昼休み、律と紬の二人が声をかけてきた。

「なあ唯。ムギが謝りたいことがあるんだってさ」

「唯ちゃん……こないだは本当にごめんなさい。女の子の顔にあんなことするなんて」

「私からも頼むよ。許してやってくれ。……それにしても、あのハブ、最低だよな。あいつさえいなけりゃ唯はあんな目に合わなくてすんだのに」

「……秋山さんね、音楽室で何度も何度も唯ちゃんの悪口言ってたのよ」

「ギターなんか一人で充分だろ、とかな」

「唯ちゃんは用済みだ、とかね」

……二人の言葉は、聴覚を失って空洞と化した唯の耳から耳へと吹き抜けてゆく。洞窟の風のように。

それからどうしたのかわからない。

一日は耐えられないくらい長いのと同時に恐ろしく短かった。

気がついたら唯は音楽室に連れ込まれていた。何週間も無縁で過ごした音楽室に。

梓がいる。お茶のカップがある。美味しそうなケーキがある。

……でもここには、澪ちゃんがいないよ。


澪ちゃん。

ベース担当、秋山澪ちゃん。

スタイルも頭もよくてかっこいい澪ちゃん。

恥ずかしがり屋で痛いのが苦手で、だけど大人びてる澪ちゃん。

本当は子供っぽくてジョークの下手な、猫かぶりの澪ちゃん。


……あなたは今、どこにいるの?



数日が過ぎた。

唯の携帯電話の受信ボックスには、クラスメートからのメールがぎっしり詰まっていた。

唯は再びギターを手に学校に通うようになった。

憂はようやく安心して唯を学校に送り出してくれるようになった。

だが、

相変わらず食欲はなかった。寝不足の日が続いた。

紬のお菓子や憂のご飯を馬鹿みたいに胃に詰め込んでから、トイレに全部ぶちまける日があった。

明け方まで眠れず、とんでもない時間に寝て叩き起こされる日もあった。

携帯電話の送信ボックスは1件のままだった。

その日も唯は音楽室に連れ込まれ、無理やり練習に参加させられていた。……ベースの欠けた練習に。

唯のギターは相変わらず滅茶苦茶だった。数週間のブランクがあるとはいえ、ここまで酷くなれるものなのか。芸術的なまでの酷さだった。

「今日もさっぱり調子出ないなー。唯」

「雨が降り出しそうだし、そろそろ帰りましょう」

期末試験の前の最後の練習。その日は唯の住む地域に大型の台風が接近していた。


空は崩壊の予感をたっぷりと含んだねずみ色をしている。風が不吉に吹き荒れる。

幸いなことに、唯は雨の降り出す前に家に帰ることができた。

「お帰り、お姉ちゃん」

憂が声をかける。姉がいじめから解放されたので、彼女の内部にも秩序が戻っていた。現金な話だ。すでに新しいターゲットがいるというのに。

憂にいい加減な挨拶を返し、唯はのろのろと自分の部屋に向かう。カタツムリにでもなった気分だ。自責の念という殻を背負ったカタツムリ。

制服を着たまま、唯は布団に倒れ込む。そのまま、重くねっとりした眠りに飲み込まれていった。

風の唸るような警告の声で、唯は目を覚ました。

時計を見ると、すでに十時をまわっていた。窓に雨粒がピシピシと叩きつけられている。

自分のものとは思えないくらい重くなった頭を上げ、唯は何気なく携帯電話を開ける。

新着メールが3軒届いていた。律のメール、紬のメール、それに……澪のメール。

重い靄の立ち込める頭で、唯は澪のメールの文面を見る。


[お久しぶり。学校の屋上行ってくる。じゃあね]


床を踏み破る勢いで、唯は階段を駆け降りる。憂が階下で待っていた。

「お姉ちゃん、起きた?晩ご飯だから何度も読んだんだけど、お姉ちゃん気持ちよさそうに寝てたから、」

「ごめん、憂。ちょっと言ってくる」

告げた次の瞬間、唯は靴をつっかけ、制服姿のまま嵐の中へ飛び出す。

背後で妹が何か叫んでいるが、耳に入らなかった。傘も持たずに、唯は雨の中を走る。

頭の内側が六月に似合わない寒さに凍えている。心臓が喉元で悲鳴をあげている。

あの馬鹿、あの馬鹿、あの馬鹿……!

吹き荒ぶ風にフェンスが泣いている。雨が傘に叩きつけられる音がうるさい。

澪は一人、夜の学校の屋上につっ立っていた。ここまで来るのには本当に勇気が必要だった。夜の学校の怖い話をいくつもいくつも聞かされているから。

……まあ、お化けも「あのヒト達」に比べればマシかな。

今日も澪は苦痛をたくさん味わった。髪にガムのかすをつけられ、お弁当にチョークの粉をかけられ、大切にしていたシャープペンシルを折られた。

……ひょっとしたら、お化けと友達になれるかも。

そう思った刹那、

自分の背中にびしょ濡れの何かが飛び込んできた。


澪の悲鳴が、夜の学校に響き渡る。

「ごごごごめんなさいごめんなさい、私、私まだ心の準備が!」

澪が暴れるが、びしょ濡れの何かは彼女をがっちりと掴んで放そうとしない。荒く熱い息が彼女の首筋にかかる。

「いやあああ、助けて、ママ助けてえええ!……ってあれ?唯?」

びしょ濡れの生き物……平沢唯は、ようやく澪を解放する。酷い有り様だ。着ている制服は、明日は使い物にならないだろう。

「おい、何やってるんだよ。傘もささずに……痛っ!こら、何すんだ、止めろ!」

唯は構わずに澪の頭を、肩を、胸を手当たり次第に殴りつける。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿!勝手に死ぬな!澪ちゃんの大馬鹿!自分を好きな人のことを置いて死ぬな!何さ、学校で嫌なことされた程度で!
……私は、私は澪ちゃんのことが大好だ!それだけで充分じゃない!例え千人が澪ちゃんを嫌おうと、私は澪ちゃんが心から好きだ!愛してる!愛してるのに……わあああん!うぁわあああああん!」

澪に馬乗りになったまま、唯はわんわん泣き続ける。涙や鼻水が雨と混じり合う。

「死ぬって……お前は何を言ってるんだ」

澪はどうにかして唯の下から這い出る。

「……あーあ、せっかくいいのが書けたのに」

澪は屋上に転がっていた……鉛筆とメモ帳を拾い上げる。メモ帳はぐしょ濡れになっていて、もう使い物にならないだろう。

「いいのって……何」

「だから、詞だよ、詞。台風のような激しい恋の詞が書けると思ってわざわざ来たのに、台無しじゃんか」

「……ふえ?」

「……何、まさかお前、私がターゲットにされたショックで自殺するとでも思ったの?あはははは……」

澪がケラケラと笑い出す。

「唯もまだまだだな、私はそんなに柔な人間じゃないよ。あははは……あれ、どうした?」

「わあああああああん!」

唯はまた声を上げて泣き出してしまった。

手渡されたバスタオルで頭を乱暴に拭う。外を吹き荒れる嵐には、もう不吉な予感は含まれていない。穏やかさすら感じられた。

澪の家。唯は何度も何度も鼻をすする。さっき鏡を見たら、目も真っ赤になっていた。……全部澪ちゃんのせいだからね。

その澪は今、憂に電話している。さっき盗み聞きしたら、お宅の娘さんを一晩お借りします、なんて言っていた。……脳天気女。

電話を切り、澪がこの上なく楽しげな顔で歩いてくる。

「落ち着いた?唯」

唯はあからさまにそっぽを向く。

澪の母親も、娘同様にズレた人間だった。澪が「命の恩人を一晩泊めたい」と言ったらあっさり承諾してくれた。

「機嫌直してくださいよ、命の恩人様」

「命の恩人って呼ばないで!」

「冷たいなあ。さっきはあんなに熱烈な愛の告白してくれたのに」

「うるさい!」

唯は途端に真っ赤になる。染まった頬がたまらなく愛らしい。

「それより、もっとまともなサイズの服なかったの?」

まともな、に力を込める。澪が手渡してくれたTシャツは唯には大きすぎた。胸がぶかぶかなのが悔しい。

「悪いけど我慢してくれ、唯。それより、風呂でも入って暖まったら?」

「お気遣い結構」

言った刹那、唯は大きなくしゃみをしてしまう。

結局数分の後、唯は秋山家の湯船に顎まで浸かっていた。風呂の中で体育座りをして、未だに活発に働き続けている心臓をなだめようとする。

私は慣れない他人のお風呂で緊張してるだけだ。例えばこれがあずにゃんの家のお風呂だったとしても同じだったろう。きっとそうだ。いや、絶対そうだ。

……本当に?唯の中の意地悪なもう一人の自分が声をかける。夏の合宿では、ずいぶんと平然としてたけど?

唯は自問自答を繰り返し、さっきから脳の表舞台に顔を出そうとしてる想像……この風呂に入浴している澪の姿……を追い払おうとする。

急にドアが開いたと思うと、澪がずかずかと無遠慮に入ってくる。唯の努力は全くの無駄になった。

「わっわっ、こら唯、何すんだ!止めろ!」

「馬鹿!変態!出てけ!入ってくんな!」

「……ゆーいー」

「嫌」

「こっち向いてよおー。話しづらいよおー」

「話したくなんかないもん」

高校生の女の子二人が入ったせいで、湯船は身動きが取れないくらいに狭い。

唯は耳まで真っ赤になっていた。この猫かぶり女、どこまで無神経なの?信じられない!

「いいからこっち向けっての!」

澪が唯の背中に抱きついてくる。力強い手が唯の肩にまわされる。……そしてこの背中の柔らかい感覚。二つの若干硬い……

「ふぎゃらっしゃああああああああああ!!!!!」

「ぎゃあああああああああ!!!」

「痛い痛い、唯、何度も殴るな!」

「離れろ!もう出るから離れろ!」

「ダメだよ、年頃の女の子はきちんと洗わなくちゃ」

「わ、馬鹿!変なとこ触らないで!……助けてえ!犯される!」

「人聞きの悪いこと言うな!」


「……若いっていいわねえ」

風呂場から聞こえてくるそんなやりとりを聞きながら、澪の母親はお茶をすするのだった。

地獄のような入浴タイムを終え、唯は風呂場から這い出る。命の危険を感じた澪は、すでに逃亡していた。

風呂は命の洗濯、なんてセリフをどこかで聞いたことがある。なんだかきれいになるどころか汚れが増えた気がする。

バスタオルを体にぴったりと巻いてから合図すると、澪が頭をさすりながら入ってきた。

「まったく、風呂場であんなに大暴れして……すごく危ないんだぞ。下手したら片方がどっかに頭ぶつけて死んじゃって、もう片方が死体を鋸でバラバラに、なんて展開に」

「何の話?」

唯はぴしゃりと返す。まだ体中に変な感覚が残ってる。

「それより澪ちゃん、……それは何?」

唯が指差したのは、青と白の縞模様の下着だった。


「少なくとも私のお父さんの背広でないのは確かだね」

「クイズやってるわけじゃないの。澪ちゃんは、それを持ってきてどうするの?」

「だから、唯がはくんだよ。これ」

言った次の刹那、澪の顎に強烈な肘が入る。澪は綺麗に吹っ飛ばされた。

「ふごうっ!」

「どんだけふざければ気が済むの!?いい加減にして!てか私のパンツどこ?返して!返せ!」

「……だって唯のパンツ、雨でぐしょ濡れなんだもん……」

「人肌であっためるからいいもん!」

「何なら私があっためてあげようか?」

再び肘。

「ひんみんっ!」

唯は絶望のどん底にいた。自分の腰回りに漂う、体がむず痒くなるような凄まじい違和感。

「汚されちゃった……憂。私、汚されちゃったよう」

「大げさだなあ。まったく、たかが下着じゃないか」

「そう簡単に言い切れる澪ちゃんの頭が信じられない」

澪の部屋。時計はもう1時をさしている。唯は秋山親子が作ってくれたおにぎりにかぶりついていた。

「どう?おいしい?」

「こないだよりスペック落ちてるよ。具はないし、海苔すら巻いてないし」

「……とほほ」

「……でも、あったかい。だから許す」

食べ終えた途端、今度は眠気が襲いかかってくる。唯は目をこすり、高度を下げてゆく自分の瞼を勇気づける。

「どう?私の部屋」

「パソコンは可愛いと思うよ……ていうか、そろそろ眠い」

「食べてすぐに寝たら牛になるよ」

「お黙り、牛乳女」

「……さっきの告白の返事、まだしてないのになあ」

途端に唯の眠気は頭から完全に吹っ飛んでしまった。彼女の胸の中で白い閃光が弾け飛び、全身に広がる。

心臓がまたも暴れ出す。頭の中が滅茶苦茶に振った炭酸飲料のごとく泡立っている。

「だ、だからあれは違うんだって!澪ちゃんが死んじゃうと思って、仕方なく言っただけであって……変な勘違いしないでよ!」

「わかったわかった。でも、返事聞くだけならいいんじゃないの?どうせお互いに冗談なんだから」

冗談。……冗談なんかで返事してほしくない。唯の熱い胸に、冷たい風が流れる。

何で私、こんなに熱くなってるんだろ。何で必死なんだろ。

……本当、馬鹿みたい。

「唯。私、お前のこと……。」

唯はその先の言葉を待つ。心臓が喉元で盗み聞きしようとしてる。唾を飲み込もうとした喉が痛い。

彼女は待つ。一秒は永遠となり、永遠は時間の概念を失う。

「……やっぱり、止めた」

「……はあ?」

「唯のそのひねくれた性格とか口調が元にもどるまで、教えてやんない」

唯に止まった時間がどっと津波のように押し寄せる。押し寄せた時間は目から溢れ出しそうになる。

「ううー、澪ちゃんひどいよおー…」

「あはは、今の唯、昔の唯っぽかった」

「ぶー!私、大真面目なのにー!」

「安心しなって。唯が素直で明るい子に戻った頃には、ちゃんとした答え用意しておくから」

……夜は緩やかに流れてゆく。二人の、そして外で盗み聞きしている澪の母の貴重な睡眠時間はどんどん削られてゆく。


三章終わりです



エピローグ


真夏の日差しの元に慌てふためいて飛び出す。蝉の声が彼女を出迎える。

だから日焼け止めクリームなんていらないって言ったのに。唯は一人ぼやく。憂ときたら、いつまで私のこと子供扱いするつもりなんだろ。

それに、この服装。唯はひらひらしたレース付きの白いワンピースを着て、大きな麦わら帽子を被った鏡に写った自分を思い出してため息をついた。帽子もワンピースも、ちっとも似合ってなかった。

澪ちゃんたら、自分じゃこんな服は着れないくせに。絶対に似合うから、だって。

……もうあの頃から、一カ月以上たつ。今は夏休み。

澪がターゲットを解除されたのは期末試験の返却日。意外と早くすんだ。もっと刺激的なターゲットを発見したのだろう。

律も紬も、未だに誰かを崖から突き落として楽しんでいる。勝手にしろ。澪は解除記念日……唯が勝手にそう呼んでるだけだが……にそう言った。

軽音部は、二人で一緒に退部した。部員を二人失ったから部は即廃部。梓には悪いと思うけど、世の中にはどうしようもないことだってある。

二学期から放課後をどうすごすかはまだ未定。澪は文芸部に入ろうと言ってたけど、あまり乗り気になれない。

部活だけじゃない。二人とも、今はもうどこのグループにも所属してない。スポーツ少女のグループ、がり勉のグループ、アイドルオタクのグループ。軽音部のグループから抜け出した二人の行き先なんか、どこにもない。

いいじゃん、別に。唯はこの記憶の回想を、いつもこの言葉で締めくくる。いいじゃん。行き場なんかなくたって、人は生きていけるんだから。

待ち合わせ場所。唯の姿を見つけると、澪は無邪気に手を振って合図する。

……まったく、変わらないなあ。

「遅いぞっ!」

「ごめんごめん、憂があれやこれやとしつこいんだもん。」

「言い訳はなし。それより唯、その服、本当によく似合ってるよ。みんな振り向いてた唯の方を振り向いてた」

「私は澪ちゃん一筋だよ」

言ってしまってから、唯はひどく赤面する。帽子に顔を隠す彼女を見て、澪はクスクスと笑う。


「さあ行こう、今すぐ行こう!今度こそビーチバレーもやるしボートにも乗るぞ!お弁当もたくさん食べるぞ!」

「はしゃぎすぎだよ、澪ちゃん」

言った直後、唯の帽子が意地悪な風に吹き飛ばされてしまう。彼女は慌ててそのあとを追いかける。

「唯ー!元気ですかー!?」

やっと帽子を捕まえた、と思ったら澪が遠くから呼びかける。唯は苦笑いしながらも大きな声で返事を返す。

「元気だよっ!」