思い浮かべた。でも彼女は人形を操ることはできても、生きた人間は操れないはず。  仮にアリスが人を操れるようになったとしても、彼女に霊夢を殺そうとするなんて想像できない。動機がないはず。  それを確かめるためにも、アリスの館へ行こう。  しかし、先ほどから変だ。体中に魔力が溢れている。それはもう放出しないと爆発してしまうのではと、心配するほど。  今魔砲をぶっぱなしたら、どうなるだろう。山さえ消し飛ばしてしまうのだろうか。  そんなことを思っていると、またもや春告精が現れた。健気な奴である。  丁度いい、実験になってもらおう。挨拶替わりの弾幕を避けながら、八卦炉に魔力をこめて。放射。  マスタースパークは想像を絶する火力だった。リリーを撃墜することなく貫き、熱線の熱量で溶かしつくした。消滅。  今の自分が怖くなった。もしも、この火力を人に向けたら? 妖怪に撃ったら? さっき、霊夢に放っていたら?  私は形振り構わず、自分の家に帰った。  アリスの家に行くのは明日にしよう。うん、明日でも構わない。  今はこの押さえ切れない力をどうにかして抑制するんだ。  捨食の魔法で魔力はご飯の替わりにしよう。それが健全な使い方だ。  お茶を作って、その間に整理しよう。どうして今日の自分が変なのか。  朝起きたときは何も変わり無かった。強いて言うなら目覚めが良かったことぐらい。  魔力が強くなりだしたのは今日初めて春告精を倒したときから。  その後霊夢のところへ行き、大変なことになったのだ。  体の自由を失い、私は霊夢を殺そうとした。頭の中でこだました自分の声を真似た奴の言葉を思い出す。  あの声は真似たものじゃない。間違いなく自分のものだった。  妖精に化かされたのだろうか。そう思うと、ものすごく心が安らいだ。現実逃避できるから。  出来立てのお茶を飲むと、少しは落ち着いた。  今日はもう外に出ないことにしよう。引きこもろう。  留まることを知らない魔力の膨張を忘れるために、ベッドに寝転がった。  目が覚める。お日様が昇り始めていた。  寝すぎたのか、気分が重たい。それでも、体の方は元気だ。  静まることを知らない魔力が肉体にエネルギーを注いでいるから。  昨日だけ元気というわけではないらしい。これからずっと元気だったらどうしよう。  ご飯を食べなくてもいい体になるが、ご飯を食べられないじゃないか。  お湯を浴びて体を流した。見た目には変わったところはない。  模様のような傷があるわけでもなく、何か魔法陣が彫られているわけでもない様である。  誰かにまじないでもかけられたかと思ったが、そんなことはないみたいだ。  服を着て、早速人形遣いにして魔法使いのアリスの館へ向かった。 「アリス、開けてくれ。私だ」  扉をノック。アリスが魔法の糸で操る人形が出迎え、彼女のいる部屋まで通された。  相変わらず、家中に人形が飛び交って忙しそうだ。  それにしても客を迎えるぐらい人形にやらせるなよと、思った。 「アリス、入るぜ」  案内されるがままアリスのいる部屋へ。  新しい人形を作っている最中なのか、そこには縫い物をしているアリスがいた。  私なんかよりずっと綺麗そうな金髪が、眩しい。 「おはよう、魔理沙。朝からどうしたの」  作業を止めて振り向いたアリスが、私に気持ち悪いものを見る目を向けた。 「なんなの、その体中からだだ漏れの魔力は」 「昨日から元気過ぎて困ってるんだぜ」 「ちょっとそれ、抑えてよ。人形に影響が出そうでなんか嫌」  そう言って彼女はこの部屋にいる人形達の動きを止めた。 「これでも捨食の魔法で抑えてる方なんだ」 「……なんだか気持ち悪い。人間の魔法使いとは思えないわ」 「なんだって?」 「今のあなた、妖怪側の魔法使いみたいだって言ったの」 「冗談はよしてくれ」 「一体どんな魔法を使ったのよ。わたしにもそれ欲しいわ」  目を輝かせてそう言った。こっちとしては気味が悪いから、捨てたい程だ。 「何もしてないんだって」 「ふうん。で、今日はそのことを言いに来たの?」 「そうだ。何か知ってることでもと思って」  彼女は机の上に置いている魔道書を開き、調べ物をはじめた。何か心当たりになることでもあるのだろうか。  椅子を勧められたので、座らせてもらった。  本棚にある適当な本を手に取るが、暗号がこめられた文章だらけでとてもすぐに読めるものではなかった。  自分の研究を他人に知られないようにする工夫だろう。  おもしろそうなので、失敬しよう。 「勝手に持っていかないでよ」  本の項を操りながらのアリスからお咎めの声。本は帽子の中へ隠した。 「だめ、わからない」  溜息をついて、本を投げたアリス。  彼女が音を上げるのだから、アリスが私を操ったという可能性はなくなったということだろうか。 「パチュリーにでも聞いてみれば? 彼女の方が魔法使い歴長そうだし」 「そうするぜ」 「……ところで、その魔力。いらないっていうならわたしに頂戴よ」 「嫌だぜ」 「けちね」 「お互い様だぜ」  妖怪側の魔法使いであるアリスでわからないなら、パチュリーに聞くしかないか。  本を見にいくついでに話をしてみよう。 「邪魔したな」 「別に。まあ、人を襲ったりしないようにね」 「おいおい、そんなこと言うなよ」  昨日のことを思い出した。体の自由を奪われたこと。霊夢を襲おうとしたこと。 「冗談よ」  このことでからかわないで欲しいと思った。アリスには話していないが、昨日はあんなことがあったんだから。  じゃあ、そろそろ行くぜ。そう挨拶しようとして、口が動かなかった。  あれ? おかしいな? 声が出せない。 「魔理沙、どうかしたの?」  アリスが私の顔を覗き込む。返事ができなかった。 「ちょっと、魔理沙?」  まただ。体中が痺れる。頭が重たい。気分が悪い。お腹が重い。 「大丈夫? 具合でも悪いの?」  そしてまた。頭の中に響く自分の声。 『魔女の体、食べたら美味しそうだよな』  体を操われた私は、アリスに飛び掛った。彼女の首を両手でしめつける。  アリスが口をパクパクさせている。人形を操る余裕さえないのか、非力な腕で私を殴りつけて邪魔をしてくれる。  酷く苦しそうだ。止めてくれ。アリスにこんなことしたくない。  頭の中に、肉へかぶりつくイメージが浮かび上がった。  それはアリスの体を食べる自分を連想させた。より、気持ちが悪くなった。  自分の声は出ない。自分の手の力を弱めることさえできない。とうとう、アリスは白目をむき始める。  こんなことしたくない。したくない、したくない、したくない。したくないんだ! 「いやだ!」  自分の口から声が出た。直後、体に自由が戻る。すぐにアリスの首から手を離した。  彼女は私を蹴り飛ばす。直後、刃物を構えた人形に包囲された。 「げほっ……な、何をするのよ、魔理沙……ううっ」 「ま、待ってくれ! 今のは私がしたくてやったことじゃないんだ!」  アリスが息を整えながら、私を見つめる。私は真っ直ぐ見つめ返した。 「嘘じゃないみたいね、と信じてあげてようかしら? いいや……」 「この際だから話すぜ。昨日神社へ行ったときのことだ」 「霊夢を襲ったの?」 「いや、その場はなんとか治まったぜ」 「……そう。何があったのか話してよ。力になれるとは思えないけど」 「体が言うことを利かなくなるんだ。そして聞こえるんだ」 「何が?」 「自分の声だ。私の声で、人を食べたら美味しそうだとか、聞こえるんだ」 「……」 「どうにかなりそうなんだ。いっそ、ここで殺してくれ」 「しっかりしなさい。そんなこと言わないの」  人形が離れていった。アリスが手を差し伸べる。その手を取って、起こしてもらった。 「魔理沙が言ったこと、信じてあげるから」 「アリス……」 「それで、どうするの? パチュリーのところへ行くの?」 「ああ。悩んでも、仕方ないからな」 「誰も襲わないようにね」 「勿論だ」  あの声の奴になんか、屈してたまるか。  アリスにお茶を勧められたが、断った。ぐずぐずしていられないから。  家を出て、箒に跨る。心配してくれているのか、家の外までついてきてくれた。 「いい事教えてあげるわ、魔理沙」 「なんだ?」 「人体を使う実験って、すごく興味深いものなのよ」 「そんなこと言うなよ」  ちょっとでも興味を持ってしまったじゃないか。 「じゃあ、気をつけてね」 「おう」 「ああ、それと」 「まだ何かあるのか?」 「本は置いていきなさいよ」  さよならを言って、その場を後にした。  紅魔館へ。門番はいつものように魔砲で吹き飛んでもらった。ただ、極力手加減して。  泣き言が聞こえてきたから生きてはいるだろう。手加減しなかったらどうなるだろう。  いや、考えるのはよそう。  地下図書館へ。小悪魔へ挨拶をし、すぐにパチュリーの元へ向かった。 「パチュリー、話があるんだ。挨拶抜きで」  目的の彼女は椅子に深く腰掛け、湯気の立つ紅茶を傍に飾って優雅に読書を楽しんでいる最中であった。  今日のパチュリーはとても不機嫌なようだった。  喘息の調子でも悪いのだろうか。それとも、邪魔をしたせいか。 「どうしたの、魔理沙。物凄く元気そうで体中みなぎってるじゃない」  パチュリーもすぐに気付く。私の異常な魔力の出力に。 「みなぎりすぎて助けて欲しいんだぜ」 「その元気、ちょうだいよ」 「嫌だぜ。今日は本を借りにきたわけじゃなく、この原因を知りたくて来たんだ」 「そんなことを言われてもねえ。わたしだって暇じゃないのよ」 「頼むよ、本返すからさ」 「全部返してくれる?」 「……少しずつ」 「帰ってちょうだい」 「わかった、全部返すから! 頼む、相談に乗ってくれ」 「……しょうがないわね。で、どういうことよ」  パチュリーに昨日からさっきまでのことを話した。  霊夢を殺そうとし、アリスを襲ったところまで。  パチュリーは考え事をはじめ、何も言わなくなった。  勝手に椅子に座らせてもらい、彼女の返答を待つ。  小悪魔に淹れてもらったお茶を飲んで、さっきアリスから借りた本を読んで待った。 「……アリスは、何て言ったの?」  ようやく口を動かしたパチュリー。それは何かを確認するような言葉。 「私が人間でなく、妖怪側の魔法使いになるかもだってさ」 「そう……」 「な、なんだよ。そこで止まるなよ……」 「魔理沙、人間を食べてみたいと思ったことは?」 「悪い冗談だぜ。私は白いご飯が好きなんだ」 「人間の体を魔法の実験に使いたいって思ったこと、ある?」 「そんな夢見の悪いことできないぜ」  パチュリーはお茶を啜り、本を開きながら考え事をし始める。  この沈黙が、酷く嫌なものに感じた。  お茶を飲んだり本の解読に勤しんで間を濁すが、居心地のいいものではなかった。  ふと思う。頭の中にいつも話しかけてくるのだから、こちらから話しかけてみてはどうなるだろう。  試しに話しかけてみる。が、反応はなかった。  パチュリーが本を閉じ、もう一度お茶を飲む。 「魔理沙」 「なんだ?」 「初めて見たときから思ってたの。あなたは人間の魔法使いにしては、能力が高すぎるって」 「ありすぎると困るのか?」 「将来、妖の存在に変化することも不思議じゃない」 「……」 「でもそれは魔理沙次第だと思う」 「そ、そうか……」 「ところで、魔理沙は人の肉体を使った魔法、魔術についてはどれぐらい知ってるの?」 「勘弁してくれ。魔法の材料を集めるために人さらいなんて出来ないぜ」  パチュリーは私の反応が楽しいのか、含み笑いを見せ付ける。いやらしい奴だ。 「それなら、直にその衝動みたいなの。無くなっていくと思うわ」 「そうか、安心したぜ。私にはカリバリズムの習慣なんてないからな」 「じゃあもう用事済んだんだから、帰ってよ」 「おいおい、礼ぐらい言わせて欲しいぜ」 「本を返してもらってから、ゆっくり聞かせて」 「おっと、それを忘れてた」 「でしょう?」 「すたこらさっさだぜ」 「待ちなさい!」  素直に本を返すつもりなんてはじめからなかった。飽きたら、返してやろうとは思うが。  火球をばら撒くパチュリー。箒にまたがって飛び、それを避けながら本を数冊失敬する。  私は図書館を後にした。    家に向かう。途中、氷精に会ったがマスタースパークで炭になってもらった。  妖精が相手だから容赦はいらないが、これが人間相手になっていたらと思うとやはり自分が怖くなる。  帰宅。アリスとパチュリーから借りた本を適当なところへ置くと、休憩ついでにお茶を淹れた。  今日も食事は取らなくても済みそうである。これはこれで便利かもしれないが、たまにはお吸い物でご飯を食べたいと思った。  明日は香霖堂へ行って頼んでおいた薬草と、硬いものを砕いて粉にする器具を買い入れ、もといもらいにいかないと。  大丈夫だ魔理沙。私は人間。人間の魔法使い。決して妖怪ではない。妖怪の自分に操られたり、言いなりになんてならない。  出来立ての粗茶を冷ましながら、味わう。いつもの温度。いつもの香り。いつもの味。お茶を楽しめる私は人間であると確認する。妖怪もお茶を飲んではいるが。  お風呂に入って体を流し、寝巻きに着替えて布団に。  パチュリーのところへ行ったときにあの声が聞こえなくて良かったと少し安心した。  たとえ明日、またあの声が聞こえてもすぐに打ち勝ってみせる。そうしていけば、聞こえなくなるはずだ。  もしそうなったら、この溢れる魔力は衰退して前のように戻るのだろうか。危なくなくなるが、少し残念に思う。  意識は、夢の中へ。  起床。今朝の天気はあまり良いとはいえない、曇った空だった。  体一杯に充満している魔力にはもう慣れた。そのエネルギーで頭を回転させ、栄養分に換えた。朝食は必要ない。  念のために雨合羽を用意して、香霖堂へ。  有り余る魔力を原動力に空を飛んでみると、あまりにも速すぎて箒から落ちそうになったのはこの際秘密である。  ただ、制御できずに店に突っ込んでしまったのは隠しようがなかった。  大した怪我はしなかったが売り物にぶつかり、壊してしまったらしい。  香霖が慌てて出てきたが、弁償してやると言うと安心した。いつか払ってあげてもいいだろう。 「魔理沙、怪我はないのかい?」 「おう。鼻っぱしが痛いが、鼻血も出てないし大丈夫だぜ」 「それはよかった」  店の中へ入れてもらい、頼んでおいたものを受け取る。確かに、言っておいたものだ。 「それでお代は?」 「勿論、ツケだ」 「……わかっていたさ。お茶でも飲むかい?」 「遠慮することなく頂くぜ」  諦めたような表情で溜息をついた香霖は奥へ。お茶が入るまで道具の説明書でも見て時間を潰すことにした。  この硬いものを砕く器具は、動物の角や骨なんかを煎ずるためのものだ。これで、新しい魔法の開発に選択肢が増える。  この器具で研究に没頭でもすれば、誰かに会うこともなくなるだろうし。そうなれば人を襲ってしまう心配も無くなる。  いいことずくめだ。  ちなみに薬草は怪我や病気を治すためではなく、八卦炉の新しい燃料にならないかと思って取り寄せたもの。  マスタースパークの火力を上げるつもりなのだが、有り余る魔力のおかげで材料うんぬんの理論が壊れた気がした。  お盆を持った香霖がやってくる。 「冷たいお茶だけど、いいかい?」 「全然大丈夫だぜ」  お茶を受け取って、胃に流し込んだ。よく冷えていて、喉越しは最高だった。  その時である。例の声が聞こえてきたのだ。 『締まった男の肉体って美味しそうだよな』と。  私は体の自由を奪われる前に、自分の頭へたくさんの言葉を送りつけた。  お前の言いなりになんかならないぞ。引っ込んでいろ。出てくるな。今すぐ私の中から出て行け。消えちまえ。  効果があったのか、肉体をのっとられることは無かった。ただ、全身の痺れだけは止められなかった。 「どうかしたのかい、魔理沙」  香霖が私を呼ぶ。悟られたくないと思った。今の自分がどんな風になっているのか。 「悪い、今日は調子が悪いんだ。もう帰るぜ」   言葉も発することが出来た。やはり今は乗っ取られていない。  私は痺れに我慢しつつ、荷物を抱えて香霖堂を後にした。  香霖が何か叫んだが、お構いなし。抑えられないほど暴れないうちに、人がいないところまで逃げてしまえば勝ちだ。  幸いなことに、帰り道で誰かに会うことはなかった。  自分の住処に辿りつく。とりあえずは安心だ。  だが、痺れがまだ取れていない。まだ私の中に喋りかける者がいるという証拠。  私は扉に鍵をかけ、布団をかぶった。  さっきは香霖の前で声に打ち破ったが、今はその反動で強烈な力で抑えられるんじゃないかと不安で一杯。  体中に悪寒が走る。頭が重たい。痛い。いやだ、あの声が聞こえてきそうだ。 『どうして、逃げたんだ。あんなひ弱そうなやつ、簡単に倒せただろう魔理沙』  また聞こえてきた。落ち着け、魔理沙。こんな奴の言うことなんて聞かないぞ。追い返してやるんだ。 「黙れ! 喋るな! 私の中から出ていけ!」 『そんなこと言うなよ、魔理沙』 「うるさい! お前は何者なんだ! 魔理沙は、霧雨魔理沙は私の方だ!」  頭の中に、鏡の前の自分と喋っているイメージが交錯する。  そして思い出す。アリスとパチュリーの言葉を。  私が、妖怪側の魔法使いになってしまうかもしれないということを。 『そうだ、私は妖怪の魔理沙だぜ』 「ふざけるな! 私は人間だ! 人間の魔法使いなんだ! 早く消えちまえ!」 『そう言うなよ。随分強がって、本当は私に体を取られるのが怖いんだろ?』  そういわれて、私が体を抱えて震えていることに気付いた。  口がガタガタと音を立たてている。唾を飲み込むことなど忘れ、ベッドシーツを汚し放題。 「ち、違う! 怖くなんか、怖くなんか……!」 『素直になれよ、魔理沙。そして理解すべきなんだ、お前はもう人間でいられないことを』 「お前が出て行けば済むことだろう! くそう、目の前にいれば吹っ飛ばしてやるのに……」 『やめときな。私とお前は同じなんだ。自分に八卦炉を向けるってことなんだぜ』  全身の痺れが強くなる。体の自由に影響が出始めている証拠。 『私に任せてみろよ。人間を殺し、熱の魔法でこんがり焼いた肉にしてやるからさ』 「そんなことさせるか! お前を焼き潰してやる!」  右手が独りでに震え始める。すると、その右手が私の首根っこを掴んだ。その手は言うことが聞かなかった。 「あっが! や、やめ……」 『いい加減諦めちまえよ。私に逆らえないって』  息が苦しい。女の子な自分とは思えない握力で締め付ける。首の血管を押し潰されて、顔が熱い。血が上ったままなのだろう。  それでも、左手で右手を掴む。どんな圧力にも屈するつもりはないから。  右手を引き剥がす。がんばれ魔理沙。自分に負けるはずがない。 『無駄な抵抗はよすんだ魔理沙。私を受け入れろ』 「絶対に……嫌だ!」  怪力なんかに負けていられない。左手に魔力をこめ、それを原動力に右手をベッドに押し付けた。  今、奴はこの右手にいるんだ。私は呼吸を整えながらも、魔よけの呪文を思い浮かべる。 「私の中からいなくなれ、妖怪が!」  追い討ちといわんばかりに、握りこぶしを右手に打ち下ろす。  痛かった。痛かったが、痺れや頭の痛みが引いた。  勝った。奴は出て行った。追い出せたのだ。消えてくれたのだ。  あんまり嬉しくなったので、いつも飲まない茶葉を使って茶を淹れた。祝福だ。  折角なので今夜はシチューでも作ろう。そうしよう。うんと美味しいものを作って、お祝いだ。  しかし、不思議なことに魔力の衰退は見えない。まあ、そのうち戻るだろう。  今夜は嫌なことを忘れて、満喫しよう。  夜が明けた。  全身に充満する魔力は健在だった。夜の間に消えるんじゃないかと思っていたが。  もしかしたら、まだ奴がいるのではないだろうか。そう思った。  まだ油断はできないのかもしれない。気をつけよう。  今日は化け物茸を集めに行こう。  今度アリスとパチュリーに何かお礼をしようと考えながら森の中へ出かけた。  茸集めは順調に進んだ。が、おかしなものを見つけた。見知らぬ少女。倒れている。  妖怪じゃなさそうだ。奴らは、茸の胞子のせいで近づけないはずだから。  迷い込んだ人間なのか。何はともあれ、放って置くわけには行かない。  私はその女の子を抱きかかえ、家に運んだ。  簡単な風の魔法を使い、家の中に綺麗な空気を取り入れる。  少女をベッドに寝かせて、昨晩の残りもののシチューを温めた。  少女はすぐに目を覚ました。 「う! けほっ……ごほっ……!」  咳き込み、呼吸を整えているようだ。  だが、それもすぐ収まる。茸の胞子にやられているだけだから、空気のいいところにいればそのうち治るだろう。  見たところ、怪我もないようであったから。  落ち着いた彼女は周りを見回した。知らないところに連れてこられたわけだから、当然の反応だった。  私と目が合う。少女は顔を赤らめた。 「おはよう、気分はどうだ?」 「あ、あの……」 「うん?」 「霧雨、魔理沙さんですよね? わたし、あなたに憧れてここまで来たんです!」 「それは光栄だな」 「それで、あの……弟子にしてください!」 「……」  少女は目が覚めるなり、私に弟子入りしたいと宣言した。  魔法使いになることがどれだけ大変であるか、知らないだろうに。  同時に、彼女を連れてから心配していることがある。それは昨日の奴が復活してこないかだ。  目の前にいるのは正真正銘の人間。魔力や妖力、霊気のかけらもない非力な人間である。  乗っ取られたりでもされたら、きっと彼女を殺めてしまうだろう。今はもういなくなってくれているから、杞憂なのかもしれないが。 「あの、わたし本気なんです! 家を飛び出してきたんです! だから、無理だと言っても帰れません!」  なんて自分勝手な奴なんだと思った。正直、弟子なんて持ちたくないから。 「あのな、魔法使いっていうのは大変だし、命賭けなんだぜ。妖怪に狙われて、周りの人からは不吉だと嫌われ、普通の奴からは仲間はずれにされるんだ」 「構いません!」 「大体、魔法使いになってどうするんだぜ?」 「そ、それは……言えません」  言うのが恥ずかしいそうだ。私も、どうして魔法使いを目指したのかと人には言いにくいが。 「あー、わかった。だけどな、弟子には取れない。だから諦めて帰りな。送ってやるから」 「嫌です! いい返事をもらうまで帰りません!」 「あんた、帰れないんじゃなかったっけ?」  困ったことになった。どのみち、あの胞子に耐えられないようではここで暮らすことなど不可能であるのに。  力づくでも彼女を袋に押し込めて、家まで運んでやろうか。  それとも、人間を食べちゃうぞなんて言って脅して帰そうか。そんな風に思った。 「いいぜ、お前を弟子にしてやるよ」  自分の口から出たその言葉。それは私が言おうとして言ったものではなかった。  全身が痺れ始め、頭痛がする。奴が現れた証拠。  気付いたときには遅かった。体の主導権は、とうに握られている。 「本当ですか、ありがとうございます! よろしくお願いします!」  ばか、やめろ。逃げろ、殺されるぞ。  言葉は思い浮かんでも、口にすることはできない。私は、意識の中だけの魔理沙にされてしまったから。 「ああ、じゃあ早速契約を結ぼうか。契約書を書くから少し待ってくれ」  妖怪の私は一枚の羊皮紙に出鱈目な文字を書き出した。契約とは全く関係のない魔術の文字をそれらしく見せようと並べているだけ。  体は動かすことが出来ない。喋ることさえ許されていない。ただ、目の前の光景を傍観するのみ。 『見ているだろう、魔理沙。今からあの人間を殺して、食べてやる』  そんなことさせないぞ。意識をしっかり持ち、必死に叫んだ。それでも、奴は全く動じない。 『もう無駄だぜ。昨日のあれは安心させるためにわざと引っ込んだんだ。もう無駄な足掻きはよしな』  でっち上げの契約書を少女に渡した妖怪の私は、道具入れから刃物を取り出して彼女に見せ付けた。 「あんたの血で、ここにサインをするんだ」 「は、はい!」  少女がナイフで指を切り、血で名前を書き始めた。  そんなことやめろ。それは罠だ。嫌だ嫌だ嫌だ、この先を見せ付けるな。  否定しても、拒否しても、目を閉じることはできない。強制的に見せられるようである。 『強制的だって? きちんと見届けられるって思えよ』  見たくないに決まってるだろう。叫びは無念に終わる。  名前を書き終えた少女は指を咥えて、出来損ないの契約書を見せた。本人はとても嬉しげである。  これから起こりうるであろう惨状を知らずに。 「おめでとう。だけど、この契約書は出鱈目なんだ」 「……え?」 「騙して悪いが、生きていくためなんだ。死んでもらうぜ」  妖怪の私は少女から刃物を受け取ると、少女の首に突き刺す。突き刺し、切り上げた。  血が噴出す。妖怪の私は少女の口を押さえ込んで、叫び声を封じる。 「んー! んんー!」  とても苦しそうな呻き声が響く。  少女が私の体に反抗しようと暴れているが、同じ少女の体とは思えない私は微動だにせず、少女の体を床に押し付けている。 『見ろよ魔理沙。こいつの必死な目を。死にたくないって、言ってるみたいだろ?』  みたいじゃない。本当に死んでしまうじゃないか。やめてくれよぅ。よしてくれよぅ。こんなもの見せ付けるなよぅ。  私は泣きたかった。泣いて、叫んで、狂って、気を失って、現実逃避したかった。  でも、今の私は意識だけの存在。そんなことはできない。抗え切れない。私はもう、自分を失ったから。奪われたから。  鮮血が飛び散り、私の真っ白に洗濯していたエプロンは真っ赤に染まる。  少女が暴れて、家の中はぐちゃぐちゃになっていく。  妖怪の私が、止めのつもりか何度もナイフを突き立てる。  そのうち、少女の動きが止まった。動かされた右手が少女の胸に当てられた。心臓は、動いていなかった。 『くく、あははははっ! 魔理沙、おい見ろよ魔理沙! こいつ、死んじまったぜ!』  わざわざ言わなくてもわかる。五感だけはあるのだから。  妖怪の私が少女の目を抉り出し、口に含んだ。尾を引いた目玉を見たときは、吐き気がした。しただけで、吐き戻すことは出来ない。  口が動き、弾力性のある少女の双眸を噛み砕く。みずみずしい味がした。狂い果てることが許されるなら、そうなりたかった。  そうでもしないと、目の前の現実に耐え切れそうにないから。 『見てろよ、魔理沙。今、こいつの全身にある肉という肉を食べていってやるからさあ』  妖怪の私がテーブルにあるものを全て無理やり動かして、物が落ちていった。  テーブルの上に少女の、亡骸となってしまった、体を乗せた。  衣服を全て脱がし、そこらに投げ捨てる。よく肥えた、健康的な肉体だった。 『けひひ、美味しそうじゃないか。そう思わないか、魔理沙』  うるさい。もう、なんでも好きにするがいいさ。 『そう悲観して諦めることはないだろ。もっと楽しめるように、反逆してくれよ。そうでないと支配し甲斐がない』  もう言葉を考えるのも、面倒になった。  横たえた少女の死体に、食らいつく妖怪の私。  それから何日か、少女の死体と付き合った。  妖怪の私が死肉を食べて、消化しきれないものを排泄し、お腹が空くまで横になっているだけという生活。  一週間が経った。  少女の肉体、内臓、脂肪全てを口に放りこんだ。血液を啜る感覚さえも覚えさせられた。  筋肉の繊維を噛み切る感触。骨の間接にある液体を吸い尽くす音。脳味噌をおもちゃにする光景。  腸を指に巻きつける。胃に空気を入れて膨らませてみる。耳を焼いて食べてみる。  人体のありとあらゆる中身を、見せ付けられた。 『おはよう、魔理沙。今日はお前にとっておきの魔法を見せてやるぜ』  もう私は何だったのか。魔理沙魔理沙と妖怪の自分に呼ばれないと、自分が誰なのかわからなくなってきた。 『しっかりしてくれよ、相棒。これからすることに、お前はきっと喜んでくれるはずだ』  妖怪の私は、ある器具を持ち出した。それは香霖堂から取り寄せた、硬いものをすりつぶす道具。 『これで少女の骨を粉々にするんだ』  そんなこと、少女の体を冒涜しているみたいじゃないか。咄嗟にそう思った。自分らしく、彼女に反抗した。  同時に、自分はまだ人間なんだと再認識できた。たとえ体を奪われたとしても、まだ私は人間の魔理沙でいるのだ。 『アリスやパチュリーの言っていた言葉を覚えているだろう? 人体を使った魔術のことを。それを今から実践してやるぜ』  体を奪われてから、こいつが休んでいる間に主導権を奪い返せないかと試みたが全て無駄に終わっていた。  きっと今の私にこいつは止められない。ずっと、見ていることしかできないんだ。  何といわれようが、何とも思わなかった。もう、開き直りに近かった。 『聞けよ、魔理沙。人骨の灰を魔法の燃料に使うんだ。そうすると、火力が増すんだ。増すってものじゃない、倍増されるんだぜ』  妖怪の私は満足げに話す。私が新しい魔法を人に見せびらかせるような、そんな生き生きとした表情。  だが、奴のしていることは間違いなく許されない行為だ。  もういっそ、閻魔様に裁かれたい。そう思った。 『甘いぜ、魔理沙。この魔法が完成すれば、閻魔どころか神さえも滅ぼせるんだ。わくわくするだろう?』  冗談じゃない。そんな罰当たりなこと、望んでいない。 『どうせ今のお前に私は止められないんだろうに』  妖怪の私は小さな骨から砕き始めた。  器具の器に入りきらないような大きな骨は、拳を振り下ろして潰してから。  それを繰り返し、全身の骨を粉末に。少女の亡骸は跡形も無く消え去った。  妖怪の私は粉を魔法の炎で炭にしていく作業に入る。酷く、胸が痛んだ。  あの少女はどんな思いで魔法使いを目指していたのだろう。  あの少女はどんな覚悟でこの森に足を入れたのだろう。  普段、何をして過ごしていたんだろう。どんな友達と遊んでいるんだろう。  魔法使いにならなかったら、彼女は何を目指すつもりだったんだろう。  魔法使いになるという夢を壊そうとしたのは私だが、未来まで奪っていない。奪ったのは片割れだ。 『何を考えているんだ、魔理沙。過ぎたことじゃないか』  過ぎたことだと? お前は人の命を何だと──。 『食べ物、だ』  本当に胸糞悪い奴だ。誰か、この悪い奴を払ってくれる奴はいないのか。助けて欲しい。  そうだ。霊夢が私の家に来てくれれば、こんな妖怪ぶっ飛ばしてくれる。 『霊夢? あいつは痩せていて、あまり美味しくなさそうだ』  お前は私の友達をなんだと思っていやがるんだ。 『友達? 私にはお前がいるじゃないか。だから、他の奴は全て殺して、食べてやるんだ』  黙れ。お前のような奴と友達になるほど私は落ちぶれていない。 『どの道、どうすることもできないくせに』  片割れが火を消す。熱を帯びるその灰を、八卦炉の中に流し込んでいく。家の中には嫌な臭いが充満していた。  完成したのか、片割れが嬉しそうに叫び声を上げた。  窓を開け、八卦炉を構えている。目標は、アリスの住む館方向だった。  ばか、やめろ! そんなことすれば……!  叫んだ。八卦炉を構える利き手を別の方向へ逸らそうと。  手先がぶれる。わずかに動かすことが出来た。  直後、マスタースパーク発動。森の木々をなぎ倒し、その威力は遠くの山さえも大きく削った。  アリスの家は、掠めた程度で済んだ。 『おっと、邪魔してくれるじゃないか』  まだ私は完全にコントロールを奪われたわけじゃないのだろうか。希望が沸いてきた。 『惜しいことを』  何が惜しいだ。アリスを殺してしまうところじゃないか。 『そのつもりだったんだぜ。いや、殺さなくてよかったかもな。アリスを食べれなくなるところだったもんな』  お前は何を言っているんだ? 『助かったぜ、魔理沙。お前のおかげで次の獲物が決まった』  やめろ、そんなことで感謝なんてされたくない。 『ところで見たか? この威力、火力、魔力。いままでお前がどれだけの茸を集めようが実現できなかっただろう?』  うるさい。私が求めていた、弾幕における火力は世界そのものを壊そうとするものじゃない。  でも、今ので霊夢が異変だと気付いてくれないだろうか。  妖怪の私が遠くを見つめている。そのとき、視界の奥で、何か光が見えた。  片割れが床に伏せた。頭の上を光線が通過。家に風穴が開いた。  今のはアリスが操る上海人形のものなのだろうか。遠くから魔法使いが近づいてくる。気配でわかる。  アリスだ。今のでアリスが怒っているんだろう。 『向こうからやってくるとはありがたい。妖怪の魔法使いだ、さぞ魔力に溢れた旨みたっぷりの肉に違いない』  そんな吐き気を催すようなことを言うな、妖怪。絶対にそんなこと、させない。  扉が蹴り開けられた。そこには、多数の人形を従えたアリスがいた。憤怒の表情で私を睨みつける。 「何のつもりよ、魔理沙! そんなに本を返したくないの!?」 「ち、違うんだ、アリス! あ、あれ?」  思わず言葉を発すると、口から出て行った。  奴が引っ込んだ? それならチャンスだ。今の自分がどんなことになっているのか、伝えてしまおう。 「聞いてくれ、アリス! 私の中に、もう一人の私がいるんだ! 妖怪の私がいるんだ!」 「……本当? 確かに、あなたから魔力以外の、妖力も感じるわ」  アリスが聞く耳を持ってくれる。小さな剣を構える人形達は私を睨んでいるが。 「そいつが……そいつに操られて、私は人を殺したんだ」 「……なんですって? じゃあ今のあなたは?」 「さっきのも妖怪の私のせいだ。ちなみに今は妖怪の私が引っ込んだみたいで……」 「ちょっと待ちなさいよ。あなた、本当に人間の魔理沙なの?」 「ほ、本当だ! 頼む、アリス……私を殺してくれ。妖怪の私ごと。でないと、私はまた殺人を繰り返してしまう……」 「その、殺された人は?」 「私が──食べた」 「……は?」 「妖怪の私が、一人の少女を殺して食べたんだ。筋肉、脂肪、内臓まで、全部」 「ま、魔理沙?」 「残った骨をマスタースパークの燃料に使いやがった。その結果がさっきのだ」 「……」  ここ一週間の出来事を思い出して、泣き叫んだ。胃の中のものを戻した。  床に精一杯のストレスをぶつけた。アリスに許しを請うた。妖怪の私に対する罵詈雑言を吐き散らした。  あいつ、私の体を利用して女の子を襲いやがったんだ。  私を慕い、魔法使いになりたいと言っていた少女を。  机の引き出しにあったナイフで喉に穴を開けやがった。酷いことをしやがった。  その後、少女の太腿にかぶりつきやがった。一番肉が付いてるとかなんとか言って。ふざけてる。  おまけに食べるだけ食べたら残りは魔法の材料にするなんて言って。冒涜もいいところだ。  その次には、アリスを殺そうと企んでいたんだ。もうこんなことしたくないのに。 「わかったわ……。魔理沙の話、信じてあげるから。落ち着いて」  アリスが手を差し伸べた。私はアリスに抱きついた。 「もう無理だ、アリスぅ……。いつまた乗っ取られるかわからないし、私はお前を襲うかもしれない。頼むから殺してくれ……」 「悲観しないで、魔理沙。もうその少女は戻らないんだから。それを悔やんで、反省して、妖怪の魔理沙を追い出しましょうよ」 「うう……アリスぅ……」 「そうと決まったら霊夢のところに行きましょう。きっと何とかなるでしょう」 「あ、ありがとう、アリス……」  じゃあ早速行こうぜ。あれ? 口が動かない。 『茶番劇は終わりだぜ、魔理沙』  おい、ふざけるな! 今から霊夢のところへ行って、お前を祓ってもらうんだ! 『そんなことさせるわけがないだろ? けひひ、綺麗で上手そうじゃないか、この魔法使い』  やめろ! 逃げてくれ、アリス! 「魔理沙? どうしたの、行かないの?」  うずくまったままの私に話しかけるアリス。私がどんなことになっているのか知らずに。  妖怪の私が、アリスの首へ手を伸ばした。 「くっ!」  すんでのところでアリスが手を払いのけた。私は蹴飛ばされ、距離が出来た。 「魔理沙、どういうつもり? それとも……」 「その通りだぜ。お前らが言う、妖怪の魔理沙だ」 「いいわ、魔理沙の体から追い出してあげる」  アリスが人形に隊列を組ませて、襲ってきた。片割れが狭い家の中で動いて、人形の突撃をかわす。  がんばれ、アリス。こんな奴倒してしまえ。 「お前もこちら側の魔法使いじゃないか。仲良くしようぜ」 「下劣なあなたと一緒にしないで頂戴。気持ちが悪い」  再度、剣を突き出した人形の突進。片割れがそれらを掻い潜って、アリスの懐に。  アリスを押し倒し、床へ磔に。アリスの指から続いている、人形を操る魔法の糸を熱の魔法で溶かし切る。  暴れるアリスを殴って沈めて、首に手をかけた片割れ。  やめてくれ、アリスが死んでしまう。 「うっぐ……ま、まり……さ」 「やめろ! 放せ、おい! え?」  言葉は発せられる。またあいつが引っ込んだのか? いや、体の自由が利かない。 「嫌だ! 私はこんなことしたくないんだ! アリス、どうにかして私を引き剥がすんだ!」  目の前でアリスが呻いている。何をしても力を緩めることはできない。  なんだよ、私は何もできないじゃないか。知り合いが三途の川を渡ろうとしているのに。 「う……もう、だめ……」 「アリスぅ! 死ぬんじゃない、私を振りほどくんだ! 嫌だ嫌だ嫌だ……」 「まり、さ……ごめ……」  アリスが泡を噴き始めた。もう反抗する力もないのか、顔を赤くして動かなくなった。 「やめろ! アリスが本当に死んじゃう! やめてくれ!」  片割れが手を放した。アリスは動かない。咳き込んだりしない。意識が戻らない。  綺麗な両目が私を見ていない。まばたきをしない。暴れたりしない。私の名前を呼んだりしない。  そんな。アリスが私の目の前で、息絶えた。 「いやあああああああああアリスうううううううううううううううううううううううううううう……」 『どうだ、魔理沙。こいつの死に顔、見ただろ? お前に微笑んでたぜ』 「うう、アリスぅ……。そんな……いやぁ……うぇっく……」 『返す言葉もないのか』 「もう、私は……最低最悪の人間だ。アリスう……」 『もういい、お前は引っ込んでな。魔理沙は見ていればいい』  アリスの死体となってしまったそれを、あの少女と同様にテーブルへ乗せた。  片割れが食事を始めた。もう私には耐えられない。私は、意識を深く閉ざした。  妖怪の魔理沙が、私の心と体を全て奪っていった瞬間。  あれから何日経過したのか。  アリスの死体はつまみ食いした程度で置いておき、冷気の魔法で冷凍保存しておいた。  後々、魔法の材料として利用するから。  パチュリーとアリスからくすんだ魔術書を開く。  どの本も執筆した本人による、暗号が幾重にも仕組まれている。  普通、魔法使いが研究、実験して得た記録は暗号化して誰かに技術を盗まれないようにするものだから。  だが今の私にとって、そんな暗号は南京錠を破るよりも簡単なものだった。  妖怪としての頭脳、魔法使いとしての資質、何十人も人肉を食らって魔力を得ているのだから。  まず始めにパチュリーの本から読み解くことをはじめた。何でもいい。魔術に関する知識を蓄えて、強力な魔法を開発するんだ。  幻想郷の誰にも負けないスペルカードを作るために。人間の魔理沙が信頼を置く、霊夢にも負けないために。  久しぶりにお茶を飲んでみた。美味しかった。でも、人肉を搾り出して飲む血液の方が体には良さそうだ。  項をめくったとき、背後で違和感がした。振り向くと、時空の歪みが生じていた。その奥からは、境界妖怪八雲紫が姿を見せる。 「なんだなんだ、入るならドアから入れよ」 「魔理沙、本当に堕ちちゃったのね。妖怪側に」  挨拶はそれだった。  力があり、古くから幻想郷に住んでいるからと言って偉い者を気取る妖怪め。  今に見ていろ、お前みたいな奴だろうが消してやるからな。 「そんなことはどうだっていいだろう。人のことに、どうこう口出しする権利はお前にない」 「……そんなに冷たくしなくてもいいじゃない。ちょっと会いにきただけなのに」 「うるさい、私は暇じゃないんだ」 「……わかったわ、今日はもう帰る。でもね、一つ覚えておきなさい」 「何だ?」 「出すぎた行動だけは止めなさい。幻想郷のバランスを崩壊させるようなことだけは許さない」 「そうかい」 「そのときは容赦しないわよ。それじゃあね」 「さっさと消えてくれ」  紫は音もなく、次元の狭間へ。これで安心して研究を続けられる。  これからの私は妖怪の魔法使い、霧雨魔理沙だ。今の私に、人間の成分は残っていない。  人間としての心を持った霧雨魔理沙は消えていった。とはいえ、心の奥底には横たわっているのかもしれない。  生まれが人であるために、人間性を捨てることはできない。邪魔な存在なのである。  だから、自然に引っ込んでもらうために知り合いの魔法使いを殺したのだ。  人間とは友情とか、愛情とか、仲間意識を大事にする奴が多い。そこを突けばいくらでもいたぶることが可能なのだ。  いずれは幻想郷の巫女こと霊夢にも消えてもらおう。人間の私が頼りにしているほどの存在だ。  そいつの肉を食らってやれば、人間の私は勝手に絶望して勝手に自我の崩壊を起こしてくれるだろう。  そうなればこの体は妖怪の私が全ての主導権を握るのだ。私の天下だ。  研究を続けよう。次にアリスの本を開き、解読を始めた。  今考えているスペルカードがイメージ通り完成すれば、如何なる弾幕を相手にしたところで揺るがない火力のスペルカードを実現できるだろう。  人間の魔理沙を深淵に叩き落すために、自分の食欲を満たすために、幻想郷を滅ぼすという野望を果たすために、私はひたすら筆を走らせた。  アリスの体は食料にすることなく、全て魔法の糧とした。  お腹が空いたときは人里から適当な人間を攫って食べた。こうしていれば、直に霊夢が向こうからやってくるだろう。  スペルカードはもう完成した。後は待つのみであった。  今日の天気は崩れている。嵐のような雨風。嫌なことが起こりそうだと連想させる荒れた空。  私にとっては、楽しそうな出来事が来るのではないかと待ちわびるようなもの。  そのうちドアを叩く音か、開け放たれる音がするに違いない。鍵は開けてあるから。  さあ来るがいい、霊夢よ。人間の私の叫び声を聞きながら、死んでいけ。  あと少し。三、二、一……。  コンコン。扉がノックされる。のこのこと死期を近づけにやってきた。暢気な茶飲み巫女め。 「開いてるぜ」  ドアが開いた。雨の音がいっそう大きく聞こえるようになった。  玄関先には雨を全身に受けて、水を滴らせる紅白巫女装束の人間、博麗霊夢が立っていた。  私を睨んでいる。酷く腹を立てているようだ。私が何をしてきたか、十分把握しているのだろう。  霊夢は私にお払い棒を突きつけた。 「わたしが休んでいる間に、何をしたのよ魔理沙」 「随分な挨拶だな。聞かなくてもわかってるんだろ?」  霊夢の表情がより一層険しくなった。 「ふざけないで! 一体、どうしちゃったのよ……!」  険しいものから、悲しみと哀れに顔が崩れていく。 「どうして魔理沙が、人間なんか襲うのよ! 変なのが取り付いたとでも言うの!?」   それは悲しいというよりも、信じたくないという拒否の言葉だった。 「その通りだぜ」  予想外の返答だったのか、霊夢が怯む。 「……そう言うなら、私は全力で祓ってあげる」 「できるんなら、やってみな」  ここで人間の私の意識を覚醒させて、喋ることを許した。片割れは目の前の状況を認識しきれていないのか、反応は薄い。  何より、今まで心の奥底へ追いやっていたのだから。眠っていた状態だったのだから。 「れ、れい……む?」  さっきの私とはテンションが違う声。それに驚いてか、身構える霊夢に隙が生じる。 「魔理沙? 私の知っている魔理沙ね?」 「そ、そうだ! 私は人間の魔理沙だ! 聞いてくれ、霊夢。こいつはとんでもないスペルカードを作りやがった。何としてでも止めてくれ」  人間の私が涙を流し始める。体から水分が失われるじゃないか、馬鹿め。 「言われなくてもやるわよ」 「霊夢ぅ……私は、妖怪に体を奪われたんだ。始めに同い年の女の子を殺してしまったんだ。次にアリス。もうその先は覚えたくない程」 「アリスまで!? その、攫った人達は?」 「妖怪の私が……食べやがった! 全部! この体を乗っ取って食べつくした!」 「……」 「心まで乗っ取られて、私はもう生きてないようなものだ。これ以上この体で人殺しなんてされたくない」 「魔理沙……」 「このまま生き地獄を見るより死んで地獄に堕ちた方がましだ。私を止めてくれ。これが私からの、最後のお願いだ」 「わかったわ。何としてでも、魔理沙を止めてあげる」 「ごめんな、霊夢」 「気にしなくていいのよ。これがわたしの仕事だから」  人間の魔理沙が、笑った。やっと苦しみから解放されるんだと、期待している笑顔。  その期待を挫くのが、どれほどの快感になるのか。この後が非常に楽しみで仕方がない。  霊夢が札を取り出した。私は攻撃が飛んでくるより前にスペルカードを詠唱、読み上げた。  数々の札が飛来してくる前に八卦炉を構える。発動、砲火。周囲に魔法の炎を撒き散らした。  自分には極力被害が及ばないようにしたものの、家が丸ごと吹っ飛んでしまった。少し困る。  しかし霊夢を黙らせることには成功した。吹っ飛ばされて、森の木々にその細い体をぶつけたようだ。  近くの木に身を任せて、立つのがやっとな感じ。 「うう、油断したわ……や、やるじゃない……」 「霊夢! 大丈夫か!」  新しいスペルカードを取り出した霊夢。遅い。読まれる前に、私が霊夢に飛びついた。  スペルカードを取り上げて、地面に押し付けた。  こうなれば相手がいかに強い弾幕を張る人間であろうと関係ない。  力勝負になれば相手に勝ち目が無いことなど予測済みだ。 「霊夢、何とか逃げてくれ! こいつ、このままお前を食べる気だ! 「言われなくても、やってるわよ!」  どう足掻こうが、所詮人間。一人の少女。何が幻想郷の巫女か。  私は人の体を借りて首にかぶりつく。が、そこに霊夢の姿は無かった。  気がつけば、周囲を飲み込まれていた。無数の目玉が私をねめつけている。そう、隙間に放り込まれたのだ。  これは境界を操る妖怪の仕業、紫の所為か。  後ろに妖の気配。振り向けば、霊夢を介抱する紫の姿があった。 「まさか霊夢が負けるなんてね。そこらの妖怪ごときにしては、やるのね」 「あんたに褒められるなんてな。光栄だぜ」 「でももう終わり。これ以上の暴走は許さない。隙間の中に消えなさい」  紫の姿が消えた。たくさんの目玉が近づいてくる。直感的に、殺されると思った。  死人の灰を燃料にした魔砲を闇雲に放った。しかし効果は薄い。当たった目玉は怯むが、ものともしない。  このままだと私はこの目玉共に押し潰されてしまうのだろう。 「天罰だ、妖怪め! これでお前は死ぬんだ! 私はもう、誰も殺さなくて済むんだ!」 『黙れ、魔理沙。知恵を貸そうとしないお前なんてただの邪魔者だぜ』 「アリス、今からお前のところへ行って謝るからな。ごめんな」 『くそ、四面楚歌だぜ』  人間の魔理沙が壊れたように笑い出す。目玉共が奇妙な、甲高い叫び声をあげる。  こんな大事なときに魔法が使えなくなるなんて。魔法が効かない奴に狙われるなんて。最悪だ。 「最悪なのはお前がしてきたことだぜー! はっはっはっはっは!」 『……』 「お前は閻魔様に裁かれて、地獄の弾幕を味わうんだ」  世界が押し寄せてくる。目玉が私の体を潰していく。視界が暗くなっていく。意識が遠のいていく。  私、人間と妖怪の魔理沙はここで存在を隙間に隠された。