主の健在不在に関わらず、紅魔の図書館は在り続けている。
 黴と埃の匂い。薄暗い闇。耳鳴りがするほどの静寂。
 何一つ変わらない――わけではない。

「咲夜、見て」

 アリスは本棚から一冊抜き出し、メイド長に開いて見せた。
 魔法の知識がなくとも、子供でもわかる変化である。咲夜は眉根に皺を寄せた。
 黄ばんだ頁のあちこちに、小さな穴が空いていた。読むのに差し支えがあるほどではないが、見苦しい。
 そしておそらく、放置していれば見苦しいで済まないものとなるだろう。

「パチュリーはこの場にいるだけで、本の保存魔法を意識もせずに使い続けていたみたいね。大したものだけれど、保存魔法が
切れたとたんこれよ。このまま進めばどうなるかわかるでしょう?」
「このまま朽ち果てた方がいいんじゃないかしら」
「魔法使いじゃなくてマジシャンのあんたはそれでいいでしょうけど、私にとってここがなくなるのは結構な痛手なの。そこで
維持し続けるために、私の魔法をここに持ち込むことを許可してほしいの」
「私に言っても仕方ないわ。お嬢様に言っていただかないと」

 瀟洒な微笑みを浮かべる咲夜と対照的に、アリスは目を細めた。レミリアは苦手なのである。
 だがその程度のことを理由に退いてしまっては、損を見るのはアリスの方だ。小さく鼻を鳴らして見せる。

「いいでしょう。連れてきなさいよ」
「冗談よ。お嬢様には私から言っておくわ。ま、心配しなくてもいいって言うでしょう」
「じゃあ、事後報告ということでいいわね?」

 アリスが手を叩くと、本棚の隙間から無数の小さな人形たちが現れ、主人の前に集合する。

「私がこの子たちを通じて、保存魔法を恒久的にかけ続けるわ」
「へぇ、勝手に動くのね。便利なものじゃない。メイド殺しとはよく言ったものね」

 しゃがんで人形の一体を指で小突く咲夜に、アリスは首を振る。

「そうでもないわ。こう見えても私が今でも操っているの」
「あらそうなの?」
「自宅にいても操れるけどね。ま、小悪魔やお嬢様がこの子たち見かけても、壊さないよう言っておいて」
「わかったわ」





 幸いにも人間と違い、パチュリーは飲食を多少控えたところで死ぬわけではない。
 しかし百年生きていようが少女であることに変わりはない。常に清潔でいたいと思うのは仕方ない話だ。
 小悪魔は車椅子を押し、脱衣室に入った。
 パチュリーは自分から外套のリボンを解き、背中を上げて腕を抜く……が、そこで動作が止まった。
 腰の傷がまだ完治しておらず、下半身が侭ならないのである。小悪魔は「失礼します」と断りを入れてから、パチュリーの背
中に手を入れ、外套を脱がした。
 そのまま下の服にも手をかける。パチュリーは抵抗も文句も何一つ見せないが、顔だけは伏せていた。

「パチュリー様、腕を上げてくださいますか?」
「……」

 緩慢にパチュリーは両腕を上げた。腕を袖から抜き、下着姿にさせる。
 色白を通り越した青白い柔肌が露になり、小悪魔は胸が締め付けられるような思いを覚えた。
 常に外套で覆われ隠されていた主人の肢体だ。きめ細かな肌に痩せた手足。わずかに浮いた肋骨から骨盤にかけて描かれた曲
線は、芸術家たちが追い求めて止まない美の化身そのもののようだった。ため息が零れる。
 ふと顔に視線を戻すと、パチュリーは耳まで真っ赤にして肩を震わせていた。その耳に齧りつきたくなる衝動を抑え、ふと、
良いことを思いつく。

「ブラはご自分で外せますよね?」

 パチュリーは、はっと顔を上げた。小悪魔は、あくまでも優しい微笑みを崩さない。
 だが小悪魔が先に言ってしまった以上、脱がしてくれなどとは口が裂けても言えないはずだ。ならば自分で脱ぐしかないのだ
が、言いようのない屈辱感を覚えずにはいられないだろう。
 パチュリーは腕を震わせ、背中に両手を回す。つたない指の動きで何度も失敗しながら、たっぷり一分ほども時間をかけ、な
んとかホックを外した。両腕で抱えるように乳房を隠し、小悪魔にブラを渡す。
 まだ暖かいそれを脱衣籠に入れ、小悪魔は一度頭を下げてからショーツに手を伸ばし、恭しくゆっくりと腰から降ろす。太股
を這うように指を滑らせ、膝に少し乱れた息が零れた。踝を撫で、爪先から引き抜き、名残惜しく脱衣籠に落とす。
 生まれたままの姿を晒し、車椅子の上で震えながら局部を隠そうとする主人の姿に、小悪魔は理性が吹っ飛びそうになった。
跡形もなく汚してしまいたいという欲望が胸から四肢へと伝わり、主人の肩を掴む。
 火に触れたかのように、パチュリーは怯えた顔を小悪魔に向ける。歯の根も合わせられず、眼球が零れんばかりに瞼を見開き、
全身を縮込ませるその姿に、罪悪感を覚えた瞬間、理性を取り戻した。

「失礼します」

 肩に掴んだ右手をそのまま背中に回し、左手で膝の下を持ち、小悪魔はパチュリーを抱え上げた。そのまま浴室の中に入り、
パチュリーの身体を湯で流してやる。
 全身を流し終え、再び身体を抱え上げて湯船の中にそっと入れてやった。
 元から風呂好きなパチュリーだ。小悪魔に裸身を見られることにもなんとか慣れてきたのか、震えは収まり少しずつ表情に余
裕が戻り始める。

 ああ、やはりこれだ。これが一番良い。自分はなんて馬鹿なことをしようとしていたのだろう。小悪魔は自分を叱責する。
 一時の肉欲に駆られ、主人の信頼を破壊してしまってはもう後戻りなどできないのだ。主人は部下を信頼し、部下は主人を愛
し、暖かな時間を築く。これが小悪魔の理想のはずだ。自ら理想を台無しにしてしまうほど、小悪魔は愚かではない。
 何より、一気に打ち崩してしまえば楽しみはそれっきりで終わってしまうではないか。

 その思いが、主人の髪を、身体を洗う時の誘惑から小悪魔を一線で留まらせた。第一、自分から攻めるより、パチュリーに懇
願させた方が面白いし、昂ぶるのだ。時が来るまで、そう短くは無い。建設的に考え、我慢するのだ。
 風呂から上がった主人の身体を、丁寧に小悪魔は拭いてやる。怪我に喘息、貧血に風邪までこじらせてしまっては、いずれ来
たる夜の営みにも影響が出てしまうだろう。
 そして、用意していたバスローブを籠から取ろうとして、小悪魔は顔をしかめた。

「パチュリー様……申し訳ございません」
「どうしたの?」

 機嫌が幾分良くなったパチュリーに、小悪魔は籠の中身を見せた。一転して主人の表情は以前にも増して暗くなる。

「……誰がやったの?」
「おそらく、妖精メイドたちでしょうね」

 バスローブは切り裂かれ、妖精メイドたちの残飯を引っ掛けられ、汚されていた。
 見れば、パチュリーの脱いだ下着や服なども一部なくなっており、残ったものはバスローブと同じ目に遭っていた。
 舌打ちをぐっとこらえる。アレは誰の下着だと思っているのだ。時々小悪魔と主人のものとを交換して慰めにしていた、思い
出の品だというのに。八つ裂きにしてパン焼竈で七日七晩焼き続けてやっても収まらない。
 いや待て。落ち着け。これはむしろ好機だ。確かにパチュリーの下着は惜しいが、今やパチュリー自身が小悪魔の手中にある
のである。奴らには好きなようにさせておけばいい。
 ある柱の男はいいことを言った。受けた『傷』も我が肉体。今までの『ダメージ』も我が能力。全てを利用して勝利を掴む、
と。逆境こそ人間も妖怪も小悪魔も強くしてくれるのだ。

「パチュリー様、ご心配なさらないでください。今すぐ替えを持ってきますので……」
「あ……待って」

 もちろん、聞こえていたが小悪魔は夢中に駆け出したフリをして、無視をした。
 そして悠々とパチュリーの寝室から着替えを取ってきて、脱衣室に戻る。
 案の定、パチュリーは車椅子から引き摺り降ろされ、バスタオルを剥ぎ取られ、全身ずぶ濡れのうえに生ゴミまでかけられた、
哀れな姿となっていた。
 まぁ、こんなことになるだろうとは思っていた。今のパチュリーは人間の子供より弱い。妖精メイド程度でも束になってかか
れば、この程度の悪戯は可能だ。ただ、ついさっきまでは小悪魔がいたからできなかっただけのことである。

「ひどい! 大丈夫ですかパチュリー様!」

 着替えを放り出し、小悪魔はパチュリーに駆け寄った。肩に触れたとたん、のけぞるほどに怯えたパチュリーであったが、小
悪魔の顔を見た瞬間表情が弛緩し、ばっと縋りつく。
 そして、恥も外聞もなく子供のように泣き出した。
 小悪魔はパチュリーの背中に腕を回し、頭を撫でてやった。よしよし。今まで泣かなかったのね。がんばった。エライねぇー。

「め、メイド……たちが……」
「わかっています! 着替え終わったら、すぐ咲夜さんに言いつけてもらいましょう!」
「だ、だめ……っ。告げ口……したら……図書館の本に……」
「そんな……でも、それじゃあますます奴ら、付け上がるばかりですよ!」
「こ、小悪魔が! 小悪魔が私の言うことも聞かずに、勝手に出てくから、こうなったんじゃない!!」

 ――ええ、そのとおりです。本当に、メイドたちには感謝して止みませんとも。

「わかりました。これからはこの小悪魔、パチュリー様から片時も離れずに仕えることを誓います」

 主人の手を取り、小悪魔は跪く。パチュリーはそんな小悪魔を見下ろし、嗚咽を漏らし、鼻をすすり上げ、再び抱きついて泣
き叫んだ。
 ――これで事実上、パチュリーと小悪魔の力関係は完全に逆転した。
 パチュリーは自らの身を自分で守れない。小悪魔がいなければ何もできない。小悪魔こそが、パチュリーの全てを決める権限
を手に入れたのだ。
 今、幻想郷でもっとも幸福な者は、もしかしたら小悪魔なのかもしれない。





 パチュリーの墜落事件から一ヶ月が経とうとしていた。
 気と寿命の長い妖怪でも一つの区切りがついてしまったと考えられる期間である。犯人は見つからず、パチュリーの知能は回
復する素振りも見せていない。
 幻想郷中を駆け回り、怪しそうな奴を見つけてはぶっ飛ばしてから話を聞くという実に荒くたいやり方で犯人を捜していた魔
理沙も、さすがに疲れを見せてきたようだ。

「で、アリスは私より先に犯人を見つけたってのか?」
「見つけたというより、証拠を揃えたってところかしら」
「んあ? どういうこったそりゃ」

 わざわざ椅子の背もたれを前面にして、湯飲みでも持つように紅茶を啜る魔理沙は首を傾げる。
 別に博麗神社や紅魔館でやろうとも、アリスは見苦しいと思うだけで気にしない。しかしここはアリスの家だ。上海にハリセ
ンを持たせ、容赦なく魔理沙の頭を引っぱたいた。

「最初から容疑者は決まっていたわ」
「だから、永遠亭の薬師だろ?」
「小悪魔と咲夜よ」
「なんだって?」

 魔理沙は別に頭は悪くない、というより魔法使いなのだから頭は良いはずなのだが、こと他人を疑うことにおいては力押しで
しか対処できないらしい。
 不器用な彼女らしい優しさの現われといったところであろう。なので、知能派を自称するアリスとしてはこっそり周到に周り
を掘り固めることとしたのである。
 魔理沙が好んで読むミステリ小説のように、犯人を探し当てるために推理を用いるのは非現実的なやり方だ。幻想郷的にはそ
れでいいし、ゲームとして成立するならアリスも乗る。だがパチュリーの件に関しては、ただの下劣な犯罪だ。解決方法に手段
は選ばない。
 現実的なやり方は、まず「コイツが犯人に違いない」と決めつける。そして証拠を集め、折りを見て犯人をとっ捕まえ、ボロ
を出させる。もっと乱暴な方法としては魔理沙のようにぶっ飛ばしてから拷問するというやり方だが、これは万が一間違えた時
のリスクが大きい。

「で、なんで小悪魔と咲夜なんだ?」
「両方パチュリーの飲食物に触れる機会が多いわ」
「恐ろしく短絡的な思考だな」
「だから嫌いなのよ、こういう攻め方」
「ある意味アリスらしいがな」

 蓬莱ではたいておいた。

「そういうわけで小悪魔と咲夜、どっちに絞るかだったんだけど……疑いたくないというより、咲夜に隙がないから先に小悪魔
から調べることにしたわ」
「隙がない奴に猶予なんかあげたら、ますます証拠も消されちまうぜ」
「だからと言って咲夜の隙をうかがっていたら小悪魔が犯人だった場合、あの子も証拠消し出すでしょう?」
「私なら二人同時に締め上げるがな」
「ま、結局小悪魔が犯人っぽいわ」
「その根拠は?」

 用意していた薬草を、アリスはテーブルの上に投げ出す。
 魔理沙はそれらを眺め、匂いを嗅いだりして首を傾げた。

「煮ても焼いても揚げても茹でても、あんまり美味しくなさそうだな」
「美味しくないわよ。色々やったらパチュリーに飲ませたものと同じ薬になるけど」
「へぇ、よく調達したもんだな。お前を犯人だぜ」
「日本語を喋りなさい。ここは幻想郷よ。それに、調達ってほどじゃないわ。紅魔館で材料は揃うもの」
「物騒なもん生やしてやがるな。さすが悪魔の館だぜ」
「毒も薬も同じよ。図書館のグリモワールからも、調合方法の記述を確認したわ」
「でもまだそれじゃ、咲夜にも可能性はあるぜ」
「咲夜がやったなら、グリモワールを処分しているでしょう。薬草は下手に処分した方が怪しいからわからないけれど」
「ナイフとメイドと頭は切れ味が良くてナンボだもんな」

 魔理沙は椅子を蹴飛ばすように勢いよく立ち上がり、拳を手の平に叩きつけた。
 帽子と箒を取ろうとする魔理沙の背中に、アリスは声をかける。

「話はまだ終わってないわよ。どこ行くの?」
「小悪魔ぶっ飛ばしに行くに決まってるだろ」
「それはあんたの仕事じゃないわ。いや、まああんたがやった方が逆に丸く収まるかもしれないけど……どっちみち、私怨の意
趣返しなんて魔理沙には向いてないわ」

 あまり認めたくはないが、そういう陰険な仕事はアリス向きである。自らの名誉のために言っておくが、ただ単に魔理沙が向
いていなさすぎるだけで、アリスは人並みだ。決してアリスは陰険でもなんでもない。
 魔理沙はむくれっ面を見せた。パチュリーに怪我をさせてしまったことに、少なからず責任感を覚えているのだろう。絶対に
口には出さないだろうが。

「私が紅魔館行って、探偵まがいの謎解きしてくるわ……。被害者も加害者も舞台も全部紅魔館よ。後始末も、紅魔館に任せま
しょう。探偵っていうのは、そういうものじゃない?」
「私はアルセーヌ・ルパンが大好きなんだ」
「じゃあこれからはもっと紳士的にお願いするわ」

 アリスも立ち上がり、出かける仕度を始めた。
 念のために戦闘の用意もしておいた方がいいかもしれない。





 最近、パチュリーは本に見向きもしなくなった。
 おそらく、基本的な文字すら読めるかどうかわからず、もし本当に読めないことを知ってしまったら、立ち直れなくなること
を本能的に悟っているのだろう。
 もちろん、小悪魔は指摘しない。だが、近いうちにまた妖精メイドを上手く使って、その事実を指摘してやろう。きっとその
時のパチュリーの表情は、何ものよりも美しいに違いない。
 毎日毎日が幸せで満ち足りてならない。明日が来るのが楽しみでならない。小悪魔は果報者である。
 だが、そんな幸せを脅かすものへの警戒心を忘れたわけではない。

「ふふ……。アリスさん、気付いちゃったかな」

 パチュリーに使った薬の調合が書かれたグリモワール――それに挟んでおいた小悪魔の髪の毛が、何者かによって読まれたこ
とを教えてくれた。本来挟まっているはずの箇所にないのである。
 小悪魔はグリモワールを元の場所に戻すと、パチュリーが休む寝室に駆け込んだ。

「パチュリー様、ごめんなさい!」
「……どうしたの、小悪魔?」

 ベッドに座る主人の膝元に、小悪魔は頭を埋めた。どこか呆けたような口調で、パチュリーは小悪魔を見下ろし、頭を撫でて
くれる。

「私……私が、私がパチュリー様をこんな風にしたんです!」
「……どういうことかしら?」

 特に動揺した様子も見せず、パチュリーは小首を傾げた。
 ああ、と小悪魔はパチュリーのスカートに顔を押しつけたまま、口元を吊り上げた。全く、信頼関係とはなんと素晴らしいも
のであろう。命より大切なものを奪った者ですら、許してしまえるほどの力を持っているのだから。

「毎日のお茶に……少しずつ、少しずつ、わからない程度に、薬を入れていたんです……」
「そう……あなただったのね。でも、だから、どうしたの?」
「ですから――!」
「ちゃんと、理由があるんでしょう? でなければ、あなたがそんなことするわけないじゃない」

 小悪魔の髪を撫で、頬を伝う涙をパチュリーは指で拭き取る。
 震えながら、小悪魔は頷いた。

「それが……」





「犯人がわかったって?」
「ええ。わかっていると思うけど、残念ながら内部犯よ」

 本来、アリスはレミリアなどと面と向かって話をしたくない。だが、今回に限り怯えたり嫌がっている場合ではないのだ。そ
れほど親しくはなく、志も全く違ったが、友人をあのようにされて黙っているほどアリスは薄情でもなければ、臆病でもない。
 咲夜に犯人を突き止め、紅魔館の主要な者を集めて話をしたいと言うと、彼女はすぐにレミリアにパチュリー、そしてその付
き添いである小悪魔も含めて連れてきてくれた。
 こういう時でもフランドールは外されるのか、などと的外れな思考が一瞬浮かんだ。

「まあわかってたわ」
「魔理沙と違って話が早くて助かるわ」

 つまらなさそうに、レミリアは呟く。当然と言えば当然なのだろうが、相当機嫌が悪いようだ。
 かと言って、今さら帰るわけには行かない。
 アリスは魔理沙に話したように、容疑者の説明をし、証拠を見せた。眠ってしまったかのように、目をつむって聞いていたレ
ミリアはアリスの話が終わると同時、血のように暗く紅い目を開いた。

 背筋に冷や汗が伝った。理由も何もいらない。今すぐこの場を逃げ出さなければいけない。アリスはそう悟ったが、既に遅か
った。いや、どれだけ早く気付いても意味がなかった。ついさっきまでレミリアの傍に控えていたはずの咲夜が、アリスの背後
に立って肩に手を置いていたのだから。

「ドミネ・クオ・ヴァディス?」
「むしろ今日の夜会はどこへ行こうとしてるのかしら?」

 乱れようとする呼吸を抑え、軽口を叩いてみせた。レミリアは「そうねぇ」と口元に指をやる。

「で……誰が犯人だったかしら?」
「小悪魔よ」
「ああそうね。そうだったわ。でもそれはあんたに教えてもらうまでもなく、わかってたの」
「どういうことかご説明いただける?」
「小悪魔自身が言ったの。こういうのなんて言うんだったかしら。懺悔?」
「吸血鬼から出てくる言葉とは思えないわね」

 どういうことだ。小悪魔が自ら告白したのなら、なぜこんな事態になっている。レミリアは全身から立ち昇る敵意と殺気をま
るで隠そうともしないし、咲夜の態度は正にナイフのように鋭く、冷たい金属そのものだ。
 小悪魔に視線をやる。まるで私は被害者ですと言わんばかりに目を伏せ、肩を震わせ、縮こまった卑屈な姿に怒りを覚えた。
間違いない。こいつが犯人で間違いないはずだ。
 そして、最後に被害者であるパチュリーの表情を見て――アリスは絶望と、納得を覚えた。

「小悪魔、これも一つの罰よ。あんた自身が告発なさい」
「は、はい……」

 両手で顔を覆う。なんて茶番だろう。
 もうどうでもいい。もう何も見たくない。聞きたくない。喋るな小悪魔。一体お前が何を企んだのか、もうわかっている。知
能派を自称する身分としては、遅すぎたが。

「わ、わたしに薬を渡して……飲ませろと命令したのは、アリス・マーガトロイド……ですッ」
「――と、まあそういうことよね? 確かに小悪魔は犯人だったわ。でも『犯人は俺だ!』って、十戒で禁じられているのよ。
覚えておきなさい」
「……ふふっ」

 レミリアの口調から、彼女たちが本気で騙されているのがわかった。こんな小悪魔如きに手玉に取られるなんて、どこぞの氷
精よりバカだ。紅魔館はみんな大バカだ。
 そしてアリスはさらに輪をかけてバカだ。

「ははっ……もう……傑作だわ」
「私もそう思うわ、アリス」

 顔面に、火花が炸裂した。
 レミリアにぶん殴られたと気付いたのは、さらに殴られ、殴られ、殴られている最中のことだった。

「お嬢様、それ以上は」
「ああ……そうだったわね。殺しちゃうところだったわ」

 血だらけになった拳を舐め取り、レミリアは椅子に座り直した――ようだ。眼球が潰されて、もう確認できない。かろうじて
耳鳴りの奥に聞こえる物音で、状況を把握できる程度である。

「パチェ、あなたがコレをどうするか決めていいわ。ただ、私の目に触れるような形にはしないで」
「じゃあ、私と同じ目に」
「ん、いいアイデアなんじゃない? 小悪魔、じゃあコレの処分は任せたわ。咲夜、行きましょ」
「はい」

 足音が、遠ざかっていく。
 しばらくして、逆に近付いてくる足音が聞こえた。
 耳元に、ふっと息を吹きかけられる。胃の中身どころか内臓から吐き出してはいけないほどの血を吐き出したアリスだが、吐
き気を催した。

「全くお嬢様ったら……アリスさんも美人さんなのに、ひどいですよね?」
「……ありがと」
「あははっ、大丈夫ですよ。パチュリー様には及びませんが、あなたもきちんとお世話してあげますから……ご安心して、可愛
くなってくださいね?」





 アリスに注射を打った後、小悪魔はパチュリーの下に戻った。
 血管に直接大量の薬を入れてあげた。間違いなく一発で廃人になってしまうだろう。さもありなん。人形遣いが人形である。
 さて、これで濡れ衣もアリスに着せたことで小悪魔の安全は磐石のものとなったと言える。万が一アリスが保険として魔理沙
あたりに事実を教えていたとしても、レミリアたちは最早耳に入れないだろう。小悪魔を守るわけではなかろうが、魔理沙を追
い払うことくらいはやってくれるはずだ。
 ただでさえレミリアは百年来の友人を事実上失って、傷ついていた。さらにその腹心が犯人であるなど、事実であったとして
も認めたくない。適当にそれっぽい奴が犯人なら、そちらの方がよほど安心できるのである。
 それにしてもあんな血生臭いことが行われた部屋にいて、パチュリーも少し汚れてしまったかもしれない。またお風呂に入れ
てあげよう。二人で一緒に背中を流し合い、お風呂から上がった後は……

「パチュリー様、お待たせしました」
「あら随分と上機嫌じゃない。何かいいことでもあったのかしら」

 ベッドに腰かけたパチュリーは、なぜかベルトで封印されたグリモワールを小脇に抱え、小悪魔の帰りを待っていた。
 小悪魔は小首を傾げる。見向きもしなくなった本をなぜ持っているのだろう。もしかして、まだ小悪魔より本なんかを大切だ
と思っているのか?
 エラくない。全然エラくない。

「パチュリー様、お体に障りますよ」
「悪いけど喋らないでくれる?」
「え?」
「もう喋った。許さないわ」

 小悪魔の舌が、焼けるような痛みに襲われた。
 口元を手で押さえる。錯覚ではなかった。本当に、舌が燃えていた。慌てて手で払い消火するが、その手にも火は燃え移る。

「や、やだ、助けてください!」
「嫌よ。そのまま死になさい」
「そんな! なんで! どうして!」

 手から腕に火はさらに広がる。熱くて、熱くて、思考が空回りする。どうして? パチュリーはもう魔法なんて使えないはず
だ。何が起こっている? 私はどこで失敗した?

「許してくださいパチュリー様!」
「お断りよ」
「違う! パチュリー様は私にこんなひどいことしない!」
「そりゃどうだかわかりゃしないわ」
「パチュリー様は私の言うことをなんでも聞くはずなのに! どんな恥ずかしいこともやってのけたはずなのに!」
「変態」
「私はこんなにパチュリー様を愛してるのに! どうして、どうして言うことを聞いてくださらないんですか!」

 おかしいじゃないか。何十年も、ずっと一時も離れずに仕えてきたのに。
 なぜ見てくれない。振り向いてくれない。優しい言葉をかけてくれない。
 本なんかに、無機物なんかにあれほど惜しみない愛情を分け与えるというのに。

「わたしはそんなにダメな子なんですか!?」
「ええそうよ」
「ダメな部分を……教えてくださいっ。絶対に、直して見せます! パチュリー様に褒められるためなら、なんだってします!」
「早いとこ死んでくれたらすっきりするんだけど」
「いやだ! やだ――やぁ……」

 炎が。
 パチュリーの、主人の姿を覆い隠して――





 あまりにもアリスの帰りが遅いので、魔理沙は紅魔館へ出かけることにした。
 だが、いくら紅いからと言って赤々と夜空に火柱を立ち昇らせていたらいくら魔理沙と言えども仰天する。

「な、なんで火事が! パチュリーは――ああっくそっ!」

 本来ならパチュリーが水魔法でなんとかするのだろうが、肝心の彼女が使い物にならないのだ。そしてさしもの完全な従者で
も火事を食い止めることはできても、消火まではできないということである。
 魔理沙は八卦炉を取り出す、ありったけの魔力を充填した。箒の柄で照準を取り、発射する。

「消火するには、さらなる火力だ! 行けェッ!」

 夜空を切り裂いたマスタースパークは火柱の元を直撃。爆風で燃やす物全てを吹き飛ばし、破壊による鎮火を成功させる。
 後に残るは小火だけだ。妖精メイドたちにバケツリレーでもさせれば収まりはつくだろう。
 事情を聞きに行くため、魔理沙は紅魔館の敷地に降りた。レミリアか咲夜の姿を探したのだが、それより先に意外な人物を発
見したので、そちらに駆け寄る。

「パチュリー、無事だったか。なんの祭りだこれは?」
「あんたまで小悪魔みたいに間違えないでよ。私がパチュリーに見える?」

 こんな紫もやし、パチュリー以外いないはずだ。だが、パチュリーにしてはどうも微妙に態度が違う。むしろこれは……

「アリス?」
「当たり。前の身体が使い物にならなくなったから、こっちを借りることにしたわ」
「ちょっ、待て、どういうことだ?」
「私は人形遣いよ?」

 理解した。確かに、人形遣いの本体が実は人形というのは、よくある話だ。だがまさか本当に実行しているとは思わなかった。
 パチュリーの姿をしたアリスは、紅魔館に一瞥くれると、そのまま門に向けて歩き出す。

「おい、どこ行くんだよ」
「しばらく、身を隠すわ。この身体はさすがに紅魔館の連中に受けが悪いもの。……できたら、図書館と一緒に送ってあげたか
ったんだけど」
「待て、お前勝手に一人で納得すんな。ちゃんとわかるように説明しろ」
「あまり口に出したくないのよ……妖怪は人間より、精神的なものを重視するって、知ってるでしょ?」
「それが?」
「生き甲斐をなくしたら、魂も死んだってことよ。あの小悪魔は、自分でも気づいてなかったようだけど、抜け殻の身体にチャ
ームをかけて、自分で好きなように操っていただけだったようね」

 苦いものが、魔理沙の口中に広がった。
 人形遣いが嫌になる、とアリスは漏らした。

「魔理沙、お願いがあるんだけど、いいかしら」
「高くつくぜ」
「あんたが鎮火してくれたおかげで、図書館、半壊で済んでそうだわ。でも私としては、できたらパチュリーと一緒に送ってあ
げたい……。あんたが良ければ、今からパチュリーの身体を空けるから、しっかりと燃やしてくれる?」

 答えに詰まった。
 魔理沙にとって、紅魔の図書館は重要な知識の宝庫だった。パチュリーや咲夜、時にはレミリアやフランとじゃれ合うのも楽
しい場所だった。
 その主は逝ってしまった。おそらく、どんなに復興を遂げたとしても、傷跡は消えない。二度と魔理沙が楽しんだ時間は帰っ
てこないだろう。
 八卦炉を握り締める。

「……いいぜ。一撃でやってやる」
「ありがと」

 その微笑みを残し、パチュリーの膝が折れた。
 地面に投げ出されようとしたパチュリーの身体を、魔理沙は反射的に抱きかかえた。
 まだ暖かい。しかし、既に呼吸は止まっていた。鼓動は伝わらない。魔理沙の体温が、徐々に移って、奪われて行く。
 友の亡骸を抱え込んだまま、少しの間だけ、魔理沙は、泣いた。




















  • アリスは本体を失ってこの先どうするんだろうか?
    身を隠す先があるということは、実はアリスの本体は至るところに… -- 名無しさん (2008-08-14 16:44:41)
  • 「生き甲斐をなくしたら、魂も死んだってことよ。あの小悪魔は、自分でも気づいてなかったようだけど、抜け殻の身体にチャ
    ームをかけて、自分で好きなように操っていただけだったようね」
    パチェは魔法が使えなくなり生き甲斐をなくした時点でもう死んでいた。
    しかし小悪魔はその亡骸を自分の思うとうりに動かしていた。だから生きているように周りからは思えた。 -- 名無しさん (2008-08-23 22:14:40)
  • そして動かしている小悪魔自信もそれに気づいていなかった。 -- 名無しさん (2008-08-23 22:17:35)
  • ↑訂正 自信→自身 -- 名無しさん (2008-08-23 22:18:10)
  • 小悪魔ってどこでも悪者扱いされてるなw -- 名無しさん (2008-10-05 14:14:36)
  • レミリアはどこにいってもアホだよな -- 名無しさん (2008-10-18 04:00:36)
  • アリスって型月の橙子さんみたいに自分のスペア作ってそうなイメージある -- 名無しさん (2008-10-18 12:56:51)
  • 旧作と今の奴とではあまり時間が離れていないはずなのに
    結構成長してただろ。
    つまりは……そういう事なんじゃね? -- 名無しさん (2008-10-29 15:58:53)
  • 冷静で理知的なアリスって、二次創作ではちょっと新鮮だった。 -- 名無しさん (2008-11-01 14:27:14)
  • 小悪魔ざまぁwww -- 名無しさん (2008-11-24 15:41:56)
  • アリス「魔理沙、ネットの海は広大だわ」 -- 名無しさん (2008-11-27 04:59:57)
  • アリス自体がもともとアホ毛の・・・ -- 名無しさん (2008-11-28 00:34:57)
  • 空の境界のオレンジ先生を思い出した。 -- 名無しさん (2009-02-15 22:49:00)
  • >こういう時でもフランドールは外されるのか
    フランの扱いの悪さに全俺が泣いた。
    そしてレミリアはいじめネタスレではやたらと無能扱いされる事が多い事にも今更気づいた。 -- 名無しさん (2009-03-07 16:47:24)
  • そういやアリスは妖怪だったな。
    つい忘れがちになるのは都会派魔法使いだからだろうか??
    ああ、こんなことを語る俺もだいぶ終わってるなあ・・・
    続きが気になるいい作品?でした
    -- JN (2009-03-07 17:43:21)
  • アリスかっこいいな、惚れなおした -- 名無しさん (2009-05-28 18:35:54)
  • いや中国いじめだろ、ある意味。 -- 名無しさん (2009-07-08 00:16:51)
  • 普通に呼んでると言い回しとか比喩とか多くて理解しにくいけどじっくり何度も読み返せば理解出来る。ともかく、完成度の高さに脱帽 -- 名無しさん (2009-07-30 23:04:18)
  • マリアリのやりとりが実に素晴らしい。 -- 名無しさん (2009-09-14 15:28:33)
  • そのころ中国は実家で太極拳をしていましたとさ
    めでたしめでたし -- 名無しさん (2009-10-17 22:49:04)
  • 次回作は色々真っ赤で観念的な会話が飛び交う話になるんだな -- 名無しさん (2009-10-24 04:17:04)
  • マリアリ!マリアリ! -- 名無しさん (2010-04-01 12:33:21)
  • アリスのカタキだ。俺、アホなお嬢様に戦争を申し込む。 -- 天内 (2010-04-01 17:06:03)
  • そうか、既に死んでたのか
    思いもかけぬオチラッシュですげえ楽しかった
    マリアリの会話も痺れた -- 名無しさん (2010-05-14 20:12:01)
  • アリス可愛いよアリス -- 名無しさん (2010-08-01 17:43:24)
  • アリス…惚れたぜッ…! -- 名無しさん (2010-08-02 13:08:18)
  • 「あいつが人形遣いか」
    「どんな感じのやつです?」
    「人形みたいなやつだ」 -- 名無しさん (2010-11-02 19:09:15)
  • アリスキルバーン説か
    上海や蓬莱が真のアリスだったりするんかね
    そういやメディスンの本体はスーさん説とかもあったな -- 名無しさん (2011-01-01 04:04:23)
  • >冷静で理知的なアリスって、二次創作ではちょっと新鮮だった。
    酷い言い草だwww -- 名無しさん (2011-03-17 16:31:16)
  • アリスは爆発がデフォだしなwww -- 名無しさん (2011-03-20 02:04:05)
  • ↑アリス博士!お許し下さい!! -- 充電男 (2012-11-14 15:24:52)
  • 小悪魔…愛してたぜ…でも俺は賢い小悪魔が好きだった… -- キング クズ (2016-06-18 07:05:59)
  • 『七曜の魔法少女を殺害し、あまつさえ自分の都合のいい人形として扱った愚か者は誰なんでしょうか?』
    足を引っ張ったウィーケストリンクを書きなさい。 -- 名無しさん (2018-08-31 16:21:32)
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最終更新:2018年08月31日 16:21