唯「えっ?」

紬「はい、どうぞ」

唯「えっ……えっ」

梓「……!?」

澪「……」

律「……」

唯「む、ムギちゃん……」

紬「なあに?」

唯「なんで私、お水……」

紬「唯ちゃんにはその方が良いかなって」

唯「え……」

梓「???」キョロキョロ

澪「……」

律「……」

唯「う……」

紬「いらないの? 唯ちゃん」

唯「……っ、…………」ごくっ

梓「……!」

唯「……」ごくごくごく

梓「……」

澪「……」

律「……」

紬「……」

唯「…………」ぐすっ


いつものティータイム、
唯にだけ水道水の入ったコップが差し出された。
それがさも当然であるかのように。

唯は驚き、そしてショックを受けた。
まさか自分がこのような扱いを受けるとは思わなかったからだ。
水道水のコップを差し出された瞬間、唯は頭が真っ白になった。
紬に対してどういうことなのかを問いただしてみようとしたが、
うまく言葉が出てこなかった。
結局唯は水道水を飲んだ。
屈辱感と疎外感を味わいながら。
そして飲み干した後、
溢れてくる涙を必死に抑えようとした。

梓は唯に水道水が出されたことに驚いた。
この部活でいじめが起こってしまったのか、
なぜ澪と律は何食わぬ顔で座っているのか。
様々な疑問が頭の中を駆け巡った。
紬を糾弾したい気持ちもあったが、
唯が水道水を飲み始めたのを見て
何も言えなくなってしまった。


唯「……」

梓「っ……」

紬「……」

律「……」

澪「練習しようか」

紬「そうね」

律「ああ」

梓「えっ……、……はい」

唯「……」

梓「ゆ、唯せんぱ……」

唯「へへ……」

梓「……」


澪の一言で練習が始まることになった。

他の部員がいつにも増して淡々と
練習の準備を始める中で、
みんなから遅れて立ち上がった唯に
梓は言葉をかけようとした。
しかし唯の想像以上に悲痛そうな顔を見て、
言葉は引っ込んでしまった。

唯は何も考えられなかった。
早くこの場から消えてしまいたかった。
ここからいなくなれば、
今日のこと出来事を忘れてしまえる。
夢だったと思い込むことができる。
ただの現実逃避に過ぎないが、
自分の存在が拒まれているこの空間にいることは
唯の精神が耐えられなかった。
梓が心配そうな顔で話しかけてきたとき、
唯は梓が何を言おうとしているのか悟っていた。
心配をかけまいと愛想笑いを作ったが、
それが余計に自分の顔を悲しく見せていることに
唯は気がつかなかった。

練習は散々だった。
唯はギターをまともに弾くことができなかった。
澪たちは唯を注意しなかった。
ただ「もう一度やろう」と言うだけだった。


2日目。

紬「澪ちゃんは水道水でいいわよね」

澪「!!」

律「……」

唯「……」ほっ

梓「????」

澪「え……」ちらり

唯「……」

澪「ああ……」

律「……」

梓「……?」

紬「……」


今日は澪の前に水道水のコップが置かれた。

澪は昨日の唯ほどにショックを受けはしなかった。
ああこういうシステムなのか、と一人で納得した。
昨日、唯が水道水を出された際、
澪は紬に対してどういうことだと尋ねようとしたが、
部室の異様な雰囲気に飲まれて
言い出せないでいたのだった。
それを澪は後悔していたが、
イジメでもなんでもなく、
ただの紬のいたずらだったのだと分かった今、
昨日は黙っていて正解だった……と
自分の気の弱さを正当化した。

唯は心の底からホッとしていた。
自分がいじめられているわけではなかったのだ。
紬がただいたずらをしているだけだった。
昨夜の食事が喉を通らなかったこと、
部室に来ようかずっと考えて胃を痛めたことを
我ながら馬鹿らしいと思った。

梓もひそかに安心していた。
自分の知らぬうちにイジメなどが発生していれば、
この部活の居心地が悪くなってしまうだけだ。
たわいもないいたずらなら、なんてことはない。
しかし、梓は昨日の唯の表情を忘れられなかった。
いたずらにしては悪意がありすぎる、
紬に対して注意しなければならない。


注意しなければならない、
と思ったがこうして全ての部員が
これはただの紬のいたずらで、
順番に水道水が回っていくシステムだと理解したであろう今日、
注意するタイミングとしてはまったくズレてしまっている。
紬に対して注意するとしたら昨日の時点で、
唯がショックを受けて涙目になっている時点ですべきだったのだ。
そこで注意をしていたならば、
紬のやったことがただの遊び、いたずらであっても、
唯を材料にして紬のやったことは悪いことだと
糾弾することができたのに。
梓は自分のタイミングの悪さが嫌になり、
同時に唯にたいして申し訳ない気持ちを抱いた。

ティータイムの後、練習が始まった。
今日はみんないつもどおりの演奏をしていた。


3日目。

紬「りっちゃんは水道水でいいわよね」

律「おう」

唯「……」

澪「……」

梓「……」

もうみんなは完全に慣れてしまっていた。
律は水道水を受け取るのが楽しいと感じていた。
最初唯に水道水を出されたときは変だと思ったが、
こういう遊びなんだと理解すれば悪いものでもない、
むしろ楽しい。

もっとも律はこれが何かの遊びなのだと
初日から気づいていた。
なんだか部室の雰囲気がいつもより重かったし、
心なしかみんなの動作が淡々としているように見えたからだ。
部長たる律はそれを異様に思ったが、
とりあえず空気を読んでみんなに合わせておくことにした。
唯に水道水が出された時も、みんなの反応をうかがって
黙っておくのが正解だと考え、そうしていたのだ。

その日の練習もいつもどおりに終わった。



4日目。

紬「私は水道水でいいわ」

唯「うん」

澪「……」

律「……」

梓「……?」

梓は気づいていた。
ここ最近、軽音部の空気が重い、ということに。
澪はともかくとして、
ムードメーカーの律が黙り込んでいるというのは異常だ。
いつもなら、自分からみんなを盛り上げてくれるのに。
よくよく考えてみれば、律以外の部員は
自分から雰囲気を盛り上げるということをしない。
澪はツッコミ役、イジラレ役だし、紬は完全に聞き手だ。
唯は……性格は明るいが、あまり積極的な方ではない。

とにかくこんな空気は嫌だ、と梓は思った。

その日の練習もいつもどおりに終わった。


5日目。

紬「唯ちゃんは水道水でいいわよね」

唯「へっ?」

梓「!!……」

澪「……?」

律「……」

唯「え。なんでわt」

紬「唯ちゃんにはその方が良いかなって」

唯「え、でも」ちらっ

梓「……」

唯「え……」

紬「早く飲まないと、ぬるくなっちゃうわよ」

唯「…………うん……」


梓は期待していた。
自分の前に水道水の入ったコップが置かれることに。
しかし紬の手は梓を素通りし、
唯の前にコップを置いたのだ。
その時、梓はすべてを理解した。
これは唯に対するイジメでも、
紬の変なイタズラなんかでもない、
明確に、自分だけに対して、
悪意が向けられているのだと。
それを悟った瞬間、
梓の心臓の鼓動は異様なほどに早くなった。
全身の毛穴から嫌な汗が吹き出してくるようだった。
え、どうして。なぜ、私が。なぜ、紬は。
そんな問い掛けを自分の中で繰り返してみても、
答えは一向に見つからなかった。

唯は不思議に思った。
今日は梓が水道水を飲む番ではないかと。
しかし紬は唯の前に水道水を置いたのだ。
唯は、紬に「今日は梓の番だ」と言おうとした。
しかしそれをすぐにやめた。
水道水なんて誰も飲みたくないもので、
それを後輩に押し付けるようなことは、したくなかったからだ。
唯は紬が自身の記憶違いを思い出してくれることに期待しつつ、
水道水を口に含んだ。


澪は理解した。
これはイジメなのだ。
紬の、梓に対する、イジメだ。
まずは唯を犠牲にし、
唯に対するイジメなのだと梓に印象付ける。
しかし水道水を順番に回していくことで、
これがただの遊びであるのだと思わせ、
そして自分に水道水が回ってくることを期待させる。
ここがミソだ。
そう、「期待」してしまうのだ。
飲みたくもない水道水が、自分にも回ってくることを。

しかしその期待は容易に打ち破られる。
水道水は、梓には回ってこないのだ。
ここで初めて、梓はこれが自分へのイジメだと理解する。
期待していたぶんだけ、
「水道水の輪に入れる」と思っていたぶんだけ、
ダメージも大きいのだ。

そして梓は紬に反抗することはできない。
「誰も飲みたくない」はずの水道水が
自分に回ってこないということは、
本当ならば喜ぶべきことなのだから。
それを無視して紬に「なぜ私にだけ水道水が来ないのか」
と反抗すれば、後はどうなるか簡単に想像が付く。
梓にだけ、毎日、水道水が出されることになるのだ。


反抗の余地はない。
いや、反抗すれば悪い方に進んでしまう。
梓は甘んじて、この状況を受け入れるしかない……。
澪は感心した。
よくもまあこんなことを思いついたものだ、と。
同時に安心した。
このイジメの標的が、自分でなくて良かった、と。

しかしこれはイジメなのだろうか?
と澪は思った。
イジメというのは、集団で一人を攻撃することだ。
しかしこれは今のところ、紬と梓の1vs1でしかない。
……いや、本当に1vs1なのか。
もしかしたら自分以外の全員が、
梓イジメに加担しているのではないか……。
考えれば考えるほど、
澪の思考はこんがらがっていった。

とにかく、こんなことはやめさせなければいけない。
しかし、もし紬に注意したとしたら、
今度は自分に対してイジメが行われるのではないか……
そう考えると、澪は行動を取ることができなかった。

その日の練習は、梓が散々な演奏をして終わった。


練習後。

唯「あずにゃん、今日の演奏いまいちだったけど、どうしたの?
  体調でも悪い? そういえばなんか顔色良くないような」

梓「いえっ……な……なんでも、ないです」ささっ

唯「ありゃ、帰っちゃった」

紬「……」

律「……」

澪「……」

紬「じゃあ、私も、帰るわね」

唯「うん、ばいばい」

紬「また明日」ガチャバタン

澪「……」

律「……」

イジメの的になったことを知って、
精神に深くダメージを負ってしまった梓。
みんながイジメに加担しているのではないかと
疑心暗鬼に陥ってしまっている澪。
空気が重いのを読み取って、
騒ぐのを自重している律。
いつも通りの静かな紬。

音楽室全体が沈鬱な雰囲気になっている中で、
唯だけがいつものように振舞っていた。

唯「澪ちゃん、りっちゃん、一緒に帰ろ」

律「ん、ああ」

澪「おう……」

3人は明かりを消し、
戸締まりをして、音楽室を後にした。

律は「用事がある」と言って
校門を出たところで
いつもとは違う道へと行ってしまった。

唯と澪が一緒に帰ることになった。


唯「最近寒いねえ」

澪「ん、ああ……」

唯「地球温暖化はどうしたんだろうね」

澪「温暖化しようと冬は寒いんじゃない?」

唯「そういうもんかな」

澪「そうだよ、多分……」

唯「どうすれば冬は暖かくなるのかな」

澪「どうにもならないと思うけど」

唯「そっか」

澪「うん」

唯「……」

澪「……」

何気ない会話。
しかし澪には唯に探りを入れられている気がして、
ぎこちない受け答えになってしまっている。


唯「そういえばさ」

澪「?」

唯「最近のムギちゃん、なんか変だよね」

澪「!」

唯「水道水とか出してきたりさ」

澪「え、ああ」

唯「あれ最初やられたときはびっくりしたよー、
  なんかイジメなんじゃないかって思っちゃった」

澪「はは、いきなりだったからな……」

唯「もー、笑い事じゃないよ。
  あ、そうだ、今日あずにゃんの番だったのに、
  飛ばされちゃってたよね」

澪「ん? あ、ああ、そうだったな」


唯「ムギちゃんもうっかりさんだね、
  あずにゃんの番を忘れちゃうなんてさ」

澪「忘れ……?」

唯「うん、あずにゃんの番を忘れて
  私のとこに来たからさー、
  ムギちゃんにそれを言おうと思ったんだけど」

澪「うん……」

唯「でもやめといたんだ、
  水道水を押し付けるみたいだったからさ。
  誰も飲みたくないよねえ、水道水なんて」

澪「……ああ、そうだね」

唯「それにしても、なんでムギちゃんは
  いきなりこんなこと始めたんだろうねえ」

澪「さ、さあな……」

唯「なんか意味があるのかなあ。
  明日、ムギちゃんに聞いてみるよ」

澪「えっ……い、うん」


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